砂の記憶

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 白く冴え渡る月光。崖下から吹き上げる夜の風。
 血の匂いがする。死の匂いがする。ざらついた記憶の匂いがする。
 サービスは、相手の首にかけた自分の手の甲が、月の光に照らされて、青白い膜に覆われていくのを、その目で見ていた。膜。過去と未来を隔てる細胞層。
 現実が非現実に侵食され、濁った感情が殺意に化ける。
 相手が身をよじる。乱れる毛布の皺。その陰影。黒髪が揺れて、相手はブーツを履いたままの両足を左右に振って、その反動でサービスの腕を蹴り上げた。
 反撃など予期していなかったサービスは、虚を突かれて、腕の力を緩める。
 ぜいぜいとせわしない呼吸音が聞こえて、二人の間に隙間ができ、身を丸めた相手は、這いずりだすようにして、サービスの拘束から脱出した。



 夢見るような青い瞳で、サービスはゆらりと立ち上がる。
 音もなく振り返ると、地に手をつき胸を上下させている相手を見つめた。
 相手は、苦しい表情をして呼吸を正常の範囲に戻そうと努力しているようだったが、すぐに自分の視線に気付き、こちらを見た。
 その黒い目。
 サービスの残った眼球に映った血溜まりの中で、安らかに眠っていた相手が――目を覚ましたのだ。
 蘇った男。過去から、自分を苦しめる男。その記憶の淵に向かって、サービスは言う。
「今、僕はお前を殺そうとした」
 相手の瞳が見開かれ、何か口を開けて訴えている。
 だが、サービスの耳には、その声はよくは聞こえなかった。
 ただ視覚のみが、何かを捉えて、視線を釘付けにした。



 ――砂時計。
 黒髪の相手の側には、平たい岩があり、その上には、砂時計が置かれていた。小さなそれ。古ぼけたそれ。懐かしい時間を覚えている砂。
 瞬間、サービスははっきりと思い出す。そしてなすべきことを感じた。
 言った。
「試合を、しようか」
 士官学校時代の訓練試合の記憶が、ぎらりとナイフの切っ先のように、脳裏に迫る。
 かつて試合に使われた砂時計が、巡り巡ってこの場所に存在する。
 砂が、時間を戻せと言っている。
 サービスの首筋に、震えが走る。
 過去、自分は、戦うのは嫌いではなかった。だがあんなお祭事で見世物にされるのは嫌だった。
 そう、戦うのは好きなんだ。お前とよく授業中にも訓練中にも遊びの最中にも組み合って、戦った。
 そしていつも、決着はつかなかったのだ。お前と戦うのは、僕は、好きなんだ。戦いたいんだ。お前と、本気の刃を合わせてみたいのだ。裏表のない心で。
 僕は……あの時……。
「僕は、お前と、戦うことができなかった…」
「?」
 お前はいつも、どうしてそんな不思議そうな顔をする。
 ジャン、ジャン。
 僕は、自分が罰を受ける理由が知りたい。
 どうしてお前は、生きている。僕が苦しみにのたうつ陰で、生きている。
 そして生きているのならば。
 ――決着をつけよう。
 18年前のあの出来事の、決着を……!



 まるで水の上を歩くような足取りで、サービスは砂時計に歩み寄り、無造作にそれを逆さまにした。
 さらさらと硝子管を砂が流れ、時を刻み始める。
「戦うのだ」
 月光に包まれて、サービスはもう一度言った。自分はそうしなければならないのだと思い、また相手もそうするべきなのだと思った。
 視界に映る黒髪は、また口を開いて……今度はすぐに、閉じた。
 それから、鋭く息を吐いた。なにかを決意したようだ。
 どうやら戦う気になったらしいと、サービスは静かに微笑む。賢い相手。僕の本気に気付いたのか。戦わなければ、お前はこの場所から逃げられない。
「ああ」
 嘆きのような、溜息をつくような、そんな声が、自分の唇から漏れていることに気付いている。
 僕は。僕の全身は、喜んでいるのだと、サービスは深い歓喜にわなないている。
 ああ――今、わかった。充足感。求めるものを得た快感。
 この自分の右眼の空洞は、肌は、手や足や心臓は、何を望んでいるのか。何に焦がれているのか。
 砂が、時間を戻せと言っている。いつまで戻せばいい? ……あの日に。
 僕がお前を殺したあの日に。悔やんでも悔やみきれない、すべての終わりの日に。あの日にまで戻って、僕は。
 僕は、お前に――ずっと、殺されたがっている――



 かさりと夜に砂が舞った。サービスの左目に、相手が構えたのが映った。
 半身の構え。左足を前に出し、右手の肘を曲げて後ろに引いて重心をずらしている。
 二人は円を描くように足を使いながら、互いの呼吸を窺っている。
 間合いが縮まっていく。どちらが先に仕掛けるか。
 睨み合いは続く……。
 ――と。動いたのは、相手の方だった。
 地を蹴り、距離を一気に縮めて飛びかかってくる。小鹿のような俊敏さ。
 だが、遅い――
「とぁっ!」
 黒髪の放つ鋭利な掛け声と同時に、突き出される正拳突きを、サービスはたやすく避ける。長い金髪が夜に揺らめき、数本が黄金の粒のように、千切れて舞った。
「……」
 無言の内に青い瞳が輝き、瞬時にその突きの懐を狙う。シュッと風を切る音がした。
 サービスの鋭い指は刃となって、相手の衣服の肩先を貫き、皮膚を掠めて赤い線を走らせる。
 く、と声を漏らした相手は、続く連打を避けて、姿勢を低くし背後に逃げるかと思いきや、一気にサービスの左脇を駆け抜けて、間合いをとる。いい判断だ。
 トットッ、とステップを踏む音がし、相手の黒い目が、自分を見据えているのを、サービスは心地よく感じていた。
 そうだ、ジャン。ゆっくり、ゆっくりだ。時間をかけて。まだ砂時計が落ちきるまでに、大分ある。
 今度は必ず僕を……。お前が、僕を。
 ――僕は、お前に殺されなければ、元の自分には戻れないような気がしてならない。



 二人の間に満ちる気。
「たあ!」
 やがて気は弾け、相手は今度は体ごとでぶつかってきた。突進してくる。組もうというのか。
 しかしサービスは、すでに下段に構えている。正面からの重量をいなすと、足をかけて相手の下半身のバランスを崩す。あっさりと転倒しかける体。
 革の鞭のようにサービスの右腕がしなり、問答無用に、その崩れる体の腹を殴った。
 言葉も無しに、体を折る黒髪の相手。たわいない。一方的な展開。
 しかしサービスは容赦はしない。その手刀が旋回し、相手のがら開きの首筋に吸い込まれていく。鈍い音がした。
「……ッア! くっ……」
 身を縮めて直撃は避けた相手だが、肉に食い込むダメージは抗いきれない。
 その足元がよろめいたように見えて、サービスは追い討ちとばかりに、更なる打撃を加えようとする。
 しかし。
 足をよろめかせていた相手が、そのサービスの繰り出した腕を、沈み込んだままの体で内側から外側にくぐり抜け、右に回りこんだかと思うと――今は髪で隠している、失った片目による死角である――、サービスの顔面を狙って、ぐうんとアッパー気味に拳を叩きつけてきた。
「……!」
 今度は、サービスが冷や汗をかく番だ。
 咄嗟に上半身を後ろに反らしてスウェーイングし、今度が自分が体を離して、間合いを取る。
 防戦一方に追い込まれていたと見えた相手は、自分の上段の攻撃を待ち、その下部にできる隙を狙っていたのだ。この巧妙な反撃、それも僕の死角を利用してくるとは。
 そうだ。こうでなくちゃ。
 サービスの美しい唇に、つうと細い血の筋が滴り、一緒に笑みが零れていく。



 次に相手の息遣いを間近に感じた時、サービスは、自分の肩口に襲いかかる蹴りを、返す手刀で大きく薙ぎ払った。風圧が金髪をなびかせる。
 ついに回し蹴りを繰り出してくる相手の右足を捉えたのだ。切断したかと感じた。
 相手の足先が、吹き飛んでいた。
「くぁっ……ッ!」
 虚空を跳ね上がり、弧を描き、背後に転がっていく、相手の足。
 ……踵から下を奪ったかと思ったが、しかし吹き飛んだと見えたものは、黒いブーツ。
 それを視認するより早く、サービスは至近の相手の腕を掴み、へし折ろうと逆手にひねる。
「わっ! ぐ……ああっ!」
 また苦悶の声を漏らす相手、しかし身の軽い彼は、バク転をするように大地に後ろ向きに手をつき、跳ね逃げてしまう。
 逃げた先、数歩離れた場所から、肩をかばいながら、荒く息をついている。
 白銀に輝く月光が、その相手の姿を、照らし出していた。
 その口が、かすかに動いた。なんと言ったのだろう。サービスは、唇の動きを読もうとした。
 すぐに理解する。ああ、自分の名前か、と思う。
 僕の……。
「……はぁ、はぁ……サービ、ス……おじ……さ……」
『サービス』
 ぐわん、とサービスの耳の奥で、何かが大きく反響した。世界が巡った。
 呆然と立ち尽くす。
 ……グワァァァァァァン……。
 弦楽器の音が突然大音量となって耳を襲う。
「!?」
 いつの間にか自分が暗く冷たい場所にいるのがわかる。辺りを見渡しても闇しかない。一人ぼっち。一人だけの世界。一人は嫌だ。一人は怖い。置いていかれる……海。粘つく泥の海。泳げない。溺れる。
 助けて。
 ――ジャン。
 ジャンはどこ?



 巡る過去。繰り返す記憶。
『逃げろ、サービス!』
『ジャン!』
 走馬灯のように、サービスの脳裏に記憶が流れる。
 何度も見た映像。忘れることなどできないあの日。失った眼の空洞の淵に、べっとりと貼り付いて離れない悔恨の血。
『俺のことはいいから、早く!』
 叫びながら、敵兵を銃で殴り倒しているジャンを、サービスは見つめながら、ある予感に震えていた。
 鼻先を掠める銃弾。ジャンは相手の発砲を、倒した敵兵の体を盾に、防いでいる。
 ジャン、ジャン。その懐かしい背中。太陽の匂いがする髪。
 僕は――
 サービスの身の内から、込み上げてくる想い。
 初めて感じる波動。砕け散りたい、放出したい、闇のうねりに心を任せたいという欲求、敵兵への憎悪。
 守りたい、ジャンを。
 もうそれしかなかった。
『何やってるんだ! 逃げろ!』



 あとからあとから群れ満ちる敵兵。通常の戦闘ではこの数を防ぎきれるはずがないのだ。
 それは、必然だった。
 満ちて、満ちて、僕の体内に青い光が満ちていく。膨れ上がっていく。
『サービ……』
 僕を振り返るジャンの顔。その黒い髪。その――黒い瞳。僕を映す瞳。
 大丈夫だよ、ジャン。
 僕が、僕が……お前を、助け……る……。
『おっと待った。キレイな顔した兄ちゃん!』
 必死な顔をしたジャン。それが僕の最後に見た、彼の生きた姿。
 笑った表情を、最後に見られたなら、よかった。
『ガンマ団の奴らはみんな死刑だ!』
 ジャン、ジャンの黒い目。僕を、懸命に見て――
 その瞬間、波が押し寄せた。濁流。制御されない怒涛の圧力。
 それは夜の闇すらも飲み込む深い闇の波動。すべてがその空間を押し包んでいく。
 一帯に青い光が炸裂……。



 しない?
「……ッ!」
 反射的にサービスは、右腕を顔の前にかざした。
 腕がきしみ、戦う相手の拳を受け止める。ここは戦いの場。砂時計が戻した時間の世界で、二人が決着をつける場所。
 サービスの身体の内に満ちた青の力は、発動することはなかった。
 ふつりと衝動は消え、世界はまた元通りに動き始めた。走馬灯の映像は途切れ、今、また自分は違う時の中にいる。
 攻撃してくる相手の背後には、いまだ砂時計が時を刻んでいた。
「……」
 今度は連打をかわしながら、サービスは理解した。
 ああ、僕は青の心臓、秘石眼を失ったのだったと。できそこないになってしまったのだったと。もう青の力を目で発動させることはできない。
 それだからこそ、今度はジャンを、僕は殺すことがなかった。
 繰り返す過去で、ジャンは死ななかった。死なないで済んだ。
 僕は、殺さないで済んだ。僕は殺さないで済んだんだ。
 そう、ジャンを……。
 ――ジャン?



「そりゃっ!」
 目の前で、跳躍する黒髪の相手。黒い目をした相手。自分に、今まさに飛びかかろうとする目。
 その瞳は、闇色をした水晶のように、強い光で輝いていた。
 サービスは、どこか陶然として思う。
 ああ、ジャンだ。殺さなかったかわりに、ジャンが、僕を殺そうとしている。
 良かった。これですべてが終わる。
 過去が修正されて、僕はあいつのかわりに、安らかな眠りにつくことができる。僕は罪を犯さずに済んだ。これで苦しまなくて済む。
 ジャン、ジャンの黒い瞳。
 僕を、懸命に見て――
 見上げるサービス。
 二つの視線が、交錯する。



「……ッ!」
 刹那、サービスの身が凍りつく。
 相手の黒瞳に映っていた自分の姿は、36年の月日を重ねた、叔父としての姿だった。
 あの日から、18年近くを経た姿。もうほんの子供ではない。すでに罪を知った自分の顔。長い苦しみを経た能面のような表情。
 これが、僕……か? 僕なのか? 本当の僕の姿なのか? 現実か?
 これが現実なのか?
 全身を強張らせながら、サービスは憑かれたように、その残った一つきりの目を、恐怖に見開いた。
 眼前を閃く影。攻撃のために振り下ろされる脚。必死な――相手の黒い目。
 これは、ジャンではない。
 誰だ。スローモーションのように、自分に迫る何者か。
 迫る……。
 その衝撃を受けた瞬間、サービスは、か細い声をあげた。
「ああ……っ」



 命中した、かに見えた。
 シンタローはその瞬間、自分の一撃の成功を信じただろう。確かにその年齢に比すれば、それぐらいに素晴らしく精度の高い蹴りであった。
 しかしシンタローの右足は、くら、と揺れた。
 衝撃時にサービスは受ける腕の力を抜き、軽く蹴りを受け流したのだ。
 すっとサービスの指が伸びて、目にも留まらぬ速さで、受け流されたシンタローの脚、脛のあたりを突いた。
「わぁっ!」
 バランスを失い、あっけなく地に転がるシンタローを、サービスは乾いた片目で眺めた。
 ――シンタロー。
「くそう!」
 転がってもなお、すぐに起き上がり、向かってくる子。
 シンタロー……その瞳。
 決して、あきらめない。



「シンタロー」
 ついにサービスは、その名を口にする。
 呼ばれた子は答えない。かわりに、拳を突き出してくる。
「……シンタロー」
「くっ! このっ!」
「もう限界か」
 自らを叱咤するように声を出しているが、すでに息切れをし、腕の関節の部分が震えている。
 連打がきかないのだと、サービスの頭は分析している。
「ラッシュする力が足りない。無酸素運動のための訓練が必要だ」
「くそっ! たああっ!」
 渾身の力で繰り出したのだろう一撃を、サービスはやすやすと、鼻から拳一個分の距離でかわしながら、想う。
 僕は、シンタローをジャンの身代わりにして、この子に殺されたいと願っていた。



「足腰の鍛錬をしろと言ったろう! 打撃力の六割以上は下半身からの力だ!」
「く……っ! これならどうだぁ!」
「踏み込みが弱い!」
 でも、どうしてだろう。
「手先で打つな! 一度打ち終わったら腕を引き、そしてまた打て! 熟練者ならいいが、お前程度では基本から離れることは命取りだ!」
 違う、と確信した瞬間からだ。
 僕は、この子に殺される、殺す、そのことよりも、いつの間にか、この子が強くなる方法ばかりを考えている。
「俺より体格に劣るのだから、正面からの攻撃は避けろ! 足を止めるな!」
 僅かばかり前に――僕は、この子はジャンと違うのだと、凍りつくように感じた。
 違う、と感じた。でも何が違うのだろう。
 同じ顔、同じ姿をしているのに――



「負けねぇッ! ぐっ、俺は、はぁ、強くなる……ッ!」
 ――そうだ、目が違う。
「はぁ、はぁ、お、俺はっ……! 強……く……ぐぅ、かはっ!」
 サービスは汗みどろで向かってくるシンタローを見ながら、頭の隅で考えている。
 瞳の芯が違う。
 瞳の奥にある心が違う。
 その身に負っているものが違う。
 見上げているものが、違う。
 目指すものと……僕に対して抱く心が……違う……。



「ジャン」
 おそらく呟いたサービスの言葉は、懸命に拳を突き出すシンタローには、聞こえてはいないだろう。
 サービスは、声ばかりでなく、心で、その名を呼んだ。
 ジャンは、もう目の前にはいないのだった。シンタローの攻撃を受けながら、サービスは心で、呟きを繰り返す。
 ジャン、ジャン。
 忘れてはいないよ。お前の瞳の奥にあった心を、僕は忘れてはいない。



 ごめんよ、ジャン。
 この子をお前と、見誤った僕を許して。
 お前はお前でしかないのに。お前の代わりなんて、いる訳がない。僕を救えるのは、お前しかいないんだ。代わりなんて、いないんだ。
 ずっと……悩んできた。
 でも、この子の目を見た瞬間に、すべてがわかった。
 この子にお前を見るなんて、僕は、お前を捨てる所だった。なんて長い間、僕はお前を捨てようとしていたのだろう。
 苦しみから逃げるために、僕はお前を捨てることばかり考えていた。
 そして同じように――シンタローはシンタローでしかないのに。
 ごめん、シンタロー。お前だって、この必死に拳を打ち込んでくるお前だって、たった一人のシンタローなのだ。
 僕は、お前の叔父なのだ。
 僕は、ジャンが死んだ後、まったくの新しい出会いを、お前としたのだ。
 ジャンが死んでからの時間は、無意味ではなかった。
 シンタロー、お前と新しく出会ったということ、お前の叔父となったということ、それが、ジャンの死後も僕が生きていたという証。
 屍の日々に、こうして意味を与えてくれる者が、存在したということ。
 僕はその真実に、今頃になって気付いた。僕が生きながらえたことは、無駄ではなかったのだ。
 ジャン、ジャン。
 何故、死んだのだ。
 ――ジャン……!



 突如、サービスはうずくまった。
 駆け寄ってくる足音だけが、聞こえていた。
「おじさん!」



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『おわかりでしょう、マジック様。いったん、手をお放しになることです』
 異端児の発達障害の原因は、あなたにある。
 いつもべったり側につかずに、一時でもいいから彼を手放して、その精神的苦悩を軽減してやればよいのではないかと。
 そう自分は、あの男に告げたのだ。他意はない。医者としての正直な発言だ。それぐらいしか理由はもう考えつかなかった。何もあの男が、よりによってサービスに、溺愛するシンタローを預けるなんて、私も予想してはいない。
 とにかく、逆に自分に向かって、あの男は問うたのだ。
 お前はグンマから手を離さなくてもいいのか、と。
 医学が隠れ蓑か、とも続けて皮肉を言われたが、その通りだと思う。それが私の相変わらずの生態だからだ。
 総帥だって相変わらずだ。私たちのことが結局はどうでもいい癖に、惰性で関っている振りをする。
 そのことが苛立たしくなると同時に、好都合だとも思い、最後は自分は何を憎んでいるのだろうかと不思議になる。
 鬱屈している時は、こう考える時がある。
 自分が執着しているのは、もとは亡きあの御方その人であったはずなのに、何をもこんなに自分は総帥やその本当の息子に、手をかけているのかと。
 目的と手段が混在して、いつしか摩り替わっている。
 ルーザー様の復讐をなすために、私はあの憎い男の子供を育てていたはずなのに、またルーザー様の子供を育てさせていたはずなのに。
 いつしか、手段が私の生活のすべてになってしまっている。
 その成長が、私の……。



 気配と足音――あなたの。
「……高松」
 遠慮がちに研究室の扉が開いた。薄く開いた隙間から、金色の巻き毛が見え隠れする。
 夜も更けたしじま、あなたの声が響き、私の思念のもつれる糸を断つ。
「お紅茶、入れたよぉ」
 迷惑だろうか、と自分を窺う青い目。
 そんなあなたが安心できるように、私は目を細め、唇の両端を上げて、誤解しようのない完璧な笑顔を見せる。
 グンマ様、遠慮なんてなさらなくていいのですよ、という風に。
 まずは翳りのない笑顔を覚えること、あなたとの日々は、そうして始まった。
 私があなたのことを迷惑がったことなど、今までにありますか。



 安心したのか、小さな足音と共に、あなたが部屋に入ってくる。
 あなたは手にトレイを持ち、その上にカップとソーサー、ポットを乗せて、平衡感覚を保つように、そうっとそうっと歩いてくる。
 その途中で私と視線が合い、嬉しそうに微笑む。
 あなたは私の背中に回り、右からにしようか、左からにしようか迷ったあげく、右から私の手元を今度は無遠慮に覗き込む。それはあなたが右利きだからで、無遠慮なのは甘えているから。
 『難しそう』と半ば反射的にあなたは呟いて、瞬きをした。
「ああ、すみません。やって頂いて」
 私は、ようやっと体ごと振り向いて、カップを乗せたソーサーを、不器用にデスクに置こうとしているあなたから、トレイごとを受け取る。
 少しでも遅れていたら、大事な資料の上に、中身をぶちまけられている危険性があった。
 私が座っていた椅子を引き、右足を伸ばして行儀悪く、デスク脇に重ねてあった丸椅子をこちらに寄せると、あなたはまた邪気なく笑って、その一番上の丸椅子をはずし、私とあなたの間に置いた。
 二番目の丸椅子を、自分の尻の下に据える。
 私は、間の丸椅子にトレイを置いて、やっと人心地つくことができたのだった。



 芳香が立ち昇る。
 コーヒーと同じで、誰が入れてもその味に不満な私であったのだけれど、あなたの入れた紅茶だけは美味しい。
 それでもあなたは、マジックおじ様に紅茶の入れ方を教わったら、一番に高松に飲ませてあげるね、等と、もう幾度となく聞いた話を再び口にし、これで十分美味しいのだという私の評価を信じてはくれなかった。
 あなたが総帥のことを口にする時、私は内心、平静ではいられない。
 胸によぎる感情は、嫉妬か、怒りか、または罪悪の意識か。
 いつか、あなたが、あの男を父と認め、『お父さん』等と甘えかかる日が来るのではないかと、私にはもう見向きもしてくれなくなるのではないかと、馬鹿な妄想を抱いている。
 あなたなんて。
 ただの取替え子なのに。
 ルーザー様の死を導いた憎いあの男の、息子であるのに。
 そう考えれば、あなたが憎くなる。憎くてたまらなくなる。



 高松の部屋には、窓がなくって、さみしいね、と。
 私たちは、同じ話題ばかりを繰り返す。それしかやることがない。
 グンマ様の研究室は素敵ですね、緑に囲まれていて。窓が開いていて。私がそう言うと、にっこりとするのが、あなたの儀式。
 その研究室の仕様の違いは、主に私とあなたの研究の質の差によるものなのだけれど。そして性向。
 私は、いつもあなたには、明るい日の差す部屋にいて欲しいと思う。
 同じ温室の花であるにしても、暗い温室より、輝く温室にいて欲しいと思う。
 自分も紅茶を飲むあなた。薄いティーカップにつけられる唇。こくりと動く喉。一口飲むたびに、つく吐息。いつものあなた。
 そんなあなたを見ながら、私もいつものように、何気ない会話をかわしながら、心の内であなたに語りかけるのだ。
 ――グンマ様。
 私とサービスが取替えなければ、今頃サービスと修行に出ていたのは、シンタローくんではなく、あなたであったのかもしれませんね。
 グンマ様、そしてあなたはこんな風には育たなかった。
 取替えが行われなかった仮定世界のあなたは、総帥に溺愛されていたのでしょうか。何でも与えられて育ったのでしょうか。何不自由なく?
 いや……直感的には、私はそうは思えません。何故か、どうしてか、そうは思えないのが、恐ろしいことです。これも私の嫉妬の感情からでしょうか。
 グンマ様……。
 あなたは、ルーザー様のお写真を、寝室に飾っておいでですね。尊敬を込めた目で見つめ、大切にしておられますね。
 お父様が、欲しいですか。
 私では、あなたのお父様にはなれませんものね。
 憎くて愛しいあなた。あなたが私に甘える。
 それは、私の他の誰にも存在を認められない子供が、すがってくるだけなのだと、私は考えているのです。もし父親がいれば、父親に懐くだろう。
 ああ、あなたには別にシンタローくんがいましたね。でも彼は今は――遠くの地に。本来のあなたがいるべきかもしれない場所に。



 この研究室には、仮眠用のソファと毛布があるのだった。
「ちゃんとあなたのお部屋のベッドでお休みなさい。グンマ様は体がお弱いのですから」
 私がそう言っても、あなたは知らんぷりだ。
「お薬は飲まれましたか」
「もう飲んだよぉ」
 最初からここに泊まるつもりだったのだと、私は苦笑する側で、あなたは。
 さっさと慣れた仕草で頭から毛布を被り、
「シンちゃん、どうしてるかなあ」
 等と呟いている。両脚を揃えて、ソファの肘掛を悪戯っ子のように蹴っている。
「シンタローくんはね、」
 私は、そう口にしてみる。
 あなたが、毛布から私を見つめてくる視線を感じる。期待の目。
 その、良いことを私が口にすると、純粋に信じて疑わない瞳に、私は負ける。いつも負ける。
 だから、今日も言う。
「サービスと、上手くやってますよ。きっと強くなって帰ってくるのでしょうね」
「そーだよねっ!」



 あなたの口から零れるシンタローの名に、私は同じ顔をした過去の男を思い出す。
 ――ジャン。
 共に学生時代を過ごした自分にも、一言も残さずに、綺麗に消えた男。
 友人を作らない自分が、いくらかなりとも親しいのだと感じていた男。
 あの黒髪の。黒い目をした。そしておそらくは、サービスを愛していた男。
 ……ジャンが死んだ日。
 私は、あの方が、喜びに狂う声を聞いたのだ。



 新人だった私は、先任研究員たちに彼らの研究のデータ処理のほとんどを命じられていて、眠る間もなく研究所に篭っていたのだった。
 遮蔽された窓からは陽の光が差し込むはずもなく、私は朝が来たことを、時計で知った。
 確かに体はくたくただった。目は作業に赤らみ、肩は硬直し、首は針金が何本も通ったように、ずきずきと痛んだ。
 それでも私の心は、疲弊するどころか幸福に満ちあふれていたのだ。
 あの方が、私と同じ空間にいることを、知っていたから。
 その頃の私は、あの方がいさえすれば、それでよかった。それだけで幸せだった。



 あの方が担当されていた新入団員の血液検査は、数日前に終了していたはずで、泊り込むほどの仕事が今日になっても残っているとは思えなかったが、それでも私は、日々の基礎研究に余念がないあの方を、流石だと感じた。
 最も優秀な人間が、最も勉強し、最も研究に没頭する。
 素晴らしいことだった。自分もあの方のようになれたらと、思った。
『……』
 握り続けていたペンを、置く。
 これで今日の分、いやもうとっくの昔に零時は越えて、すでに朝だったから、昨日の分の仕事は終わらせた私ではあったけれど、もう一つ、別の仕事を余計目に終わらせようかと、自分に気合を入れる。
 そのためには、足りない資料があった。
 私は立ち上がり、部屋を出て、廊下を歩き、資料室へと向かう。



 私は扉の前で、立ち尽くしていた。立ち尽くして、その音階のどこかずれた笑い声を、聞いていた。
 あの方の個人研究室の前なのだ。私の足は吸い付いたように動かない。
 やがて、扉が開く。開いて、美しい顔が私を見る。
 私はいつもそうされると、息が止まるほどの静けさと胸にぽっかりと穴が開くのと、その開いた場所に歓喜が流れ込んでくるのを感じている。
 珍しくあの方が、私の言葉を待っている気がしたので、私は慌てて、自分がここにいる言い訳を考えた。
『申し訳ありません、ルーザー様。資料室に向かう途中、声が聞こえたもので……その、お呼びかと……』
 嘘だ。引き寄せられるように、来てしまったのだ。
『お呼び?』
 一瞬、あの方の顔を軽侮の色が掠め、私はしまったと思ったが、すぐにその色は消えた。
 機嫌が良いのだと、私は思う。胸を撫で下ろす。



『ああ、しかも君は……』
 そう口にして、あの方は、私を舐めるように見回した。
 私の体は再び緊張した。息を詰めて、視線が通り過ぎるのを待つ。
 体内で荒れ狂う、感情さえも押し殺す。
 気に食わない研究員は無論、気に入った者でも一瞬でもミスを犯せば、容赦なくあの方は切り捨てるから、そして時には……無用と判断された瞬間に処理されるから……その感情は、彼の下につく者なら誰でもが持つ、恐怖と、防御本能と――加えて私の場合は、快感だった。
『いや、何でもないよ……何でもない……』
 クク、と忍び笑いをして、あの方は私の肩を、ぽんと叩いた。
 そして、もう私などいないかのように、くるりと踵を返し、『しばらく留守にする』とだけ言い残して、去っていった。
 朝の静まり返った時間であるので、やがて外から車のエンジン音が聞こえる。
 小さくなっていくそれは、あの方の私邸とは逆の方角に向かって、消えた。
 軍用空港へと続く道だと、思った。
 ジャンが命を落とした日、そのようにしてルーザー様は姿を消した。



 次に私が見たあの方は、死神に憑かれていた。
 数日姿を消した後、不意に彼は、夜も更けてから研究所を訪れた。
 これも廊下、挨拶のために下げた私の頭の先を、あの方は、ただ通り過ぎ、見送る私に、まるで幽鬼のような後姿を見せていた。
 彼を包んでいた研ぎ澄まされた意志の光は、もうなかった。
 そのまま、あの方は自室に篭った。静寂が流れた。気配すら、しなかった。
 その時までの私は、呼ばれるまでは、自分からあの方に近付くことはなかった。そんなオーラが、気高いあの方を取り巻いていたのだ。
 だが、何故か、予感めいたものを覚えて――
 死神が私を呼んだのかもしれない。
 信じられないことだが、私は無断であの方の部屋の、扉を開けた。ロックはされてはいなかった。
 暗い部屋だった。室内灯は消されていて、研究室というより穴倉に飛び込んだのかと錯覚するほどだった。
 奥に、ぼうっとスタンドの灯が、橙色の球が浮かんでいるかのように佇んでいて、デスクに向かって、あの方は私に背を向けていた。



 ――ルーザー様。
 別人だと思った。
 ここに座っている人は、私が崇拝していた方とは違う。これは、彼ではない。あの方ではない。
 ただの人だったのかと、尊いものが地に落ちたような、そんな幻滅さえ、私は感じていたのかもしれない。
 デスクに両肘をつき、額に両手をあてて俯いたまま、肩を落としていた。髪が乱れていた。開襟シャツの襟が乱れていた。肩にかけただけの白衣の左が落ちていた。そんな彼の姿を見るのは、私にとって初めてであったのだ。
 嘘のような傍若無人さで、私は、あの方に歩み寄った。
『……』
 あの方は振り返らなかった。言葉も発しなかった。
 しかし私の存在があることには、彼は気付いているのだと、わかった。今までの私は、彼は自分などには存在すら認めないのだと、思い込んでいたのに。
 ついに私は臆面もなく声をかける。もう遠慮などしない。
『ルーザー様』
 返事はなかったので、今度は囁くように呼ぶ。『ルーザー様』、と。
 微かに動いた、細い顎。横顔が見えた。私は雷に打たれたように感じた。
 この世の存在ではない天上の生き物だった、あの方は、まるで人間のような顔をしていた。まるで軽侮すべき衆愚のように。
 苦しんでいるのだとわかった。何か圧倒的な痛みに潰されかかっていて、必死にあがく弱者の顔だった。
 全身に震えが走って、よろめく体を支えようと、私は思わずデスクの端に、手をついてしまう。
 揺れるデスク、続く沈黙。動かないあの方の背中。
 やがて、ハッと気が付く私。慌てて、
「すみませ……」
 手を、引っ込めようとする私。
 ――と。
 浮かした私の手の甲に、乾いた皮膚が触れて。
 あの方が、その手を、私の手に重ねたのだと、遅れてわかった。



 私は……自分が、あの方に惹かれているのだということは、一目見た時から感じていた。
 それは偶像崇拝に似ていた。届かない神々しいものを、あがめる喜び。
 だが、この瞬間に。
 私は、初めて、愛を感じた。
 彼の手を、握り返した。触れてもいいのだと、電流に打たれたように理解した。
 ――傷付いたあの方の表情を、私はこれまでで一番美しいと、そう思った。



 それからすぐに、あの方は激戦区に身を投じ、帰らぬ人となった。
 あの方は命を絶たねばならなかった。
 清く美しい御方は、汚れた一族の中では生きていくことができないのだから。
 手折られた一輪の白い花は、風が吹けばあとは死ぬばかり。
 どうして、あの方を温室から出したのですか。どうしていつもの通り、守ってやらなかったのですか。どうして見捨てたのですか。
 総帥。



 表向きはジャンは戦死したと聞いていたが、後になって、傷付いたサービス自身から、自分が彼を殺したのだ、という告白を受けた。
 だが、本当にそれだけなのだろうか、と。総帥の顔を見るたびに、私は焼け付くように想う。
 歳月を過ごしながら、私は常に彼に握り潰されてきた真実を想う。
 あの若き日、士官学校に入学したばかりの私達が遭遇した、幽霊騒動の日から、いつも何かが隠されていることを、私は知っている。真実は常に隠されている。今度もまたそうなのではないだろうか。
 ――消えたジャンの死体。
 多少の虚実を交えて聞き出そうとしてみたものの、総帥はこっちの手には乗ってはこなかった
 ――投げ捨てられた秘石眼。
 サービス。アナタは今、遠い空の下、どうしているのでしょうね。
 ジャンに狂うことなしに、あの子と時を過ごすことができるのかどうかを、私は興味深く思っています。
 グンマ様と共にある私は、アナタが今味わっているだろう辛酸を、葛藤を、困惑を、幾度となく繰り返してきたのです。幾度となく。
 その苦しみが、アナタにわかりますか。自分だけが苦しんでいるのだという顔をして。そう、サービス、私はアナタだって、憎い――



 ――寝息が、聞こえる。
 私が物思いに耽る間に、あなたは眠り込んでしまっていました。
 穏やかな白い顔、やわらかく散った金の髪、今日のあなたは格別に綺麗だ。
 規則正しい寝息、私はこの寝息を聞くたびに、自分の脈拍が静まっていくことを知っている。憎しみの心が、静まっていく。
 寝かしつける時は……幼い頃のあなたは、こんな風にすんなりは眠っては下さらなかった。いつも、ぐずっては、私を呼んでいた。私は困って……そう、この研究室にあなたのために小さな寝床を作って、そこで一緒に夜を明かしたものでしたね。今と同じように。
 あなたはそれを覚えていますか。いるでしょうね。賢くていらっしゃいますから。
 だからこうして、大きくなられてからも、たまにこうして私の側で眠りたがるのですか。



 青い海の夢は、ご覧になってはいませんよね。眠るあなたの顔は、とても安らかだ。
 私は、いつしか食い入るようにその目鼻立ちを視線でなぞっていることに気付く。影を探していることに気付く。
 影を探すのは、自分の気持ちを確かめたいから。何故か本当の息子であるはずのシンタローくんには、その影を感じることはない。
 むしろあの子は……もう一人の死んだ友人に、似ているのです。空恐ろしい程に。ねえ、サービス。
 グンマ様。
 私は……ルーザー様の面影を色濃く残すあなたのその顔に、惹かれているのでしょうか。
 力を持てば、人は汚れる。そうでなければ、殺されるか、見捨てられるのです。
 グンマ様、あなたは美しい。
 あの男の息子でありながら、あなたこそがルーザー様の美しさを受け継がれておられるような気がしてなりません。
 ルーザー様。
 私は……一体、誰にお仕えしているのでしょうか。



 謎を、解きたいと思う。
 青の一族という研究対象に、私は惹かれている。その謎を解きほぐしたい。
 しかし私が、今さらに遠い昔のサービスの失われた秘石眼を欲しがる時点で、この研究の限界が露呈されている。
 生きた青の一族、つまり生体を切り刻むことは叶わないのだから、死体でさえもこの手に入らないのだから、せいぜいが血液分析、DNAおよびRNA解析で、データベースの構築ばかりにいまだ追われている。
 Perlの羅列を眺める無味乾燥なバイオインフォマティクス、青の代替物としての能力者ばかりの細胞をシャーレに浮かべ、決して青そのものには迫ることはできない。



 だから――
 私は、ひとつのカプセルを引き出しから取り出し、手の平の上で割る。
 黄色い粉、水色の粉、不自然な色に着色された不自然な配合。
 『お薬』。
 確かにこれは、特殊能力者を被験者として開発した、力の暴発を抑える薬。
 特殊能力を高める技術を開発すれば、それを損なう技術も開発されるのが常である。ベクトルは違えど、難易度にさして差はない。
 亡きあの方から受け継いだ研究は前者のみであるけれど、私は後者にも、ひそかに力を入れている。総帥には儀礼的に報告はしているものの、実用化しているとは告げてはいない。勝手な私の独断。
 あなたは良い子ですから、御自分の体のためだと思って、私の言うことを聞いて、この薬を飲み続けている。
 ただ、普通の特殊能力者はともかく、青の血にこれが効くとは、私は思っていない。こんなものに効果があるとは、私は思ってはいない。こんなちっぽけな屑など、あの全てを破壊するような青の衝動には無力でしかない。
 私はあなたの力が発動して、サービスのように、あなたが絶望の淵に落ち込むことがないようにと……そう、私の気休めですね、そのために……そうしているのです。
 私にできることは、せずにはいられないのです。それが仮に、あなたが望まないことであったとしても。



 ――グンマ様。
 現実として、あなたの瞳は秘石眼の力を発動しない。まだ幼くていらっしゃるからだとも言えますが、だが感情が高ぶった時にも、総帥のような青い光を帯びることがない。一族は、あなたから感じる青の波動が、弱いと言う。
 他の一族に比べて、明らかに体格が劣っている。虚弱気味である。
 何よりも、あなたは――とても、良い子だ。驚くほどに。悲しくなるほどに。
 これらのことは、とても薬のせいだと考えることはできない。サービスは私を疑っているようだが、それは、ありえない。遅々として進まない青の研究の進度、開発力からしても、ありえないことです。
 グンマ様。私は、思うのです。
 あなたは……あなたの意志で、御自分の力を発動させないのではありませんか。
 無意識に、無害な存在であろうとする、そんなあなたの心が、青としてのあなたを妨げているのではないですか。
 くだんの定例報告で、総帥にシンタローくんの分析を提示している間、私はそのことばかりを考えていました。
 小さくて可愛いあなた、無害でいつも微笑むあなた。
 その道をあなたに選ばせたのは、あなたとシンタローくんを取り替えた、この私のせいなのですか。
 私は、もう一度、あなたの安らかな寝顔に向かって、問いかける。
 今、私が見ているのは、誰なのですか。
 グンマ様、私はあなたを見ていると……それがわからなくなる。



 私は、ルーザー様を殺したあの男に、他ならぬルーザー様のお子を育てさせたかった。
 総帥がいつかそのことを知って、苦しむのを、この目で見たかった。
 できそこないとされる黒髪の子を育てさせられ、青の特徴を備えた自分の本当の子が、赤の他人の私に育てられたのだと知る日を、迎えさせてやりたかった。
 しかしそれ故に、総帥の子と知ってその息子を育てる私の方が、逆に長い年月を葛藤にまみれて過ごすことなど、あの時の若かった私には知ることはできなかった。



「……高松ぅ……」
 あなたの寝言が聞こえて、私は小さく笑った。
 これは私の本当の笑い。作り笑いでも薄笑いでも軽侮の笑いでもない。嘲笑でも無論ありません。
 あなたが、可愛らしくて、つい私は笑ってしまった。
 私の心は、こんな動き方をする。
 不思議ですよね……心が、幸せを感じている。たとえそれが、罪の上に立つ楼閣であったのだとしても。



 ――グンマ様。
 あなたの寝顔を目にする時、私の視線は自由を奪われる。あなたを見つめずにはいられない。
 決して……あの方の面影ばかりを、探しているのではないのです。おそらく。おそらくは。
 ――教えてください。
 どうして私は、憎い男の息子であるあなたに、執着するのでしょう。
 あの方の息子であるシンタローくんは、すっかりあの男に任せたままです。見守ってはいますが、何処か私は安心している自分を感じている。あの子はあれで幸せなのだと思っている。無責任? そうかもしれません。
 初めは総帥があの子に向ける溺愛を、内心では、ざまあみろと感じていたのに、いつかそれが幸せなことのような気がしている。欺瞞でしょうか。
 子供のことを考えれば、私などが愛情を注ぐよりも、まだあの男に育てられる方が良いのではないかと思っている所を見ると、私は人間としての自分に、ひどく自信がないのかもしれませんね。
 ……私は、とても褒められた人間ではない。それで結構、と勿論思ってはいるのですが、その信念が揺らぐことがある。あなたの笑顔を見る時に。
 なぜ、私はあなたをお育てしているのでしょうか。
 総帥に命じられたからではありません。許可は後からついてきた。断る口実はいくらでもあったが、私は、抗わなかった。
 ルーザー様のお子だと周囲に思わせなければならなかったから、サービスは、私があなたを溺愛する演技をしていたのだと考えている。教育係まで引き受けたのは、その演技の一環。演技、演技――
 もしかすると最初はそうだったのかもしれない。だが、すぐにそれは変わった。私は、幼いあなたに魅入られた。だから。
 私は、私自身の意志で、あなたをお育てしているのです。
 一体、何故?



 私は自分が思っているより、弱い人間なのではないかと気が付きました。
 おかしいですね、あの方が亡くなられてから、血も涙も私の体からは消え失せたのだと思っていたのに。
 あの方が亡くなられてからは、憎悪のみで生きるのだと決意したというのに。
 憎悪の中に……贖罪と安らぎを見つけ出そうとしている。それは逃げなのかもしれない。
 憎むことで生きる辛さから、私はあなたを愛することで、逃げ出そうとしているのかもしれない。
 罪のないあなたの笑顔に、自分勝手に癒されようとしている罪深い私。
 私はあなたに……救いを求めているのかもしれませんね。
 私があなたをお育てするのは、自分自身のためなのではないかと……ぼんやりと思うのです。グンマ様。
 勝手な男ですね。
 それでも、今の私が大事にしたいと思うのは、紛れもなくあなた。



「……たかま……つぅ……」
「何です、グンマ様。ああ、ああ、毛布を跳ねのけてしまって」
「……ん……」
「お風邪を召しますよ。ほら、ちゃんと。あったかくして」
「……」
 私は、あなたの体に毛布をしっかりかけた後、その投げ出された手に……自分の手を、重ねる。乾いた感触はしない。あなたの手は、あの方とは違う。優しい感触がする。
 ただ一つだけ確かな、私が失うことのできないもの。
 幾度となく私は彷徨い、辿り着く答え。サービスなどよりも早く、私は輝きへの道を見つけている。
 青の一族の大人たちは揃いも揃って馬鹿だから、あなたの輝きには気付かない。私だけが。あなたの持つ価値に、気付いている。私だけの掌中の珠。
 ――グンマ様。
 あなたの、お側にいさせてください。
 愛するあなた、私は救われようと思いながら、そんな資格はないと感じ、せめて救うことができたらと、そればかりを考えている。
 ただ、お救いしたいのです。今、私は。
 私がお救いしたいのは、目の前にいるあなた。
 青の闇から、あなただけを。



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 墨を掃いたような黒雲が月を覆い隠し、細い銀色の筋ばかりが、夜をつたう。
 サービスはその色に、亡き兄ルーザーの葬列を想った。
 香水を振り撒き、白い花を詰めた棺の色。墓に群れる人々の服の色。雨を降らせる雲の色。
 そうだ、この場所はジャンの墓場なのだと思う。
 聳え立つ岩たちは、墓標だった。天に近い場所、この頂。
 ――僕は、お前には訪れる墓すらないのだと。ずっと、そう思っていたのに。
 ここはお前が死んだ場所。僕がお前を殺した場所。そして僕が、自分自身を見失った場所。
 僕たちの、墓場。



 目眩がする。
 ここが墓場なのだと気付いた瞬間、精神が麻痺したように、何を考えることもできなくなった。今は誰をも憎くはなかった。ただ、自分はジャンを愛していたのだと感じた。
 いや、愛している……今も変わらずに。彼だけを、人生のただ一人の人として。
 彼に会いたいと、思った。
 会いたい。
 でも彼は、自分が殺したのだった。
 ある日、目の前に、黒髪の子が現れて、彼が長じる程に、もしかしてジャンが彼の内にいるのかもしれないと、漠然と、非現実的に、心の裏側でそう考えていた。
 ジャンの存在が消えたのだと思いたくなかった。逃げ出したかった。
 自分は本当は殺してはいない。
 何かの理由で、ジャンは生まれ変わったのだと、思考回路がもつれて、溺れた者が藁にすがるように、囚われていた。
 そんなはずないと、わかっていたのに。でも僕は。僕は――
 今、その妄念は消えた。
 シンタローはシンタローであって、その中にジャンはいなかったのだ。
 そしてジャンはジャンであるのだ。この場所で息絶え、二度とは戻らないのだ。
 ジャンは、本当にこの世から消えたのだ!



 ぐらりと身体が揺れて、サービスは崩れ落ちるように、痩せた土地に膝をつく。
 胸が強張る。内側から何かが壊れていく。砕かれていく。
 せり上がってくるものが喉を焦がす。歯の根が噛みあわず、かちかちと震えている。息ができない。
 瞳が乾く。見開く。美貌であるだけに、その表情は、蝋人形のようだった。
「う……くっ……あああっ……」
 宙を泳がせるように手を伸ばし、背を折る。
 サービスは、吐いた。
 びしゃりと音がし、体内から吐き出されていくもの。
 吐瀉物が臭気を放つ。荒れた大地と乾いた草、砂に塗れて。砂、かつてジャンの血を吸った砂。
 闇の中の吐瀉物は、あの日の血まみれの死体のようにどろりとし、敵兵たちの千切れた肉片のように飛び散り、醜い姿をしていた。それはサービスの吐き出した光景だった。



 どれほどの時が経ったか。
「……おじさん」
 背後から、声がかけられる。
 この墓場に、自分とジャンの血を吸った砂の記憶以外に、何者かが存在していたのだと、サービスは今さらのように感じて、不思議に思った。
 また、吐いた。
 すると背後の手が、遠慮がちにではあるが、自分の背を撫でるのを感じた。
 固形物はすでになく、透明な液体ばかりが込み上げてくる。
 もう吐くものがなくなっても、それでも吐いた。自分は何を吐き出しているのだろうと、頭の隅で考えている。
 やがて激しく咳き込んだ。
 それがおさまった頃に、おずおずとして、しかし芯のある声が、自分を呼んだ。
「おじさん」
 サービスは、振り向かずに答える。
「何だ」
「これ……」
 手元に差し出されたのは、濡れたタオル。汲み置きの水に浸してきたのだろうと思いながら、受け取る。
 甥は、いつから自分のこの醜態に気付いていたのだろうか。いつ声をかけるべきかと、戸惑いながら自分を見ていたのだろうか。
 ひやりと感じた布の冷たさが、サービスに現実を伝えてきた。
 いつか東の空の雲が、薄い輝きに縁取られていく。闇のヴェールが剥ぎ取られる前の、一瞬の静けさに満ちている。
 先刻まで二人を煌々と照らし出していた月は、夜の女王からミルク瓶の蓋の味気なさへと、次第にその姿を変えていく。



「カッコ悪いだろ……?」
 夜と朝の狭間で、サービスは呟いた。
 タオルでもう一度口元を拭き、立ち上がる。歩き出す。
 背後から、シンタローがついてくる足音が、くぐもって鼓膜に響く。
 サービスは、また言った。
「俺は、お前の思っていた叔父と、違っていたのじゃないのか。幻滅しないのか」
「なんで? そんなコトする訳ねえよ」
 戦いの場でうずくまった自分は、身を翻し、立ち尽くすこの甥を置いて、去った。そしてこの岩陰へと辿り着いた。
 もしかすると、シンタローは何処かへ逃げ出すかと思っていたのに。怯えて逃げても当然だ、もう金輪際、顔を合わせたくないと感じても、当然だと。そう思っていたのに。
 何故、シンタローはついてくる。まだ懐いてくる。



 サービスは歩く。歩きながら思う。
 シンタロー、お前は僕に、何を期待している?
 誰にも期待されることのなくなった、この僕に。
 愛する人を失い、兄を失い、眼を失い、罪を犯し、残った兄たちには失望と哀れみを受け、もう何ものも持っていない、この人間に。
 演じていた理想的な叔父であることを止め、お前に襲い掛かったこの木偶に。
 お前がずっと懐いていたのは、僕が演じていた理想的な叔父像ではなかったのか。
 だが、そう自嘲気味に目をすがめたサービスに向かって、息せき切ったシンタローは、意外なことを口にした。
「おじさんは、そのままで、十分、カッコイイよ!」



 ――そのままで。
「おじさんは、俺と本気で戦ってくれたじゃないか。俺、それが、すげェ嬉しかった」
 シンタロー。どうして、お前は。
「戦うおじさんを、初めて見たよ! 初めて、真剣な顔を見た。すっごくカッコよかったよ!」
 僕が、あの男とお前とは、別人であるとはっきりと認識した次の瞬間に。
『サービスはそのままで十分……』
 同じ台詞を吐く?
 サービスは、歩みを止めて、振り向いた。見下ろす。
 だが輝いた表情、訴える声、その黒い目は、尊敬する叔父としての僕を、やはり映し出しているのだ。
「そんな大人、今までいなかったよ! おじさんはやっぱ、スゲエよ!」
 大人、とお前が表現するのは。
「……マジックの奴なんか……」
 あの人のことだろう。
「すげーバカでさ」
 ああ、確かに馬鹿だね。
「でも、おじさんは、すっげー強ぇのにさ、まるで余裕なんかないみたいに、全身で俺と戦ってくれたじゃないか。そういうの、わかるよ!」
 サービスは再び感じた。この子は、僕に対して好意的解釈しかしない、ひどく過大評価をしていると。そこがジャンと似ている。
 だが、またこうも思う。
 まだあどけない表情をしていた頃の僕自身とも、シンタローは似ている。
 還りたい過去の自分に、似ている。
 過去の自分は、明るい未来をその目に見ているのだった。



「会いたかった、会いたくなかった」
 サービスは、一人呟いた。
 自分だけが無為に年を重ね、懐かしいものたちから取り残されていくのだと思っていた。
 あの日に、戻ることができたのならと、そればかり考えていた。
 シンタローの姿に、自分の犯した罪ばかりを、見ていた。
 この子は、こんな瞳をしていたのだと、気付くことがなかった。
 サービスは、息をついた。そして、今度ははっきりと言った。
「お前と出会うことができて、よかった」
 嬉しい顔をして、シンタローが大声で言う。
「ああ! 俺も叔父さんと出会えて、すっげえ嬉しい!」
「……どうしてお前は、そんな風に、誰をも憎むこともなく振舞える。俺を憎いとは思わないのか」
「へ? 何で? 何で俺が、おじさんを憎いの?」
 何故、自然体で、こんなことが言えるのだろう。
 誰かを、そして自分をも憎いばかりだった自分。どうしてお前は、誰をも憎まないでいられる。



「……お前と組み手をしたのは、初めてだったな」
「うん!」
 頷くシンタローに向かって、また歩き出したサービスは言った。
「これからはトレーニングに、それを加えよう」
「ほんと? おじさんが相手になって特訓してくれるの?」
「ああ。お前の弱点はわかった。明日から、」
 そこでサービスは東の空に差し込む陽の光を見て、『今日から』と言い直した。
 シンタローの頬が、緩んだ。それを見て、ああ、この子は、こんなことでも笑うのだなと考えた。
 この子はこんな表情をしていたのかと、やけに新鮮に感じられて。
 サービスの固かった頬も、微かに緩む。
「お前の基礎力強化に、俺も本格的に取り組むことにする。別メニューだ」
 うわあ、と甥っ子の目が、輝いた。嬉しげに叫ぶ。
「よっしゃ――! おじさんのテストに合格したってコトだね!」
 ……テスト、か。まあそれも……。
「やった! やった! 俺、結構強かったろ、おじさーん!」
「今まで、よく頑張ったな」
 先程まで戦っていた岩場に着いていた。あの闇のざわめきの影は、跡形もなく消えていた。
 跳ね回って喜ぶシンタローを、朝日が照らしていた。
 陽の光は、黄金色をしていた。青の一族が持つ色だった。
 だが、この色を持たないこの子は、もっと大切なものを持っているのかもしれないと、サービスは直感していた。



 青の一族が、持たないもの。それがこの子の内にある。
 サービスはそう感じ、遠い場所にいる長兄に想いを巡らせた。
 もしかすると、長兄も今の自分と同じ気持ちを、シンタローに抱いているのかもしれないと思った。
 過去の僕たちは、それぞれの戻りたい過去には帰ることが叶わずとも、シンタローによってやり直すことが、違う方向へと歩き出すことが、できるのではないかと。
 そんな根拠のない感覚を。僕が今、感じた予感。もしかすると、それをあなたも。
 兄さん。僕がこう気付くと知って、あなたはこの子を、僕に任せたのですか。
 それほどまでに、シンタローの輝きを信用していたのですか。
 そう、僕は知ってしまった。
 ジャンの身代わりなどではなく、この子自身が持つものの輝きを。病んだ青の血をものともしない、新しい息吹を。
 だって、兄さん――
 僕とあなたは、同じ者に、惹かれるのだから。
 あなたは、そんな僕をも……信用、していたのだろうか?
 血の匂いも死の匂いも、闇の皮が剥がれるのと同時に消えて、なぜか今は。
 生の匂いが……する。
 僕にとって、これがほんの少しだけの前進であっても。いまだ犯した罪からは逃れられないのだとしても。夜は再び過去の嘆きに、身を焦がすのだとしても。まだ憎くてたまらないのだとしても。
 今、この場所には――清浄な空気が満ちる。
 明るい輪郭に縁取られた平たい岩石の上には、砂の落ちきった砂時計が、所在なげに佇んでいる。
 砂の墓場に陽が昇る。静かな朝だった。
 サービスは、その輝きを、一心に見つめていた。






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