真夜中の恋人

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 なお余談ではあるが。
 シンタローとマジックの二人の家路、つまりコンビニから家までの途上に、こっそりと潜んでいる怪しげな集団がいたことも、明記しておこう。
 可哀想だから。



「クックック……やっと見つけたぜ……」
 黒尽くめの集団。ちょっと斜に構えているのが、見るからに何だか小物っぽい彼ら。
 電柱の陰に身を隠しながら、その集団のトップらしい男が、帽子を目深に被り、鼻で笑った。
「ガンマ団新総帥&元総帥、シンタローさんとマジックさんよォ〜」
 ちょっと声が掠れている。
 無理もない。彼は今まで、彼の背後に従う部下たちと一緒に、病院の大部屋で仲良く枕を並べていたのである。
「痴話喧嘩が、長引いて――」
 そこまで言って、彼は、かくっと足を震わせ、それから体勢を立て直すために、電柱に寄りかかった。
 部下たちが、『大丈夫ですか、兄貴!』と手を伸ばす。それを『いや、いい』と払う。
 完全に治るまで、主に費用の関係で、病院に居続けることはできなかったのだ。
 秘書たちの必死の追及補償も、彼らには及ばなかったらしい。
 というより、おそらく『進んで迷惑かけられにきた部類』に分別されてしまい、無視されたのか。悪意のある人々にも補償してやるほど、ガンマ団の財政も楽ではないのだ。
 彼は、かつて、バーテンダーの服装をして、ハーレムに近付いたことがある。
「不仲で狙い目だという噂は、本当らしいな……」



 彼らは、懸賞金目当てに特戦部隊ハーレムを狙い、その後何だかんだで新総帥と元総帥に、空へと弾き飛ばされてしまった、例のチンピラさんたちなのである。
 アレ以来、彼らの運命は散々だった。
 いけない稼業の収入源だったシマはグチャグチャになり、治療費さえ捻出できないありさまである。いやいや、金のことよりも何よりも。大人しくやられて黙っていたら、男がすたる。
 もはや懸賞金よりも意地の問題であった。メンツの話であった。
 よって彼らは、今度はガンマ団W総帥を付け狙うことにしたのである。
 すでに裏社会では公然の秘密となっている彼らの邸宅に張り込み、二人がSPもつけないで勝手に出歩くチャンスを窺っていたのである。
 彼らは待った。雨の日も風の日も、電柱の陰で、待った。
 超巨大な屋敷の出入り口を、すべて見渡せる電柱なんて、あるはずもなかったから、手分けして、共同作業で、みんな待った。
 涙ぐましい努力といえよう。



 だが、不仲で狙い目――これは、どこから情報が漏れたのか。
 案外、ガンマ団内部や一族私邸を常に盗聴しているらしい、ハーレムや特戦部隊が、どこぞの酒場で肴にしたのかもしれないが、それは神とチンピラのみぞ知ることである。
 とにかく回り巡って、復讐の小鬼たちは、やっと絶好の機会を手に入れた。
「ク……クク……」
 チンピラさんのボスは、包帯を巻いた手を、ぐっと握りしめ、言った。
「ついに……ついに、この日が来た。この恨み晴らさでおくべきかっ!」



 ――しかし。
 金髪と黒髪、もといマジックとシンタローは、コンビニ内部で少しは歩み寄ったはずであったのに。
 仲良くピンクのオーラを撒き散らしながら、家路を辿っていた彼らであったのに。
 今、彼らは夜道で何をしているのか。チンピラ共に電柱の陰から狙われながら、公道で何をしているのか。
 それはもうおわかりのことだろう。
 彼らは、人気のない道の真ん中で、盛大にケンカを始めていたのである。こういうことに関しては、ちっとも学習能力のない二人である。



「さっきは、いいって言ったのに……さっきはいいって、言ったのに……!」
 長身を丸めて、地に手をつき、嘆いている男が一人。
「どうせ私なんかと、手を繋ぐ価値もないってことだよね……」
「い、一回ダメつっただけじゃねえか! いいいいつものコトじゃねえかっ!」
 そして、夜目にも顔を赤くして騒いでいる男が、一人。
 元総帥と、新総帥――である。
「長い付き合いだろ、それぐらい察しろよ、バカヤロウ!」
 黒髪の新総帥の言葉に、金髪の元総帥は、切なげに声を絞り出す。
「もう、いいんだ……」
 そして、地面に投げ出されていたビニール袋を、ガバッと掴む。ガバッと立ち上がる。言い放つ。
「さよなら! シンタロー、さよなら!」
 背中を見せ、早足で歩き出す。
「ああん? ドコ行く気だよ、アンタ!」
「家に帰る!」
「結局一緒に帰るんじゃねえか――!!! 何がサヨナラだっ!」
 追いかける。
 二人はますます早足になる。ほとんど駆け足。ダッシュ、ダッシュ。
「さよなら! 追って来ないで! 追って来ないでったら!」
「アホかぁっ! 俺も家に帰るんだよっ! いかにアンタがいけすかなくても、仕方ねえだろォ――!」
「いけすかない……そうだよね……いけすかないよね……私なんて、当然だよね……」
「ぐっ……! あああ〜〜〜、アンタのそのモード、本気でムカついてきた! もー構ってやんねえ! 邪魔くせえ!」
「くぅ……構ってなんて……構ってなんて、いらないよ! ほんとにほんとに、いらないんだから!」
「ああ構うもんかよ! 構わねえからな! 後で後悔すんな! なあ、後悔すんなよっ!!!」



 何だか、修羅場。
 ちょっと息を飲んだチンピラたちだったが、いよいよチャンスだと、飲み込んだ息を吐き出した。
 今、ヤツラは酔っ払ってもいない。仲良くもない。よって、彼らを打ち負かした、あの『酔っ払い×酔っ払い=親子のOは無限大の零』が発動するはずはないのである。
 恐怖の合体技が使えない今この瞬間が、まさに狙い目であるはずだった。
 チンピラたちの頭目は、フッと格好をつけて言い切ってみる。ちょっと爽快。
「……戦線を離れてケンカ浸りらしーが、アンタらのその、なまった体にゃ俺たちの意地が賭けられてんだ!」
 どうやらこの台詞は、襲撃の際には、言わなくてはならない必要事項らしい。
 しかし、そんなこと言ってる間に、電信柱の陰から見る間に、目当ての二人は、光速で移動している。みるみる内に、遠ざかる。
 チンピラは、ひどく焦って叫ぶ。
 ちょっと待って。最後まで言わせて。
「ええい、死んでもらうぜッッ!!!」
 そして彼は走り出し、部下たちも、わあっと後に続いた。



 一方、こっちの二人。
「こっ、後悔なんかしないよっ! 私は後悔なんてしない!」
「ケッ、どーの口が! もうな、いい加減に、しつこいんだよ!」
「悪かったね! どうせ私は、しつこいよ! しつこくてすみませんでしたね!」
「まーったく、ベタベタしてくる時もしつこいケド、ヘソ曲げちまった時も、最高にしつこいよな、アンタは!」
「お前だって! お前だって、しつこく追ってくるじゃないか!」
「だーかーら! 家帰るんだから、同じ方角だって、言ってンだろ――!!!」
 ダッシュどころか、二人は全力、スーパーダッシュ。
 暗闇に輝きを放つほどのスピードで、抜きつ抜かれつ、言い合い追っかけ合い。
 追いつけない。チンピラさんたちが、追いつけないよ。頑張ってるけど、追いつけないよ!



「第一……お前は、肝心なことを言ってくれない」
 ピタリと元総帥は早足を止め、釣られて新総帥も立ち止まる。
 元総帥は、言う。彼は、真剣だった。
「お前は……どうして……真夜中の私に……あんなことを」
「……!」
 沈黙が、その場を支配する。



 だが沈黙を嫌い、新総帥がすぐに言葉をつなぐ。
「だーから! それはアンタが俺の話を聞こうとしねえから……」
「じゃあ、聞くよ。今、聞くから。言って御覧」
「……ッ! なっ、なんだよ、突然……」
 戸惑った新総帥は、何か言おうとし、すぐに口篭り、それから、キッと相手を見据えた。
「いきなりンなコト言われたって、言えるはずねえだろ――!」
 元総帥は、深く溜息をついた。目蓋を、伏せた。
 新総帥は、さらに言葉を続ける。
「そっ、それに……! 前に……あのキョートで聞く耳持たなかったクセに……今頃。今頃、何だよ! こっちにも、心の準備ってモンが……つーか、アンタなあ、自分勝手すぎんだよ!」
「そうだよ。自分勝手なんだよ、私は。そっちこそ。長い付き合いなんだから、それぐらい察してほしい」
 こうして、どんどんと雲行きが怪しくなってくるのであった。
「何だよ、その態度! 何様だよアンタ!」
「マジック様だよ!」
「俺だって、俺様だ――!!!」
「俺様でも何でもいいから、早く言って御覧ったら!」
「それが人に物を頼む態度かぁ――!!!」



 やっとこの辺で、立ち止まる二人に追いついたチンピラたちは、ぜいぜいはあはあと疲労困憊しながら、それでも再度、大声で叫んだ。
「……戦線を……っ……離れ……て、ケ、ケンカ浸り……らしーが、アアア、アンタらの……そ……の、なま……った体にゃ……俺たちの意地が賭けられて……んだッッ!」
 睨み合う新総帥と元総帥は、ピクリとも動かない。
 構うことなんかねえ、とチンピラのボスは思った。ここ一番の声をあげる。
 野郎共! やっちまえ!
「し、死んで……もらうぜッッ!!!」
 その瞬間、元総帥が、眉間にシワを寄せた。
「あああああ、もう! たくさんだよ!!!」
 ビシビシビシビシィーッ!
 チンピラたちが足元を見れば、何かと思えば、地割れができてきた。
 割れる大地。飲み込まれる自分たち。
「こっちこそだ――!!! ア、ア、アンタなんか! アンタなんかああああ――!!!」
 ゴゴゴゴゴゴゴゴ!
 チンピラたちが周囲を見渡せば、何かと思えば、竜巻が起きていた。
 渦巻く空気圧。飲み込まれる自分たち。
「お前なんか!」
「アンタなんか!」
 新総帥と元総帥の声が、重なった。
「「知るもんか――――――――!!!!!」」



 やっぱり、彼らは。こうなる運命。
「あ〜〜〜れ〜〜〜〜っっ!!!」
 チンピラたちが周囲を見渡せば、何かと思えば。
 あっさり、自分たちが、まとめて空にキラリと星になっていた。



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 話を本筋に戻そう。マジックとシンタローである。
 とにかく。折角、いい雰囲気になったと思ったのに、家に帰った時には、また二人のムードは逆戻りしていたのである。
 一口で言えば、険悪な雰囲気。



 扉を開けて、玄関口を通り過ぎ、玄関ホールまで来た二人。
 ここは、先程マジックが帰って来たばかりの時に、対峙した場所だった。
 大窓から差し込んでいた月の光もすでになく、常夜灯の橙色のヴェールが、淡く辺りを包むばかりで、シンタローは隣にいる男の方に目を向ける。
 その横顔は未だ剣呑さを纏っていて、金髪は常より硬質であるように見えた。
 ふうっと息を吐き出して俯くと、シンタローは独り言のように呟いてみる。
「まったく何でこう……いつまでもガタガタ拘りやがって……」
 そして再び顔を上げれば、相手の瞳と、正面から出会ってしまうことになる。



「……簡単に許せる訳、ないだろう」
 夜の静寂の中、突然のマジックの低音の響き。柔らかな絨毯を這うような苦さ。
 豪奢な造りのシャンデリアが、控えめな銀色の炎を、揺らす。
 彼は真顔だった。真剣だった。
 男のその表情にシンタローは、言葉に詰まる。胸が詰まる。



「先刻も言ったが……お前はどうして、真夜中の私に……あんなことを」
 あんなこと、というのは、自分が真夜中のマジックを誘惑したことを、指しているのだ。
 ――シンタローは、感じている。
 この男の声が、いつも低くて重く響いて、自分の芯を揺らすのは、彼がきっと夜の男だからなのだと。
「お前にあんなことをされて、私は……私は……」
 真夜中の声。沈んでいる。
 夜は怖い。いつも暗い闇は、自分を包んで、何処かへとさらっていきそうで。もう、昼間の明るい世界には、戻れなくなってしまいそうで。
「私は、悲しかったんだ……」
「……」
「真夜中の私に。私は……嫉妬している」



 シンタローは、相手の青い瞳を見つめたが、そこには暗い夜が映っているだけだった。
「あれ以来……お前の顔を見るたびに、私は、きっとお前は真夜中の私が好きなのだと。そんなことばかり、考えてしまう」
「……ッ……ばっかやろ……」
「そんなことばかり考えて、ちっとも……大人になんか、なれないよ」
「あのなあ……ッ」
「拘るよ。それは、拘らずにはいられない。だってお前は、私のすべての中心に……いるんだから……」
「……!」
 マジックの薄い唇が、小さく動く。
「だから、お前の顔、見たくないんだ」



 シンタローは目を瞑った。声が、聞こえる。
「悲しくて、寂しくて、切ないよ」
 シンタローは目を開けた。
 目の前に、男の整った顔がある。真摯な瞳が、辛い熱を宿している。その中に、痛みがある。
「私は自信がない。不安で仕方がない」
 声が響く。夜に響く。
「お前は、本当の私よりも、真夜中の私の方が好きなんだろう」



「……ッ……」
 シンタローは、唇を噛み締める。血が滲むほどに噛み締める。
 こんなに直接的に言われるなんて、思わなかったから。
 さっきまで、喧嘩することに一生懸命だったから。俺はそのことばかりに必死で。その場を乗り切ることだけに執心していたから。
 だからいきなりペースを変えられると。突然、こうして心に切り込みを入れられると、俺は、この男に立ち向かうことができない。
 無防備になって、まともに傷を受けてしまうのだった。
 だって。ふざけて、いつもみたいに悪戯っぽい視線をくれるのなら、俺は平気なのに。
 平気で、悪態だってつけるのに。抵抗だって、できるよ。
 でも、俺がふざけて欲しいって、思った時に限って。この男は真剣になるんだ。
 真面目でいて欲しい時には、決まってヘラヘラしていやがるのに。
 ――この顔。この顔なんだ。
 俺は、このマジックの真剣な顔に、弱い。
 それは、俺が強気な態度で、誤魔化すことができないからだと、自分ではもう、わかっているのだけれど。



 シンタローの握りしめた拳が小さく震え、両肩が緊張し、首筋の産毛がふるりと揺れる。
 こんな時に、また俺は、この男が自分からは遠い存在なんだと感じてしまう。
 こんなに近くにいるのに。暗闇の中、見詰め合っているのに。
 ――決心したのに。
 俺は、マジックと正面から向き合うって、ぶち当たるって。決心したのに。
 突然にその機会がやって来たら、俺の足は、震えてしまう。唇だって、上手く動かない。
 彼を引き止める、気の利いた台詞なんて、咄嗟には、出てきたりはしないのだ。
 俺は不器用なんだ。みっともないぐらいに、不器用なんだ。
 俺は、助走なしには、この壁を飛び越えることなんてできない。
 何でこの男はいつも。俺の先手を取ってしまうんだろう。結局は振り回されているんだ。
 マジックは、いつも俺の――空間を。記憶を。身体を。
 ――支配する。



 鼓動さえ止まった蝋細工のように、シンタローのすべては、動きを止めている。
 ただ身体を縮めて、相手の言葉を待つ木偶に成り下がってしまっているのだった。
 そして、言葉が、こうして堕ちてくる。避けることなんて、できない。
 残酷だ。哀切の顔をして、俺にはとても残酷だ。
「私は、お前を」
 シンタローの目の前で、彼は、最後に呟いた。
「こんなに……愛しているのに」



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 そのまま、マジックとは玄関ホールで別れた。シンタローは一人、自室に戻る。
 夜は静まり返っていた。扉を閉め、柔らかい絨毯の上を歩き、部屋隅まで行って立ち止まり、ベッドに身を投げた。
「……」
 ぽすん、と音がした。
 冷たい感じられるシーツに、自分の頬が熱くなっているのを自覚する。枕がしなる。
 シンタローが身を動かすと、ベッドがぎいと悲鳴をあげた。
 このまま夢を見ることができたらいいのにと思うが、きっと叶わない。今夜もきっと、上手く眠ることができないだろう。
 ――真夜中というのは、不思議な時間だった。
 人がみな眠る時間。人々の意識は揺らぎ、夢へと昇華し、すべてが曖昧の世界へと溶け込む時間。
 今この瞬間に存在しているのは、自分だけではないかと、馬鹿な想いに息を詰まらせる時間。
 時間が、酷薄さと気だるさに、かたちを変えて、肌に染みこんでくるひととき。
 こんな真夜中に、一人でいると。
 とても……寂しくなる。俺は、ひとりぼっちなんだと思う。
 孤独の魔法に、囚われてしまうのだ。
 思考が、巡る。



『お前は私のことを好きではない』
 残る言葉。返す返すも、自分は酷い言葉を言われたのだと思う。
 いつもいつも、表面上は、好きだ好きだと、うるさい癖に。
 しつこくて構って欲しがり屋で、駄々っ子の癖に。
 どうして肝心な時は、こんな否定する言葉ばかり、あいつは言うんだろうか。
 俺が、俺が……こんなに弱いこと、あいつは知っているのに。



『私は、悲しかったんだ……』
 俺は、あいつに――
 酷いことを、した。



「……」
 背を少し丸めるようにして、シンタローは、シーツに埋めた顔をずらす。右頬が下になり、ばらけた黒髪が首筋をくすぐった。
 閉ざされていた唇を微かに開いて、空気を口に含む。静けさの向こう、遠くで山が鳴っているのかと思えば、自分の鼓動だった。
 シンタローは、虚ろな心で考えいている。
 マジックと向き合っていた時は、俺の心臓は止まってしまっているんじゃないのかと、それぐらいのこわばりを、感じていたのに。
 今頃、動きやがって。必要ない時にばかり、動き出しやがって。
 今この瞬間に世界中で動いている生き物は、俺の心臓だけなんじゃないかと、思わせやがる。
 どうしたらいいのかを、わからなくさせやがる。
 気に入らねえ。最悪だ。俺は、ひとりぼっちなんだ。
 やっぱり真夜中というのは、不思議な時間だった。
 ――ひどく、寂しい。
 一人でいるなんて。耐えられない。俺、こんなの、イヤだよ。
 ふとシンタローの目の端に、部屋の隅に無造作に置かれた、日本酒の瓶が映った。
 あの最後に酒を飲んだ日。和室での出来事。
 後悔の、名残。



 シンタローは、のそりと身を起こす。
 そのまましばらく、ぽやっと日本酒の瓶を見つめた後に、
「……」
 静かにベッドから降りる。床を爪先で、小さく蹴った。
 それから歩いて、手を伸ばして透明な瓶を、掴む。数本ある内の、封を切ったもの。それを目の高さまで持ち上げ、残量を確認する。
 水面は美しく波打ち、まだ一升瓶は八割方を残しているようだった。斜めに傾ければ、部屋の灯りを浴びて、たぷん、と光が弾けた。



 そしてシンタローは、酒を飲んでいるのである。
 不機嫌な顔をして、大き目のコップにどぼどぼ注ぐ。ぐいっと煽る。注いでは空け、注いではまた空ける。コップは次々と傾けられ、乱暴に机に置かれ、液体を注がれる。
 ぷはあ、とシンタローは、息をついた。最初は自分の息の酒臭さを感じたが、すぐにもうよくわからなくなった。
 ツマミも肴も、何もないのである。ただ、酒を飲む。流し込む。流し込めば、胸のあたりが、じわっと温かくなって、その内に熱くなって、心のしこりを溶かしてくれるような気がした。
 飲めば飲むほど、そんな気がしてくる。
 だから、飲む。あたためたり冷やしたりなんて、してる余裕なんかない。
 ただ、飲む。ソファに行儀悪く足を乗っけて、あぐらをかいて、ぐちぐちと独り言を呟きながら、浴びるように飲む。
 つまりは――ヤケ酒であった。



「だいたいサ、あいつサ、勝手すぎンだヨ」
 手慰みに、ちぎった新聞紙の端を丸めて、部屋隅にぽうんと放りながら、シンタローは唇を尖らしている。
 誰もいないし、返事だってかえってこないから、言いたい放題であった。
「こっちだってサ、悪いって思ってンじゃんヨ。だからサ、わざわざ日本くんだりまで行ってやったのにヨ」
 ちぎられる新聞紙が悲鳴をあげて、大きく縦に裂けた。
「アイツだってさ、ンなのわかってるハズなのにヨ。ンで、俺が、アレ、言おーとしたら。言おーとしたら……」
 シンタローの脳裏に、京都の清水寺での出来事が再度蘇り、いっそう大きく新聞紙が裂ける。びりびりびり、と断末魔の声が聞こえる。
「止めやがってぇー! アイツ、俺の口、塞ぎやがった――ぁ!!!」
 飽きたのか、新聞紙が絨毯に投げ出され、シンタローはまたコップ酒をごくんと飲み干した。
 ダン! とテーブルにコップを叩きつけるように置く。コップは割れなかった。マジックとのケンカ用に、強化ガラスを使用した普段使いのものだったからかもしれない。
「それなのにぃ――――ぃ!!! バッカでえ! アイツ、バッカでぇー! 俺がぁ、肝心なコト、言わねーとかって、ンなコト言いやがるッ! ばーかばーか! マジックのバーカ!」
 空のコップに、また一升瓶を傾ける。酒を注ぐ。煽る。
「ホントになぁ、アイツ、最低だよなあ! うん、サイテー! マジック、さいてぇ」
 悪口を、誰に向かうでもなく自由に言えば、酒の勢いも手伝って、いい気分になってくる。ちょっと胸がすくような、そんな心持ちになってくるシンタローである。
「あのさあ、はっきりしろヨ! 言ってほしーのか、言ってほしくねーのか、どっちかハッキリしろよっ! ばかマジック」
 するとその時、シンタローの頭の中のマジックが、呑気な顔をして、ハハハと笑ったような気がして、ひどくムカついた。
 うおーと叫び声をあげたくなるシンタローである。いや、実際にあげた。
 だって、一人の部屋だから。自分の部屋だから。好きにさせてくれ。



「ったく! なんなんだヨ、アイツ!」
 だんだんと気持ちが突っ張ってくる。強気になってくる。どんどんと一升瓶は空になり、シンタローの胃の中に消えていく。
 それでもシンタローの勢いは止まらない。彼は、ソファの背凭れをバンバンと叩く。
「なんなんだよ! なんなんだよなんなんだヨ、アイツ……ひっく」
 ごろごろソファに酒瓶を抱いて転がる。身悶える。
「ああああ――っ! もぉ! 腹だたしいったらありゃしねえ! あれ、腹だたしい、か、腹ただしいか、どっちだっけ……ま、どっちでもいーや。とにかくマジックが悪い! アイツ、ワルイ!」
 マジックと二人でいる時は、自分が劣勢に立たされているような気が、ついしてしまうのだけれど。
 こうして一人で酒を飲み、愚痴を言っていたら、自分が強者のような気になってくるのだ。
 シンタローは、赤くなった頬をますます上気させて、『マジックめ――!』と拳を振り上げた。



 すでにコップも使わず、一升瓶から直に飲む有様である。そして、ついにいくら瓶を傾けても、一滴も酒は口の中に流れ込んではこなくなってしまった。
 あれ、おかしい、おかしいとよく見てみれば、すでに瓶は空なのである。酒が、切れたのだ。
「クッソ、酒はねえのか!」
 瓶から口を離して、シンタローは、周囲をきょろきょろと見回してみる。
 だが、すでに物言わぬ一升瓶たちは、空になって床に転がっている。無残なものである。まったく口ほどにもない。
 自室にはもう酒はない。そういえば一階のも前に飲み尽くしたんだっけと思い出し、シンタローは、だだだと部屋を駆け出して、地下のワインセラーにまで突撃する。
 飲むとなったら、シンタローは底なしの酒飲みである。酔いはするが、滅法強い。
「へっへっへー!」
 抱えられるだけのワインを抱えて、えっちらおっちら地下室の階段を上るシンタローである。
 右脇に挟んだ55年物のロマネ・コンティが、するっと抜けそうになって、慌ててキュッと脇を締める。
 すると左手の小指と薬指の間に挟んだシャトー・マルゴーが落ちそうになるという按配で、よいしょよいしょと苦労しながら酒を運んで、さて部屋に戻ろうとした時。
 ふと――音が、聞こえた。
 真夜中の向こうから、小さく聞こえる異音。



「んー……」
 これは風呂を沸かす音なのだと、少しテンポのずれた頭で、シンタローは考える。
 本邸内には、中庭に隣接して、和室――先だっての事件が起きた場所――と共に、檜風呂があるのだった。
 前述したが、これもマジックの日本贔屓の賜物である。熱い風呂というのは、マジックやシンタローにとって、日本文化で最も好きなものの内の一つだった。
 ふーん、そーか、アイツ、今頃風呂か、そーいえば帰って来た時、そう言ってたっけ、とか。
 部屋風呂が壊れたから、共用のデカい風呂使うんだな、とか。
 そんなことを、ぼんやりと考えながら、シンタローは自室へと向かう。
 ぶらぶらと沢山の酒瓶たちを揺らしながら、危なっかしい足取りで、廊下を歩く。



 自室の扉を開ける。締める。きいっと蝶番が鳴って、空間が遮断され、部屋の形に切り取られる静けさ。
「……」
 足音の落ちていく絨毯。その長い毛が、シンタローの体重の移動に合わせて、ゆっくりとしおれてまた反り返る。
 ――もしかしたら、これは最後のチャンスではないのかと。
 シンタローが気付いたのは、酒瓶たちを危なっかしくテーブルに置いて、やれやれと自分は部屋の真ん中に立ち尽くした、その時だった。



 静かに反芻してみる。
 風呂って。
 風呂って。
 風呂っていえば。
「……密室、じゃねえか……」
 ごくりとシンタローは唾を飲み込んだ。額を、つうっと汗がつたう。
 瞬間、シンタローの頭から酔いが醒め、精神が冷えて思考力を取り戻す。
 彼は、我知らず呟いた。
「そーだよ……今しかねえ……」



 ――よくよく考えるに。
 今まで自分がマジックを追い詰めることができなかったのは、つまりは相手に逃げ道があったからである。
 玄関や廊下に罠を仕掛けたって、結局は閉鎖空間でなければ、往生際の悪いマジックには、最後は逃げられてしまうのである。徹底的には追い詰めることができないのだ。
 それは今までの例が示している通りだ。清水の舞台にだって、台所にだって、コンビニの行き帰りの道だって。必ず逃げ場所が残されていて。
 なんやかやと理由をつけたり、もっともらしい雰囲気を作ってみたりして、マジックはシンタローの前から去ってしまうのである。
 何て奴だ。
 仮に今、シンタローがマジックの自室に押しかけたとしても、入れて貰えなければ話にならないし。
 そもそも彼の部屋自体は破壊してしまっていたから、壊れているだろう扉から入っても、壁は吹き抜けだろうし天井は穴だらけだろうし。
 マジックにとっての逃げ道は、庭だって空だって、その気になれば沢山あるのである。自分が勇気を出して突入しても、今までと同じ結果になることは明白であった。
 それもこれも、あの野郎に、逃げ道があるからなのだ。最後は絶対にかわされる。
 しかし。しかし、しかしなのである。
 浴室は、まさに閉鎖空間。狭い入り口を押さえてしまえば、相手は逃げることができないはずだ。
 しかもヤツは裸。万が一、入り口以外から脱出されたとしても、そのままで外へ出るなんて、マジックだったらしないはず。
 袋の鼠。今度こそ、追い詰めることができる。
 ごくり。シンタローは、もう一度、唾を飲み込んだ。



 だけど。だけど、だけど。
 ――風呂場。
 風呂。フロ。おフロ。入浴。行水。バチャバチャ。ちゃぷちゃぷ。50数えるまで上がっちゃダメですよ。
 場所が場所だけに、行き辛い。ちょっと。いやかなり、イヤ。
 とても悪い予感がする。予感というより、これは確信。
 今までの長い人生における、これは経験則。
 子供時代、シンタローが何歳まで一緒にマジックとお風呂に入っていたかは、秘密にしておくとしても、である。
 青年時代、どれだけの頻度で一緒に(結果的に)入ってしまっているかも、秘密にしておくとしても。である。
 とても自分から足を踏み入れるには、臆してしまう場所だった。
 だいたい。勘違い、されるじゃねーか。
 俺、話し合い、したいダケなのに。あいつ逃がしたくないダケなのに。
「……」
 いや、勘違い……じゃねえ……にしても、うう、いや、ちょっとあんまり……。
 なんつーか、俺の美学に反するじゃねえか。
 浴室まで押しかけて、なんだソレ、俺、そんな節度のないヤツじゃねえし。なんだソレ、俺がやったら、みっともねえじゃねえかヨ。ヤダよ、ソレ。
 いつもと逆じゃん。やってられっか。俺のキャラじゃねえ! それはマジックのキャラだ!
 このカッコイイ俺様が、できるかよ。なんてったって総帥! ガンマ団員憧れの的の俺様が、できるかよッ!
 だいたい、どの面して……マジックになんて言えば……この状況で、アイツにどんな顔されるか……
 ……恥かしいじゃねえかヨ。
 そこまで考えてシンタローは、かあっと顔を赤くして、長い髪をブンブンと振った。
 襟元をくつろげ、手の平でパタパタと風を送り、額の汗をぬぐった。
 チッ、と彼はいまいましげに舌打ちをする。
 ダメだ、恥かしすぎるぜ、考えるだけで、熱くなってきやがる……。
 俺の羞恥心ボイラーが、フル稼働を始めやがった……。



 うろうろ、うろうろ。部屋の中を、むやみやたらと歩き回るシンタローである。時々、頭をかきむしる。うおーと取り乱しながら天を仰ぐ。
 こうする内にも、どんどんと時間は経って、チャンスは消えてしまうのである。マジックが浴室から出てしまう。彼は長風呂の方だったから、それはこの際のラッキー要因ではあるけれど。
 でも。でも。踏ん切りが、つかない。
 ついにシンタローは、歩き回るのをやめて、どすんとソファに腰を降ろした。
 もう脳内シュミレーションだけで、恐ろしいぐらいに疲労してしまったのである。
 なんかもうダメ。俺はダメ。
 酔っているだけに、思考が自暴自棄になりやすい。
「ケッ……やめたやめた、もーどぉでもいいやっ!」
 腹いせに、地下から持ってきたワインを空けると、ぐっとラッパ飲みに呷る。
 火照った身体を、なめらかな液体が潤していく。
「け……けほっ……! ごほっ!」
 そして一気飲みに、ついむせてしまったシンタローは、ソファに寝転がった。
 体を横にし斜めにし、ごろごろ転がり、やっと楽になった時に、脳裏に浮かんだ、昼間のグンマ、そしてキンタローの言葉。
『自分がそのライバルより、特別なこととか、上の扱いされてるって思ったら。きっとその怒ってるMさんも』
『嫉妬心が和らいで、機嫌が直るだろうという訳か』



「うう……特別なことって……上のことって……うう……」
 むせたばかりの涙目で、シンタローは天井を睨みつける。シーリングライトが、ぼんやりと滲んでいく。
 滲んで霞んで、白い光は途切れ途切れにシンタローを包んで、それはまるでフワフワした雲のようで、妙な浮遊感を覚え、シンタローはがばっと起き上がる。
 本当は、気付いた時から、ずっとわかってしまっているのだ。
 最後のチャンス。
 それを逃す訳にはいかないってこと、俺、わかってるはずなのに。
 わかってるはずなのに、決心が――つかない。
 シンタローは、また手を伸ばし、ワインの瓶を掴み取る。
 グイッと一気に飲み干した。ぷはあ、と息をつく。まだ足りない。
「ぐ……う、ううっ……なんで、なんで、なんで俺がこんな目に……」



 足りない、足りない。
 俺が意を決するには、こんなんじゃ、足りない。
 シンタローはまた新たな酒瓶の栓を開け、ぐびぐびと呷る。何も胃に入れることなく飲んでいる。
 酒はシンタローの体内を、巡る。巡る。巡る。そして満たす。吐く息が熱い。
 酩酊が薄い膜のように全身を包み、酒瓶に触れる指先が、二重三重のその膜を通して、とろんと揺れた。
 ふと酒瓶を取り落としそうになり、もつれる指でなんとか受け止める。
 ソファの背凭れに身を預け、ぼんやりした瞳で、天井を見上げる。
 平たいはずの天井は、いつしかカーブを描き、シンタローに近付いたり遠ざかったりして、それはまるで水平線のように見えるのだった。
 飲むほどに。喉を動かし、液体を嚥下するほどに、シンタローの体は、柔らかいクラゲになってしまったみたいに、ふにゃふにゃになってしまったみたいに感じられて、浅い海に漂っているような心地になってくる。
 酔いの波が気持ちいい。目を瞑れば、このまま溶けていくのではないかと思うのである。
 俺は海の泡になる。溶けて溶けて、大気になる。
 でも――シンタローが黒い睫毛を伏せ、眠ろうとすれば、蘇る姿。心の芯に、突き立つように、忘れられない言葉。
 バカ。出てくんな。
 ああ、そうだよ。わかってるよ。放っておけるかよ。このままじゃあすまさねえ。
 だって、俺は、こんなにも傷ついて……。
 責任、取りやがれ。
 ――マジック。



 ばん、と音を立てて、シンタローは目の前の机を叩いた。
 空になった瓶がタップし、いくつもの栓が、互いに円を描くように、コロコロと転がっていく。栓の転がった先に、浮かぶ姿。声。
『残念だったね。私は、お前の好きな真夜中の私じゃない』
「ぐ……」
 シンタローは酒気に目元を赤くして、虚空を睨みつける。
 ぎりぎりと唇を噛み締める。もう何度目だろうか、噛み締める。
 燃え上がる熱が、シンタローの体、薄い皮膚の中を巡って、酒精と踊る。
『私より、真夜中の私の方が、好きなんだろう』
「ア、アンタなあ……そーいうコト、いっつまでも、ゆってるんならなあ……」
 シンタローは酒瓶を再び手に取り、濡れた縁をくわえ、一気に煽る。
 ほふうと息を吐く。喉奥から、声を絞り出す。
「そっ、そーゆーならなあああ! オレがぁ、真夜中のアイツよひ、よりもぉ、もっとスゲーこと、ひてやれば、アンタは信用すんのかよぉ――ッ!」



『だから、お前の顔、見たくないんだ』
 酒、酒。流し込まれる酒。酔うから酒を飲むのか、酒を飲むから酔うのか、すでにわからない。
 もうどっちでもイイ。とにかく、景気がつけば、どうでもイイ。
「そうかヨ! そぉかよぉ! オレ様の顔、みみみみ、見たくないってゆーんならなあ!」
 酒を煽りながら、シンタローは叫ぶ。
「おーよ、ムリヤリ、見せてやろーじゃねえかああ!!! カクゴひてやがれぇっ!」
 高まる精神、意気軒昂。すでにロレツが回らない。



 どんどこ、どんどこ。シンタローの脳内でかなでられ始める戦闘のドラム。
 心臓の音なのか、酒を煽る喉の音なのか、それとも本当に戦闘開始の合図なのかは、これもよくわからない。
 羞恥心ボイラーの音が掻き消されていく。
 すごいぞ、ドラム。がんばれ、ドラム。
 でも、もう何でもイイ。とにかく、景気がつけば、どうでもイイ。
「クッソ、見てろよー! ひっく、ばかマジック、見てろヨ――!」
 シンタローは、立ち上がった。
 そーだ。俺は。なんてったって総帥。男の象徴。オトコの美学。
「よおーひぃっ!」
 こんな所で、ヤケ酒飲んでるなんて、らしくねえ。
 このまま引き下がるワケには、いかねえんだ。
 ここは、男らしく。スパッと。一気に。ドカンとよ!
「うおー!」
 シンタローは、たった今まで自分が座っていたソファを、がばっと持ち上げる。
 持ち上げたまま、ドタドタッと走り出した。
「行くぞ――ッ! 待ってろぉ〜っ、うりゃぁ〜」
 そして、ちょっとよろけた。



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 居間からソファや家具を運んできて、バリケードを築き、とりあえずは周囲を封鎖した。
 念のために、例のごとく、罠も仕掛けておく。転ばぬ先の杖。
 やっぱり、少しフラフラしながら、シンタローはフウと額の汗を拭う。
 長い廊下の先を見つめる。
 その先にあるのは――浴室。



 背後を万全に固めてから、
「んー……」
 シンタローは、用意してきた最後の酒瓶の栓を、抜いた。
「かんぱーい」
 誰にともなく、宙に向かって酒瓶を掲げ、お決まりのラッパ飲み。
 んぐんぐと赤ん坊が哺乳瓶をくわえるように、ある意味無邪気にそれを乾してから、
「とつげき〜」
 そう呟いて、裸足でぺたぺた廊下を歩いて、シンタローは目的地に向かった。



 気取られてはいけない。なるべく、静かに。こっそりと。
 引き戸を開ける。これも和風に設えた脱衣所が、シンタローを迎えた。
 間接照明。ほの暗さの中に、竹椅子が鈍く光を湛えている。脱衣籠の中に、見慣れた衣服。脇には空になったビニール袋が置かれていて、先刻持ち帰ったものだと思う。中身は浴室に持ち込んだのだろうか。
 うっすらと匂う湯の香。檜の香。耳をすませば、ひたりと小さな雫の音。
 シンタローは、そっと脱衣所の先に目を遣る。
 戸の向こうに――気配がする。



「……う」
 意識すれば、わずかにシンタローの足が震えた。だが、後戻りする訳にはいかない。
 ここが勇気の見せ所だ、オレのオトコの見せ所だ。
 ここまで来たら、ヤるしかねーんだ。
 さあ、俺。ヤレ、俺!
 やるぞう、やるぞお、やってやろーひゃねえかぁ!
 どんどこ、どんどこ。
 戦闘のリズム。だんだん気持ちがノってくる。
 ステップだって踏みたい気持ちになってくる。
 そ−だ、俺。イケ、俺。
 どんどこ、どんどこ。
 押し入る。割り込む。滑り込む。
 進入。闖入。突入。潜入。侵入。突入。乱入。
 踏み込む。忍び込む。駆け込む。紛れ込む。踊り込む。潜り込む。転げ込む。切り込む……。
 突撃。



 ええい、ままよ。シンタローは、すうっと息を吸い込んだ。
 そして浴室の引き戸に手をかけて、ばたーん、と一気に、開けた。
「おっジャマ、しまぁ――――スッ!!!」
 湯煙の向こうに、ぎょっとした顔のマジックが、見えた。






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