熱い手

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 そして数時間後。
「シ・ン・ち・ゃ・ん、入・れ・て!」
「帰れ」
「一緒に寝ようよ! パパ、やっぱり幽霊怖くなっちゃってさっ」
「一人で霊に取り付かれてろ」
「だって寂しいんだよッ! お前は家にも帰ってきてくれないしっ!」
「声が大きい! 聞こえるだろ!」
 士官学校寮角部屋。
 シンタローが翌日の予習を済ませて、さて寝ようかという頃、窓を軽快に叩く音がする。
 嫌な予感は的中して、さっき別れたばかりのマジックが、窓の外から部屋を覗いていた。
 窓枠に、腕と顎とを乗せている。まるでそのために設計されたのじゃないかと疑ってしまう程の、彼の身長サイズな窓の高さ。この夜半に鼻歌まで歌い出しそうな雰囲気である。
 マジックと自分の視線が合ってしまい、パチンとウインクされてしまってから、今この瞬間まで、延々と問答は続いている。
 この男の子供っぽさには、シンタローは呆れずにはいられない。
 まったく! どっちが大人で子供なんだよ!
 普通、逆だろ! 逆! 俺が子供で、アンタが大人なんだよ! どーして逆なの!
 いくら自分が言っても、相手はしきりに会話を続けたがる。きりがない。
 だってさあ、だってさあ。
 だってさあ、シンちゃんがいないとさあ。
「パパ一人じゃ眠れないんだもん」
「じゃあ一生起きてろ」
「ひどいっ! 本当につれないよねえ、シンちゃん」
「もう俺はガキじゃないの! 14なの! アンタも早く子離れしてくれ」
「一時間だけ! 一時間だけぎゅっとさせてよ! ささやかなスキンシップ希望」
「ぎゅっとか言うな! ささやかに希望すんな! ヤだって何度言えばわかンだよ!」



 先程から小声で、延々と窓を挟んだ言い争いは続いている。
 二人の間を通り過ぎていく、心地よい風。暖かくなってきた初夏の夜が恨めしい。
「ああ、この部屋はいいね、一階角部屋。窓からこうやってシンちゃんを、こっそり誘えちゃうよ」
「こっそりとか嘘つくな、頼むから静かにしてくれ」
「いやぁ、シンちゃんが成績で一番取ったって聞いてね、パパ、すっごく嬉しかったんだよ! だってこの一人部屋になるしさ」
「部屋のためだけかよ! もーいい加減あきらめろ、しつこい」
 隣の部屋からは物音一つしない。同級生が眠っていてくれることを願うばかりのシンタローである。
 もう彼は気が気ではない。頭を抱える。
 あああっっ……ッ!
 こつこつ築き上げてきた俺の学校でのイメージがっ!
『カッコいいシンタローさん』『さすがのシンタローさん』のイメージがっっッッ!
 一気に台無しになったらどーしてくれんだよっ! こんの恥ずかしいアホ親父が!
 しかし気が付けば自分ばかりが怒っていて、目の前の人は、どこ吹く風。
 あー悔しいっ。どーしてくれよう。
「別に大部屋の時にお宅訪問しても良かったんだけど、そしたらシンちゃん怒るでしょ? パパ、ちゃんと気を使ってるんだよ。まあ遠征行ってたってのもあるけれど」
「今だって怒ってるコトに気付け! つーか大部屋の時に来るとか、恐ろしい想像させんな! 巨大セミも驚愕のあまり幼虫に戻るわいっ!」
 ああああああっっっっ……ッ!
 コイツの常識のなさには!
 常識のなさにはッッ……!!!
 ガツン。
 思わず、派手な音を立てて、彼は窓際の机に突っ伏す。
 いっそのこと、そのまま気を失ってしまいたかった。
「そう言えばここ、サービスも使ってたんだよ」
 しかし何気ないマジックの衝撃の一言に、シンタローは顔を上げ、超反応してしまう。
「えええっっ!!! おじさんもっっっ!!!」
「……シンちゃんだって声大きいじゃない。おでこ赤くなってるよ」
「そっかぁ! おじさんの部屋か! 俺、頑張ってトップ維持しよう。ナンかヤル気わいてきた。一番になってよかった」
「あのさ、シンちゃん……」
「も、もしかしてっ! 何か昔のもの残ってるかも……この壁の傷とか、おじさんの頃もあったのかなあ……」
「……ていうかシンちゃんさあ、もう問答し始めてから、ゆうに一時間は経ってるんだけど……最初から入れてくれた方が早かったのに……」



 トントントン。
 窓とは逆方向から、シンタローの部屋の扉を叩く音がした。
 シンタローは慌てふためいた。
 うわあああああっっ!!!
 だ、だ、誰か来たっっっ!!!
「シンちゃん、お客さんだよ、出たら」
「ええい、わかっとるわいっ! さっさとしゃがめ! そんで、いいか! 絶対っにっ!!! そっから顔出すなよっ!」
「じゃあ声は……」
「声もダメっっ!!!」
 はあはあはあ。落ち着け、自分。お前はデキる男だ。
 乱れた呼吸を整え、額の汗を拭い。
 ガチャ。
 シンタローが扉を開けると、そこにはトットリが立っていた。
「シンタローさん……ちょっと相談したいコトがあるんだっちゃわいや……」
 そう言いながら、トットリはやけにモジモジしている。
「あんだよ」 
「……さ、最近……ミヤギくんが、僕に冷たいんだっちゃ」
「いつもだろ」
「そ、そんなコトないっちゃよ! ミヤギくんは、とっても優しい人なんだっちゃわいや! その証拠に、いっつも僕に、スイカの皮とか目玉焼きの白身をくれるんだァ」
「ほぉ……」
「でも最近は、木の皮とか木の汁とか、変なモノしかくれないんだわいや……どういう意味なんだか分からないんだっちゃ……ぼかぁ、僕らの友情が心配で心配で……」
「……それ、お前にエサやってる感覚なんじゃねーのか……悪いことは言わねぇ、その能天気な隠れ身の術を、セミからカブトムシに戻せ。そしたらエサはスイカの皮に戻るし、騒音公害はなくなる。友情は知らん。じゃーな」
 バタン。
 一気に扉を閉めて、シンタローは、そのまま閉めた扉に寄りかかった。
 ああ。
 ただでさえ疲れているのに、どっと疲れが。
 どっと疲れが……。
「シンちゃん、カブトムシにスイカの皮って、よくないみたいだよ。栄養価が低いし水分が多いから、下痢しちゃうんだって。もっと白桃とかマスクメロンとか……」
「あいつらにはンな金ないの! っつーか、そんなんどーでもいいの! それより俺が、どっと疲れてる最大の理由を聞いてっ! 頼むからっ!」



 トントントン。
 扉を叩く音。
 ま、ま、また来たっっっ!!!
「しかしシンちゃん、ドアのノックって、どうも情緒がないよね。パパ、実はこの寮のドアを、日本風に障子に変えてみたらどうかなって思ってるんだ。ノックの代わりに、しわぶきっていう咳払いをしたりね、和紙に指で穴を開けて中を覗いたりね、スターン! と開けて、天誅! ってやったりね、」
「日本大好きガイジンもいい加減にしろ」
 ガチャ。
 シンタローが扉を開けると、そこにはミヤギが立っていた。
「シンタローさん……ちょっくら聞きたいコトがあるんだべ……」
 そう言いながら、ミヤギは暗い顔をしている。
「あんだよ」
「……オラ、モチが好物だべ? んだがら、どーしても夜寝る前に、3個は焼いて食っちまうんだべ……んで朝にも4個はァ。一日7個も食うたら、すーぐに仕送り分がなぐなっちまうべ! でも本当はもっと食いたくて仕方ねーんだぁ……オラは一体どうすればいいんだべか……」
「……よし。今から4個食えばいい。それで朝は3個食え。それでもう寝ろ。一刻も早く寝ろ」
「ええっっ! 今から4個も食っていいんだべかっっ!! よぐわがらねーけど、そんで丸ぐ収まるんなら、こんなにいいコトねえべ! さすがはシンタローさんだべ! オラ聞きに来てよがったべ!」
 バタン。
 一気に扉を閉め、崩れ落ちたくなるシンタロー。
 ああ。
 どっと疲れが。
 どっと疲れがああぁぁぁっっ!!!
「シンちゃん、パパ、朝三暮四ってコトワザ、初めて実際に見ちゃった。日本人って伝説の中に生きてるんだね! うーんエキゾチック!」
「じゃかましいわっ! つうか、新入生はアンタが、どっかから連れて来たんだろーがっっ!!! どーいう基準で選んでんだよ!! もう変人ばっかで、っていうかアンタ自体が一番変人で、俺ばっかりが悩まされて……」



 ドンドンドン。
 扉を叩く音。
 が―――っっ!!!
「パパは日本のコトワザだと、二度あることは三度あるっていうのが真理だと思ったね。他にも色々知ってるよ! 花より団子、豚に真珠、釈迦に説法……あれ、仏陀? 説教? パパ、これはあやふやに覚えちゃってるな……」
「……日本の諺より、まずアンタは英語の諺マスターしてくれ。時は金なりとか呟け。今この瞬間に」
 ガチャ。
 シンタローが扉を開けると、そこにはコージが立っていた。
「あんだよ」
「シンタロー。ぬしゃ、錦鯉のキヌガサくんを知らんか」
 そう言いながら、コージは身を乗り出し、妙に部屋の中を舐めるように見回している。
「俺が知るかよ……いなくなったのか?」
「今、そこの窓から池に呼びかけたんじゃが、返事がなくてのぉ」
「どっかに自力でエサでも食いに行ったんじゃねぇの。野良犬とかカラスとか……だいたい何で俺に聞きに来るんだよ」
「……ワシゃぁ、気付いとったぞ、シンタロー……隠さんでもええ」
「ああ?」
「……ぬしのキヌガサくんに向ける熱い視線は、ただごとじゃなかったからのォ! 男避けに、くん付けで呼んどるが、実はキヌガサくんはメスじゃけん! てっきり、ぬしが夜遊びかなんぞに、かどわかしたかと心配で心配で……キヌガサくんはワシの、世の穢れを知らん妹のような存在で! 妹萌えー」
「ア、アホかっっ!!! 勘違いすんなっっ!!! 誰が鯉なんかをっっ!!!」
 バタン。
 一気に扉を閉め、そして、かすかに落ち込むシンタロー。
 ……。
 これで……。
 ますます俺はあの鯉にエサをやってみたいだなんて、言い出せなくなってしまった……。
 鯉の値段も気になるが、聞けやしねぇ。
 あの兄貴ぶった変態に、違う誤解をされそうだぜ。
 実は――シンタローは、奇妙な生き物が、わりと好きだった。
 彼の性質は、基本的にお坊ちゃん育ちで世間知らずであるため、『変わってる』『珍しい』ものには、何だかんだで興味がある。
 だから、自分が悩まされさえしなければ、変な人間、変人というのも本当は嫌いではないのだが。
 ……って。
 シンタローは重大な事実に気付く。
 あの錦鯉の池は、この寮の裏だったはず……。
 !!!
 見つかるっっ!!!
 窓から暢気な声。
「ん、パパは見つかってもいいんだけれど」
「こんの諸悪の根源っっっ!!!!!!」



「さっ」
「何が『さっ』だよ! どーせ無理矢理入って来るなら一時間以上もウダウダしてんな。それ以前に来るな」
「もうシンちゃん、人のせいにしないで」
「人のせいにしてるのは、アンタなんだよ!!!」
 結局窓からあっさり侵入してきたマジックである。表から来られるよりはまだマシなのだが。
 こんな場面を同級生たちに見られでもしたら、もう俺は切腹するしかない。
「……何かあったのかよ」
「ん、別に」
 ふと、そんなことを聞いてみたが、相手は無反応だった。
 あはは、と目の前の迷惑者は笑っているだけだ。
「いやあ、シンちゃんは人気者だねぇ。パパは鼻が高いよ。お友達と仲良くね」
「アンタのせいで危機に瀕してる人気でもあるがな……自覚症状ゼロかよ」
「さーてと……でもねー、前々から思ってたんだけど、この寮のベッドって私には狭すぎるんだよね」
「前々って、知ってるんならかえとけよ! コージとか大変そーだったっていうか! それ以前にそもそもアンタは使う用ないだろーが!」
 ああ。シンタローは溜息をつき、今度こそ脱力して、ベッドの端に座り込んだ。
 頬に落ちる黒髪をかきあげ、横目で侵入者を見やる。
 相変わらず嬉しそうなマジックは、あちこち部屋を見回している。
 わぁ、この本、日本から持ってきたんだね、なんだ、この砂時計も持ってきたの? 古いのに。新しいの買ってあげるって言ってるでしょ……あれ、この服、パパ初めて見るよ、どこで買ったの、なんて言いながら。
「……ホント……どーして、こんな年になってまで子離れできねーんだよ。なんでこうベタベタしたがる訳?」
 当然の疑問を自分は口にするが、返って来るのはいつもの訳のわからない言葉。
「だってね。パパはお仕事してても、時々シンちゃんのこと思い出すと、心に穴があいたみたいになっちゃって、もうお前に会いたくてたまらなくなっちゃって、でもそう思ってても帰れないから頑張ってお仕事するんだけど、でもすればするほど寂しくなってきちゃってだからシンちゃんに会いたくてしょうがなくなっちゃって、だから早く済ませて、一生懸命来ようとするんだけど、でも早く済ませようとするとますます会いたくなるから、だからとにかく悪循環で、パパはもう大変になっちゃって、」
「あーあーあー!! もういい!! もういいッ!!」
「えー、シンちゃんが聞いたから答えただけなのに。勝手なんだから」
「どっちが勝手なんだよっ!」
 恥ずかしい! ええい、どーしてコイツはこんなにアホなんだッ!
 ベッドの端に座ったまま、シンタローは本格的に頭を抱えた。
 ……表面的には、まだマトモそうな面してる癖に、裏ではこんなんなんだぜ?
 彼は同級生達に、それがばれるのが嫌だった。
 入学式で、壇上のマジックに好意的な評価をしていた同級生たち。その内実がコレだと知られたら……恥ずかしくて俺は死ぬ。
 あと妙に家庭的なのが恥ずかしい。あのフリルのエプロン姿を同級生に見られたら、俺は速攻で身を投げる自信がある。
 それに俺にベタベタしてくるのが恥ずかしい。外と違った、妙に甘えた喋り方が恥ずかしい。態度が恥ずかしい。
 っていうか、コイツの存在のすべてが恥ずかしい。
 こんなんで、どうやって軍の総帥とかやっていけるのかが、理解できない。
「……シンちゃん、昔はあんなに素直で可愛かったのに」
 ムッとして黙り込んだ自分に、マジックが素振りだけは困ったように言ってくる。
 お決まりの台詞。



「もー俺は寝るから。明日早いんだよ! アンタはそのままそこで立ってろ、それか帰れ」
「ひどーい。だから一緒に寝てって!」
「ヤだって!」
「パパ、シンちゃんと一緒に寝ないと、よく眠れないし、いい夢見られないんだよっ! お仕事行ってる時もね、いっつもそれを楽しみに、頑張って我慢しててね、」
 取り合わず、さっさとシンタローは電気を消す。暗闇が部屋に満ちる。
 ばふっとベッドに潜り込み、毛布を頭から被った。
「ねーえ、シンちゃんってば」
 毛布の上から、ポンポンと叩かれる。
「……」
「シンちゃんってば!」
「……」
「黙ってたら、実力行使しちゃうよ」
「……ッ」
 クッソ。あくまで黙らねーな。
 シンタローは仕方なく顔と手だけを出し、至近距離で覗き込んできている男を見上げる。
 今宵は月が出ているらしく、カーテンの隙間から白い光が漏れている。暗い中でもよく顔が見える。
「よく眠れないとか言って嘘つけ……じゃあ俺が生まれる前とかどーしてたんだよ、このアホ親父」
「パパはワンコと一緒なんだよ。一回シンちゃんと一緒にギュッとして寝る味覚えちゃったら、もうそれがないとダメなんだ。もう何としてもベッドに入ろうとするね、間違いなく」
「ワンコってヤメロ。犬って言え。つーかこんなデカい犬いねえよ」
「ここにいるよ。ほら、舐めさせて!」
「うわっ! アホ! そーいうのがイヤなんだって何度言えばワカんだよっ!」
 慌てて頭を毛布に引っ込めると、残念そうな声が降ってくる。
「だって今日はシンちゃんの髪が好きなんだよ」
「そんなのアンタの勝手だろッ! 俺の都合を考えろッ! 大体昨日は違うコト言ってたじゃねーかよ」
「あの時はたまたまお前の額が好きだったんだよ」
 昨日、校舎内ですれ違った時に、突然額にかすめるようにキスされた。
 カンカンになって怒る自分に、この男は『急に、おでこが好きだなって思ったから』と平然として言い放ったのだ。
「明日はきっと耳たぶが好きだね」
「……バカにすんな。つーか、アンタ、本当は俺の何がそんなに好きなんだよ」
「わからない。その時によって違うよ。お前の名前が好きなのかもしれない。いや、瞳かな? 眉かな? 髪かな? 巡り巡ってしまってもうよくわからないよ。とにかく何でも好きだよ。毎日好きだよ。死ぬほど好きだよ。そういうのはダメかい?」
「知るか……もう俺は本当に寝るからな!」
「不思議だよ。私は好きなものはみんな同時に憎くなるけれど、お前だけは憎めない。愛してるだけなんだよ。そういうのはお前だけ」
「はぁ? もーうっさいって! 寝るの邪魔したらもう口きいてやらねー。いいな、絶対口きかないからな!」
 あーあ、また怒っちゃった、と呟く声を遮るように、毛布の中で無理矢理目を瞑る。



 しかしそれでも黙らない相手。
「昔は良かったなぁ。シンちゃん、可愛くて可愛くて」
 またそれかよ!
 うるさいうるさいうるさいッ!!
 無視だ。無視、無視、無視!
 もう邪魔したから、もう口きいてやらねー。
 するとまたしばらくして、甘えるように、ねだる声。
「ね、手だけ。手だけは?」
「……」
「パパ、この椅子に座ってるだけでいいから、お前はそこで寝てていいから、手だけ貸してよ」
 ガタガタと、椅子をベッドに寄せてくる音。
 これも、無視。
 いーかげんにあきらめろよ、バカ親父。
 すると勝手に沈黙を了承と受け取ったのか、マジックは手を伸ばしてきて、シンタローの右手を取ってしまう。
 自分の手が、彼の頬にあてられる感触。枕元のシーツが揺れて、頭だけそこに落としたのだと知る。
 そのまま、あっさりと静かになる。妙に嬉しそうな雰囲気が伝わってくる。
 クッソ……めでたいヤツ。
 毛布の中で、シンタローはこっそり溜息をついた。
 胸の治まらない怒りが静まるまで、しばし待たなければならない。
 そこだけ毛布から出た、自分の手が。馬鹿なことしか言わない唇に触れている感覚に、腹が立つ。
 つーか。他の部分も好きだって煩いけれど。
 手は……特にこだわるよな。
 何でだろう、とシンタローはいつも思うのだった。
 俺の手は、火傷や切傷で、しかも豆だらけで、とても汚いのに。
 何で、アンタはこんなボロボロの手が好きなんだ。
 もっと他に、綺麗な手をした人間なんて、いっぱいいるじゃんか。
 でも昔ッから、どうしてか俺の手ばっかり。
 だいたい何が、好きだ。何が、愛してる、だ。
 俺が何をしたって、同じことしか言わない癖によ。
 ……裏返せば、それって俺のコトなんてどーでもいいってことだよな?
 俺が何を考えようが、アンタはどうでもいい。
 どんなに頑張ろうが、どんなに走ろうが立ち止まろうが、俺が何をしたって、アンタの俺への評価は変わらない。いつも同じ。
 どこか嘘臭い言葉だけしか、貰えない。
 ――認めてもらえない。
 何にもせずに、そこにいるだけいろってか。自分の気が向いた時のために、いろってか。
 俺はただのモノかよ。
 そして、俺が自分のモノとか所有物だって思ってるから、こんなにベタベタ執着してくるのかもしれない。
 たくさんの浮いた言葉。たくさんの買い与えられるモノ。たくさんのわざとらしい仕草。
 幼い頃から、シンタローにはそれらが、たまらなく嫌だった。



 どうしても気になり、少し毛布の隙間を開けて、マジックの様子を窺ってみた。
 自分の手を頬に当てたまま、目を瞑っているようだ。
 椅子に座って、ベッドの枕元に、横顔だけ。
 寝ちまって……るのか……?
 ……。
 自分の傷だらけの手が、触れている顔。
 月光に照らされている。夜の中では、白銀色を帯びる人。
 ……。
 何だかいたたまれなくて、シンタローは、ばふっと毛布の隙間を閉じる。
 あの! 世界一キレイなサービスおじさんと兄弟なんだから、それなりなのは仕方ない
 黙ってればいいのに。
 アンタこそ、黙って何もしなければいいのに。
 俺にはない金髪と青い目。
 一族の中で自分一人だけが、黒髪黒目。
 アンタと俺とは、親子のはずなのに……。
 母親の方は体が弱いらしく遠くで療養していて、自分とはたまに顔を合わすだけだった。
 だから彼女はあまり存在感がない。



 昔から――自分、という存在に、シンタローは不安を抱いていた。
 自己への懐疑の始まりは、ごく素朴な疑問。
 何で、俺だけ、髪と目の色が違うんだろう。姿かたちも、全く似ていない。
 ……俺って、本当は……。
 彼は賢い子供だったから、昔から様々な可能性を考えてきた。
 そして、考えては考えては、すぐに考えるのをやめる。それを繰り返してきた。
 だから、その思考自体はそれほど深くは進んではいない。
 耐えられなかったから。考えれば考えるほど、泥沼に漬かり込んでしまうから。
 心の奥に仕舞い込んで、普段は触れないようにしている。
 それは自ら作った、自分を脅かす禁忌。
 しかしだからこそ、その不安はシンタローにとって、永遠に拭い去ることができないものとなった。
 考えないようにするからこそ、それは解消されずにいつまでも残る。
 いまや、不安は彼の核そのものとなり、びっしりと根を張って、その行動の全てに、影響を与え、裏を作り続ける。
 彼のアイデンティティを揺らがせ続ける。
 ふとした瞬間に、どうしようもない彼の弱さとなって表れ続ける。



 ――影。
 何かの、身代わり。
 何かの、ニセモノ。
 不覚で男達にさらわれた時に、突然投げつけられた言葉。
 その言葉は、シンタローの心に鋭く突き刺さったまま、抜けない。
 自分に向けられる何もかもが、自分の身体を擦り抜けて行く感覚。
 自分が自分でない、そんな感覚。
 例えば、今。マジックが好きだというのは、自分ではないような気がする。
 だって。だってさ。
 俺は、本当は……カワイくもなければ、優秀でもねーし……。
 それが彼のどうしようもない本音だった。
 シンタローは、特にマジックの前では、自信がない。
 彼はもう一度毛布を上げて、目の前にあるその顔を見る。
 通った鼻梁、閉じられた金色の睫毛、薄い唇。その造作に向かって、心の中で語りかける。
 アンタって。俺の前ではバカしかやらないけど。
 アンタって、本当は凄い優秀なんだろ?
 大勢の部下を指揮したり……本当は強い……軍人なんだろ? 少なくとも周りはそう言って、俺と比べやがる。
 それなのに何で、俺の前だけではバカでヘタレた奴やってんの?
 ヘラヘラしてて無害な人間。そんな振り、してるだけ?
 演じているの? 何のために?
 ――俺だけが、アンタの本当の顔を見たことがない。
 ……何が本当で嘘?
 アンタが時々する……冷たい瞳。
 バカみたいな、甘えた瞳。
 本当のアンタは、どっち?
 さらにシンタローを不安にさせていたのは、自分だけが真実を知らないのではないかという疑問だった。
 全てが何かのカムフラージュだったら、どうしよう。
 自分だけが騙し絵の世界に、騙されているのだったら、どうしよう。
 みんなは気付いてて、でも俺だけは知らなくて。
 好かれてるって思い込んで、実は好かれてなかったら、どうしよう。
 うっかり信じて、後で嘘ってわかってしまったら、どうしよう。
 影。自分を形作る、黒い姿をした不安。
 その言葉は、あまりにもシンタローの気持ちにぴったりとしすぎていて、一度聞いたらもう忘れることができなかった。



 シンタローは、覗き見るのをやめて、毛布から顔を出した。
 目の前の人は、同じ姿で、目蓋を閉じている。自分の手を取ったままだ。
「……」
 昔は、昔は、ってアンタが繰り返すから。
 俺まで影響されて、また繰り返し、昔から考え続けてきたことを思い出す。
 昔は良かったって……アンタはそればっかり。俺は、昔なんて……いいのか悪いのか、全くわかんねぇ。
 昔も今も、俺にとっちゃ、同じ。ずっと同じ……未熟なガキで、ひ弱な子供でしかない。
 早く俺は大人になりたい。大人になって。強くなって。
 アンタにも誰にも何にも振り回されずに、俺だけの意志で、俺だけの道を歩きたい。
 今はガキだから、俺は、こう……囚われる。
 とにかくさ。とにかく、今はさ。
 俺、アンタがさ、ずっと黙っててさ、バカやらかさなきゃ、まあ耐えられねェコトもないんだよ。
 俺が大人になるまで、じっとしててくれよ。
 頼むから。
 ――俺はまだ子供だから、アンタの本当の気持ちが、わからない。
 自分の手に触れる、冷たい手と頬。シンタローは、静かに呼吸をした。
 どうしてか体温の低い人だが、その匂いが近くにあると、自分は結局、安心してしまう……。
 ……バーカ。
 そういう所が、一番ムカつくんだよ……。
 いつか、見てやがれ……。
 いつか、見て……。
 ……父さん……。
 心の中で呟いていると、だんだんと、うとうとしてくる。
 そしてシンタローは夢の中に落ちていった。



 昔、一度だけ、マジックが体調を崩したことがあった。
 体調管理は完璧な人だったが、一度だけ熱を出して、自室で寝ていた。
 風邪だったのか、それとも他の病気だったのかは覚えていないが、とにかくシンタローはうつるから部屋に入るなと言われていた。
 一人で食事をし、一人でベッドに入った幼いシンタローは、深夜に目を覚ます。
 声を聞いたような気がしたのだ。怖くて、傍らにある砂時計を胸に抱き締める。
 幼い頃から、いつも自分の側にあった砂時計は、自分の御守りのようなものだった。
 しばらく毛布に包まっていたが、とうとう自分は、それを抜け出し、暗い廊下に出た。
 ……心配だったから。



『……』
 彼の部屋は、鍵はかかってはいなかった。
 そっとその扉を開けた瞬間、シンタローはぞっとした。
 暗闇の中で青い目が、見たこともない光を湛えて、自分を見たからだ。怖くなって、自分はその場に立ち尽くしていた。
 しばらく時間が過ぎた。
『……シンタロー?』
 やっと声がして、体を起こす気配がする。
 シンタローは恐る恐る、ベッドに近寄った。そこにいた彼は、普段のマジックだった。だから、自分はすぐに安心した。
 いつも通り大きな手が頭を撫でてきたので、シンタローは訴える。
『シンタローね、パパが、しんじゃうかとおもったの』
 彼は、ただ自分を撫でている。少しして、言う。
『……ごめんね、起こしちゃったんだね……シンちゃん、パパは何か言ってた?』
『ううん……からだ、くるしいの?』
『熱が出たからね』
『こわいユメ、みてたの?』
『怖い夢と言うか……今日はちょっといつもより、耐え性が弱くなったと言うか……いいよ、お前にはわからないよね』
『?』
 するとマジックは、シンタローの手を取ってきた。
『……ごめんね、シンちゃん。うつるから来ちゃダメだよって言ってたのにね。ちょっと……少しだけ、ここにいてくれないかい』
 珍しく、弱い声だった。
『うん』
 自分は毛布の中に潜った。その逞しい腕の中に滑り込む。
 この頃はよくこうやって一緒に寝ていた。ぎゅっとさせて、と言われて抱き締められるから、自分も小さな手で抱き締め返す。
 そして、すぐ側の顔に、言う。
『パパはおしごと、がんばりすぎ。むりしないで』
『無理、してるかな?』
『いつもいそがしそう。シンタローとごはんたべたら、すぐいっちゃうでしょ』
『うん……お前と御飯だけは一緒に食べたいと思ってるんだけど、逆に寂しい思いをさせちゃったかもしれないね。悪かったよ』
『あしたはね、ねつでてるからね、パパ、おしごと、いかないでね』
『……ちょっとそれはどうかな』
『パパ、いかないで』
 曖昧な顔で笑っている人。
 しばらくして、こう聞いてきた。また自分の黒い髪を撫でてくる。
 手をつないでいいかい、と、自分の手が冷たい手に、包まれた。
 いつも、こうされる。
 そして聞かれた。
『シンちゃんは、パパが……どんな人でも好き?』
『? パパはそのままのが好き』
『そのまま……か……今の、シンちゃんが思ってるまんまのパパが好きなんだよね、シンちゃんは……』
『うん。ずっとずっと、このパパが好き』
『……ああ』
『パパ、大好き』
『……私も、お前が大好きだよ……』



----------



「……」
 カーテンの隙間から漏れる朝日で、シンタローは目を覚ます。
 まだ朝は早い。さえずり始めたばかりの、鳥の声。
 ぼんやりとした視界の中で傍らに目をやったが、椅子は元の場所に戻され、そこには何の形跡も残ってはいなかった。
「……チッ」
 彼は舌打ちすると、起き上がらずにそのまま毛布の中で、自分の手を見つめた。
 ――熱い。
 身体の中で、なぜか手だけがうっすらと熱を帯びていて。確かに手には、痕跡が残っているのだ。
 ……多分、あの男の体温が低いからだ。
 その冷たい肌に触れた後は、いつもシンタローは自分の手が熱いことを意識する。
 ――俺の手は、熱い。
 何故かそのことに、ひどくいらついた。
『パパ、いかないで』
 そして心に残る、過去の余韻。
 クッソ。
 彼はぎゅっと強く拳を握り締めた。
 机の上に置いてある、古い砂時計が目に入った。
 あーあ。次アイツが来たら、叩き出してやる。
 絶対に!
 そう固く心に決め、シンタローはもう一度目を閉じる。
 ばふん、と音を立てて毛布を弾ませる。
 しかし……どうやって追い返せばいいのかはわからなかったが。





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