葬送
遺体さえ戻らなかった。
牧師が聖書を読む声だけが、礼拝堂に木霊していた。
祈れ。考えずに……ただ祈れ、と。
ハーレムは神を信じない。もっともらしい顔で頭を垂れる人々は、更に信じられない。
いや、一番信じられないのは、俺たち兄弟。
涙を流しているのは皆他人で、死者と血を分けた人間たちは、黒服の中でどこか冷めた目をしている。
昨晩の三人だけの前夜式。
空っぽの棺に、どの遺品を入れるかを話した時以外は、みな口を閉ざしたままだった。
「その秘石、入れちまえよ」
そう言った自分の言葉は、白い霊安室で空しく響き、硬い大理石の壁に弾けて消えた。
ルーザー兄貴……。
ハーレムは俯き、その耳をまた牧師の声が空しく通り過ぎていった。
青い石。
こんなにまでして、守らなければならない一族の血とは何だろうと、ハーレムは心に問いかける。
血はどこから来て、どこに行くのだろう。
大事なものを犠牲にして守って、それで何になるというのだろう。
一族内部で争うな。
聞き飽きた程に繰り返された『仲良くしなさい』という長兄の言葉も、もしかしたら自分たちを思ってのことではなく、この石のためのものだったのかもしれないと、もう幾度目かの疑いが胸を掠める。
――あの石が憎い。
とめどなく胸の奥に灯る感情が、ハーレムを苦しめている。
しかし同時に体の中にうずく血の躍動。憎しみと共に、足先から脳天にまで突き抜ける、血潮に支配されているという恐怖。
この体は自分のものではないと、絶えず教えてくる本能。
石は今、黒服に身を包んだマジックの側にある。
礼拝堂の最前席に座っている彼は、昨晩と同じく冷たい顔をしていた。
眉一つ動かしやがらねェ。
牧師が祈れと言えば、そのままの顔で目を瞑って祈っている。
この時、彼にはこの一族総帥が化け物のように見えた。
青い血のためには全てを切り捨てても平気な顔。この人は時々……いやいつもこういう顔をする。
こっちの顔が本当の顔なんじゃないのか。
あの厳しい顔の内面で、一族が揉め事を起こして内部分裂するくらいなら、死んでしまえとでも考えていたのではないか。
兄貴……。
もう一人きりになっちまった俺の兄貴。
ハーレムは心の中でいつもの遠い背中に問いかける。
アンタはルーザー兄貴が死んでも、サービスが壊れても、青い石を守ることの方が大事なのかよ。一族を守ることの方が、俺たちよりも大切なのかよ。
兄弟の……俺の面倒をよく見るのも、あの石のためなのか?
俺たちを甘やかして弱くしたのも、自分が支配しやすくするためか?
本当はアンタこそ、俺たちを道具としてしか見ていないんじゃないのか。
それはハーレムが長い間、考えないようにして秘めていた想い。
ずっと……怖かった。考えることも怖かったし、兄自体も怖かった。
ルーザーに対する恐怖とは別に、マジックに対するそれは、無条件に与えられ可愛がられる恐怖だった。
「……」
ハーレムは、自分の隣に端座するサービスを見やる。
眼をなくしたあの日から、弟の生気のない表情は全く変わっていないように映った。
父の葬儀の時は自分たちはどうしていたのだろう、とふと考える。
自分は、自分たち双子は幼いながらにちゃんと儀式を終えることができたのだろうか。
彼には、その遠い記憶はない。きっとそのことは、今では長兄しか知らないことなのだろう。
聖書朗読が終わり、起立して賛美歌斉唱が始まる。弓状の天井にパイプオルガンの高音が鳴り響いた。
ハーレムにはとても歌えない。サービスの声も聞こえない。
美しい旋律は彼の心には、ひどく空しかった。
棺は礼拝堂を出て、親族の手によって雨にけぶる墓地に向かう。
中に入っているのは、香水の花。香水は、はじめて研究所に入るルーザーに、長兄に相談して自分たち双子が贈ったものだ。
昨晩、黒い棺の前で、サービスがその瓶を差し出した。死者が出陣の前に彼に渡しに来たのだという。
瓶の中身は、ほとんど減ってはいなかった。
受け取ったマジックは、無言で瓶の蓋を開け、祭壇上の白い花々にそれを振り撒いた。
ルーザーの香りがして、ハーレムは彼が自分たちが贈った物を使わずに、同じものをわざわざ買って使っていたのだと知った。
その花を棺に埋めた自分たち。だから、肩に担いだ箱はとても軽い。
降りしきる柔い雨が、薄い繭のように黒い葬列を押し包んでいた。
棺からわずかに漏れ匂う、死んだ兄の香り。雨に溶け、大気に溶けていく。
小高い丘に掘られた穴に、そこに存在しない兄の遺体が埋められていく。
濡れた土に懐かしい匂いがかき消されていく。
辛い。
匂いだけは土に還った。
だけど本当のルーザーはどこへ還ったのだろう。消えた彼は今、どこにいるのだろう。
ふと、ハーレムは傍らのマジックが隣にある父の墓を見つめていることに気付いた。
目を逸らす。その自分の逸らした視線の先に、高松がいた。
木陰にひっそりと立っている高松の顔は、心なしか青白く見えた。
独り言のように、近付いたハーレムに向かって呟く。
「……神を信じないあなたたち一族も、葬儀だけは英国プロテスタント式なんですね」
神を信じられればよかったと、ハーレムは思う。
信じられれば、あの世とやらにルーザーが出かけてしまっただけだと思えるだろう。
いつの瞬間かは知らないが、きっと自分が死んだらすぐ会える。
だが信じられない人間にとっては、遺体もない兄はただ突然消えてしまったという想いだけが残る。
「その教えは知ってますか」
淡々と聞いてくる高松。その黒い髪が、雨に濡れて艶を含んでいた。
彼の胸のネクタイに刺さった銀色のピンが鈍く光っている。
「……俺が知るかよ」
「あらゆる人は生まれながらに罪人。しかし神を信じた者だけが天国を許される。天国へ行くかどうかは本人次第だから、つまりはアナタ方や私が祈っても無駄ってことです」
だから葬式も無駄。わざとらしい悲哀も無駄。全てが無駄。
そう呟く高松の目は暗かった。
ハーレムはその奥に得体の知れない光を見たような気がした。
「その人の死後に祈るのなら、なぜその人が生きている間にその人を愛し救わなかったのか。偽善者。愚かな人間の満ちる世界からの死は、神の祝福。あの方は神に愛されたのです」
「……」
高松はどこかおかしかった。
彼がルーザーを敬愛していたことは知っていたが、そのバランスを崩した笑みは、ハーレムが初めて見るものだった。
「……高松」
背後に薄い気配がして、サービスの声がした。ゆらりと長い金髪をなびかせ、彼は高松の側に立つ。
サービスと高松は、二人でそのまま傘も差さずに雨の中を歩き出す。ハーレムなど、まるで存在しないかのように。
「……くっ……」
通り過ぎていく。
半身である自分を無視して、遠くへと自らさらわれていく。
置いていかれる。
「……サービスッ!」
呼んでも振り返らない弟。
『お前には関係ない』といういつもの台詞が、ハーレムの脳裏を木霊する。
足がまるで地面に吸い付いたように動かない。
――ああ、やっぱり俺の体も壊れた人形のようだ。
声をふりしぼって叫んだ。
「俺は、俺は、ずっと左眼が痛いんだよォッ……お前のせいで……ッ」
ハーレムは常緑樹の太い幹に両手をついた。濡れた木の皮が手の平に張り付き、粘る。黒い服と靴が泥にまみれた。
「俺を無視するなっ……どこ行くんだよ……」
その背中は小さく遠くなって人込みに溶けて行く。
消えて行く。
「サービス……」
真新しい土の盛られた墓の側から、長兄が自分と同じように、去っていく末弟の姿を見つめていた。