初恋の住む星
ルーザーは家路を辿っていた。
黄褐色の雄花序を垂れ下げるミズナラの通りを抜けて、リスの住むクヌギ林へ。
そしてぱあっと視界の開ける、明るい川沿いの道へ。自分の靴音に、水の音が混じりだす。流れる清流ときらめく青さ。
石橋の側面に刻まれた宗教彫刻が、光を浴びて陰影を鮮やかに浮き上がらせる。川辺には一面のシロツメクサが咲いている。緩やかな風に吹かれて、小さな花々はわずかに花びらが乾き、端の方が茶色くなっていた。
日に日にそれらが乾いていく様子を、彼は目の端に入れながらこの道を行き交いしている。
今この瞬間もルーザーはその姿を醜いと思い、そして同時に自分の温室の白い花を美しいと思った。
そう思うと、彼はいつもこの川辺の道から、歩調を速めずにはいられない。
走ると、自分の鼓動と呼吸の間隔が短くなるのを感じる。
血が速く巡る度に、体内の細胞はそれだけ早く力尽きて死んでいくのだという。
新陳代謝は繰り返されるが、新しく生まれ変わる部分から、必ず取り残されていく部分がどうしても存在する。
このシロツメクサたちの、薄く変色した部分のように。
次第に潤いが消え去り、乾いて朽ちていく。端からそれは始まり、最後は全体をも侵す。
それが老いるということ。醜くなるということ。
こうして自分が息を吐く度に、この世の全ては老いと醜さに向かっている。
いつか壊れることが前提とされた、命のプログラム。
その茫漠とした流れの中で、まるで小川の中で光を浴びて輝く丸石のように、あの温室と花とは、時を止めてルーザーを待っているかのように思えた。
美しい君に。
美しい君に、僕は会いたい。
彼は胸の内に温室を思い浮かべた。
僕が作りあげた場所。僕の世界。
初夏の緑の中で、端然と佇む透き通る空間。茶色いレンガの花壇とリンゴの木が取り囲む、広い庭の肌をうねる小道の先に、それはあった。
温室の周りには小石や砂を敷き詰めたグラベルガーデンの手法で、乾燥に強い植物を植えた。クレマチス、サンジャクバーベナ、エリンジウム、アラム……。
どちらかと言えば原色に近い植物の多い温室が、いっそう美しく引き立つように、彼は淡い色をした花や草々でその周囲を彩らせる。
あの白い花は、その積み上げた秩序の頂点に立つ存在だった。
……もっとも、温室の花々に原色が多いのは、危険性や毒性・薬効性を持つものが増えてきたからだが。
彼は突き詰めれば突き詰める程に、いつも実用性へと思考が傾いていく人間だった。
ルーザーが植物に凝り出したのは、元はと言えば父親の一言が始まりだ。
まだ双子が生まれる前のことである。
幼い兄弟二人がたまたま手に入れた種と土。彼と兄とは、それぞれに違う植木鉢で水をやり肥料をやったのだが、芽が出たのはルーザーの植木鉢だけだった。
それを目にした父親から、何気なくかけられた言葉。
『お前にはこちらの才能がある』
才能がある。その一言は、幼いルーザーの心の奥底に深く沈んで、住み着いた。
芽の出なかった兄の植木鉢。
芽の出た自分の植木鉢。
幼い子供が全く同じ世話をしたのだから、その差は単なる偶然が生み出したものであったのだろうが。
兄にとっては、意に介する必要もない、ほんの些細などうでも良い出来事であったのだろうが。
『お前には』という父の言葉が、自分より半年だけ早く生を受けた兄の存在を前提としていることには気付いていたが。
ルーザーにとってその言葉は、以後の人生を照らし続ける幼児期の輝きとなった。
人間には、生れ落ちた時から決められている運命と、そして分相応な才能がある。
この世には越えることのできないものがあり、全ては定めに従うのみ。
その確信は、ルーザーが成長を重ねる程に強まっていく。
常に自分の上に立ち、早くも親代わりとして自分達を守ろうとする兄と、過去の自分を見るかのような幼い双子と共にある限り。
彼には自分の領域を作ることが必要だった。
自分が存在意義を持てる一つの世界。
僕だけの世界。
それを絶対者に決めてもらえたことが、彼にとっての最大の幸福であったのだ。
僕の温室。
僕の、白い花。
家への最後の四つ辻を曲がった所で、小さな姿が視界に入った。きょろきょろと辺りを見回している。
サービスだ。どうしたのだろう。
普段はこんな所まで出ては来ないのに。
いやに不安げな表情をした薄青の瞳。それが自分の姿を認めて、さっとこちらに駆け寄ってきた。その遥か向こうの角に、私服SPの姿も見える。
兄弟の住む家は、軍公安部の管轄下に置かれている。もっとも普段は周辺警護と、門扉の出入りを暗に監視されるぐらいであったが、それにしても、門からサービスが一人で出てくる、というのは非常に珍しいことだった。
やんちゃなハーレムなら、ともかく。
「おいで」
軽く両手を広げると、素直にサービスはルーザーに抱きついてくる。
ふわりと子供の柔らかい髪と肌の、優しい感触と香りがした。
「どうしたの、サービス。一人で外は危ないよ」
そう言うと、子供はくすぐったげな顔をした。
その表情を見て、ルーザーは思う。
美しい子。僕のあの温室に住まわせたくなる、そんな美しい子。
「お迎えに来てくれたの? ありがとう、嬉しいよ。お前はいい子だね」
そのまま腕に抱いて、歩き出す。サービスの腕が自分の首に回り、ぎゅっと抱き締め返してくるその肌触り。
また風が吹いて、二人の金髪が柔らかく絡んで揺れた。
「綺麗な空だね」
西の方が薄く赤みがかった青空は、淡く混じり合いながらも、それでも抜けるように澄んだ色をしていた。
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サービスは門でルーザーと別れた。
兄はこの数日そうであったように、先に邸内の自室へと向かう。
ふと彼は、その背中を見つめる自分の視線に気付いたのか、背後を振り返って、また優しく微笑む。
その笑顔を見る度、サービスは川辺の橋壁に刻まれている、彫刻の中の人を思い出す。
散歩に連れて行って貰う度に目にするそれは、幼い目にもとても美しく見え、素直な憧れの対象となる芸術品だった。
すてきな、ルーザーおにいちゃん。
消えた後姿を目で追った後、サービスは中庭裏にあるテラスへと走る。テラス脇の茂みから、双子の兄の金髪がはみ出て見えた。
「ハーレム」
そう声をかけると、その頭がびくっと震えた。そして恐る恐るといった風で顔が覗き出る。
その目が自分を見る。
「……サービスぅ……」
さっきから、この兄はずっと見慣れない顔をしている。
いつものくるくる変わる明るい表情は影を潜め、引きつったような、お面のような表情が、その上にぺたんと糊で張り付いているみたいにサービスには見えた。
変だなとは思ったが、その額に薄く滲む赤い血を見ると、口をつぐんでしまう。
――温室で、あっけなく鉢が割れた時。
サービスは目の前で起こった出来事に呆然とした。
双子の兄は割れた鉢の欠片と土の中で、横向きに倒れていて。額に貼りつく乱れた金髪に、赤い血。
一瞬サービスは顔からすうっと熱が引いていくのを感じたが、ハーレムがすぐに起き上がったのを見て、駆け寄った。
『……』
ハーレムはしばらくの間、ぼんやりとしていた。
自分が側に来ても、反応しない。呼んでも返事をしない。肩を叩いてみても、いつものように怒り出したりはしない。
その内、彼の頬についていた鉢の欠片が、からんと乾いた音を立てて床に落ちた。
すると突然、何かに気付いたように、ハーレムはばらばらになった鉢とその中で横たわる白い花とを、かき集め始めたのだ――
そして今はこの茂みに隠れている訳だが。
「ハーレム」
自分が声をかけても、元気のない目でこちらを見るだけの、双子の兄。
あやまればいいのに。サービスは、素直にそう思う。
悪いことをしたら、あやまればいいのに。
それでなくても、いつもハーレムはマジックに怒られてばかりだから、怒られることには慣れっこのはずだ。
優しいルーザーなら尚のこと、ちゃんとあやまれば許してくれるのにと思う。
こうやって隠れたり、逃げたりするから、どんどんと問題がこじれていくのだ。
突然、変な事をしたがったり。危ないことをとにかくやりたがったり。
そして当り前みたいに、何かが起こっても、その後始末が下手くそで。
どうしてか、必ず不味い方向へ、不味い方向へと走って行ってしまう。
サービスはこの兄のこんな面を、いつも呆れたものだと思い、またそのことによって不安を感じている。
「サービスぅ……」
また弱弱しい声。
「……マジックにーたん……呼んできてよぉ……」
「だって。おにいちゃんはまだ学校」
長兄が帰って来る時間は、まだもう少し先のはずだ。
「もう、おかいもの、行くとおもう……でも、やっぱ、いい……」
そう言って、ばさっと髪を振って俯いてしまった兄。
そんな顔で、やっぱりいい、なんて言われても。マジックが学校帰りに寄る、店に行けというのだろうか。
意地っぱりなハーレムが自分に頼ってくるのは、とても珍しいことだった。
「……ジブンで……二人で、行くのは?」
何だか放っておけなかった。サービスとしては精一杯譲歩したつもりだった。
しかしハーレムは、怯えた丸い瞳で自分を見返して言う。
「ボクはぁ、お花を……」
その時。中庭の方から激しい衝撃音が聞こえた。
「?」
びっくりして振り向いたサービスの目の端に、茂みの中に身を隠す双子の兄の姿が映る。
温室の方? 何かが、何かたくさんのものが、割れる音。
ハーレムが食事の時に皿をテーブルから落とす音より、それはもっと荒々しく、まるで悲鳴のようで。
重なり合うたくさんの音。音。音。
どうしたんだろう。サービスはそちらへ行きかけた。
だが、ふとハーレムの方を見ると。彼は、さっきよりも一層、泣きそうな顔をして震えていた。
どうしたんだろう。
サービスは温室の方からする物音よりも、目の前のハーレムの方に気を取られた。
また、彼はよくわからない反応をしている。そしてサービスは不安に襲われる。
自分たち二人が始終ケンカをするのは、互いの心がわかり過ぎるからだ。
わかり過ぎる程に、わかる。そのことに、腹が立つ。
――ハーレムが何かをしたいと言い出せば。
例えば、遊園地に行きたいと言い出せば、彼はまずあの乗り物に乗って、次はあそこに行って、これを食べたいと考えているのだな、ということまでが逐一わかってしまう。
また、自分も何かを言えば、ハーレムに同じように全てを理解されてしまっているのだろうと、うっとうしい気分に襲われる。
そんな双子の生活ではあるのだが。サービスはそのことを嫌っているはずなのだが。たまに、その兄の心がわからない時がある。
それが今だ。特にルーザーに関することで、そんな瞬間があった。
相手のことがわからない、ということは、嫌いの反対で好きなこと、嬉しいことであるはずなのに。どうしてか、自分は不安を感じてしまう。
サービスはその小さな胸がずくりと裂かれていくのを感じる。つながっている体が切り離されるような、そんな痛みを感じるのだ。
だから、こんなハーレムを、見ていたくはなかった。
「……」
サービスは体の向きを変えると、無言で家の裏手へと向かう。
家の周囲にはセキュリティシステムが張り巡らされ、門前にはSPがいることは知っている。
自分たちの行動は、監視されている。幼い自分たちは勝手に外出することは許されてはいない。しかし、特に子供にとって、必ず抜け道はあるものだ。
裏庭には高い塀が途切れて、緑の木々の垣根が続く部分がある。
その隅には、小さな子供がやっと潜り抜けられる程の、隙間があることを双子は知っていた。
それを抜け、地上50cmの高さのセンサーに引っかからなければいい。
以前この抜け道を見つけた時に、双子は垣根を抜け出し、二人で近くの川まで探検しに行ったことがあった。
それには、出てすぐの右の道を真っ直ぐ行って、曲がればいい。兄が学校から帰ってくる道でもある。
だが、マジックが買い物をする店、というのは――週末には一緒に連れて行ってもらうこともあるが、抱かれていくことが多いので、道筋にあまり自信はない。最初に左の道を行く、ということはわかるのだが。
サービスは目を瞑って、その店の姿を思い浮かべる。
街中に、大きな樹、その木陰。
鳥が鳴いていて。
灰と白が混じったような、四角い大きな建物。
色とりどりの果物や野菜が並んでいる。
たくさんの人がすれ違って、またすれ違う。
そしてその店も、周りの道もみんな、歩くとこつんこつんと音がする石でできていて。
夕方の帰り道には、自分たち兄弟の小さな影を、きれいに映し出していたのだ。
その影を追い越してやろうと、ハーレムとしゃにむに走った記憶。
振り返ると背後で笑っている、兄二人。
……サービスは目を開けた。
その記憶と同じように、そっと後ろを振り返る。
ハーレムが隠れている茂みは家の柱に隠れて見えない。
「……」
彼は意を決すると、垣根の隙間に潜り込んだ。
そして。上手くいった。
警報も鳴らず、誰にも気付かれることなくサービスは外に出ることに成功した。
左の道を行く。高い塀と、木々が続いた。
どこまでもどこまでも続くので、それがまどろこしくて、サービスはすぐに走り出してしまう。
するとそれは途端に途切れて、目の前には二つに分かれた道。二股の間には、綺麗な花壇があった。
確かにこの場所には見覚えはある。だが、これから、どちらへ行けば正しいのかには、自信がなかった。
どっちだろう。
考え込んで、ついいつものクセで、髪を人差し指でクルクル巻いた。首を傾げる。
……と、右手の方から視線を感じて、サービスはそちらを見上げた。
赤い屋根の上から、つやつやの毛並みをした白猫が自分を見つめていた。
猫は金色の目を細めた後、軽やかに身を翻して、屋根向こうへと消える。
「……」
それを見ていたら、急にサービスは寂しくなった。周りを見回しても、誰もいない。
自分は一人。
たった一人。
そう感じたら、その猫を追わずにはいられない。
「待って」
彼は右手の道を駆けていった。
そして走って、走って。猫なんて、もうどこにいるのかわからなくなってから、自分が見覚えのない場所にいることに気付く。
淡い光の立ち込める街角。
サービスは迷子になっていた。
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双子の弟が裏手へと駆け出してから。耳をつんざくような物音が途切れた後。しばらくの間、温室の方はひっそりと静まり返っていた。
辺りはすっかり夕暮れ時で、時々巣に帰る鳥の声がするぐらいだ。薄く風が吹いて、ざわざわと夜の近付く気配がした。
ハーレムが身動きする度にする、葉の擦れる音と枝の音。静かなだけに、それがとても気になった。
息を大きく吐いて、量の多い髪を振ると、顔横の小枝がポキリと折れた。
根が活発なハーレムは、一箇所にじっとしているということだけで、ぎこちなさを感じてしまう。縮こまらせた足と腕が、痛かった。
もう長い間、ここにいる。
……ちょっと、でたい。
他に、もっと広くて手足をのばせる場所に、隠れようと思った。よく考えればここは、自分がマジックに叱られる時に、真っ先に隠れるいつもの場所だ。
きっとすぐに、見つかってしまう。その瞬間を想像し、ハーレムの胸は震えた。
――ルーザーおにいちゃん。
ハーレムの心を捉えているのは、本能的な恐怖。自分の弱い力では、とても立ち向かうことのできない、深い深い海の底。
足を滑らせて落ちてしまったら、もう浮かび上がることのできない自分は、ただ恐ろしくて身を隠すしかない。息を止めるしかない。体中が重い水に締め付けられる。
だめ。
怖い。
ここは、見つかる。
そう思ったら即行動しなければ気が済まない彼は、そろそろと緑の茂みから這い出した。小枝が顔と腕に触れて、いくらか掻き傷を作ったが気にしない。
立ち上がると大きく伸びをし、泥だらけの手でズボンについた葉っぱを、申し訳程度にはたく。服は勿論汚れた。
そして裏手に回って、大木の陰にでも隠れ直そうと思い、そちらに歩き出そうとしたのだが、踏み出した左足がひんやりとした。
靴が、片方だけ脱げてしまっていることに気付く。
「?」
自分の周りには落ちてはいない。
茂みの中で、引っかかってる?
振り返って、探そうとした瞬間。
「これを探しているの?」
そう声をかけられて、硬いものを手渡され、思わず自然に受け取ってしまった。
自分の手の平の上に、小さな靴。
「ありが……」
お礼を言いかけて、見上げると。
入日を浴びて、川辺の橋の彫刻のような表情で。逆光に輝く金髪に縁取られた、美しい顔をした人が、立っていた。