審判

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 この世に人を裁く神は存在するのだろうか。
 少なくとも、生まれてから今日まで、神は僕の側にあったことがない。
 絶対者として側にあったものは、欲望をつかさどる青い光を放つ石。
 そして、その象徴である、兄。
 支配され、僕のすべてが最初から最後まで決められている美しい世界。



 僕が心の奥底の道をたどる時、光の射す方に向かうと必ず行き着くのが、緑の草原だ。
 まだ父が生きていた頃、年に数回の短い休暇を、僕たちはよく南アルプスの高原で過ごした。
 子供の足には果てがないと思われた青い海原。
 僕たち四人は、思い思いに大地を駆け、草の波をさざめかせた。
 朝の露にきらめくる青草、広大な湖、優しい馬、小さな花。石の橋。
 甘い香りの中で、僕はうっとりと目を閉じる。
 父や兄が僕の名前を呼ぶ。でも僕は草の中に隠れて返事をしない。
 草の青さと色とりどりの花々、昆虫たちが、僕に話しかけてくるからだ。
 この世の全てに生きるものの秘密を知りたい。
 こうして握り潰すと、一瞬で消える命。
 ――こんなに儚いものたちが、この世界を支えている。
 兄が世界を望むのなら、僕は世界の秘密を知ることを望む。
 そう、僕は知りたかっただけなのに。



『マジック兄さん!』
 ……隣室で末っ子の声がする。
『ルーザー兄さんがEブロックに行くって本当かい!?』
『ああ……本人の希望だ』
 そう、僕がそう言ったんだよ。
『どうして! あそこは激戦区じゃないか! ルーザー兄さんを止めてよ!』
『勿論説得したさ。しかしあいつも聞かん奴だからな』
『何故だよ……もうすぐ子供も生まれるのに……ルーザー兄さんみたいに大人しい人に、戦場は無理だよ!』
 無理だから、行きたいんだよサービス。
『アイツはお前が思ってる程ヤワな奴じゃねぇよ!』
 ハーレムの声が響き、壁を乱暴に叩く音がする。
『血まみれの戦場の方がアイツにふさわしいぜ!』
『ハーレム! 実の兄だぞッ!』
『……俺はアイツのことを――そんな大層なモンだと思っちゃいねえよッ!』
 この弟は、あの朝、泣き崩れながら僕に怒っていた。
 もう許してはくれないだろう。
 あの子は僕のことが嫌いなんだろうな……。
 知りたくないこと。
 わからないまま、置いてけぼりにしてきたこと。
 どちらでも良かったこと。
 その見えなかった世界の裏側の部分が、今、僕を苦しめる。
 生きることの苦しさ、情の世界。
『マジック兄さんは強いから、わかんないんだよッ! 僕やルーザー兄さんの気持ちなんて全くわかっちゃくれないんだ……ッ』
 サービス、お前はこれ以上悲しまなくていいのに。
『僕から、ルーザー兄さんまで奪わないで……』



 僕が心の奥底の道をたどる時、闇の深い方に向かうと必ず行き着くのが、暗い寝床の中だ。
 父が亡くなった後、僕は弟達を寝かしつけ、本を読みながら遅い兄の帰りを待つのが役目で。
 その頃の僕たちは、本部内の居住空間に転居していた。子供三人だけで元の広い邸宅に住むのは嫌だった。
 長い時の後、軍靴の音が近づき、寝室の扉がそっと開く。
 まだ起きていたのか、という声がして、側の双子のベットを見てまわった後、兄は僕にお休みを言う。
 彼は部屋を出て行き、しばらくして隣室で小さな物音を立てる。
 書類をめくる音。爪がグラスに触れる音。きしむ椅子の音。
 燭台の蝋燭を吹き消す音がするまで、僕はずっと扉の隙間から漏れる明かりを見ている。
 兄さんは、もう一度この部屋に来てくれるだろうか。
 もう一度来てくれたら、僕はその前でやっと泣くことができる。
 父の死以来、僕の心に生まれた漠然とした不安。それは黒い蛇のようにとぐろを巻き、この家全体を包んでいる。
 僕たち四人は自分の足で立たなければ、呆気なく壊れてしまうガラス細工の上で暮らしていた。
 選ばれた者の強さを持つ兄さん。それに素直に甘えていける弟たち。
 私の留守中は、ルーザー、お前が家族を守るんだ。
 そう兄に肩を抱かれて、たとえ実際の所は守られるだけだったとしても、僕は僕なりに強くならなければならなかった。
 他にやり方を知らない僕は、完璧を目指して機械的に弟たちを管理した。
 兄が一日の終わりに言ってくれる『お休み』の及第点を貰うために、僕は夜を待ち、その後は寝床の中で、泣きたい本当の気持ちと戦い続ける。
 暗く青い海の中で一人溺れ続ける。
 蝋燭を消した後、そのまま別室に去ってしまう兄の足音を静かに聞いている。
 僕は弱い。決して強い人にはなれない運命なんだ。
 そして強き者は弱き者の気持ちを知らない。
 ――こんなに儚い僕の心が、この家族を支えている。
 兄がそうすることを望むのなら、僕はそれに従うことを望む。
 何が正しいかなんて最初からわからなかったんだ。
 あなたの作る美しい世界にいたのだから。
 そう、僕は知らなかっただけなのに。



「兄さん、僕は裁かれますか?」
 罪を知らなかっただけなのに、それが罪だと言うのだろうか。
「兄さん、僕は罰せられるのでしょうか」
 弟を傷つけた。取り返しのつかないことをしてしまった。
 この瞬間に、だけど僕は少し嬉しくなった。
 最初に僕の心を苦しめていたのは、自分の青の一族としての判断ミスだった。
 結果的に優秀な一族の一人を不能にし、自らをも廃材にした。
 思考計算の網目が破れて僕は出来損ないになり、それがいたたまれずに自分を壊してしまいたくて、こうして戦場に来た。
 なぜなら、できそこないは、処理しなければならないから。
 だが、今心に浮かぶのは、どうしようもない痛みと孤独感だ。
 サービス。あの子を傷つけた。
 ハーレム。あの子を泣かせた。
 そのことに対する純粋な痛みだけが、最後の胸に残る。
 これが情?
 だとしたら、僕はたしかに罪を犯した。



 私には裁くことはできない、と兄は言う。
 僕はあなたの及第と失格の判定がほしかったのに、自分で決着をつけるようにと望まれた。
 酷い人だ。それが、僕が一番苦手なことだと知りながら。
 ずっと罪を教えてくれなかったのに、突然罰さえまでも自分で決めろと言う。
 僕はあなたとは違うんです、と言うと答えは返って来なかった。
 すべてが最初から最後まで決められているのではなかったのですか。
 そんな美しい世界に、僕は住んではいなかったのですか。
 僕より半年しか早く生を受けてはいないのに、常に僕の上に立ってきたあなた。
 ずっと二人一緒にいて、他の誰よりも誰からよりも僕を縛ってきたあなた。
 今までさんざん甘やかして外の本当の世界を隠してきたあなた。
 ……僕と似た姿と心を持つ人。
 だから僕はこのさよならの瞬間に、外に出たかった。
 僕は世界と海とあなたに負けた、汚れた負け犬、敗北者ルーザー。
 だけど良かった。
 この最後の瞬間に、僕は情の罪悪感に触れることができた。
 これが裁かれるということでしょうか?
 辛いです。
 苦しいです。
 みんなが恋しいです。
 生まれる子供、の……顔が見てみたかった。
 でも、今の僕になら、またあなたは『お休み』を言ってくれるのでしょうか。
 目の前の闇がまた、深くなってきました。
 あの海が、僕を……。
 ……。
 ……助けて、兄さん……。





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