真夜中の恋人
シンタローは、椅子にかけてあるビロードの端を、軽く引っ張った。
ぽつりと呟く。
「結局、全部食いやがったんだよナ……」
冷蔵庫から出した分は、綺麗に平らげたマジック。何だかんだで、ちゃっかりしてやがる。
「食ったクセに。クセに。食い逃げかよ」
しゅんとしながら一人、頭の中で、反省会を開催しているシンタローであった。
頬にぺたりとついた、テーブルが、冷たい。
シンタローは、目を瞑る。瞑って、考える。
……確かに自分にも、対応がマズかった所は、多々ある。
大人な態度で、ガキんちょ思考のマジックを導いてやろうとしたのに。
つい、こちらがヒートアップしてしまった。食って掛かってしまった。
明らかに失敗だ。
「……」
しかし、こうも考えるのである。
――だいたい、あいつが悪いんだ。
シンタローは、今度は自分の、元気なく垂れている黒髪の先を、引っ張ってみる。
真夜中のマジックは、ちゃーんと昔のコト、話してくれたのに。
あいつの父さんの話。でも今のあいつ。あいつってば。
『……なんでもない』だとよ!
ここまで思い出して、また怒りがぶり返してくるシンタローである。
「くっ! 何でもなくねー! 何でもないはずねーのに!」
拳を握り締めて、テーブルをごんごんと叩く。十回ばかり叩いてから、ほう、と溜息をついた。
「……あーあ……」
きっと、大事な話だから。マジックにとって、本気で大事な話だから。
シンタローは、自分の思考が、内に向かってしまうのを自覚している。
俺なんかには、言えねえってことなのかな……。
その時。玄関の方で、音がした。扉が開いて、閉まる気配。
「……!」
シンタローは、飛び上がる。瞬間、感じた。
マジックの奴。家に戻ってくるって、言ったのに。逃げるのか……?
また――あいつが、行っちまう!
居間のソファにかけてあった上着を、引っつかむと、シンタローは彼を追いかけた。
瓦礫を抜けて、玄関を出る。少し走ると、すぐにマジックの後姿が見つかった。
夜の中、美しく立ち並ぶ街路樹の波に、静かに飲まれていくその姿。夜に彼が飲み込まれる前にと、シンタローは、駆ける。
暗い夜道は、色の無い木々が鳴る。
濃淡ばかりが、世界を彩るすべて。
こつこつと、路の煉瓦に、二人分の足音が響いている。
駆けながらシンタローは、ポケットにぎゅっと両手を差し込んだ。
ええくそ。寒い。こんな季節になっちまったのに。
なんで、俺。こんな面倒くさいこと。
なんで、俺はこんな面倒くさいことばかりに、嵌っていくんだ。
いっつも、遠回りして、ますます面倒くさいことになる。
……なんで?
シンタローの足音には気づいているだろうに、振り返りもしない背中。その背中が、憎らしい。
ちくしょう――今日は特別だ、特別。
シンタローは、その背中から目を逸らし、夜空を見たまま、怒った顔をして走る。
俺様を走らせやがって、また出て行きやがって。
追っかけてやるのも、特別だ、ありがたく思え。
「あ、あ、アンタなぁ――!!! 待て! マジック――!!!」
また逃げるなんて。この根性無し。
歩調すら緩めない男に、やっとのことで追いついたシンタローは彼の前に回りこみ、正面から、大声で叫んだ。
まだここは自宅の私道だったから、近所迷惑にはならないはずだった。
「まったアンタ! どこ、行きやがる――――ッッ!!!」
マジックが、ちらりとシンタローを見た。
そして、唇はほとんど動かさずに、口の中だけで、何かを言った。
「……物……」
「ああん? 聞こえねえよ! ハッキリ喋れ! ハッキリと!」
叱られて、マジックは仏頂面で立ち止まる。
そして、それでもやっぱり小さな声で、ぼそりと言った。
「……買い物……」
「はあ? こんな時間に買い物、だあ?」
シンタローをかわして、再び歩き出したマジックが、続けて言う。
「こんな時間に、か……誰かに部屋を爆破されちゃってね……仕方なく……」
「ぐ……」
また彼に追いすがりながら、ちょっと言葉に詰まっているシンタローである。
しかしこんな所でめげては、また失敗を重ねるだけだった。気を取り直すと、シンタローは努めて明るく声をかけてみる。
「な、何を買う気なんだよ! つーか、別にこんな真夜中じゃなくたって」
「真夜中だから必要なものさ……寝るための日用品が全部吹き飛んじゃって、ねえ」
「一日ぐらいいいじゃねえかよ! そのまま寝れば!」
心なしか顔を赤くして、シンタローは控えめに提案してみる。
「ベッ……ベッドとかは、他の部屋の使えばいーし……パッ……パパパパパジャマなんてっ……その、着なくたっていーし……つーかアンタいつも着てねーじゃねーかよ……」
「そんなのどうでもいいよ。もっと重要なものが足りないんだ。ストックごと吹き飛んだんだ」
マジックは、じろりとシンタローを見た。当然だろうという顔で。言った。
「歯ブラシがね!」
しーん。
微妙な空気が、二人の間に流れる。シンタローとしても、なんとも反応しようのない返事である。
マジックは、重ねて言った。
「私は、歯を磨かないで寝るのはイヤなんだよ!」
「……ふーん……」
「……」
「……」
「……」
「……」
沈黙が続いてしまった。
二人、ただ歩く。
歩きながら、シンタローは考える。
チッ。嫌なムードになっちまったぜ。
歯ブラシなんて、こんな中途半端な言葉には、返す言葉もない。
イライラしながら、シンタローは横目で、隣を歩く男の顔を窺う。
しばらくその不機嫌な顔を、つらつらと眺めていたら。
やっぱり、腹が立ってきた。なんて煮え切らない男なんだと、積もり積もった感情が込み上げてくる。
歯ブラシなんか、どうでもいいけど。なんか。とにかく、気に入らない。
この顔。この雰囲気。この態度。すべてにおいて、喉の奥に何かが引っかかったような、この空気。
もうガマンできねえ!
シンタローは、意を決する。
「アンタなぁ!」
二人の足元には、枯葉が薄い絨毯のように敷き詰められている。
私道が終わり、巨大な門扉が口を広げ、小さな池が水を湛えている。水面に浮かぶ、枯葉の釣り船たち。
再びシンタローは、マジックの前に、両手を広げて立ち塞がった。もう遠回りは御免だと思った。
はっきり言ってやるつもりだった。
「アンタなあ! いい加減にしろよ!」
仕方ないという風に、形の良い眉をかすかにひそめて、立ち止まったマジック。見下ろしてくる青い目。
シンタローは、臆せず、言い放つ。
「いい加減にしろ! いつまでも拗ねてんじゃねえぜ! 自分でも俺から逃げてるって、わかってんだろ!」
「……」
また一枚、枯葉が二人の間を、舞い落ちる。
「ちゃんと向き合え! 男らしくねえ! そんなんじゃ、アンタなんか、誰も相手にしちゃくれねーぞ!」
まあ、拗ねる原因作ったのは、俺なんだけどもよ……。
それにしたって。それにしたって、なあ?
「……」
マジックは黙り込んでいた。その表情は、変わらないままだった。長い沈黙が続く。空気が緊張している。
だんだんとシンタローは、表面上は強気に相手を睨みつけていたものの、内心では心配になってくる。
こんなこと言っちまって。逆効果だっただろうか。
俺、また、失敗……しちまったかなあ?
しばらくして目の前で立ち尽くしているマジックの肩が、ぴくりと震えたのがわかった。高い位置で、金色の髪が、揺れていた。
「お、おい……」
慌ててシンタローは、手を差し伸べる。
その手が、振り払われて、シンタローが、あっ、と思った瞬間。
マジックが、叫んだ。
「いいんだ、いいんだ。私は男らしくなんかなくたって、いいんだー!」
「は?」
シンタローは、目を丸くした。
目の前で、マジックが暴れている。地団太を踏んでいる。大袈裟に嘆いている。天を仰いでいる。
「うっ……私なんか私なんか! どうせ一人で寂しく、のたれ死にするんだー!」
やっと状況を把握して、慌ててシンタローは、これも大声で言い返す。
「誰もンなコト言ってねえだろうがぁ――――――ッッ!!!」
「いいや、言った! 言ったね! お前は言ったね!」
「言ってねえ――!!! 一人で寂しく、のたれ死に、って! あんだよ、そのネガティヴ思考!」
「フッ……いいんだよ、わかってる。よくね、私は……こんなことを思い描くんだ……」
急に静かになったマジックは、舞い落ちた枯葉を手に取り、遠い目をした。
側の池のほとりにしゃがみこんでしまう。手近な石を拾って、ぽうんと投げている。ぽちゃん、と寂しい音を立てて、石が沈んでいった。
シンタローが見つめる前で夜は静まり返り、藍のインクが流れ落ちるように、声が地に響く。
「たとえば……お前が遠征に行って、私のことなんか忘れちゃって、電話も出てくれなくなって、メールだってくれなくなるか『みりん買ってきて』とかばっかりになって」
「ちきしょう、根に持ってやがるナ」
「運命のいたずらか、私の最後の電話にも出てくれなくって」
「ああ? 最後の電話ってあんだよ!」
「そしてある朝、お前は目覚めて、テレビをつけて驚くんだ。ニュースやワイドショーや特番でもちきりさ。『地球に激突する小惑星の軌道を変えるため、突撃して散ったマジック閣下に敬礼!』」
「いきなりどうして地球を救ってンだぁ――!!!」
「誰もね、引き止めてくれる人がいないからね、パパはせめてそうやって派手に消えるよ。全人類を救うよ。小惑星が来たら、ここぞとばかりに飛び込むね。あああ、寂しいなあ。酷い人の世だよ。早く小惑星来ないかなあ……」
「来ねえよ!」
「そんな場合でも、お前は私の葬式に、罠をしかけようとかそんなことばかり考えてるのさ。そして、大衆の前で。生前、父はパンジステークに必ずひっかかったものです、皆さんも今宵は無礼講で、どんと罠にひっかかってください、父も宇宙の彼方で喜んでいるものと思います、とかいうスピーチをする。周囲が、どっと沸く」
「うお――!!! その暗黒電波思考やめっ! だいたいそんな、のたれ死に方あるか――!!! もうやめ――――ッッッ!!!」
シンタローはバタバタと両手を振り回して、マジックの周辺に渦巻く、淀んだ空気を振り払おうとした。
しかし、振り払っても振り払っても、どんどんと黒いオーラが辺りを覆い隠していくのである。
なんてこった。始末が悪い。悪すぎる。
シンタローは自分のことも、かなり内面的には泥沼思考に嵌ってしまう人間だと思っているのだが、マジックだって、相当なものなのである。相当というより、かなりヤバい。
ヤバいというより、かつて世界を征服しかけた男なだけに、ある意味究極。自分の泥沼に、他人様を巻き込むことにかけては、超一流。一身上の都合による身勝手、他人様にかける迷惑は覇王級。
なに! この暗黒オーラ!
このままだと、折角立ち直ったシンタローまで、引きずり込まれかねない状態である。
「くっ……」
しかしそこは、俺様だって、総帥なのである。
なんてったって総帥! 負けるか! 負けるか、この野郎!
シンタローは、何とか踏みとどまり、どよーんとして水面を眺めている男を、怒鳴りつけた。
「あーもう! 暗ッ! なんでそんなコトばっか考えンだよ! 死ぬとか言うな! そーだ、アンタ、明日の朝からラジオ体操に参加しろ! 新鮮な空気、吸え! 深呼吸! すーはーしてみろ!」
しかしマジックは、今度は地面をいじっている。うじうじしている。長い指で、丈の短い草を、ちぎっては投げ、ちぎっては投げしている。
そしてこうだ。
「いいよ……私なんかが朝の空気を吸ったら、朝が真夜中になるよ……朝に気の毒だ……もういい。私なんか、光に背を向けて一人寂しく生きる、真夜中の男でいいんだ……」
「ああーん?」
「いいんだ、私一人暗くたってネガティヴだって、誰も困らないよ」
「くっ! つうかアンタなあ!」
「決めた! もう私は真っ暗闇に生きるよ! 心の闇に生きる! 真夜中で生きていく!」
急に、今度はすっくと立ち上がったマジックに、彼の顔を覗き込んでいたシンタローは、思わずつんのめりそうになった。
「なっ!」
「いいね! もう、私について来ないで! ついて来ないでったら!」
すたすたすたーと歩き出してしまったマジック。
その変わり身の早さに、一瞬、呆気にとられていたが、
「ぐうっ……ついて行かなかったら、ますます、拗ねやがるくせにぃっ!」
仕方なくシンタローは、その背を追った。
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場所は変わって、某所のコンビニ――
カウンターで店員が、あーあとあくびをしている。
あくびをしてから。ふっと隣から向けられる視線に、何とはなしに居住まいを正して。
「と、こういう感じにな。夜ってのは、暇で仕方ないんだ」
もっともらしく、付け足した。
今夜も客の姿は、なかった。床磨きはもう終わったし、棚の整理もやって、ゴミもまとめた。廃棄用の餡まんは、持ち帰るためにちゃっかり裏の冷蔵庫の中に入れてある。
雑誌の品出しには、間があるし。ドリンク補充もまだいいし。
退屈だ、平和な夜である。
ただ一つだけ、目新しいことと言ったら。
新入り、つまり彼の後輩となるべき学生アルバイトが、今夜からバイトを始めたということぐらいだった。
所詮はコンビニのバイトだが、後輩は同じ大学、しかも体育会系であるらしく、なかなか態度はちゃんとしている。真面目なので、仕事も教えやすい。きちんと店員を先輩として立ててくれる。
先輩気分というのも、なかなかいいものである。
今、二人は。カウンターで新商品案内のカタログを、ぼんやりと眺めていたところであった。
ふと、店員は思う。あの夜も。最初は、こんな平和な夜だったなあ、と。
うっすらと思い出しかけて、いけない、いけないと、店員は過去の記憶を頭から払いのけた。
何も知らない後輩に、そんな事実を語る訳にもいかなかった。
あれは。ああ、あの黒記憶は。あれは、知らない方が幸せだという類の出来事なのであるから。
こうして平和にあってみれば、もはや本当に起こった出来事なのかも疑わしい程であるのだ。この平和を大事にしなければ。平和とは、苦しみの時代があってこそ、ひとしおに貴重に感じられるものである。
「? どーしたんスか」
店員の微妙な苦悩の気配を感じ取ったのか、後輩が聞いてくる。
「はは、いや……そーいえばお前、霊感は強い方……」
「は?」
「いや、いい。やっぱり、いい」
「何ですかー? 気になるな〜」
「気にするなよ」
はははーと、店員が。先輩らしく鷹揚な笑みを浮かべた、その時だった。
ガタガタガタッと。妙な音がした。店の強化ガラス戸が、尋常ではない揺れ方をしたのである。
「やけに風が強いですね」
隣で後輩が、笑って言う。
「そ、そうだな」
店員は、わずかに頬を引きつらせて、それでも先輩としての威厳を保ちつつ、答えた。
しかし後輩は、彼を見て眉をひそめ、こう聞いてきた。
「あれ。先輩。風邪ですか?」
「い、いや……」
いつの間にか、店員の身体が、小刻みに震えていた。
彼は霊感が強い質であったから。何か、ぞわりと首筋に這いずる予感のようなものに襲われていたのである。
「大丈夫。大丈夫だから……」
「本当に大丈夫ですか? あっ、すごい汗だ! ヤバいですって、先輩!」
「いや、大丈夫……大丈夫だから……」
店員は、必死に念じている。頑張って、自らに言い聞かせている。
この予感は……いや、でも、でもでもでも。あの時とは、違う、違うはずだ……。
違ってくれ! 頼むからッ!!!
また、ガタガタガタガタガタガタガタッッ!!! と。激しい音がした。
今度は、風圧がガラス戸を打ち付けるような、そう、例えば台風が上陸したような……そんな揺れ方。
危険な揺れ方。とんでもない揺れ方。いまや揺れは、コンビニ全土を襲っていた。
棚が揺れている。天井が揺れている。床までもが。むせび泣くように震えている。
後輩の焦る声がする。
「わっわっわっ! 先輩! 外が!」
おそるおそる外を見れば、『酒類販売/ATM』の看板が、ふわりと何かに巻き上げられて、空中に浮いていた。
外に設置してあった、スピード写真用のボックスが、へなりと歪んでいる。店員が出勤の時に乗ってきて、店の横にとめておいた自転車までもが、バク転をするようにゴロゴロ転がっていった。駐車場の彼方へ向かって。
――ああ、俺の愛車……昼メシ弁当にして節約して買ったのに……。
どこか実感が沸かず、ぼんやりとその光景を眺めていた店員の袖を、後輩が引っ張った。
「……」
「何が起こったんスか! いっ、一体……!」
「……」
店員は、目を瞑った。
ああ……この予感……。
今日は、仮眠室に店長もいない。新人が入ったことで、家に帰ってしまったのである。
俺が、この店のトップだ。
俺が――この店と後輩を、守ることができるのか――
そのうち急に揺れが止まる。静けさが訪れる。台風の目に入ったらしい。
「風が……凪いだ……」
「……」
後輩の声に、店員は目を見開く。
コンビニの出入り口を、凝視する。吸い寄せられるように、凝視する。
自分の霊感が正しければ。
まさか。まさかまさかまさか。まさかまさかまさか――!!!
「真夜中に生きるにも、日常品は必要だよね」
「結局コンビニかぁ――――――――――――――!!!」
すうっと無情にも自動ドアが開いて、彼らが入店してきたのである。
「あ、いらっしゃいま……」
「ばっ、バカ――!!!」
挨拶をしようとする後輩の頭を、思わず押さえつけて、カウンターの下に避難させてしまった店員であった。
『えっ? なんスか? なんなんスか? こんな嵐の中にお客さん来てくれたのに、挨拶しちゃダメなんスか?』
霊感がまったくない上に、ちょっと天然入ってるらしい後輩に、店員はただ頭を低くするように言いつける。
緊急事態だった。本当は挨拶ぐらいしても死ななかっただろうが、店員の優れた第六感は、危険な気配を感じ取っていた。
「ほーんとアンタって!」
「ほーんとお前は!」
金髪と黒髪。また再来するとは思わなかった、あの二人。
今度はなにやら最初からモメているようである。前回よりも、悪い空気が、ビンビンに伝わってくる。
ここに来る道すがら、二人は喧嘩を続けてきたのだろうと推測された。
どんな道順でやって来たかは知らないが、さそがしとんでもない惨状が巻き起こっているのだろうと、店員は道に同情した。
と、カウンターの前で、金髪が立ち止まった。身を固くし、見つからないように頭を低くしている店員たちの前である。
やめて、やめて! ここで立ち止まらないで!
声なき悲鳴も何のその、悲劇のドラマは始まってしまうのだった。
「……そうだよね……私なんて……本当に救いようがないよね……」
ぽつりとそんな金髪の声がして、辺りに黒いオーラが、どよどよと立ち込め始める。
「が――!!! ネガティヴ禁止――!!!」
黒髪の声がすると同時に、対峙している金髪と黒髪の間で、風が巻き起こったのがわかった。
初めは、そよ風程度だったものが、その内には、ごうごうと荒波を巻き上げる勢いで、唸りだす。
綺麗にレジ前に陳列してあったガムが、新聞が、宙に浮き上がる。店員たちが隠れているカウンターも、ぐらぐらと揺れ始める。
『うわーうわーうわー! 先輩っ!』
『……耐えろ……いいから、耐えるんだ……』
動揺している後輩を、何とか落ち着かせる店員である。
嵐は、通り過ぎるまで耐えるべきものであることを、彼はかつて学んだのである。
そうこうする内に、金髪と黒髪が、睨み合う気配がする。聞こえる声。
「……アンタって……!」
「……お前って……!」
ゴゴゴゴゴゴ、という擬音。
そして、一般人二人が隠れているカウンターまでもが、床から浮き上がり始めたのである。
『ひいー! ここも危ないスよ! 先輩っ!!!』
『たったたたた耐えるんだ――! それしか俺たちには方法はないッ!!!』
自分たちの身体まで浮き上がりそうになるのを、必死に抱き合って堪える店員とその後輩。
『うわー! 巻き込まれる――!』
『頑張れ! 頑張れ――!!!』
そして店員の作戦は、どうやら正しかったようだ。
ピタリ。
ぼとりぼとりと舞い上がった商品が、床に落ちていく音。脚が浮き上がっていたカウンターが、ごん、と床に落ちる。
店員とその後輩は、重力を感じて床にへたり込む。
カウンターの外から、また声が聞こえた。
「って、買い物、買い物」
「そーだ。さっさと買え」
ほう、と店員と後輩は、胸を撫で下ろした。二人の足音は、陳列棚の方に向かったようである。
『助かった……』
カウンターの中で、息を整えている店員に、やがて茫然自失状態から回復したらしい後輩が、言い募る。
『先輩っ……! これ! これって、なんなんスか! なんの超能力!』
『いや、俺にもわからん……』
『警察! 警察呼びましょうよ!』
未曾有の事態に直面して、切羽詰っている後輩を、慌ててたしなめる店員である。
『バカ! 警察なんか呼んだって、来てくれないような人種らしいんだよ! あの二人組は! あの二人組はなっ!』
――実は。こんなことがあった。
前回の金髪黒髪襲来の翌日に、軍服を着た二人の青年が、嵐の後のこの店を、訊ねてきたのである。
『こういう者ですが』
すらりと名刺を差し出され、そこにある肩書きを見て、口を開けたままの店長と店員に、彼らは慣れた口調で言った。
『昨夜の被害届けお願いできますか。申し訳ありませんでした。全額お支払しますから』
『えっ。いいんですか』
あわあわと聞き返す店長に、いかにも有能そうな切れ長の目をした青年が、答えた。
『はい。被害届けをガンマ団の会計に提出すれば、弁償しますので。団規で定められた事項です。規定の通りに、慰謝料も上乗せさせて頂きます』
『そのための予算が組まれてますんで。すみません、うちのボスがご迷惑をかけました』
隣にいた、のんびりした調子の青年が、頭を下げた。
よくわからないまま、被害届けを書いている店長の側で、手持ち無沙汰だった店員は、彼らと世間話などをしたのである。
『なんだか……大変ですよね……』
それとなく出来事を匂わせてみると、のんびりした方が、笑って頭を掻いた。
『はは、凄いでしょ? あの二人。自分たちも足跡を辿るの、苦労してるんですよ〜 もー引退したら、どこでも勝手に動き回るから、後始末が大変で〜』
『どこでも動き回ってるんですか……それは……』
『ええ。一人でも大変なのに、二人で行動されると、もう被害が倍増って感じで。ウチの財政を圧迫しちゃってるって、よく内部でも問題になってます』
『へ、へえ……』
『いやあ、これも仕事ですから。それより、学生さんですよね〜 これからが楽しみですね〜 就職、気をつけて下さいね』
とかなんとかかんとか。
している内に。
『行くぞ、チョコレートロマンス』
『それでは、失礼しまーす。また出没したら、遠慮なく言って下さいね! お支払しますから!』
台風の後始末隊は、それこそ彼らまで風のように去って行ってしまったのである。
残された名刺を見て、店員は呟いた。
『ガンマ団……秘書課……』
ってなことがあったんだよ、と。
店員がカウンターの下で、前回の切ない経緯を説明している間に、勿論待ってなんかくれない金髪と黒髪は、店の中を物色していた。
「さて歯ブラシ。毛が固いやつじゃないとダメ。細めで、ちゃんと奥まで届くやつ」
買い物は好きと見えて、不機嫌だった顔に少し喜色をにじませて、陳列棚を見回している金髪。
しかし相変わらず、狭い場所で何かを探すというのは、慣れてはいないようで、手間取っているのである。
「うーん、ないなあ。前に見かけた記憶があるんだけれど、何処だったかなあ。ああ、そうそう。歯磨き粉も買わなきゃ」
「何でも買うな! 勿体ねえ。あるモンはあるモンで済ませろ」
腕組みをして、少し離れた場所から見張っていた黒髪が、茶々を入れる。そして、言った。
「歯磨き粉ぐらい俺の部屋の使えばいいじゃんかよ。それぐらい……かっ、貸してやらぁ」
しかし、この黒髪の親切な申し出は、金髪のお気に召さなかったらしい。金髪は、ぷいと横を向いて言った。
「やだ」
「なんでだよ!」
金髪は、ここぞとばかりに鼻で笑う。
「フン。お前の歯磨き粉は、甘い味のだから」
「ああーん?」
相手を言い負かす絶好の機会と見て、畳み掛ける金髪である。
「そうだ! この際だから言わせてもらうけどね! どうして歯を洗うのに、お前は甘い味の歯磨き粉を使うんだ! 洗浄効果が薄いじゃないか」
一瞬ひるむ黒髪。しかし言い返す。言い返すったら言い返す。
「ばっ、ばっきゃろー! 甘いっつーか、もう慣れちまってるからアレがいーんだ……って! 元はと言えば! そーだそーだ、元はと言えば、甘い味のは、ずっと昔にアンタが買ってきたんじゃねえかよ! アンタのせいだ!」
「そりゃ子供には甘いの買ってくるよ! 喜ぶからね! それに小さい頃は、『は・み・が・き・じょうずかなぁ〜』で私がお前の歯、きちんと磨いてやってたから、衛生面は心配なかったんだ!」
「あああ? ケッ、今だって、自分できちんと……」
「あーあ、昔は良かったなあ、可愛かったなあ。念入りに、『ぶくぶく〜、ぺっ』ってうがい、すすぎもやらせてたからね! だけどね! 子供時代の歯磨き粉を、まさか二十年以上も使い続けるなんて、誰も思わないだろう! だよねえ、まさか、誰かさんがねえ……?」
「ぐっ……それぐらい予測しやがれ!」
「もう私に、お口、洗わせてくれないくせに! 歯みがき、させてくれないくせに!」
「うっせえうっせえうっせえ――――!!!」
この時、カウンターからは、恐る恐る店員とその後輩が、這いずりだしている。
いくら後で弁償してもらえると知ったからと言って、やはり最低限の責任は果たさないといけないのである。
店長がいない今。店員は、自分の肩に、重圧がのしかかっているのを自覚していた。
そう、店長がいない今。俺が。俺が……!
そしてそんな勇敢な店員に感銘を受けたのか、後輩も、後ろから、服の裾をひっぱりながら、頑張ってついてきているのである。
こんな彼らの姿を、ガンマ団員が見たら、敢闘賞の表彰状でも授与したくなったことだろう。
そして運悪く、
「誰がさせるか! だいたいアンタ、奥に突っ込みすぎなんだよっ!」
びくっ。店員とその後輩は、肩を震わせた。黒髪の台詞を、マトモに聞いてしまった彼らである。
なんだか、マズい話題の中に、自分たちは飛び込んできたようだ。
奥? 奥って、奥……?
金髪が、不思議そうに首を傾げた。
「おかしなことを言う子だね。奥に突っ込まないと意味がないじゃないか」
「痛いんだよォッ! なーんで毎晩そんな痛い思いしなきゃなんねえーんだ! そんなんだったら、自分でやるわいっ!」
「自分でちゃんとやれるの? 奥まで入れられる? お前は何だかんだ言って、そういうのは不器用だと思うね」
お、お取り込み中だったみたい。
マズい。マズい、と。
店員とその後輩は、この場から立ち去ろうとしたが、足が凍りついたように動かなかった。二人は顔を見合わせる。半泣きになる。
ダメッ! 俺たちの足。凝固しちゃってる!
そんな二人などまるで見えないかのように、長身のお客様二人は、上空で言い争いを続けている。
「自分でやれるに決まってンだろ――! くっ、ガキ扱いすんなっ!」
「子供扱いなんかしてない。大人の味の話題をしてるんじゃないか!」
「なーにが!」
「だから、してあげるって!」
「いいって!」
フローズン店員とその後輩の目の前で、飛び交う台詞。
そして金髪が、ふう、と溜息をついた後、こんなことを言った。
「だいたい、例え痛いとしたって、そればっかりじゃないだろう! 私がしてあげると、気持ちいいよ?」
思わず店員とその後輩は、黒髪の方を見つめてしまう。
すると黒髪は、
「チッ……」
きまり悪げに舌打ちして、くるりと背中を向けてしまった。
店員とその後(略)は、思った。
『否定しないんだ……』
しかし黒髪は、新しい反論を思いついたとみえて、すぐに振り返る。
「そ、それにな! アンタの(歯磨き粉)、苦い……」
金髪は、肩を竦めた。
「当然。もう子供じゃないんだから。大人の味に、いい加減に慣れなさい」
「ちっ。俺のコト、何でも自分の思い通りにしようったって、そうはいかねえゾ」
「慣れれば苦くないってば。そのうち大好きになるね」
「嘘つけ!」
「そうだよ。慣れれば、もう夜は私のように、それしないと、ぐっすり眠れなくなること間違いなし!」
店員とその(略)は、思った。
『口なんだ……』
「……」
黒髪は、考え込むように少し沈黙した後、確かめるように、言った。
「……ホントか?」
金髪は、大きく頷く。
「ホント」
黒髪は、繰り返す。
「……ホントに、ホントか?」
「ホントホント」
「……ふーん……」
店員とそ(略)は、思った。
『納得するんだ……』
納得はしたものの、ぶちぶち文句を呟いている黒髪である。
「ちっきしょう、機嫌の悪い時は、何でもケチつけたがるよな! いちいち、いちいち! 俺に干渉してくんなッ!」
「どっちが! 私のやることなすことに文句をつけてくるのは、お前じゃないか!」
「アンタのは――! 根本的に常識ねえから、わざわざ俺が教えてやってんじゃねえかよ!」
「私だって! お前があんまり子供っぽいから、心配して教えてあげてるんじゃないか!」
「だーれが! だーれが、子供っぽいってええ? どの口があ! それはアンタだろ、アンタ!」
「お前だよ、お前!」
治まったかと思えば、またすぐに弾ける火花。睨み合う金髪と黒髪。
二人の間で、バチバチと、鋭い輝きが花火のように……それはきらめく情熱の炎に似て……などと思っていたら。
これは比喩ではなくて、本当に飛び散っているのだから、もう大変である。
燃えやすい商品たちが、すでにブスブスと黒い煙をあげている。あちこちで引火している。
(せっ、先輩ーっ! 燃えちゃう! 燃えちゃいますよぉっ!)
(守るんだ! 俺たちが、この店を、守るんだー!)
店員と(略)は、あわあわと制服の上着を脱ぎ、ばたばた叩いて、消火活動に追われる始末である。
まだまだ怒る気マンマンの黒髪が、一際大きく声を張り上げた。
「だいたいなあ――!!! ムダ口叩いてんじゃねえぜ! 早く買え! 目的の買い物しやがれよ!」
金髪が、ああ、と天を仰いだ。
「わかったよ! 買うよ! 買えばいいんでしょ! まったくなんでそんなに、せっかちなんだか!」
「せっかちじゃねえ! アンタが、ぐずぐずしてるからだろ――!」
「だから買うって言ってるでしょ! もう、私はお前と違って、一人で買い物できるんだから、あっち行っててよ!」
「くぅ〜、あんだよ、その言い方! あんだよ、いつもは……なんだよアンタ、いつもは、俺にベッタベタベッタベタしてきやがるのに……」
「いつもはいつも! 今は今! 私は今は一人で買い物したいの!」
「ケッ! こーの自分勝手男! 世界が自分中心に回ってると思ってやがる!」
ひとしきり喧嘩をした後、黒髪はぷんぷん怒りながら、店の隅の方まで歩いていってしまった。
その後姿を確認した後である。金髪が、慣れた様子で指を鳴らして、言った。
「ふう、やれやれ。ああ、ちょっと、そこの店員さん」
出た! 逆らえぬ威圧!
突然の消火活動で。ぜいぜいはあはあと息を切らしていた俺たちですが。床にへたりこんでいた僕たちですが。
お呼びでしょうかと、まるで家来のような口ぶりで、ついひざまずいてしまう店員(略)であった。
だって、だって。体がそう動いてしまうのだ。初体験の後輩だって、無意識に服従ポーズをとってしまうのだ。
霊感なんかなくたって、生あるものとしての本能を持ち合わせている以上、これはどうしようもないことのようだった。
そしてやはり金髪の周辺では、空気が揺れている。
びりびり。やっぱりびりびりする!
「先日、ここにあるものはみんないらないと言ったが。前言撤回させて貰おう。人生とは、ほんの一瞬の出来事で逆転してしまうものだね……」
そこまで言って、フッと表情を曇らせる金髪。
「あの頃は、良かった……」
彼は沈鬱な色を、眉間に漂わせて、低く重く呟いた。
そして案の定。空気が、本当に低く重くなった。
店(略)は、押し潰されそうな空気圧に、耐えるはめになる。
(ぐ……う……くうう……っ! 先輩! 重い! つぶれちゃう!)
(ま、待て……! 俺にはわかったことがある……っ! きっとこの人を考え込ませたらダメなんだ! だだだだだから……っ! う、動けっ! 動け、俺の口ィィ!!!)
ここは水深何百メートル! と言いたくなるほどの全身を締め付ける圧力に耐えて、店員は、必死に口を開くことに。
成功した。
「ご……御用件……は……」
「ん? ああ、そうだった」
金髪が沈鬱な思考から戻った途端、フッと気が和らいだ。またしてもゼイゼイと息をついている(略)に向かって、彼は言った。
「じゃあ、その棚の端から順に、全部貰おうか」
二度目だったので、顎が外れこそしなかったものの、ひときわ大きく身を震わせた店員とその後輩(元に戻る)である。
棚、棚。
紙コップ、デンタルフロス、トランクス、電池、歯ブラシ、シャンプー……これを端から順に……。
目の前の棚に並んでいる商品を、店員は一通り見回した後、確認を求めるように、そっと金髪の男を見上げた。
相手は、小さな子供に大人がするように、大げさな素振りで頷いてくる。
その時、
「アホかぁ――――ッ!!!」
だだだだと、店の端にいた(何故か隠れるように、こっそりこちらを窺っていた)黒髪が、長髪をなびかせて走ってきて、凄い勢いで金髪にツッコんだ。
黒髪の長髪が、逆立っている。
「まったアンタはああッ! アホかっ! 並んでるモン全部買って、どーするつもりだっっ!!! 無駄使いすんなって、言ってんだろォッ!!! どーしてこう、何度も何度も同じコトを……」
金髪は、またしても、ぷい、と横を向いた。
「買うなと言われると。私の今の気分は、とても買いたくなる」
黒髪は、ますます口をひん曲げた。
「ぐっ! じゃあ、買え!」
「そう? それじゃ! お前が言ったから、私はここにあるもの、ぜーんぶ買いますね! あーあ、お金勿体ないなあ! でもお前が言うから、仕方なく。いらないものも、買うとするか! あーあ、無駄使い、無駄使い! お前のせいだよ、お前の」
「ガキか、アンタは――!」
「ほら、店員さん。早く! 早く商品確保して! 誰かが邪魔しない内に、早く確保しちゃいなさい!」
急にまた矛先を向けられて、びくっびくっと店員は痙攣するように震えた。
(せ、先輩! しっかり!)
後輩に背中を支えられて、ハッと我に帰って、店員の身体が勝手に動き出す。足が、全速力で入り口側までダッシュし、手が、買い物カゴを取ってきてしまう。
そして慌てて、金髪に指示された棚の商品を、詰め始めた。
しかし、
「くっそ、てめー! コイツの言うことは聞くなって、前に言っただろォォ!!!」
黒髪の怒りのオーラと、金髪の威圧との間で。店員は板ばさみになり、立ち往生した。
「ああ、店員さん。二人いるから、君はこっちを詰めなさい」
黒髪とは逆に、やけに余裕な態度で、指示している金髪である。
指名されて泡を食った後輩は、戸惑ったものの、結局は同じようにカゴを取ってきて、商品を詰めるしかないのである。
カゴが一杯になっていく。
歯ブラシ、シャンプー……続いてリンス、クレンジングオイル、石鹸、ジェルローション、シェービングクリーム……
店員とその後輩にとって助かったことは、金髪は再び散策を始めていて、黒髪の注意がそちらに向かったことである。
「なになに。これは何に使うものなの」
「だーから! え、えーとな! これは……ナンだろ」
手当たり次第に商品を検分している金髪と、教えている態度を取りながらも、意外に世間知らずっぽい黒髪のコンビは。
やがて、特別に気を惹かれるものを見つけたらしい。
「ああっ!」
金髪が、声をあげた。
「『お泊りセット』!……便利なものがあるじゃないか。これだよこれ! 今、私に必要なものは、これだよ」
「ああーん? 余計なモンも入ってんだろ、そーいうの!」
ひったくり、中身を確認している黒髪。
その様子を窺いながら。彼らから少し距離を置くことで、ちょっとだけ余裕の出来た店員とその後輩は、顔を見合わせて。
お約束通りに、思った。
『お泊りなんだ……』
黒髪が、セットを包む透明なビニールを、光にかざしたり、すかしたりしながら、不機嫌な声で言う。
「ほら! やっぱり歯ブラシとか以外に、シャンプーとかリンスとか、入ってんじゃん!」
「それぐらい、いいだろう。入ってても」
「よくねえ!」
声を荒げる黒髪は、はっきりくっきり、言葉を発した。
「俺・の・使・え・ば・い・い・ダ・ロ・!」
ていうか、共用じゃん! どーせ同じのじゃん! もともと一緒だろーがよ! としきりに文句を並べ立てている黒髪と、不満そうな金髪。
店員とその後輩は、思った。
『はっきりくっきり、しすぎだよ……』
「ま、まあ、『お泊りセット』はともかくなあ!」
黒髪は、思い出したように大袈裟に腕を組み、溜息をついた。
カゴと格闘している店員たちの方へと、その視線を向ける。
「あんなにどーすんだよ。だいたい、持ちきれねーだろ!」
「どうして。あの人たちが家まで運んでくれるんじゃないの」
「そんなサービス、コンビニにはありません!」
「じゃあ車……」
「ダメ! 家から呼んでも、また時間かかるし! タクシーなんて金かかるし! 手持ちしか許さねえからな、俺は!」
「え〜」
金髪は、二、三度、首を傾げて、それから黒髪の表情を窺い、こちらも溜息をついて言った。
「じゃあわかった。仕方ない。妥協しよう」
長い人差し指を立てて、黒髪に言い諭すような調子である。
「私は、全部買いたいと思っている。お前は、歯ブラシだけ買えばいいと思っている」
「おう」
「例えるなら、100:1の比率だろうか。私が100を望み、お前は1を望む。ここで妥協してみよう。すると、ほら御覧! 私は50買ってもいいことになるよ!」
「ダメだろソレは――!!!」
「どうして!」
「100欲しがるアンタの感覚がおかしいから、どういう計算したってダメに決まってンだろー!!!」
「じゃあ99」
「くっ……そしたら俺なんて、0.5!」
「ずるいよ、お前! 小数点は卑怯だよ! そしたら私なんて、99.5に増やしちゃうもんね!」
「ダメだっての! じゃあ俺は0.25にすっからな!」
「じゃあ99.75」
交渉は、上手くいかないようである。どんなオークション。
店員とその後輩は、話の成り行きを、固唾を飲んで見守っているしかない。この傍迷惑な喧嘩は、一体いつまで続くのか。
すると、
「あーもう! 埒が明かねえ! もう知らねえぞッ! アンタなんか勝手にしやがれ――!」
そんな捨て台詞を投げつけた黒髪が、ダンダンと足を踏み鳴らしながら、こちらにやってくるのに気付いた。
慌てた店員たちが、わたわたとカゴの中の商品を、棚に出したり戻したり、右往左往していたら、その目の前で。
黒髪は、それでも金髪の手元をチェックするのに気を取られていたのか、どうなのか。
床に出しっぱなしになっていた商品――おそらく携帯式レインコートか何か、幅広のものだったと推測される――を、思いっきり踏んずけて、つるりと滑った。
「おっ……? う、うわっ!」
長い黒髪が、散った。背中から床に落ちる。転倒する。
店員たちは、思わず目を瞑る。そして次の事態を予測した。
しかし。激しい音も、床に伝わるだろう衝撃も、一向にないのである。
(……?)
おそるおそる薄目を開けた店員たちが、見たものは。そこには――
腰に手を回されて抱きとめられた黒髪。
腰に手を回して抱きとめる金髪。
至近距離で見詰め合うかたちになった、黒髪と金髪の姿が、あった。
「お前は足を痛めているんだから。気をつけなさい」
囁く金髪。少し間を置いて、黒髪。
「や、もう、治ってるから……」
「クセになるといけないから。大事にするんだ。だから……ついて来るなと、言ったのに」
「……フン……だって、俺がついて行かねえと……ダメだろ、アンタ……」
急に二人の間に流れ出す、妙に……甘い、ムード……
文字で表現すると、ぽわぽわ〜ん。もわ〜ん。ぷわぷわん。
甘くてピンク色の空気が、金髪と黒髪を、物凄い勢いで包みだす。
ぽわぽわぽわぽわ〜ん。
なに! なに、この雰囲気!
店員とその後輩は、ガタガタ震えだす。
こわい! 今までで、いっとう怖い、この雰囲気!
冷たいのよりも熱いのよりも、甘いのが、一番怖い!
「ほら、手をお出し。一人で歩ける?」
「……歩けるに決まってンだろ……」
「お前はすぐに強がるから。手をお出しったら」
「いいって! いいよ……ンなの……」
「恥かしがることなんかないさ……誰も見てなんかいないから。さあ……」
「そ、そーか……」
「そう、私たち、二人っきりだよ……」
僕たち、俺たち、ここで見ています。
今更なツッコミを、心の中でだけした店員とその後輩は異変を感じて、天井を見上げた。
見上げれば、今度は風ではなく、ピンクの花びらが待っているのだった。
これは薔薇。たぶん、薔薇。
ふわふわ〜 ふわふわ〜 ひらりひらり。
春の陽気というには、もっとしつこい桃色、周囲を絡めとる桜色、ピンクの蜘蛛の糸。
店員とその後輩は、これ以上ないぐらいに、青ざめる。
いやマジで。これは、台風よりも、空気圧よりも、火事よりもヤバい。
絶対零度の寒気が、二人を襲う。ぞくぞくがくがくと、二人は体中を震わせた。悶えた。
なんだかんだで、手を繋いで歩き出した黒髪と金髪。妙に気恥ずかしそう。やけに照れくさそう。
彼らと共に移動する、ピンクの毒霧。店内に振り撒かれる、いかがわしい悩殺ガス。
イヤ〜な熱気。
(い、息が……っ! でき……な……い……)
(が、ガマンしろっ……吸い込むな……吸い込んだら、終わり……だ……ぞ……)
ちょっと話のわかる所を見せたくなったらしい黒髪は、金髪に、はにかんだ笑顔を見せて、言った。
「チ……仕方ねえ、そのチョコも買っていいぜ」
しかし金髪が、ゆっくりと首を振る。
「いや、いいよ。節約だろう。お前の言うことも、もっともだよ」
「まあいいじゃねえかよ。これぐらい買おうぜ」
「お前に迷惑をかける訳にはいかないよ」
「ンなコトねえって。買おうぜ。買ってもいいってば」
やたら穏やかに言い争いをした後、黒髪は、小さな声で呟く。
「いいって。無理じゃねえヨ。だって。だって、俺も……」
息を切って、
「ちょっと、食べたいかなって……」
「シンタロー!」
「だから……だから、買っていいゼ。食うんなら、無駄にゃなんねーからナ」
「ありがとう、シンタロー……本当はパパ、とっても買ってみたかったんだ……」
「ほうーら、やっぱりナ! 俺にゃあ、お見通しなんだヨ! アンタってこれだからな〜」
「はは、参ったね」
店員とその後輩は、腰を抜かしたまま、じり、じり、と後退する。
この霧は重量があるらしく、もわもわと床に沈殿していくのである。明らかに空気より重い。
怖い。怖いったら怖い。
この霧に飲まれれば、一巻の終わりだという気がした。命の危機。それは一般人にとっては、渦巻くピンクの毒霧。
一足ごとに体力が殺がれていく、RPGの地底の奥深くなんかに、待ち構える男殺油地獄。
それが。それがっ! どうして! どうしてコンビニにぃぃっ――!!!
神様、僕たち、何かしましたか? なんでここにラストダンジョン発生!
(せんぱ……い……あ、お花畑で……死んだじーちゃんが……手招きして……る……)
(しっかりしろ……っ! 下……がれ……とにかく、下がれー!)
目は、まるでメデューサの眼光に囚われた獲物のように、金髪と黒髪から逸らすことはできないままに。
頑張って、頑張って、なんとかカウンターまで撤退することに成功する。
こんな嫌な幸せの中で、死にたくないィィ!!!
ピンクのもやもやの中で、なんだか金髪と黒髪は交渉を続けているらしい。そうこうする内に、やがて、話がついたようだ。
「『手に持てる範囲』という物理的制約が、勝負の分かれ目だったとは……まだまだ私も青いよ……」
金髪が、降参だという風に両手をわざとらしく上げ、こちらに向かって歩いてくる。
途中で、先程まで店員たちが商品を詰めていたカゴを、一つだけ拾い上げ、その上に板チョコを一枚だけ乗せてから。
そしてカウンターまでそれを運び、『会計をしてくれたまえ』と華やかな笑顔で言った。
この間、ずっとピンク。
酸欠状態で、指を震わせながらレジを操作する店員に向かって、『おや君、顔色が悪いね、大丈夫?』とそんな余裕まで、金髪は見せる始末であった。
会計が終わる頃に、黒髪がやってくる。
「へっへっへー」
交渉で勝利したと思っているのか、ちょっと上機嫌な様子である。
気が大きくなったのか、金髪の持つビニール袋を見て、ニヤリと笑っている。
「あんだよ、たったそんだけでいいのかよ。俺の持つ分は?」
「お前には重いものなんて持たせられないよ……それより、足は」
「治ってるっつーに……チッ……これだから、アンタは……」
そこで不自然な、間があった。見詰め合う二人。
「これだから、アンタって……」
「フッ……これだから、お前は……」
でろでろでろ〜と、新たに泉のように湧き出すピンクの霧に、必死になっている店員を尻目に、去っていく二人。
店員とその後輩は、その後姿を、いつまでも見送っていた。
『うーん、でも何か買い忘れたかなあ』と、しきりに袋の中を覗いている金髪に、黒髪が『だからー、貸してやるって!』とかなんとか、そんな会話が風に乗って聞こえてくる。
『まあ今となってみりゃ、お泊りセットは良心的だったナ』『不幸中の幸いだ、入浴剤は買えて良かったよ! 早速入れてみよう』なんて。そんな、怖い会話。
イチャイチャ。いちゃいちゃ。
そして、ピンクの霧は、去った。
空気を入れ替えるために、機械を止めて全開にした自動扉。換気扇の回る音。商品が床に散らばるコンビニ店内。
まさに嵐の後の光景である。
しばらくして――ぼんやりと扉側で立ち尽くし、もはや見えなくなった台風の目の後姿を追っている店員に向かって、後輩が、呟いた。
「先輩……」
店員は、ゆっくりと振り返る。後輩は、静かに言った。
「先輩の言った……怖い『二人組』、じゃなくて。ただの二人組じゃなくて」
あれは。
「カップルなんじゃないスか……」
店員は、力なく頷いた。夜のしじまに、その呟きはうっすらと溶けて、やがて消えていくのだった。
「カップルだったんだな……」