真夜中の恋人

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 広く開いた窓からは、美しい日本庭園が、夜を憂うように身をひそめている。
 雁行につらなる飛石が淡く輝き、なつめ形の手水鉢囲いに寄りそう萩が、音もなく揺れる。
 茶筌菱の袖垣の向こうに見える、小さな池に架かる石橋は、丸みを帯びて。
 窓の内に転じれば、壁、天井、床の木目の温かみ、古代檜の安らぎ、芳香。
 雫が、シンタローの頬に、ぴちゃりと落ち、首筋を流れていった。
 シンタローは、湯船に浸かったまま、珍しくも目を丸くしているマジックに向かって、クールに笑った。
 最初はフン、と鼻で笑い、次第にクク、クク、とその笑いは喉を這い、口をつたい、大笑となって浴室に響き渡る。
「はっはっはー! はははははーぁっ!」
 笑っていると、本当に楽しくなってきて、とっても御機嫌になってきたシンタローであった。
 勿論、服は着たままである。外出用の上着を脱いだだけの、シャツにジーパン姿。
 その格好で、やけに堂々と仁王立ちをし、入り口に立ち塞がっている。
 よし、これでヤツの逃げ道は塞いだと、ちょっとした犯人を追い詰めた名探偵気分である。



「シ、シンタロー……?」
 マジックが心配そうな声で、聞いた。眉根を寄せている。
 その様子が、ますますおかしく感じられてきて、シンタローは腹を抱えて笑い続ける。
「はははぁー! はっはっはー!」
「お前……まさか酔って……」
 ざぶりと澄んだ湯が跳ねる。水面から肩口までを出して、マジックがみなまで言うまでに、
「ハッハッハー! オラぁ、見やがれぇ――!!!」
 シンタローは叫んだ。
「必殺! 脱ぎま・SHOW!」



「何ィ――――ッ?」
 思わず、といった風に、マジックが身を乗り出して、それから我に返ったのか慌てて渋面を作る。
 たしなめるように、言う。
「……シンタロー……今度は酔っ払いか。酔っ払ってまで、私に一体何をしようというんだ」
 先刻、罠にかけたのを警戒しているのか、なかなか乗ってこないマジックに、シンタローは痺れを切らして、もう一度叫ぶ。
「ひっさーつ! コレ、ぜったい死ぬってコトーッ! 脱ぎ・魔性マショウマショ――――ッッ!!」
「あ、あのー……シンタロー……」
「♪ちゃらっちゃらっちゃらっらららら〜」
 ここにスポットライト設備がないのが、残念だと思う。音響設備もないのが、残念だと思う。仕方なく自前で、鼻歌を歌いだすシンタローであった。
 よくわからない妖しげな踊りを、広い檜風呂の洗い場で舞おうとしたが、あいにく酔っているため、ふらふら、ふらふらと足元が心ともない。



「シ、シンタロー……」
 完全に引いているマジックも、シンタローの覚束ない足取りが心配なのか、右手を宙に泳がせたままで、止まっている。
 熱い湯に浸かっているはずなのに、心なしかマジックの顔は青ざめ、額に縦線が入っているような。
 シンタローはその様子を見て、更に意気込んだ。酔っ払いとは、変なことで勢いづくものである。
 ハッハ、マジックの奴、俺様に恐れをなしてやがる。
 まだまだいくゾ〜! こんなモンじゃねえ!
 見てやがれー!
「♪ちゃららららら〜ん、ちゃら〜〜〜」
 シンタローは、ますます両腕を泳がせ、両脚で意味もなく後退したり、前進したり、横歩きをしたりした。
 しかしこれは、何の踊りなのか。シンタロー自身にもよくわからない。
 まあこの場合、何でもいいのである。参加すること……もとい、踊ることが酔っ払いにとっては重要なのだから。
 そしてその内に、
「お、おおっ?」
 濡れた足場である。
 案の定、シンタローは、
「おおおおっ? わわっ」
 つるん、と滑って、転んだ。



 世界が反転したなと感じ、自分が転倒したのだと気付くのに、しばらくかかった。
「ん……」
 シンタローが、湯気の向こうをぼんやりと見遣れば、『あ〜あ、言わんこっちゃない』とでも言いたげなマジックの顔がある。
 その引きつった頬。
「ち……バカにしやがってぇ……マジックめー」
 洗い場に横たわったシンタローの衣服は濡れ、熱い頬は、板張りの床の冷たさに、ひやりとする。
 とりあえず、起き上がるか。
 そうシンタローが思い、よっこいしょと身を起こしかけた瞬間、酔いの回った脳に、ふとよぎった記憶がある。
 そうだ。ここは、あのワザを使うしかねえ。アイツの技。不本意だが、ここは仕方ねえ。
 ひらめいたシンタローは、慌てて、自分の体勢のフォローをする。
「いーか、今のは、ワザと横になったんだぁ、ひっく、ワザと! ワーザーと!」
「あのね、お前ね、もうやめときなさいよ……」
「シンタロー、いっきまーぁす!」
 がばっと、シンタローはシャツの右肩をずり下ろし、くねっと身を捩じらせて、しなを作った。
 口に人差し指を当てて、言う。ウインクつき。
「煮てよし 焼いてよし でも、叩きはイヤン



「……」
 しーん。
 浴室に静寂が支配し、空気が止まり、湯気が凍りついた。
 ぴちゃん。
 天井から雫が落ちてくるまで、シンタローとマジックは、止まったままだった。
「……もうわかった。もういいよ、シンタロー」
 やがてマジックが、額を押さえて、言った。もういい、と脱力して繰り返す男に、とろんとした目でシンタローは答える。
「うあ? ちっちっ。もういいって、アンタさー。これからだっつーの! 脱ぎま・SHOWだっつーの、脱ぎ魔性」
 おかしいナ、あいつ、喜ぶハズなのに。
 ハートマークの付け方だって、あの呪われたファンクラブで、メガネ男と一緒に特訓したから、プロのはずなのに!
 しかしシンタローの予想と違い、この演出は、マジックのお気に召さなかったようだ。
 金髪の男は深刻に、自らの傷にいまだ浸り続けているらしい。真剣モード。
 相手は呆れたように呟いた。少し寂しげである。男の低音が湯気に滲んで、小さく反響する。
「今度は色仕掛けか……私がそんなものに引っ掛かると思うのか」



 しかし酔っ払ったシンタローは、負けなかった。
 彼は光り輝く無敵時間に突入していたのである。
 これまで、マジックの酔い癖に隠れて、あまりシンタローの酔い癖は目立たなかったが。強調することはできなかったが。



 今こそ明かそう。
 最大限まで酔っ払ったシンタローは、ある意味無敵であった。酔えば酔うほど、この癖は酷くなる。悪化する。
 思えば、ハードボイルドなマジックとタッグを組んでいたシンタローは、この初期、中期段階であったのだ。
 変なのは、なにもマジックばかりではない。シンタローだって、変。結構オカシイ。おかしなカップル。
 ただシンタローの場合、普段はここまで酔っ払う前に、寝入りこんでしまうので、これは滅多に顕現しないのであるが、今夜の彼はマジックが気になって眠れなかったのだから、仕方ない。
 ついに最終形態、現る。
 俗に、『虎になる』『大虎』などと、酔って怖いもの知らずになる状態を表現することがあるが、シンタローはまさにこれであった。
 普段のシンタローの、一番怖いものは、なんだかんだでマジック。
 でも、酔えば、それが怖くなくなる。
 つまり、無敵状態。
 今などは、空きっ腹にガブガブ恐ろしい酒量、しかも悪酔いしやすいヤケ酒、とくれば、効果はてきめん。
 加えて、ここは熱の篭った浴室。酔いの回る条件は、整いすぎるほどに整いすぎていた。



「う? いつも、ひっかかるじゃーん」
 猫から虎になったシンタローは、口を尖らして、マジックに言った。
「オレのカラダ見たら、シンちゃんシンちゃんって、飛びついてくるじゃーん」
 事実を指摘されて、焦るマジックである。
「くっ、いつもはいつも! 今は今! 今の私は、あのね、深刻なんだよ! さっきも言っただろう、私はお前に会いたくないほどに……」
「さっきも、オレが風呂場はいった、とき、『何ィ――――ッ』って、ひっかかりかけたじゃーん」
「さっ、さっきは! 不意だったから! 条件反射だよ、仕方ないだろう!」
 洗い場に、いまだのんびりと横たわったままのシンタローは、身体を本当に猫科の動物であるかのように伸ばし、あーあとあくびをし、それからニヤリと不敵に笑みを作った。
 それからマジックに向かって言い放つ。
「アンタなあ、俺に惚れてンだろォ〜?」



 マジックの顔が、引きつっている。薄い唇の端が、ちょっとピクピクしている。その場所から、零れる言葉。
「シ、シンタロー……」
 彼のした珍しい表情に、シンタローは何だか嬉しくなって、また大口を開けて笑った。
「はぁっはっはっは――!!!」
 声が風呂場に木霊する。思う存分笑ってから、寝っ転がったままのシンタローは、ううーんとうつ伏せになった。
 息をつく。檜の板間のやわらかさが、心地よい。熱い湯気で、ますます酔いは巡っていくのだ。
 うつ伏せのまま、ちろりと横目で湯船のマジックを見て、すでに毛先が濡れている自分の黒髪に、人差し指を絡めた。
 それから、その指を、すっとマジックに向かって突き出した。
「でぇ! 俺に惚れてるアンタはぁ! 俺がぁ、真夜中のマジックを、ゆーわくしたからぁ、スネて・た、とぉ!」
「え……う、いやまあ……ていうか、お前ね……」
 マジックは、明らかにシンタローの勢いに飲まれている。



「はっはっは――!!! アンタもまだまだぁ、青いなぁ!」
「シ、シンちゃん、あのね……」
「や、青の一族だけにぃ! 青! いやあ、青い!」
「ううっ……」
 手足を幼児のようにバタバタと動かしたシンタローは、そのまま、ずい、ずい、とマジックのいる湯船に向かって、はいずっていった。
 湯桶の枠にとりつき、手の平で水面を叩いてみた。
 熱い湯が跳ね、強く叩けば自分と、湯に浸かっているマジックの顔に、飛沫がかかる。
 それが何だか面白くなってシンタローは、滅多やたらに湯を叩きまくった。相手が眉をしかめているのも、お構いなしだ。
 ばしゃばしゃ、パシャパシャ、叩きまくった。
 単純な動作にのめりこみやすいのが、酔っ払いの特徴でもある。水面叩きに一生懸命になっているシンタローを他所に、やっとマジックは、自分を取り戻したようだ。
 その疲れた目元に、湯が跳ねた。
「……シンタロー……」
「おもしれーゾ! アンタもやれっ!」
「……」



 諦めたような声が、湯室に響く。
「……だから何だというんだ……そんな事実を指摘して……だから何だというんだ」
「うぁ?」
 このマジックの発言は、さきほどシンタローから発せられた、『アンタはスネている』という指摘に対してのものだったのだが。
 当の酔っ払いは、もう先刻の自分の発言は忘れて、無邪気な遊びに熱中していたため、こう言われて心底不思議そうな顔をした。
 相手を見返す、ぼんやりした黒い目。その目に、溜息をつくマジックの姿が映った。
「もう、いいよ。付き合ってられない」
 ざばあっと大きな飛沫が跳ねた。
「わ」
 シンタローは、自分の顔に湯がかかってから、遅れて手の平でガードする。そんな彼を尻目に、湯船から出たマジックが逞しい裸体を晒している。
 引退後も無駄な肉のない鍛え抜かれた身体だ。
 手の平の隙間から、シンタローの視線は、ついつい、くっきりと伸びた鎖骨の線にかたどられた広い肩、分厚い胸板から割れた腹直筋へと続いてしまう。
 その下。何も隠すところのないのは、自信の表れなのだろうか。
「……む……」
 何とはなしに気分を害して、湯桶にとりついたまま、じいっと彼の背中を見つめてしまうシンタローである。なんか、ムカつく。
 視線の先で、大きく肩甲骨が上下して、マジックは白木の椅子に座った。
 これから身体を洗うらしい。



「なあ、カラダ、洗うの」
 シンタローは、聞いた。
「……」
 返事は、ない。相手はむっつりと黙って、ボディソープを手に取っている。シャワーの湯を調整している。
 唇の端を舐めて、シンタローはもう一度聞いた。
「なあって。カラダ、洗うのかってば」
「……」
 やはり言葉は返ってこないのである。
 しかし、
「ふーん」
 とシンタローは了解したような返事をしてみてから、また床に寝転がり、そのまま、ずずずいっと、濡れた床を這った。這った、というより、半分滑っていったというのが正しいのかもしれない。もはや彼の移動手段は、腹這いである。
 そして、すっきりと広い空間、洗い場のマジックの側に、辿り着く。
「……オイ、マジック」



 呼ばれて、床に這いつくばったままのシンタローを、マジックは胡散臭げに見下ろした。さすがに口を開く。
「……なに」
「ぎゅう〜」
「なっなっなに!」
 シンタローは、濡れた上半身を浮かして、ぺたっとマジックの頑健な右足にしがみついた。頬を寄せる。寄せてから、ぐいぐい擦り付ける。
 驚いたマジックが、足をずらしたが、しがみついたシンタローは離れない。ますますくっつく。
「ぎゅぎゅ〜う」
「シンタロー! こらっ」
 やけに焦っているみたいなマジックの反応が、シンタローにしてみれば面白いのである。
 奇妙な新鮮さを感じながら、シンタローは思う。
 コイツ、いつもはそんなことないクセに。いつもと逆。いつものアンタがやりそうなこと、俺がしたら嫌がるのが、おかしい。
 変に意地張りやがって。ばーか。ばーかばーか。
 マジックが足をずらしたせいで、そのままくっついていったせいで、壁に掛けられていたシャワーの湯が、シンタローの黒髪を濡らしていく。
 床を這いずり回っていたお陰で、もともと濡れていたシンタローの身体であったが、もう濡れ鼠である。ずぶ濡れなのだ。
 黒髪から、ぽたりぽたりと湯がしたたり落ち、白いシャツは濡れて透き通ってしまっている。肌を這う雫。
 無邪気さの中に、色気さえ漂わせながら、やがてシンタローは相手の脚から頬を離し、妙に満足げな表情で、困惑したマジックを見上げて、『へっへ』と笑った。
 それからこう宣言した。
「俺がアンタを洗ってやる!」



 シンタローの声が浴室に響いて、またぴちゃりと天井から雫が垂れる。
 がしっとしがみついているマジックの足元に、やけにゆっくりと跳ねて、飛び散って消えた。
「……!」
 明らかに動揺しているマジックに向かって、シンタローは高らかにもう一度宣言する。
「オレがぁ! アンタを洗ってやるっつてんの――!」
 間があって。マジックが、シンタローから目を逸らす。声を漏らす。
「う……くうっ……いや、いい」
 そんな彼を、今度はシンタローが胡散臭げなまなざしで見る。
「ナンか辛そうだゾ、アンタ」
「そんなことない! いや、いい」
 相手は、ごくりと唾を飲み込んで。それから、ゆっくりと呼吸をして動揺を静めて。
 ぐっと唇を引き結び、しかめ面を作ってしまった。



 シンタローは舌打ちをする。
 チェッ。折角、慌てさせてやったと思ったのに。こうなると、コイツは鉄面皮。
 世界征服なんか企むヤツだから当たり前なのだが、マジックは、なんだかんだで自制心の強すぎる男なのである。感情をコントロールしてしまったようだ。押したって引いたって、ビクともしない。
 なんだよ、ホントは俺のコト好きなクセに、色々したいクセに、とシンタローは、普段の自分が聞いたら失神しそうなことを考えてしまう。
 そして、仕方ねえ、実力行使とばかりに、壁にかかっている体を洗うためのボディタオルを手に取ろうとして。
 一足先に、金髪の男に奪われてしまう。
「なっ! あんだよぉ〜」
 ふくれるシンタローに、冷たいマジックである。奪い取ったタオルを背後に隠してしまう。
「いいって言ってるだろう。自分で洗うから、いい」
「く……このォ! じゃあ、こっち……」
「こっちもダメ!」
 次にシンタローが狙いをつけた、ボディソープだって、取り上げられてしまったのだ。
「洗わせろよぅ〜! ケーチ! ケチケチマジック!」
 ぶうぶう文句を垂れる酔っ払いに、ツーンとそっぽを向く男。
「あーらーわーせーろぉー! オレがぁ、あーらーうーのー!」
 駄々っ子のように、シンタローは床にひっくり返って、両手両足をバタバタいわせてみたが。
「イヤ。浮気者にはそんなことさせてやらないよっ!」
 相手も意固地になっているようで、まるきり無視。
 とんでもない男である。



 突然、相手は声を低く落とした。言う。
「……真夜中の私にも……こんなことをしたのか……?」
 ぴたりとシンタローは、暴れるのを止めた。
「むっ」
 自分も口をへの字にして、濡れた床から起き上がる。マジックを見返す。
 白木の椅子にかけたまま、こちらを見下ろしている彼の目は、シンタローの子供っぽい所作にもかかわらず、どこか寂しげだった。
 マジックは、また何か口にしようとして、
「……いや、いい」
 俯いてしまった。



「……」
 シンタローは、酔った頭で、考える、小首をかしげて考える。
 こういう場合どうすればいいんだろう。だからとりあえず、事実は告げてみる。
「んー? してねえヨ」
 だよナ。お風呂とか、一緒に入ってねえもんナ。
 ていうか、それ以前にそんな雰囲気に、なってない。
 相手は顔を上げ、きつい視線を浴びせてくる。
「そんな軽く言われて、信じられるものか」
「んん、でも、ホントにしてねえもん」
「どうだか。お前は真夜中の私にも、言ったんじゃないのかい? 『洗ってやる』とか何とかかんとか! もう私はそれを考えるだけで、胸が……苦しい……何を言われても、同じことを真夜中の私にも言ったのじゃないかと……そればかり……」
「言ってねえってばぁ! ひっく」
 深刻なマジックに、相変わらずの酔っ払いモードで反論するシンタローなのである。
 自分は、相当の不信感を相手に植え付けてしまっているようなのだ。
 マジックは、俺が真夜中のマジックを、洗ってやったのだと思ってるんだろうかと。シンタローは、大雑把にそう理解した。
 だから、このオレ様が洗ってやるっつってんのに、嫌がるのか?
 そしてシンタローは、この瞬間、ここへ来た目的を思い出した。



 そうだ。自分は、何を思ってこの場所にやってきたのか。
 こうして床でバタバタしてる場合じゃないんだった。お湯でバシャバシャしてる場合じゃないんだった。
 ふたたび蘇る従兄弟たちの言葉。
『自分がそのライバルより、特別なこととか、上の扱いされてるって思ったら。きっとその怒ってるMさんも』
『嫉妬心が和らいで、機嫌が直るだろうという訳か』
 そうだった!
 俺、オレ……。
 マジックに、真夜中のマジックよりも上のコトしてやるために、ここに来たんだったゼ!
 ついうっかり忘れてた!



「……」
 無言で、シンタローは立ち上がった。すると静かなマジックの声がかかる。
「……もう、自分の部屋にお戻り」
 彼を無視し、シンタローは大股で、のっしのっしと壁に備え付けの金属棚に歩み寄る。
 そこには、先刻、二人がコンビニで購入した品々が、ずらりと並べられていた。
 多分、何でも珍しがるマジックが、変なことには几帳面に置いておいたもの。
 いつもと違う銘柄のシャンプー、リンス、シェービングクリーム……たくさんの中から、一瞬迷ったものの。
 シンタローは、えいやっと、一つを抜き出した。
 ジェルローション。
 弱酸性、低刺激、敏感肌のアナタへ、なんて書いてあるそのチューブを、握り締める。
 だって、ソープは取り上げられてしまったから。赤ちゃんなんか、こーいうので、肌を洗ったりすんだぜ。ジェルで、お肌すべすべなんだぜ。
「見てろ――!!!」
 言うが早いか、えいやっとシンタローは、自分のシャツを引き裂いた。
 本当は前を開けようとしただけだったのだけれど、つい破ってしまった。ボタンが、弾け飛んだ。
 まあ、いいや。



 上半身裸になると、呆気にとられているマジックの前で。
 シンタローは、チューブの蓋を開け、自分の胸の上にかざす。
 とろとろと透明の液体が滴り落ちてきて、シンタローの肌を潤していく。
 冷たさに、シンタローは、ぴくっと身を震わせる。濡れた黒髪が揺れる。
「ん……」
 思わず声を漏らし、小さく息を吐きながら、思った。
 洗う道具、取り上げられちまったんなら。
 それにアンタが、俺が真夜中のマジックを普通に洗ってやったとか、勘違いしてるんだったら。
 だったら、俺にも考えがある。へへー、これは取り上げられねえだろ!
 アンタをな。
 俺の体で洗ってやるよ!



 仁王立ちしているシンタローの、きっちりと筋肉のついた胸から腹に、ジェルがゆっくりと流れていく。
 とろとろ、とろとろ、幾様にも模様が描かれる。
「見てやがれ!」
 威勢よく啖呵をきる彼の鎖骨、そのくぼみにたまる液が、薄ぼんやりした浴室の灯を弾いて。
 シンタローは、ぴちゃっと手の平を擦り付けて、流したジェルを豪快に胸に塗りたくる。
 塗りたくりながら、叫ぶ。目の前に佇んでいる男に向かって、叫ぶ。
「こおの、すね虫! 泣き虫、すね虫、怒り虫の中の、一番しつこいヤツ〜!」
 濡れた髪と、酔って赤みを帯びた目の端が、湯気に滲んでいる。
「アンタは! なーんでアンタは、そんなに面倒くさいヤツなんだぁ――!!!」



 とろんとして焦点の覚束ないシンタローの瞳。
 でも、彼の瞳は揺れながらも、じっとマジックに向けられている。自分の話を聞いて欲しいと感じている。
 ――本当は、自分が構って欲しいと思っているのに。マジックに無視されて、シンタローは悲しかったのだ。
 それなのにシンタローの口は、逆にこう動いてしまう。酔っ払っていたって、彼の基本は変わらない。
「なぁ。俺に構って欲しいんだろ? アンタってば、俺にラブラブしてほしいから、すねてんだろ? そぉかぁ、チッ、困ったオヤジめ! マジで困るゼ! マジックだけにマジで困るナ!」
 そこまで大声で言うと、急に調子を変えて、シンタローは、とてとてとマジックの背後に回りこんだ。
「だからぁ、仕方ねー、俺様がっ」
 広い背中に向かって、よいしょと、しゃがむ。
「トクベツに、構ってやらぁ! ひっく」
 そしてジェルに濡れた自分の胸を、躊躇なく、マジックの背中に、ぎゅうっと押し付けた。



 しかし。
「おわっ、わわっ」
 予想以上のぬめりである。
 危うくバランスを崩してすべりそうになったシンタローは、慌ててマジックの肩にすがる。
 それでもすべって、やっぱり獣みたいに爪を立ててみるが、右手に力を入れれば左足がよろめき、左手に力を入れれば右足が以下同文。
 床だって、滴り落ちた液体で、すでに酔っ払いの足元には危険な状態なのである。足指の間がひやりとする。
「ぬるってした! ぬるぬるっ! う、うわっ!」
 肩にすがった指も滑って、シンタローはついに背後から腕を回して、マジックの首元にしがみついた。
 ぎゅっとしがみつけば、最近は後ろを長めにしている金髪が鼻先をかすめ、シンタローは何だか久しぶりだと感じる。
 肌と肌が、くっついた。息を飲む。懐かしい香りがすると思う。
 たった一月くらいのことだけれど、色々行き違って、こうしてくっつくことなんて、なかったから。
 本当に本当に、短い間、離れていただけなのに。
 懐かしいと、心が言っている……。
 シンタローは一瞬だけ目をつむり、すぐに黒い睫を上げて、開いた。
 だが。自分でジェルを塗っておきながら、自分で大騒ぎをしているシンタローに、対する金髪の男は冷たいのである。
 マジックは少しだけ顔を背後に傾け、シンタローを一瞥して、鼻で笑った。
「フン……何が洗うだ。そんなことお前にできるものか」
 明らかに馬鹿にしたような響きに、むかっ、と。勿論シンタローの腹は、煮え繰り返ったのである。



「洗えるに、決まってンだロ――ッ!」
 身体中に巡るアルコールのお陰で、怒りの炎はメラメラと燃え上がる。指の先まで熱くなる。燃料は十分である。
「よおし、おーよ、洗ってやろーじゃねえかっ、しっかり洗ったるわい!」
 マジックの首にしがみついたまま、シンタローは自信ありげに言い放つ。
 だがその実、具体的に何をすればいいかは、酔っ払いの頭の中には、構想はなかったのである。
 仕方なく、首をかしげてみる。考えてみる。
 ん。うーんと。
 どーすれば、いいんらっけ。どーしよう。ろーしよう。
 洗う。あらう……。
 シンタローの脳裏に、幼い頃によくマジックに背中を流してもらった記憶が、映し出される。
 ……ごしごし?
 そーカ、ごしごしすれば、イイ。



「うし、ごしごしするゾ! カクゴしやがれっ!」
 シンタローはそう言って、男の首に背後から手を回したまま、濡れた胸を、彼の背中に擦り付けだした。
 身体を上下に動かし、とろとろの液体と共に、肌が触れ合う。相手の体温を感じる。
 ごしごし。
 ごしごし。
 シンタローが唯一身にまとっている下半身のジーパンは、すでにぐっしょりと濡れて重い。
 滑る不安定な足元に、酔いでふらつく身体も危うく、それでもシンタローは必死にひっくり返るまいとバランスを保ちながら、上半身を、振り向きもしない意地悪な男にこすりつけた。
 男の広い背中は擦られて、ジェルローションに塗れていく。
 背筋が陰影を作って、それがまるで男の笑い皺のように見えて、シンタローは一人笑った。
 肌がくっつくのと同じくらいの間、マジックの笑い顔なんて、見たことなかった。
 シンタローは一生懸命に、身体を彼に擦り付ける。



「……ん……?」
 その内にシンタローは、異変に気づく。
 何だか、俺の胸と、マジックの背中の間に、障害物がある。
 何だ、コレ。やりにくいじゃねえか。
 何だか、尖ってきた。
 スゴく、ごしごしするのに、ジャマ……。
「んっ……ん……」
 鼻にかかった声が出て、シンタローは不思議に思って、自分の胸を見下ろした。
 筋肉はついてはいるものの平らな胸に、ぽつんと二つ。赤い尖り。
 初めはやわらかだった乳首が、ジェルの光沢の中で、硬くなってその存在を主張していた。



 乳首の先から、甘い感覚が、じわじわと這い上がってくる。
 痺れは、シンタローの意識をいつしか支配していくのだ。息があがる。小さな喘ぎが口をつく。
「……ふっ……」
 男の背中に、胸を擦り付ければ、熱が生まれる。
 シンタローが身体を上下させるほどに、胸の突起は硬く育って、鋭敏になっていく。
 ジェルローションのぬめりの感触、その不可思議さに、赤いそれはぴくぴくと震えて、つんと立ち上がってしまう。
「あっ……」
 とうとう耐え切れなくなって、シンタローの動きが鈍くなる。
 それでも快感を我慢して、ゆっくりゆっくりと、そうっと胸で撫でるように、男の背に触れていくのだが。
 時間をかけて、自然、ねっとりとしなるように身体を上下させ、身を擦り付ける。長い息をつきながら。
 しかし、
「なんだ、いやにのろくなったね。そんなものか」
 またマジックが、憎らしいことを言うのである。
「なにおぅっ!」
 反射的にシンタローが躍起になった所に折悪しく、マジックが、何気ない風に腕を動かす。
 すると、逞しい背中の僧帽筋から背筋の部分が、くいっと盛り上がって、まるで狙いすましたように、シンタローの乳首の先を刺激した。
「あう……っ」
 思わず――変な声が、唇から漏れてしまった。



「何、今の声」
「なっ、なんでもねーよッ!」
 慌てて口を塞いだシンタローは、つい意地を張り、またぐっと腰に力を入れて、裸の胸をマジックの背に押し付ける。
「んっ」
 そして、またうっかり鼻にかかった声をあげてしまった。折角に力を入れた腰が、抜けそうになる。
 マズイ、マズイ、と酔っ払いの頭はぐるぐる回転している。
 ダメ、ヤバイ。
 胸の、ココとココが。
 擦ると硬くなって、じんじん痺れてくるから、擦りたくないのに。
 でも、擦らないと。
 ちゃんとやらないと。
 こんなコト、言われちまう。
「さっきは洗うって、ずいぶん威張ってたけれどね、お前……それは撫でてるだけなんじゃないのかい。それじゃ自分で洗った方がマシだ」
「なに……っ!」
「普通はもっと力を入れて、こするんじゃないの」
「……わ、わかってらいっ」



 声を出さないようにと、歯を食いしばりながら、シンタローは身体を上下させる。
 腰を上げれば、胸の突起は相手の首筋や肩甲骨に触れて震え、背筋を辿って腰を下ろせば、その厚い立体感に喉の奥から喘ぎがこみ上げてくる。
 シンタローの勃った乳首は、硬いのに弾力性があって、広い背中に押しつければ、逆に跳ね返さんばかりに、きつくきつく先を尖らせるのだ。
「……ふっ……ん……ん、んんっ……」
 我慢したって、どうしても漏れる声。声は、シンタローが身を上下させるリズムで、零れ落ちていく。
 ダメだ。気持ちいい。
 擦ると、気持ちいい。
 酔いが快感をダイレクトに脳に伝え、どんどんと身体が火照っていく。
 透明なローションが、それを加速させていく。
 二つの突起から、熱が、シンタローの下半身に……溜まっていって……。
「あっ……」
 ……ダメ……だっ!



「も、もう、終わりッ。おーわり!」
 持って行かれそうになった意識を、すんでのところで取り戻して。
 しがみついていたマジックの背中から、バッと勢いよく離れたシンタローだったが。
 その拍子にジェルが滑って、『わわっ』と濡れた床に両手をついた。
 すると四つんばいになった、その剥き出しの腕に、つうっと残りの液体が伝っていって。
「……っ」
 びくりと身を震わせる。
 こんなことにさえ反応してしまうぐらいに、肌が敏感になっていた。



 そんなシンタローに、また声。相変わらずの声なのである。
「あっ、そう。終わりね」
「……あんだよぉ……っ……その言い方ぁっ……」
 何とか息を整えながら、シンタローは途切れ途切れに反抗を試みる。俺は、こんなに頑張ってやったのに。
 こちらを振り返ったのは、自分とは対照的なほどに落ち着いた、マジックの顔だった。口元には、呆れたような含みさえ漂わせている。
 その薄い唇は、こう言った。
「背中だけ……か」
 静かな微笑と一緒に。



「う……」
 シンタローは、言葉に詰まる。
 もう自分は限界なのに。どうしてこんな意地悪なコト。
 でも、ここで俺が『もうダメ』なんて言ったら、コイツ、きっと俺のコト、馬鹿にするんだ。
 ヤだ。馬鹿にされたくねえ……っ。
 ――マジックには。
 流石の酔っ払いも、自ら言い出したことを後悔したのだけれど。
 ここまでやったからには、最初に偉そうに『洗ってやる!』なんて啖呵をきったからには、とことんまでやらない訳にはいかないのである。後には引けなかった。
 ……仕方ねえ。
 俺も男だ。腹をくくるぜ。
「おらあ! 今のは、『背中は』終わりっつったんだよっ! おーし、前もやったろうじゃねえかぁっ……!」
 シンタローは四つんばいになったまま、なるたけ平気な素振りをして、椅子に座ったままのマジックの前に回ろうとしたのだ。
 しかし。



「背中はまだ良かったけれどね……お前、そのジーパンに金具がついてるだろう。やめてくれないかな」
 シンタローが彼の正面に移動して、目が合った瞬間、やけに穏やかに、そんなことをマジックが言うので。
「へ?」
 シンタローは、彼の言葉の意味を量りかねて、きょろきょろと周囲を見渡し、それから自分の下半身を見た。
 上のシャツは破り捨ててはいたものの、ジーパンは、この浴室に入ってきた時のまま、はいたままなのである。
 それは、ぐっしょりと風呂の湯とジェルローションで、重く濡れていた。薄青色をしていたのに、今では黒に近い藍色になってしまっている。
 そのジーパンを見てから、シンタローはもう一度マジックを見る。
 また、声。
「洗うって言い切った割には、やっぱりお前は甘いねえ……?」



「……あまい……?」
「甘いよ。どうせやるのなら、ちゃんと完璧にやったらどう」
「?」
「上半身だけじゃ、不十分だって言ってるんだよ」
 黒髪の毛先まで濡れた、酔っ払いの虎に、マジックは小さな子供に噛んで含めるように言う。
「ん……ふじゅうぶん……」
「そう。足りないってこと」
 ぼんやりと相手の言葉を繰り返すシンタローに、つまりはね、と男は言った。
 こういうことだよ。私を洗うっていうのは。
「全部脱ぎなさいよ」



 シンタローは、ぐっと詰まった。
「ぜ、ぜんぶ……」
「そう、全部。なにか、ご不満?」
「うっ……や、あの、」
「金具なんてついてるボディタオルがあると思うかい。危険だし、第一、私は肌が弱いからねえ。そんなので洗われるのは御免だよ」
 アンタの肌が弱いなんて初耳だと、シンタローが言い返す前に、相手はこうだ。
 シンタローの顔の前で、冷たく手を振る。
「ま! 別にお前ができないんだったら、仕方ないけどね。所詮お前のやることだし。ほら、自分で洗うから、どいてくれないか」
 こんなことなんか、言われた日にゃ。
 言われた日ニャア! 虎だろうが猫だろうが、目の前の道は、一本道。
 シンタローにとっては、行く道は一つきり。
 これまでの人生、それこそ数え切れないぐらいの回数を、マジックに苦汁を舐めさせられているシンタローなのであるが。
 今度もやっぱり、御多分に漏れず、舐めちゃわなきゃいけないハメに陥ってしまうのであった。正面からナメナメなのである。



 シンタロー酔っ払いにつき。シンタローはシンタローにつき。
 やっぱりこうなる。
「こぉのオレ様に、できねーコト、あるかぁぁ――ッ!!!」
 激昂して、シンタローは立ち上がろうとしたのだけれど。
 やっぱり足元が滑って。上手く立てなくて、こてんと床に衝突して。
 しょうがないから、尻餅をついたまま、ジーンズを脱ぐことにする。
 前の金具を外し、ジッパーを下ろして。さてと、ずり下ろそうとするのだが。前述のとおり、ぐっしょりと濡れたジーパンは、肌に纏わりつき、やけに重くて、しかも酔っ払いの滑る指。
 なかなか簡単には脱げないのである。



 うんしょうんしょと腰に手をかけ、下ろそうとしたり、裾を引っ張ったりしていたシンタローは。
 ふと何だか、自分に向けられている不躾な視線に気が付いて、ギロリと鋭い(つもり)の目付きで、シンタローはマジックの方を見た。
 相手は悠然と椅子にかけたまま、例のコンビニで買った商品の瓶なんかを、手にとって眺めている。気のない風に。
 でも、今確かに、シンタローは視線を感じたのである。
 コイツ、絶対に俺の方、見てやがった。そう思ったから。
 だからシンタローは、ジーンズに手をかけながら、ガラ悪く相手を咎める。
「……あんだよ」
「ん? なに」
「俺の方、見んなよ。ナニ見てンだよ」
 しかしマジックは、これは心外だという風に、眉をひそめて言ったことには、
「別に。お前なんて見てないよ、興味もないし」
 きょっ、興味ねえだとおおお!!!



 怒りにますます指が覚束なくなって、まるでイモ虫みたいに床を這って、シンタローは濡れたジーパンを脱ごうと四苦八苦した。
 黒髪が床に散り、肌を這う。焦るほどに、もつれる指。
 見かねたのか――やっぱり見てるんじゃねえのかとシンタローは憤ったが――マジックが、声をかけてくる。
「大変そうだね。手伝おうか」
「いい!」
 即座に拒否するシンタローである。そして何とか、トランクスと一緒にジーンズを、腰骨の辺りまでずらすことに成功して。
「……むっ」
 そこで、前方に。何だかあらぬ場所に、引っかかりを感じて、その地点でやっと、シンタローは重大な事実に気付いたのである。
 先刻、胸の突起が立ち上がってしまい、彼が大変苦労したことはご承知の通りなのであるが、勿論、下半身だって、大変なことになってしまっているに決まっているのである。
 うっかり失念してしまっていた酔っ払いである。



「……やべえ……」
 酔いの回った目、浴室の薄明かりにも明らかなほどに、シンタローの中心は頭をもたげてしまっている。
 濃い色のトランクスを押し上げて、よせばいいのに、それは高らかに存在を主張していた。
 意識すれば途端に肌がじんじんと疼き出し、熱のかたちをした生き物のうごめきを感じてしまう。シンタローの身体の芯に巣食い、脈動している熱い塊。
「ん……っ」
 ジーンズを動かせば、思わず吐息をついてしまう程に、そこは昂ぶりを示していた。
 濡れたジーンズだから、今まではそこまでは目立たなかったのだけれど。
 脱いでしまえば、勿論その部分はあらわになってしまう。アイツに見られて、きっと恥ずかしいことになる。あの男に。
 どうしよう。
 中途半端な体勢で、困った困ったと、ゴロゴロ寝転がっているシンタローである。
 そして思考に一生懸命だったお陰で、足元に近寄ってきた影に、気付くのが遅れてしまった。



 気付いた頃には、もうジーンズの裾をがっちりと掴まれていたのである。
 男の大きな手。シンタローは驚いて悲鳴に近い声をあげた。
「わっ! ぎゃっ! なっ、なにっ!」
 マジックは冷然としたものである。
「手伝ってあげるって言っただろう」
「やっ……いいって! いい……っ! あっ」
「手を離しなさい」
「やだ……っ」
 いくらシンタローが拒否しても。反抗するように逆にジーンズを引っ張り上げても。
 強い力で両足の裾がぐいぐい引っ張られて、濡れた布はもうトランクスとぴったりくっついていたから、一緒に脱げて、どんどんと下半身が露出していく。
 今まで隠されていた部分がひやりと外気に触れて、それだけで心細くなる。
 大きく引かれた。ついに、うつ伏せになったシンタローの尻が半ばまで剥き出しになる。
 顔が、羞恥にカッと赤くなる。
 しかし相手は力を緩めない。対抗するシンタローの力は、所詮は酔っ払いで、しかも足を持ち上げられて上に引っ張られていたから、重力だって敵なのだった。
「ダメ……ッ! ダメだって……」
 かなわない。こんなに乱暴にされたら。無理矢理。
 ひときわ強く引っ張られて、裸の腰骨が床に当たって、痛みが走る。
 やだよ。どうしてこんなに。強引に。
「あっ……あああっ――!」
 抵抗もむなしく、シンタローの下半身は剥ぎ取られてしまったのである。



「う……」
 浴室の隅に座り込んで、心なしか身を縮めて。脚で前を隠すようにして、脱ぐ前は威勢が良かったのに、脱いでしまってからは、ちょっとオドオドしてしまっているシンタローである。
 ちくしょう。ズボン、とられちまった。
 ダメだっつったのに。無理矢理。アイツが。
 酔っ払いは感情の波が激しいのである。満ち潮もあれば引き潮もある。満月の夜みたいに心がうねる。
 さっきまではテンションが高かっただけに、その分、落差が激しい。
 今度はシンタローは、唐突に悲しくなってきたのである。非難の色を込めて、酔いのたゆたう黒瞳で、男を睨む。
 男は、シンタローから奪い取ったジーンズを、まるで戦利品のように裏返したり丸めたりして、手慰みに弄っている。
 シンタローがいくら怒って睨んだって、わざとらしいくらいに、こっちを向いてはくれないのだ。
 そのマジックの仕草が、シンタローよりもジーンズの方が興味深いと言っているみたいで。
 ますます――悲しくなる。



「……なんで」
 シンタローはそう唇に言葉を乗せたのだが、後が続かなかった。
 なんで、アンタ、俺にこんなに意地悪するんだよ。
 彼はこう言いたかったのだ。
 俺は、こーやって親切に洗ってあげるとか言ってやってンのに。マジックの奴、ぜったい冷たい。
 冷たいし、怖い。乱暴にするし。無理矢理にズボンとるし。
 こんなのって、ねえよ。
 泣きたい。俺、泣いちまいたい。
 うう。ぐすっ。ひっく。
 そう思えば、あっという間に涙がこみ上げてきそうになって、シンタローは、慌てて鼻をすすって、上を向いた。
 幸い、浴室の蒸気で、おそらく相手にはわからないのが救いであったが。
「うう……」
 それでも、ごしごしと目の端を手の甲で擦って、考える。
 ――マジックの奴。俺のコト、好きなクセに。
 なんで、俺のコト、いじめるんだろう。
 俺、いじめられてばっかり。
 ひどい。なんてひどいヤツ。
 何で優しくしてくれないんだろう。



「……なんで、アンタ……俺に冷たいの」
 やっと口にできた言葉。
 俯いていた顔を、シンタローは上げた。マジックと目が合って、相手が少し驚いたのがわかる。
 そんなに悲しそうな表情を、自分はしているのだろうか。重ねて言った。
「なんでアンタ、俺に惚れてるのに。優しくしてくれねーの」
 広い浴室、その壁に広く開いた窓からは、しんと静まり返った日本庭園が二人を見守っていた。
 緑の萩。御影石の輝き。闇の影。漂う、ほのかな湯気。
 男の低い声。囁くように。
「……惚れてるから、優しくできないんだよ……」
「……」
「愛してるから、お前に優しくできない時があるんだ。どうにもならない」
「……!」
 ついにシンタローは、直感で理解したのだ。



 ――俺が最初に優しくしなかったから。だからマジックは、俺に優しくできないんだ。
 そう感じた刹那だった。
 シンタローは、すっくと生まれたままの姿で立ち上がった。
 さっきまでどうしようもなく恥ずかしかったのに。どうしてかこの瞬間は、ちっとも恥ずかしくなんかなかった。
 足元は不安定だったが、檜の床板を踏みしめる。
 叫ぶ。声が響いた。
「ならなあ! そうだってんなら、なあ!」
 マジックの元に歩み寄る。
 そして躊躇せずに、椅子に座ったままのマジックの頭を、抱きしめた。
 さっきは脚。そして後ろからだったから。
 今度は正面から、しっかりと。腕に力を込めて。
 ぎゅっとぎゅっと、抱きしめる。



 相手の動揺が、シンタローの腕と胸に、直に伝わってくる。
 湿った金髪に、自分の長い黒髪がぱらりと落ちる。触れ合う。
 そうだったんだよ、と思う。
 そうだったんだ。
 コイツがガキくさいのなんて、俺には、とうの昔から、わかってたのに。
 子供はこうしてやると、一番嬉しいんだ。
 寂しいだけだから。俺にぎゅっとしてほしいから、スネてただけなんだ。
 その証拠に、相手は身動きしなかった。シンタローにされるがままになっていた。
 そういえばアンタ、俺にぎゅっとされるのが一番嬉しいって。
 冷たくなっちまう前は、そんなこと、にこにこして言ってたよな。俺は、あっそうって、聞き流してたけど。
 なあ。こうやって、俺がぎゅっとしたら、元に戻ってくれるかよ?
 機嫌、直してくれるかよ?
 俺が意地悪したから、アンタも俺に意地悪するんだよな?
 なんでそんなにガキくせえの。
 ……愛してるから、優しくできない時があるって。
 ……同じじゃねえかよ……俺と。
 チッ。バカだな、俺たち。
 あのなあ。こんなの、真夜中のマジックにもしてやったことねえんだからな。
 特別なんだっての。これは本当にホントの、アンタだけの特別。
 わかれよ。
 そしてシンタローは、腕の中の男に、言い聞かせるように呟いたのだ。
「なあ。今から俺が優しくしてやるから……アンタも俺に優しくしろよな」





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