初恋の住む星

BACK:4 | | HOME | NEXT:6




 ハーレムは、すん、と鼻を鳴らした。水面を渡る、ひんやりとした風が顔をかすめたからだ。
 川原の背の高い草の中に、彼は、いた。
 湿った青草の香りと、初夏の甘い香りが入り混じるこの場所。
 少し乾いたシロツメクサの花が、むき出しの膝に触れた。こそばゆかった。
 腰から伝わってくる、地面の肌触り。リー、リーと鳴く虫の声。
 突然、寂しくなって頭上を見上げると、側の大きな木が不気味に揺れた。
「……っ!」
 淡い星の光に照らされて、その幹と葉の陰影が、まるで自分に襲い掛かる巨大な腕のように見えて。
 ハーレムは頭を抱えて体を丸める。小さくなって、身を隠す。ずきり、と割った鉢で傷付いた額が痛んだ。
 しばらくそうしていたが、相変わらず周辺からは虫の音がするばっかりで、そうっと目を開ける。恐る恐る辺りを見回し、無事を確認する。息をつく。
 いつもは双子の弟の前で、強がってはいたものの、ハーレムだって、暗闇や一人っきりは怖かった。



 ハーレムは自分の手の平を見つめた。
 いつもサービスと、手の合わせっこをして、どちらが大きいかでケンカになったものだ。
 今、二人の手の平は、きっかり同じ大きさだった。二人共、小さくてしょうがない。一刻も早く、大きくなりたくてしょうがない。兄たちや、父に届きたくてしょうがない。
 そんな、手の平。ハーレムはその手で、突然自分の頬を叩いた。
 ぴしっと音がする。
「う……」
 また、すん、と鼻が鳴った。
 目の前が、滲む。涙が一つ、零れ落ちて地面に溶けて消えた。
 ボクは。
 ボクは、にげて、ばっかり……。



 ハーレムは、よく逃げる。
 しかし、その時によってそれが持つ意味は違った。
 悪戯をして、マジックから逃げるのは、追いかけて来て欲しいからなのだが。ルーザーから逃げるのは、本能的な恐怖からだった。考えるよりも先に、どうしてか体が逃げずにはいられない。
 逃げるということは、弱いということで、自分が無力であるということだった。
 それは幼いながらに、ハーレムの気質にとっては屈辱であったのだが、そんなものを軽く上回ってしまう程の恐怖、というものがこの世には存在するのだ。
 日常生活において、それは不安という形で現れる。
 何のことはない、瞬間、瞬間に、微かずつ、しかし着実に溜まっていく、胸の中の不安の器。
 その不安が限界量にまで達した時、明確な恐怖へと形を変えていく時、彼は我慢できずに震え出してしまう。
 そうなるともういけない。体が言うことを利かなくなって、足が走り出してしまうのだ。



 そして今、足が勝手にこの場所へと自分を連れて来た。
 ここはよく、兄弟が週末に散歩に来る場所で。
 そして、双子が二人でこっそり、遊びに来た場所。
 草の中でぽやっと座り込んでいる内に、日は落ち、闇が辺りを支配した。
 ますます他に行くことも叶わなくなって、惨めな気持ちでここにいる。
 目の先には橋があって、いつもの彫刻画がぼんやりと見える。
 ハーレムは溜息をついた。一人でいると、自分を責めることしかできなくなる。
 ……悲しい。弱さが、幼さが、悲しい。
 どうにもならないのかなぁ……。
 俯いた、その時。彼はその泣き腫らした目が、何か異変を捉えたことに気付いた。
 ゆっくりと視線をやる。どうしてか、手元がぽうっと明るくなっていた。
 明かりの灯った、自分の手の平。
「?」



 それは、蛍だった。一匹の蛍が、ハーレムの手に降りてきたのだ。
 いつの間にか、辺りには、ぽつぽつと蛍が舞い始めていた。きれいだった。
「……ほたる……」
 手の平のそれを見た時、彼の心にも火が灯った。鼻を啜る。ぎゅっと目をつむり、膝小僧に爪を立てる。
 ダメ、だよぉ……。こんなんじゃ、ダメ。
 逃げてばっかじゃ、ボクはつよくなれない……。
 男の子、だもん……。
 額の傷にも爪を立てると、かさぶたが取れて、また血が滲むのがわかった。
 痛い。でも、痛いことをして、目を覚まさなきゃならない。
 そう。そうだよ。
「ボクはぁーっ! たちむかうーっ!」
 彼は、すくっと立ち上がった。周辺の蛍が、舞い上がる。賑やかになったその場所。一瞬のちに、すぐにまた静かになった。
「……」
 ぐすん。また小さく鼻を鳴らすと、ハーレムはもう一度、頭を抱えて座り込んだ。
 胸に浮かぶ、機械を通してではあるが、昨日見た笑顔。
『私はお前たちを愛しているよ』
 ――パーパ。
 パーパは、軍人なんだもん。パーパは、つよいんだもん。つよいから、軍人なんだもん。
 ボクは、つよくなりたい。パーパみたいに、なりたい。パーパと一緒に、いきたい。
 だから軍人に、なりたい。
 つよく、なりたい……。



----------



『あの子は、右――学校の方、川沿いの方へ行ったんだろう。靴が片方落ちていたのを、さっき見つけた』
 そう言った長兄は、サービスを抱いて街灯の灯る道を行く。ルーザーはその後を追った。
 手に力を入れると、父親のレターの固い感触がした。
「……」
 彼はまた目を瞑る。そして息をつき、長い睫毛を上げて、ゆっくりと目を開く。頭上には、初夏の星々がきらめいていた。
 世界。世界は、きらめいていて……。
 この星たちも、物理法則の中で、互いに秩序を守って、そしてきらめいていて……。
 美しい。
 美しい、この世界。
 だめだ、目を閉じてはいけない。急にいつもの感覚に襲われる。
 目を閉じれば、僕はこの美しさに取り残される。置き去りにされる。
 戻りたい……あの僕だけの世界に。
「……ルーザー……? 大丈夫かい?」
 道の先から、振り向いたマジックが声をかけてきた。
 ルーザーはこめかみを押さえた。息を吐く。手の中の、ちっぽけな機械の塊を握りしめる。胸元に、それをしまう。唇を動かして、微笑んだ表情を作る。
 そして、兄に向かって返事をした。
「大丈夫です……急ぎましょう」
「……」
 心配そうな顔をした兄だったが、また前を見て歩き出した。
 一時間しか余裕はないのだ。当然だ。僕に構う暇なんかない。
 今度こそ、足に力を入れて、ルーザーはその背中を追った。
 兄の腕に後ろ向きに抱かれたサービスが、ぼんやりとこちらを見ている。
 夜の風が、冷たい手を伸ばして自分に触れた。
 しかし気付かない振りをする。囚われない振りをする。
 だめだ、目を閉じてはいけない。
 ついて歩かなければ、いけない。
 いつか僕は、置き去りにされる……。



 ――もう半時間はとうに過ぎた。
 失望の色が三人に影を落とした頃。
「……川の、とこは……?」
 突然、サービスが口を開いたので、ルーザーはその顔を見つめた。
 家に程近い林と川辺の住宅街は駆け足で回ったが、ハーレムが隠れていそうな気配はない。
 するとサービスが突然、『川』と言い出したのだ。おそらくは、ずっと考え込んでいたのだろう、目が真剣だった。
 たどたどしい話を纏めると、こういう訳らしい。
 ハーレムは、不安なはずだ。だとしたら、一番印象の深い場所にまず行くだろう。
 サービス自身が逃げるとしたら、前に抜け穴を初めて見つけた時に、二人でこっそり行った川辺しか思いつかない。
 自分がそこしか思い浮かばないということは、おそらくハーレムにとっても、それはそうであるはずなのだ、と。
 週末、兄弟がよく散歩に出る場所ではあるが、二人だけで行ったという記憶が、その心に色濃く残っているのだという。
「……川の方へ行こう」
 兄に声をかけられて、ルーザーは頷き、歩調を速めた。



 川辺には、一面に蛍が舞っていた。見とれている暇はなかったが、それでもその光景は圧倒的だった。
 人気はなく、しんと静まり返っている。ただ、流れる水の音と、風に揺れる草の音。虫の音。
「……橋、のとこ」
 その中で、またサービスが呟く。
「絵が、あるとこ……」
 川辺の橋に掘られた彫刻の、側辺りじゃないかという。
 今、ハーレムはルーザーのことばかり考えているはずだから。
 もし自分だったら、そこに行きたくなる、と。
 ルーザーにはどうして自分のことを考えると、彫刻の場所に行きたくなるのかがわからなかったが、マジックは頷いている。
 何か、双子から聞いているのだろうか。
「ルーザー。橋の方へ行こう。サービスの言葉を信じよう。この子が一番ハーレムの気持ちを知っているはずだから」



 橋に着くと、両岸で二手に分かれようと言われた。
 何かを確認するような兄の視線を受けた後、ルーザーは大人しく橋の左側へと歩を進める。
 残された時間は、あと15分だという。ここで見つからなければ、公安部に連絡を取ることになる。
 背後では、急に泣き出すサービスの声が聞こえてきた。どうしてこの瞬間に泣くのだろうと思ったが、子供には子供の理由があるのだろう。
 ……子供。子供というものは、非論理的存在で。サービスでさえ、時として、幼すぎることがあって。
 兄が慰めている。
「……サービス、泣かないで。涙ってのは使うものじゃないよ……僕も一度、弟に生まれてみたかったな……」
 自分が足を動かす度に、遠く小さくなっていくその声。ルーザーはそれを聞いて、この人にしては珍しい言葉だと感じた。
 兄も弟もいる自分にはわからない感覚だと思った。
 もう一人……同じく、兄も弟も持っている存在、ハーレム。
 自分は今、その子を探さねばならない。



----------



 冷たい風が吹いて、周りの草を揺らし、小さな心を揺らした。
 ハーレムの歯の根がガチガチと音を立てた。
 ……とうとう、その時が、来た。
 背の高い草の向こうに、ルーザーの薄い色をした金髪が見える。ボクを探しに来たんだ。
 今だ。今しかない。
 ボクは……。
 息を吸う。
 ボクは……。
 胸がどきどきした。
 ボクは……たち、むかう……。
 心臓が喉からせりあがってきそうなくらいに、喉が苦しい。
 聞こえてきた声で、兄弟たちが近くまで自分を探しに来ていることには、少し前から気付いていた。
 ……そして、ルーザーおにいちゃんが……いちばん、ボクのちかくに、きた……。
 チャンスだった。自分が、何かを取り戻せるチャンスだった。
 ハーレムは喉を手で押さえ、もう一度手の平を見た。
 何度見ても、どうしようもないぐらい、小さな手だった。
 しかし、今の自分はこの手の大きさで、がんばるしかないのだ。
 いつか大きくなるまで、この自分が、待っていられる訳がないのだ。



 ざっ、と草が鳴った。ハーレムの体が茂みから飛び出す音だった。
 彼はその音を、まるで他人事のように聞いていた。体が、自分のものではないみたいだった。
 その場所を通り過ぎようとしていた次兄は、ゆっくりとこちらを振り返った。
 静かな青い目が自分を見る。夜の中で。
 途端に、びくっとハーレムの足は怯む。生唾が口の中に溜まって、それをゴクリと飲み込んだ。
 でも。
 ボクは……。
 言わなきゃ。たちむかって、言わなきゃ。
 つよくなるんだったら、自分の言いたいコトは、ちゃんと言わなきゃ。
 この人にだって……。
「……ボクはぁ、」
 搾り出したその声は、暗闇に大きく響いた。
 ハーレムは自分の声に驚いて身を震わせたが、それでも、もう一度大きく息を吸って、声の限りに叫んだ。
「ボクはぁ、こんなルーザーおにいちゃん、ヤなのぉーっ!」
 それだけ叫び切ると、その顔を見上げる。
 兄は透明な表情をしていた。そして、何でもないことのように言葉を返してくる。
「突然だね……意味がわからないよ、ハーレム。僕は、理に合わないことを言われるのが、一番嫌いだよ」
 キライ。言葉が突き刺さる。
「……ふッ……う」
 胸が張り裂けそうだ。また涙が込み上げてきた。
 でも言い続けなければ。ここで負けてはいけない。両足で強く地面を踏みしめる。
 もう一度。
「ボクはねぇーっ!」
 すると、兄の足が動いた。草を踏む音。皮靴の音。自分に近付いてくる。
「わぁっ」
 手が伸びて来て。あっという間に、襟口を掴まれ、持ち上げられた。
 足が宙に浮く。首が絞まる。体の自由が利かない。
 苦しい。ボクはまるで、ルーザーおにいちゃんに潰された、虫。



 ほら。ほらね。こうして、ボクはカンタンにつかまってしまう。
 かなうわけ、ないんだ。
 でも。いつもと同じじゃ、ダメ。
 だって、ボクはぁ、つよくなって。
 パーパみたいに、つよくなって……。
 ふ、とハーレムは目蓋から、頬をつたって零れてくる涙を飲み込んだ。塩辛い。そうして、また言葉を吐き出そうとする。
「……う……ボクはねぇ……ねるまえに、ねぇ……」
「寝る前……?」
 次兄は微妙な表情をしたが、ハーレムは負けずに言った。
「ボクはねぇーっ! ルーザーおにいちゃんが……ねる前に……ねる前にぃ、」
 目の前の、何の興味もなさそうな顔。
 自分が何を言っても、どうでもいい風をした、きれいな顔。
 でも。言うんだ。ボクは、言ってやるんだ。
「おやすみなさい、してくれないのが、イヤだったの……」



 しかし、それはあっさりと、こう言い切られた。
「……そんなくだらない理由で、お前は花の鉢を割ったの? 呆れたよ。そして花をどこかへと隠したの? お前はわがままだね。悪戯で、わがままだね、ハーレム……ああ、ダメだよ」
 ハーレムは力の限り、めちゃくちゃにもがいて、拘束から逃れることに成功した。
 転びそうになりながらも、地面に飛び降り、よたよたと歩いて数メートル離れる。
 そこでハーレムは、ぺたんと座り込んでしまった。
 ちゃんと、言ったのに。いつもと、違うことをして頑張ったのに。
 おにいちゃんは、いつもと同じ。
 もう何も、考えられない……。
 兄は自分が言葉を叫ぶ前と、全く変わらない表情をしていた。
 何をしても、彼の世界は自分には開かない。
 ボクが体当たりしたって。どうしたって。一人の世界。
 また不思議そうな声がする。
「……どうして? どうして、お前は僕から逃げるの……? サービスは『おいで』と言えば、素直に来てくれるのに。お前は僕がそれを言えば、ますます逃げるんだろうね。その理不尽さが不快だ」
 そしてルーザーは、再度自分に近付いてくる。
 その足音を聞きながら、またハーレムは思った。
 ルーザーおにいちゃんは。
 もぐっても、もぐっても。
 息がくるしい、海の底にしか、いない。
 ボクは、そんなに深くまで、とどかないよぉ……。
 ハーレムは、もう立ち向かうことも、逃げることもしたくなかった。



----------



 突然ルーザーの目の前に、ハーレムが飛び出して来た時、彼の精神は冷静なままだったが、同時に奇妙な違和感を覚えた。
 心の中に忍び込む、何かざらりとしたものを感じたのだ。
 苦い砂を噛んでいて、しかし口内が渇ききっているために、吐き出せない感覚。
 しかも自分がどうして砂を口に入れたのかが、わからないという不快感。
 いらつきを感じること自体はよくあることだったが、この不快感は、その原因がはっきりとはわからないことから来ていた。
 自分の心の中で、意味が通らない。そのことが、許せない。
『原因はハーレムだろうか? また突然、何か理解できないことをやろうといった顔で、飛び出して来たから』
 ルーザーはそう考えると、目の前で仁王立ちをしているハーレムを上から下まで、ゆっくりと眺めた。
 確かに眺める程に、ざらつきは酷くなる。
 そしてその内、ハーレムの顔を自分の目が掠める度に、不快感が高まっていくことに気付いた。
 不快感。それはむしろ、胸の痛みに近い。
『……原因は、この子の顔……?』
 今この瞬間、どうしてかその顔部分が、ひどく気に入らなかった。
 思いつめたようなその目? 夜目にも上気したその頬? 濃い色をした金髪?
 どれも……僕には、よくわからない。
 子供は、すぐに叫び出した。
「ボクはぁ、こんなルーザーおにいちゃん、ヤなのぉーっ!」
 ルーザーは首を傾げる。こんなって、どんな? 類推さえ、できやしない。
「突然だね……意味がわからないよ、ハーレム。僕は、理に合わないことを言われるのが、一番嫌いだよ」
 そう言うと、傷付いた顔をした弟。
 どうして相手が傷付くのかもわからず、ルーザーはその顔を見ている内に、また心がざらついてくるのを感じている。
 駄目だね。僕たちは、いつも悪循環だ。僕には、お前がよくわからないよ、ハーレム。
 意味の通らない、おかしなことばかりをして、僕の秩序をかき乱す。
 それは、つまりは、お前がわがままだということだよ。
 ルーザーは溜息をつくと、今度は考えるのをやめようとしてみたが、それは不可能であることに、すぐに気付いた。
 胸のざらつきは、まるで海から砂浜に打ち上げられた、壊れたオルゴールのように、その細工の隅々にまで、砂が入り込んでくる。
 乱されていく。



「ボクはねぇーっ!」
 子供は相変わらず、何か叫んでいる。
 しかしルーザーはとにかく気分が悪くて、その言葉の内容を聞くどころではなかった。
 ……いらつく。ずきずきと頭が痛む。
 ルーザーは顔をしかめると、弟に近付くために足を踏み出す。この原因を、突き止めなければと思う。
 相手の体の線が、びくりと震えた。
 ハーレムに一歩一歩、近付くごとに、痛みは酷くなっていくようだった。
 まるで、ゆっくりと絹糸が脳を締め付けていくような。この痛みは、性質が悪い。
 目の前で怯える子供に、構わず手を伸ばす。そしてその首元を捕まえた。
 原因を、近くで確かめなければ。
 手に柔らかい子供の肌の感触がする。ばたばたと暴れるので、襟口を掴んで引っ張り上げる。
「わぁっ」
 地面から浮き上がったハーレムの足は、相変わらず細くて、幼くて仕方がなかった。
 ああ、とルーザーは溜息をつく。
 ……なんて、子供という存在は、無力なんだろう。
 無力であるのに、それでいて傲慢。
 そしてその体を持ち上げ、至近距離でハーレムの顔を見た瞬間、ルーザーは、何か特別なものを感じた。
 一点から目が離せなくなった。
「……う……ボクはねぇ……ねるまえに、ねぇ……」
「寝る前……?」
 上の空で答えると、相手の言葉は続く。
 珍しいことだ。いつも、僕が少し何かを言うと、黙ってしまうのに。
 それに、まさか寝る前って。
 お前は、もうすでに……その幼さで……あの青の世界を見ているの……?
「おやすみなさい、してくれないのが、イヤだったの……」
 ……。
 やれやれだよ、ハーレム。
 くだらない。そんな、くだらないことで。あの、花を。
 それより、僕のこの不快感の原因は――
 ああ、また動く。どうして、お前はじっとしていられない。
 もう少しで、この自分の痛みの原因が、わかりそうな気がしているのに。
 お前はわがままだね。悪戯で、わがままだね、ハーレム。
 思った通りのことを言うと子供はまた酷く暴れ、地面に飛び降りて逃げた。
 少し先で座り込み、こちらを見ている。



 仕方がないので再度近付き、言葉をかけると相手は呆然としていた。
 本当に、この子は全てにおいて、僕の邪魔ばかりする。
 そうだ。ルーザーは、あることに気付く。
「……お前は、謝るということを知らないの」
 それがこの場合の筋であるはずだ。
 自分が学校から帰って来た時に、温室に残されていた植木鉢の破片と土。
 消えた花。瞬時にハーレムの仕業だと直感した。
 壊された。
 僕の、世界が。
 そう感じた時、自分は何も見えなくなった。あの心の疼き。
 自分はまた、恥ずかしい面を長兄に見せた。その苦しみを僕に与えた罪を、お前はまず謝罪するべきなんだ。
 もしかすると、このことが、今の心のざらつきの原因かもしれない。
 ハーレムは、自分の言葉に、一番大切なことを忘れていたとでもいうかのように、目を見開いた。
 みるみる涙が溜まっていく。とうとう泣き出した。
「うっ……ごめんな……さ……ごめんなさ……ボクは、ボクはぁ、ダメな子で、おにーちゃんのお花を、おにーちゃんが、あい……大好きなお花を、こわしたのぉーっ! ごめんなさい……」
 しかし、そうやって謝られても、ルーザーの不快感は消えなかった。
 違ったらしい。かえって面倒なことになったと思いながら、ルーザーはその言葉に引っかかりを覚える。
「あい……大好き……だって? 僕が?」
 そのハーレムの言葉に、彼は胸の内のざらつきが、更にその様相を変え、乾いてひりついていくのを感じていた。



『僕が花を愛してるなんて!』
 数時間前の温室での会話が、ルーザーの中に蘇る。
『花なんかを愛してるなんて……そんな台詞、まるで愚劣な人間みたいだ……それも兄さんが、そんなことを言わないで下さい。僕はまた何も見えなくなってしまう』
『でも……一緒にいたいと思ったんだろう?』
 再度問いかけてくる兄に、ルーザーは目をやった後、仕方なくこう答えた。
『そうですね……あの個体そのものを愛しているのかと問われれば、僕は否定するしかありません。あの花は、この温室の秩序の中で意味を持っていただけで……花自体には何の意味もありませんよ。ただ、ここは僕の作った場所だったから……僕は、それを乱されたことが悔しくてならないのです……』
 まだ自分の気持ちとはズレがあると思ったが、兎に角そう言うと、マジックが溜息をついた。
 おや、がっかりですか? 兄さん。僕はあなたを、失望させましたか?
 そう思うと、開放感と共に、胸の奥が苦しみを覚える。
 兄弟を愛してるとか、そういう理屈ならわかります。
 なぜなら、それはそういう決まり事ですからね。
 だけど、花を、なんて。そうであるべき理由なんて、これっぽっちもないじゃないですか。
 しかしマジックはこう言って来た。
『本当は……僕は、お前の気持ちが……時々……時々だけど、わかる……』
 そう俯いて言った兄。顔を上げて自分を見つめ、続ける。
『でもそういう時は、僕は父さんを思い出すよ。父さんの抱き締める、暖かい胸を思い出すよ……あれが……愛ってことなんだと、僕は思う。愛されているのだと、僕は理解できる。お前もそうだろう? それを僕らはまねすればいいんだよ。そうしてまねしていれば、いつか、僕らは本当に愛ってものがわかるようになるはずなんだ』
『……』
『だからルーザー。何も見えなくなった時はね。これまで何度も繰り返してきたように、父さんを思い出すんだ。愛されていれば、そしてそのことを大切にしていれば、いつか愛することもできるようになるよ。それに……お前から、最初に花のことを聞いた時、そしてその世話振りを見た時に、僕は驚いた。お前は、確実に良くなっているよ。その感覚を育てていけば、いつかお前はきっと……』
『そう兄さんに言われると、僕はまた途端にわからなくなる。あなたの言うことはいつも正しいけれど、でも僕の感覚と隔たっていると感じる時がある。そんな時は僕が間違っているんでしょうね。おそらくそうでしょうね。そして、良くなっている、と仰るからには、今の僕は悪いんでしょうね』
『ルーザー……言葉を間違えたかもしれない、ごめんよ、でもね……』
『ハーレムのことだって。僕は、本当は怒ってはいません。怒った振りをしただけなんです。こういう時は怒るのが正しいんだと思って。本当に、花を何処にやったのかを聞きたかっただけなんです……でも、兄さんだって。兄さんはいつもハーレムを叱るけど、あれは本当は怒っていないのでしょう? 兄さんだって、あれは怒った振りをしているだけなんですよね?』
 兄は困った顔をしている。
 また、自分はズレているのだろうか。
 沈黙の後、最後にこう言われた。
『でも……とにかくお前は、あの花と、一緒にいたいと思ったんだろう?』
『……』
 そして、こう答えた自分。
『……花は、花です』



「ごめんなさい――っ!」
 急に謝り始めたハーレムの泣き声が、耳に障る。意識が目の前の出来事に、引き戻される。この子供の声は、幼すぎて耳に障る。
 ああ、頭が、痛い。僕は、とにかくこの痛み、胸のざらつきの原因を……。
 ルーザーは、先刻ハーレムを持ち上げた時に、気になった顔の一点を再度見つめた。
 ひたすら泣いている目の前の子供。
 何か自分の答えを求めているような気がしたので、また言った。
「お前は……泣くことしか知らない。そして、悪戯で、わがままで……そして幼い……」
 そして、蛍が。一匹の蛍が、ハーレムの額の上に止まった。
 照らされる。
 闇が、照らされて。
 その瞬間、ルーザーの疑問は、光が差したように溶けた。



 時間の止まった二人の間に、さあっと一筋の輝きが走った。
 夜目に明るい、長めの金髪。サービスが、自分とハーレムの間に駆け込み、立ち塞がった。
 両手を広げて、ルーザーを見上げている。無言だったが、その瞳は強かった。
 サービスが、ハーレムをかばおうとするなんて。しかも、この自分から。今日は珍しいことばかり起こる日だ。
 ルーザーは、そんなサービスに向かって、安心させるように優しく微笑んだ。
「……わかったよ。もういいんだ、サービス。僕はもう、わかったんだから」
「……?」
 そして、そのサービスの後ろのハーレムに近付く。ハーレムはまだ怯えている。
 サービスの困った顔。サービスの目にはルーザーは平常に見えるのに、ハーレムだけは震えている、この状況をどうしたらいいのだろうかと思案する顔。
「いいよ、サービス」
 もう一度声をかけると、ルーザーは長い手を伸ばして、サービスの腕の間からハーレムの肩を掴んだ。両手で抱き上げる。硬直している癖に、震えが止まないハーレムの小さな体。
 やっとわかったよ。
 不思議だな……。
 理由はわからないけれど。
 ――これが、僕の、不快感の原因。
 ルーザーはハーレムの額に唇を近づけると、その傷を舐めた。
「ひゃっ!」
「静かに。動かないで」
 何故だろう。ハーレムの、血の滲んだ傷口が、どうしてかずっと僕の心を痛め、ざらつかせていたんだ。



----------



 え、どうしたんだい、もう仲直り?
 おいおい、僕の出る幕はないじゃないか。なんだ……良かった。
「でもルーザー、傷口を舐めちゃ逆にダメなんじゃないの?」
 後から追いついてきて、何となくは事情を理解したらしいマジックが、こう聞いてくる。
 ハーレムの泣き声が岸の向こうから聞こえた時、サービスが突然走り出したのだという。
 制限時間の一時間まで、あと数分を残した頃だ。
 仲直りも何も、僕は悪くありませんし、と言うと、無視された。
 時々、兄さんは冷たい。
「諸説ありますが、舐める側が清潔であれば、唾液成分のリゾチームやラクトフェリンの働きの方が優るはずですよ。僕の口は清潔ですし」
「……あ、そう。あんまりそういう問題でも……まあいいよ。やれやれ。ケンカした後の仲直りだね……ハーレム、良かったね。それとルーザー、サービスが不満そうな顔をしているよ。この子にもキスしておやり」
「ええ……おいで、サービス」
 額に唇を近付けると、ハーレムと同じように、くすぐったそうな顔をしている末っ子。
 いい子だね、サービス。今日は、変に心配させてしまったみたいだね。
 可愛い唇にも、キスしてあげるよ。
 その間に、マジックに叱られているハーレム。
 しかし同時に兄はどこからか傷絆創膏を取り出し、ハーレムの額に貼っている。用意のいい人だ。
 こういう、妙に……何と表現すべきか、ぬかみそ臭い部分は、兄弟内では許容範囲だけれど、外部には見せて欲しくありませんね。
「さてと、ほら、お前たち……って、わっ。もぅ! 僕にはキスしなくていいのに、ルーザー……」
「だって兄さんも不満そうな顔をしてませんでしたか。僕らだって仲直りしなきゃ」
「してないよ! だいたい僕らはケンカしたことなんて一度も……」
「ほたるぅー! ほたる、きらきらぁーっ!」
 ぶつぶつ文句を言っている兄を、今度は自分が無視してやると、ルーザーは川原を走り出した弟たちに目を移す。
 何故か、すっかりいつもの元気を取り戻したハーレム。嬉しそうな顔をしたサービス。
 夜が更ける度に、その数が増えていく蛍は、いつの間にか一面にその姿を現していた。
 その、きらめき。



 ――光の世界。蛍が乱舞する。
 その中に、四人の兄弟はいた。
 両手を広げて、踊るようにはしゃぐ双子。自分の背後で、笑っている兄。
 立ち尽くして、見上げる自分。
 ……僕らは、四人。今、全員が揃った。
 四人の、世界。そう感じる瞬間、いつもルーザーはその気持ちを言葉にする術を知らない。
 兄弟といる時。四人で、共に何かを体験する時。こうして笑い合う時。
 自分に起こる何かを、理解する術を知らない。ただ、何かを抱き締めたくて、仕方なく心の中で自分を抱き締める。
 すると、こうやって立ち尽くすしかない。この、ほんのりと淡い穏やかさの中で、ぼんやりと思考を重ねていくしかなくなるのだ。
 先刻から、あれ程感じていた頭痛は、今は溶けるように消え去っていた。
 舞う蛍のかけらとなり、あの、ざらつきは自分から零れ落ち、もはや跡形もない。
 ずっと、自分がどうしてハーレムのあの傷口に、痛みを覚えていたのかということも、ルーザーは知ることができない。
 非論理的な現象は、苦手だ。
 でも。
 こう自分が感じていることは理解できる。
 ああ、やっと。今、僕は、楽になった。透明な気分になることができた。
 一人の世界も、いいけれど。僕は、この四人の世界も、悪くない。



 蛍の命は、一週間余り。はかない命をした生き物。
 命尽きる前の蛍は、一段と高い所を飛ぶという。だとすれば、今夜の蛍はじきに死ぬ蛍ばかりなのだろうか。
 高みを舞い、空を鮮やかに染める彼らは、まるで夜空の星。
 地上に降りてきた、その有限の輝き。
 すぐに消える短い命の、美しい輝き。
 僕たち四人は、まるで星の世界にいるみたいだ、とルーザーは思った。






BACK:4 | | HOME | NEXT:6