真夜中の恋人
「……き」
漏れる声。そして静寂。
間があって、また同じ言葉が、シンタローの唇から零れ落ちた。
「……き」
また、間。
それから、
「き」
「……」
「き」
「……」
「き」
「……あのね、お前ね」
ついに痺れを切らして、マジックが聞き返す。
おかしいな、私には一音しか聞こえないんだけれど。お前はなんて言いたいの。
「え? なに?」
首をかしげるマジックに対して、シンタローは大声で言い放った。
「き!」
「えええ? 何だって、シンタロー?」
「き――!!!」
「何だってー! シンタロー!」
「き――――――――――――!!!」
「き――――だぜ、こんちくしょう! ああそうだ、悪いか! 俺が悪いってのかぁ!」
シンタローの黒髪が逆立って、瞳がメラメラ燃え始める。
「何! 一体、なに! 何を逆ギレし始めたの、お前はっ!」
「前のと合成しろよ! しやがれよ!」
シンタローは、トマトみたいに真っ赤になった顔で、眉を吊り上げて、横一文字に唇を引き結んだ。
そして思いっきり叫ぶ。
「き――――――――!!!」
『き』。
前の『す』と合わせて、一つの言葉を読み取れということらしい。
しかしマジックは、大変に不満なようだ。こちらも負けずに眉を吊り上げて、シンタローに突っかかってくる。
「どうしてバラバラに言うの! なにそれ! 私は今、すっごく期待してたんだよっ! 期待してたんだから!」
「いいじゃねえかよっ! どういう言い方しようと、俺の勝手だろ――っ!」
「折角なんだから、ちゃんと言ってよ! 今度こそだと思ったのにー!」
「だから言ってやってンだろ! き――――――――!!!」
「ひどいよ! ひどいよ!」
「そ、そーだ! 暗号だと思えばいいだろ! 軍人だしイイじゃねえかっ!」
「そんな軍人は全滅させるね! ああもう、ちっともよくない! ちゃんと言ってよ! シンタロー、くっ、お前って子は!」
ああ、ああ、とマジックは天を仰いでいる。浴室の天井は、無情にも押し黙る。マジックの嘆きにも耳を貸さない。
彼は、ばん、と濡れた床を叩いた。シンタローに迫る。
「しかも合成ってどっち! 『すき』か『きす』か、どっち!」
「あーもーこの際どっちでもいいっての! 勝手にしやがれ!」
「どっちでもよくない! 『きす』は『すき』でなくてもできるけど、『すき』は『きす』も全部まとめてついてくるっていうかね、とにかくお前ね、」
「なんだとう、てめー、さっきのキッ、キスは、好きでなくてやりやがったのかぁ――! とんでもねえ野郎だァァ! ええい、そこに直りやがれ――ッ!」
「そんなこと言ってないでしょ! 落ち着いて! シンタロー!」
「アンタが落ち着けっ! だっ、だいたい、らいたい、なあ、あんたは」
「まーだ酔ってるだろう、お前は! この酔っ払い!」
「バカにすんなぁ! おりゃあ酔ってねえ――! ひっく」
「絶対酔ってる! ほらこんなに目も頬も赤いもの! 興奮するとろれつが回ってないもの!」
「うっさいうっさいうっさーい! ンなの大して変わンねーだろうがっ! きす、だろーが、すき、だろーがぁ、」
ギッ! とシンタローは相手を見る。言う。
「いいかぁ、アンタはどうか知らねぇがな! 俺にゃあなぁ、キスだって好きだって、どっちも変わんねえんだよ!」
ばん、と今度は自分が床を叩いて、シンタローが言い切ると。
マジックは呆気にとられた顔で、はあはあぜいぜい息を切らしている黒髪の彼を見つめた。
シンタローは、今、何と言ったのかと反芻している様子だ。
――キスと好きは、一緒。
好きだからキスするし、逆に好きじゃなかったら、キスしない。
シンタローが今言ったのは、そういうことなのだ。
「……シンタロー」
あんだよ、と噛み付きそうな顔で、黒髪の青年は目の前の男を威嚇するように睨む。
「……そこまで言うなら、普通に言った方が早いのに……」
「ああん?」
斜に構えたシンタローに、マジックは慰撫するように囁きかける。
「ねえ、シンタロー。じゃあね、じゃあ……」
その頬を触る。耳朶を指でくすぐる。
「さっき私にキスしてくれたのは、好きだから?」
「ああ――ん? ンなの自分で考えやがれ! 引退して時間なんて余りまくってンだろっ! おかしなファンクラブで荒稼ぎするよりもなーあ、もっと俺のコト考えやがれ!」
「えっ……『俺のコト』って」
「ばっ、ばっか、そーいう意味じゃねえ! 勘違いすんナ! アンタってすーぐ勘違いするよな!」
怒った様子をしながらも、シンタローは懐かしさを覚えている。
なんだか、いつもの二人に戻ってきた、と。
「……シンちゃん」
その瞬間、シンタローの胸が、どきりとした。そう呼ばれたのも、一体どれだけ振りのことなのだろうか。
「シンちゃん」
優しく呼ばれて。どき、どき、と心臓が震える。
シンちゃん。いつ、お前は私に、『好き』って言ってくれるのかなあ。
そう口にして、マジックはふっと笑った。
やけにその顔が寂しそうに見えて、シンタローの胸は痛んだ。
「シンちゃん。じゃあ言わなくっていいから……正しかったら、キスしてよ。キスを頂戴」
「……」
「お前はキスで、私に『好き』って言ってくれてるってことだよね」
シンちゃん、と呼ばれることには。大人になってからも呼ばれることには、どこか気恥ずかしさと、幼いころからそうしてきたという安心感と、二人の関係が甘いのだという特別感がある。
シンタローは、マジックに『シンちゃん』と呼ばれる瞬間が、愛しかった。いつも心の中で『ばかやろ』と思いながらも、相手のぬくもりを感じる言葉。
いつまで経っても、なくなっては欲しくはない呼びかけ。
「これは、これだけは、勘違いじゃないよね。シンちゃん」
甘い響き。マジックの声は甘い。今は二人っきりだから、恥ずかしがることなんかないのかもしれないけれど。やっぱり恥ずかしい。
こう聞かれるのは、恥ずかしい――
「お前は私のこと、好きかい……?」
「……」
逡巡の後。
好き、というかわりに。黒髪が揺れる。
マジックの低音は、心地よい。
俺。
――俺。
……体が、勝手に……。
どうして口は上手く動かないのに、身体はこんなにあっさりと動き出すのだろう。
ついにシンタローは、無言でマジックに抱きつく。
そして唇を、相手のそれに押し付けた。
同時にぎゅっと目をつむる。
不思議に、沈黙が続いた。
シンタローに唇を押し付けられたまま、マジックは黙りこくっている。身動きひとつしない。
てっきり喜びだすかと思ったのに、なぜか相手の反応がない。自分はどこか拙かったのだろうか。
少し不安になって、シンタローは片目を開ける。すると相手と視線が合って、合わさった彼の唇が斜に動いて、マジックがフッと笑ったのだとわかった。
驚いたシンタローは両目を開けて、折角相手の背に回した腕を振り解き、微妙に身を引いてしまう。
マジックは、そんなシンタローを見て、笑った。
「はは……はは、は、は……」
「……!」
「はははは……はははははは!」
「!!!」
なんだかヤバい気配を感じて、シンタローはじりじりと後退する。広い浴室の壁際に、移動しようとする。
しかし、簡単に捕まえられてしまった。
「ぎゃっ! な、離せよッ!」
「どうして。さっきはお前から近付いてきたのに。お前の気分は数秒単位で変わるんだね。困った子だよ」
「困った奴なのはアンタだろ!」
「やれやれ、猫の目みたいに、くるくると忙しいね。くっついたり、離れたり……」
両腕の手首の部分をあっという間に掴まれて、正面から抱きすくめられ、拘束された上に勝手なことを言われたので。
シンタローは非常に不満、の顔をする。この状況が気に入らない。鋭い視線で、マジックをえぐるように睨む。
すると相手はさらに言うのだ。シンタローの目尻を、指を伸ばしてなぞりながらだ。
「そう、その瞳。いつも睨むよね。私に挑むような光で、迫るよね」
「何が言いたい!」
くつくつと悪い笑みを浮かべたマジックは、何処かうっとりしたような目で続けた。
「ああ、私の言うことを聞かないお前に、ぞくぞくするよ。権力者なんて長いことやっていたら、万人が私の命令に服するような錯覚に陥るけれど。でも、それが間違いだって教えてくれるのがお前。そんなお前の、この憎たらしい唇がいいよね」
そう言ってマジックは、今度は、指でシンタローの唇の端をつねった。
「だっ、ちっきしょう、触んな!」
慌てて顔を手で押さえて、シンタローは身をよじる。
「あんだよ、このサド親父!」
「それにこの反抗的な声の調子がね。容易には屈服しないという気概が、とても魅力的だよ、シンタロー」
「勝手ばっか言いやがって!」
それから、一息、間を置くと。マジックは、そっと呟いた。
「……そんなお前が、私は好きなんだよ」
シンタローは、怒るのを止めて、目を見張った。
マジックの手が、なだめるようにシンタローの濡れた黒髪を撫でる。黒髪は鴉の濡れ羽のように淡くきらめいて、浴室の灯りを反射した銀色の雫を落とす。
金髪の男は歌うように言う。
「あの時も、ね。私が……コタローに攻撃された、哀しい時に……」
急にそんなことを言われて、シンタローは再び驚いてしまう。
マジックが言っているのは、まさに『あの時』だ。瞬間的にそう理解した。
自分が南国の島からサービスに連れ帰られて、監禁されているコタローを救い出そうとした時。
ぬいぐるみを抱いたコタローが、パパを殺すの、と言い切った時。
自分たち家族の断裂の時を、『あの時』は意味している。
シンタローは俯いた。黒髪が垂れる。
「あの時。お前は私を、攻撃からかばってくれたよね。言葉より行動で示してくれたよね」
静かな響き。二人の間に、染み入る過去。
自分たちは、完全には過去と未来を共有することはできなかったが、その逆に、共有している思い出もまた、無数に抱いているのだった。
シンタローとマジックは――その人生の多くの部分を、互いに共有していた。
重なり合う時間を、大切にしたい。それが今の二人にできる、精一杯のこと。
「あの時の私は、ただ驚いて……だってお前に嫌われていると信じ込んでいたから。立ち尽くすだけで何もできなかった。そして一度、お前を死なせてしまった。目の前で、死なせてしまった」
「……」
「もし、お前が私のことを好きだって……少なくとも、大事に思ってくれていると。ほんのちょっとでも、あの時、私に自信があったなら。お前が私をかばうことは、容易に予測できたはずなんだ。お前を見殺しにしてしまうことも、痛い思いをさせることもなかったよ。そのことを、ずっと私は後悔している」
「……」
「あの時、私がお前を信じられたなら。未来は変わっていたのかもしれないね」
勿論、子供の入れ替えやキンタローのこともあるのだけれど、問題を解決するための、もっと別の穏やかな方法が見つけられたのかもしれないのに。お前に辛い思いをさせる道を、結果的に私は選んでしまった。
ごめんよ。ごめん。すまなかったね。
そこまで言ってマジックは、最後にこう、付け加えた。
「でも、今。お前のお陰で、私は変わることができるのだと思う。ねえ、シンタロー。私がお前の愛を信じることができたならば。私はお前に何をしてあげられるのかな。そしてお前は私に、どうして欲しいの。それだけは、今、ちゃんと言葉で表現してほしい。これは贅沢な望みだろうか」
ああ、もう。限界だ。
シンタローは、口を開いた。自然に言葉が飛び出してくる。
「……もっと」
「もっと?」
キッと顔を上げ、訴えるように言う。
「もっと! もっと俺のコト、可愛がれよ!」
叫んでいると、頭がカッとしてきて、熱が体中に再燃して、もう叫ぶことしか考えられなくなってくる。
感情が、シンタローの胸の器から、みるみる溢れ出していた。
マジックの心の底からの言葉を聞いて、もう気持ちをとどめることはできなかった。
限界だ。シンタローは泣くように叫ぶ。ずっと、ずっと、俺は長い間。
「好きならなあ、アンタ、俺のコト、好きならなあ!」
長い間、俺は寂しくって。
アンタが俺のこと信じられないんなら、俺だって、アンタのこと不安に思うに決まってんだろ。
どうしてそんな寂しいままに、俺のこと、しておくの。
「なんで、あんで、俺のコト無視なんかしたんだよ! 無視なんてすんなよ……」
好きだとかどうとか、もう、そういう問題は越えてしまってんじゃないの、俺たち。
それなのに無視されて、俺は、とても悲しかったんだ。
だってアンタは。
「バカヤロー! オレのコト、かわいがれよ! やさしくしろよ!」
だって最初から、アンタは俺の目の前にいたんだから。そうしなきゃ、世の中間違ってる。
生まれた時から、アンタはずっと俺の側にいる。
「らんで、オレのコト、かわいがんねーんらよぉっ! いい加減に……しやが……れ……ッ!」
掠れる声。乱れる息。自分の鼓動の音に混じってシンタローの耳に、聞こえた言葉。
名前を呼んだ後に、それは心に滑り込んできた。
「……真夜中の私に、しなかったことを、して」
----------
二人が喧嘩する理由はいくらでもあったが、愛し合う理由だって、いくらでもあるのだった。
湿った息遣いの他には、今の二人の間に何もない。
「んっ、ん……」
「ここ、好きだよね」
「うっ……くっ……」
ぞろりと右の脇腹を撫で上げられて、シンタローは吐息を漏らす。背筋が反る。
反った背中に、檜の床のなだらかな感触が、少しひやりとして、見上げればマジックの身体の向こうに、おぼろげな天井が見える。
浴室の床に、シンタローは押し倒されているのだった。
相手に触られれば、自分の方から身体を擦り付けるのとはまた違った快感が、じわじわと奥から染み出してくる。
待ちくたびれていた燻る肌は、簡単にまた燃え上がり始める。
「……っあ、あ」
未だ残るジェルの滑りに、加速する熱。ぬるぬるとシンタローの腰を通り過ぎたマジックの手が、今度はなめらかな太股の内側を、ゆっくりと刺激して。
シンタローは鼻にかかったような声をあげた。性急かと思えば、焦らすように緩やかに。このマジックの愛撫の緩急が、シンタローにはたまらない。
慣れた身体は、面白いように反応を返してしまう。
「やっと私に弄ってもらえて、お前の体は喜んでいるんだねえ」
マジックが、舐めるようにシンタローの全身を眺めて、そんなことを言うから。
そのいやらしい口ぶりに、羞恥心を煽られて、シンタローは何とか口だけでも抵抗しようと試みる。
「ば……ばかやろっ……」
しかし相手はやけに綺麗に、薄く笑った。
「はは。無理無理。口ではどう言ったって、カラダは嘘はつけないよ」
そんな男を、シンタローは必死に睨もうとするが、焦点が揺らめいて、なかなかそれが上手くいかない。
「こ、この……い、意地悪……ッ」
「どうして。辱めればお前はもっと感じる癖に。可愛がるって、つまりはお前を一番感じさせることだろう。私はお前の言うことを実行しているだけなのに」
「ち、違っ……あっ! やっ!」
再び興奮を帯びて、頭をもたげ出したシンタローの中心を、指で掠めるようにされて、びくんと彼の全身は、魚のように跳ねた。
「はっ……ふ、う……」
熱い息に埋もれるように、シンタローは潤んだ瞳で、マジックを見上げる。
自分に圧し掛かり、両手で自分の身体を隅々まで蹂躙している男。その青い目を見つめていたら。知らず、喘ぎの中から言葉が漏れる。
「……アンタ、わかってんだろ」
きゅっと乳首を親指と中指で掴まれて、シンタローはマジックの下で、身をよじらせながら、切なげに続ける。
「あっ……俺が……ホントの浮気なんかするはずねえって……わかってんだろ」
「……」
「なあ、ん、んっ……アンタ……わ……かってて、スネてたんだろ…なあ……」
その懸命な問いには答えずに。
今度はシンタローの足首を掴んで高々と掲げ、脚の付け根から爪先までを、念入りに撫で上げながら。
金髪の男は、逆に問いを返す。
「……あの男と、何をしたの」
あの男、とは、真夜中のマジックのことなのだ。
ぼうっとした頭で、それでもそのことに思い当たると、シンタローはぎこちなく口を動かす。
「う。あっ、アンタ、どこまで知ってる!」
このマジックと、真夜中の彼の記憶が、どこまで連動しているのかも、シンタローにはよくわからなかったし。
それに、あの和室での夜のこと。あの日のマジックは、本物の彼だった。
どの時点から、本物の彼と、真夜中の彼とが入れ替わっていたのか。わからないことばかりだ。わからないから、事態は一層にややこしくなっていたのであった。
「……」
マジックは、端正な顔を歪めている。浴室の淡い照明が、彼の顔の造作に陰影をつけている。
「……知らないよ」
シンタローの身体を喜ばせながら、彼は静かに続ける。
「何も知らない」
「はっ……あ、ん……っ!」
「お前に騙されていたことを知ったのは、あの最後の一晩を迎える前の、朝のことさ。だから、和室で一緒に酒を飲んだ時のこと以外は、私は何も知らない。だから不安でたまらない。腹が立つ。焦燥に駆られる……」
そうだったのか。入れ替わっていたのは、あの日だけだったのか。
足指を噛まれて、シンタローは声をあげながら、そう思った。
ふと、マジックと視線が合って、
「……」
わずかの間があった後、その青い目に、こう尋ねられたのだ。
「言ってごらん、真夜中の私と、何をした」
はっ、はっと息を荒げながら、シンタローは導かれるままに、唇を震わせる。
「……だっこ……」
その瞬間にぐいっと抱き起こされてたシンタローは、相手の膝に正面から乗せられた。『だっこ』の形をとらされたのだ。
同時にシンタローの身体の芯に電流が走る。脳髄がスパークしたような白い光に、意識が占領される。
脚の狭間の最奥、後孔を、マジックの右の一番長い指で、貫かれているのだと知る。
「んくぅっ……ああああっ!」
マジックの指先が、萎縮したように狭まっているシンタローの内壁を、掻き回す。
まだ濡らしもしないのに。前触れもなしの攻勢。怯えて、ますます縮こまる内部。
シンタローは背筋を突っ張らせた。
やだ。痛い。入ってる。俺の中に、いきなり、コイツの指が、入ってる。
突然のことに、シンタローは泣くように訴える。
「ア、アンタ、変態ッ……! このサド……! 痛ッ……」
「あの男は、こうはしなかっただろう」
耐えるように眉を寄せるシンタローに、マジックは彼を膝の上で抱きとめたまま、こう冷酷に宣言する。
「お前を独占できるのは私だけだよ、こういうことができるのは、私だけだよ!」
痺れる最奥。こんな『だっこ』なんて。想像もしていない。
喘ぐことしか、できない。
「あっ……んっ、あう……」
幼い子供に、言い聞かせるような声。
「いいね、お前の所有者は、私」
不意に指を突き入れられたシンタローの最奥は、驚いたように、横暴な侵入者を締めつける。
薄い桜色をしたその入り口は、怯えで小さく震えている。ひどくやわらかくて繊細な、その場所。
「や……っ! ああっ……」
濡れてはいないその場所とは対照的に、透明なジェルローションがつたう腰から尻のラインが、扇情的だった。
ゆっくりと円を描くように、シンタローの内部を刺激する男の指。
その感覚の外で、シンタローは今度はやけに優しい声で、マジックが耳元で囁くのを聞いている。
「ここ、狭くなってるね……」
「ふ、あ……っ」
くちくちと入り口を広げるような指使いをするマジックに、シンタローは背を仰け反らせた。
「私以外は誰も使ってなかったんだ」
ひどく嬉しそうに、そんなことを言われて、ムカッと勿論のこと、腹を立てるシンタローなのである。
苦しい息の中、言い返す。
「あっ……当たり前だ……ろっ! 俺にこーいうイミ、意味で……っ! キョーミ持つバカは……あ、アンタぐら……い」
「本当にお前はわかってないね」
内部で。マジックの指の腹が、ぐりっと一点を掠めた時、シンタローの身体が、またびくりと跳ねた。
喘ぐ。
「ああっ……! あ……あっ!」
身体が、久しぶりの感覚に戸惑っている。
きゅ、きゅ、と出し入れされて、その度にシンタローは、ふ、ふ、と息をつく。黒髪が跳ねる。
意地悪く濡らしてもらえなかったから、マジックの指の節までがリアルに感じられて、それがたまらなくって、相手の肩に爪をたてた。
俺のこと、可愛がってって、言ったのに。
マジックはいつも俺の言う通りにしてくれない。
そう思いながらもシンタローは、その指の動きに翻弄されていく自分を自覚している。
頭がその指だけで一杯になる。動きを追わずにはいられない。擦られた場所が、熱を帯びる。
たった一本の指なのに。
「ん、んっ……」
しかしマジックは、すぐにその指を抜いてしまった。
「……マジッ……」
掠れた声で名前を呼んで、相手を見つめたシンタローに、マジックは言った。
「だっこ、だけじゃないだろう。他に、真夜中の私と何をしたのか言いなさい」
「……!」
どうしよう、と思った。
逡巡の後、シンタローは、ちらちらと窺うような素振りをする。
言わなきゃならないんだろうか。そんな雰囲気。誤魔化せない雰囲気。
「だ、だって、アンタ、怒るから……」
そう言って、上目遣いにマジックの顔を見たシンタローは、すぐに目を伏せる。
怒る。コイツは絶対に怒る。
だが相手は、冷たく言い放った。
「言わないと、もっと怒る」
そして命令するような口調で、さらに言い募った。
「シンタロー。正直に言いなさい」
見ればマジックの両眼は炯々として輝き、深い青に彩られていくのだった。
周囲の空気が変わる。冷えていく。
「正直に言えば、怒らないから」
ぐっ……コイツ、秘石眼、発動させてまで……ッ!
相手の目の光に気圧されるように、恐る恐るシンタローは口を開いた。
「キ……ス……した……」
ギン! とマジックの両眼が、さらに凄みを増して、シンタローは身を引きたいと思ったが、腰が相手の腕に、がっちり捕らえられているのでそれは叶わない。
「……ッ! さっき、キスは好きな相手としかしないって言い切ったのに! 真夜中の私とはやっぱりしてたのか!」
「う……あ、あのな……」
こう言われてしまえば、形勢不利。確かにその通りなのである。
しかしシンタローの主観としては、一貫してマジック本人(と思っていた)とキスしていただけなのであるから、致し方ない。
だが反論しなければ、何だかヤバいことになりそうだったから。
「違うって! 親子のキス! あれはオヤコの限度でなの!」
何だか微妙な、だけれども真実を、シンタローは訴えてみる。相手は眉をピクンと動かした。
「親子のだって言ったってね、お前! お前のパパは私だろう! 親子キスの特権も、私にしかないの! それを他人に! いかに私とはいえ他人にッ!」
「だーかーら! 誤解だったっつってんだろ!」
「ぐ……くっ! お前の唇がっ……私以外の男に……ッ! 私だけど私以外の男にッ……!!!」
マジックは、本気で悔しがっている。
マズイ、と感じたシンタローは、慌ててさらに言い訳を考える。
「だ、大丈夫だっての! キスっつっても、ホラ、あーいうヤツ! えーと、そうだ、バードキス! クチ合わせるだけの……ほら、軽ーい……挨拶程度の……」
しかしそれは逆効果だった。
「なんだって! バードキッス! 小鳥みたいに! チュッチュチュッチュしてたんだね! チュッチュちゅっちゅ! それはもう、ちゅっちゅちゅっちゅと!」
「や……まあ……そ、そこま……で……や、やってねえよ?」
思わず語尾上がりになってしまう怪しいシンタローの発言に、マジックはますます激昂した。
「あああ許せない! とんでもなく許せないッ!!!」
「正直に言ったら、怒ンねぇって言ったじゃねーかよっ!」
「あのねえ!」
マジックはギリリと歯噛みをした。抱っこしたままのシンタローに、掴みかからんばかりの勢いだ。
「私としては、お前に手を出した人間は、即刻抹殺すると決めてるんだよ!」
「なんだとう!」
シンタローも、マジックの膝の上で、やや格好はつかないものの、負けずに言い返す。
「あんだよ、その独占欲! 勝手に決めんな!」
「ああそれなのに! 自分で自分を抹殺できないこの辛さ! だって死んじゃったら、シンちゃんをスリスリ抱き抱きできないからね!」
「だー! 俺はアンタとスリスリ抱き抱きなんかしねえ――!」
「なにそれ! さっきと全然言ってることが違う! しかも抱っこされながらその台詞! こーの気まぐれっ子!」
「気まぐれなのはアンタの方だ――――ッ!!!」
「いーや、お前の方が気まぐれ」
「違――うッッ!!! 絶対アンタ!!!」
「いやいや、シンちゃんが」
「がー! 違うっての!」
「いやいやいや……」
「だーかーら……」
「〜〜〜……」
「〜〜〜……」
ぜい……ぜい……。
これも久しぶりの際限のない水掛論争に、シンタローが肩で息をしていると――まだマジックの膝の上に乗ったまま――、同様に少し疲れたらしいマジックが、ぽつりと言った。
「……とにかく。今までのお前の話を総合すると」
「総合すんな」
息ある限り、口を挟まずにはいられないシンタローであるが、マジックは構わず続けた。
「つまりお前は、あの男とのキスでは、舌は入れなかったと」
「アンタの興味は、そーいうのばっかかよ!」
怒りながらもシンタローは、目元をますます赤くした。
まあ……そういうことに……なるの、かな……。
ずい、とマジックが、身を乗り出した。
「それなら私が舌を入れれば、ヤツを越えたことになるってことだね!」
「て、てめー! 即物的なんだよっ! もっとそれとなく言いやがれ!」
「それとなくって何! くっ……即物的だろうがなんだろうが、私は勝つ! あの男に勝つ! 絶対勝ぁ――つ!」
すっかり闘争心を燃え上がらせているマジックに、シンタローはどんどんと危機意識を募らせる。
こういう風に彼をはりきらせると、ろくなことにならないことは、豊富な経験上、嫌というほど知っているのである。
なんとか彼をクールダウンさせようと、シンタローは必死になった。
「第一アンタ! さっきすでに舌入れやがったじゃねえか! もういーだろ、気がすんだだろっ」
「さっきはさっき。今は今。気なんて、一生済むもんか!」
「あああ――ん? 一生気がすまなかったら、どーすんだよっ! どーしようもねえだろうが! あのさぁ、アンタもうガキじゃなくって、いいオヤジなんだからさ、どっか適当なトコで妥協点図ろうぜ……もっとさ、大人に」
「決まってるだろう! 気がすまないから、私はお前と一生キスし続けるね! それも舌入れてね! 濃厚にね!」
「うーわー! 軽くおっそろしいコト宣言しやがった!」
「きーめた! 100歳になっても75歳のお前と毎日ディープキッス、それが私の人生計画」
「そんなの来年の正月とかに書初めしやがったら、承知しねーからナ……」
ちょっとシンタローが、そんな未来を想像して青くなったり赤くなったりしていると。
「じゃあ今から、壮大なる人生計画の1ページ目を、開くとするか」
「? っ! んんっ!」
「黙って……」
すっと相手の影が落ちてきて、唇を、ふさがれてしまった。
「んッ……! ムッ……」
キスに弱いと、言われてしまうのが悔しくてたまらなかった。。
シンタローは、いつも、無意識につむってしまう目を開こうとしたり、意識に立ち込めてくる白い霧を払おうと、別の関係ないことを考えたりしようとするのだけれど。
「ふ……」
相手の、まるで午後の日差しのように、一瞬で口内に入ってくる温い舌だとか。歯列への巧みな愛撫だとか。触れ合う相手の胸の温もりだとか、抱きしめられる腕の強さだとか。
様々な刺激が合わされば、それらは溶けそうな痺れへと変化して、ぞくぞくと腰の方へと抜けていくから。
不思議なくらいに簡単に、熱に浮かされてしまう。口内を犯す侵入者の思うままに、操られてしまう。受け入れることに、夢中になる。
マジックの唇が優しくて、うっとりしてしまう。
「まだ、あるんだろう……」
しっとりと唇を合わせながら、マジックが低い声で囁く。
指で耳朶を引っ張るようにされて、キスにのめりこんでいたシンタローは、やっと彼に話しかけられていることに気付く。
「んっ……む……?」
「教えて。抱っこと、キス以外に。まだ、真夜中の私とやったことって、あるんだろう……?」
何とか言葉を繋ぎ合せて、シンタローは。息の合間に、小さく答える。
「んんぅ……も、もぉ……な……い……」
「嘘をお言い。お前が嘘をつく時は、いつもこの瞼が、ぴくっと動くんだ」
そう囁いてマジックは、指でシンタローの右目の上を、すっと撫でる。
「……っ」
「ほら。今も、ぴくっとした」
「……ん」
「ねえ、何をしたのか、教えて。でないと私は、もう生きてはいけないよ……」
「ん」
「酷い子だね、お前、酷い子だね……教えてくれないなんて、意地悪だ……」
「んん」
「ね、だから言って」
甘い雰囲気に流されて。またシンタローは、正直に言ってしまうのである。駆け引きに慣れたマジックが、キスを多用するのも道理であった。
シンタローは、熱い息を吐きながら、とろんとして濡れた唇を動かす。声が漏れる。
「あ〜ん、した……」
「……『あ〜ん』って……?」
再び剣呑な空気が流れ出しているのに、シンタローは気付かなかった。気付かず、鼻にかかった声で素直に説明までしてしまう。
「ん。食べさせあいっこ……」
「へーえ、食べさせあいっこかぁ」
「ん」
「それは……楽しそうだねぇ……?」
シンタローの頬が、ふにゃりと緩んだ。
「んん、楽しかっ……」
「た! って言うつもりかいお前わぁぁぁぁ!!!!!」
「? ……!」
言葉の合間に与えられていたキスが急に奪われて、何事かとシンタローはビクッとした。
そしてワナワナ震えているマジックの顔を見て。夢から醒めたみたいに、瞬きを何度もして。おぼろげながらに現状を把握して。
自分が座っている膝からだって、その振動が伝わってくることに遅ればせながら気付いて。膝から、さりげなく降りようとしたのだけれど、勿論、全然さりげないことなんかなくって。
また、がしっと腰をホールドされて、マジックに捕まってしまうのである。
「お前……お前っ! お前ねぇっ!」
「……でっかい声、出すなヨ」
ふてくされた顔で、シンタローは言った。
マジックはますます大声になる。わんわんと浴室に、響き渡る。
「大きな声も出すよ! 『あ〜ん』を! お前はあの男と、食べさせあいっこしたというのかっ! ぐっ……くぅぅぅ〜」
「落ち着け。な、落ち着け?」
「いいかい! それはお前が幼い頃からの、私の専売特許だったはずだよ! お前の可愛いお口に食べさせて! ぱくんって、お前はっ! ああもう、そんな思いできるのは、私だけだったのに! 私だけだったのにぃ〜〜〜〜!!!!!」
「あのなぁ、そんな小さい時のことを、ぐちぐちと……」
「大きくなってからも、むしろ今だってしてるじゃないか! エッチした後のぐったりしたお前に、ベッドで、よく食べさせたり飲ませたりしてるでしょ! あれは私だけに与えられた至福の瞬間なんだよっ! それをお前は! お前はあ!」
「ぐっ……! ンなコト、口に出して言うなぁ――!!!」
つい恥ずかしい日常を言葉にされて、ここは二人っきりなのにシンタローはどぎまぎした。誰も聞いちゃいなかっただろうなと、思わず周囲を見回す。
カッコイイ総帥の俺様が、こんなことしてるなんて、他のヤツらに知られたら。面目丸潰れ。
そんなシンタローの様子には構わず、マジックは悲しげに首を振った。
「いくらね! あの真夜中の私が! いくらハンサムでセクシーかつ可愛いとこもありーの、ダンディなエレガントナイスミドルだからって! それはひどいよお前! いくら私だから仕方ないにしても!」
「自分で言うな」
「くう〜! ああ、お前が私の殺し文句と流し目と、ジェントルな振る舞いにメロメロになるのは仕方ないにしてもだね! ああもう、それは私じゃないのに! 私であって私じゃないのに!」
「うわぁー、なーんか腹立ってきたぞっと」
こっちこそ、ああもう、なのだ。折角なんだかいい感じだったのに。
シンタローは、騒いでいるマジックを前にして、ほうと溜息をついた。
すると唇に、たった今までしていたキスの余韻が残っていることに気付いて、人差し指でそっとなぞってみる。
久しぶりのキスは、やっぱり、なんか、気持ちよかった。
「……あーあ……」
マジックが、あのままキス続けてくれれば、俺は、その、つまりいわゆるまあ穏便に、普通にその、やることやってやらんでもないのに。
俺、ああいう普通にならいいっつうか、まあ、その、なんだ、そのあのあれなのに。
ホントに、どーしてこう、ヘンな方向へ、面倒くさい方向へと、流れていくんだ。コイツ。そして俺。
だからさー、俺がさー、あのハードボイルドで渋いマジックにキュンとしちまったのも、仕方ねートコあるよなー。
コイツにも反省すべき点あるよなー。コイツさ、そーいうのわかってんのかなー。
そんな想いに浸りながら、シンタローがマジックの延々と続く嘆きなど聞かず、他所を向いてぼんやりしていたら。
「だからね! ということで!」
ばん、と急に強く両肩を叩かれて。
「あ?」
思考を邪魔されて、ムッとしたシンタローが、悪い目つきでマジックを睨み返すと。
いやに金髪碧眼の男は、晴れ晴れした顔をしていたのである。問題解決! といった表情で。
そして、うんうん頷きながら、明るく言った。
「そんな訳でね。私は、抱っことキス同様、あ〜んの食べさせあいっこでも、ヤツを越えて見せるよ! 安心して、シンちゃん!」
「ああ〜ん? なぁにが、安心しろだ……」
シンタローが、そう言い返そうとした瞬間に、ぐるりと世界が反転した。
「……ッ? なっ、な……ッ!」
ありていに言うと、マジックと正面から向き合っていたシンタローの体が、まず後ろ向きにされて、背中を押さえつけられて突っ伏すかたちにされて、腰と足とを、さっさと寝転んでしまったマジックの顔の方に、ぐいっと引っ張られた。
自分が上でうつ伏せ。マジックが下で、仰向け。
自分の顔が、相手の下半身の側にあって。相手の顔が、自分の下半身の側にある。
これって。この姿勢って。つまり。
数字の6と9とが向き合うかたちっていう。
シックスナ……。
冷や汗が、つうっと首筋を流れていった。
シンタローの下半身の方から、男が何やら言っているのが聞こえる。
「それでは、シンタロー。大人の食べさせあいっこ、しようね」
「……〜〜〜〜〜!!!」
シンタローは、声にならない悲鳴をあげた。