真夜中の恋人

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 こうして、二人で酒を飲んでいるのである。
 なかなかグラスに口をつけようとしないマジックに、シンタローは、『ホラ、飲んでみろよ!』ときつく目で促す。
 シンタローは、彼を見張っているつもりなのだ。
 きっちり飲ませてやろうと思った。普段の意趣返しである。
 これが普通の人間相手なら、苦手な酒を強要なんてしないシンタローであるのだが、何しろマジックは普通の人間なんかじゃない。
 これぐらい、ざまあみやがれなのである。
 シンタローはこれまでの自分の日常の苦労を思い、心の中で舌を出した。
 マジックは、透明な水面から視線をはずし、やれやれ、というように肩を竦めている。
 そして、シンタローに向かって、小さく笑うと。静かに、硝子の縁に、薄い唇をつけた。
 すぐに彼の喉が動いて、冷たい液体が嚥下されるのがわかった。
「……」
 何となく。その様を眺めていたら。
 シンタローは落ち着かなくなって、自分の長い黒髪に指を巻きつけたりして、それから。
 自分も、ぐいっと酒を飲み干した。



 いい酒だった。
 唇と舌が触れると、甘く澄んだ痺れが、ふるりと揺れる。染み渡っていく。
 酒はじんわりと身体を流れ落ちて、燃え上がるというよりも、まどろみのような熱でシンタローを満たしていく。
「……美味いだろ?」
 そうシンタローが、側の男に聞くと。同じ熱をその瞳に漂わせた相手は、『ああ』と言って、こちらに視線を向けてくる。
 彼の濃い眉とすっきりとした鼻梁が、緩やかに部屋の灯りを受けて、その目から額の辺りが、うっすらと青みがかって見えた。
 シンタローは、彼の視線を受けて、重々しく頷いた。
「だろォ?」
 硝子の中で氷が揺れて、からからと鳴った。



「だからな、おっし、もっと飲め! 俺様が酌してやるってんだ、もっと飲め!」
 一升瓶から酒を移した、これも江戸切子の徳利に、シンタローは手を伸ばし、相手のグラスにしきりに酒を注ぎ入れる。
 そしてマジックの、少し困った顔を眺めて、にんまりと笑う。
 楽しい。なんか、こういうの、楽しい!
「もう、シンちゃんは嬉しそうだなあ」
 相手も、そんな声を出しながら、まんざらでもないようだ。
 シンタローが注げば注いだ分だけ、大人しく杯を飲み干している。
 何だ、なんともないんじゃんと、シンタローは拍子抜けもし、ちょっと愉快な気持ちも湧いてくる。
「へっへ、ナンだよ、アンタ、日本酒もイケるクチじゃんかよ」
 すると相手も、にっとこちらを見る。
「私ばっかりじゃ悪いから、ほら、お前もどうぞ」
「お、悪いな、さんきゅ」
 そうやって機嫌よくシンタローは、マジックに酌をさせている。
 ほのかな酔いも手伝って、シンタローは本格的に楽しくなってきてしまった。
 彼は元来が明るい質で、賑やかにやるのが好きな性格でもある。
「おっとっと」
 と、自分が杯を揺らして零れそうになった酒の、水面に口をつける。
 ごくんと飲んで、相手が手を止めているのを目ざとく見つけると、『ほら、飲め! 飲めったら!』と催促する。
 しばらくシンタローが観察していた所では。マジックは、自分が言えば、杯は飲み干すのだが、自分からはあまり口をつけたがらない様子が、見て取れた。
 やはり苦手なのだろうと、シンタローは改めて感心した。
 こいつにも、苦手なもの、あったんだなあ……。
 こーんな、傍若無人でワガママのエロ親父で己の欲望に関しては無敵の超アホで鉄面皮のメーワク極まりないヤツにも……。
 ああ、なんか今日、俺、感動した。感動。しみじみ。
 だから、シンタローは強要する。
「おい、飲めって! 今日は日本酒で俺に付き合うって、さっき自分で言ったろ! 飲め!」
「はいはい。シンちゃんはこわいこわい」
 シンタローは、今まで味わったことのない充実感に、身を震わせていた。
 拳を、ぐっと握り締める。
 やべェ、俺、超イキイキしてるッ!



 肴は、作り置きにしておいた小アジの南蛮漬け。
 揚げた小アジを、赤唐辛子や南蛮酢風の酢醤油に漬け込んだだけのものだが、簡単なのになかなかイケる。
 それと、軽く空豆を胡麻油で炒めて、山椒と塩をまぶした、おつまみ。
 それらをテーブルに並べ、つつきながら、二人は酒を飲む。
 控えめな美しさを放つ和硝子の酒器が、淡い輝きを湛えている。
「シンちゃん……さっき、さ」
 注ぎ注がれて。
 シンタローとマジックが、かなりの数の杯を重ねてから、他愛のない会話の中で。
 そんな響きが聞こえる。
「あれって、ひょっとしてヤキモチやいてくれたのかな」
 シンタローは、ぴくりと黒眉を吊り上げる。もう反射的動作である。
「ああん? 何がだよ」
「パパが日本酒苦手なのを、『なんで俺に秘密にしてたんだよっ』って、怒ってくれたこと」
「ば、ばっか……ゲ、ゲホッ」
 突然の攻撃に、酒にむせて咳き込むシンタローに。自然な動作でマジックは、シンタローのかけている長椅子、その隣に移動してきて、すうっと手を伸ばしてくる。
 息を詰まらせて、シンタローはマジックを見る。
 何だか自分を見つめてくる彼の青い瞳が、うっとりした色を湛えていた。
 羽織っている白絹のガウンの胸元から、男の鎖骨のラインが見えた。
 すんなり自分の肩が抱かれてしまっていることに気付いてしまう。
 ……えっ、まさか、もう酔ってる訳じゃないよな? いつものこいつだよな? これ!
 シンタローは思わず逃げ腰になりながら、慌てて怒鳴る。
「アホかっ! ンなワケねーだろっ! ただ、ただ、俺は、アンタの弱点、知りたかっただけ! 嫌がらせしてやろーと思ったの! お、おい、杯がカラじゃねえか! もっと飲め! もっとっ!」
「もっと飲んだら、もっと優しくしてくれるのかなあ、お前は」
「はあ? わっ!」
 強い力でシンタローの腕が掴まれて、ぐいっと引き寄せられて、相手の唇が、シンタローの手にしている赤い杯に触れる。
 シンタローの酒を残らず飲み干してから、マジックはシンタローをゆっくりと見上げる。
「シンちゃんのお望み通り、ちゃんと飲んだよ。優しくしてくれる?」



「チッ……」
 この甘い雰囲気が、イヤだ。
 そう、シンタローが舌打ちするかしないかの瞬間。
 ちゅ、と先に音が聞こえて、後から唇に濡れた感触がした。
「わっ! わわっ!」
「ふふ。やっと、キス、できた。唇に」
 隼のように、キスが掠め取られた。
「か……勝手にすんな!」
 ほんのりと酔いで赤くしていた頬を、ますます赤くしてシンタローは、憎らしいほどに常のまま、白い顔をした男を、キッと睨みつける。
 そして、ゴシゴシと唇を擦った。
 手の甲が、酒で濡れた。
「擦っちゃ駄目じゃない。じゃあ、シンちゃんの杯も空っぽになっちゃったから……今度は二人一緒に注いで、飲もうか」
 マジックは、図々しくシンタローの身体に覆い被さりながら、左手で流線型の酒器を掴み、器用にグラスに酒を注ぎいれている。
 身の危険を感じて、ずりずりと長椅子の端に、尻をずらして逃げようとしているシンタローである。
 しかし相手がこうなれば、獲物を捕らえて放す訳がないことも、長年の経験上知っている。
 マジックは、酒を口に含んでいる。
 うっすらとこちらを見て笑っている。明らかに狙いを定めている。
 ア、アンタ!
 シンタローは悲壮な声を、心中であげた。
 アンタ! 日本酒、苦手なんじゃなかったのかよ――――ッッッ!!!



「ん!」
 シンタローの後頭部に手が当てられて、ヤバイ、と思った瞬間には、唇が塞がれていた。
 男に圧し掛かられて、長椅子に押し付けられて、やはり相手の唇は濡れていた。
「んん……んっ! んん!」
 シンタローは抵抗しようと、相手の胸に手の平をあて、押し返そうとしたのだが。
 急に、自分の首筋が、冷たい指先で、なぞられて。
 感触にビクリとして、シンタローの口元の力が思わず緩むと。
 その隙を狙ってマジックの舌が、まるで蛇のように入り込んできたのだ。



「ふ……ンッ……」
 シンタローが身を捩る。
 相手の舌を伝って、自分の口内に、とろとろと液体が流し込まれてくる。
 酒だ。
 二人で一緒に注いで飲もう、とマジックが言ったのは、こういう意味だったのかと、シンタローは憎らしく思った。
 冷たい酒は、うっすらと温まって、やわらかな舌触りがした。
 くちゅくちゅと水音がして、シンタローは、それはマジックがわざと音をたてているのだと思う。
 舌が絡まる。マジックの舌から自分の舌へ、雫が伝う。
 注ぎ込まれる酒。それは、どんどんと自分の口に溜まっていって、もう苦しくて、飲み込むしかなくなって、シンタローの意識はそれで一杯になってしまう。
 溢れた透明な液体が自分の顎の輪郭を伝って、胸元を零れ落ちていく感触がして、シンタローの産毛が逆立った。
 舌先を悪戯っぽく噛まれて、身体が跳ねる。
 ぞくりと、背筋に覚えのある痺れを感じている。
「ん……ん……」
 限界まで、シンタローは我慢したが、ついに。
 こくり。
 喉を鳴らして、口内に満たされた酒を飲み込んだ。
「……っ」
 眼前がぼやける。
 それでも酒は、ゆるやかな熱となって、全身に染み透っていく。
 飲み込みきってしまうと、今度は唇がリアルに、マジックの唇を感じた。



 しばらくシンタローは、酒の水面に漂うように、その感触に浸っていたのだが。
 相手が、すっと唇を離して。
 嬉しそうに、『美味しかった?』と尋ねてくるに及んで。
 ハッ! と我に返り、どんと相手を突き飛ばした。
 長椅子の一番端まで慌てて後退し、牙があったら剥き出すような剣幕で、マジックを牽制した。
 相手は、のほほんとした顔で、こう言っている。
「あれ? 気持ちよくなかった?」
「だっ……だーれがっぁぁ!!! 寄るな! 自分の席に戻れッ! 戻れぇぇ!」
「そうかなー、気持ちよさそうな顔、してたのになあ」
 金髪の男は不満そうだったが、それでも大人しく自席に戻り、何事もなかったかのように、箸で肴をつまみだす。
 シンタローは、まだ彼を不信の目で見遣りながら、自分の胸を手で押さえた。
 どくどくと心臓が波打っていた。
 思う。
 ヤベェ、ヤバイ、ヤバかった! 危うく流される所だったぜ!
 『シンちゃんは雰囲気に弱い』を証明してしまう所だったと、シンタローは自戒する。



 くっそ、騙されねーぞ!
 俺は雰囲気になんかに、騙されねえ!
 俺はマジックなんかに、騙されねえ!
 ファ、ファンクラブとかって、世界中のアホがマジックに騙されたって、俺だけは騙されねえ――ッ!
 シンタローは、昼間見た贈り物の山を思い起こしながら、そう心中で気炎を吐いたが、くらりと微かに視界が揺れる。
 マジックを潰してやろうと、それに付き合って俺も結構、飲んだから。
 俺、強い方なのに。
 う……俺、酔ってるのかな……いい酒は、強いのが多いっていうけれど。
 ちらりとマジックの方を窺ったが、そんな自分の視線を予期したように、相手はいつもの不敵な笑みを浮かべてきたから。
 シンタローは、何だコイツ、日本酒、苦手なんかじゃねえじゃないかと、ますます腹を立てたのだ。



 今。
「……」
 シンタローは油断なく男に目を走らせながら、長椅子の縁、凝った造りの肘置きに背をつけて、新たに酒を注いだグラスを揺らしている。
 マジックが、肴を摘むために箸を伸ばせば、ぴくりと反応し、その動きを見張っている。
 まったく、とシンタローは怒っていた。
 呆れる程に危険な男である。
 一挙一動に気をつけておかないと。油断も隙もないのだ。



「いいか! 俺の半径1mに入るなよ! ダメ! 急にキスしてきた罰!」
「ええー。ぎゅう〜ってしちゃダメなの? そんな! パパ、世界征服に走りそう。シンちゃんに冷たくされたら、悪の道に非行に走りそう」
「フー! 何だその言い草はァァ! 俺のせいだってのか! アンタがオカシイの、俺のせいだってのかああ!」
「んもう、冗談なのに、すーぐ本気にするんだから! ただ、パパが非行に走ったら、正義の味方のシンちゃんがお仕置きしにきてくれるかな〜と思って、ちょっと誘惑に駆られただけだよ! シンちゃんがお仕置きしてくれるなら、マジックのMは、マゾヒズムのMも甘受するけど、どうだい、この提案」
「却下! 却下却下却下!!!」
「そうか、ヤンキーって手もあるなあ……シンちゃんのお仕置き狙いは! ヤンキーになるには、スーツの背中に、『本気と書いて本気津苦!』とか『新太郎命!』とかラメ入り刺繍すればいいの? 刺繍はパパの得意技だよ! あとあと、中腰でガンマ団本部の前とかに座って、煙草吸えばいい? 斜め上空を意味もなく見上げるんだよね、想像するに。ちょっとそういうカルチャーは興味あるよ。ああ、考えると矢も立てもたまらなくなってきた! 本格的にアメリカの知人に習いに行こうかな……」
「恥ずかしさのあまり俺を入水させるような構想を、真剣な瞳で述べるなァァァァァ!!!!!」



 いつもの言い争いの後。
 警戒を強めたシンタローが、側に寄ってこないからだろうか。
 第一級警戒態勢なのだ、自業自得である。
 手が寂しいらしく、しきりに肴を摘んでいたマジックは、『あ、ごめん、なくなっちゃった』と箸を置いた。
 そして、機嫌を取るように言った。
「シンちゃんの料理は、美味しいから」
 ム、と、クッションを盾のように抱き込んでいたシンタローは、唇を引き結ぶ。
 ……騙されない、と思ったばかりではあるが。
 一番の趣味である料理を褒められるのは、嬉しくないこともない。
 しかもマジックは、一応は料理の先達であるから、そんなこともあって嬉しくないこともないったらない。
 ま、事実だしナ。俺の料理が美味いのは。



「ケッ。もっといるか? 南蛮漬のやつ」
「ああ、頼むよ」
「べっつにアンタに食わせるために作ったんじゃねーのになー。バクバク食いやがってよ!」
 シンタローは抱えていたクッションを長椅子に置くと、立ち上がり、口を尖らせながら冷蔵庫に向かった。
「シンちゃんの趣味が料理で良かった。私も好きな方だけれど、まあ、私の一番の趣味は、シンちゃんだからね!」
 そんなふざけた台詞が後ろから追いかけてきたが、綺麗に無視する。
 勝手に言ってろ。
 バタンと冷蔵庫の扉を開けながら、色々な買い置きの食材が目に入り、新しい肴でも作ってやろうかとふと思う。
 しかし、そんなことをしてやれば、マジックが喜ぶのは明白であった。
 なんだか、さっき急に唇を奪われた手前、それは悔しい。
「……もう時間遅いしな……やっぱやめた」
 あんなヤツには、作り置きの肴でも、十分すぎるのだ。
 奥からタッパーを出してきて、中身を皿に盛り付けて、ちょっと考えてから。
 シンタローは今度は冷凍庫を開けて、氷を取り出した。
 まあ、これくらい、もう一杯新しく、みぞれ酒を作ってやる、ぐらいなら許されるだろう。
 ……許される?
 誰に?
 ……俺の、矜持に!



 そうやってシンタローが大股で、わざと音を立てながら長椅子の方に戻ってくると、何だか、雰囲気が違った。
 シンタローは、目を丸くして口を開けた。
「……めっずらしい」
 マジックは、一人掛けのソファに凭れて、眠り込んでいたのである。



「おい……おい、ちょっと、アンタ」
 マジックの瞼は、シンタローが呼びかけても、閉じられたままだった。
 穏やかな空気が、場を支配していた。
「え、寝ちゃったのかよ?」
 シンタローの言葉は、ぽつりと部屋隅に跳ね返って、消えていった。
 マジックは目を瞑ったまま、答えない。
 それでも、これは自分を油断させる相手の術かと思い、シンタローは警戒を緩めない。
 騙されねえ! 騙されねーぞ、俺!
 何しろ、マジックは日頃の行いが悪すぎるのだ。
 不審の視線を送ったシンタローは、試すようにして、手に抱えた、氷の入ったこれも硝子製のアイスペールを、かちゃかちゃと揺らして音を立ててみた。
 マジックの反応はない。
 小さく開いた窓の隙間から、一陣の風が優しく吹いて、男の長めの前髪を揺らしていた。
 その寝顔は、何だかそっと微笑んでいるように見える。
 幸せな夢でも見ているのだろうか。
 シンタローは、その肩に触って揺り動かしてみようと思ったが、やはり先刻を思い出し、不用意に触るのは危険だと思い直した。
 だから、念には念を入れるのは、無駄ではないだろう。



「おーい、アンタ」
 シンタローは、ちょっとマジックの耳元に近付いて、呼んでみた。
 返事はない。
 今度はシンタローは、もうちょっとだけ近付いて、呼んでみる。
「おーい、親父?」
 やはり返事はない。ただの酔っ払いのようだ。
「おーい。寝ちゃったのかよ? マジック!」
 彫りの深い造作は、ぴくりとも動かない。
「……よっし」
 意を決して。
 足を踏み出し、至近距離まで寄ってから。
 シンタローは、小さな声で、彼の耳元に、最終確認を行う。
「……父さん……」



 しーん。
 壁時計が、かちかち鳴っている。
「やっぱ、ホントに寝ちゃったのか」
 これで飛びついてこないということは、本当に眠っているということなのだ。
 やっとシンタローは安心して、ソファの背に頭を預けているマジックの周囲を、てくてくと歩いて回った。
「……」
 前から後ろから右横から左横から斜め下から、眺めた後。
 今度は、その正面に仁王立ちになり、腕組みをして、ふんふん眺める。
 マジックの灯りに輝く金髪から、その寝顔から、ガウン、その爪先までを、無言で眺める。
 背をかがめ、指先で、つん、と彼の頬をつついてみる。
 やはり反応がないのだ。
 こんな風にマジックが、先に酔い潰れて眠ってしまうのは、本当に珍しいことである。
 日本酒が弱点なのは、さては真実だったのかと、シンタローはまた感慨を深くした。
 再びシンタローは、体を斜めにしてみたり、しゃがんだり、背伸びして覗き込んだりしたりと、様々な角度から、マジックを眺めた。
 いくら観察してもし足りない。
 寝ている。本当に寝ている。すうすう寝息を立てている。酔い潰れて、眠ってしまっている。
 いつものあの瞳は閉じられて、明るい色の睫毛が伏せていた。
 こんな珍しいものは、滅多に見られるものではない。
 シンタローは、辺りをキョロキョロ見回した。
 明日は、夏の終わりに大雪が降るかもしれないと、シンタローは本気で心配してしまう。
 総帥専用車にスノータイヤを積んでおけと、朝、言わなきゃなと妙に業務的な思考をしてから。
 おおそうだった、こんな希少価値の高いモンは、グンマやキンタローにも見せてやらねばなるまいと、扉の方に足を向けかけて。
「……やめた」
 すぐに踵を返す。
 だって、もう真夜中だし。真夜中だし、あいつらもこんなモン、別に興味ないかもしんないし!
 それにそれに。
 ……ちょっと勿体ない。



 シンタローは、今度はマジックの側に座ると、持ってきた氷で自分用の酒を作ってから。
 マジックが美味しいと言った肴で、しばらくそれを飲んだ。
 目の前の物体を鑑賞しながら、飲んだ。
 この世の中で、自分だけしか見ることのできないであろう、酔っ払い覇王の姿ある。
 どうだ、見たか! 眠ってやがるけど、見たか!
 俺が潰してやったのだと思えば、気分は上々、ウキウキ痛快。
 勝った! 俺は、こいつに勝ったぞ!
 いつもの仕返しをしてやったのだ!
「へへ、大勝利〜〜〜!!!」
 そう、意気揚々と勝ち鬨を、静かな部屋であげてみたものの。
「……」
 杯を高々と掲げて立ち上がったシンタローは、ぺたんと尻を落して、無言で酒を口に含んだ。
 寝息を立てている相手を、横目で見ながら、しばし考えるに。
 相手の弱みにつけ込んで、勝ったといっても、どうもしっくりこないのである。
 ナンか……こう……。
 調子、出ねえなあ、俺……。
 ナンだよ、折角の仕返しし放題の、大チャンスだってのに。
 今こそ。コイツが眠ってる、今こそ!
 だが、美味かったはずの酒も肴も、何だか味がしなかった。
「チッ……」



 シンタローは立ち上がって、ベッドから毛布を取ってきて。
「……アンタ、風邪ひくぞ、こんなとこで寝ちまって……」
 マジックの身体に、それを掛けてやったのである。



「……あーあ、ほんと面倒くさいヤツ」
 眠るマジックに毛布を掛けてやったシンタローは、膝を抱えて、また長椅子に座り直した。
「手間のかかる! どーしようもないヤツだよ、まったくもう!」
 長椅子の縁の、肘掛の美しい木目を、人差し指でなぞる。
「……俺様じゃなかったら、面倒見きれねーぜ」
 そう、文句をひとしきり呟いてから。シンタローは、ごろんと寝転んで、柔らかなクッションを枕にする。
 もう酒も肴も、手をつける気にはならない。
 そうして、テーブルに置かれた二対のグラスの縁から漂う、酒の残り香に息をつきながら。
 今度はゆっくり瞳を遣って、シンタローは男を見つめた。
「……」
 マジックが本当に眠り込んでいる姿は、何度も言うようだがとても珍しいものであるのだ。
 普段は。
 シンタローが目覚める頃には、だいたいすでに相手は目を開けていて、自分を眺めているか、嬉しげに抱きこんで朝寝を楽しんでいるか、どちらかであることが多かった。
 きっとマジックは、自分の覚醒する気配を感じ取ってしまうのだと思う。
 こんな関係になる前からだって。
 幼い時からシンタローは、あまりマジックが本気で眠っていると感じたことはない。
 彼の眠りは、いつも浅い。
 自分が身動きすれば、すぐに相手も眠りの淵から覚めて、睫毛を動かす。
 そしてすぐに、『どうしたの』とか『眠れないの』とか、そんなことを聞いてくる奴だった。
 眠りが浅いか、眠った振りをしているか。
 ――そんな、生き方をしてきた人間なのだ。



 今、彼の常にない姿を前にして、視線を揺らしながら、シンタローはぼんやりと呟く。
「眠ってれば、大人しくていいのになあ……」
 その寝顔を見る。豪奢なソファの背に預けられた、その横顔。
 先刻、微笑んでいるようだと自分が感じたままの、ほんのりと幸せそうな顔で、マジックは眠っていた。
 何となく眺めていると、その口元が、小さく動いたような気がする。
「?」
 シンタローが、注視する中で、しばらくして、もう一度、唇が動いた。
 そのかたちを認識して、シンタローは思わず顔を赤くし、それから床に向かって、『チッ……チッ!』と二回続けて舌打ちをした。
 男の唇の形が、『シンちゃん』と、自分を呼んでいるように見えたのである。
 昔、『私はね、お前の側でだけは安心して眠ることができるんだ』と冗談のように言われたことを、何故か思い出した。
 こいつ……今……安心して、いるのだろうか……。



「……あ〜あ……」
 シンタローは今度は、酒器や肴が雑多に置かれたままの、テーブルに目をやった。
 一升瓶は残り僅かで、何だかんだで随分飲んだものだと思う。
 重ねられた取り皿の上に、箸が乗っている。揚げた空豆に敷いていた半紙が、油を滲ませて陰影を作っている。
 アイスペールの氷は溶けて、水に変わっていた。
 長椅子から手を伸ばしたシンタローは、爪の先で、自分が使っていた赤硝子のグラスを、小さく弾いた。
 どうも、片付ける気にならなかった。
 後始末は朝にして、今日はこのまま寝てしまおうと思う。
 そんな気分に覆われていた。
 明日はまた仕事があるのだ。
 なんてったって、総帥。だからな。
 俺はエライ。



「……さってと……」
 長椅子から立ち上がったシンタローだが、少し考えて、もう一度シャワーを浴びることにする。
 さっき、喧嘩しすぎて汗まみれになったのである。まったく迷惑なヤツ。
 それにこの、ほのかな酔いを、少し覚ましたかったのだ。
「と……とっと」
 ちょっと足元がふわふわしたが、あれだけ飲んでこの程度の自分は、凄いと思う。
 空気を入れ替えようと、もう少し余計目に窓を開けてから、しっかりと絨毯を踏みしめるようにして、シンタローは部屋備え付けの浴室へと向かう。
 最後に、ちらりと背後を振り返ったが、眠った男はそのままで、やはり静かに眠り込んでいるようだった。



 心なしか緩慢な動作で、シンタローは部屋着を脱ぐ。
 浴室に入り、蛇口をひねると、熱い湯がシャワー口から、ざあと降った。
「……」
 しばらく、目を瞑ってシンタローは、熱を感じていた。
 たちまちに自分の黒髪は湯を含んで、雫を垂らし、肌に幾筋もの透明な螺旋模様を描く。
 裸の身体を、熱く濡らしていく。
 濡れながらシンタローは、静かな湯の音を、聞いていた。



 やがて薄目を開けたシンタローは、ふと思い立って、今度は蛇口を逆にひねり、再び目を瞑った。
 今度は、はっとするほどに冷たい水が、シンタローの火照った身体を滑り落ちていく。
 酒として体内に飲み込んだ熱が、洗い流されていくようだと思った。
 まどろみのような酒の被膜が、一枚一枚、そぎ落とされていくような心地になる。
 健康的でなめらかな肌は、透明な水を弾いて、飛沫を作る。
 水は、滴る。
 長い黒髪を、顎の輪郭を、首筋を、綺麗についた胸や背中の筋肉のラインを、滑り落ちていく。
 シンタローは、まるで雨に打たれた野生の獣のように、頭を振った。
 ひとつの雫が浴室の淡い光を弾いて跳ね、彼の肩甲骨や、天然大理石の壁に跳ねて、床に落ち、無数の雫と一緒に流れていった。
 水音が響いていた。
「……ふ」
 ひんやりした壁に、シンタローは額をつけて、息を吐いた。
 息を吐けば、酔いが、熱が、浴びる水に溶けていくような気がしたのだ。
 息を吐く。
 心地よかった。



 彼は、もう一度、息を吐いた。
 その時だった。
 凄まじい爆発音がしたのは。



「なんだなんだ、敵襲か!」
 すわ敵対国の爆撃かと、シンタローは浴室を飛び出す。
 しかし飛び出した先は、静まり返っていた。
 依然として、時は真夜中、草木も眠る夜の国。
 耳を澄ませば、庭の方から、夜の鳥の囁くような鳴き声が聞こえてくるのみである。
 先刻の音が敵襲であるのなら、後に続く攻撃があるはずであるのに、一向にその気配はなく、さらには緊急事態を告げる警報も、作動していないのだ。
 第一、本邸上空に張り巡らしてある防御シールドを、少なくともレーダーに感知されることなしに、侵入者が突破できるものとは思えない。
 シンタローは、首を傾げた。
 冷たい水を含んだ黒髪が、揺れた。
 足元が、小さな水溜りを作って、濡れていった。



 電子音がする。
 シンタローが振り返ると、壁に備え付けられた電話の子機が、内線のランプを点滅させているのが目に入る。
 おおよその事態を察知してシンタローは、苦い顔で、受話器を取る。
 すぐにグンマの能天気な声が、聞こえてきた。
『いるぅ? シンちゃん!』
「いるから電話取ったんだろ……」
『起きてたぁ? シンちゃん!』
「仮に寝ててもあの音じゃ、目が覚めるだろ……」
 すでにこの時点で、どっと疲れているシンタローである。



『そっち大丈夫ぅ? そっちまで壊れてない?』
「は? いや別にここは何にも……って! 何した! この家に何したァ!」
『怒んないでよぉ、シンちゃぁん だいじょーぶ、僕が後で直しておくからぁ! ところで、おとーさま、そっちにいる? お電話しても繋がらなくって』
「後で直すってお前! お前が直すと、だいたいバカな改造されて戻ってくンだろォがァァ!!! あー……親父? いるハズねーだろ」
『じゃあ、おとーさまのお部屋に確かめに行こうっと』
「……と思ったが、もしかしたら万が一いるかもしれねぇ。冷蔵庫の中とか。後で探してみる。探してみるから、お前は行くな。いいな、行くなよ」
『あ、キンちゃんにかわるね〜 あのねぇ、シンちゃんのお部屋、無事だったってぇ』
『無事か、シンタロー』
「さっきグンマに無事だっつったろ!」
『俺は二度確かめたいのだ! 性分だ!』
「ってか、お前ら、この家に一体何したんだよ! 手っ取り早くそれを聞かせろ! またくっだらない研究やらアイテムやら作って、失敗したんだろ! たまーに役に立つものもあるよーだが、ってかお前らが貴重な経費の無駄使いを……」
『失敗はしていない。大成功だ! ただ少し核融合しすぎた。ちょっと家が半分吹き飛んだだけだ。命に別状はないようで何よりだ! だがいいか、当初のグンマの計画に俺が手を加えなければ、確実に家全部が吹き飛んでいただろう! いいか、家半分で済んだのは俺のお陰だ! 聞いているのか、シンタロー!』
「お……お前……ら……弁償だ……修理費はお前らの給料から弁償だ……!」
『後で元は取る。心配するな。一発逆転人生是万事賭事』
「いつの間にかギャンブラー! 今度はどんな本、読みやがったぁ! お前らのカバンは、検閲してやる! 絶対に検閲してやるからなぁぁ!!!」



 電話を切った後、シンタローは床に崩れ落ちた。
「……はぁ……ウチの科学者たちは……」
 夜通し研究開発に没頭するのはいいが、時たま、いや度々。
 変なことをやらかすのが始末に終えなかった。
 科学のことは、シンタローは門外漢であるため、口出しすることもできず、ただ彼らの開発を横目で眺めていることしかできない。
 とりあえず、経費節減を煩く言ってみたりもするのだが。
 なにしろ二人とも、経済観念が想像を絶しているので、シンタローはその思考に追いつくことができないでいた。
 例えばファミリーレストランで、ドリンクセットを我慢して、突然シャンパンを頼みだす感じ。そもそもメニューにねえよ。
 ……クソォ。
 シンタローは、床を拳で叩いた。
 節約してみせる……節約してみせるぜ!
 俺だけが、俺だけが! この家族の中で、俺だけが、正常な金銭感覚を持ってるなんて! この悲劇!
 夜の静けさと、家族の世知辛さが身に染みた。
「俺の背負う責任って、なんて大きいんだ……って、くしゃん!」



 と。
 四つん這いのシンタローは、一つくしゃみをした。
 ぽたぽたと黒髪から、全身から雫が落ち、冷水を浴びたばかりの肌が、ぶるりと震えた。
 ……寒い。
 そういえば、慌てて浴室から出てきてしまったから、裸のままなのだ。
 寒いことと。それに加えて、もう一つのことに、シンタローは気付いた。
 自分に投げかけられた異変。今すぐそこにある危機。
 ――影が。
 部屋の灯りを遮る、黒い影が。人影が。床に這いつくばっている、自分の身体に落ちている。
 嫌な予感がして。
「……?」
 シンタローは、おそるおそる、床に注いでいた視線を、ずらして。
 見上げた。



 そこに立っていたのは、マジックだった。
 彼はシンタローの側に佇み、見下ろしている。
 眠っていたはずなのに。
 さっきの爆発音で、目覚めてしまったのだろうか。
「ア、アンタ……あのさ……って!」
 シンタローは、現在の自分の状況に思い至る。
 全裸だった。
 全裸で。四つん這い。
 しかもシャワーを浴びたばかりの、これ以上ないくらいに、まな板の上の鯉状態。
 煮てよし、焼いてよし、叩いて……あああ、俺、混乱してるからって!
 まさにまさに襲ってくれのこのシチュエーション!
「ま、待て! アンタ、話せばわかる! 落ち着け! 話せばわかるッッ!!!」
 反射的に身体を防御しようと、シンタローは床に座り込み、視線で男を牽制しながら後退った。
「……」
 その様を見てマジックは、無言で、足を踏み出す。
 毛の長い絨毯が、しなる。距離が狭まる。
「うわっ、うわっ、近付くなァ!」
 慌てたシンタローは、背後に移動しながら、全身を緊張に震わせる。
 両の手の平を掲げ、押し止めるような仕草をするが、無論、何の役にも立たない。
 ぐるぐるする頭では、何とかこのピンチをしのぐ方法はないかと、必死に考えていた。
 ひやりと背中に固く冷たい感触がして、シンタローは、自分が壁に背をつけてしまったことに気付く。
 もう逃げ道はなかった。ごくりと唾を飲んで、上目遣いで、相手を見上げる。
 ゆっくりと、マジックの手が伸びてくるのが、見えた。
 シンタローは、目を瞑った。
 ヤバい!
 俺様!
 絶対! 絶命!



 しかし。目を瞑ったシンタローの肩に、何かが覆い被さる感触がした。
 ふわりと、乾いて。
 ――暖かい。
 シンタローは、きつく閉じた目を、そろそろと開けた。
 見上げると視界に、自分から去っていく男の背中が映る。自分の身体には、バスローブがかけられている。
 冷えた肌に、そのなめらかさが心地良かった。



「……?」
 シンタローは、バスローブの絹地を、しばらく握りしめたまま、呆然としていたのだが。
 どうしてだか理由はわからないが、自分は。
 ひとまず危機から逃れることができたのだと、やり場のなくなった手で、頭をかいた。
 そうすると髪の毛の冷たさにも気付いてしまって、シンタローはまた、くしゃみを一つして。
 ごしごしと、これもマジックが側に置いたらしい、タオルを使って、髪と身体を拭く。
 何がなんだかわからなくなった時は、機械的な動作をするのが一番なのである。
 そして立ち上がってバスローブを羽織り、きちんと固めに紐を縛り、濡れた絨毯の水分を拭き取ってから。
 やることがなくなってから。
「……」
 仕方なしにシンタローは、長椅子とソファのある、部屋中央へと足を踏み出した。
 油断なく、周囲の様子に気を配っている。
 まったく、何が起こるか知れたものではないのだ。
 ――マジックは。
 先刻、シンタローが開けた窓、その枠に手を掛け、外を見ているようだ。
 いつもより何となく、立ち方が斜めだぞとシンタローは思う。
 金髪の男の手には、青いグラス。残った日本酒を注いだのか、三分ぐらいの嵩で、水面が揺れている。



 シンタローが、わざとドンと音を立てて長椅子に腰掛けても、彼は窓の外を見たまま、振り返らなかった。
 何を眺めているのだろうか。
 変にそわそわしてしまったシンタローは、日本酒を割るために置いてあったミネラルウォーターの瓶の蓋を開け、グラスに注いで、一気に呷る。
 それでもマジックは振り返らなかったので、もう一杯、水をグラスに注いで、口に含んだ。
 喉を潤しながら、考える。
 なんだ、この雰囲気。
 なんだ、この間。
 依然として、静寂が満ちる部屋。
 しかし、しばらく経ってから、こんな声が聞こえてきた。
「フッ……夜空の星に出会うと、いつも私は願うのさ。弱く儚い、地球上すべての人々の幸せを……」



 ぶはあ!
 シンタローは、口に含んだ水を、思わず噴出してしまう。慌てて彼の方を見る。
「は?」
 耳が聞き間違えたのかと思った。
 そんなシンタローに向かって、マジックはゆっくりと振り返る。そっとグラスをかざしてくる。
「温い酒もいいものだね……冷たい罪に汚れた男には、普通の酒じゃ熱すぎる。そんな顔をしないで。解っているよ。自分の罪の深さのことはね……だからこうして、酒ですべてを飲み込まずにはいられないのさ」
「はああ?」
 男は静かに窓を閉めてカーテンを引くと、こちらに歩み寄ってくる。
 そして再びソファに座った。
 シンタローは、その動きを、ぼんやりと目で追っていたのだが。
「コーヒーを一杯、貰えないかな、シンタロー」
「へ?」
 突然そう言われて、夢から覚めたように、シンタローはマジックの顔を見つめてしまう。
 彼は、普段通りの顔をしていた。外見は、何の変わりもない。
 先刻と同じ。まったく同じ。酒を飲んでいた時や、襲ってきた時(とんでもねえ!)と同じ。
 だが……ナンだか。違和感。どうしようもない違和感。
 ナニ、これ?
 しかし。
 コーヒーを入れてくれって。
 そう静かにクールに言われると。
 ……。
 バーのマスターになったような気分で、シンタローはきょろきょろ辺りを見回してから、立ち上がった。



 サイフォンはしばらく使っていない上に、戸棚の奥にあったので、今回は手差しでいいだろう。
 とりあえずはシンタローは、部屋隅にある自分専用の小さなキッチンで、湯を沸かすと。
 マジックの目の前にコーヒーカップを二つ並べ、フィルターをきゅっきゅっと折りながら、横目で彼の様子を窺った。
 何となく逆らいがたい雰囲気があったし、時間を稼いで観察を深めようと思ったのだ。
 シンタローの視線の中で、男は、ソファで長い足を組んでいる。
 その胸の前に両手を組み合わせ、何かを考え込むような重い空気を背負い、目を伏せている。
 おかしい。ナンか、オカシイ。
 シンタローは、思う。
 だってだって、今だって。
 普段のコイツなら、さっきまでのコイツなら。
 俺のやることなすこと、全部を、そりゃ嬉しそうに眺めてるのに。
 今のコイツは。
 ……なんだか、クール。なんだか、ドライ。なんだか……ええと、なんつーの、これ。
 手動式のミルで、カリカリ音を立ててコーヒー豆を挽きながら、ちらちらシンタローはマジックの様子を観察し続ける。
 今までとは違った意味で、マジックの挙動は不審であった。



 シンタローが湯を注ぐと、挽きたての粉が、むくむくと盛り上がった。
 酒の香りの上に、コーヒーの芳しい香りが重なって、何とも言えない安らいだ空気を作り出す。
「……」
 シンタローが観察を続ける中で、マジックはどこから取り出したのか、葉巻煙草を口に銜え、それを指でなぞっている。
 煙草を吸う習慣なんてないのに、急にどうして。しかも普通の自動販売機で売ってる紙煙草じゃないぜ。いい匂いのする太い葉巻だぜ。
 何だ何だ、何がどうした。
 目を白黒させるシンタローに向かって、マジックが言った。
「余計な仕事をさせてすまないね。お前、もう寝るんだろう……これが終わったら、灯りを消して、ベッドにお入り。だが……あと少しだけ、私はここにいてもいいかな」
「はああああ?」
 これにも、シンタローは驚愕した。
 ここにいてもいいか、なんて!
 いつも無理矢理いるクセに! いるなっつってもいるクセに!
 そんで隙あらば押し倒そうと……って! えっ、俺一人で寝ろってこと? こいつが言うの? そんなコト???
 あーとかうーとか、とにかく何かを言おうとしているシンタローに、また言葉が降る。
「私はあともう少しだけ……この酔いに身を浸していたいのさ」
 マジックはそう呟いた後、シンタローに流し目をくれて、ニヒルな笑みを浮かべた。
「お前はコーヒーをついで、煙草に火を点けてくれたら……あとは私について全てを忘れてほしい」



 シンタローは、完全にあんぐり口を開けた。
 どどどどど!
 どおーしちゃったの! マママママママジックッッッ!!!!!
 オカシイ! これは本格的にオカシイ!!!
 俺に忘れてとかって、ありえねえ! しかもナンかどっかで聞いた台詞!
 いつもは俺が忘れようとしても、忘れさせまいとベタベタガンガンドカドカグイグイ自己主張をウザくウザくしてくる癖にっ!
 俺の行く手に、立ち塞がる癖にぃぃぃィィィィ!!!
 遊んで! 遊んで! シンちゃん遊んで! っていうのは、どこに消えた〜〜〜〜〜!!!!!
 ハードボイルド・マジックは、溜息をつくように言った。
「安心しておやすみ、シンタロー。お前には抱きしめて眠らなければならない過去なんて、存在しないのだから。そんな男は、私だけでいい」



 呆気に取られたシンタローは、混乱した時はまず機械的動作の法則で。
 震える手で、なんとかコーヒーを入れ終わる。カップを皿に乗せて、相手の方に押しやってやる。
 そして手元にライターはなかったので、どうしようと思っていると、相手はこれも何処からかマッチ箱を――何故か、マッチ箱!――を取り出してきて、自分で擦った。
 赤い炎が揺らめいた。それを大きな手でこごめるようにし、男は銜えている葉巻の切り口に、静かに自分で火を点ける。
 紫煙が、まるで細い糸のように、天井に立ち昇った。
 シンタローは、そのマジックの様子を、映画のワンシーンを見ているように、手が出せずに眺めている。
「……」
 それでも自分も熱いコーヒーを飲んで、シンタローは心を落ち着かせると。
 くつろいだ様子で葉巻を燻らせている相手に、努めて自然な様子で、尋ねた。
「つかぬことを聞くが……アンタの趣味は?」



 ん、とマジックは、良い香りのする煙の中、眉を動かした。
「趣味……酒と煙草なしには、生きては行けないね」
 えええええ?
 さっき! さっき、『私の一番の趣味は、シンちゃんだからね!』って言ってた!
 裁縫でもなくって? えええええ!
「そして……男なら誰でも抱く……孤独への愛、かな」
「!!!!!」
 絶句したシンタローは、次なる質問をやっとのことで捻り出し、何とか口を開く。
「それじゃあ、ちょっと思い通りにならないと、非行に走ると脅してくる、自称ナイスミドルな男をどう思う」
「世の中には、唇を噛んで耐えなきゃならないこともある。それに非行。穏やかじゃないね。その男に言ってやって欲しい。自暴自棄になって大切な物を無くす。そんな男たちを、私はもう見飽きていると」
「マジックって、何のM?」
「言葉遊びは好かないな。だが他ならぬお前の問いだから、答えてみよう。そうだね、マティーニ。マティーニのM。辛口にドライ・ジンとドライ・ヴェルモット、そしてオリーヴの実。カクテルはマティーニに始まり、マティーニに終わる。そんなカクテルの王の名とでもしておこうか」
 最後に、シンタローは聞いた。
「『パパ』と『パンダ』。これで連想するものはないか?」
「『パパ』は父親、『パンダ』は動物だろう。連想……そんな洒落た技は知らないな……」



 急にシンタローは立ち上がった。
 そして、おもむろに、だだだだだ! と部屋の隅っこまで走った。平らな壁に向かって、自分の印象を確かめる。
 マジックの奴!
 オカシイ! 絶対オカシイっていうか!
 どっちかと言うと。
 シンタローは、呆然とした。
 まともに、なってる……。



 背後で、マジックがソファから立ち上がる気配がした。
「……私がここにいると、お前は眠ることができないようだ。明日は早いんだろう。やはり私はここで失礼するよ」
 シンタローは、思わず振り向く。
 何か言わなきゃと、それだけを考えて。ちょっとの間、口をパクパクさせてから、やっと言葉が出る。
「っつーか! 俺はともかく! アンタは明日……っていうか、明日、マジ大丈夫なのかよ……」
「明日? そんな先のことはわからない」
「!!!!!」



 マジックは、部屋隅のシンタローの場所まで、歩み寄ってきた。
 目を丸くしているシンタローの額に、小さくキスをする。そして、瀟洒に微笑んだ。
「グッナイ。私の可愛い子猫ちゃん」
 身を翻し、立ち去っていく。
 シンタローは、そのまま男を見送った。
 その後姿には、哀愁が漂っていた。
 背中が、物語っていた。



 部屋の扉が閉まり、男が出て行った後でも、シンタローはそのまま立ち尽くしていた。
 男の残した紫煙の香りに、包まれていた。
 ヤ、ヤバい……。
 シンタローは、首筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
 ごくりと唾を飲む。唇が震える。思わず呟く。
「アイツ……カッコイイかも……」



 きゅん、とハートの鳴る音がした。
 シンタローは、正義の味方を自称するだけに。カッコいい俺様に、こだわりがあるだけに。男の美学やハードボイルドに、憧れていた。









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