総帥猫科
「ンナッ――……フギャッ!」
シンタローは跳ねた猫じゃらしにまた飛びつこうとして――変な声を出して、硬直した。
額に微妙な汗をかいているマジックと、視線が合う。二人の間に沈黙が降りる。
「シ、シンタロー……」
「ン〜〜〜……ンンンンンナッ……」
黒猫の顔が、かぁっと赤くなっている。何だか恥ずかしいらしい。恥ずかしい所を見られたらしい。
言い訳を探している時みたいな顔をしていると、マジックは思った。黒い瞳が大きく見開かれ、やや犬歯の目立つ口元が、ぱくぱくしている。
しかしマジックだって、この黒猫に、何を言ってやればいいのかがわからない。
どうしよう。
眼前の黒猫は、前足を振り上げ、いざ飛びかからんとしたポーズのままで、こちらを見て、止まったままである。
思わずマジックは、自分の足元に転がっている猫じゃらしの柄を、手に取った。
「ンナッ!」
びくう!
シンタローの身体が、大きく震えた。
「……」
「……」
一人と一匹の間には、微妙な空気が流れている。
にらみ合いとも、気まずい沈黙ともつかない、この曖昧な空気。
シンタローの目は、マジックの手に持つ猫じゃらしに吸いつけられている。自分の身長ぐらいはある巨大なボンボンの部分に釘付けになっている。
「シンタロー」
マジックは、そんな黒猫に声をかけてみる。
するとまた、シンタローの身体が、ビクッと震えた。返事なのか返事ではないのか、これも曖昧な鳴き声が、口元から漏れる。
「ンナァ……」
シンタローの猫耳は、不安げに寝かされていた。
黒い目がきょときょとと動き、呼んだマジックの顔を見て、すぐに猫じゃらしへと視線を戻し、またマジックの方を見上げて、ぴくぴくとシッポの先を揺らした。
マジックと視線が合う。
しばらく見詰め合っていた。
「……ニャッ……」
不意にシンタローは目をそらし、すました顔をした。フン、と鼻を鳴らしている。
「ニャッ、ニャ」
取り繕うように、前足で目の縁を撫で、また、フン、フン、と鼻を鳴らし、今度はいかにも興味がないといった様子でマジックの方を、ちらりと眺め、つーんと他所を向いた。
アンタ、何しにこんなトコにいんだよ、帰れよ、とでも言いたげな態度だ。
マジックは、巨大猫じゃらしの柄を持ち、シンタローの前で、わずかに動かしてみた。くねっと、柔らかな先がうねる。
「!!!」
他所を向いたはずのシンタローの身体が、耳が、シッポが、ビクビクビクッと反応した。マジックはその様子を見極めようとしながら、慎重に猫じゃらしを再度動かしてみる。
くねっ。
ビクッ!
くねくねっ。
ビクビクッ!
くねくねくねくねくねくね――っ!
ビクビクビクビクビクビク――ッ!
「ン……ンナッ……ニャッ……」
シンタローの震える手が、猫じゃらしに向かって、伸びては引っ込み、伸びては引っ込む。
懸命に猫の本能の誘惑に耐えているらしい。
マジックは考えた。もしかすると、シンタローを猫じゃらしで誘導して、車に連れ込むことができるのではないだろうか。
柄とボンボン部分を合わせて、全長3メートルの猫じゃらしを動かすのは、凡人には至難の技である。
だが私なら、不可能はあるまい。マジックは、そう不敵に笑った。覇王、嘘つかない。
両手で長い柄を掴み、ちょっとウキウキと沸き立つ心を抑えながら、波のように揺らしてみる。
マジックは心の中で歌うように念じた。
大きい波。そう、マジック。イメージするのだ。これは嵐の夜。例えば人魚姫が溺れた王子を助けた夜のような、怒涛の波。
ざぱーん。ざぱーん。舟をまるで水面に浮かぶ落ち葉のように押し上げ、飲み込んでしまいそうな、大きな大きな波。
大波をイメージした猫じゃらしの先が、ダイナミックにシンタローの前で乱舞する。
「ン……ンンンナッァ……ンンンンニャアアア!!!」
ついにシンタローは、我慢できずに踊る先っぽに飛び掛ってきた。
マジックは心の中でガッツポーズをする。
よし、かかった!
「ンニャッ! ウニャウニャッ!」
黒い目を燃え上がらせ、もはや全身で猫じゃらしを追ってくるシンタローに、今度はマジックは、小さな波で対抗する。
そうだ。小さな波。そう、例えば渚に寄せる波。恋人たちが語らう砂浜。駆ける足跡を、消していく優しい波。名も知らぬ遠き島より流れ来る椰子の実、一つ。
ざざーん。ざざーん。小さな貝殻を残してひいていく、小さな小さな可愛らしい波。
小波をイメージした猫じゃらしの先が、大胆に踊りかかってくるシンタローの爪の間を、巧みにすり抜ける。
その小刻みな動きに、ますますシンタローは興奮した。柔らかい肉球のついた猫足を振り上げ、何とか捕まえようと必死に追ってくる。
何だって一等賞な男は、猫じゃらしの扱いだって、気持ち悪いぐらいに上手かった。
まるでシンタローの幼い頃に、寝る前に絵本を読んであげた時のような気持ちに戻って、猫じゃらしのイメージ化に真剣に向き合っているマジックである。
坊や〜♪ よい子だ、ねんねしな♪ と歌い出したい心境なのだ。
華麗な猫じゃらしさばき。見事と言ってよい。
「ニャニャア! ニャッ! ニャッ!」
「よーし、シンちゃん、こっちこっち」
「ンナ――ッ! ウニャッ! ニャア!」
「そうそう……」
「ナア――――ッ!!!」
「……」
まったく上手くいっている。さすが私。そう感じながらも、マジックは違和感を覚えている。
シンタローを翻弄しながら、少しずつ歩をずらし、マジックは軍用車のとめてある場所へと移動しつつあった。
作戦は成功しかけている。こんなに上手くいくとは思ってはいなかった。
マジックの猫じゃらしテクの前に、シンタローはメロメロ(?)になり、確実に誘導されている。何も不満はないはずであった。
このままいけば、時間はかかるが、この奔放な黒猫を車に引き込み、家へと連れ帰ることができると思われた。
しかし。懸命なシンタローの姿を見ているマジックの心に、ある迷いが生まれ始めていたのである。
これでいいのだろうか。
「……」
「ウニャウニャウニャァッ! ンナ――ア!」
「……」
ああ、駄目だ。これじゃ駄目なのだ。
ついに金髪の男は、ぴたりと巨大猫じゃらしを操る腕を、止めた。
「ニャニャニャ……ンナ……ナ――ウ……?」
びっくりしたのか、シッポをピーンと立てたシンタローも、ぴたりと動きを止めた。
きょとんとした顔をして、マジックを見上げる。はあ、はあ、と息を荒げながらである。
マジックは、静かに言った。
「これはもう止めよう」
そして、猫じゃらしを、脇に投げた。からん、と乾いた音を立てて、それは転がっていった。
「……ンナウ?」
シンタローは、首をかしげた。止めるの? と不思議がるように。
「ああ。止める」
マジックは、そう言って、シンタローの方に向かって、一歩踏み出した。今まで、車の方まで誘導するために、後退ばかりしていたので、これが初めての前進であるのかもしれなかった。
目を丸くして自分を見つめている黒猫に、その名前を呼んだ。手を差し出す。
「シンタロー」
「……ニャッ!」
黒い瞳から熱がひき、途端に警戒の色を滲ませていく。
慌ててシンタローは、身を翻す。近付いてきたマジックから、逃げなければと考えたようだ。この場から立ち去ろうとする。
「シンタロー!」
今度はマジックは、強く呼んだ。
駆け出そうとした黒猫は、立ち止まった。しかし振り向かない。振り向かずに、背を見せたまま、長いシッポだけを揺らした。
マジックは思う。ここが正念場なのだと。
この広い森を自由自在に動き回るシンタロー。彼を傷つけないで、この腕に捕まえるという目標を掲げる限り、ただの無力な人間である自分は――時によって都合よく変わるマジックの自己認識――シンタローに出会うことすら難しいのである。ましてや速力や身のこなしの俊敏さにかけては、とても敵うものではない。
しかし今、ともかくも至近距離に接近することができたのである。
このチャンスを逃してはならない。そして何をするべきなのだろうか。猫じゃらしで、翻弄することなのだろうか。
いや。
先刻、思い悩んだ自分は、なんと決意したか。
そう、純愛に生きると誓ったのである。純愛。ピュアな愛。打算なしの愛。
今、小細工なしで、シンタローに愛を伝えることこそ、大事なのではあるまいか。
思い起こせば、今夜の自分はまだ、言葉でシンタローに何も伝えてはいない。何も伝えずに、小手先の技術や作戦に、一生懸命になっていた。これでは順序が間違っているのではないだろうか。
心を伝えてみよう。
マジックは、ひどく澄んだ気持ちになっていた。
「シンタロー!」
「……」
振り向かない黒猫の背中、しかし再びシッポの先が揺れる。聞いていない振りをしていても、後姿は、実は聞いているぞと、答えていた。
マジックは、叫んだ。もう直球で行くことに決めていた。誠心誠意を込めれば、きっとわかってくれると思った。私のシンタローなら、わかってくれる。
「シンタロー! 帰ろう!」
「……!」
シンタローの肩が、猫じゃらしを見た時のように、またびくりと震えた。反応している。一瞬、猫耳が不安げに伏せられて、すぐに、ぴんと立った。
「私と一緒に帰ろう! シンタロー、一緒に帰ろうよ!」
「……」
振り向かない癖に、立った猫耳が、こちらに向けて傾いて音を拾っている。前足が、土を掻いた。一度掻き、二度掻き、ガリガリ、ガリガリと掻いている。
マジックは、呼びかけ続ける。
「シンタロー、こっちを向いて。私の方を見て」
「……」
「シンちゃん。私の話を聞いて」
「……ンナッ!」
またシンタローの肩が大きく震えた。黒猫は一声鳴くと、急に眼前の大木に飛びついた。しゅたたたたと登ってしまう。焦茶色の樹皮が、はらはらと地に落ちる。
そして太い枝の上から、挑むようにマジックを見下ろしてくる。背を低くしてぴったりと枝につけ、警戒心もあらわに、こちらを窺っている。
「シンタロー。帰ろう」
「ンニャア!」
マジックは木を見上げ、もう一度繰り返した。潅木を根元に従えた巨木は、広げた腕をわずかにしならせ、葉を散らす。マジックの呼びかけに、鋭い声で答えるシンタローの重みを支えている。
「お前は風邪をひいているんだよ。悪くする前に、帰ろう」
「ニャッ!」
いやいや、と首を振ったシンタローは、首を上げて、夜空に視線を遣った。マジックも同じ場所に視線を向ける。
虚空に浮かぶ満月の輝きが、目を射る。禍々しささえ帯びる黄金のきらめき。
高松が、満月が精神に作用して昂揚をもたらしているのだと言った言葉が、思い出される。狂気にとり憑かれることを、[lunatic]――ローマ神話の月の女神ルナ――と言い表すように、このきらめきが人の心を昂ぶらせるのかもしれなかった。
人に仕えることを喜びとする犬とは違い、奔放で遊び好きな猫なら尚のこと。本能が浮かされるのか。
マジックは優しい言葉で語りかけた。
「シンタロー。警戒しているのかい。罠を仕掛けたことは謝る。だがどうしても私はお前に、こんな寒い冬空の下にいてほしくないんだ」
「……ンニャ……ニャニャニャッ! フゥ――!」
思い出したように、シンタローのシッポが膨らんだ。長い黒髪が逆立つ。警戒しているポーズをとらないと、自尊心が満足しないらしいのである。
「寒くないかい。お前は軍服だけで、コートだって着ていない。ブーツだって脱げてしまったじゃないか」
シンタローは木の上で、ブンブンと黒髪を振った。
「ウニャ! ニャ……ファ、フニャックション!」
しかし、くしゃみをしてしまい、しまった! という顔をするシンタローだ。
闇に色濃く茂る木、その狭間から注がれる視線を見上げながら、マジックは困ったように金髪をかきあげる。
枝の上で踏ん張っている黒猫は、意地でも帰らねえ! と決め込んでしまっているように見えた。説得が通じない。
しかし何故、家に帰りたくないのだろうかと、マジックは考える。
シンタローは遊び足りないだけなのだろうか。それとも。
マジックの脳裏に、先程、網にかかったシンタローを捕まえようとした際に、ひどく抵抗されたことがよぎる。
――私が、嫌なのだろうか。
人間よりも、より野生に近く、本能に従って行動しているシンタロー。
さっきまで、あんなにラブラブだと思っていたのに。まさかそう感じていたのは、私だけだったのだろうか。
そう考えれば、切ない気持ちが込み上げてくる。
シンタロー……。
マジックは黙り込んでしまった。
「……」
「フ――ウ!」
「……」
「……ニャ?」
もっとうるさく言われるのかと構えていたらしいシンタローは、肩透かしを食ったような顔をして、見下ろしてくる。
マジックが反応しないのを見て取ると、いらだったのか、今度は幹で、ガリガリと爪とぎをしている。そして枝を揺らし、マジックに向けて葉を落とした。
鋭く鳴く。
「ニャ――!」
ひらり、とマジックの頬に触れる冷たい木の葉。
その冷たさに、ふと打たれたように、マジックは思う。
だが……私が暗い考えに浸る度に、この目の前の子は、追いかけてきてくれたのではなかったか。
「シンタロー」
マジックは顔を上げ、樹上を見る。体を這わせた枝から首を伸ばして、こちらを覗き込んでいたシンタローと、視線が合う。
「ンナッ!」
しかし、今までどこか心配そうに自分を窺っていた癖に、見上げれば、相手は視線をプイとそらしてしまうのだ。
こちらが見れば、あちらが目をそらし、こちらが目をそらせば、あちらが見る。どうして私たちはこうなのか。
……まったく、困った性格だ。
マジックは唇の端で笑った。笑われたのを敏感に感じ取ったのか、あっちを向いていたはずのシンタローが、不快げに眉を動かし、横目で睨んできた。
尚もマジックは小さく笑い、そして思う。
困った性格だ。お前も、私も。
こんなことを言ったら、お前は怒るかな。
今度は、私が追いかける番だ。
マジックは、叫んだ。
「シンタロー! 愛してるよ!」
「……!」
いきなりの告白に意表を突かれたのか、シンタローの黒瞳がまん丸になる。驚いたシッポが、また、ぴーんと立った。
その姿をいとしげに眺めながら、マジックは心を込めて呼びかけた。紛れもない本心で、語る。
「シンタロー、愛している。愛してるから、帰ろう。私はお前の体が心配なんだ」
「……」
「あったかい家に帰ろう。そして毛布に包まって、眠ろう」
「……」
「一緒に。さあ」
マジックは、腕を大きく広げる。訴える。そして待った。
しかし今度はシンタローが黙ってしまった。猫耳とシッポは動いているが、こちらに意識を集中している気配は伝わってくるが、木から降りる様子は、まだない。
だが――マジックは、一つのことに気付いた。
あれほど踏ん張っていたシンタローの猫足が、わずかに動いている。その足は、迷っているように見えた。
だって、愛してるから。愛してるから、抱きしめたい。早く木から、降りておいで。
愛だもんね。純愛だもんね。
マジックは夜に叫んだ。朗々と響き渡る声は低く、力強かった。かつて強大な軍隊を叱咤激励してきた声だった。しかし今は威圧的な重みはなく、ただ感情に満たされていた。
「シンタロー、愛してるよ!」
「……ニャッ」
幾度目の呼びかけだろうか、樹上から小さく声が聞こえる。枝が揺れた。葉擦れの音がした。
黒い瞳が、じっと自分を見つめている。
「降りておいで、シンタロー」
呟いたマジックは、黒猫の姿に甘い視線を注ぐ。
黒猫の背後には、木々の狭間から見える星空があった。煌々と輝く黄金の月があった。
神秘的な光に照らされて、シンタローの長い黒髪は、銀粉をまぶしたように美しく見えるのだった。
マジックは、その荘厳さに魅入られたように、深く息をついた。
そして、今度は静かに言った。
「おいで。私のシンタロー……」
瞬間、枝が大きくたわんだ。
シンタローの姿が、ぐらっと傾く。飛び降りたのではない。バランスを失ったのだ。
その影が流れた。輝きに包まれていた黒髪が、流線型の落下のかたちを描く。
呼びかけるマジックに気を取られていたシンタローは、足を滑らせたのだ。
猫足が、空を掻く。
「……ッ」
「危ない、シンタロー!」
驚きに目を見開いたマジックは、落下地点に駆け寄った。
青い目に落ちていく黒影が映る。いけない!
スローモーションのように……シンタローの体が……落ちる……!
しかしシンタローは、猫であった。
上半身を下にして落ちたにも関らず、シンタローは、くるりと空中で回転した。長いシッポで体を守るように均衡をとり、腰をひねる。まるで軽業師の妙技。
なめらかな動きは、ここに新体操の審査員たちがいたら、満点をつけるだろうというぐらいに堂に入ったものである。
そしてきちんと四本の猫足を下にして。
ぴたっ。
シンタローは、両手を広げて落下地点で待ち受けていた、マジックの頭の上に、華麗に着地した。
「危ない、シンタロー……えっ」
「ンニャ」
「ぐわぁっ!」
83キロの黒猫が、頭上に、ずしり。
覇王らしからぬ悲鳴をあげて、マジックは突然の一点集中の重みに耐え切れず、大地に崩れ落ちた。
首が! 急所の首がっ! どんな超人だって、まさか垂直方向の急所攻撃は予想していない。いるはずがない。
明らかにゴキッと音がした。ちょっと死んだかと思った!
一瞬気が遠くなったマジックは、大の字に仰向けでダウンしながら、しかしすぐに意識を取り戻す。
目を開けると、間近から見下ろしている、心配そうな黒い瞳と視線が合った。
それはもう。バチリと、見詰め合うことになってしまった。
黒猫は、マジックの胸の上におすわりをして、彼の顔を覗き込んでいるのであった。
「ぐ……シ、シンちゃん……」
「ナーウ」
胸の上に座られるのも、これは苦しい。ひどく苦しい。苦しいったら。
息も絶え絶え。シンちゃん、私ももう若くない。だからヒドくしないで。いや仮に若くたって、普通の人間ならこれは息の根止まるだろう。最初は頭と首、次は心の臓ときた。
よかった。覇王でよかった!
ああ、シンちゃん。おお、シンちゃん。シンちゃんは、どうしてシンちゃんなのか。それが問題だ。
シンちゃん。ああ。一緒に写真集撮ろう。チューさせて。チューしてくれたら、パパは元気になる。いや、いやいやいや。今はそうじゃなくって。
ああ、なんだか痺れてきた。世界が麻痺してきた。だがしかし、何があっても私は、シンタロー・ラーヴ! シンちゃん、愛してる!
頭への衝撃と、酸素不足で混乱する思考の中で、それでもマジックは、シンタローへと腕を伸ばす。指が震えていた。
「……シン、ちゃん」
やっとのことで指先が、シンタローの赤い軍服に触れた。
「ニャッ」
シンタローは鳴いたが、抵抗しなかった。マジックは、相手の肩から二の腕の辺りを、そっと撫でる。
軍服の生地が、ひどく冷たく感じられた。無理もない。ずっと外ではしゃぎ回っていたのだから。
胸ポケットのボタンがとれている。小銭、入れすぎたんだね……といった感想は、後にして。
マジックは、息を抜くような声で、言った。
「……こんなに体を冷たくして」
感覚の戻った腕で、シンタローの体を引き寄せた。黒猫の上半身が、ぐっと傾ぎ、マジックに覆い被さるようなかたちになる。
長い黒髪が、マジックの頬や首筋や耳元にかかり、それもまるで氷のように冷たいと思った。ひとすじ、ひとすじが、氷細工を縫う糸のようだ。
その髪を指で梳きながら、そっと囁く。
「寒かったろう、かわいそうに」
「……!」
そしてマジックは、シンタローの身体を、下から強く抱きしめた。
「……ニャア」
嫌がるかと思ったのに――シンタローは、すっと目をつむった。
きっとこの黒猫は、優しくされることは、嫌いじゃない。むしろ、好き。とても好き。そんな表情をしている、この子は。
マジックは、シンタローの頭を撫でた。長い黒髪に沿って、そっとそっと撫で続ける。
気持ちよさそうに猫耳が横になり、ひくひく震えた。耳の裏側に触れると、やわらかな弾力が指につたわってきて、そのまま優しく掻いていれば、つむったままのシンタローの目が、ますます細まった。
「シンちゃん。いっぱい遊んで、楽しかった……?」
「ンナーウ」
抱きしめた腕の中で、シンタローは鳴いた。その頬には少し泥がついていて、マジックは苦笑した。まったく、おてんばニャンコだなあ。
今度は指を伸ばし、シンタローの黒髪に隠れた額に、そっと触れてみた。
しかしマジックは、すぐに顔をしかめる。相手の乾いた額は、ひんやりとした外気の中で、わずかに熱を持っていた。
「シンタロー。微熱が出てきたんじゃないかい」
「……ンナッ」
首を振る黒猫に、マジックは眉の根を寄せる。
「そんなことないって? いや、これは危ない感じだよ。私の経験上、放っておくと本格的に熱を出してしまう予感がするよ。いけない、早く帰らなきゃ」
そう諭すように言うと、シンタローは、しゅんとして目を伏せた。
その様子を見て、マジックはくすりと笑う。
シンタローの頬に両手の平で触れ、そっと顔の輪郭を包み込む。相手は、ぴくっと首を小さく仰け反らしたけれど、これも嫌がらなかった。
マジックの心の中に、あたたかな灯がともる。
可愛い顔を見つめながら、歌を口ずさむように言う。
「ずっと昔の……ちっちゃなシンちゃんは、少し熱が出たぐらいじゃ、ひどく元気で……私が側についていないと、すぐにベッドから飛び出して、走り回っていたんだよね。こんな風に」
今は。
もう一度マジックは、シンタローを抱きしめた。
「私が側についているから。一緒に、帰ろう」
あったかくして、眠ろうよ。