初恋の住む星
ハーレムは、すん、と鼻を鳴らした。水面を渡る、ひんやりとした風が顔をかすめたからだ。
川原の背の高い草の中に、彼は、いた。
湿った青草の香りと、初夏の甘い香りが入り混じるこの場所。
少し乾いたシロツメクサの花が、むき出しの膝に触れた。こそばゆかった。
腰から伝わってくる、地面の肌触り。リー、リーと鳴く虫の声。
突然、寂しくなって頭上を見上げると、側の大きな木が不気味に揺れた。
「……っ!」
淡い星の光に照らされて、その幹と葉の陰影が、まるで自分に襲い掛かる巨大な腕のように見えて。
ハーレムは頭を抱えて体を丸める。小さくなって、身を隠す。ずきり、と割った鉢で傷付いた額が痛んだ。
しばらくそうしていたが、相変わらず周辺からは虫の音がするばっかりで、そうっと目を開ける。恐る恐る辺りを見回し、無事を確認する。息をつく。
いつもは双子の弟の前で、強がってはいたものの、ハーレムだって、暗闇や一人っきりは怖かった。
ハーレムは自分の手の平を見つめた。
いつもサービスと、手の合わせっこをして、どちらが大きいかでケンカになったものだ。
今、二人の手の平は、きっかり同じ大きさだった。二人共、小さくてしょうがない。一刻も早く、大きくなりたくてしょうがない。兄たちや、父に届きたくてしょうがない。
そんな、手の平。ハーレムはその手で、突然自分の頬を叩いた。
ぴしっと音がする。
「う……」
また、すん、と鼻が鳴った。
目の前が、滲む。涙が一つ、零れ落ちて地面に溶けて消えた。
ボクは。
ボクは、にげて、ばっかり……。
ハーレムは、よく逃げる。
しかし、その時によってそれが持つ意味は違った。
悪戯をして、マジックから逃げるのは、追いかけて来て欲しいからなのだが。ルーザーから逃げるのは、本能的な恐怖からだった。考えるよりも先に、どうしてか体が逃げずにはいられない。
逃げるということは、弱いということで、自分が無力であるということだった。
それは幼いながらに、ハーレムの気質にとっては屈辱であったのだが、そんなものを軽く上回ってしまう程の恐怖、というものがこの世には存在するのだ。
日常生活において、それは不安という形で現れる。
何のことはない、瞬間、瞬間に、微かずつ、しかし着実に溜まっていく、胸の中の不安の器。
その不安が限界量にまで達した時、明確な恐怖へと形を変えていく時、彼は我慢できずに震え出してしまう。
そうなるともういけない。体が言うことを利かなくなって、足が走り出してしまうのだ。
そして今、足が勝手にこの場所へと自分を連れて来た。
ここはよく、兄弟が週末に散歩に来る場所で。
そして、双子が二人でこっそり、遊びに来た場所。
草の中でぽやっと座り込んでいる内に、日は落ち、闇が辺りを支配した。
ますます他に行くことも叶わなくなって、惨めな気持ちでここにいる。
目の先には橋があって、いつもの彫刻画がぼんやりと見える。
ハーレムは溜息をついた。一人でいると、自分を責めることしかできなくなる。
……悲しい。弱さが、幼さが、悲しい。
どうにもならないのかなぁ……。
俯いた、その時。彼はその泣き腫らした目が、何か異変を捉えたことに気付いた。
ゆっくりと視線をやる。どうしてか、手元がぽうっと明るくなっていた。
明かりの灯った、自分の手の平。
「?」
それは、蛍だった。一匹の蛍が、ハーレムの手に降りてきたのだ。
いつの間にか、辺りには、ぽつぽつと蛍が舞い始めていた。きれいだった。
「……ほたる……」
手の平のそれを見た時、彼の心にも火が灯った。鼻を啜る。ぎゅっと目をつむり、膝小僧に爪を立てる。
ダメ、だよぉ……。こんなんじゃ、ダメ。
逃げてばっかじゃ、ボクはつよくなれない……。
男の子、だもん……。
額の傷にも爪を立てると、かさぶたが取れて、また血が滲むのがわかった。
痛い。でも、痛いことをして、目を覚まさなきゃならない。
そう。そうだよ。
「ボクはぁーっ! たちむかうーっ!」
彼は、すくっと立ち上がった。周辺の蛍が、舞い上がる。賑やかになったその場所。一瞬のちに、すぐにまた静かになった。
「……」
ぐすん。また小さく鼻を鳴らすと、ハーレムはもう一度、頭を抱えて座り込んだ。
胸に浮かぶ、機械を通してではあるが、昨日見た笑顔。
『私はお前たちを愛しているよ』
――パーパ。
パーパは、軍人なんだもん。パーパは、つよいんだもん。つよいから、軍人なんだもん。
ボクは、つよくなりたい。パーパみたいに、なりたい。パーパと一緒に、いきたい。
だから軍人に、なりたい。
つよく、なりたい……。
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『あの子は、右――学校の方、川沿いの方へ行ったんだろう。靴が片方落ちていたのを、さっき見つけた』
そう言った長兄は、サービスを抱いて街灯の灯る道を行く。ルーザーはその後を追った。
手に力を入れると、父親のレターの固い感触がした。
「……」
彼はまた目を瞑る。そして息をつき、長い睫毛を上げて、ゆっくりと目を開く。頭上には、初夏の星々がきらめいていた。
世界。世界は、きらめいていて……。
この星たちも、物理法則の中で、互いに秩序を守って、そしてきらめいていて……。
美しい。
美しい、この世界。
だめだ、目を閉じてはいけない。急にいつもの感覚に襲われる。
目を閉じれば、僕はこの美しさに取り残される。置き去りにされる。
戻りたい……あの僕だけの世界に。
「……ルーザー……? 大丈夫かい?」
道の先から、振り向いたマジックが声をかけてきた。
ルーザーはこめかみを押さえた。息を吐く。手の中の、ちっぽけな機械の塊を握りしめる。胸元に、それをしまう。唇を動かして、微笑んだ表情を作る。
そして、兄に向かって返事をした。
「大丈夫です……急ぎましょう」
「……」
心配そうな顔をした兄だったが、また前を見て歩き出した。
一時間しか余裕はないのだ。当然だ。僕に構う暇なんかない。
今度こそ、足に力を入れて、ルーザーはその背中を追った。
兄の腕に後ろ向きに抱かれたサービスが、ぼんやりとこちらを見ている。
夜の風が、冷たい手を伸ばして自分に触れた。
しかし気付かない振りをする。囚われない振りをする。
だめだ、目を閉じてはいけない。
ついて歩かなければ、いけない。
いつか僕は、置き去りにされる……。
――もう半時間はとうに過ぎた。
失望の色が三人に影を落とした頃。
「……川の、とこは……?」
突然、サービスが口を開いたので、ルーザーはその顔を見つめた。
家に程近い林と川辺の住宅街は駆け足で回ったが、ハーレムが隠れていそうな気配はない。
するとサービスが突然、『川』と言い出したのだ。おそらくは、ずっと考え込んでいたのだろう、目が真剣だった。
たどたどしい話を纏めると、こういう訳らしい。
ハーレムは、不安なはずだ。だとしたら、一番印象の深い場所にまず行くだろう。
サービス自身が逃げるとしたら、前に抜け穴を初めて見つけた時に、二人でこっそり行った川辺しか思いつかない。
自分がそこしか思い浮かばないということは、おそらくハーレムにとっても、それはそうであるはずなのだ、と。
週末、兄弟がよく散歩に出る場所ではあるが、二人だけで行ったという記憶が、その心に色濃く残っているのだという。
「……川の方へ行こう」
兄に声をかけられて、ルーザーは頷き、歩調を速めた。
川辺には、一面に蛍が舞っていた。見とれている暇はなかったが、それでもその光景は圧倒的だった。
人気はなく、しんと静まり返っている。ただ、流れる水の音と、風に揺れる草の音。虫の音。
「……橋、のとこ」
その中で、またサービスが呟く。
「絵が、あるとこ……」
川辺の橋に掘られた彫刻の、側辺りじゃないかという。
今、ハーレムはルーザーのことばかり考えているはずだから。
もし自分だったら、そこに行きたくなる、と。
ルーザーにはどうして自分のことを考えると、彫刻の場所に行きたくなるのかがわからなかったが、マジックは頷いている。
何か、双子から聞いているのだろうか。
「ルーザー。橋の方へ行こう。サービスの言葉を信じよう。この子が一番ハーレムの気持ちを知っているはずだから」
橋に着くと、両岸で二手に分かれようと言われた。
何かを確認するような兄の視線を受けた後、ルーザーは大人しく橋の左側へと歩を進める。
残された時間は、あと15分だという。ここで見つからなければ、公安部に連絡を取ることになる。
背後では、急に泣き出すサービスの声が聞こえてきた。どうしてこの瞬間に泣くのだろうと思ったが、子供には子供の理由があるのだろう。
……子供。子供というものは、非論理的存在で。サービスでさえ、時として、幼すぎることがあって。
兄が慰めている。
「……サービス、泣かないで。涙ってのは使うものじゃないよ……僕も一度、弟に生まれてみたかったな……」
自分が足を動かす度に、遠く小さくなっていくその声。ルーザーはそれを聞いて、この人にしては珍しい言葉だと感じた。
兄も弟もいる自分にはわからない感覚だと思った。
もう一人……同じく、兄も弟も持っている存在、ハーレム。
自分は今、その子を探さねばならない。
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冷たい風が吹いて、周りの草を揺らし、小さな心を揺らした。
ハーレムの歯の根がガチガチと音を立てた。
……とうとう、その時が、来た。
背の高い草の向こうに、ルーザーの薄い色をした金髪が見える。ボクを探しに来たんだ。
今だ。今しかない。
ボクは……。
息を吸う。
ボクは……。
胸がどきどきした。
ボクは……たち、むかう……。
心臓が喉からせりあがってきそうなくらいに、喉が苦しい。
聞こえてきた声で、兄弟たちが近くまで自分を探しに来ていることには、少し前から気付いていた。
……そして、ルーザーおにいちゃんが……いちばん、ボクのちかくに、きた……。
チャンスだった。自分が、何かを取り戻せるチャンスだった。
ハーレムは喉を手で押さえ、もう一度手の平を見た。
何度見ても、どうしようもないぐらい、小さな手だった。
しかし、今の自分はこの手の大きさで、がんばるしかないのだ。
いつか大きくなるまで、この自分が、待っていられる訳がないのだ。
ざっ、と草が鳴った。ハーレムの体が茂みから飛び出す音だった。
彼はその音を、まるで他人事のように聞いていた。体が、自分のものではないみたいだった。
その場所を通り過ぎようとしていた次兄は、ゆっくりとこちらを振り返った。
静かな青い目が自分を見る。夜の中で。
途端に、びくっとハーレムの足は怯む。生唾が口の中に溜まって、それをゴクリと飲み込んだ。
でも。
ボクは……。
言わなきゃ。たちむかって、言わなきゃ。
つよくなるんだったら、自分の言いたいコトは、ちゃんと言わなきゃ。
この人にだって……。
「……ボクはぁ、」
搾り出したその声は、暗闇に大きく響いた。
ハーレムは自分の声に驚いて身を震わせたが、それでも、もう一度大きく息を吸って、声の限りに叫んだ。
「ボクはぁ、こんなルーザーおにいちゃん、ヤなのぉーっ!」
それだけ叫び切ると、その顔を見上げる。
兄は透明な表情をしていた。そして、何でもないことのように言葉を返してくる。
「突然だね……意味がわからないよ、ハーレム。僕は、理に合わないことを言われるのが、一番嫌いだよ」
キライ。言葉が突き刺さる。
「……ふッ……う」
胸が張り裂けそうだ。また涙が込み上げてきた。
でも言い続けなければ。ここで負けてはいけない。両足で強く地面を踏みしめる。
もう一度。
「ボクはねぇーっ!」
すると、兄の足が動いた。草を踏む音。皮靴の音。自分に近付いてくる。
「わぁっ」
手が伸びて来て。あっという間に、襟口を掴まれ、持ち上げられた。
足が宙に浮く。首が絞まる。体の自由が利かない。
苦しい。ボクはまるで、ルーザーおにいちゃんに潰された、虫。
ほら。ほらね。こうして、ボクはカンタンにつかまってしまう。
かなうわけ、ないんだ。
でも。いつもと同じじゃ、ダメ。
だって、ボクはぁ、つよくなって。
パーパみたいに、つよくなって……。
ふ、とハーレムは目蓋から、頬をつたって零れてくる涙を飲み込んだ。塩辛い。そうして、また言葉を吐き出そうとする。
「……う……ボクはねぇ……ねるまえに、ねぇ……」
「寝る前……?」
次兄は微妙な表情をしたが、ハーレムは負けずに言った。
「ボクはねぇーっ! ルーザーおにいちゃんが……ねる前に……ねる前にぃ、」
目の前の、何の興味もなさそうな顔。
自分が何を言っても、どうでもいい風をした、きれいな顔。
でも。言うんだ。ボクは、言ってやるんだ。
「おやすみなさい、してくれないのが、イヤだったの……」
しかし、それはあっさりと、こう言い切られた。
「……そんなくだらない理由で、お前は花の鉢を割ったの? 呆れたよ。そして花をどこかへと隠したの? お前はわがままだね。悪戯で、わがままだね、ハーレム……ああ、ダメだよ」
ハーレムは力の限り、めちゃくちゃにもがいて、拘束から逃れることに成功した。
転びそうになりながらも、地面に飛び降り、よたよたと歩いて数メートル離れる。
そこでハーレムは、ぺたんと座り込んでしまった。
ちゃんと、言ったのに。いつもと、違うことをして頑張ったのに。
おにいちゃんは、いつもと同じ。
もう何も、考えられない……。
兄は自分が言葉を叫ぶ前と、全く変わらない表情をしていた。
何をしても、彼の世界は自分には開かない。
ボクが体当たりしたって。どうしたって。一人の世界。
また不思議そうな声がする。
「……どうして? どうして、お前は僕から逃げるの……? サービスは『おいで』と言えば、素直に来てくれるのに。お前は僕がそれを言えば、ますます逃げるんだろうね。その理不尽さが不快だ」
そしてルーザーは、再度自分に近付いてくる。
その足音を聞きながら、またハーレムは思った。
ルーザーおにいちゃんは。
もぐっても、もぐっても。
息がくるしい、海の底にしか、いない。
ボクは、そんなに深くまで、とどかないよぉ……。
ハーレムは、もう立ち向かうことも、逃げることもしたくなかった。
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突然ルーザーの目の前に、ハーレムが飛び出して来た時、彼の精神は冷静なままだったが、同時に奇妙な違和感を覚えた。
心の中に忍び込む、何かざらりとしたものを感じたのだ。
苦い砂を噛んでいて、しかし口内が渇ききっているために、吐き出せない感覚。
しかも自分がどうして砂を口に入れたのかが、わからないという不快感。
いらつきを感じること自体はよくあることだったが、この不快感は、その原因がはっきりとはわからないことから来ていた。
自分の心の中で、意味が通らない。そのことが、許せない。
『原因はハーレムだろうか? また突然、何か理解できないことをやろうといった顔で、飛び出して来たから』
ルーザーはそう考えると、目の前で仁王立ちをしているハーレムを上から下まで、ゆっくりと眺めた。
確かに眺める程に、ざらつきは酷くなる。
そしてその内、ハーレムの顔を自分の目が掠める度に、不快感が高まっていくことに気付いた。
不快感。それはむしろ、胸の痛みに近い。
『……原因は、この子の顔……?』
今この瞬間、どうしてかその顔部分が、ひどく気に入らなかった。
思いつめたようなその目? 夜目にも上気したその頬? 濃い色をした金髪?
どれも……僕には、よくわからない。
子供は、すぐに叫び出した。
「ボクはぁ、こんなルーザーおにいちゃん、ヤなのぉーっ!」
ルーザーは首を傾げる。こんなって、どんな? 類推さえ、できやしない。
「突然だね……意味がわからないよ、ハーレム。僕は、理に合わないことを言われるのが、一番嫌いだよ」
そう言うと、傷付いた顔をした弟。
どうして相手が傷付くのかもわからず、ルーザーはその顔を見ている内に、また心がざらついてくるのを感じている。
駄目だね。僕たちは、いつも悪循環だ。僕には、お前がよくわからないよ、ハーレム。
意味の通らない、おかしなことばかりをして、僕の秩序をかき乱す。
それは、つまりは、お前がわがままだということだよ。
ルーザーは溜息をつくと、今度は考えるのをやめようとしてみたが、それは不可能であることに、すぐに気付いた。
胸のざらつきは、まるで海から砂浜に打ち上げられた、壊れたオルゴールのように、その細工の隅々にまで、砂が入り込んでくる。
乱されていく。
「ボクはねぇーっ!」
子供は相変わらず、何か叫んでいる。
しかしルーザーはとにかく気分が悪くて、その言葉の内容を聞くどころではなかった。
……いらつく。ずきずきと頭が痛む。
ルーザーは顔をしかめると、弟に近付くために足を踏み出す。この原因を、突き止めなければと思う。
相手の体の線が、びくりと震えた。
ハーレムに一歩一歩、近付くごとに、痛みは酷くなっていくようだった。
まるで、ゆっくりと絹糸が脳を締め付けていくような。この痛みは、性質が悪い。
目の前で怯える子供に、構わず手を伸ばす。そしてその首元を捕まえた。
原因を、近くで確かめなければ。
手に柔らかい子供の肌の感触がする。ばたばたと暴れるので、襟口を掴んで引っ張り上げる。
「わぁっ」
地面から浮き上がったハーレムの足は、相変わらず細くて、幼くて仕方がなかった。
ああ、とルーザーは溜息をつく。
……なんて、子供という存在は、無力なんだろう。
無力であるのに、それでいて傲慢。
そしてその体を持ち上げ、至近距離でハーレムの顔を見た瞬間、ルーザーは、何か特別なものを感じた。
一点から目が離せなくなった。
「……う……ボクはねぇ……ねるまえに、ねぇ……」
「寝る前……?」
上の空で答えると、相手の言葉は続く。
珍しいことだ。いつも、僕が少し何かを言うと、黙ってしまうのに。
それに、まさか寝る前って。
お前は、もうすでに……その幼さで……あの青の世界を見ているの……?
「おやすみなさい、してくれないのが、イヤだったの……」
……。
やれやれだよ、ハーレム。
くだらない。そんな、くだらないことで。あの、花を。
それより、僕のこの不快感の原因は――
ああ、また動く。どうして、お前はじっとしていられない。
もう少しで、この自分の痛みの原因が、わかりそうな気がしているのに。
お前はわがままだね。悪戯で、わがままだね、ハーレム。
思った通りのことを言うと子供はまた酷く暴れ、地面に飛び降りて逃げた。
少し先で座り込み、こちらを見ている。
仕方がないので再度近付き、言葉をかけると相手は呆然としていた。
本当に、この子は全てにおいて、僕の邪魔ばかりする。
そうだ。ルーザーは、あることに気付く。
「……お前は、謝るということを知らないの」
それがこの場合の筋であるはずだ。
自分が学校から帰って来た時に、温室に残されていた植木鉢の破片と土。
消えた花。瞬時にハーレムの仕業だと直感した。
壊された。
僕の、世界が。
そう感じた時、自分は何も見えなくなった。あの心の疼き。
自分はまた、恥ずかしい面を長兄に見せた。その苦しみを僕に与えた罪を、お前はまず謝罪するべきなんだ。
もしかすると、このことが、今の心のざらつきの原因かもしれない。
ハーレムは、自分の言葉に、一番大切なことを忘れていたとでもいうかのように、目を見開いた。
みるみる涙が溜まっていく。とうとう泣き出した。
「うっ……ごめんな……さ……ごめんなさ……ボクは、ボクはぁ、ダメな子で、おにーちゃんのお花を、おにーちゃんが、あい……大好きなお花を、こわしたのぉーっ! ごめんなさい……」
しかし、そうやって謝られても、ルーザーの不快感は消えなかった。
違ったらしい。かえって面倒なことになったと思いながら、ルーザーはその言葉に引っかかりを覚える。
「あい……大好き……だって? 僕が?」
そのハーレムの言葉に、彼は胸の内のざらつきが、更にその様相を変え、乾いてひりついていくのを感じていた。
『僕が花を愛してるなんて!』
数時間前の温室での会話が、ルーザーの中に蘇る。
『花なんかを愛してるなんて……そんな台詞、まるで愚劣な人間みたいだ……それも兄さんが、そんなことを言わないで下さい。僕はまた何も見えなくなってしまう』
『でも……一緒にいたいと思ったんだろう?』
再度問いかけてくる兄に、ルーザーは目をやった後、仕方なくこう答えた。
『そうですね……あの個体そのものを愛しているのかと問われれば、僕は否定するしかありません。あの花は、この温室の秩序の中で意味を持っていただけで……花自体には何の意味もありませんよ。ただ、ここは僕の作った場所だったから……僕は、それを乱されたことが悔しくてならないのです……』
まだ自分の気持ちとはズレがあると思ったが、兎に角そう言うと、マジックが溜息をついた。
おや、がっかりですか? 兄さん。僕はあなたを、失望させましたか?
そう思うと、開放感と共に、胸の奥が苦しみを覚える。
兄弟を愛してるとか、そういう理屈ならわかります。
なぜなら、それはそういう決まり事ですからね。
だけど、花を、なんて。そうであるべき理由なんて、これっぽっちもないじゃないですか。
しかしマジックはこう言って来た。
『本当は……僕は、お前の気持ちが……時々……時々だけど、わかる……』
そう俯いて言った兄。顔を上げて自分を見つめ、続ける。
『でもそういう時は、僕は父さんを思い出すよ。父さんの抱き締める、暖かい胸を思い出すよ……あれが……愛ってことなんだと、僕は思う。愛されているのだと、僕は理解できる。お前もそうだろう? それを僕らはまねすればいいんだよ。そうしてまねしていれば、いつか、僕らは本当に愛ってものがわかるようになるはずなんだ』
『……』
『だからルーザー。何も見えなくなった時はね。これまで何度も繰り返してきたように、父さんを思い出すんだ。愛されていれば、そしてそのことを大切にしていれば、いつか愛することもできるようになるよ。それに……お前から、最初に花のことを聞いた時、そしてその世話振りを見た時に、僕は驚いた。お前は、確実に良くなっているよ。その感覚を育てていけば、いつかお前はきっと……』
『そう兄さんに言われると、僕はまた途端にわからなくなる。あなたの言うことはいつも正しいけれど、でも僕の感覚と隔たっていると感じる時がある。そんな時は僕が間違っているんでしょうね。おそらくそうでしょうね。そして、良くなっている、と仰るからには、今の僕は悪いんでしょうね』
『ルーザー……言葉を間違えたかもしれない、ごめんよ、でもね……』
『ハーレムのことだって。僕は、本当は怒ってはいません。怒った振りをしただけなんです。こういう時は怒るのが正しいんだと思って。本当に、花を何処にやったのかを聞きたかっただけなんです……でも、兄さんだって。兄さんはいつもハーレムを叱るけど、あれは本当は怒っていないのでしょう? 兄さんだって、あれは怒った振りをしているだけなんですよね?』
兄は困った顔をしている。
また、自分はズレているのだろうか。
沈黙の後、最後にこう言われた。
『でも……とにかくお前は、あの花と、一緒にいたいと思ったんだろう?』
『……』
そして、こう答えた自分。
『……花は、花です』
「ごめんなさい――っ!」
急に謝り始めたハーレムの泣き声が、耳に障る。意識が目の前の出来事に、引き戻される。この子供の声は、幼すぎて耳に障る。
ああ、頭が、痛い。僕は、とにかくこの痛み、胸のざらつきの原因を……。
ルーザーは、先刻ハーレムを持ち上げた時に、気になった顔の一点を再度見つめた。
ひたすら泣いている目の前の子供。
何か自分の答えを求めているような気がしたので、また言った。
「お前は……泣くことしか知らない。そして、悪戯で、わがままで……そして幼い……」
そして、蛍が。一匹の蛍が、ハーレムの額の上に止まった。
照らされる。
闇が、照らされて。
その瞬間、ルーザーの疑問は、光が差したように溶けた。
時間の止まった二人の間に、さあっと一筋の輝きが走った。
夜目に明るい、長めの金髪。サービスが、自分とハーレムの間に駆け込み、立ち塞がった。
両手を広げて、ルーザーを見上げている。無言だったが、その瞳は強かった。
サービスが、ハーレムをかばおうとするなんて。しかも、この自分から。今日は珍しいことばかり起こる日だ。
ルーザーは、そんなサービスに向かって、安心させるように優しく微笑んだ。
「……わかったよ。もういいんだ、サービス。僕はもう、わかったんだから」
「……?」
そして、そのサービスの後ろのハーレムに近付く。ハーレムはまだ怯えている。
サービスの困った顔。サービスの目にはルーザーは平常に見えるのに、ハーレムだけは震えている、この状況をどうしたらいいのだろうかと思案する顔。
「いいよ、サービス」
もう一度声をかけると、ルーザーは長い手を伸ばして、サービスの腕の間からハーレムの肩を掴んだ。両手で抱き上げる。硬直している癖に、震えが止まないハーレムの小さな体。
やっとわかったよ。
不思議だな……。
理由はわからないけれど。
――これが、僕の、不快感の原因。
ルーザーはハーレムの額に唇を近づけると、その傷を舐めた。
「ひゃっ!」
「静かに。動かないで」
何故だろう。ハーレムの、血の滲んだ傷口が、どうしてかずっと僕の心を痛め、ざらつかせていたんだ。
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え、どうしたんだい、もう仲直り?
おいおい、僕の出る幕はないじゃないか。なんだ……良かった。
「でもルーザー、傷口を舐めちゃ逆にダメなんじゃないの?」
後から追いついてきて、何となくは事情を理解したらしいマジックが、こう聞いてくる。
ハーレムの泣き声が岸の向こうから聞こえた時、サービスが突然走り出したのだという。
制限時間の一時間まで、あと数分を残した頃だ。
仲直りも何も、僕は悪くありませんし、と言うと、無視された。
時々、兄さんは冷たい。
「諸説ありますが、舐める側が清潔であれば、唾液成分のリゾチームやラクトフェリンの働きの方が優るはずですよ。僕の口は清潔ですし」
「……あ、そう。あんまりそういう問題でも……まあいいよ。やれやれ。ケンカした後の仲直りだね……ハーレム、良かったね。それとルーザー、サービスが不満そうな顔をしているよ。この子にもキスしておやり」
「ええ……おいで、サービス」
額に唇を近付けると、ハーレムと同じように、くすぐったそうな顔をしている末っ子。
いい子だね、サービス。今日は、変に心配させてしまったみたいだね。
可愛い唇にも、キスしてあげるよ。
その間に、マジックに叱られているハーレム。
しかし同時に兄はどこからか傷絆創膏を取り出し、ハーレムの額に貼っている。用意のいい人だ。
こういう、妙に……何と表現すべきか、ぬかみそ臭い部分は、兄弟内では許容範囲だけれど、外部には見せて欲しくありませんね。
「さてと、ほら、お前たち……って、わっ。もぅ! 僕にはキスしなくていいのに、ルーザー……」
「だって兄さんも不満そうな顔をしてませんでしたか。僕らだって仲直りしなきゃ」
「してないよ! だいたい僕らはケンカしたことなんて一度も……」
「ほたるぅー! ほたる、きらきらぁーっ!」
ぶつぶつ文句を言っている兄を、今度は自分が無視してやると、ルーザーは川原を走り出した弟たちに目を移す。
何故か、すっかりいつもの元気を取り戻したハーレム。嬉しそうな顔をしたサービス。
夜が更ける度に、その数が増えていく蛍は、いつの間にか一面にその姿を現していた。
その、きらめき。
――光の世界。蛍が乱舞する。
その中に、四人の兄弟はいた。
両手を広げて、踊るようにはしゃぐ双子。自分の背後で、笑っている兄。
立ち尽くして、見上げる自分。
……僕らは、四人。今、全員が揃った。
四人の、世界。そう感じる瞬間、いつもルーザーはその気持ちを言葉にする術を知らない。
兄弟といる時。四人で、共に何かを体験する時。こうして笑い合う時。
自分に起こる何かを、理解する術を知らない。ただ、何かを抱き締めたくて、仕方なく心の中で自分を抱き締める。
すると、こうやって立ち尽くすしかない。この、ほんのりと淡い穏やかさの中で、ぼんやりと思考を重ねていくしかなくなるのだ。
先刻から、あれ程感じていた頭痛は、今は溶けるように消え去っていた。
舞う蛍のかけらとなり、あの、ざらつきは自分から零れ落ち、もはや跡形もない。
ずっと、自分がどうしてハーレムのあの傷口に、痛みを覚えていたのかということも、ルーザーは知ることができない。
非論理的な現象は、苦手だ。
でも。
こう自分が感じていることは理解できる。
ああ、やっと。今、僕は、楽になった。透明な気分になることができた。
一人の世界も、いいけれど。僕は、この四人の世界も、悪くない。
蛍の命は、一週間余り。はかない命をした生き物。
命尽きる前の蛍は、一段と高い所を飛ぶという。だとすれば、今夜の蛍はじきに死ぬ蛍ばかりなのだろうか。
高みを舞い、空を鮮やかに染める彼らは、まるで夜空の星。
地上に降りてきた、その有限の輝き。
すぐに消える短い命の、美しい輝き。
僕たち四人は、まるで星の世界にいるみたいだ、とルーザーは思った。