終わりの初陣
頭が痛い。
漠然とした意識の向こうで、音楽が聞こえる。
高松が見つけてきた古いレコードだ。ルーザーの言い付けで、研究所の倉庫を整理している時に見つけたのだという。
みんなで寄り集まって、お茶を飲みながら大騒ぎした。誰も音楽なんか聞いちゃいないんですね、とムッとしていた高松も本音は嬉しそうで。
題名のないレコードから響く、かすれたヴァイオリンの音が何かの動物の鳴き声に似ていると、ジャンがやたらにしつこく主張していた。
全く、あいつは変なものに詳しいんだから。
動物とか自然とか食べ物とかを語らせたら、もう。
……グワァァァァァァン……。
弦楽器の音が突然大音量となって耳を襲う。
「!?」
いつの間にか自分が暗く冷たい場所にいるのがわかる。
笑いさざめいていた友人たちは消えている。
辺りを見渡しても闇しかない。
一人ぼっち。一人だけの世界。一人は嫌だ。一人は怖い。
置いていかれる。
……海。粘つく泥の海。泳げない。溺れる。
助けて。
――ジャン。
ジャンはどこ?
『ジャン!』
そう自分が叫んだ声で意識が覚醒した。
吐く息が荒く、体中が熱くて痛い。割れるような頭痛。傷口に砂を塗りこまれるような鈍い痺れ。カラカラに乾いた喉と舌。
サービスは体の下の固い岩を感じた。今自分がいるのはおそらくあの岩場。
自分達二人は、敵兵に囲まれたはずだ。
二人……そう、ジャンが自分をかばって逃がそうとした。
錯綜する怒号と銃声、ジャンの声。
そして僕はそんな彼を守りたいと思ったんだ。
歪んだ醜い力でもいい。
彼を守りたい。
そう感じた瞬間、闇が弾けた。飲み込まれた。
……静寂。
だけどここは余りにも静かだ。薄く目を開けると、夜空に散りばめた星が見えた。
あの喧騒はどこへ行ったのだろう。
物音一つしない世界だった。
このままずっと、星を見ていたら良かったのに。
自分は見てしまった。
ジャンの死骸を。
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抉り取った右眼は投げ捨てた。
この青い眼が彼を殺した。咄嗟の衝動がサービスを突き動かした。
ためらいはない。汚らわしい眼。もうあの泥の海には戻りたくない。
サービスは友の無残な姿を目の当たりにして、初めて気付いた。
自分がこのちょっとおどけた友人を愛していたことに。
愛されることに慣れたサービスは、自己への愛に敏感だ。
愛されているかどうかぐらいは直感でわかる。
この2年、一番近くにいたジャンが自分を愛していることなど、とっくの昔に知っていた。
知っていて、与えなかった。笑ってみせて、彼を誤魔化して遊んでいた。
当り前に与えられていたものを失って初めて、気付く自分の愚かさと傲慢さ。
戻らない。それが狂おしい程に腹立たしい。
お前を守りたい、なんて思わなければ良かった。
そうしたら、僕は制御もできない青の力に手を出すこともなかった。
お前を殺すこともなかった。
「ジャン……ジャン……」
聞こえないと知りながら名前を呼ぶ。
足りない……右眼だけでは。与えられない苦しさの空洞は埋まらない。
彼の体と同じように血まみれになった手が、左胸に当てられる。
心臓の鼓動が伝わってくる。サービスにはそれが罪が体内で蠢く音に思えた。
罪は体の中でどくどくと脈打ち、動きを止めない。
自分が呼吸を止めない限りは。
「足りない……」
かつてルーザーに言われたことがある。
お前はこの右眼が心臓なんだよと。これが青の一族として生きる源泉なんだよ。
それをサービスは捨てた。しかしまだ足りなかった。
残った人間の左目から、冷たい涙が溢れ出す。
人であることも、捨てたい。
彼が死んだとわかった瞬間には泣けなかった。その衝撃の大きさと、発作的な衝動に、打ちひしがれた。
今、罪のために自分を殺そうとするこの瞬間に、初めて零れ落ちる涙。
自己愛に溺れる勝手な人間。
これが僕の青の血。自分の欲望しかこの体には流れていない。
この血自体が罪だ。もう止めたい。何もかもを。
崩れ落ちすすり泣いた。
かつて右眼があった窪みからは、涙の代わりに鮮血が流れ落ち、大地に赤黒い血溜りを作る。
「……っ」
背後から優しく乱れた長髪をかきあげる手を感じた。
幼少の頃から自分を慈しみ育てた手。
抱き締められ、広い胸に包み込まれる。
「遅れてすまなかった」
サービスの張り詰めた心が頼るものを見つけて、解けていく。
「兄さん……! マジック兄さん……!」
振り向いて首に抱きつく。赤い軍服に顔を埋める。
「ジャンを……ジャンを殺しました」
誰かに裁いてほしくてたまらなかった。
見上げた兄の瞳は深く、真実自分を哀れんでいるように見える。
兄は、そっとサービスに囁くように頷いた。
「ああ」
夜風が吹いて、二人の間を通り抜け、色の違う金髪を絡み合わせる。
たなびくサービスの柔らかい髪が、兄の頬をそっと打った。
マジックは血まみれの弟の傷に口付ける。痛みと冷たさが、サービスに失われたものの重さを伝えてきた。
宣告は静かに告げられた。
「お前は生きろ」
サービスは、息を呑んだ。一つきりになった左目を、見開いた。
罪を背負って生き残ることが、僕にとっての罰。
この恥ずかしい出来損ないになった体を晒し続けることが、僕の生きる道。
肩先が震えて、その震えは生き続けることへの恐怖だと気付いて、もう自分はそのさだめを受け入れてしまったのだと知って、サービスは、喘ぐような声を漏らした。
――僕は。
そのままで……いることさえ、できなかった。
もう僕はどこにも還ることができない。
僕が初めて殺した人間は、それを一番見られたくない相手、ジャンだった。