美しい人
この頃高松は、研究所に詰めるようになっている。
実力主義を掲げるルーザーは士官学校生にすぎない高松を抜擢し、正式に自分の実験助手として任命した。奨学金も最高ランクのものを支給した上に、二年生に上がってからは個人研究費の助成までしてくれている。
まさに高松にとっては拝んでも拝み足りない相手がルーザーだった。
しかしそんな実益的なことよりも、彼にとってはルーザーの側で好きな研究を続けられることが一番重要なのだ。
高松は幸せだった。
その日ルーザーは深夜遅くに研究所にやってきた。
マジックの補佐の仕事があったらしく、紺のダブルスーツにシルバーのネクタイを締めている。その上に白衣を羽織ったラフな姿で、彼は高松に声をかけてきた。
「高松。例の実験準備はやってくれたかい」
大勢の年長の研究員の中から、真っ先に自分が話しかけられる幸せ。
それが例え事務的な内容で、ルーザー本人にとっては単に自分の実験が気になるからというだけであっても、そんな彼の関心を集める仕事を自分に任せてもらえることが誇らしかった。
「はい。全て整えております」
「そう。ありがとう」
にっこり微笑むルーザー。
この笑顔を見たいがために自分は頑張っている。
実は今日も研究コース必須の卒業論文の準備のために、ほとんど一睡もしていない状態であったのだが、そんなことは髪の毛ひとすじほども問題にならないくらいだ。
士官学校の2年は短い。だが高松にとっては、一生の内でこんなに充実した時があっただろうかと思える時間だった。
そして卒業後、彼はそのままこの研究所に研究員として採用が決まっている。更に推薦を貰えば、一族の主治医としての進路も開けている。
これからずっと、私はルーザー様をお手伝いしながら自分の好きなバイオ研究に打ち込める。
若くして最上の道を見つけることができた自分の何と幸運なことか。
ああっ……この高松、日頃から善行を積んだ甲斐がありました……。
神様っているもんですねぇ……。
そううっとりとしながら、無神論葬式仏教の日本人高松も、最近では神様を信じようかと思うのだ。
「もうじき被験者が来るはずだけど」
ルーザーが腕時計を見た。
研究所のファサード正面に囚人護送車が止まる。高松はルーザーと共に入り口に出て、それを迎えた。
夜の風が吹いて、目の前の月の色をした髪をふわりと巻き上げる。かすかに首筋から彼の香りがして、眩暈を起こしそうになる。
兵卒が拘束具をつけられた痩せた男を、両脇から抱えるようにして降りてきた。精神安定剤を打たれているのだろう、暗いうつろな目をしている。
「第五実験室に運ぶように。その奥の廊下を進んで突き当たって右……」
ルーザーは指示を出すと、男の目を覗き込んで言った。
「……久しぶりだね」
男は何の反応も返さない。そのまま兵卒に連れられていく。
彼はこの男と知り合いなのだろうか。
軽やかに身を翻して歩いていくルーザーの背中を追いながら、高松は不思議に思った。
渡された資料には勿論目を通してある。
微生物の注入によって皮膚細胞を破壊し、体内に自己抗体を作らせる。すると白血球は自他の区別をなくし、自己免疫機能不全を起こし細胞破壊とその変異を促進する。そこを人為的にコントロールして皮膚強皮症の状態を作り出す。
つまりは人体の皮膚を硬化させ、その戦闘能力を高めようとする生物兵器の生産がこの実験の目的だった。
男はその人体実験の被験者だ。
……志願者ということですが。
今日は実験開始より三年目の最終データ採取日に当たる。
拘束具を解かれ、下着一枚で台に横たえられる姿は哀れを誘った。
それでも茶色く変色したその肌に器具をセットすると、高松は注射器で男の肘の内側の静脈から、血液を採取した。
スライドに取り、血中の赤血球数、白血球数、ヘモグロビン、細胞分画の量を測る。
「高松。君は血小板凝集検査で混濁度測定をやって」
「はい」
ルーザー自身は皮膚の硬度を測定しているようだ。
「……まだ一工夫必要だね。1700HK。溶融アルミナにも満たない。三年置いてもこれか」
残念そうに呟く声。
溜息と、測定器を扱う自分の靴音だけが白い実験室に木霊していた。
兵卒たちが部屋外で待機している気配だけが感じられる。
……と。
地の底から響くような声がその静寂を破った。
「……自分はまた出来損ないですか」
高松は横たわる男の方を振り返った。実験用ライトの白光の中で、男のガラス玉のような目の背後に初めて意識が宿っていた。
ルーザーは男を見下ろしている。そして言った。
「ああ、君は常に出来損ないだった男だよ」
男は目に見えて震えだした。制御された光が、無機質なルーザーの優しい美貌を照らしている。
「……君は元々研究者になる資質を持ってはいなかった。だからコースから落としたのに。それでも僕の側に仕えたい、せめて被験者として使ってくれと言うから、その通り使ってあげたんだよ。それなのに君は耐え切れず逃げ出した。挙句の果てに僕の大事な弟、サービスに危険が及ぶような事件まで起こした……」
高松は昨年の幽霊騒ぎを思い出した。
――あの男か。
自分が資料室の合鍵を作っている間に、サービスを人質に取ってあわや自爆の騒ぎを起こした男。
高松自身は顔を見たことはなかったが。
死んだことになっていた彼は、あの事件の後、ひそかに監禁されていたのだろうか? 3年目の最終データを取得するために?
「僕たち一族に手を出したんだよ? 君は」
呆れたというルーザーの調子。
「出来損ないなら、それはそれでいいから周囲に迷惑をかけないようにすればいいんだよ。隠れて生きるか、より優秀な人間に使われるかだ。だけど君はそれすらもできなかった。君の存在は、世の中の無駄というより害悪のレベルにまで達してしまっている。そういう場合、出来損ないの処理はどうするか知ってるかい?」
静かにさとすような声で男に語りかけるルーザー。
男の赤茶けた肌から汗が噴出した。乾いて一滴の水分も持たないような体をしているのに。
そして彼はぶるりと大きく震えた。口を開けてしゃがれた声をあげる。
「ル……ルー……ザー……様……っ」
そしてどこにそんな力が残っていたのかと思える程の勢いで、金髪の男に襲い掛かった。
呆気に取られていた高松はハッと意識を覚醒させる。
「ルーザー様! 危ないッ!」
その瞬間、銀色の閃光がひらめいた。
男が顔面からどくどくと血を噴き出しながら、元通りに台に横たわっている。
枯れた喉がヒューヒューと断末魔の悲鳴をあげている。
「大丈夫。じゃあ続きを始めようか」
高松に向かってまたにっこり微笑むルーザー。
その白衣には返り血すらついてはいない。
彼はネクタイからタイピンを抜き取り、それを男の右眼球に突き刺していた。
おそらく銀製のピンの先は脳にまで達している。助かるまい。
自分が惹かれているのは、彼のこの憑かれた部分だ。
毒草の生まれ持つ純粋さ。
それゆえの美しさ。
自分も出来損ないであれば、こうして処理される。
それだからこそこの人の側に仕えることは、自分にとって魅惑的であるのだろうと高松は思った。