初恋の住む星

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「そうだ、明日は休みだし。遊園地に行こうよ、ルーザー」
 いい思い付きをしたといった顔で、兄が自分を見た。
 街灯に照らされた街路樹が、彼の顔に薄い影を落としている。周囲からは小さく虫の声。何処からか遠く梟の声。星の瞬き。
 家へと続く石造りの小道を、兄弟は歩いていた。
 ……明日。背負ったハーレムが、もぞもぞと身動きしているのを感じながら、ルーザーは考える。
 突然、そんなことを言われても。明日からの週末は、あの温室を直すという作業が自分にはあるのだ。
 だからこう答えた。
「あの花が何処にあるのかを、今度こそハーレムから聞き出してからです。その状態によりますね」
「う……お手柔らかに頼むよ?」
 口をヘの字に曲げた、そのマジックの様子に少しムッとする。
 ルーザーはわずかに歩幅を大きくし、前を歩く彼と肩を並べる。そして至近距離で言ってやった。
「何度も言いますがね、兄さん。あなたは特にハーレムには甘すぎます。語弊が有るかもしれませんが『出来の悪い子ほど可愛い』って性質ですね。出来が良く、かつ美しく生まれてしまった僕とサービスは、いつも平等なはずなのにどうしてか微妙に不公平だと感じている」
「……僕は時々、お前を止めることに自信がなくなるよ……って! 別にみんな公平に扱ってるだろ! だいたいお前がいつも、手間のかかることはみんな僕に押し付けるから、」
「ええ、ええ、遊園地。遊園地ですか? でも兄さん、前に行った時、もうこりごりだって仰ってたじゃないですか。ハーレムが案の定」
「すぐそうやってお前は……まあ、そうなんだけどさ。だけど、もう少しお前が手伝ってくれたらさあ……もう少し……」
「僕には、あの時併設開催されていた『脅威! 隕石に乗った昆虫魔人インセクト!』展を見るっていう予定がありましたから。しかしあれは前評判の割には大したことなかったな……馬鹿げた、こけおどしが多くって」
「……どうしてか、お前の嗜好は、妙な方向にも走り出していくよね……」



 いいじゃないか、遊園地。双子が行きたがってたし。お前は、行きたくないの?
 観覧車から見る夜景が好きだって、喜んでたじゃないか。
 そう言ってから、最後にマジックはこう付け加えた。
「なんてね。本当は……僕だって、行きたいのさ!」
 軽くウインクをして。はにかんだ彼は、少年らしい年相応の表情をしていた。



「う〜……」
 本格的にルーザーの背の上の子供が、身動きし始めた。危うくずり落ちそうだ。
「ハーレム。僕の背中は兄さんと違って、乗り物用にはできていないから。目が覚めても暴れないで欲しいね」
「もう、いちいち引っかかる言い方をする奴だな」
「……んー……む?」
 目を擦り、辺りをキョロキョロと見回している様子が、背中から伝わってくる。
「む!」
 やっと自分に背負われていることに気付いたらしい。戸惑っている雰囲気だ。
 本当にやってる行動だけはわかりやすいんだから、ハーレム。
 さて、どう反応するか……。さっきは、あんなに泣かせてしまったからね。
 僕は悪くないんだけれど。
 そう冷めた観察的な気持ちでいたルーザーに、突然、ふぁさっ、と、柔らかい感触が降ってくる。
 ハーレムが自分の背中に頬を埋めて来たのが、わかる。
 ルーザーは不思議な感覚を覚えた。
 ……これはまた。珍しい反応をするね。
 それを見て長兄が、眉を上げて言った。
「はは……ハーレムったら、嬉しそうな顔しちゃってさ。散々苦労かけたクセに。いいさ。僕らは僕らで上手くやろうよ、ね、サービス」
 マジックの背の上のサービスも、いつの間にか目を覚ましているようだ。
「……うん」
「おい、間が空いたよ。まったく、構わないと不機嫌なのに、構うとどうでもよくなるんだから……今度はあっちが羨ましいんだろ……」
 そんなサービスと自分の目が合ったので、微笑んでやると嬉しそうに微笑み返してくる。
 その柔らかい表情。
 可愛らしいね。笑うとこの双子は、同じ顔をする。
 だから、きっとこの背の上のハーレムも、同じ顔をしているのだろう。



「さて。ハーレム」
 無事家に戻り、長兄が先にキッチンに回った間に。ソファにハーレムを座らせて、居間でルーザーは詰問を始める。その前に立ち、見下ろし、人差し指でねめつける。
「あの花を何処にやったんだい。今度は勘弁しないよ?」
「うぅ……」
 上目使いのハーレム。睫毛がパチパチと忙しく動いた。横目の素知らぬ風で、双子の兄を眺めているサービス。
「さあ、お言い。僕が優しい内に」
「ルーザー……今の時点で、すでに……」
 ざく切りにした柑橘類と、紅茶ポットとカップをトレイに載せて、マジックが居間に入ってくる。
 フルーツティーを入れるつもりらしい。カタン、とテーブルに一式を置く音。
「ほら、ね、まずお茶でも飲んで、こう、まろやかな気分になってから……」
「何がまろやかですか。僕は一刻も早く知りたいのを、それでも耐えてここまで待ったんです。それをさらに待てなんて! だいたい兄さんだって、ハーレムをいつも待ったなし、辺り構わずガミガミやるじゃないですか! いつもの買い物の時だって散歩の時だって……そうだ、この間の遊園地の時だって! それも公衆の面前で! 兄さんってそういう恥の観念が僕とはズレているんですよ! お陰で僕がいつもどれだけ恥ずかしい思いをしているか……ああ、そうだ、そう言えば、」
「わかったから僕に矛先向けるのやめてくれよ! それにお前、話が長いんだよ! 僕がちょっと何か言ったら、すぐに長口上でクドクドと……」
「おにーちゃんたち、ケンカやめよーよー」
「サービス、これはケンカじゃないから。ハーレムの教育方針の問題だから」
「兄さんは、すぐそうやって僕の話を逸らして……」
 その時、だっ、とハーレムがソファから跳ね出した。言い争う年長組の間を擦り抜けて、居間の大窓を開き、テラスに出ようとする。
 一瞬の間の後。
「ハーレム!」
 慌てて追いかけるマジック。また、逃げ出したのか、とルーザーはその背を見て思った。
 サービスが自分の服の裾を掴んだことに気付く。その頭を撫でると、抱き上げて自分もテラスへと向かう。



 テラス隅の茂みの中に、ハーレムは潜り込んでいた。いつも怒られては隠れる場所の一つで、今回も最初に潜んでいた場所でもある。
 ルーザーにしてみれば、ワンパターンであることと、隠れるという現象は両立しないように思えるのだが。
 隠れることが目的じゃないのかもしれないな、この子は。
 そんなことを考えながら、大窓の側に立ち、茂みの中のハーレムと、その側でそれを覗き込んでいるマジックの姿を眺める。
 まったくもって、いつもの風景だ。
 この後また、まずは逃げたことに対する長兄のお小言が始まって。それから延々と、あれやこれやが結びついて小言が拡大していって、面倒くさいことになって。
 最後はどうせ、しょんぼりしたハーレムを慰めるために、おいしいものでも食べようということになるから。
 結局、僕の詰問タイムはどんどんと先送りになる。
 ルーザーは腕の中のサービスと、近くで顔を見合わせた。肩をすくめて見せる。
 やれやれだね。
 相手も、目で伝えてくる。
 やれやれな子の、ハーレムなの。
 あのね。サービスもね。今日、たいへんだったの。
 いっぱい、はしってね。いっぱい、かんがえて、ね。
 とにかく、たいへんだったの。
 ……そう。お互い、苦労するね。
 ところで、僕はハーレムは勿論だけれど、もう一人の方にもやれやれだと感じてしまうんだよね。
 どう思う? サービス。お前の意見が聞きたいな。
 しかし二人の視線の会話は中断された。マジックに呼ばれたのだ。
「ちょっと二人共。おいで」
 いつもと違う展開だ。どうしたのだろう。
 ルーザーは、サービスを抱いたまま一緒にテラスに降りる。
 一度家に入った身体には、夜の空気は少し肌寒かった。
 長兄の手招きに従って、二人が茂みを覗き込むと。
 その中にハーレムと、白い花が、咲いていた。



 土に根を張って。しゃんと背を伸ばして。花は夜の中で咲いている。
「……おかしいです」
 その光景に、ルーザーは思わず小声で呟いた。また理解できないことが起こったと感じた。
 今日は……一体……。
 自分は惨めな花の残骸を覚悟し、その想像に悩まされていたのに。
「……この花は……まず空気に触れた時点で根がすぐに痛みます……だから植え替えがほとんどできなくて……それに温室内で温度と湿度を調整してやらないといけなくて……それにこんな所の土じゃ……水も……バランスが……」
 大輪の花の側から、ハーレムが自分を見上げている。
 すると彼は、すん、と鼻を鳴らして、目を瞑った。どうやら花の香りを嗅いでいるらしい。
「ハーレムが、鉢を割った後どうしていいかわからなくって、ここに植えたんだって」
 マジックがかわりに説明する。
 お前から、この花は根が弱いというのを聞いて知っていたから、とりあえず根に土をかけただけだって言うけど。
 そして風で倒れないように、何かに襲われないように、ずっとギリギリまでこの花を守っていたんだってさ。
 どうしてどうして、立派に立っているじゃないか、この花は。
 それを聞いても、目の前の花の姿を見ても、ルーザーは呟かずにはいられない。
「……どうして、温室外に出てもこの花は、生きていられるんだろう……? そのようにはできていないはずなのに。そうどこの本にも書いてあったのに」
 ハーレムが、じっと自分を見上げている。サービスまでもが自分と花を、交互に見つめている。
 マジックの声が聞こえる。
「不思議だよね……でも、命って、結構、力強いんだね……」
 白い花は闇に映え、相変わらず高貴で美しかった。
 ただ、数枚花びらが散ったのか。花びらが四枚になっていた。



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『今日は買い物できなくってさ……だからこの間の残りでいい? 冷凍してあるから、少し手直しして』
 だから、今夜はカレー。
 暖めたカレーとサラダを並べ、食卓に四人が座る。
「父さんの席にも。今日は特にお世話になったから」
 いつも空の器が置かれるテーブルの上席にも、長兄はカレーを盛り付ける。
 食卓は毎度のことで騒々しい。特に、四人こうして揃うと。
「ハーレム! スプーンでお皿をカンカン叩かない!」
 ルーザーは思う。大きな子供たちと小さな子供たち。子供四人の僕たちの家。
 泣いたり笑ったり、煩かったり静かだったり。
 当り前のことや、想像もできないような驚くことが起こったり。
 ――様々なことが、生み出されていく不思議な場所。
「食事前に音を立てて騒ぎたくなるのは、より未開に近い人間に見られる傾向なんだよ、ハーレム。民俗学によるとね、」
「?」
「……げんしじん」
「??? むー! サービス!」
「こら! ルーザーもサービスも! それにハーレムも、意味がよくわかってないのに、とりあえず怒らない! 仲良く食べなさい! 仲良く!」
「兄さんもあんまり怒ると、眉間にシワがつきますよ。まだ若いのに」
「誰のせいだ! 誰の! ってルーザー、まだ皿に手をつけてないじゃないかお前! これで残り物は気に入らないとか言い出したら、もう僕は、」
「おにーちゃんのカレー、おいしいよ」
「にーたん! ボク、にーたんのカレー、だいすきぃーっ!」
「サービス、お前はいい子だよ……それに、ハーレムまで満点の答えをするようになっちゃって。調子いいんだから。泣いたカラスだって、こんなにすぐに御機嫌にはならないよ?」
 側の兄の言葉を聞き流しながら、ルーザーも銀のスプーンでカレーを掬い、口に含んだ。
 日を置いたカレーは、より一層柔くてまろい味がする。
 味もそうだけど、香りも、今日はやけに甘いね。甘い、味がするよ。
 度が過ぎると苦手だけれど、こういう味もたまにはいいね。
「あのね、ニオイがぁ、たのしいニオイがするのぉー!」
 僕の斜め向かいで、右手でスプーンを高々と上げ、口の周りを汚しながら、満面の笑みを浮かべたハーレム。
 その隣で器用に手先を使いながらも、サービスが、くすっと笑った。
 あは、とマジック。
 僕も、表情は変えなかったけれど、そっとそんな弟に視線を送る。
 ますます元気が出たのか、ハーレムは勢い良く喋り出す。
 これまたいつも通りで、言葉は支離滅裂だったけれど。
 つまりは、こういうことらしい。
 カレーの匂いは、どんどん広がって。
 夜を越えて。
 きっとあの温室まで届いているんだ、と。
 包む匂い。うれしい香り。
 僕たちみんなの、楽しい香り。
 ――それが、四人の香りなんだ、と。



『<じゃ、さよなら>と、王子さまはいいました……しばらくだまっていたあとで、また、こういいました。<星があんなに美しいのも、目に見えない花が一つあるからなんだよ>……ぼく、ここで待ってるよ。またきてね、あしたの夕方……』
 ふう、と長兄は息をつく。
「はい。今日はここでおしまい。おやすみなさい」
 この本も次で最後かな。
 そう小さく呟いてパタンと本を閉じたマジックに、ベットの中の双子が聞いて聞いて、といった風で話し出す。
「あのねぇ、きっと王子さまはぁー、お星さまに帰るのぉー!」
「……幸せにくらすの?」
 え、と困った時の癖で、前髪を引っ張っている兄。
「……そう言われると……うーん、まあいいさ。明日の晩、ね。少し夜更かししてもいい週末だし。読み終わった後、四人一緒に話をしてお茶を飲もう。あの白い花も一緒にさ。でも、その前に……明日は朝から……」
 マジックがベット脇に座っている自分を、ちらりと見た。
 どうしてか、今の自分はひどく優しい気持ちだ。
 何だろうと、不思議そうに自分を見上げる双子の瞳。
 丸くて、透き通った……綺麗な、小さな子供の瞳。
 楽しい……残り香。
 沈黙。
 その後、ルーザーはゆっくりと微笑む。
「そうですね。明日は朝から遊園地に行きましょうか」
「やったぁー!」
「わーい!」
 自分の一言で、ぱあっと、部屋全体が明るくなったようだ。
 毛布を乱暴に跳ね除け、息せき切って喋り始めるハーレム。
「ボクねぇー、お星さまのふく、きるの! ボクも王子さま!」
「ああ、あの星型がプリントされたやつかい。いいよ。出しておくから。なんだ、星がお気に入りになっちゃった? ハーレムは」
「ルーザーおにいちゃん、かんらんしゃ、のろうね」
「ああ、よく僕の好みを覚えてたね、サービスは。いいよ、一緒に乗ろう」
「ボクはぁ! ジェット! ジェットコースターのるぅ!」
「ハーレム、お前はまだ身長が足りないんだから。もう少し我慢しなさい」
「むぅ! でもぉ、にーたん……」
「よわむしのくせに」
「なんだとぅーっ! サ、サービスぅ!」
 先程の弱みがあるだけに、ハーレムは一瞬で顔を真っ赤にしている。
 素っ気無い顔のサービス。
「よわむしナマハゲ」
「むー!」
 あっという間に。
 ぎゃあぎゃあと、取っ組み合いのケンカが始まって。
 年代物の子供用ダブルベッドが揺れている。
 あまりに揺れるので、ルーザーは座っていた腰を浮かせて立ち上がる。
 そしてお決まりのコース。
「こらッ! やめないか、お前たち! どーして今日は波乱万丈だったのに、お構いなしにまだまだ元気なんだよ! 底無しすぎるよ! いーかげんにしてくれよっ! ルーザー! お前も止めろッ!」
「僕はそろそろシャワーを浴びないと。兄さんがこの子たちを入れていた時に、僕だけ花の植え替えをしてましたからね。明日に差し支える」
「もうっ……ったく! あぁ! 二人共、また毛布引っ張りっこはダメだって! 伸びちゃうだろ!」
 甘い香りを残したまま、こうして素敵な夜は、いつも通りに過ぎていく。
「お休み、ね」
 ルーザーは騒がしいままの双子に、それぞれにお休みのキスをしてやった。



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 浴室から出ると、双子たちを寝かせた後らしい兄が、居間でグッタリしていた。
 自分が背後を通り過ぎて続き間のキッチンに入り、冷蔵庫を開けているのを見ようともしない。
 またちょっと自分に対して怒っているのかなと感じたが、まあいいかと思い直した。
 濡れた髪のまま、ルーザーは飲み物を手にその隣のソファに座る。
 しかし続く沈黙。相変わらず無視されている自分。
 ……一度不機嫌になると、兄さんは意外としつこいんだから。今日は特に色々溜まっているのかな。
 しばらく放っておいたが。自分はグラスを飲み干してしまったので、カランカランと底の氷を揺らしてみたのだが、相手は無反応を決め込んでいる。
 顎の下に手をあてて。ソファに凭れ斜めに座って、彼の目は、じっと部屋の隅を見ているようだ。
 埃でも積もっているのだろうかと思ったが、自分が見てもそこには何もない。
 掃除もまめな人だから。
 ええと。
 ……ここで、僕がこのまま部屋を出ると、更にまた怒るんだろうな……。
 その理由はわからないが、これまでの経験則から結果は容易に想像がついた。
 仕方がないので、マジックの興味を惹きそうな話題を口にしてみる。
「僕は、さっきある事に気付きましたよ、兄さん」
「……」
「謎が解けました」
「……」
 構わず話を続ける。
「……さっき、川原で。僕はハーレムの額の傷が気になっていたんですが、最初はそれが自分でよくわからなくて。わからないから、長い間、とても胸が痛かった……」
 長兄が初めて自分を見た。
 少し間を置いて、やっと言葉が返って来る。
「……ああ」
「でも」
 このことに気付いた時、自分がもっと優しい気分になっていたことが、興味深かった。
 優しい気分というのは、意外に限度はないものだと思う。探求の価値、ありだ。
「でも、洗面所で服を脱ぐ時に。気付いたんです、胸ポケットに、ほら」
 ルーザーは兄の目の前に、それを差し出した。小さな四角い機械。
「父さんのレターを入れていたんです。非科学的だけれど、もしかしたら、父さんが教えてくれたのかな……あの子のそのままになってる傷を、どうにかしてやれって。ずっと、どうしてそんなことを自分が気にしていたのか、本当に不思」
「ルーザー!」
「わ。どうしたんですか、兄さん」
 突然、良かった、と正面から抱き付かれた。ソファが二人分の体重に、ぎっと音を立てる。
 驚いたが、やけに嬉しそうなので、そのままにさせておく。兄さんだってハーレムと一緒で、あっという間に機嫌が直る癖に。同じ香料の匂いがした。
「父さんは、やっぱり、凄い!」
 そしてマジックは、良かった、お前は大丈夫だよ、きっと大丈夫だよ、と繰り返している。
 大袈裟だなあ、兄さんは。ふふ。
 その体を受け止めながら、ルーザーは心の中で言った。
 見て下さい。僕の口元まで、あなたに釣られて緩んでしまいましたよ。
 御存知ですよね。
 僕だって、あなたと同じくらい、父さんが大好きなんですよ。



「お前の星に、戻るの……?」
 温室に向かおうとする自分に、こう聞いてきたマジックは、まだ嬉しそうだった。
「じゃあ、僕も一緒に行くよ」
 そして、彼も温室にやって来たので、ルーザーは兄と二人で、ハーレムが割った鉢や……ルーザー自身が割った、たくさんの鉢の始末をした。
 こういう仕事こそを、使用人に任せればいいのかもしれなかったが、それは兄が許さなかっただろうし――自分でやったことの後始末は、できる範囲ですべきだった――ルーザー自身も、兄弟以外の人間を、この温室には入れたくなかった。
 黙々と散らばる欠片や土、植物を拾い集める二人。
 ……新しい鉢に植え替えを済ませた白い花は、端然と台の上からそんな兄弟を見下ろしている……
 しばらくして、作業の手を止めずにマジックが口を開いた。
 低い位置から、花を見上げている。
「なんだか、僕にはこの花は、お前に見えるよ」
「……僕が、ですか?」
 自分にとっては意外な言葉だった。
「うん。何となく、だけど……花名は何ていうんだっけ」
「ユーチャリスですが……花言葉は『清らかさ』。僕ほど、そこから遠い人間はいないような気がしますけどね」
「……うーん、僕にはお前の自己評価は、よくわからないけどさ……」
 そしてまた、陶器の破片を寄せて袋に入れる、カチャカチャという音が温室に響いた。



 白い花。
 君は……依然として。美しく……悪戯でわがままに……僕を従え……。
 温室の中では、ルーザーは常に花に見つめられていると感じる。
 そしていつの間にか、その凛とした姿に魅せられ、自分も花を目で追ってしまう。
 その側で好きな読書をしていても、気にせずにはいられない。
 全体の秩序が大事であったはずの僕が、君には……そう、もしかすると惹かれているのかもしれない。
 知らずに彼の唇は動いている。
「本当は……」
 兄が床の破片に手を伸ばしたまま、自分に注意を向けたのがわかる。
「本当は、この鉢が地面に割れて散乱しているのを見た時、ああ、やっぱりと思ったんです。こんな綺麗なものがいつまでも存在し続けるはずはない。そして何処か嬉しかったんです」
「……どうして」
「この花が老いるのを見なくて済むと思ったからです」
 あんなに、この花の行方が気になっていた自分であったのに。
 同時にあのまま、自分の前から残骸も無しに消え去ってしまったのであれば良かったのにとも、心の隅では感じていた。
 存在とは。この世に存在したという痕跡さえ、残さない方が美しい。
「幼さはそれだけで罪です。しかし老いは醜い。この二つは決して両立しはしない。僕は美しさが汚れていくのを……悪戯なわがままさが従順になっていく姿を、見たくはない」
「ルーザー」
「大人は……老いているということだけで、醜い。人は生きる度に、どんどん醜さへと向かっています。僕はそれが怖い。こうして僕が呼吸をする度……あの蛍たちが明滅する度、星が瞬く度に……僕は、醜さへと向かっています」
 落ち着くように、と言われたが、落ち着いています、と返した。
 兄さん、あなたは僕が話し出すと心配ばかりしている。僕の話を、本当の意味では聞いてくれない。
 酷い人。
「大人になったら僕たちは人を殺す。それが一族のさだめ。そして、僕もそれは簡単にできると思うんです。そしていつか、殺されるのかもしれない。でも、それも平気です。ただ一つだけ怖いのは……老いること。僕の存在が、殺されもせず、ただ老いて、残り朽ち果てることだけが怖い」



「……温室の中は楽しいかい、ルーザー? お前は幼い頃から、いつもこの場所で遊んでいたね」
 鉢の欠片を地面に置くと、マジックが立ち上がった。
 遠くに目をやっている。透明なガラスに手をついて、その向こうの遮蔽された夜を見ている。
 室内中央のファンの回る音と、庭の虫の音が交じり合い、奇妙なバランスを響かせる中で。
「覚えているかい、ルーザー? 双子が生まれた日のことを。僕らはあの時この場所にいた」
 あなたが僕の話を聞いてくれないのは、聞かなくてもわかっているからなんですよね。
 わかっていることを、言葉として聞かされるのが、お嫌いなんですよね。
 御自分の内側が……僕の姿をして、外に現れるのが、憎いんですよね……
「ええ」
 だから、自分も夜を見つめて、その先に想いを巡らす。



 弟が生まれるという日。幼い兄弟は、何処となくそわそわしながら、庭で二人、土を弄っていた。
 当時は温室はまだ建てられてはおらず、この場所は日を浴びる黒土に低木の茂る、居心地の良い空間だった。
『もう、二人っきりじゃないね』
 そう言われたのを、覚えている。
『ぼくたちに、弟ができるんだって。双子なんだって』
 同じ台詞を何度も繰り返していた兄。泥のついた手を忙しく動かしている。
『赤ちゃん、抱かせてもらえるかなぁ? 双子だから、お前とぼくで、なかよく抱けるね! そして、いっしょに川にさんぽに行くんだ、そしてね……』
 ずっと、頷いてばかりいた自分。現実感がなかったのだ。
 それでも、これから新しい何かが起こるのだという未知の予感に、心はざわめいていた。
 まだ、数年前の出来事であるはずなのに。その記憶は、もう、どこか遠いセピア色に染められていた。



 僕らは、あの日、双子に出会えたじゃないか。
 振り向いて。そう自分に諭してくる、数年前よりは大人び、しかしそれでもあどけなさを残した顔。
 『二人っきり』時代の……自分しか知らない面影が、ゆっくりと消えていく。
「年月を重ねることで、お前の言うように醜くなったり、朽ちていくものは、たくさんあるだろうけれど……でも、それでも、生きていた方がいいことって、あるんじゃないのかな……新しい出会い、とかさ……」
 その言葉を聞いても、自分の表情は、変わらなかったと思う。
 しかし自分も、数年前よりは大人びた顔をしているのだろうと思う。
 新しいものは、必ず古くて懐かしいものを、奪い去る。
 どちらも得ることはできなくて、何かを失わずにはいられない。
 過去を失う辛さを耐え難いと感じ、未来を得る喜びに背を向ける人間だって、存在してもいいはずではないだろうか。
「残り朽ち果てる道、か」
 残り朽ち果てる道、か。
 と、兄は二度繰り返した。
 自分を見つめてくる深い瞳。
 ……それでも僕は、きっと。
 約束を守りきるまでは、生き続けるよ。
 だからお前も。
 約束を、守って。



 不意に、ルーザーは。自分はこの人に哀れまれているのだと直感した。
 どうしてか屈辱や悲しみは感じなかった。
 ただ、やはり自分は彼にとって、そのような存在なのだろうと思った。
 兄さん。僕は、惨めではありませんよ。
 むしろ、あなたにそう思って貰えた方が、僕は幸せなのかもしれない。
 何故なら、責任感に縋って生きるあなたには、僕を捨てられない。
 約束……ですよね?
 僕だって、努力しましょう。
 いつか、あなたに捨てられる、できそこないには、ならないように。
 あなたの失う過去には、ならないように。
「いいよ。ルーザー、もういいよ」
 また兄の声が聞こえた。
「お前は……大人になんて、ならなくていいよ……」
 あなたがこう言うからには、それなりの覚悟があるんでしょうね?
 そして、それは果たして可能であるのでしょうか?
 その夜、僕が与えられたその言葉は。
「お前は、一生、綺麗なままでいなさい」



 ――夜が過ぎて。
 その翌日の朝、遊園地に出かける仕度をしていた兄弟に、突然の嬉しい知らせが飛び込んできた。
 父親が帰って来るという。



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『ルーザー。父さんにお前の花を見せようよ。きっと喜んでくれるさ』
『……才能があるって……言ってくれるでしょうか』
『え? ああ、そう褒めてくれるかもしれないね。ほら、お前たち! 背筋を伸ばして!』
『おにーたん! パーパだよ!』
『パーパ!』
『父さん!』
 真昼の飛行場で、青空の下。静かに降り立つ、銀色に輝く飛空艦。
 嬉しそうな兄。嬉しそうな双子の弟。ああ、あの時も、楽しい香りがしていたね。
 その中で、僕は自分という存在に想いを浸し、そして結局は僕は未来においても、この兄弟と共に生きていくのだろうという結論を出した。
 毎日、色々なことが起こるけれども。総じて、悪くはない日々だ。
 悪くはないどころか……。
 ?
 まだまだ考察の余地はある。
『パーパ!』
『父さん!』
 そして、僕も。
 この瞬間は、信じることができていたような気がする。僕のこの気持ちは、演技じゃない。
 肌が心地よくざわついていく。包み込まれる、この温もり。風のように、胸を通り過ぎる、甘い感覚。
 じわじわと着実に蓄積されていく、僕の心を満たしていく花の蜜。
 ……あえて、あの、言葉を使ってみれば。
 もしかすると。僕は、もしかすると、この瞬間の世界の全てを愛しているのかもしれない。
 なぜなら、僕の存在は、愛されているからだ。
 父さん。
 僕は、僕たち兄弟は、悩みながらも苦しみながらも、結局のところ、貴方へと還る。
 愛し合っても、憎み合っても、最後は貴方へと還るんだ。



 ……ハーレムは、あの食卓の香りを、楽しい香り、四人の香りと呼んだ。
 なんとなく……なんとなくではあるけれど、僕にもわかる気がしていた。
 このまま、この日々が続いていけば、僕にもいつかそれが本当にわかる気がしていたんだ。
 蜜のように甘い、その香りが。愛されているという、この感覚が。
 いつか、僕を、違う僕へと変えてくれる。
 そんな気が、していたんだ……。
 だから、本当に、嬉しかったのだ。
 父さん。
 貴方が悠然とタラップを降りてくる姿。僕たちに向かって、その力強い腕を広げて。
 たなびく金髪の輝きは、まるで荒野に立つライオンのようで。軍服の炎のような赤さは、まるで太陽のようで。
 まるで、貴方は僕たちを照らし続け、導き続ける光のようで。
 僕は、貴方と、この兄弟の中で生きる者としてさだめられ、本当に良かった。
 ……約束……。
 みんなと、出会えて、良かった。



 だから。
 だから、父さん。
 父さん、どうして?
 完璧な存在が崩れ落ちる姿を、どうして貴方は僕たちに見せたのですか。
 綺麗なままで、散る姿を見せたのですか。
 その瞬間に、貴方は笑った。
 僕たちの目の前で。駆け寄って差し出した、僕たちの腕の中で。
 眩しい光の中での出来事だった。
 そして、その笑顔は、僕たちに、こう語りかけてきた。
 それはいつもの言葉と。
『私はお前たちを愛しているよ』
 そして最後の言葉。
『幸せに、なるんだよ』






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