酷い男
「ああ……そこにかけてくれ」
出会ってから初めて椅子を勧められたジャンは、少し戸惑った。
慎重にマジックの背後の椅子に腰掛ける。
一瞬自分の潜入が発覚したのかと動揺したが、何か書き物をしている男の広い背中からは何も窺えない。
そのまま彼が話しかけてくる。
「今夜は君は来ないと思ったが来たね。驚いたよ」
「……どうしてですか」
「明日は初陣だろう。そんな日に私といるのかい? 呼び立てておきながら済まないが」
豪奢な椅子に座った背中が振り向いて、冷たい瞳が自分を見据える。
「いつもより声が僅かに高い。優秀な君でも戦は不安か」
どうやら自分の動揺を、初陣を控えた未熟者故の緊張ととってくれたようだ。
安堵する。
「はい。やはり実戦と演習訓練は違うと思いますから……と、こんなことをアナタに言うのもおかしいですよね。何と言ったかな、そう、釈迦? 説教? 昔、東洋の神様か何かが俺に教えを説くとはいい度胸だ! と怒ったらしいですよ。それと同じだ」
「日本の諺だね」
「ええ。高松が教えてくれました。あいつは性格は悪いが博学です。まあ日本人ですから知ってて当り前ですけど」
「ああ、ルーザーが随分と褒めていた。S種奨学金を出すだけのことはあるようだ」
当たり障りのない会話は途切れて、沈黙が降りる。暖炉がはぜて、乾いた音を立てた。
火花が男の端正な容貌と黄金色の髪を照らす。
長い足を組み、肘掛についた腕で形のいい顎を支えて物思いに耽っている様子は、ジャンには物珍しく見える。
そして、変だと感じた。
まるで……この人は油断しているみたいだ。そんなことはありえないのに。
そんなことはありえない。
冷たい夜は窓の外で息を潜めている。薄く曇った硝子がかたかた鳴って、その鼓動を伝える。
静かだ。
今この世で生きているのは、自分と目の前の男だけであるかのような想いに囚われる。
いや、まさかそんなはずはない。ジャンは微かに首を振る。
だってサービスが。
さっき見たサービスの笑顔が。
「今日は……」
男の声ではっとする。
駄目だ、自分までもが油断してしまっている。
この兄弟の間で自分はいつも使命を忘れさせられていく。
赤の秘石の指令で青の陣営に潜入して2年。
まだ士官学校の潜入に成功し、青の一族に取り入ることしかしていない。
大事なのはこれからだ。
一族の信用を得、優秀な働きをし、幹部として軍中枢部に入らなければならない。
ここで終わる訳にはいかない。
自分の使命はまだ始まったばかりなのだ。
ジャンは『はい』と答えて男の瞳を見た。
サービスの薄い瞳よりも深い青は、いつも彼をより不安な気持ちにさせた。
「今日は、君の話を聞きたい気分なんだ。何でもいい、君の話をしてくれないか」
「俺の、ですか?」
「君の、ね。私は眠いから目を瞑っているよ。一時間くらいで帰っていい。君も明日は早いだろうから」
思いがけないことを言われて戸惑う。
今日の総帥は変だ。
自分と寝ないことも初めてだが、話をしろとは。
一体何のつもりだろう。
そんな迷いが表情に出たのだろうか。
「おや、困り顔だね。じゃあ私が話題を決めるよ。君の生まれた土地の話をしなさい。確か南方の島の出身だということだが」
体の芯がすっと冷え、血の気が引いていく。
やはり彼は自分の正体を知ったのか?
「っ……」
身体を動かしかけたジャンは、椅子の上で固まった。
突然、男の強烈な瞳の力に捉えられる。
そのまま目が離せない。吸い込まれそうな自分がいる。
もはや秘石眼を使っているのかどうかさえ判別がつかない。
ただ身体が強張り、胸が締め付けられる。圧迫感に呼吸が出来なくなる。
絶対的なものに踏みにじられる感覚。
ふっとマジックは目を細めた。途端にジャンの肺に空気が戻り体が弛緩する。
ぜいぜいと息を荒げるジャンに向かって、彼は優しく言った。
「何もないよ……何もね。私が今君に求めていることは、一時間の話を与えてくれることだけだよ……」
男は凶暴な瞳を閉じて、安楽椅子にもたれる。
なんとか息を整えたジャンは、今の自分に出来ることは言われた通りにすることだけだと悟るしかなかった。
士官学校入学時に偽造した身分証明書に記されている出身地は、あの隠された島から数千キロの東に位置する無名の島だ。
ただ緯度がほぼ同じこともあり、温暖な気候は似ていた。
きっと適当な嘘はすぐにこの男にはばれてしまう。
本当のことを差しさわりのないように話すしかないだろう。
例えすでに赤のスパイとしての正体を知られていて、彼に試されているのだとしても。
話し終わった瞬間に殺されるのだとしても。
ジャンはたどたどしい言葉で話し始めた。
南の島、強い太陽の光に輝く波打ち際、咲き乱れる原色の花のこと。愛らしい動物達のこと。自分には親は居ず、いつも一人ぼっちだったこと。そしてただひたすら青い……海のことを。
正直こんな話が強大な軍の総帥にとって面白いはずがないと思ったが、語り出すと熱が篭った。
自分が一時間後にはもう死んでいるかもしれないということを思うと、これまでの人生を一部ではあるが語ることは、自分という存在について考えることに通じているのかもしれなかった。
赤と青の二つの玉の争いの中で、道具として生み出された赤の番人。
そこには人としての意思などありえるはずがなかった。
ずっとそういうものだと信じていた。
道具だからこそ、主人である秘石の言うままに青の陣営に潜入した。
そのまま一族に取り入った。
自分の存在意義など赤い玉の利益以外にないはずだ。
しかし最近の彼を苦しめるのは、不安定に揺れる心だ。
こんなものがあるとは今まで知らなかった。
赤の玉は番人を作る時にどうして心まで作ってしまったのだろう。
心を制御しながら任務を果たすのは、こんなにも難しいことであるのに。
いつも一人ぼっちだった。
だから初めてだったのだ。
人に優しくされ、痛めつけられ、頂点とどん底の感覚を教えられたのは。
愛しいという気持ちと切ないという罪悪感。
自分がその人間の心を知ったのは、この二人の兄弟の間でだった。
ごうと夜風が吹いた音が響いて、ジャンはいつしか自分が口を閉ざしていたことに気付いた。
一時間はとうに過ぎている。目の前のマジックは、同じ姿勢で椅子に凭れたまま、動かない。
本当に眠ってしまったのだろうか。
そっとジャンは立ち上がった。
一時間で……この男は帰ってもいいと言った。
しかし立ち去り難く、ジャンはしばらくそのまま立ち尽くす。
男は自分に、帰って明日の初陣に備えて寝ろと言った。
そしてそんな大事な日に、自分といてもいいのかとも。
サービス。
瞬時に、その名前が思い浮かぶ。
全く自分はそればかりだ。困る。そしてサービスのことを想えば、自分は、他のことなど考えられなくなってしまうのだ。
苦笑したジャンは豊かな黒髪を揺らして回れ右をすると、戸口に向かおうとした。
突然右の二の腕を強く掴まれる感覚。
ぐいと引かれて振り向くと、眠っていたはずの男が自分を見下ろしていた。
男はひどく背が高い。見下ろすことに慣れた傲慢な目だ。
冷たい手がゆっくりと頬に触れ、自分の黒髪を耳の後ろにかきあげる。
顎をくいと上向かせる。唇が降りてきて、静かに触れ合う。
「……」
口にキスをされたのは初めてだった。
しかしそれはそっと触れるだけで離れる。
体中は愛撫したがる癖に、何故か今までは唇にだけ触れてこなかった。
やはり氷のようなその感触に、ぼんやりとその顔を見上げた。
「……これで君の体には全て口づけた。自覚してるかい、君は――酷い男だ」
間。
突然激しい音がして、自分の体の骨が軋むのがわかった。
荒々しく壁に押し付けられて再び男に口づけられる。
「ん! んぅっ! ン……」
首と胸が逞しい体が圧迫されて、息が苦しい。
入り込んできた舌が無理矢理閉じた歯列を割り、縮こまった自分の舌を絡め取ろうとする。
粘着質な音が意識を支配し、飲み込めない唾液が首筋を伝い落ちる感覚だけがやけにリアルだった。
頭が白くスパークするのは、呼吸困難で脳に酸素が行かないからだけだろうか?
腰が甘く痺れ、ずり落ちようとする体は、乱暴にその都度引き上げられる。
がつん、がつんと自分の肩甲骨が悲鳴を上げる音が他人事に聞こえた。
「あふ……ンッ! いッ……」
鋭敏な舌先を噛まれて引き戻される意識。
涙に滲んだ目を見開くと、男は今度はそっと噛まれた舌先を優しく吸い上げてきた。
そのまま侵入者の唇は首筋に移動し、零れ落ちた唾液を舐め辿る。そして乱れた衣服から覗く鎖骨へと。
ゆっくりと。ゆっくり……。
瞬間、また青い瞳がジャンを射抜いた。
獣の目だ。
ぞくりとした。
本能的な恐怖が脳髄に伝わり、上がった体温が一気に下がる。
喰われる。
「……ッ」
噛み付かれた。
首筋が、まるで焼きごてを当てられたように熱を持つ。
深く肌を引き裂かれ、赤い血が噴出しているのに恐怖で声も出せない。
体内に食い込まれる感触。
温いぬめる液体が背中を滴っていった。
「……」
ぺたんと床に腰が落ちる。
めくるめく恐怖と快楽の交錯。
息をつく自分。びくびくと傷ついた肩が痙攣している。
そのまま男に、ふわりと抱き締められた。
耳元で囁かれる声。
「忘れたら、だめだよ」
愛することはできないが、忘れられる訳が、なかった。