挫折と恐怖

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 ルーザーはベットの中から、テラスの向こうに昇る朝日を見つめていた。
 広い窓は輝きを縁取り、部屋の闇を侵食していく。
 ――明けない夜はない、とかつて父は言った。
 あの頃、それはひどく当り前のことのように思えた。
 でも今は、その言葉の重さと残酷さを知ってしまった。
 もうこの明るい部屋に、夜は僕の心の中にしか残ってはいない。
 精密機械は一つ狂いが生じると、全てにその狂いが伝播していく。入り込んだウイルスは全身を苛む。
 ルーザーは生まれて初めての感覚にただ身体を震わせていた。まるで雨に凍える汚れた犬のようだ。
 僕は青の一族で、選ばれた人類であるのに。
 ……失態だ。
 この僕が、修正の効かないミスを犯してしまった。
 優秀な人間としての僕は崩れ去り、これからはきっと間違いしか犯すことができない無能になる。
 こんな木偶人形が、一族のために生きていくことができるだろうか。
 兄さんを支えていくことができるだろうか。
 できはしない。
 先日、研究所で右目を突き刺して殺した男のことが、脳裏に揺らめく。
 僕はサービスをあんなできそこないにした。



 ルーザーはそっと起き上がった。日の光の中、毛布の柔らかい感触が神経にさわったからだ。
 ベットから降り、窓を開けてテラスへと立つ。鳥のさえずる声がした。
 二階のこの部屋から見下ろす庭は、やわく春の息吹を主張している。窓を開けると、彼の薄いガウンの襟元を、澄んだ朝の空気がすり抜けていった。
「……」
 光の下に足をそっと踏み出し、側階段から芝生へと降りる。
 踝に朝露の濡れた感触がした。青草がやわらかくしなる。
 彼は白いベンチに腰掛けると、そのまま、ずっと庭中央にある噴水の水の動きを見ていた。さあさあと薄青色をした水は、弧を描いて流れ落ちる。
 この本邸の庭は、各地に数ある私邸のそれの中で、最もルーザーが気に入っていたものだった。
 細く直線的に伸びる花壇。ボーダーガーデンの手法で刈り揃えられた緑。
 花壇の手前から草丈の順に、植えられた低い草がグラデーションのように背の高い宿根草や潅木へと連なっていく。
 整然と、各々が決められた短さで命を生い茂らせている。



 ……しかし今、なぜかルーザーの脳裏に浮かぶのは、かつて東欧の国で見た、場違いなあの日本庭園だ。
 水もないのに海を表現しようとした、不可思議な空間。混沌の美。
 兄が言う情とは、あの庭のように全てが秩序立たずに混在し、溶かし込まれているものなのだろうか。
 ないものであるものが生み出される未知の空間。
 相交わるはずのない青のサービスと赤のジャンの間に存在したものも、情。
 論理の存在しない幽玄の場。
 美しくない。
 情の世界。
 ――そういえば、もうすぐあの実験の結果が出る。
 彼はあと数ヶ月で生まれるだろう、自分の子供のことを思った。
 その子の両眼が秘石眼であれば、ルーザーの説の正しさが裏付けられるはずであった。
 しかしいくら考えても、もう理論や実験のことを考える時に湧き出してくる、あの楽しさは彼の心には戻ってはこないのだった。
 一度間違ってしまった自分は、もう正しさについて考えることができない。
 間違うことへの恐怖だけに、思考が囚われてしまう。
 不安定な足場が崩れることだけに、意識が向いてしまう。



「……兄貴」
 いつの間にか噴水の縁にハーレムが腰掛け、不機嫌な顔でこちらを見つめていた。
 ルーザーはゆっくりと視線を動かし、弟の顔を眺めた。
 こちらを見ているだけで、近寄ってこようとはしない弟。
 彼は昨夜、自分を偽善者と呼んだのだ。そう呼ばれたのは、はじめてだった。
 偽善者。善いことを偽る者ということか。
 自分が今まで信じてきた正しさは、全て偽りだと弟は言いたかったのだろうか。
 そもそも正しさとは何だ。偽りとは。
 ルーザーは、額に手をあて、俯いた。
 もう自分にはわからない。何もかもが。
「兄貴」
 ハーレムがまた呼ぶ。
「……ハーレム」
 しかしわずかに顔を上げて応じた自分に、弟はそっぽを向いた。



 この弟は、昔からやること為すこと、いつもちぐはぐだ。
 非論理的で場当たり的。
 これも情? 
 あんなに怒っていた、この子がここにいることも情というもの?
「……どーして、たった一回失敗しただけでそんなボロボロになれンだよ、アンタ」
 そっぽを向いたままのハーレムの声が、風に乗って流れていく。
 一回失敗しただけ。そうルーザーは、口の中で呟いた。
 よくそんなことが言えると思う。
 僕は全てを失ったのに。それなのに、この弟は。
「俺なんかアンタの何百倍も失敗してるぜ。成功する方が珍しいってよく笑われる……アンタだって笑うよナ。だけど、そんなん全然気にしねェ。結構、そーいうのはどーでもイイって思ってる」
 正面を向いた弟の顔に、ルーザーは目をやった。力なく言う。
「……お前はそうだろうね」
「ケッ! そうさ、俺はそういうバカなヤツなんだよ。だから、アンタみたいなのがグジャグジャしてるとムカツイて吐きそうさ」
 そう吐き捨てると、また三男は脇を向いた。
 噴水脇の常緑樹に小鳥が止まり、高い声で仲間を呼んだ。そのまま羽を広げて飛び立っていく。
 ハーレムは、まるでそれがひどく神経に障ることであるかのように顔をしかめている。
「チッ……とにかくさ、」
 彼は言葉を継いだ。
「マジック兄貴が、一族同士争うなっつって決めたんだ……仕方ねェよ。アンタもさ、いっつもアンタが言うみたいに、一族のために働いて責任取ること考え」
「もう無理だよ」
 ルーザーがそれを遮る。もう一度確かめるように言い直す。
「僕はもう無理だよ、ハーレム」
 弟は目を見開いている。
「はァ? 甘えたコトぬかしてんじゃねーぜ、挫折も知らねー天才様がよ」
「無理なんだよ……」
 押し殺した声が、風の中で溶けていく。



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「……なッ! 正気かよルーザー兄貴! それだけはやめろよッ!」
「でも、それをしないと僕は恐ろしくて仕方がない」
「コワくてビビッたからって、そりゃアンタの問題だろォが! もうこれ以上他を巻き込むなよ!」
「でも、僕はこのままではいられない」
「だいたい総帥命令違反じゃんかよ……アンタがそれをすんのかよォ……」
 電光のように閃いた救い。
 それはルーザー自らが、サービスに真実を告げることだった。
 サービスに裁いてもらうのだ。ジャンを殺した自分を。
 計算ミスを修正するとしたら、数式に正しい数値を代入しなおしてみるしかない。
 それと同じように、間違いを修正できるとしたら、それは正確な真実を当てはめ直すことしかないのではないだろうか。
 だからサービスに。サービスに、僕を。
「やめろよォ……お願いだからやめてくれよォ、兄貴ィ……」
 どうしたことだろう、名案だと思ったのに。
 初めて自分で考えて出した答えに、弟は自分の足元で泣いている。



「ナンで、ナンでこんなコトわかんねーんだよ! サービスが可哀想だろっ……」
「可哀想だから告げるんだよ」
「また間違ってる! また間違ってるよアンタ……」
 また間違っている?
 どこだ? どの部分で自分はミスをした?
「サービスは、自分がジャンを傷つけたってことで落ち込んでんだよ! その上、尊敬してるアンタが真犯人だって知ったら……アンタを憎めないサービスは、きっと死んじまうよ……」
 そういうものなのだろうか。
 わからない。わからないよ。
「なんでマジック兄貴はアンタにはっきり教えてやんないんだろ……どーしていっつも、俺が壊れてるアンタに……」
 そう、兄さんは――
「サービスには言わないでくれよ……お願いだから……」
 情の塊のような弟が語る情の世界。
 その世界は耐えられない程に、恐ろしかった。



 ルーザーは青く晴れた空を見上げた。
 雲と一緒に、鳥たちが山の向こうを目指して飛んで行く。
 やはり僕はもう……このままでは、いられない。
 ここから外に、出たい……。
 あの美しかった世界へと還りたい。






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