真夜中の恋人

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 シンタローは腕を緩め、視線を下げて、胸元にあるマジックの顔を見る。
 すでに自分の肌は、ほんのり色づいているというのに、目の前の男の顔はやけに白いと思った。
 浴室の鈍い光に照らされて。うつむいた彼の顔。
 男の伏せ気味の目元、ゆるく弧を描いた睫の生え際、その黄金色の濃さと、通った鼻筋。
 つい。まじまじとシンタローは、自分の腕の中の男を、見つめてしまう。ひどく近い距離に、二人はいるのだ。
 だが、シンタローがいくら眺めても、相手は決してこちらを見返してはこないのだった。
「マジック」
「……」
 呼んだって、答えない。大人しいのに、最後の意地を張っている。
 何だかそのマジックの様子が、シンタローには、本当の子供みたいに見えたのだ。
 悪いことをして、それをわかっていても、直すことのできない子供。素直になれない少年。変だな、俺よりずっと年上の人なのに。
 ずっと昔は、こんなこと、思いもしなかったのに。
 あの南国の島を経てから、年月が過ぎて、シンタローは少しずつ……彼に対して、庇護欲のようなものを覚えるようになっている。
 彼のことを知れば知るほどに、そう思う。もっと知れば、もっとそう思うんだろうか。知りたいって、そういうことなんだろうか。



 なんだコイツ。妙に大人しくなりやがって。マジックのやつ。
 さっきまで俺に意地悪してたくせに、急に、こんな。
 マジックって。
 ――ほんとに、俺にぎゅっとしてもらうの、好きなんだ。
 シンタローは思い起こす。
 日本酒を飲む前のアンタったら、こうして俺とぎゅっとするのが世界征服なんかよりも好きなんだって、世界で一番好きなんだって、嬉しそうに語っていたっけ。
 アレ、本当のコトだったんだナ。もっと真面目に言えばいいのに。ふざけて言うから、俺。いつも怒っちまうんだよ。
 そういえば日本酒を飲んだ後の、真夜中のマジックは、逆にそんなことは言ってくれなかったんだなあ。
 酒とか煙草とか孤独とか言ってて…俺のこと、可愛いとか好きとか言ってくれたけど、ぎゅっとして、とかなんて、言わなかった。そんなカッコ悪いコト、言わなかった。手のかからないヤツだった。
 真夜中のアンタってさ、男らしくてさ、大人でさ、ハードボイルドでさ、色々何でも話してくれて……とにかくさ!
 すげーカッコよかったんだ! ヲトコだぜ!
 それに比べてアンタ……なあ、どーしてこうなんだよ?



 でもな。あのな、マジック。
 なあ、アンタ、俺がぎゅっとしてやらないとダメなんだよな。手がかかるヤツだな。面倒くせえな。ガキくせえな、俺に構ってほしいんだよな。
 チッ。
 ……俺がいないと、ダメなんだろ?
 俺、ずっとアンタと真夜中のアンタは同じ人間なんだって、思ってたんだけど。
 でも、もし、別人格だったっていうんなら。
 だったらさ。
 ――俺、アンタの方が、いいや。



 ふっと、シンタローは、小さく笑った。笑ってから、もう一度、男のその頼りない頭を、抱きしめる。
 抱きしめると――自分の中に、ほんのり温かい気持ちが、湧き上がってくるのが、何だかおかしかった。
 変だな、俺。
 すっごく、コイツに、優しくしてやりたい。
 酒ばかりか、その感覚に、シンタローは酔い始めている。陶然とする黒瞳。熱くなる吐息。
 指を伸ばして、濡れた金髪を、ゆっくりと撫でる。
 それから男の額に、そっと唇を寄せた。



 不思議だった。
 ずっとこの一月ほどの間、真夜中のマジックの気をどうやって惹こうとか、この本物のマジックをどうやってなだめようとか。自分は、そんな方法ばかりを、考え悩んでいたような気がする。
 でも、今のシンタローは、方法なんか、どうでもいいという気持ちになっていた。
 方法なんかじゃなくて。
 優しくしたいって。その気持ち自体が大切だったのかな、なんて。そんなことを細かく考える余裕は、彼には勿論ない。
 ただ、うっとりした感情に、心が満たされていたのだった。
 その感情を愛と呼ぶことを、シンタローは決して意識していた訳ではないのだけれど。



「……」
 男の額に落ちたシンタローの唇が、前髪に口付け、そっと含んで、静かに下へと降りていく。
 湯の香だろうか、花に似た甘い匂いが鼻をかすめ、シンタローの首筋の産毛が小さく震える。震えたまま、マジックの彫りの深い顔の造作に、ゆっくりと触れていく。その鋭角的なラインを和らげるように、何度も何度も唇でなぞる。
 意識しなくたって、とうの昔から、込み上げる感情は、シンタローの唇に溶け込んでしまっているのだから。
 そっとそっと……いとおしむように触れていくのだ。
 マジックが、静かに目を閉じる。シンタローは、その閉じた瞼のやわらかい部分に、唇を落とす。
 言い聞かせるように。
 ――アンタ、もうこの目で俺のコト、睨んじゃダメだぜ。
 怖い顔したら、ダメだからな。
 アンタが、優しくなりますように。
 その細い鼻梁を、静かに唇で通り抜ける。頬のかたちを確かめるように口付けていく。
 悪戯心を起こして、薄い耳朶をちょっぴり噛んでみたが、相手が片目を開けたので、これはすぐにやめた。
 そのまま顎に沿って、シンタローは相手の唇へと近付いていく。唇で、唇に近付いていく。
 シンタローの少し肉厚の唇と違って、マジックのそれは、形はいいけれども酷薄な感じがするのだった。
 いつもよりも、ずっと。冷たい感じがする。
 アンタ、もう長い間、俺に笑ってくれないから。
 シンタローの唇が近付いて……。
 触れた。



「……マジック」
 息を抜くように名前を呼んで、シンタローは男に自分の唇を押し付ける。相手は身動きしないままに、受けている。
 拒否されなくてよかった、と心の内で思う。
 マジックの唇の感触は久しぶりで、ただ触れ合わせているだけなのに、動悸が高鳴った。
 シンタローは、静かにマジックの肩に手を当てる。意思表示に、軽く力を込める。込めた力は抗われることなく、ゆっくりと背後に倒れこむように、男の肩が沈んでいく。
 白木の椅子が、かたんと横倒しになって、マジックの逞しい体が床に仰向けになって。淡い光の影が、こぼれるように落ちた。
 キスをしたまま、その上に覆い被さるように圧し掛かっていたシンタローは、やっと唇を離す。
 それから檜の香りがする床板に両手をついて、間近から、自分が押し倒した男の顔を、じっと見ていた。
 相手の閉じられていた青い目が開いて、金色の睫が、まばたきをした。
 シンタローと視線が、合う。
「……」
 男の唇が、動く気配がして。今度は人差し指でその唇を閉ざし、『しいっ』とシンタローは囁くように言ったのだ。
「大人しくしてやがれ」
 そして手を伸ばす。



「あのな、これホントだぜ。ホントのホントだからな」
 シンタローの、とろんとした黒瞳の表面に差す、陶然とした光。そして同じ瞳の内側には、どこか必死な光が込められていた。
 いつもは総帥として、大勢の部下たちの前で堂々とした威厳を見せつけている彼の顔には、不安と、幼さとが垣間見えていた。
 シンタローだって、特別な人の前では、子供に戻ってしまうのだった。
 そのことは自然すぎて、当たり前すぎて、本人は自覚してはいないのだけれど。
「なあ、マジック。信じろよ」
 口からは言葉がこぼれる。ひそかな怯えを押し隠すように、ひとつ瞬きをする。
「真夜中のあいつには、こんなの、してやったことねえんだからな」
 そう小さく続けて、シンタローが手を伸ばした先は、床である。
 蓋が開いたままの半透明なチューブが、真新しい檜の白味を帯びた床板に、ぽつんと転がっている。
 半ばまで中身の減った大振りのそれは、先が少し凹んで、歪曲した光の輝きを孕んでいた。
 シンタローは、ぐっとその容器を手に取る。再び自分の胸の上にかざし、握った指に力を入れた。
 液体がとろとろと溢れ出す。ジェルローションは、まるで透明な姿をした生き物のように、なめらかな肌を覆い尽くし、たっぷりと浸していく。
 今度はジーパンを脱いで、遮るものは何もない下半身にまで、透明で、少し粘着質な液体はしたたり落ちていく。
 熱く固くなった部分にまで。
「あっ……」
 ぬるついた液体は触手を伸ばし、シンタローの中心に絡みつき、その冷たさと感触に、敏感な場所はぴくりと震える。腰が動いた。
 思わず声を出してしまってから、慌てて口を引き結び、やけに真剣な面持ちを作って、シンタローは自分の体の下の男へと、視線を向けた。
 また、名前を呼ぶ。



「マジック……」
 広い胸板、すっと伸びる幹のような首筋に、シンタローは頬をすり寄せる。体を落とす。ぴったりと肌が密着する。裸の体と体。
 甘えるように、囁きかける。
「なあ、アンタ。返事しろよ……なあったら」
 そして鼻をならして、猫科の獣がそうするように、匂いで相手の存在を確かめた。湯の香り、ジェルの無機質な香りに混じって、確かにあの匂いがする。
 ああ、マジックなのだと思う。自分はいつもこの匂いに、安心してしまう。
 シンタローは、しとどに濡れた長い黒髪を揺らして、息をつきながら身動きする。もっと嗅ごうと、顔を無意識に動かした。
 すると鼻先に、ふっとやわい感触がして、それがマジックの唇だと知る。
「……」
 思わず相手の顔を見やると、金髪の男は決まり悪げに、他所を向いた。
 マジックの唇が、今、自分に触れたのだ。
 たとえ偶然であっても、シンタローは嬉しくなった。嬉しくなって、勇気が沸く。
「よーし!」
 シンタローは、密着していた身体を上げ、マジックの耳の側、その右と左に両腕をつく。同じように、腰の右と左に両脚をつく。
 四つんばいになって、相手を見下ろす格好だ。
 黒髪がマジックに向かって、ばさりと落ちて、二人の間に影を描く。裸の胸と胸、その空間は、二人だけのものだった。
 少し間を置いて、ひとつ溜息を吐いてから。シンタローは、動き出す。



「……んっ……」
 ジェルがぬめる。腰を浮かし気味にし高く上げたシンタローは、逆に肩を低くし、仰向けの男の胸に、自分の胸を押し当てる。
 正面から身体を擦り付ける。しゅっしゅっと擦過音が支配する浴室。
 つんと尖ったままのシンタローの乳首が、マジックの胸を上から下へと、何度も辿る。ローションをかき混ぜる。
 その二つの突起は透明な液体に濡れて、浴室の橙色を帯びた灯りに、その存在を主張している。固くなって、赤く色づいたそれは、男の肉体に触れる度に、ふるりと快感に震えるのだった。
「あうっ……う……んっ」
 たまらず湿った声が、シンタローの口から漏れる。
 鍛えられた筋肉に押し付けられるたびに、その敏感な先端を潰される尖りは、それでも弾力がある。何度も何度も押し潰されても、何度も何度も、ぴんと立ち上がって、シンタローの性格そのままに上を向くのだ。
 四つんばいのシンタローは、男の体に覆いかぶさって、懸命にその身で撫で上げ、撫で下ろすのを繰り返す。
 上半身を、相手の胸から腹へ、何度も何度も。
「ん……う」



 たっぷりと塗りたくられたローションは、シンタローが動くたびに、マジックの胸板とシンタローの乳首の間で、つうっと糸を引いて、てらてらと輝いた。
 こんなぬるついた場所では、四つんばいの姿勢はひどく危なっかしい。床についた四肢が滑る。滑りそうなのを支え直す。
 不安定であることは、シンタローの肌をますます敏感にさせる。
 真夜中のマジック相手にどころか、こんなの、勿論、経験なんてなかったから、身体を擦り付ける仕草はぎこちない。慣れない動作。
 ただ、快感に導かれ出した体は、さらなる欲を求めて、動きを止めないのだ。
「……はっ……」
 男を抱きしめるように、胸を擦り付ける。
 黒髪の貼りついた額に、じっとりと滲む汗は、滴り落ちてローションと混じりあい、液の筋は幾重にも模様を描く。
 流れる液体は、裸のシンタローの胸を通り過ぎ、腰骨から太股へ、膝とふくらはぎに流れ、全身を浸していく。
 腕をつたい、手の甲から指の間にぬるぬると零れ、まるで軟体動物のようにシンタローの体を這い回る。
「ひゃっ」
 体を支えていた手の平と膝小僧が床に滑って、シンタローはバランスを崩して、再びマジックの体にすがり付いた。すがり付くというより、ぺたっと覆い被さるように貼りついた、といった方が正しい見た目だったのかもしれないが。
 シンタローの瞳の側に、マジックの高い鼻がある。
 ちろりと横目で、シンタローは男を見たのに。
 マジックは、まだ、他所を向いたままだった。仕方がないので、声をかける。
「なあ」
「……」
「なあったら」
 だんまり男め。



 相手の頬に、自分の頬をくっつけながら、シンタローは囁くように言う。
「アンタ、落ち込んでんだろ」
「……」
 相手はやはり無言だったけれど、その金色の睫が瞬きをしたのがわかった。シンタローは言い募る。
「アンタを落ち込ませるコトできるの、俺だけなんだろ。なあ、そうなんだろ」
 『そうだ』と、一言、相手が口にしてくれるのを、シンタローは待っているのに。ずっと待っているのに。
 マジックはまだスネているらしい。往生際が悪く、ひくりと不機嫌に眉尻を上げただけで、いまだに沈黙を決め込んでいる。
「『そうだ』って、言えよ――っ!」
「……フン」
 やっと反応したと思ったら、こうだ。鼻で笑っただけだ。
「ばかやろー」
「フン」
「ばかマジック!」
「フフン」
「くっそ〜!」
 でも。シンタローには切り札がある。



 先刻から気づいていること。ずっと感じていること。自分の腰に、相手の熱く固いものが当たっている。
 こうして抱きつく前、腰を浮かして胸を擦り付けているときも、それはシンタローの腿や尻に当たっていた。当たるたびに、自分の体の奥が、じんとするのを、シンタローは知っていた。
 何だか嫌で、見ない振りをしていたのだけれど。見なくても知っているかたちをしたその熱塊は、今もシンタローの腰骨のすぐ側で、確かに息づいているのだった。
 マジックの態度に腹を立てたシンタローは、膝を曲げて、その塊を意地悪く、ぐいっと押した。
 急所攻撃である。
「ばーか」
「……」
 ぐいぐいっと押す。
「ばーか、ばーか」
「……っ」
「!!!」
 シンタローの目が、きらりと光った。
 へっ……こいつだって、感じてんじゃねえかよっ!
 勝ち誇った表情になったシンタローは、この方法で相手の鉄面皮を引き剥がしてやれと思う。
 ますます自分の濡れた身体を、マジックに密着させてみる。相手の顔を見ると、ますます眉を顰めている様子である。
 シンタローは、ようし、今度は上半身だけではなく、下半身も使って、擦ってやると息巻いた。



 シンタローの薄めの下生えが、マジックのそれと絡んで、熱い塊に踊らされる。その感触に、自分の息が乱れていくのがわかる。
 濡れた肢体を相手の体の上で動かせば、ジェルのぬめりのせいで、予想外の動きになる。
 シンタローは流線型にその体をくねらせた。綺麗についた筋肉の躍動が、美しい。
「はっ……あ……んっ」
 腰を揺すって、身をよじらせる。シンタローの胸だって、腰だって、腕だって脚だって、みんなマジックと触れているのだ。
 屹立してしまっているシンタロー自身の熱塊も、相手の腹や腿に擦れて、腰を揺らせば同じように熱い相手に触れて、ぴくぴく震えている。
 ぬめる液体にまみれて絡み合う、二つの性器。より直接的な快感。脳髄がスパークするような幻惑感。
 シンタローは、喘ぐ。激しく息をつく。
「いぁっ……んっ、くぅ……」
 敏感な部分同士が直に触れるのが、互いに固くなった雄の象徴がもつれ合う感覚が、たまらなくて。性器で抱き合っているみたいなものだ。
 早くもシンタローのその先端からは、快感の証である透明な液体が滲み出していて、ジェルに混じりあう。



 熱くて太い相手のそれ。もっともっとマジックに意地悪をしてやるつもりで、シンタローは自分の両の太腿に、それを挟んでしまう。
 酔っ払いのシンタローは、欲に正直だ。
「へへっ! こうしてやる……あっ、ん……っ」
 挟んだものが、自分の奥の柔らかい部分にダイレクトに触れて、吐息が漏れる。
 腰を動かして、ぬるぬると相手の熱塊の根元から先端までを擦り上げて、腿に力を込めてしごく。
 きゅっきゅっと音がする。
 内腿の過敏な場所で、マジックのかたちを感じた。熱くてたまらないと思った。
 みだらだと思いつつも、やめられない。酔いがシンタローから羞恥心を奪い去っている。そんな自分に、興奮している。
 頭の隅で、どこか冷静な自分が、普段だったら絶対にこんなことできない、なんて考えているのを感じながら。
 今のシンタローは、ずっと欲しかった獲物を前にして、突き進む虎なのだ。



「……つっ」
 懸命に下半身に集中していたシンタローは、はっとして顔を上げる。今のは自分の声ではない。相手の声だった。
 ますます勝利感に表情を輝かせるシンタローである。したり顔をして、いまだ憮然として眉をしかめて体裁を繕っている男に、言ってやる。
「感じてるクセに」
 マジックは、ついに薄い唇を開いた。しかし出てきた言葉は降参どころか、反抗的なものだった。
「……そりゃあね。誰にだって、こんなことされたら、男ならこうなるでしょ」
「ああん?」
 『誰にだって』という部分に、シンタローはカチンとくる。
「アンタ、誰にだってこういうコトされたら、こうなんのかよ」
 声にトゲを含ませてシンタローが咎めると、相手はこうだ。
「さあ」
「さあって何だよ! ハッキリ答えろよ!」
「なるかもしれないし、ならないかもしれない」
「……俺じゃなくたってかよ!」
 ガバッとシンタローは身を起こし、相手の目を正面から見下ろした。
 すると金髪の男は、こう言った。
「お前だって、私じゃなくてもメス猫みたいに発情してたじゃないか。着物なんか着て、真夜中の私を誘って」
「なっ……!」



 折角、俺、優しくしてあげたいと思ったのに。そしたらマジックも、俺に優しくしてくれるかもって思ったのに。
 また喧嘩になってしまうのだろうか。酷い言葉を投げつけられた。
 じんとシンタローの心がうずく。心が締め付けられる。しかし切ない気持ちと同時に、シンタローの内部が妖しくざわめく。
 胸が痛んで、痛むのに何だか体が熱くなって、背筋をつらぬく芯がぞくぞくと震えてきて、何かが爆発する前触れなのだと思う。
 湿度と熱気の交差する浴室。この男で、傷つくことと快感は、裏表。
「……アンタなんか」
 そこで言葉に詰まったシンタローの目尻に、うっすらと水が浮き上がりはじめたのは、感情の発露だろうか、それとも欲情の証だろうか。
 潤んだ目で、シンタローは男を睨みつける。そのまま、唇を噛み締めたままだった。
 どうして、まだそんなことをこの男は言っているのかと、辛くなる。シンタローは、こんなに頑張っているのに。
 どうしてマジックは、いつも俺の思い通りになってくれない。



 そのシンタローの様子を見て、マジックが言葉を紡ぐ。
「お前はわかってくれないのか。どうしてわかってくれないんだ」
「何をだよ! わかってくれねーのは、アンタの方じゃねえかよ!」
「わかってよ……」
「だから、何を!」
 その瞬間、マジックの表情が変わって、殺気を帯びた。刺すような青い瞳の光が、シンタローを射竦める。
 びくりと本能的な恐怖を感じながら、同時にシンタローは、彼の顔はもう冷たい色は帯びてはいないと思った。
 だが、怒りとも悲しみともつかない感情が、男の顔には浮かんでいた。
「私はお前を愛してるから、あのことは、うやむやにはできないんだよ!」
「……!」
 シンタローの胸が、どきんと大きく波打った。
 波打てば、その感情の波紋はシンタローの全身に、ひたひたと染み渡っていくのだ。
 男の言葉が、渚のざわめきのように、耳の奥に響いていく。
「はっきり言えと、お前は言うけれど……お前こそ、はっきり私に言ってよ。あの時の気持ちを。お前は、どんな考えで、あの男を誘ったんだ。私じゃなくって、あの男を。そうじゃないと、それを聞かないと、私は……」



 と、シンタローの、睫が震えた。
 沈黙していた相手の感情を前にして、今まで押し込めていた想いが、シンタローの内にも込み上げてくる。
 あの、真夜中の出来事を脳裏に描く。
 確かに、自分はあの男を誘って。そして抵抗して。頬を張られて、一人取り残されて――
「……っ」
 ――あれは。
「あ、あれは……」
 ついに、シンタローの目尻から、ポロッと涙が零れ落ちた。
 ずっと今まで、泣かなかったのに。
 涙はシンタローの紅潮した頬をつたい、一度堰を切れば、あとからあとから流れ出すのだった。
「あれは……あれはぁ……っ……」
 アンタだったから。
 俺は、真夜中のマジックが、本当のアンタなんだと思ったから。



「どうして泣くの」
 何も言わずに、声を殺して涙を零すシンタローに、マジックが静かに尋ねてくる。
 涙の狭間で、掠れる声で、シンタローは詰るように答える。
「……アンタが優しくしてくれねえから」
 少し間を置いて、今度は困ったような声が、聞こえた。
「どうやったら、お前は泣きやんでくれるの」
 シンタローは答える。
「っ……アンタが、優しく……してくれたらっ……」
「私が優しくしたら、泣きやむの」
 それには答えず、シンタローはただ、こくんと頷いた。
 ふっと髪に、相手の手を感じた。撫でられているのだと気付いて、それもひどく久しぶりのことなのだと気付いて、シンタローの目からは、また透明な涙がぽろぽろと零れ落ちた。



 頭を撫でられて、涙はやがて止まった。
 シンタローは、たどたどしく話し始める。濡れた黒髪、静かな浴室、二人きり。洗い場の床に漂う淡い光。
 まだアルコールが体内に巡っているから、話は前後したり、とりとめがなかったりする。でも、なんとか説明できたのは、こんなことだ。
 日本酒を飲んで、寝入ってしまったマジックが、突然ハードボイルドな人格に豹変したこと。
 高松に話を聞いたところ、その姿は、マジックの隠された願望であるのではないかと言われたこと。
 それから自分は、作戦を開始したこと。
「作戦って、何」
 身を起こし、それまで黙って聞いていたマジックが、そこで初めて口を差し挟む。
 彼の大きな手は、シンタローの頭に置かれたままだった。そのことに安心しながら、シンタローは答える。
「作戦は……サクセンなんだっての」
「だから、どんな作戦なの。それを教えなさい」
「う……」
 シンタローは、浴室の床にぺたんと座り込みながら、口ごもる。視線を泳がせる。



 ――本物のマジックの、隠された願望。
 普段は、絶対にマジックに、その心の底のことは聞くことができないシンタローであったから。
 酔ったマジックを前にして、シンタローは、これぞ彼の本心を探る絶好のチャンスだと考えたのだった。
 あまりに真夜中を一緒に過ごす時間が楽しかったから、こんなに自分が素直に応対できるマジックが新鮮だったから、つい行き過ぎてしまった面もあったのかもしれないのだけれど。
 シンタローは、当時考えたことを、もう一度想う。
 ――真夜中のマジックが、俺に興味ねえってコトは、本物のマジックも、心の底では、俺に興味ねえってコトかもしんないじゃんかよ。
 俺は。俺、本当は……この……。
 シンタローは、ぐっと前を向くと、目の前にいる人を見つめた。
 このマジックが。大元の、一番の問題なんだ。
 俺。アンタが俺のこと、本当は、どう思ってるのか、気になって。
 しかしそれも、容易には口にしかねる事実だった。
 だからシンタローは、こう言ってしまう。
「さ、作戦ってーのはな! アンタの弱点知るための作戦なんだよ!」



 相手の溜息が聞こえる。はあ、と一つ、深く。長い余韻。
 その呆れたような響きに、何か言い訳をしなければならないような気になって、シンタローは焦った。
「あんだよ! なンかおかしーかよ!」
「私の弱点ねえ……」
「そーだよ、弱点! 悪いかよ、ヘンかよっ!」
「私の弱点を知って、お前はどうするつもりだったの」
「ぐ……どーするって……」
 そう問われて。はたとシンタローは口を閉ざす。
 弱点、というより。自分はこの男のことを知って、どうするつもりだったのだろう。
 今さらながらに考え込んでしまう。
 例えばその知識を利用して、マジックを苛めてやるとか。利用して、こっちが優位に立ってやるとか。
 そんなことが、自分はしたかったのか。
 でも。よく考えれば、自分は日本酒に関しては、マジックに対して、それに近いことはもうやってしまったのだ。
 そして苛めるよりも、もっと楽しいことがあったので、そちらに夢中になってしまった。
 ――マジックを苛めるよりも楽しいこと。



 夜の中。星空の下。
 一緒にいて、二人の秘密を楽しんで、自分はマジックの隠された一面を知っているんだぞと、ウキウキして。舞い上がって。
 真夜中は秘密。二人の関係は、夜霧の隠す『ひみつの仲』で、『しのぶ恋』で、マジックと自分は確かに何かを共有しているのだと、胸を高鳴らせていた。
 一体自分は、何が楽しかったのだろう。
 シンタローは目を瞑り、あの夜たちを脳裏に描き、今度は自分が静かに溜息をついた。
 そうか、俺。
 ――マジックと一緒にいるってことが、楽しかったんだ。
 真夜中の楽しさの秘密。
 俺……。
 マジックと一緒に、マジックの秘密を知ってるってことが、嬉しかったんだ。
 俺はこいつのこと、知ってどうする、とかじゃなくって。
 ただ、知りたかったんだ……。



 黙り込んでしまったシンタローに向かって、マジックはまた、『私の弱点、ねえ』と呟いた。
 先ほどと違って、その声が、なぜか寂しそうに聞こえたから、シンタローは、ぱっと目を開く。口も開いた。
「だって! らって、アンタ、俺にいつも肝心なことは何にも言ってくんねえから! 弱点だってわからねえんだよ!」
 相手は少し驚いたような顔をした。
「……前よりは言ってる。何も言ってないなんて、そんなことはない」
「それでも言ってねえ! パプワ島に行く前がゼロだったんだ……から」
 胸をよぎることが多すぎて、シンタローはふっと言葉を弱める。
 目の前は、マジックは、心なしか目を伏せ気味にした。
「言わないのはお前だって同じことだろう」
「何が!」
 強気な答えを返しながらも、やっぱり相手は寂しそうな表情をしていると、シンタローは思う。



 マジックは言うのだ。
「私は、お前に好きだって、毎日言ってるじゃないか。少なくとも、こういうことが判明する前は、毎日言っていた」
「そっ、そーいうコトじゃねえだろ! 話をすりかえんな!」
「同じことだよ。お前は好きだって、私に言ってくれないじゃないか。同じことだよ……これは同じことなんだ」
 沈黙が落ちる。
 やがて、
「……そ、そのかわり……」
 二人の間に落ちる陰を破ったのは、シンタローだった。
「アンタ、俺の過去、全部知ってんじゃねえかよッ!」
「……」
「なのに、なのに……」
 シンタローは、肩を落とす。たまらなくなった。
「お、俺の方は、アンタの過去、全然知らねえ…」



 天井からぴちゃりと水滴が、二人の間に落ちる。
 今、二人はわずかに体を離し、湯の香の中で見詰め合っている。体を離したといっても、ひどく近い距離だ。
 床に座り込んでいるシンタローは、少し身を動かし、ジェルでぬるついた肌を不安に思う。
 感情の高ぶりに、頬は熱くなったまま。まだ発しきらぬ快感のくすぶりに、頭の芯はぼやけたまま。しこたま摂取したアルコールは未だ彼の全身を、酒気の薄いヴェールで覆っているのだ。
 ただ、その黒髪にかかる手の重みを、感じている。
 ――マジックの手。
 ふっと、その重みが消える。軽くなる。
「……ッ」
 我知らず不満そうな表情を、シンタローは浮かべてしまった。間近にいる男に、非難の視線を向けた。どうして手を引っ込めたのかと。
 視線の中で金髪が揺れて、すっと男の青い目が細められる。薄い唇が動いた。
「過去、なんて」



 静かな声。
「私の過去なんて、お前が知っても面白くないことばかりだよ」
「そういう問題じゃなくって!」
 声を荒げるシンタローに、相手は眉を上げただけで答える。
 もどかしい。どうすればこの気持ちが伝わるんだろう。自分の激情に対して、相手の冷ややかさが憎らしかった。
「とにかく! そういうの、不公平だろ……なんで俺ばっかりアンタのコト知らなくて、アンタばっかり俺のコト知ってんだよ! ずるいだろ、そーいうの、ずるいじゃねえかよッ!」
「年齢差があるから仕方ない」
「いや、あのな! そういう当たり前のことじゃなくってな!」
 焦るシンタローの声は、抑揚のない響きで遮られる。



「その分、私はお前より早く死ぬ。そして私は、お前が私の過去を知らない分、お前の未来を知ることができない」
「……!」
「ちっとも不公平なんかじゃないよ。時間は公平にできている」
 息を飲むシンタローの目に、映る陰影。どこか諦めたような、達観したような男の瞳。
「そんな私たちなんだから、すれ違っても当たり前なのかもしれないね……」
「……」
 なんで。なんで、そんなこと、言うんだろう。
 シンタローは、寂しくなった。一度引っ込んだ涙が、また目の端に盛り上がってきた。
「ぐっ……」
 堪えようとしたのに、涙は頬をつたい、顎をつたって、ぽとりと手の甲に、雫となって零れ落ちる。
 自分たちが一緒にいられる時間は、短いのに。
 何をどうして、こんなに喧嘩ばかりしているのかと思う。



 シンタローは、相手の顔を見る。その顔は、自分なんかよりも遥かに冷静であるように思えた。
 マジックは、平気なのだろうか。そればかりが気になる。
 この問題は、シンタローにとっては、はがゆくてならないことであるのに。
 どうにもならなくて、悔しい。こんなことを気にしているのは、俺だけなんだろうか。
 こうして自分たちは喧嘩ばかりをして、短い時間を使い切ってしまうのだろうか。
「……ふっ……」
 情けない。そんな自分も情けなかったし、酔いで涙もろくなっていることだって情けなかった。
 ふと今度は頬に、くすぐるような感触がした。マジックの指だった。
 シンタローの涙がぬぐわれて、その指を濡らした。引っ込めて、また差し出して。どうしてそんな気まぐれなことをするんだろう。
 だったら、最初から俺に手なんて出さなきゃいい。
 でも、なんだかその指を感じていたら、ますます泣きたくなった。



 声が聞こえた。
「お前は私の弱点を知りたいという。私の弱点を知って、一体何になるというんだ」
 シンタローは、濡れた睫をしぱしぱさせた。答えようとする。
 しかし、涙に篭った声は、喉の奥で掠れる。上手く言葉にならない。
「う……ア、アンタの、じゃじゃじゃ弱点……」
「じゃじゃ馬はお前」
「茶化すなっ! お、俺は、真剣なんだよっ! くぅっ……」
 アンタにとっては、何でもないことなのかもしれないけれど。俺はこんなに真剣なのに。
 真剣に、悲しいのに。それでもカッと頭に血が昇った。
「わ、悪いかよ……」
 また涙が零れ落ちる。あとからあとから零れて、止まらなかった。
「俺は知りてえんだよ! 弱点でも何でもいーから、知りてえんだよ! これからアンタとどんだけ一緒にいられんのか、わかんねーけど! でも一緒にいる間、アンタのこと何でも知りたいんだよ! 悪いか! 知りたいだけっていうの、悪いのかよ!」



 落ちる涙はどうしようもない。胸の奥から切なさが込み上げてきて、透明な液体の形となって空気に触れる。
 漏れる嗚咽。食いしばる歯も役に立たない。情けない俺。
「ぐ……くっ……」
 手の甲で目尻を拭う。喉がひくひく震えて、裸の肩が頼りなく揺れる。
 もう大人なんだから、人前で泣いたりなんかしない。特別な人を除いては。
 シンタローが泣くことができるのは、あの南国の島の小さな友人、パプワの前と。
 この男、マジックの前でだけ。



「今のは……」
 幼い子供みたいに鼻をすするシンタローに向かって、マジックが言う。
「遠まわしな告白なのかな」
「ち、ちがわい!」
 条件反射で否定してみたものの、明らかに外観はそうで、シンタローは今さらながらにそのことに気がついて焦った。
 頬がますます熱くなる。恥ずかしい。
 うー、あー、と口をぱくぱくさせる。でも、上手い言い訳が思いつかなかった。
 すると、ふわっと体が浮くような感覚がして、あっと思った時には、前のめりに相手に引き寄せられていた。



「わっ! たっ!」
 正面から抱きしめられて、シンタローはこれも反射的に暴れようとした。
 暴れようとして――止めた。振り上げた拳が、しおしおと地に落ちた。不思議なことに、身体から力が抜けていった。
 抱きしめられた感覚に、相手の腕の力の懐かしさに、悪態をつこうとした口が、ふにゃりと歪んだ。
 肌と肌がぴったりと密着して、そのことに惑う心が真っ白になる。
 抵抗しないシンタローの背中に爪をたてながら、地に響くような低音がマジックの唇から零れ出た。
「お前は」
 シンタローは目蓋を落として、その声を聞いている。
「私がどれだけ『愛してる』と言ったって、お前はいつも気のない顔で」
 金髪の男はシンタローの左の首筋、なだらかな筋肉のついたその場所を、爪先でつうっと撫でた。
 かつてあの和室で、マジックが噛み付いた場所。傷は癒えたが、痛みと恐怖の記憶が蘇り、シンタローはぞくっと肌を強張らせる。
 同じところに、刃物を当てられたような鋭利な感覚。再び噛み付かれたのだと気付き、額に冷や汗がつたう。
 ぎりぎりと喰い込む歯。たまらずシンタローは悲鳴をあげる。
「痛い! 痛い痛いイタイ!」
 肌を突き破る寸前で痛みは消え、ふっと楽になる。あの時と違って、きっと新しい傷は残らない。
「かと思えば、こうして私に近寄ってくるんだ。追えば逃げる。避ければ、尻尾を振ってこちらを窺う。一体お前は。お前は、何なんだ」
「痛……かった……」
「お前は何を考えているんだ。私が不安になったって仕方がないだろう」
「……う……」
「不安になるさ。なるよ」
 またシンタローの目尻に、じわりと今度は生理的な涙が滲んだ。
「……」
 涙目で見つめるシンタローに、マジックは溜息をついた後。
 そのシンタローの濡れた黒髪をかきあげ、長い指で、顔に貼りついた毛先を綺麗に分けてやる。それから、こつん、と額と額を合わせた。
 そして言う。
「馬鹿な子だね。私の弱点は」
 間近で吐息がかかる。
「お前だろう…?」



「……」
「言ってよ…」
「……っ」
「お前があの時、言いかけた言葉を、言ってよ」
「……くっ」
「遠回しじゃなくって、はっきり、言って……」
 甘い囁きが、シンタローの耳朶をくすぐって、優しく指で頬をなぞられて、もうどうにでもなれと思う意識を、必死に寄せ集める。
 流されそうになる心を、叱咤して。
 シンタローは、懸命に口を動かす。このことは言っておかなければいけないことだった。
「……ア、アンタ、俺が言おうとした時、止めた癖に……」
 あの時、京都清水寺で、俺は言おうとしたのに。あの言葉を、言おうとしたのに。
 『す――』までしか、言えなかった馬鹿な思い出。
 口を塞いで止められなかったら、俺は最後まで言えていたのだろうか。
「アンタが、」
 そう相手を責めかけて、ふと彼の顔を見て、その時シンタローは。マジックが、自分と同じ悲しみを抱いていることに気付いたのだ。
 自分の黒い睫と、金色の睫が触れ合って、相手が目を閉じたのがわかる。息を抜くような静かな呟き。
「すまなかった……」
「こんの……自分勝手……」
「あの時は聞くことが恐ろしかった。自分がお前を信じられるか不安だった」
 相手のことが愛しくてたまらないのに、信じることは怖い。
 知りたくてしょうがないのに、一緒にいたいのに、背を向けてしまう。
 矛盾。同じ悩みを、俺たちは抱えている。



「ッ……」
 急に、荒々しく肩が掴まれた。シンタローは身をよじる。乱暴なのは、イヤ。
 するとぐいと頭が引き寄せられて、唇を塞がれた。驚いたように黒髪が散る。
「ん……っ」
 シンタローの縮こまる舌は追いかけられて、絡め取られ、ついには先を吸われる。逃げても逃げても追ってくる。
 俺は、マジックが追ってくるのがわかっているから逃げるのかもしれないと、シンタローはぼんやりと考えている。
 逆もまた……そうなんじゃねえのかな……。
 捕まった舌が軽く噛まれて、意識をそこに集中していたら、すうっと油断している裸の腰が撫でられて、つま先がぴくんと震える。
 くらくらした。ずるい、と思う。
 シンタローに言うことをきかせようとしたり、頼み事をしたりする時のマジックは、いつもこうだ。
 俺がキスに弱いと思って。



 シンタローの膝は細かく震え、縋るようにマジックの背に腕をまわす。おそるおそる伸びたその腕は、いつしか強くぎゅっと相手にしがみついていた。
「……ひゃっ」
 マジックの手が、今度は敏感なうなじを撫で上げて、ついシンタローは色気のない声を出してしまう。全身の肌が総毛立った。ずれた唇は、再び性急に塞がれる。
「ふっ」
 歯列をゆっくりとなぞられて、舌裏をちろちろとまさぐられる。翻弄される。
 再び息が上がり始めている。下唇を甘噛みされて、シンタローは思わず鼻を鳴らす。
 すると、今度はやけに優しく、唇の端を舐められた。
 慣れた営み、口付けで緩む意識と共に、どこか安心を感じて、シンタローの心はじんとする。潤んでいく。
 キスは好き。最後は必ず優しくなるから、好き。
「……ん」
 そっとマジックの唇が離れ、うっすらと開いたシンタローの瞳に、間近に青い相手の瞳が映る。わずかに糸を引く唾液の糸。
 肌を這うような相手の息が首筋に触れて、はあ、とシンタローは声を漏らす。
 漏らした声に、重なる低音。
「言ってよ……」



 ――私のこと。
 ――お前がどう思っているのか、言って。
「今度はもう、邪魔しないから。お前のこと……信じるから」
 長かった。頬を叩かれてから、こうなるまでに、長い時間がかかった。
 俗に三顧の礼という。一度目は日本、二度目は買い物、そして三度目が浴室の今。
 シンタローの誠意がマジックに通じる時が、やっと来たのだろうか。
 熱い息を吐くシンタローに向けられるマジックの表情は、真剣そのものだ。もうあの表情のない顔はしていない。
「勝手だと思うだろうね。でもお前があきらめないで、一生懸命に、私に向かってきてくれて、私にはそれが驚きで、嬉しかった」
「……ばかやろ」
「お前は、すぐに私のことなんか嫌いになって、何処かへ行ってしまうかと、思った」
「ほんとに、馬鹿だ、アンタ……」
「こんなに追いかけてなんかきてくれないと、思った」
 馬鹿だ。
 シンタローは、繰り返す。
 この男は馬鹿だ。俺も馬鹿だけれど、それに輪をかけて馬鹿。
 そんなはずねえだろ。やっぱりわかってない。



「ねえ、言ってよ」
「……バカ」
「シンタロー。言って……」
「……ばーか」
 アンタだって、本当は。アンタが逃げたら俺が追ってくることなんて、とうの昔にわかってたんじゃねえのかよ。
 わかってンのに、何でそんなコト言っちまうの。
 だからさ、俺たち、いっつもケンカになるんだぞ。
 ――バカ。
 薄灯りに染められた浴室内は静まりかえり、しっとりと水気を含んだ空気は二人をまろく包んでいる。
 互いの造る陰影の中で、抱かれた身体と抱く身体のひどく近い距離で、愛撫のようにマジックとシンタローは言葉を繰り返す。
 ふと沈黙が落ちた。ややあってシンタローの唇が動く。
 ゆっくりと、戸惑うようにだ。
「……き」






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