罪と快楽
「眠っていないのか、サービス」
いつの間にか、目の前に長兄が立っていた。
今、何時だろう?
ぼんやりした意識の中で、サービスはそう思う。
……いや……何時でもいい。時なんて、関係ない……。
「ルーザーは眠ったよ。お前も寝ないと体がもたない。ベッドに入りなさい」
「……」
「まさか、あれ以来ずっと眠っていないのではないだろうね?」
「……」
「お前は私に、生きると約束したんだよ。それを忘れてはいけない」
亡くした右眼が痛む。白くもやのかかる視界の中で、体の内部のそれだけが鮮明な感覚。その痛みだけが、僕が今生きている意味。
サービスは包帯の上から傷口を押さえた。ずくりと痛みが増していく。血の粘りを布の下に感じて、肌が総毛だった。
指に力を込める。顔の右半分に開いた穴にそれがめりこんでいく。塞がらない傷を痛めつけていく。
「……ッ……」
彼が初めて手にした一人の世界は、痛覚の世界だった。
痛み。もっと痛みを感じたいと思う。
痛みが欲しい。罪を感じたい。
「サービス。やめなさい」
兄の手が自分の腕を掴むのを感じる。冷たい強い手は自分を裁く手だった。生まれた時から絶対的に自分の上にある手だった。
わざと抵抗する。その手を払う。
「サービス」
掴まれた腕に感じる圧迫が強まる。自分は腕を逆手に捻られ、肩をきしませている。
痛い。痛くて……嬉しい。
サービスの左目に、生理的な涙が滲んだ。
嬉しいと感じる。僕にまだ涙が残っている。
痛みはすぐにじんわりとした熱さに変わり、麻薬のような罪を与えられている充足感が全身を包む。
その充足感の名は、恍惚であった。思わず口に出して言う。
「兄さん、もっと」
「……馬鹿」
言葉でもいい、もっと僕をなじって。痛めつけて。
傷つけて。
痛みによって意識がクリアになっていく。サービスは兄に抵抗することに熱中していく。
元々サービスは、士官学校で格闘においても首席を争う腕前だ。優しげな外見に似合わず、その技術には天性のものがある。
一瞬で自分の関節をはずし拘束から抜け出ると、体重を左足にかけて素早く中段に右足蹴りを入れる。
受け止められるが、そこで空いた上段に、人差し指と中指を折った裏拳を叩き込む。
「……」
マジックの鼻先寸前で止められた腕は再びねじ上げられた。後ろ手に床に押し倒され、組み敷かれる。
鈍い音がした。骨がきしむ。サービスは頬に触れる絨毯と、背中の兄の固い靴底の感覚に、またうっとりとなった。
圧迫された胸が苦しい。肺が空気を吸い込むことができない。震える舌、痺れる手足。
意識が遠のいてもいいはずなのに、呆れるほど意識は澄んで苦痛を感じたがっている。
もっと。もっと欲しい。屈辱が欲しい。
兄さん……。その強い力で、僕を支配して。
人は僕を美しいと言うけれど、本当は違う。
本当はこんなに醜いんだ。僕はあなたの前ではいつも自分を醜いとしか思えない。
そして僕はそっちの自分の方が好きだ。
もっと僕はちっぽけでくだらないものだと、教えて。
みじめなできそこないだと、教えて。
「……お前はそんなに私に傷つけてほしいのか」
冷たい声が頭上から降ってくる。上から押さえつけてくる軍靴の重みがまた加わった。
サービスは床に顔をつけたまま、うっすらと微笑んだ。
そう、そうだよ兄さん。そうやって冷たくして。
僕を支配する手。肩を掴まれ、乱暴に体を引きずり上げられ、壁に強く押し付けられた。
「くっ……」
そのままサービスの体は足をだらんと伸ばして座らされた格好になる。生気のない唇を開く。自分のはあはあという息がひどく煩かった。
耳元に、壁に向かって突き出された腕の、赤い軍服の感触がある。精悍な顔が寄せられる。
僕が失った眼をこの人は二つも持っている。
僕は心を失ったのにこの人はまだ持っている。
「親友を失い、眼を失ったか……無様だな、サービス……」
低い囁き声に体中の肌が粟立ち、ぞくぞくとしびれが押し寄せる。
眠れと言った兄。でもそんな兄自身が、あれからずっと眠ってはいないことを知っている。
来る。それは予感。
この瞬間をずっと待ちわびていた。
「……私から……大切なものを奪っていくのは楽しいか……」
「……ッ」
ああ……。
サービスは身を震わせた。髪の先まで甘い衝動が突き抜けていく。
残された目を瞑ってその感覚をより深く味わう。
学校の倉庫で、友と隠れてこっそり飲んだ葡萄酒のような感触が広がった。
禁じられた味。日なたから陰の奥底に埋められている、秘密。
ずっと感じていた。
夜、隣室から不自然なほどにこっそりと、外に出て行くジャンの気配。
たまに見せるぎこちない笑顔、
何気ない自分の視線に動揺する黒い瞳。
ふとした瞬間の違和感。
冷たい残り香。
気付かないようにしていた。
ただ、無意識にその秘密の香りを嗅ぐ時、サービスは二つの相反する快感を得ていたのかもしれない。
大切なものを奪われる快感と、それでもあの男は自分が支配しているという絶対的優越の快感を。
ジャンという存在においてのみ、サービスはマジックに完全に打ち勝つことができる。
彼から奪うことができるのだ。
だから自分はジャンに愛を与えず、鼠をじゃらす猫のように曖昧な関係を続け、彼と兄との関係をそのままにさせた。
そして今……自分を苦しめ罪の快楽に溺れさせるのは、この空虚感。
「何だその顔は。何か言いたいことでもあるのか」
サービスはずっと閉ざしていた唇を開く。
「奪ったのはあなただ」
あなたの存在が、この胸にジャンを引き込み、そして奪って穴を開けたのです。
僕はジャンがなくては生きられない。
でもそれでも生きているのはあなたのせいなんです。
だから今の僕は、奪われる痛みに縋って生きている。
奪い奪われることが、僕の快楽なんです。
あなたに支配されたい。
構って。無視しないで。僕を見て。奪われたい。
「兄さんは僕の大切なものを、いつも取っちゃうじゃないか!」
サービスは再び、マジックへと掴みかかる。
そして際限なく痛めつけられることを望んだ。
もう僕があなたから奪えるものは何もない。
だとしたら奪われる喜びに浸るしかないじゃないか。
愛してた、ジャン。僕はお前を愛してた。
でも兄さん……どうしてこんなに僕があなたにこだわるかわかりますか。
どうしてか、失ったはずの右眼の穴から、まだ僕にはあの海が見える。
まだ逃れられない。死はそんな僕の運命を司っている。
海に漂う僕を流す方向を決める青い潮。
そして生まれて初めて出会った死、父の死から始まる全ての死が、僕はあなたへとつながっているような気がする。
あの時も死を告げたのはあなた、今も死を告げるのはあなた。
僕の流れる道を決めるのはあなた。
僕を支配し踏みつける人。傷つける人。
兄さん、あなたの冷たい体からは。
いつも死の匂いがするんです……。
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サービスは感情に生きる人間だ。
普段は冷めているように見えるが、その実、周到な計算はしない。
隠した情熱を燃やし、激情をたぎらせて無意識の欲望に忠実に従う。
内心で一端思い込むと、それがどんなに非合理的なものであろうとも、頑なに心を守り続ける。
そこが可愛い。そこが自分と違う。そこが人に愛される。
私だって、本当にお前を可愛いと思っているんだよ……サービス。