砂の記憶

BACK:7-2:あなたへの時間 | 長めの話 | HOME | NEXT:8-2:砂の記憶


 それは、ひとつのかたちをした幻だった。
 突然、寂しくなって泣き出したくなる時がある。
 でも大概、涙は出なくて、喉の奥に何かが引っ掛かったままで、その日一日を過ごす。
 そして曖昧な気持ちのまま、眠りについて忘れてしまう。
 だがその何か、は、自分が忘れても奥底に確実に溜まっていくのだ。
 砂時計のくびれに引っ掛かった砂は、時間を止める。
 こうして闇を見つめていると、今も蘇るあの僕を呼ぶ声、笑顔。
 ――僕の時間は、あの時、止まったまま。



 頭が痛い。
 漠然とした意識の向こうで、音楽が聞こえる。高松が見つけてきた古いレコードだ。
 兄ルーザーの言い付けで、研究所の倉庫を整理している時に見つけたのだという。
 みんなで寄り集まって、お茶を飲みながら大騒ぎした。
 誰も音楽なんか聞いちゃいないんですね、とムッとしていた高松も本音は嬉しそうで。
 題名のないレコードから響く、かすれたヴァイオリンの音が何かの動物の鳴き声に似ていると、ジャンがやたらにしつこく主張していた。
 全く、あいつは変なものに詳しいんだから。動物とか自然とか食べ物とかを語らせたら、もう。
 ……グワァァァァァァン……。
 弦楽器の音が突然大音量となって耳を襲う。
「!?」
 いつの間にか自分が暗く冷たい場所にいるのがわかる。
 笑いさざめいていた友人たちは消えている。辺りを見渡しても闇しかない。
 一人ぼっち。一人だけの世界。一人は嫌だ。一人は怖い。
 置いていかれる。
 ……海。粘つく泥の海。泳げない。溺れる。
 助けて。
 ――ジャン。
 ジャンはどこ?
『ジャン!』
 そう自分が叫んだ声で意識が覚醒した。吐く息が荒く、体中が熱くて痛い。
 割れるような頭痛。傷口に砂を塗りこまれるような鈍い痺れ。カラカラに乾いた喉と舌。
 サービスは体の下の固い岩を感じた。今自分がいるのはおそらくあの岩場。
 自分達二人は、敵兵に囲まれたはずだ。
 ――いや。
 敵などいなかった。
 サービスは、粘ついた汗を肌に感じながら、暗闇の中に身体を起こす。傍らを苦しげに見遣る。
 自分の側に眠っているのは、死人と同じ姿をした、生者だった。



 陽が昇るまで、サービスは、絶壁の上に佇んでいた。立ち昇る濃密な霧が、造形美を織りなす峰を覆っていた。
 闇は次第に薄れゆき、静かに衣を揺らせて、東の空の輝きに溶け出し始める。黎明が荒涼とした大地を抱き、微光の中に、骸骨のようにも見える岩肌に生を与えていく。
 静かな朝だった。
 苦しみの夜が、嘘のように。
 静かな、朝だった。



-----------



 香ばしい匂いと、気配には、勿論気付いていた。
「おはよう! おじさんっ!」
「……おはよう」
 サービスが、朝食の用意をし始めたらしいシンタローの側に行くと、彼は自慢げな顔をこちらに向けてきた。
 そして、待ちきれないといった素振りで、目を輝かす。
「おじさん! できたっ、できたよっ! コレ、絶対オイシイ! 味見して、ピンときた!」
「わかったよ、そう急くな」
 早起きしたらしいシンタローは、飛行機に積んであった携帯食材の組み合わせを、研究していたらしい。
 熱心で結構なことだ、と、サービスが手近の岩に腰掛けると、側の平岩で、何かが朝陽を受けてきらりと輝くものがある。
「あ、それ……ごめん、おじさん……」
 急に決まり悪げな様子で、もじもじしているシンタローを、サービスはゆっくりと見遣る。
 話を聞けば、昨日、自分が崖下に捨てさせた、リュックの中身だったのだという。
「気になって……崖、覗いたら、さ……途中で、それだけ引っかかってて……だから、取ったんだ……なあ、おじさん、これだけ、いいだろ? これ、料理作るのにも役立つし! 小っさい頃から家にあって、俺のお守りみたいなモンなんだ」
 それは、小さな砂時計だった。
 サービスがやれやれと頷くと、シンタローは満面を笑みにして、『じゃ、じゃあさ! おじさん、食べて! 食べてよ!』と皿を差し出してくるのだった。



 サービスは、その炒め物を口に含んだ。
 さくりと小気味いい歯ざわりがする。確かに昨晩とは違い、味は薄すぎず濃すぎず、程よいバランスを保っている。
 携帯食材を使って、よくこの味になるものだと、サービスは心の中で、率直に感心した。
 シンタローには、料理の素質があるのかもしれない。
 しかし……サービスは思い出している。
 この味には、何処かで覚えがあった。懐かしい味。
 ずっとずっと昔の……遠い幸せの記憶に、それは通じている。
「……」
 サービスは、長い睫毛を伏せて、しばらく沈黙した。
 そして、今か今かと自分の感想を待っている甥っ子に、こう言った。
「マジック兄貴が作る味と、似てる」
 するとシンタローは一瞬目を丸くして、それから露骨に不服そうな顔をした。
 唇を盛大に曲げている。ついには、ガーン、と効果音まで背負って、わなわな震えている。
「お前と俺とは、幼い頃に植えつけられた味覚が、同じだってことだよ」
 自分と同じ、ということを強調してやると、『えぇっ、おじさんと一緒?』と、やっとシンタローは渋面を解いたのだが。
 しかし、未だ納得できないようで、逆に発奮しているようだ。
 朝陽の昇る中、断崖絶壁の上に立ち、何やら大声で宣言している。
「決めたぞ〜! 俺、料理頑張る! 頑張って、俺だけの味を目指してやる――――ッ!」



「その意気だ、シンタロー!」
 昇った太陽の強い日差しが、師弟二人の影を模った。きらきらと、花崗岩の砂風が舞った。
 シンタローの料理の上達は、自分のこの半年の食生活に関わることもあって、サービスは彼を煽っておく。
 サービスに言葉を貰って、シンタローはますます意気込んでいる。
 そんな甥を見ながら。
「……」
 サービスの脳裏に、ある考えが浮かんだ。
 迷わず、静かに告げる。
「シンタロー。俺はこれからお前に、毎日課題を出す。それを、こなせ」
「!!!」
 絶壁から振り返ったシンタローの顔が、逆光の中で、緊張していた。



 こうして、翌日から。
「おっ、おじさんを、飢えさせる訳にはいかね――――ッ!!!」
 シンタローの料理への道は、始まった。



----------



 今日のシンタローは、目も眩むような絶壁を降りている。
 士官学校でロッククライミングの最低限の知識――学校の知識というのは、いつも実戦では最低限でしかない――は弁えていたものの、勿論、こんな場所は経験したことがない。
 崖上の巨岩の出っ張りに太いロープを二本かけて、一本を身体にしっかりと巻きつけて、一本を崖に沿って垂らす。
 両手でそれを各々に握り、両腕と両脚とを突っ張らせて、岩の窪みを探りながら、ゆっくりゆっくりと降りていく。
 体重をかけることができるような場所は、限られていたから。
 油断すると、すぐに足場は崩れ、底すら見えない遥か下方へと、乾いた音を立てて、欠片となって落ちていく。
 これではいつ何時、シンタローの体も欠片となって落ちていくのか、わかったものではない。
「わっ……」
 また、ロープを握る手が、滑った。
 シンタローの手は、素のままである。懸命になればなる程、汗をかく。そして、滑る。
「……く……」
 バラバラと弾けた岩片と一緒に落下しそうになって、シンタローの身体を結ぶロープが、大きくしなり、揺れた。
 むき出しの腕で、岩面に摩擦によって何とかブレーキをかけ、シンタローは踏み止まる。
 危ない所だった。心臓が、どきどきと脈打った。
 両腕の擦り傷からは、赤い血が滲み出していた。それを、彼はぺろりと舐めた。これぐらいですんで、良かった。
 ちらりと、足下に目を遣ると、
「おし!」
 そう自分に掛け声をし、叱咤して、また、そろりそろりと下方の足場を探して、つま先を伸ばしていく。
 降りる度に重くなるように感じられる、自分の身体の重みと、戦いながら。
 彼は、標高3000m以上の断崖にしか巣を作らないコンドルの卵を、手に入れようとしているのだった。



 じりじりと太陽がシンタローの肌を照りつける。
 腕が、痺れてきた。使い慣れない背筋も、震えているような気がする。脚が、がくがくする。
 シンタローは、自分が降りてきた崖を、顎を動かして見上げた。
「……」
 首筋に流れ落ちる汗が、ひやりとする。
 自分としては、相当の距離を降りた気がしたのだが、想像の半分にも足りてはいないと、立ちはだかる岩壁は告げている。
 しかし無論、ここで止める訳にはいかないのだ。黙々と、シンタローはまた崖を降り始める。
 硬岩に擦れる、自分の肌の音ばかりが、聞こえている。



 途中、岩肌に巨大な亀裂が口を開けていることに気付き、慎重に身体をずらし、水平に移動する。この作業は、真下に下りるよりも、さらに緊張を伴うものだった。
 すると、シンタローの左手が、頭上を覆うようにして張り出した、大岩に触れる。オーバーハングというやつだ。崖面に突き出た岩が、進路を阻む。
 シンタローは、一瞬で意を決すると、
「たぁっ!」
 切り立った崖を、右足で蹴って勢いをつける。そして、左手を伸ばして、岩先を掴んで、腕一本で巨岩にぶら下がった。
「……ぐ……う……」
 震える腕、滑る指、割れる爪。
 しかし、また彼は腕を軸にして、反動をつけると、背中を弓なりにそらして、バク転をし、岩の上に着地した。
「はぁっ……はぁっ……」
 流石に息が切れて、シンタローの身体から、どっと力が抜けて、彼は巨岩の上にへたり込む。
 空気の薄い、澄んだ空には、白い雲がぽっかりと浮かんでいた。
 風の流れは穏やかで、雲は、先刻からずっと同じ場所で、シンタローを見守っているのだった。
 それを見るとシンタローは、再び頑張ろうと思うのだ。



 コンドルの巣は、侵入者を阻むように、木切れが張り巡らしてある。
 それを用心深く押しのけると、シンタローは、巣の中央に鎮座する、大きな卵に手を伸ばす。
「へへ」
 殻は、陽の光に当たっていたためか、熱を含んでいるようだった。
 10cm大のそれを、背負ったリュックに、ころりと転がして、
「うしっ!」
 シンタローは、自分の両の頬を、両の手で、ぱちんと叩く。
 長居は無用とばかりに、遥か頭上を見上げ、後はこのロープを登るばかりと、自分に気合を入れ直す。
 そして彼が、来た路を戻り始めた、その時だった。
 風を切るような音がした。
 嫌な悪寒がした。恐る恐るシンタローは、背後を振り返った。
 巨大な赤灰がかった黒い翼。曲がった嘴。大型獣の皮膚を切り裂く、獰猛な爪。いつの間にか羽根を広げたコンドルが、雄大に円を描くように滑空飛行をしている。
 その鋭い目が、ギロリと剥かれて、シンタローを見た。
 彼の額に、今度はねっとりした脂汗が垂れる。
 見る間に、円を描くようだった怪鳥の軌道が、途端に直線に変わる。急降下して、シンタローに突撃してくる。
 シンタローは思わず、悲鳴をあげた。
「ウッギャ――――ッ!!!」



 ……その日、シンタローが崖を登った速度は、降りる速度の三倍にも達したという。
 コンドルの攻撃に全身を傷だらけにした彼は、美貌の叔父と、ほかほかのオムレツを食しながら、食べ物のありがたさに涙したのだった。



 この調子で。
「くっ、くっそぉ、大人しくしやがれっ!」
 すばしこい荒原の動物を、シンタローは駆け回っては捕らえる。
「よっしゃぁ〜〜〜〜〜ッッ!!! 日暮れまでに往復してみせる〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!」
 片道50キロの山岳地帯を走り、峡谷の狭間にある小さな街まで辿りつき、調味料や生活必需品を仕入れて、また戻る。
「自給、自足ッ!!!」
 黒土を背負って運んできて、岩陰に小さな畑を作り、作物を植えてみる。
 毎朝、遠方の谷間の湧き水から、木桶に水を汲んで、行って帰ってを繰り返す。
「オラ〜〜〜〜ッッ!!! かかってこぉい!!!」
 夜半になると現れる、野生の大角鹿と格闘する。
「……ッ……イテテテ……ちっくしょう、今度はワナだ! ワナてとっ捕まえてやるッ!」
 失敗すると、苦心惨憺してありとあらゆる罠を使い、茂みに潜んでいたりする。



 そして皿を差し出すのだった。
「おじさぁんっ! コレ、美味い? 美味い?」
 サービスは優雅にそれを食し、ふわりと微笑む。
「……ああ、なかなか頑張ったようだな」
「ほんとっ?」
 だがサービスは、シンタローの向上心を煽ることも忘れない。
 空に向かって、重々しげに呟く。今日のサービスは、こんな気分のようだ。
「しかし、何かが足りない気もする……酸味……かな……」
 叔父の託宣を受けたシンタローは、目を白黒させ、慌てだす。
「酸味? 酸味だねっ、おじさんっ! 酸味、酸味……おじさん、酸味ってどーすればいいんだろ? うわー、どーしよう、酸味……酸味かよ……」
「まあ俺は、美味ければ何でも構わない」
「ちくしょう、そんなの街でも売ってねえよ、あー、どーしよう……」
 そして悔しげに地団太を踏んでいる。



 その翌日のシンタローの腕には。
 医療用具として飛行機に積んであったエタノールと、往復100キロの山道を行って手に入れてきた赤ワイン、さらにはリンゴを初めとする数種の果実と木の実が抱えられていた。
「……こんな辺鄙な生産地にしては、まずまずの味といった所だね」
 と、座り心地のいい岩に腰かけて、ワインを鑑賞しているサービスの側で。
 シンタローはリンゴをすりおろしたり、木の実の殻を割って、表皮のネバネバ部分を取り出して、混ぜ合わせたりしている。
 そして、日の当たらない場所に岩を積み重ね、小さな閉鎖空間を作ってしまった。
 サービスに言う。
「酢! 俺、酢、作るよ! おじさん! これで発酵させんだ!」
 やるとなったら凝り性のシンタローは、手製の調味料まで作り出したのだ。



 そんな毎日を繰り返しては、ふと、シンタローは自分の腕を見ることがある。
「へっへー」
 フライパンを手際よく揺らしながら、彼はにこにこ顔になった。
 最初は苦しかった食事の用意も、だんだんに慣れてきた。
 半年という期間に比べて、まださほど日々を過ごしてはいないのに、確実に、この修行の成果は現れている気がする。
 自分の腕には、綺麗に筋肉が付き始めていた。
「おっと」
 フライパンから、ぱちんと油で飛び跳ねた具を、片手に皿で受け止める。
 何だか動作が俊敏になった気がする。色んなことに応用が利くようになった気がする。妙に自信がついたような気がする。
 ぱたんと音を立てて砂時計をひっくり返して、シンタローは煮物の鍋の蓋を覗き込んだ。
 うん、いい感じ。



 机代わりの平岩に、熱い料理を並べながら、シンタローは端然と佇む叔父に、言ったものだ。
「さっすが、おじさん! おじさんの言った通りだよ! 料理って、『男にとっての強さへの道程』だったんだな〜!!!」
 厳しいコト言うのも、味に煩いのも、きっとみんなみんな、俺を鍛えるためなのだ。
 何気ないようで、基本の体作りを、おじさんは指導してくれているのだ。
 シンタローの尊敬のまなざしの中で、サービスは長い金髪をかきあげる。
「フ……」
 そうして薄く微笑んだ叔父を、シンタローは心底カッコイイと思ったのだ。
 叔父は、一口料理を含むと、優しく頷き『かなり上達したな』と言ってくれた。
 そして喜ぶシンタローに向かって、さらりとクールに、こう告げた。
「明日の食事は、キャビアを添えて食べたい」
「おじさんっ! ココ、山の上ッッ!!! ソレ、魚の卵! チョウザメ! その課題は厳しすぎるって! どーやって! どーやって、取ってくればいーの、ソレ――――――ッ!!!」
 シンタローの歩む道は、なかなかに厳しいようだ。



----------



 その日、グンマがマジックと出会ったのは、訓練場を見下ろすことができる、特別研究棟の廊下でのことだった。
 そんな所で彼に会ったのは、初めてのことであったので、グンマは思わずビクッとした。
 マジックは、窓辺に凭れて外を見ていた。
 午後の日差しを受けて、彼しか身に着けることのない赤い軍服が光に映え、その横顔は半ば開いた大窓の外、青い空に向けられていて、その目は遠くの下方に注がれていた。
 相手が自分に気付いていることは、気配で何となくわかったが、彼が振り返ってくれたのは、グンマがごく近付いてからのことであった。
 マジックは、『ああ、グンちゃんか』とだけ言った。
 グンマは、『こんにちは、おじさま』と、ぺこりとお辞儀をして挨拶した。そして、背の高い彼を見上げた。
 彼は自分の無言の質問に答えてくれる気になったのか、軽い調子でこう言った。
「ちょっと高松に見せて欲しいものがあってね。運ばせるのも面倒くさいから、自分で来た。お前も高松の所に来たのかい」
「はぁい。わかんない所、聞きにきたんです」
 グンマは、手に抱えた革表紙の専門書を、遠慮がちな動作で示した。
 この特別研究棟には、高松専用の研究室があって、重要な研究にかかりきりの時の高松は、そこに泊り込むのが常だった。
 若年ながら正式に研究員となったグンマにも、一般研究棟に小さな部屋が与えられている。
 最近のグンマは、そこで個人研究に没頭し、専門書で自習をし、わからないことがあると研究所の何処かにいる高松に、それを尋ねに行くのが日課だった。
「……今、高松は、ちょっと手一杯らしいからね。質問は後にした方がいいんじゃないかな」
 マジックがそう言ったので、グンマは素直に頷いた。
 高松は、いつも忙しい。自分はその邪魔をしてはいけないのだ。
 甘える時は過剰に甘えてしまうグンマであったが、そういう分限も、また過剰なほどに弁えているのであった。



 マジックは、自分と話すのにも早々に飽いたのか、再び窓の外に目を遣っている。
 グンマも釣られて、同じ方角を見た。窓の外には、訓練場が広がっている。
 この場所では、修行に出る前のシンタローが、かつて毎日訓練をしていた。以前はグンマもこの廊下を通るたび、何度もその黒髪を目にし、シンちゃん頑張ってるなあと嬉しくなったものだ。
 今は、グンマの知らない顔の少年ばかりが、向かい合って整列している。組み手をしているようだ。活気溢れる掛け声や、気合を入れる声が、聞こえてきていた。
「えへ、みんな、頑張ってますねぇ〜、見てると、ぼくも頑張らなくっちゃって思います」
 当たり障りのない感想を口にしてから、グンマは、大きな目をさらに大きくして、自分の前に立つマジックに視線を戻した。
 しかし相手は、まだ窓の外を見たままだった。自分の感想に、相槌を打つでもなく、ただ訓練場を見ている。
 何だか、いつもと勝手が違う。
「……おじさま」
 なんとなく。
 マジックは、シンタローがいなくて寂しいのだろうと、グンマは了解した。



 そう思うとグンマの心に、何故だかわからないが、使命感のようなものが燃え上がった。
 シンタローは今、サービスと修行に出て、いないのだった。
 当分帰ってはこないのだという。こんな状況は初めてかもしれなかった。
 自分とマジックが、二人きり。間に、シンタローも高松もいないのだ。
 最初はこのシチュエーションに、どうしたらいいのか戸惑っていたグンマだが、急に道が開けた気がした。
 自分は、マジックの前に出ると自然に緊張してしまう。
 だって、ちょっと怖いから。偉い人だし。小さい頃から、彼に対しては、敬語を使っていた。
 だって、ハーレムおじさまとシンちゃん以外は、みんな使っているし、高松にもそう教えられてきたから。
 でも、今日のぼくは、ちょっと頑張ろう。だって、シンちゃんがいないんだから。
 意を決し、グンマは専門書をぎゅっと胸に抱きしめて、それから叫んだ。
「おじさまっ! よかったら……よかったらぁ! ぼくの研究室、見に来てくださいっ」
 物憂げな顔をしていた相手が、ゆっくりと振り向いた。



 マジックは、グンマを頭の天辺から爪先までを、じろりと眺めた後、言った。
「ああ。だがね、グンちゃん。時間が」
「ちょっとでもいいから、見に来てくださぁい!」
 ここで訓練場を眺めているということは、多少なりとも時間はあるのだと思う。
 だとしたら、シンタローのいない訓練場を見るより、自分の部屋でも見に来た方が、彼にとっても気晴らしになるのではないかと、グンマには思えたのだ。
 何となく――訓練場を見ている彼を、大それた言い方だが、放ってはおけなかった。
 シンタローが士官学校を卒業して軍に入った頃に、グンマにも正式に研究室を与えることを許可してくれたのは、高松の上申があったものの、最終的にはこのマジックだった。
 だが、彼は一度もその部屋を見に来てくれてはいなかったことを、突然にグンマは思い出したのだ。
 二人の間で、遠まわしな押し問答が続いた。
 グンマがマジックの前で、強く自分の意志を押し出すのは、そうあることではなかった。
 そのことに、多少なりとも興味を惹かれたのだろうか。
 最後にマジックは、首をかしげてこう言った。
「……珍しいね。どうしても?」
 グンマはここぞとばかり、意気込んだ。
「は、はぁい! どうしても、です〜 どうしてもっ!」



 数分後、ウキウキ気分で、グンマは特別棟から一般棟へと続く渡り廊下を、歩いていた。
 いや、歩いているというより、駆けている。いや、跳ねている。
「こっちです! ぼくの部屋は、こっちの右の方なんですぅ〜」
 そして後から続く、軍靴の音。
 嬉々としてグンマは、説明をした。
「えっとですね、ぼくの部屋、一階だから、お庭がね、お庭が見えるんです」
「ああ……そうだろうね」
「窓を開けるとですね、すうっと素敵な風が入ってきて、すっごくいい気分になれるんですよぉ」
 グンマが貰った部屋は角部屋で、研究所専属の植物園を兼ねた、庭に面していた。
 部屋に近付くにつれ、廊下の窓の景色が、どんどんと緑に変わっていくことが、グンマにとっては密かな自慢だった。
 スキップを踏みながら、背後に長めの金髪を揺らして振り返り、嬉しげに言う。
「あのですね、ぼく、庭の草木に、毎日、お水やってるんですよっ! それでね、観察日記もつけてるんです!」
「そう。高松の生化学研究の手伝いにもなるかもしれないね」
 きちんと返ってくる言葉が、嬉しかった。
 この伯父がこんな風に自分だけに構ってくれるのは、初めてで。
 ただでさえ、人と接することの少ないグンマは、舞い上がっていた。
 グンマは人恋しい質であるのに、身近な人間が、ほとんどいなかったのだ。
「はぁい! 高松の植物の研究、凄いんですぅ! 生化学専門なのに、科学も凄くって……」
「そうだね」
「えへ、それでね、えっとですね、」
「ほら、グンちゃんの研究室はここだろう。もう着いてるじゃないか、扉を開けて」
「はぁい! えっと、鍵、鍵……」
「ポケットから出てるよ。それが鍵なんじゃないの」
「えっ、あ〜、ほんとだぁ! じゃあ開けます〜」
「なんだか危なっかしいなあ。ここも予算をつけて、本人照合式にした方がいいかもしれない……だが……どうだろう……」
 何やら大人の事情を呟いているマジックを他所に、グンマは慌てて、ICカードをカードリーダーに差し込んだ。
 かしゃりと音がして、扉が開く。
 グンマは笑った。
「おじさまぁ! ようこそおいでくださいました、ぼくのお部屋へ!」



 なんだかやっぱり、自分は嬉しいのと同時に、緊張していた。
 マジックは、その姿こそ自分が幼い頃から慣れ親しんだ大人だったが、こうして二人っきりで接することなんて、ほとんどなかった遠い人だった。
 グンマに最も近い大人として、高松がいたが、高松相手では無論、こんなに緊張することはない。
 この雰囲気って、何に近いんだろう。血縁の、偉い、大人。
 ぼんやりとグンマは、思った。
 ――もし、ぼくに、お父様がいたら。
 こんな風に、ぼくは、どきどきしながら、色んなもの、見て貰ったりしたのかなあ……。
 グンマの視線の中で、シンタローの父親である男は、微妙な表情で研究室を見回していた。そして感想を漏らす。
「……凄い部屋だね……」
「えっへっへ〜! だってぼくのお部屋ですから!」
 グンマは、腰に手を当てて、胸を張った。
「天才博士、グンマのお部屋です!」
 壁一面には、グンマが幼い頃から集めていたヌイグルミ、作ったファンシー風味のロボットなどが、まるで博物館のように所狭しと並べられていた。
 中でも一際目を引く、巨大ウサギのウサたんシリーズと、訓練試合で使用したドラボットは、各々が部屋角に、まるで他のヌイグルミやロボットを従えるように、ポーズを決めて配置してあった。



「えっと、これはですね〜、シンちゃん4歳のお誕生日の時にプレゼントした、電動消しゴム機『ウサたん1号』の弟分、電動掃除機『ウサたん2号』でぇす! 何でも吸い込めます! 今でもこれでお掃除するんですよぉっ」
「ああ、そういえば、そんなプレゼントをお前がシンタローにくれたことがあった。あのモゾモゾ動くやつね」
 シンタローに関することは大概覚えているらしいマジックは、頷いてくれた。
 『はぁい!』と答えながら、グンマは、頭の隅で、シンタロー4歳の誕生日を思い出した。
 あの時、マジックは、シンタローのために巨大な世界的遊園地を貸しきって、世界中の要人を呼んで、盛大なパーティーを催したのだ。
 それからグンマは、その少し後の、グンマ自身の誕生日を思い出した。
 高松とシンちゃんが……お祝い、してくれたんだっけ。
 すぐに、思い出すのをグンマはやめて、側に立つマジックに、説明を続ける。
「ええとぉ、その右のは、そのまた弟、電動掘削機『ウサたん3号』! 何でも掘れます! 今でもこれで埋めちゃったりするんですよぉ そのまた右は……」
「どんどん巨大化していくのと、濫用できそうなのが特徴だね」
「ええっと、ウサギ型はこれで終わりで、そしてこのネコ型ロボットは……」



 嬉しげに語っていたグンマだが、ふとマジックが、一つのヌイグルミを手に取ったのに気付いた。
「はは、これ可愛いなあ。これはいつ……」
「ああ〜〜〜!!! おじさまっ! ダメです! おじさまは触っちゃダメです!」
「? そうなのかい、何だか見たことあると思って」
 不思議な顔をして、ヌイグルミを元の場所に置いたマジックに、グンマは説明した。
「それはぁ……シンちゃんに……昔、おじさまが買ってあげた犬のヌイグルミを……ぼくも、似たのが欲しいなって……探したことがあって……だから、見覚えあるんだと思います……」
「ああ。道理でね。そんなこともあった」
 そしてマジックは、グンマを見下ろして、言った。
「大事なものだったんだね、ごめんね、勝手に触って」
「いえ! 触るのはいいんですけどぉ、おじさまは、ダメなんです……」
「?」
 実は、グンマにはこだわりがあった。
 表面的には厳ついイメージを持つ大人のマジックには、あまり自分や高松とは、同じことはしてほしくなかった。
 強く想う。
 高松はいいけど、誰かの『お父様』は、そんなコトしちゃダメなんです!
 お父様って。そんなコトしちゃダメな人なんです!
 シンちゃんが泣きます!
 実はグンマの『お父様』像への理想は高かった。
 高松からごくたまに聞くことができるルーザー像が、とても偉大であることや、あの手に入れた写真が、その神秘性を高めていたのかもしれない。
 『お父様』というのは、凄く凄くカッコイイ人なんだと思う。また、そうでなければいけないのだと考えている。
 ぶっちゃけ、ぬいぐるみを持ったり、鼻血なんか垂らさなかったりする人が、『お父様』なんだろうと思っている。
 その点、ちょっと変わっているなと思うことはあったが、今のところ、マジックはグンマの『お父様』基準を満たしていた。
 妙に家庭的なことは、勿論知ってはいたが。
 基本的には、グンマは彼を尊敬していた。
 ちょっとだけ、彼の赤い服はどうだろうとは思う。でも、まあ軍服で昔から決まっているから、それは仕方ないと思っている。



「お紅茶、飲みますかぁ〜」
 そう言って、いそいそと隣接の給湯室に入ったグンマは、トレイにティーセットを乗せて戻ってきた。
 意外に重いので、陶磁器が触れ合って、カチャカチャと揺れる。
 片手を離すと怖いので、部屋の扉は『よいしょ』と背中で開けて、お尻で閉める。
 そうしてしまって初めて、部屋中央の簡易ソファに足を組んで座っているマジックが、眉を顰めているのではないかと、グンマは心配になった。
 あんまり行儀がよろしくないって。
 それに、きびきびした動きのシンタローと違って、モタモタしているなと、伯父は感じているに違いない。
 そう思うとグンマは、ますます頑張ろうという気になり、そして焦った。
 そして。
「あ、ああ……ちょ、ちょっとグンちゃん!」
「え……? わ、わ、わぁっ!」
 ガシャガシャガシャ――――ンッッ!!!
 凄まじい音がして、白のリノリウム張りの床が、無残に汚れた。割れたティーセットの欠片や、お湯、茶葉が、散開した。
 グンマは、冷たい床に、ぺたんと座り込んでしまう。
 涙目になった。
「ふぇ〜〜〜〜んっ! グシャグシャだよぉっ!」



 ……こんな時、高松だったら。
『ああああ〜っ! グンマ様っ! お怪我はありませんかぁぁっ!』って凄い勢いで飛んできて、一人で片付けてくれるんだ。
 こんな時、シンちゃんだったら。
『バ〜カ! バカグンマ!』って笑い飛ばして、一緒に片付けてくれるんだ。
 でも、伯父様は。
「ああ、グンちゃん。大丈夫だから。お前は座ってなさい」
 それだけ言って、人を呼んだ。



 すぐに軍服を着た少年がやってきて、グンマの失敗を、手際よく片付け始めた。
 グンマは、マジックに言われた通りに、彼の正面のソファにちょこんと座って、その片付けを眺めていた。
 鼻がツンとしてきて、悲しくなった。
 悲しい気持ちになると、ふと、グンマは昔のことを思い出した。



 ――思い起こしてみれば。
 マジックと自分が二人きりになったのは、今日が初めてではなかった。
 昔。
 ひどく幼い頃の話だ。記憶の視界は狭く断片的だから、3、4歳の、自分たちが物心のつくかつかないかの頃かもしれない。
 自分とシンタローは、砂場で一緒に、砂山を作っていた。
 今と変わらず俺様気質のシンタローは、率先して砂を集め、水を汲み、砂山の形や、開ける穴の位置を指定した。
 グンマはそれを手伝っていた。
 幼い手で散々に苦労して、何度も崩して、やっとトンネルの一本通った、二人の背丈ほどの山ができた時は、二人は飛び上がって喜んだ。
 シンタローもグンマも、泥んこ姿だった。
 青空が広がっていた。



 その後、シンタローが何処かから呼ばれた。
 呼んだ人間は誰だったのかは、わからない。とにかく、呼ばれた。
 シンタローは、元気に駆けて行ってしまって、小さなグンマは砂山の側に、ぽつんと座ったままだった。
 でも、砂のざらざらで、太陽の熱を含んだ感触が、気持ちよくって。
 そのまま、ぽかぽか日向ぼっこを、自分はしていたのだ。
 すると日差しで砂が乾いたのか、最初にぼろっと塊が割れて、砂山に掘ったトンネルが崩れてしまった。
 グンマは、びっくりした。そして、シンタローが戻ってくる迄に、直しておかないと、と感じた。
 砂山に手を突っ込んで、うんしょうんしょと頑張ってはみたものの、幼児一人の手ではとても上手くいかなかった。細い腕は、どんどんと重い砂に埋もれていった。
 その内、グンマは怖くなった。自分の小さな体は、この大きな砂山に、埋もれてしまうのではないかと怯えた。
 でも、腕は抜くことができなかった。
 この腕を抜いてしまえば、もうこの砂山は駄目になってしまうのだと、なぜかそればかりを考えていた。
 その時だった。どうしてか、砂場にマジックがやって来たのは。



『あれ、グンちゃん』
 多分、その時の彼は、あの赤い軍服を着てはいなかった気がする。数少ない休日だったのだと思う。
 そして辺りを見回していたはずだ。きっとシンタローを探していたのだと思う。
 いつも、彼はそうだから。
 とにかくマジックは、うんうん一人唸っている自分の側にやってきて、珍しそうに覗き込んできた。
『何やってるんだい』
 たどたどしく自分は、砂山が崩れそうだということ、トンネルが埋もれそうだということ、とにかく大変だということを、彼に訴えたのだ。
 緊張する間もなかった。



 次にグンマが覚えている場面には、一緒に砂山を作り直している自分とマジックがいた。
 一体どういう風の吹き回しか、それともやっぱりシンタローのためなのか。
 そのおぼろげな記憶では、グンマは伯父と、二人で山を支えていたのだ。
 マジックは腕まくりをして、砂山の向こう側にいた。
 そして、『もうちょっと手を伸ばして、グンちゃん』と言っていた。
 自分は『もうすこし、おじさまぁ』と言っていた。
 大分、時間がかかった。子供の感覚だから、大人にしたら僅かな時間だったのかもしれないのだけれど。
 グンマは、たくさんの汗をかいたことを覚えているのだ。
 そして、重い砂の中で、やっと砂とは違うものに触れた瞬間を、覚えている。
 冷たかった。大きかった。すぐに、ぐいっと強く自分の手が掴まれて、びっくりした。
 それはマジックの手だった。
 グンマは、再び、怖くなった。
 でも同時に、自分は、これでやっと完成したと思ったのだ。もう安心だと思った。
 冷たいと思った手は、すぐに自分と同じ温度になった。
 自分は、笑った。相手も、笑った。
 そんな出来事。
 マジックは、絶対に忘れてしまっているだろうけれど。
 ずっと、にこにこしているけれど、怖い人だと思っていた。今でも、本当はそう思い続けている。
 その時が、自分がマジックを、身近に感じた最初で最後の時だったのかもしれない。
 シンタローの残した砂山で、触れた感触。
 砂まじりの手――



 目の前の汚れや割れ物が、綺麗に片付けられていく。
 それをぼんやり見ていたグンマは、ハッと気付いて立ち上がった。まだ自分には、新しく紅茶を入れるという仕事が、残されていたのだ。
 マジックは、自分の正面に座って足を組み、やって来た少年が用意良く持参した書類をめくっていた。
 その姿を見てグンマは、今度は失敗しないようにしようと思った。他のティーセットが、別部屋にあったはずだ。取りに行くと言って、扉から駆け出そうとしたグンマに、後ろから声がかかった。
「……いいよ、グンちゃん。それもやらせるから。全部用意させるから、お前はそこに座っておいで」
「ぼくが、やります! だって、だって伯父様は、ぼくのお客様で……」
「時間の無駄だ」
 そう端的に言われて、グンマは電流に打たれたように、ビクッとして。
 しおしおと大人しくソファに戻った。
 そして、しょんぼりした。



 沈黙が流れた。
「……」
 しかし、何だかその沈黙が長かった。
 しばらくしょんぼりしたままだったグンマだが、異変に気付いて、頭を少し上げた。そして上目遣いに、正面の伯父を見ようとした。
 何故なら、お茶を入れるのを人にやらせると言ったのに、一向にその気配がなかったからだ。
 グンマの視界の中でマジックは、肘掛に腕をついて、その上に顎を乗せ、脇を向いている。
 その表情は、眉を顰めているようにも、別のことを考えているようにも見えた。
 グンマは思った。自分の項垂れようは、そんなに激しかったのだろうか。
 こんな雰囲気をこの人から感じたのは、初めてのことだった。
 ……まるで、戸惑っているかのような。
 生まれた時から知っているはずなのに、マジックと二人なんて、滅多にないから。
 必ず、間にシンタローか高松がいるから。二人だと、どうも、ぎこちない。
 もしかすると、相手も、自分と同じぎこちなさを、感じているのではないかと、グンマは気付いた。



「……じゃあ」
 張り詰めていた雰囲気が、ふっと緩んだ。
「私が紅茶を入れるよ」
 グンマは目を丸くして、またソファから立ち上がった。
 相手も同じく立ち上がっている。グンマは慌てて言った。
「でも、でも、お時間も」
「いいよ。シンタローもいないし、多少時間を節約した所で……」
「は……はい」
「何だか気落ちさせたみたいだから……そんなつもりじゃなかった」
「はい……いえ。いえ、そんなの」
「私も最近は、仕事続きだったから。たまには気を抜かないと」
「は、はい……」
「だから、今日はしばらくグンちゃんに付き合うよ。ここまで来たんだものね」
「はぁい!」



 二人でソファにかけて、お茶を飲む。
 やっぱりこんなことは初めてで、初めて尽くしで、グンマは本当に嬉しくなってしまった。
 たくさんたくさん、話したくなってしまう。もっともっと、構ってほしくなる。
 本質的に甘えっ子のグンマは、優しくされると、もうどんどんと心を許してしまいたくなるのだ。



「えっとですねぇ、おじさまぁ! あのね、ぼくの秘密、聞いてくださぁい」
「ん、秘密? 何だい、グンちゃん」
 楽しいなと感じた。
 いつもはシンタローばかり、仕事ばかりのマジックが、自分だけの話を聞いてくれるということが、新鮮で仕方がないのだ。
 自分が『えへへ』と笑うと、相手もにこにこしてくれていた。
 自分なんかの話に興味を持ってくれているのかと思うと、どきどきした。
「シンちゃんには内緒って約束してくださいっ」
「ああ、いいよ。言ってごらん」
「えへへ」
 グンマは、もう一度笑った。



「あのねぇ、ぼく、こっそりケンドー習おうと思ってるんですよぉ〜」
「ケンドー? ああ、剣道。日本の武術」
「前にね、さらわれた時、ぼく、シンちゃんに守ってもらって、少しでも強くなんなきゃって思ったんです。強くなって、シンちゃんをびっくりさせてやりたいなあって」
「はは、それは楽しみだ」
「こないだシンちゃん、あ〜んなに強いのに、それでもまだ修行するって。それで遠くに行っちゃってぇ……だから、ぼくもやろうって思って。修行したいんです! それで高松に言って、こないだ、えっと、剣道の試合っていうの、見に行きましたぁ。すっごかったです!」
「それは良かった」
「ぼく、やりたいなあって、思いました。でも、ぼくが習うには、おじさまの許可が、いるって……」
「私たちは、少年時代にフェンシングを習ったものだけれど……お前たちには自発的に言うこと以外は、何もさせてないから。いいんじゃないかな、特にグンちゃんには体を鍛えることにもなるだろう。頑張りなさい」
「はぁい! えっと、正座、お部屋でやってみたんですけど、すっごく痛いんです! 足が痺れて〜」
「しかし剣道か。どうしてまた? フェンシングなら教師は士官学校にもいるよ」
「えっとですね! ぼくの、亡くなったお母様は、日本人だって……だから、ぼく、あの、えっと……」
「……」
 その瞬間、グンマは不味いことを言ったと思った。
 大人たちに対して。
 自分の亡くなった父親と母親の話題は、相手から水を向けられない限りは、避けていた話題だった。



 だが、予想に反してマジックの声は、優しかった。
 彼は、少し沈黙した後、こう静かに言った。
「グンちゃんは……亡くなったお父さんとお母さんが、恋しいのかな」
「……」
 グンマは、正面の叔父を、そうっと見上げた。
 どう答えればいいのかが、わからなかったのだ。
 恋しくないといえば、嘘になる。
 でも、ぼくには高松がいるから。
 血は繋がってないけれど……ぼくを可愛がってくれる、高松が。
 だから、何と言えばよいのかが、わからない。
 すると、迷っている自分の頭に、大きな手が置かれるのが、わかった。
 不思議な感覚だった。
 マジックが自分の頭を撫でてくれるのは、とても珍しいことだった。
 グンマは、また嬉しくなった。
 それからまた、他愛のない話を、二人は続けることができた。




「じゃあね、グンちゃん。ああ、それと……ちょっと目を見せて」
 そうしてマジックは、いつものように自分の目を覗き込むと、『今度は、ゆっくり紅茶の入れ方を教えてあげるよ……いつか、ね』とだけ言って、去って行った。
 グンマは、ぱたぱたと扉の外に出て、ずっとその背中を見送っていた。



 夜になって、研究所を出て、自室に戻ると、グンマはいつもの通りに日記を開いた。
 シンタローがいないと、自分のこの日記帳は、まったく通り一遍等でつまらない。
 いじめられたことだって、笑い合ったことだって、何だって、白いページが埋まらなくって、つまらない。
 せいぜい研究の中身、が、最近のグンマの日記の内容だった。それと、忘れずに、庭の植物の成長記録。
 でも、今日は、素敵なことが、書けそうだった。
 可愛いカップに入れたミルクセーキを、グンマは一口飲んだ。



 甘くて熱い液体が、喉を下っていく。それを感じていると、急に何だか寂しくなった。
 高松は今夜も、何やら難しそうな研究のお陰で、泊り込みだそうだ。
 包み込むように持つ両手で、カップの熱を感じながら。グンマは、想いを馳せる。
「今頃はシンちゃん、サービスおじさまと修行してるのかなぁ〜」
 鉛筆で、ぺんぺんと自分の頬っぺたを叩きながら、グンマはカーテンの閉じられた窓を、ぼんやりと眺めた。
 修行に出かける前、シンタローは研究所にわざわざ尋ねてきて、お別れを言ってくれた。
 とても嬉しそうな顔だったことを覚えている。
 シンタローは、本当にサービスに憧れているのだなと思う。
 そしてサービスも、シンタローのことをとても可愛がっていて、評価しているのだろうと思う。
 ……シンちゃんは、凄いから。
 しかし剣道をやることを許してもらったことを思い出し、ぼくだって、と思い直す。
 ぼくも頑張らなくっちゃ。



『今度は、ゆっくり紅茶の入れ方を教えてあげるよ……いつか、ね』
 滅多に親しく話すことのない伯父の言葉を思い出して、グンマはまた『えへへ』と笑った。
 約束が、できちゃった。
 いつかって、いつだろうか。
 楽しみに待っていようと思う。
 いつかなんて約束は、シンタローが帰ってきたら消えてしまうのだろうということは、グンマはすでに知っている。
 そして、ベッドのサイドボードに立てかけてある、父ルーザーの写真を、眺めた。
 今日、小さく感じたことを、心の中で呟いてみる。
 ――ぼくに、お父様がいたら。
 でも、高松がいるから。いいんだ。



 グンマは、また、日記に視線を落す。ペンを手に取る。
 それにそれに。ぼく。ちょっと、マジックおじさまと、仲良くなれたよ。
 ほんのちょっとだけど、ね。シンちゃんのいない間だけれど。
 いつか。もしそんな日があれば。
 幼い日、シンタローの残した砂の山で、手を繋ぐことができた、あの時みたいに。
 彼と手を繋ぐことができたらいいなと、グンマは思った。
 あの砂まじりの手が、懐かしかった。
 そしてそのことを、日記に書いた。
 夜は、優しく窓の外で、更けていくのだった。



----------



 それは、ひとつのかたちをした幻だった。
 ゆらゆらと、揺れていた。誘うように、揺れていた。
 サービスは闇の中で、端然とその様を見やる。
 すでに消えた焚火にくべた薪が、炭となって崩れ落ちる音がした。
 夜は、黒炭のように脆く、柔く、呆気ないものだった。



 血塗れの死体。驚愕に見開かれた黒い目、無残に引き裂かれた身体。
 過去の幻影は、サービスに迫る。
 サービスは息を飲んだ。そして、何か喋ろうとしたが、声が出なかった。
 自分の唇は惨めに乾いて、舌は干からびて、もう自由には動かすことができないのだ。
 もう何度、こんな夜を繰り返したのだろうか。
 この場所は、記憶の住処だった。
 目を閉じれば、身体を横たえれば、たちまちにこの映像が、サービスを捕らえて離さない。



「ジャン……ジャン……」
 聞こえないと知りながら、あの時の自分は名前を呼んだ。
 そして今も、自分はうわ言のように名前を呼ぶ。
 足りないのだった。抉り取った右眼だけでは。
 今、サービスの空洞は、手足を失った者が悶え苦しむ幻肢痛のように、なくしたものの痛みに震えていた。
 失ったはずの眼から、映像が見えるのだ。血塗れの、幻影。
 ジャン。ジャン――僕が殺した人の姿。
 人間の精神には本来、完璧な自己の姿という意識が存在し、たとえ肉体のパーツを無くしても、変わらず精神はその痛みを感じるのだという。
 眼を失っても、サービスには依然として、青の記憶を感じていた。
 海。広がる青。沈む青……。
 その青を背景に――脳裏に浮かぶのは、いつも。
 眼が抉り出されて死ぬ前に、最後に焼き付いた男の姿。
 それが、僕の、幻肢痛。



 与えられない苦しさの空洞は埋まらない。
 幻影の男の体と同じように、自分の血まみれになった手が、サービスの左胸に当てられる。
 この血もまた、幻影なのだ。心臓の鼓動が伝わってくる。サービスにはそれが罪が体内で蠢く音に思えた。
 罪は体の中でどくどくと脈打ち、動きを止めない。自分が呼吸を止めない限りは。
「足りない……」
 かつて亡きルーザーに言われたことがある。
 お前はこの右眼が心臓なんだよと。これが青の一族として生きる源泉なんだよ。
 それをサービスは捨てた。しかしまだ足りなかった。
 足りないばかりか、この18年を、その幻に囚われて過ごした。
 どうして僕ばかりが、この苦しみに堕ちなければならないのか。
 ジャン……ジャン……。
 僕はお前が憎い。
 一人、僕を残して死んだお前が、憎くて憎くてたまらない――



 あの時、自分は右眼から、血の涙を流した。
 大地は赤黒い血溜りを飲み込み、喰らった。
 この地の砂は、その味を覚えている。その味を、思い出している。
 砂の記憶、それはざらりとした思い出で、サービスの心の隙間に入り込んでは、身動きを取れなくしてしまう。
 この葛藤を何度繰り返したか。
 砂に塗れたサービスの歯車は、日を重ねる程に痛み、ぎしぎしと鳴り、今夜がその限界であるのかもしれなかった。
 サービスは荒く息を吐く。
 幻。
 僕を、苦しめる、憎しみと罪の幻。
 僕と、お前の血を喰らった、砂の記憶。



 サービスはとうとう、巨岩の縁まで、その幻を追い詰めた。
 幻は、夜の闇に紛れる黒い髪をして、あろうことか寝息を立てて眠っているのだった。
 すうすうと毛布が、静かに上下している。
 天上では黒雲の背後に流れる月が、薄く淡く輝きを放っていた。
 白光が、サービスの影を、眠る幻に静かに落す。
 幻は、血溜まりの中で、こんなにも安らかに眠ることができるのだ。
 永遠に眠っているのだ。
 それが憎らしい。自分は眠ることができないのに、永久の安寧を得たあの男が、妬ましくてならなかった。
 しかし永遠に自分が眠らせたはずなのに、彼は自分の右眼の中に、蘇ってくるのだ。
 訳のわからないことは、もうたくさんだった。
 この混迷の淵に、今度こそ決着をつけるのだと思った。
 サービスの長い金髪は、白い肌は、蒼氷の左目は、月明かりに照らされて、一層冴え冴えとした透徹を滲ませた。
 彼は、魅入られたように、指を伸ばした。



「……?」
 首筋にかかった指に、幻影が身動きをした。
 寝ぼけ眼で、こちらを見ている。暢気なことだ。人の気も知らないで。
 そうだ。いつだってお前は……いつだって……笑顔で……。
 その懐かしい唇が、動いた。
「……おじさ……ん……?」
 サービスは、指に力を込めた。
 その首筋は、まだ完全には成育しきってはいない、少年の肌の感触がした。
「お……じさん! ぐ……ゲホッ……サービスおじ……さん! サービ……」
 その口が、こう動いたように見える。
 同じ唇の形、同じ声が、こう紡ぐ。
『サービス……!』
「……ジャン……」
『逃げろ、サービス!』
「お……じさ……く……う、うぅっ……ああああ!」



 死んだ。
 違う。生きている。
 会いたかった。会いたくなかった。
 ――戻らない罪の姿をした子供よ。
 会いたくなかった。会いたかった。
 違わない。死んだ。
 生きている。
 シンタロー。
 お前は知らない。
 昔、この場所で、お前と同じ顔をした男が、血塗れで息絶えた。





BACK:7-2:あなたへの時間 | 長めの話 | HOME | NEXT:8-2:砂の記憶