さいはての街

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 うすい小糠雨が、木々を濡らしていた。
「おわ、やっべェよ」
 集配所で荷物を受け取った後、シンタローは舗装のされていない泥道に、大急ぎで自転車を走らせた。
 できたばかりの小さな水溜りが、ぱしゃっと車輪に雫を跳ね上げる。
 油紙に包んである郵便物は無事なはずだが、シンタローは上着を脱いで、後輪の荷物台上にそれを被せた。
 雨が降るとは思わなかった。
 剥き出しになった腕が濡れて温度を失っていくが、このまま急げば、本降りになる前には街に着くことができるだろう。
 日は暮れ始めており、薄闇が辺りに漂っていた。
 雨で消えゆく光はぼやけ、高原の道の緑は滲み、風景は水面に映る世界のようにまどろんでいる。まるで夢の中の世界のようだと、彼は自転車を漕ぎながら思う。
 小さく羊の泣き声がして、自分は牧場を通り過ぎたのだと気付く。
 街外れには広い牧場があって、そこには美しい光景が広がっているのだ。
 シンタローが雨の向こうに視線をやると、顔なじみの羊飼いの少年と犬が、大木の下で雨宿りをしているのが目に映った。
 微笑ましさを感じて、思わず口元を緩めてしまう。
 自転車は泥と水を弾き、カタカタと音を鳴らしながら、牧場を過ぎて森に入った。
 森に降る雨は、どうしてか高原のそれよりも淡い気がする。
 そして冷たい。額と鼻筋を伝い落ちてくる雫を、顎を傾けて逸らそうとする。
 シャツ一枚の上半身を、ぶるりと猫のように震わせて、シンタローはペダルを踏み続けた。
 一瞬、でこぼこ道に車輪を取られそうになり、強く両手でハンドルを握り直した、その時。
「……?」
 彼は、異変に気付いた。



 自然の森には、必ず巨木の根だとか土の隆起によって深い窪みができるもので、道の所々にはそんな危険な場所が幾つもあった。
 その一つ、ひときわ隆起の幅が深く、崖のようになっている地点で、濡れた道脇に、何かが擦れて落ちたような跡がある。
 不審に感じたシンタローは自転車を止め、片足を地面について首を伸ばし、その場所を覗き込んだ。
 下方。
 最初に、きらっと輝くものが見えて、すぐにそれが人の頭だということがわかる。
 金髪だろうか……?
 誰かが道から滑り落ち、窪みの底に嵌り込んでいるようだった。
「おい、誰か落ちてんのか? おーい、大丈夫かよ?」
 声をかけても、返事はない。
 さあさあ雨の音がするばかりだ。
 シンタローは慌てて自転車を横倒しにすると、服が泥で汚れるのも構わず、崖を伝い降り始めた。
 泥はぬめり、思わず自分まで滑りそうになるが、何とか堪える。
 3メートルほど泥の壁を降りた先の、この森で一番大きい樹の根の間に、うつ伏せになって男が倒れていた。



「おいってば。生きてんのか? ちょっと、ちょっとアンタ!」
 側に駆け寄り、抱き起こしてその頬を叩いてみるが、相変わらず返事はない。
 血の気のない唇から、かすかに呼気は漏れているようで、生きてはいるようだ。
 男は気を失っているらしかった。
 その白い顔と冷たい身体に、シンタローは、雨の滴る上空を見上げた。
 闇色をした雲の覆う空。強くなる雨。
 とにかく、この場所に放っておく訳にはいかない。



「ぐ……くぅっ……」
 相当な時間をかけて、シンタローは男を背負って崖を登った。
 突き出た岩や木の根に爪を食い込ませて、腕の力で自分と男の体重を必死に支える。
 シンタローより長身の者などそうはいないのだが、男はその希少な例外であるらしい。
 全身の力を使って登り切った時、彼は思わず横倒しの自転車の側に、崩れ落ちてしまった。
 荒く息をつきながら、泥の中に座り込む。
「はぁはぁ……痛っ……」
 何度も滑り落ちて、その度に擦り傷のできた自分の腕を、シンタローは舐めて顔をしかめる。血が滲んでいた。
 それでも気を失ったまま、自分に凭れている男に、声をかける。
「もうちょっとだけ、頑張れよな」
 やはり返事はなかったが、その乱れた上等のシャツの隙間、首元から、何となく良い香りを嗅いだ気がして、シンタローは首をかしげた。
 何だろう、覚えのある香り。
 だが、ぐずぐずしている暇はなかった。空から打ち付ける雨に、男の身体は冷えていく一方だ。
 シンタローは急いで自転車を起こすと、郵便物を自分の身体に紐でくくりつけてから、一緒に男の身体も固定して、後輪荷台に座らせ、自分の肩に腕を回させて再び背負うような形にした。
 こういうことは、どうしてかシンタローは器用で上手かった。そして、ゆっくりゆっくりと自転車のペダルを踏む。泥道と負荷でふらつく車体に、懸命に歯を食いしばって堪える。
 そうやって、シンタローは雨の中をひた走り、男を連れて、どうにかこうにか街まで辿り着いたのだった。



 自分の屋根裏部屋に辿り着くのにも、途方もない苦労を必要とした。
 一歩、また一歩と螺旋階段を男を背負って登るのだ。
 彼は、もし俺の身体が機械でできていたら、とっくの昔にネジや歯車が弾け飛んでしまっているだろうと思った。
 やっとのことで男を部屋に引っ張り込む。
 その濡れた衣服を剥ぎ取り、ベッドに寝かせて、暖炉の火を、カンカンに焚いて、シンタロー自身は濡れ鼠のままで、部屋を駆け出した。
 すでに街は夜で人通りも少なく、裏路地にはガス灯の明かりが雨に沈んでいる。
 下町の医者の所に飛び込んで往診してくれるように頼むと、それから郵便局に荷物を届けに走る。
 遅れたことで上司の小言をひとしきり聞いてから、局を出て、すでに閉まった店の裏手に回り、頼み込んで幾許かの食料を手に入れて。
 シンタローが再び屋根裏部屋に戻ると、ちょうど医者の診察が終わった所だった。
 男は多少身体を打っているが、目だった外傷はないようだという。
 しかし、発熱しているので、暖かくして安静にしておくように。解熱剤を黒鞄から出し、そう言い残して医者は去り、ぱたんと扉が閉まると、部屋にはシンタローと横たわる男の二人っきりになった。



「……」
 食料の入った袋をテーブルに置くと、なんとはなしに手持ち無沙汰で、シンタローは自分のベッドに目をやった。
 そこに寝ている見知らぬ人を、改めてまじまじと見つめた。
 年の頃は、自分よりかなり上なんだろうなということしか、わからなかった。
 整った顔をしていると思ったが、同時にまるで鋭利な刃物で刻んだ彫刻みたいな顔だとも思った。
 男にしては長い金色の睫毛が、部屋の灯りを弾いて、微かに揺れていた。
 薄い唇からは苦しそうに小さく息が漏れていて、額には湿って乱れた髪が貼り付いている。
 シンタローは手を伸ばして、指でその汗を拭い、それから冷たい水で布を濡らして、額に乗せてやった。
 わずかに男の表情が和らいだ気がする。
 男の手に触ると、ひどく冷たかったので、びっくりして自分の手で包んでみる。
 熱が出ているはずなのに、ぞっと氷に触れた時のような感触がした。
 慌てて暖炉に薪を余計に放り込み、その冷たい肌をさすってやると、やっと赤みがさしてきたように思える。
 少し安心して、シンタローはやっと濡れたままの自分の衣服を意識する。
 熱いシャワーを浴びて、夕食を多めに作って食べてから、いつも通りに手紙を書いた。
 そして、毛布にくるまって、床に寝た。
 明かりを消した中で、自分以外の人間の息が聞こえるのが、どこか新鮮だった。



 それからしばらく、男は目を覚まさなかった。
 その間、シンタローは面倒を見てやった。
 額の布を代え、朝と夕に、スプーンを使って水で溶いた解熱剤を口に含ませた。
 食事を多めに作って、部屋を暖かくして、床で寝た。
 ――こうして、俺の部屋に、男が来た。



 そして三日目の夕方。
 いつものようにシンタローが仕事を終えて部屋に戻ると、青い瞳が自分を見返した。
「君は……?」
 それが、男がシンタローに発した最初の言葉だった。
 低音で海に沈みこむような声だった。
 シンタローは男の意識が戻ったことに嬉しさを覚えたが、それは長くは続かなかった。
 男を自分が森で見つけたこと、ここまで連れてきたこと等の事情をシンタローは説明したが、男はそのまま頭を押さえて俯いてしまった。
 ひどく痛むのだと。
 そして、何もわからない、と言った。
 自分が何者かがわからない、どうして森にいたのかもわからない、何故倒れていたのかもわからないと。
 男は記憶を失ってしまったのだという。










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