あなたへの時間

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「サービス……シンタローを訓練してくれ」
 長兄の言葉に、サービスは金髪を煩そうにかきあげた。
 珍しく呼び出されて、顔を合わせた途端に、この台詞。何事かと思えば。つまらないね、最近のあなたの考えることは。
「兄さんの息子だ、鍛える必要もあるまい」
 常よりは乱暴な自分の台詞は、突き放したように聞こえたかもしれない。
 総帥室は豪奢ではあったが何処か暗く、飾り棚に載った陶磁器が、白く無機質に輝いた。
 つまらないんですよ。あなたはいつも、あの子のことばかり。実に、つまらなくて。
 物悲しい。
「いや……息子は、秘石眼ではない……」
 兄は余韻を含ませたまま、言葉を切る。
 そしてゆっくりと椅子から立ち上がり、サービスに相対する。
 だからサービスは反射的に彼に、その長い睫毛の先を向ける。
 弟である自分を、見据えてくる両の眼。その眼に触れる度、否が応でも自分の身は緊張に固くなる。
 青。冷たい光。
 僕は――
 僕は、いつもこの光を見る度――持たざる者としての自分を自覚する。
 心の芯が、静かに冷えていく。見つめられる瞳の温度までに、血が冷える。血を感じる。
 僕はこの血が、憎くてたまらないのに。一族であることが、厭わしくてならないというのに。
 一つだけになった僕の無力な瞳の前で、開いた右の空洞の前で、あなたが口を開く。
 わかっていて、僕が敗者であることを知っていて、あえて、あなたはこう言い切る。
 その傲慢さ。所詮は勝者の言葉、見下ろす言葉。屈辱。
 許すことなど、できないよ。
「強くなければ、生き残れない!」



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 士官学校を卒業してからの日々は、ただただ慌しく、溢れ来る急流のように押し寄せてすぐに背後へと流れ去ってしまう。
 目の前にあるものは、あっと言う間に色褪せ、あっと言う間に次の何かに取って代わられる。
 そして、初めは物珍しいものだが、その移り変わりは、ひとたび身に馴染んでみれば単なるルーティンワークにすぎなくなる。
 魚が飛び込んだ水の色に興味を抱くことがないように、すべてはやがて日常の色となる。
 シンタローたちが飛び込んだ新生活も、慣れれば何ということもない時間だった。
 上手くバランスを取って水に浮かび、流れに沿って泳いでいけば、それでいい。
 機械的に命じられた任務を果たし、訓練をこなし、空き時間を潰して、最後は疲れてベッドに潜り、別段の刺激もなく一日を終える。
 その繰り返し。一日が過ぎ、季節が過ぎ、年が過ぎていく。
 後方勤務は、平和で――退屈。
 特に若すぎる少年たちにとっては。



 戦場に出たことは、厳密に言えばないではない。
 設営隊として前線のすぐ側にまで近付いたこともあったが、その時は遠方の空に閃光を仰ぎ見た程度。
 臨時基地設営のために、技術士官の怒鳴り声を耳にしながら、懸命に資材を運搬していたので、脇見の暇もなかったぐらいだ。
 土木作業。雑務。伝令という名の使い走り。遠隔地に食料や生活必需品、弾薬その他を輸送する補給業務。もしくは、本部の警備。他、他、他。
 別に後方勤務を甘く見ている訳ではないが、戦うために軍人になったのに、と仲間内で寄れば互いに愚痴のこぼれる程、実際の仕事は少年らしい憧れとは無縁の所にあった。
 血気盛んな一部の者が、上層部に連判で嘆願書を出したこともあったが、時期尚早ということで却下されたという話も聞く。
 一度などはシンタローが神輿として担ぎ上げられそうになったことまであった――もっとも上手くかわしたのだが。



 そして今日も、同じ一日。
 高く跳躍して、一回転し着地すると、ふう、とシンタローは息をつく。
 訓練場の西の空は、すでに赤い靄に包まれていた。鳥たちが巣に帰る黒影が数個。黄昏の風が頬に触れる。視界の端にそびえ立つ本部の鉄塔。簡易空港の管制塔の灯り。滲んでいく。
「……」
 持てあまし気味の身体を傾けて、シンタローはこれもほぼ変わらない仲間たちの顔を、ぐるりと眺めた。
 訓練場で共に汗する少年たちは、士官学校同期の面々。ある者は基礎訓練をこなしていたり、ある者は武器の組み立て訓練をしていたり、友人と組み手をしたり、黙々と励んでいたりと、様々であるのだが。
 その実、誰もかれもが、自分と同じ表情をしているような気がした。
 若さは、その捌け口を探している。
 交代制の警備業務を終えた後の時間である。新兵である自分たちは、お決まりの訓練に勤しんでいる所だ。
 課された規定時間を超え、すでに自由時間に入っていたが、軍舎に帰っても寝るだけなので、シンタローは黙々と自主訓練を続け、周りもそれに習うといった日常ができあがっていた。
 実は、シンタローには趣味と言えるものがなかった。
 基本的に不器用で、一つのことに馬鹿正直に突き進むタイプであるため、士官学校時代の目標であった主席卒業を果たした後、今の彼は具体的な目指すものを失った宙ぶらりんの状態にあった。
 戦場に出ることもなく、他とさして差がつく訳でもない日常業務の中では、せめて訓練成績だけでも一番を取るぐらいしか、やることがなかった。
 彼は、そんな自分をつまらない人間だと思ったが、だからといって自らを鍛える手を休めるのも嫌なのだ。
 何でもいいから、少しでも自分を高めたい。歩き出したい。
 強くなりたい、大人になりたいという抽象的な望みはあったものの、しかし、実際には何をすればいいのかが解らない。
 そんなやる気だけが空回りの状態を、この所の彼は過ごしていたのだった。



「はあッ!」
 シンタローはまた一際高く跳躍すると、加速をつけて、訓練場の隅に転がっている岩に向かって拳を突き出した。
 岩には目があり、筋の流れがあり、重心がある。
 それを見抜き、ここしかないというポイントに楔を打ち込むように衝撃を与えると、弱い部分から強い部分へと、裂くことができる。
 これができるかどうかは、腕力の問題というよりも、訓練による眼力の問題だった。
 そして今日もシンタローは、なんなく岩を割った。凄まじい音がし、欠片が舞った。背後で同期たちの、感嘆するような声が聞こえる。
「うおー、すげぇべな! シンタローさん」
 汗を拭きながら、ミヤギが言っている。
「さすがやわね。凄いっちゃ!」
 その横で、トットリ。いつもの奴ら。
「ふん……大したことあらせんわナ……総帥の息子っつーだけで目立ちなはって!」
 陰でボソリと呟く声も聞こえる。
「相変わらず、ひねくれとるっちゃ、アラシヤマ……」
 フッフッフ、と不吉な笑みを浮かべたアラシヤマは、自嘲気味に明後日の方角を見ている。カァカァ、と夕陽に鴉が飛んで行った。
「どーせ、わては嫌われ者どす……友達もおらへんし……」
 いつものことなので、シンタローは気にしない。
 そういえばコージは、と辺りを見回せば、訓練場裏の土手で休憩中のようだ。
 くわえている葉っぱの先が、シンタローの位置からも見えて、ゆらゆらと暢気に揺れていた。
 これも相変わらずだなと、シンタローは肩をすくめた。



「さッ! 今日は訓練終わりにしよーぜ!」
 腹が減ったなと率先して歩き出すと、嬉しそうにミヤギとトットリが後からついてきた。笑いさざめきながら、歩く。
 士官学校の寮は出たものの、同じ敷地内の軍舎に同じメンバーで移動しただけであるから、まだまだ学生気分は抜けてはいない。毎日は、学校と同じ延長線上にあるという感じしかしなかった。
 変わったことといえば、士官とはいえ新兵にすぎない自分たちは、まとめて一気に大部屋に入れられたことぐらいだろうか。
 加えて、食堂のメニューが豊富になってアルコールも加わり、コージが余裕の表情で晩酌を始めることか。
 さらには、年かさの兵たちに何かとからかわれることは、これはもう日常茶飯事で。酔った兵士たちとって、新兵は格好の憂さ晴らしの的だった。
 特にシンタローは目立ったから、因縁をつけられたり絡まれたりすることもある。
 この間などは、総帥の息子だからと調子に乗りやがって、等と陰で難癖をつけられたので、乗り込んでいって正々堂々と相手を叩きのめしてやった。内規で私闘は禁じられてはいたが、まさか相手も、年下に完膚なきまでにやられましたなどと訴えるはずもない。
 何だ、よく考えりゃ、変わったコトって一杯ある、とシンタローは思い直す。
 ともかくも、平和なだけで、さ。
 さて、今日の日替わり定食は何だろう。そんなことを考えながら、軍舎に向かうシンタローの額が、ドン、と誰かの肩にぶつかった。
「……?」
 何だろうと、顔をあげる。
 次の瞬間、シンタローの顔が、ぱあっと輝いた。
「おじさん!」
「久しぶりだな、シンタロー」
 尊敬してやまない叔父が、そこに立っていた。



 サ、サービス様だべ! サービス様だっちゃ!
 背後の声も、もうシンタローには届かない。
 平坦だと思っていた時間が、急に波打ち出す感覚を覚えて、彼は胸を躍らせる。息せき切って、叔父に訴える。
「いつ帰って来たの!!」
 卒業式の後は、一度も来てくれなかったのだ。黄昏の中できらめく金髪、薄青の瞳、凛としたその姿。
 サービスおじさん。
 自分は何度会いたいと思ったことか。会って、何でもいいから話を聞いて欲しかった。
「今日だ。兄貴に呼び出されてな」
「なんでェあいつ、俺に黙ってやがって! 知らされてたら、空港に迎えに行ったのに!」
「はは、お前は勤務中だろう? もう自由な学生じゃない……元気そうで良かった」
「俺、背、伸びただろ? へへ、もーすぐおじさんに追いつくかも!」
「まだまだだよ。でもそういえば、顔が少し大人びたかな」
「へへっ! だろォ〜?」
 ふと気が付くと、同期たちの姿は消えていた。
 遠慮させちまったかなとも思ったが、滅多にないサービスとの邂逅だ、他事を気にしてなんかいられない。
 シンタローが仰ぎ見るサービスの笑顔は、夕闇に映えて一際綺麗で、その陰影が鮮やかに見えた。
 そんな人の優しい言葉が、自分に降ってくる。
 すごく……すごくすごく、嬉しい!



「どう、卒業して変わったかい、生活は」
「ううん、ぜんっぜん! 退屈してたトコさ! もうさ、もうおじさん来てくれないからさ、つまんなかったよ!」
「初陣はまだなんだろう」
「そーなんだよ! 張り合いなくってさぁ……そーだ、おじさん! 今度はしばらくいるんだよねッ! 絶対いてくれよな!」
 答えずクールに笑ったサービスに、シンタローは思わず拳を握り締めた。
 あーやべえやべえカッコイイ、超ド級にカッコイイ! ひさびさに心が潤ったゼ!
 ピンクのフリルのエプロンして背中に大根背負って決めポーズしてるような、どっかの親父とは全然まったく180度三回まわってワン! って程に違うナ!
 あんのアホ親父ときたら! と連想が及ぶに至って昨夜の出来事を思い出し、シンタローは嬉しい気持ちの中で、内心腹を立て始めてしまう。
 昨日なんて、軍舎の廊下で待ち伏せしてるし、みんなに見つからなかったから良かったけど超絶ウザいし、しかも夕飯食べた後だっつーのに、家でカレー作ってきたよとかって、御飯付きで花柄のタッパーに持参してくるし、仕方ねーから屋上でこっそり食ったケド、つーか大量すぎて朝ご飯おかわりできなかったし、てかウザいし、ベッドの下にタッパー洗って置いといたら、目ざといトットリが『わぁシンタローさん、花柄だっちゃ』『花柄?』『シンタローさんが花柄だべ?』とか騒ぎになるし、つーか全てにおいて迷惑……。
「は〜い シンちゃん」
「回想シーンから出てくんじゃねぇ!」
 まったく油断もスキもあったもんじゃないと、シンタローは不意に背後に出現したマジックを見て、不満気な顔を慌てて作ろうとした。
 だが、上手くいかなかった。サービスに会えた嬉しさが大きすぎて、その邪魔をした。
 だからシンタローはすぐにそれを諦め、素直に表情を、嬉しい顔に戻した。



「サービスと会えて嬉しそうだねぇ」
 マジックは、にこにこしている。これは機嫌がいいなとシンタローは見て取った。
「ああ! すっごくね!」
 運が良かったナ親父よ、俺の機嫌も最高潮だ! 花柄のことは、おじさんに免じて許してやらァ!
 そう心の中で叫ぶと、シンタローはサービスの腕を取った。
「おじさん、今日これからどーすんの? 夕メシまだだよな? だったら一緒に」
「いや、これから」
 苦笑するサービスの言葉を、マジックが遮った。
「ああ、シンちゃん、本当に嬉しそうだね」
 当たり前だろう、何を言いやがる、とシンタローは男を見上げる。
 赤い夕陽の中、赤い軍服の男は、また、にこっと笑った。そして夕食のメニューを決める時のように、さらりとこう言った。
「じゃ、しばらく一緒に修行しておいで」
「へ?」
 その瞬間、シンタローの平坦な日常に変化が訪れた。



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『なぜ、僕が』
 サービスがそう尋ねた時、兄はうっすらと微笑んだのだ。
『秘石眼を持つことなく青の力を統御できる者は、お前しかいない。シンタローを指導するには、最適の人選だと思うがね』
 無意識に自らの空洞に手をやったサービスは、金髪の上から静かにそれをなぞった。なぞれば、過去の蓋が開く。思い出す。
 サービスは薄暗い部屋の中で、溜息をついた。



 ――眼を失った後も。
 直截的な青の力は失われてはいたものの、青の余韻はサービスの身体に色濃く残り、彼を苦しめた。
 一人きりで耐えた。苦しんだ。よき理解者ルーザーは消えた。弱みを他の兄弟に見せる訳にはいかなかった。
 若い身体はきしみ、悲鳴をあげた。無知は無知なりに、試行錯誤を重ねた。
 その果てに、いつしか彼は、青の気を一点に集中させることができる自分に気が付くことになる。
 『放つ気が変わったな』と亡き兄の祈念式で長兄に言われたのも、その時分だった。その頃すでにマジックは、胸に黒髪の子供を抱いていた。
 散々迷ったあげく、自分に起きたことの結果のみを嫌々ながら長兄に告げると、彼は次の遠征に自分を伴い、サービスの力を試した。
 そしてこう言った。
『……やはりお前は優秀だな。眼を失いながら、その能力に目覚めるとは』
 低脳だな、の間違いではないのかと、サービスは内心で嘲笑ったのだった。
 眼を失って初めて、身体に残る青の力を、統御できるようになるなんて。
 そしてその遠征で、初めて実際に長兄の力を目の当たりにし、サービスはますます自分と彼とは遠いと感じ、逆に近いと感じ、嫌悪と憧憬、常なる混濁した気持ちを抱いた。
 過去の記憶。そしてそれに連なる現在。
 兄との会話は、空しく続く。



 今、シンタローは17歳。それを手放して、僕に預ける。
『贖罪のつもりですか……?』
『何がだ』
『……いいえ』
 サービスがつい口にした言葉には、責める意が篭っていたかもしれない。
 持つ者が、持たざる者にその持たざるが故に命令を下すということに、腹立たしさを感じていた。
 相手は窓の外を見ている。そのまま、こう呟いた。
『シンタローはお前にひどく懐いているじゃないか。お前と一緒に修行できるとなったら、喜ぶだろう。私はあの子の喜ぶことをしてやりたいんだよ』
『本当にあなたは馬鹿になりましたね』
 吐き捨てるように言ってやった。しかし返ってくる言葉に、こたえた色はない。
『昔より、お前は賢くなった。そして私は馬鹿になった。釣り合いが取れていいじゃないか』
『そんな戯言を。あなたと僕のバランスなんて……くだらない』
 あなたと僕とは、最も相容れない者同士であると。あなたは自分で、そう言った。
 それから幾つかの言葉を重ねた後、兄は、ぽつりと呟いた。
『お前にしか、あの子のためになることはできない。私には、無理だ』
 それを聞いてサービスは、兄が持たざる者の気持ちを知ることができないように、自分もまた持つ者の気持ちを知ることはできないのだと感じたのだ。
 次の瞬間、心に亡き兄ルーザーの面影が揺らめき、敗北者にしか敗北者のことはわからないのだと捨てられたような心地がし、また疎ましいと思ったのだ。
 自分とルーザーの列に、シンタローを入れろということかとも思い、いやそんなはずはない、マジックは自分を敗北者ながらに利用しようとしているだけなのだと思い直し、諦めと憎らしさが入り混じる、どろりとした想いを抱いたのだ。
 だから、こう言わずにはいられなかった。
『どうなっても知りませんよ』
『預けたからには、私は手を放す。お前の自由だ。なんなりと好きにすればいい』
『今度は、僕が奪うかもしれませんよ』
『……好きにすればいい』
 兄は言葉を切ってから、静かに言った。
『お前とあの子は、似ている。その想いを……解消し、楽にしてやって欲しい、と。私は考えている』



「おじさん! はい、お茶!」
 ふと気が付くと、シンタローが隣席からティーカップを差し出してきていた。受け取ると、熱い湯気が顎を包み、淡い香りが鼻をくすぐった。
 わずかの浮遊感とプロペラの回転音と暗い窓、地上のきらめく灯りと星空の灯りの入り混じる夜。
 食事をとった後、自分はヘリの窓から外を見つめて意識を泳がせていたらしいと、サービスは人知れず笑う。そして隣のシートに座る甥の嬉しそうな顔を見、ゆっくりとカップに口をつけた。
 乗り込んだ大型ヘリの中は、何かと騒がしい。すっかりシンタローは旅行気分だ。何くれとなく自分に話しかけては、窓を覗き込んだりリュックの中を掻き回したりと、忙しい。
 すでに幾つもの海、幾つもの山、無数の雲を抜け、夜を飛んでいる。
 自分と、修行に行く。
 突然のことであったはずなのに、シンタローは事態を理解すると飛び上がって喜んだ。
 日常に飽いていたとはいうが、ここまであっさりと受け入れるとは、思わなかった。
 すぐに軍舎と本邸に戻り、研究所でグンマにひとしきり自慢をし、それから何やら大荷物をウキウキと担いで、シンタローがヘリに乗り込む姿を、マジックは笑顔のままで見ていた。
 自業自得だ。馬鹿な兄さん。
「おじさん! おじさん!」
 甥っ子の弾む声に、サービスは睫毛を軽く動かす。
 それだけで相手は、自分が聞いていることを了解したのだろう、また急いで言葉を紡ぐ。時が惜しいというように、喋る。
 これからしばらくの間、サービスは何処にも逃げないのだとわかっているのだろうに。
「あのさっ、おじさんが旅したトコ、連れてってくれるんだろ! 俺、ずっとおじさんと一緒に旅がしたかったんだ!」
 シンタローには、自分が本部を離れている間は、旅をしている、と告げてある。
 それにしても、このはしゃぎようは、どうしたことだろう。
 サービスは美しい顔を傾げて、苦笑した。
「これは旅じゃないよ。修行と兄貴は言ったろう」
「そだね! 修行! 俺さ、ずっとおじさんに色々教えてもらいたかったんだ! たまには親父のヤツも話がわかりやがる! だっておじさん、すっげェ強ぇーんだろ? 俺も強くなりたい! 俺、おじさんみたいに、強くなってさぁ、そんでさぁ……」
 黒い瞳に、自分の顔が映っている。



 紅茶とクッキーを平らげると、シンタローは少し眠くなったらしい。
 シートに右肩を横にして埋もれて、瞬きが多くなり、語尾を弱らせながらも、しかしそれでも自分に向かって話を続けていた。
 まるで縁日を待つ子供のように、それだけで心が占領されてしまっているという風に。
 こんな所はジャンというより誰かに似ている、とサービスは感じ、そして窓の外に目を遣った。
 すると何かを感じ取ったのか、シンタローが思い出したように話題を変える。
「さっきハーレムおじさんがさあ、兄貴に聞いたぜ、修行するんだってなって、ヘリ乗る前にやって来てさあ……」
「……」
「餞別だって、コレ、くれた」
 これ、とシンタローが指差したのは、リュックから覗いているスナック菓子だった。
「ったく、親父といい、いつまでも俺ンことガキだと思ってんだよなー! 見てろー! 俺、おじさんと修行して、もーメキメキバキバキ強くなってやっからなー! そーなったらもーあんな口、きかせてやんねーからなー!」
 サービスは再び先刻を思い返す。
 本部で自分もまたハーレムと擦れ違ったのだ。相手は自分を見たが、無視してそのまま正面を見て歩いた。
 だがその双子の兄の瞳は、不快感と共にサービスの片目に焼き付いて、離れない。
 あの物言いたげな瞳が自分は気に入らないのだと、サービスは思う。自分は彼を、振り返りもしなかった。
 歩き去る間中、背中に彼の視線を感じていたが、それも自分が廊下の角を曲がると消え、消えたことに安堵した自分さえもが気に食わなかった。
 ハーレムのあの、わかったような視線が、嫌だ。
 ――幼い頃。淡い霧の向こうの記憶。
 双子のハーレムは、あの子供時代と変わらない。
 サービスが元気な時は何とかしてそれをへこませようと煩いのに、いざサービスが病気になると遠巻きにして近付いてこなかった、子供時代の習慣、あの時と同じ。その状態が今はもう十数年も続いている。
 それは、片割れにかける言葉が見つからないからなのだ。
 幼い頃は、それでも自分の病気が治ると、堰を切ったようにまた悪戯を仕掛けてきたハーレム。
 今は決して治ることのない、この鬱屈。
 ハーレムにとっては、今の自分は、労わって避けなければならないほどに病んだ者であるのかと、サービスは胸が痛い。
 その痛みが、憎らしい。



 ハーレム。お前は、何も僕のことなんか、わかっちゃいない癖に。
 一番よくわかっている筈で……一番よく、わかっちゃいない癖に。
 一番近しい癖に、と自分はハーレムのことを無条件で感じているのだと、サービスはまた胸に燻る炎を想うのだった。
 サービスの憎しみは、長兄に対しては甘えの裏返しだったが、ハーレムに対しては同属嫌悪のそれであるのかもしれなかった。
 サービスは自分の懊悩は、自分のみが迷い込んだ螺旋迷宮であるのだと思っていたし、自分の内面は自分だけのものにしたかった。
 それなのに。何でもわかっている、というあの瞳は、見たくない。
 すべてを共有している、という色をした瞳は、汚らわしい。
 ……隣ではシンタローが、変わらず言葉を紡いでいる。
「えっとさ、ハーレムおじさんの部下って、見たことある? すっごいヘンなオッサンばっかでさあ、特戦部隊とかって……酒乱ばっか。類は友を呼ぶっていうヤツかなあ」
「……」
 ハーレム。
 あいつはあいつで、精一杯にやっているのだろう。強くなりたいと叫んでいた、幼い頃のあのままに。
 時折、自分も噂を耳にする。戦場の噂だ。
 今、サービスは心の奥底で感じている。
 あいつは、僕から離れて、一人遠い所に行ってしまう。時を過ごし、人としての業を積み続けている。成長しているのかもしれないし、またその逆かもしれない。何にしろ彼は、変わり続けているのだろう。
 その真っ直ぐな本質は変えないまま、貪欲に強さを求めて、前に向かってその力を変化させ続けていくのだろう。
 僕はこの長い年月を空白のまま、あの初陣の時のままで、心に何一つ新しいものは得てはいないというのに。得たものは、汚らわしい青の力の制御だけ。
 元は同じものとして生を受けたのに、変わる者、変わらない者、切り裂かれる双子。
 取り残される。
 孤独でいたいのに、共有されることに憎しみを覚えるのに、取り残されることには恐怖を感じる。
 この矛盾。僕はこの矛盾が、苦しい。
「あ、でも、後で色んな人とかに聞いたら、あの人ら、すげー強いとかいうけど、ホントかよ? そーいや自分で『戦場の鬼』とか言ってたし。知ってる? サービスおじさん!」
「いや……」
「フーン。ま、どーでもいーけどね! ハーレムおじさんって、どうせ稼いだって、すーぐ飲んじまうし、意味ねーよナ! 甥にまでメシをたかろうとすんだぜ、みっともねーよ! いっくら強くたって、サービスおじさんみたいに、カッコよくないとな〜!」
 サービスはふと左胸を押さえ、くすりと笑った。
 シンタローがそれを見て、自分に微笑みかけたと思ったのだろう、白い歯を出して、にこっと笑い返してくる。
 その笑顔を見ながら、おかしなことだ、とサービスは一人思う。
 そうか、僕はハーレムにも嫉妬していたのだ。



 ヘリは夜を駆ける。じきに朝になり、昼になり、半日以上をかけてあの場所へと辿り着くのだろう。
 あの場所に。
 それを思うと、サービスは透明な気持ちになる。静かに凍りついていくような、そんな気持ちになる。
「そろそろドコ行くか教えてってば。ねえねえ、おじさん! おじさんってばー」
 気付けばシンタローは、先程から同じ質問を繰り返している。
 自分が曖昧にかわすからであっただろうが、未だ幼いのだと、サービスは傍らを見遣る。
 甘えている。
 もう17なのに。マジックが、そういう育て方をしたのだとも思うし、シンタローは自分の前では必要以上に幼くあろうとしているのかもしれないとも思う。
 これから行く場所はね。知りたいかい。
「……俺の旅が、始まった場所だよ」
 それだけを答えてサービスは、シートに肩を埋めた。



「うわーッ! すげぇ大自然!」
 ヘリから降りて、開口一番。シンタローはこう叫んだ。
 大峡谷が、そこには広がっていた。
 聳え立つ山の峰、その切っ先は鋭く、口を開ける保水力の乏しい赤土と厳しい大地。乾いた空気。
 二人が立つ絶壁の下は、その底はぼやけて見ることはかなわず、谷間に僅かな針葉樹たちが砂塵に揺れている。小高い岩場の向こうからは、沈む太陽の赤い斜光が目を射る。
 斜光は岩肌を照らし、薄い水色の空を滲ませ、広漠とした空間に点在する巨岩を浮き上がらせている。
 尖塔岩、地卓は結晶をちりばめて、光の層を作り出し、その表情を波打つように変えていた。
 自然の織り成す芸術に見とれているシンタローに、サービスは声をかけた。
「シンタロー! リュックの中を見せろ」
「……?」
「リュックの中を見せろ、と言ったんだ」
「う、うん!」
 どこか上の空で、言われた通りにシンタローは背からリュックを下ろし、もぞもぞと中身を取り出し始める。
 大荷物だとは思っていたが。出てくるのは生活必需品。本。漫画。よくわからないが、重そうな花柄のタッパー。さらにさらに。
「ウォークマンにカメラにゲームボーイ……それと夜寝る時のヌイグルミ!」
 峡谷に影なす斜光に、ヌイグルミ6500円也の値札が、きらりと輝いた。
「全部いらん!」
「ああああああ――――ッッ!!!」
 シンタローの所持品は、サービスの脚によって、谷底に弧を描いて落ちていった。



「ああー! ああああ――ッッ!」
 未練がましく谷底を覗き込んでいるシンタローに、サービスは厳しく言った。
「それから服を脱げ!」
「あああああ――ッッッ! ……へ?」
「聞こえなかったか! 着ているものを脱げ!」
 目をぱちくりさせているシンタローに、さらにサービスが目で促す。
 すると、しぶしぶといった仕草で、彼はきっちり着込んだ上着を脱ぎ始める。
「う、う、何で……どーして、あんな、勿体ないコト……長い間大切にしてたのに……服だって、服だって、どーして、脱ぐんだよぅ……」
 ぶつぶつ呟いていたシンタローだが、突如、何やら妄想に囚われたらしい。
 途端に青ざめ、悶え始める。まるで生臭いものに全身を這いずり回られたような、奇妙な苦しみ方をしている。
「おッ、おじさん! 今、時空の狭間から何かがッツ!!!」
「俺には何も見えなかった!」
 妙に長い時間をかけて、やっとジーンズだけになったシンタローだが、やはり口を尖らせて文句を言っている。
「こんなカッコじゃ風邪ひいちまうヨ」
 剥き出しの腕が、小さく震えていた。夜になれば、さらに温度は下がる。
 自分は言った。
「風邪だけならいいがな……この辺は風土病も多いから気をつけろ」
 みい――――……ん。
 と、目が空ろになったシンタローの背後に、効果音が聞こえたような気がした。
 くるりと彼はサービスに背を向ける。
「俺、帰る!」
「どうやって?」
 自分の台詞に、シンタローは首をキョロキョロと振り、最初に荒れた大地、深い谷底を覗き込み、ヘリが飛び去った空の彼方を見つめ、最後に哀れっぽい目で自分を振り返る。
 辺りには夜の気配が立ち込め始めていた。
「迎えのヘリは半年せんと来んぞ」
 そう告げると。
 だーっと滂沱の涙を、シンタローは流した。



「……シンタロー。まず」
 構わず、サービスは言う。
 相手は、涙の跡を擦りながら、ゴクリと唾を飲み込んでいる。
 次は何が来るか、何が来るかと緊張している顔だ。緊張しながらも意気消沈している風なのが、おかしい。
 サービスは小さな笑いを噛み殺しながら、次の命令をシンタローに下した。
 こうやって命令するのは、楽しい。自分には意外と教師役が合っているのかもしれないと感じる。
「食事を作ってもらおうか」
「はぁ〜? 食事ィ〜?」
 サービスの言葉に、意外であったのかシンタローは目を丸くする。
「そうだ。お前に料理を習得してもらう」
「ヤだよ、強くなるための修行だってのに。ンなカッコ悪いの。恥ずかしーよ。料理なんてサ」
 シンタローの意識には、『料理』は男らしくないこととしてインプットされているらしい。
 ……ピンクフリルエプロンと大根を背負った総帥服の悪夢か。まあ無理もない。
 気持ちはわからないでもないので、少し優しくサービスは声音を緩める。
「じゃあ誰が食事を作るんだ」
「え、誰って」
「シンタロー、甘えるな。これはサバイバル訓練だ」
「!」
 そうピシリと言うと、彼は弾かれたようにこちらを見た。
「士官学校でも基礎的なことは習得しただろう……まず大切なのは、生存に必要な物資の確保。水と食料。さらには安全な場所の確保。俺はその基本をやれと言っているにすぎない」
「!!!」
「しかも食事とは、身体作りの基本だ。食用植物を見分け、食糧動物を捕獲し、糖類、脂肪、蛋白質、ミネラル、ビタミン類、各種どの栄養素をどう組み合わせて摂取するのか、過酷な状況から必要なものをどう選び取るかで、その人間の強さが決まる! 料理の真髄とは? ただただ生命を繋ぎ、または優雅に雪に酔い月に詠い花に想い自然を食むだけの糧であるのか? 違う! 男にとっては、強さへの道程、夢への架橋……」
「!!!!!」
「わかるか、シンタロー」
「す、すげえ! わかったよ、わかんないけどわかったよ、おじさん!」
 雪月花はともかく、強くなるため、と理解して、シンタローの瞳が輝きだす。
 すぐに彼は、腕を振り上げて宣言した。
「おじさん! 俺、やるよ! 頑張る! 料理作って、強い男になる!」
 そして張り切り始める。ヘリからサービスが降ろした僅かの荷物から、調理に使えそうなものを探し始める。
「ただし、俺は味には煩いぞ……?」
 甥の姿を見守りながら、サービスは厳かに言った。
 そして彼には見えないように、小さく溜息をついた。
 説得終了だ。
 とりあえずはシンタローを料理の達人に育て上げることが、先決だと思った。
 サービスにとって、日々を優秀なコックなしに過ごすことは、拷問にも近かった。



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 会いたいという連絡があったのは、シンタローとサービスが旅立って、すぐのことだった。
 先方から自分宛に連絡を寄越すのは、久しくなかったことだ。
 シンタローが別れの挨拶にと、彼女に電話をしたことは知っていたから、そこで何かあったのかと想像した。
 シンタローが関係していると思い至れば、自分は会わない訳にはいかない。向こうもそう考えているのだろう。
 すでに女――シンタローの母親――は、この地に来ているという。
 お止めしたのですが、と警備兼監視につけている部下が、怯えながら報告をするのを聞き流してから。
 マジックは普段通りにその日の仕事をこなし、夜も更けてから本邸に戻った。



 月光に青褪めた廊下は、静寂に満ちて冷たく感じられた。
 硬い自分の靴音だけが響く、大理石の回廊。温度のない滑らかさ。
 アーチ型に黒く縁取られた大窓の隅に、中庭の温室が見えて、マジックは薄く瞬きをした。
 こんな静かな夜は、彼の気配を感じる。白い花の男が、自分を呼ぶ。
 愚かな。
 彼は唇の端を歪めて自嘲気味に笑うと、歩を緩めずに、その場所を通り過ぎた。
 そして廊下の奥、客間の扉の前に立つ。
 躊躇なしに、手の甲でそれを軽くノックした。



「しばらくですね」
 自分がそう口にすると、相手は微かにこちらを見、すぐに俯いた。
 スランバーランドの旧式の椅子が、小さくきしんだ。
 肩に垂らした艶のある黒髪が、橙色の室内光に滲んで揺らめいている。
 この部屋から見る窓の外はひときわ暗く、女の髪と瞳と同じ、夜の色をしていた。
 彼女と顔を合わせることは、自分がシンタローを引き取ってからは幾度あったか。
 会う度に、変わらないなという想いだけをマジックは抱く。
 自分に向ける険のある目元は、実子のシンタローに会う時には、和らぐことを知っている。
 療養施設にいることになっている彼女だが、実際は世界各地に家を与えて好きにさせていた。
 その間、監視役からは特別な報告を受けた覚えはないから、さしたる無茶も目に余る放蕩もしていないのだろうという推測のみで、マジックは長い間、女を認識していた。
 もともと行動は地味な女だ、僅かに手を焼かせたのは、あの逃げ出した時だけ。もしくは最初に……出会った時か。



 マジックは許可を求めると、女の向かい側の椅子にかけた。脚を組む。
 すると女は顔を背ける。沈黙が部屋を支配して、時が過ぎる。
 こうして二人だけで向かい合うのは、十数年振りのことなのかもしれなかった。
 少なくとも、自分の記憶にはない。
 彼は、自分に煙草を吸う習慣でもあれば良かったろうにと、埒もないことを考えた。
 女の横顔は繊細で、その肌には年月の流れは感じられなかった。
 変わらない、出会った時と、同じ姿をしているとまた思ったが、自分がただ昔を忘れているだけなのかもしれなかった。さて、どうだったか。
 女性には不躾だったかもしれない視線で、しばし見つめていると、やがて女は口を開いた。
 声を出しているのに、さも自分には聞かせたくないというような、相変わらずの小声。
 シンタローがいないから私は来たのだと、その唇は言った。
 女がシンタローを愛していることは知っていたから、マジックは違和を感じた。



 そして女は言う。
 あの子は、あの男に似てきた、と。男の名前も正確に口にした。
 マジックは表情を変えずに、それは貴女の思い過ごしですよ、と言ったが、彼女は黒い瞳で自分を見た。気にならないのか、と問われた。
 見つめられて、彼は、ここにも自分の隠し事を知っている者がいたのだと、今さらながらに気付いた。
 迂闊だった。女は、夜に朝方に、あの男の姿を一族本邸等で見かけたことがあったのだという。ありうることだった。
 そして彼女は言う。シンタローにそれを告げると。
 脅しているつもりなのだろうか、と思った時。
 その瞬間、マジックは初めて女を哀れだと感じた。
 数多の人間の一生を台無しにしてきた自分であるが、この女もその内の一人であるのだと、知った。
 しかし、そのほとんどは自分の目の前から消えていくばかりであるのに、この女は、こうして現れた。
 それだけで、自分にとっては、彼女はすでに特別な存在であるのかもしれないと、マジックは人知れず想う。
 彼は小さく溜息をついた。
「……貴女は私に何を望まれるのですか」
 そう問うた時、女は黙っていた。
 それがマジックの胸に浮かんだ、最大の疑問だった。彼女は、自分に何を望んでいるのか。
 長い歳月の間で、今、初めて気付いた。
「シンタローに会う時以外は、御自由に、どうぞお好きにと言ってありますよね。何をしてもいい。拘束はしない。子供を生み、産褥を生き残り、今でも時々はあの子に会って下さって、貴女は私にとって十分すぎる程の人です。それなのに貴女は……何故、私を待ち続けているのですか」
 それでも相手は沈黙している。
 この女の顔を見たのは何度あったか。とマジックは再度想う。見る度に忘れるような気もし、見なければ思い出すような気もした。
 こうして相対していても、何とはなしに朧だ。
 シンタローとこの女が会う度に、自分はその場に居たこともあり居ないこともあり、常に何の感慨もなく、書類にサインを入れるように、決まりごとをこなしているような気持ちでいた。
 繰り返しの日々の、歯車の一つでしかなかった人間。
 その存在が非日常として、こうして自分の目の前に現れたことは、それだけで不思議だと思われた。
 だからもう一度言う。
「仰って下さらないと、私にはわかりません」
 そのまま、また時は過ぎた。
 薄く開いた窓からは、薄く開いただけの夜風が舞って、音を立てずにレースのカーテンを揺らした。
 しばらくして、彼女の形のいい唇が小さく開いた。
 あなたが。
 私の子、シンタローに気持ちをおかけになっているのなら、それが親子の情であれ何であれ、構わないのです。
 女は曖昧なことを呟いた。
 だが、あの子があなたの側にいない今、私には、自分が一人でいることが耐えられない。



 不思議な情のかたちだと思った。
 女の理不尽さに、どうしてかマジックは、初めて微かに自分の心が揺らぐのを感じた。
 それは同情であったのかもしれない。
 この女は似ていると思った。誰に? 自分に。
 自己愛は裏返せば憐憫で、憐憫は裏返せば寂寥で、このままこの女を帰せば、自分の前には、かわりにルーザーが現れるのだろうと思った。
 マジックは女の手を恭しく取った。柔らかいと感じた。
「東洋人は年を取らないと言いますが、本当ですね」
 低く囁くように、しかし確かめるようにマジックは言う。
「貴女は、過去の時間にいまだ住んでいる。私が残し忘れてきた、消えた時間の中に」
 女は答えなかったが、その触れた手が、震えていた。
「いつまでも……変わらない……」
 さらにマジックは指を伸ばし、そっと彼女の顎の輪郭をなぞった。
「……覚えていますか。昔、私は貴女に尋ねましたね。最初の夜です。『私でもよろしいですか』と。あの時の答えを、今、聞かせて下さい」
 伏せた黒睫毛が、長い。
 マジックは、もう一度尋ねた。
 あの時。
 私で、よかったのですか。




 声が聞き取れて、それが答えだった。
「貴女は変わらない。貴女は過去のままだ。私の過去の矛盾そのものだ……だからこそ全ては思い出で、貴女は変わらず美しい」
 そして白く細い指先に口付け、女の顔を見遣る。
 気丈な女であると思っていたのに。
 涙に濡れる顔を、初めて見たと思い、マジックは薄い唇で、そのまま謳うように呟いた。
「まるで、あなたへの時間は止まったように」




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 闇が蠢いていた。
 ひとときの喧騒が過ぎて、静けさの中に炎が揺らめいている。
 サービスは闇を見つめ、ぞくりと肩を震わせた。
 夜の中で白銀にも輝く長髪が、流れるように滑り落ちた。柔らかく炎を照り返す。
 乾いた砂。この地は、変わらない。
 この荒れた地を選んだのには、訳がある。
 もう18年にもなるだろうか。
 18歳だったあの日を折り返し地点に、自分はさらに18年を生きた。
 先の18年は命ある年月。後の18年は……無為の年月。
 先の日々は思い出で満ち溢れているのに、後の日々は目を瞑ればすぐに通り過ぎていく。
 何も残らない日々を、俺は、僕は、重ねてきた――



 焚火の明かりは淡い。
 はぜる火の粉、揺らめく炎、その影。
 僅かに離れた岩陰に、サービスの姿が黒影として妖しく映し出されている。
 揺らめく、僕の影。闇に溶け込むようでその寸前で留まる、さもしい幻影。
 そしてその影の下、巨大岩を背にして、眠る黒髪の子供。
 いや、もう子供とはいえない顔を、体つきをしている。
 身体を丸めて、寝息をたてて、僕の側で安心しきって、眠りこけている。
 先刻、まずはと持参の携帯食材を使って食事を作らせてみたが、とても自分の口に合う代物ではないので、捨てさせた。
 士官学校で最低限の調理法は学んでいるはずだが、味付けが悪い。
 五度目に、初めて自分は首を縦に振った。
 すると、おそるおそる上目遣いに自分の顔を窺っていたシンタローは、とても嬉しそうに笑ったのだった。
 今日は座興で終わった。明日から何をやらせるかは、まだ考えてはいない。
 兄は自分に、秘石眼なしに青の力を統御することを、シンタローに伝えて欲しいのだと思う。
 表向きは。裏の理由は、邪推した所でわからない。そもそも裏など、ないのかもしれなかった。
 自分はそれを受けて、思い立ったまま、衝動的にこの場所に来てしまった。
 同じ顔をしたこの子を連れて。
 暗い夜空に、星が瞬く。



 サービスは、薄青の瞳に闇と炎とを映しながら、星空を見上げている。
 思い出す、あの日の静寂。物音一つしない世界だった。
 過去の自分は、青い力の衝撃に失った意識を、取り戻してからしばらく、同じ星空を見つめていたのだった。
 シンタロー。
 お前は知らない。
 昔、この場所で、お前と同じ顔をした男が、血塗れで息絶えた。



 あの日から、僕の時は止まったまま。
 こうして闇を見つめていると、今も蘇るあの僕を呼ぶ声、笑顔。
 あの日から、同じ夢を見続けている。何も知らない、幸せだったあの日までの夢を。
 還りたいと、常に願った。還ること叶わず、僕はあれから、それまで生きただけと同じだけの時間を、無為に重ねた。
 そろそろ、決着をつけてもいい頃だろう……?



 僕はもう一度……お前を殺さなければ、あの頃の僕には戻れないような気がして、ならない。
 揺らめく炎、情念の闇。この火は、消えない。
 眠れない夜を、いくつ重ねれば許されるのだろうか。
 お前は僕のために死んだのか。そして僕は、その罪のために生きるのか。
 なんのために生きるのか。
 兄さん、あの時、僕に生きろと言ったのは、あなたの復讐だったのですか。
 そして今度は贖罪。あなたの考えることは、僕には理解など、できないのです。
 僕は、もう一度……あの男の代わりに、シンタローを殺すかもしれませんが、それでも構いませんか。
 自分自身を取り戻すために。
 ――ジャン。
 僕を執着させる人。僕はもう一度、お前を殺して、還りたい。執着を絶たなければ、僕は本当の自分へと戻れない。
 お前が僕を奪い続けた、長い年月。囚われ、悩み、悔やみ、苦しみ、自らを責め続けて兄たちを恨み続けた、僕の執着。
 すべてはその存在へと、あの失われた笑顔へと繋がっていく。
 それが、僕が焦がれてならない、あなたへの時間。






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