還る
最近ジャンは呼び出しに素直に応じない。
何のかんのと理由をつけ、逢瀬を遠回しに遅らせる。
マジックも強制的な命令として呼んではいないから、断るなら断ればいいと言ってある。
しかしどうしてかそれはしない。
今度も最初に呼んでから三日目の夜に、彼はやって来た。
厳しいことで有名な教官の授業で居眠りをし、罰当番と膨大な量の演習を言いつけられたらしい。
この三日間は死ぬかと思いました。そもそも昼間、居眠りをしたのはあなたのせいです、等と戯言を言うジャンに、マジックは唇の端を上げて見せたが、与えられた罰当番はともかく演習は、彼の能力なら全く負担にならない程度のものだと知っていた。
少しでも興味を持てば、それを知らずにはいられないマジックだ。
元々サービス担当の教官、つまりジャンの教官でもある――からは定期的に報告を受けていることもある。
どうしていつも、聞いた瞬間に嘘だとわかる言葉を吐くのだろう、この男は。
純粋な顔をして。
おそらくはジャンも、ばれていると知って小さな嘘をつき続けている。
小さな嘘をついてまで、一日か二日、自分の呼び出しを遅らせる。
結局は同じことであるのに。
そして一言来ないと言えば、すべては終わるし終わらせるつもりであるのに。
子供じみている。何の利益にもならない行為で非合理的だ。
非合理的な……そう、ジャンの複雑な心の安定の為にそれが必要なのだ。
難儀なことだ、とマジックは再び薄く笑う。
今日は自分の体の下で、どんな葛藤を見せてくれるのだろうか。
脱がせた体はただ熱かった。
ジャンとの情交は、他の人間相手とは何かが違う。
ただ熱いから、その体に沈み込む。
触れた相手の肌が熱いことだけがわかる、その肌と肌の狭間の海でずっと船に揺られているような、その感覚。
ジャンの肌からはどうしてか懐かしい匂いがする。
記憶の底に潜む原体験。
二つに別れたものがまた一つになるような。存在が全ての無に還っていくような。
還る。
呪縛を超えた時の向こうへと。
生まれる前に感じた何かに。
闇の海に堕ちる前の世界に。
マジックが日中この感覚を思い起こすことはないが、ごくたまに小さな風が胸を吹き抜ける瞬間に、風穴からこの記憶が染み出してくることがある。
だがしばらくは気付かない。気付いた時はもう手遅れだ。
じわじわと毒は四肢に回り、いつしか体の芯まで蝕まれている。
そうなってから仕方なくジャンを呼ぶことになるのだが――待たされる、じらされる。
最近ではそのこと自体にも面白みを覚えている自分がいる。
ジャン。いつも真実ははぐらかす男。
その重ねられる小さな嘘の背後には、マジックは、弟サービスの影があるのだろうと思っていた。
弟と寝たのかと聞くと『愛しています、サービスを……貴方に出会う前から』という曖昧な答えが返ってくる。
おそらく、寝てはいない。
この男は、本当に愛している相手とは寝ないということだ。
彼が自分と寝るのは、何かを隠しているという罪悪感からだろうか。
それとも義務感?
よくわからない。
幾層にもこの男の意識は跨っている。
塗り固めた小さな嘘の背後には、もっと大きな嘘と真実があるのか。
それとも何もないのか。
知れば知るほど、わからなくなる。
寝台がきしむ。
自分の息が乱れるのがわかり、相手が軽く呻く。黒い髪が跳ねる。
狭い体内に押し入る。
苦しそうにひそめられる相手の眉、ぎゅっと閉じられるその目蓋に向かって、自分は名前を呼ぶ。
「ジャン」
呼びかけに答えたのかそうでないのか、薄っすらと開いた彼の瞳は、ぼんやりとして遠くを見ている。
蝋燭の灯だけがゆらめく薄闇の中で、そこだけがまるで闇の海の一番深い底であるかのように黒い。
この黒い瞳だ。この瞳が自分を煽る。
「体は私に、心はサービスに、という訳か」
返事はない。
マジックは、本当はこの匂いに包まれたいだけで、ジャンとは体を繋げたいと思わない。
肌に触れるだけでいい。
抱きしめて夜を過ごすだけでいい。
それなのにこの男は自分を見ない。
憎悪と懐かしさの入り混じる粘ついた衝動が、自分にこの男を支配しろと訴える。
この両手の力で滅茶苦茶に壊してやりたい。跪かせて喘がせ、這いつくばらせ、泣き叫ぶ様を見たい。希望も夢も捨てて、ただ欲望に喘ぐ姿を見たい。
だから犯す。
この素朴で純な男が、欲望に囚われる瞬間を、マジックは見たかった。
さんざんじらされた分、ベットの上ではこちらがじらす。
相手が求めてくる時、どろりと粘る勝利感が全身を浸していく。
決して満たされることのない、刹那的な快楽は掴んだと思った瞬間、手の平をすり抜けて消えて行く。
そしてまた求める。
その全てを支配できないからこそ、手に入れたい。
お前が隠している何か。私の血を本能的に沸き立たせる何か。
際限のない欲望の無限連鎖。血を受け継がせることとは無縁の不毛な時間。
まったく非生産的でくだらない。非合理すぎて、説明することさえできない。
それがジャンとの情事だった。
――この漠然とした感覚は砂時計なのだ。
気怠い時間の後、彼は偶然手に入れたデスクの上のそれを見て、思う。
だからそのまま机に置いておくことが、最も早く砂がくびれを通り落ちる方法だ。
硝子に詰められた砂粒の数は、常に一定で増えもしなければ減りもしない。
ただそれは粛々と滑り落ち……出会った時から、最後の時間を刻んでいる――