真夜中の恋人

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 翌朝。
 遅くに寝たのに、なんだか早々と目覚めてしまったシンタローである。
 ううーんと大きく伸びをすると、カーテンから漏れる朝の日差しに目を遣り、チチチ……という鳥の声に瞬きをし、よっこらせと、すぐにベッドを降りた。首を回す。深呼吸をした。
 心地良い目覚めだった。



 自室の扉を開ける。
 最近凝り気味の両肩や首の根を――書類仕事が続いているのだ――、指圧するように揉みながら、とんとんと階段を降りていく。
 ふと、半ばまで降りた所で、すうっと頬に爽やかな風を感じて、シンタローは足を止める。ゆっくりと、風の吹いてくる方角に視線を移す。
「……」
 見事に、自分の家半分が消滅していることを確認し、シンタローは再び無言で足を踏み出した。
 愛すべき我が家は、玄関ホールから右半分が青空と瓦礫の山となり、太陽の光にキラキラときらめいていた。、
 開発課を半年間、営業に回してやろうかとも考えたが、それはそれで恐ろしいことになりそうなので、瞬時に諦めた。
 グンマとキンタローの営業って。どうよ。
 ああ、これだから、学者肌って……イヤ、何かが違う気がする……そういう問題じゃねえ……こうだ。
 ああ、これだから、青の一族って。
 諦め。
 青の一族として暮らしていくには、それが一番の秘訣なのかもしれないと、シンタローは自分を棚に上げて、そう強く思った。



 食堂には、すでに良い香りが漂っている。
 忙しい時は別として、働く息子たちのために、基本的には引退したマジックが朝食を作ることになっているのである。
 もう起きてやがるのかと、シンタローはキッチンを覗き込んだが、そこに人影はなく、和風の朝食の仕度だけができていた。
 居間を見てみると、そこには沈痛な面持ちをしたマジックが一人、安楽椅子にかけて、漆塗りの器で味噌汁を飲んでいる。
 何の気なしに、声をかけそうになって、
「……」
 はたと、シンタローは挙げかけた手を硬直させて、立ち止まる。
 このマジック。
 一体、どっちだ?



 マジックが睫毛を上げる。こちらを見た。
「……おはよう、シンタロー」
 そして、ずずず……と、また器の汁を啜った。
 香りからして、しじみ汁だなと、シンタローは見当をつけた。
 酔い覚ましに効果があるという、アレだ。
 気だるそうにガウン姿の彼は、整える前の金髪を、煩そうにかきあげている。



「おーよ、早いナ。なんだよ二日酔いか? へっへ、俺はピンピンしてるのになァ〜」
 そう返事を返しながら、シンタローは、不躾な視線を相手に送る。
 じろじろ眺める。
 ム……これはどっちだ? 外見はあんま変わンねーから、簡単には、わかんねーんだよ。
 普段の人格か、それとも昨日、急変してしまった人格なのか、どっちなんだよ。
 それを見極めようと、遠巻きにシンタローは、マジックの安楽椅子の周りを、うろうろと歩く。
 相手は珍しく疲れた様子をしていて、そんなシンタローの素振りに構う暇はないようである。
「うん……頭痛がするよ。やはり私は日本酒がどうも体に合わないらしい……」
 ここまでは、まだ見極めがつかないのである。
 だが、付け加えて、彼はこう言った。
「シンちゃん……弱ってるパパを看病して……パパ、パパ……シンちゃんの愛があったら、直ると思う……」



「……」
 くるりと踵を返して、シンタローは男を無視し、キッチンに入った。
 自分の分のしじみ汁をよそいながら、かなり、がっかりしている。
 あーあ……。昨日のは、夢だったのかなあ……。
 ちょっとカッコよかったのに……また異常に戻ってる。
 しばらく戻らなくても良かったのに……。



 熱い椀と箸を手にして戻ってくると、マジックはわざとらしく、幅広のローソファに右肩を下にして、横になっていた。
「シンちゃーん……パパに優しくして……」
 やたら甘えた声で、手を伸ばしてくる。
 うわ、ウザ。
 シンタローが、その様子に気付かない振りをして、側の一人掛けのソファにどかりと座って、汁を啜りだすと。
 今度はマジックは頭痛がすると言ったのに、どこ吹く風の熱い視線で、シンタローの様子を見守ってくる。
 なんだか、うっとり。なんだか、蕩けそうな青いまなざし。
 ウザ! ウザウザウザッ!
 少し頬を赤くしたシンタローは、その顔をしかめながら、汁を味わっている。
 ……まあ、しじみ汁は、美味い。それは認めてやる。俺も狭量じゃないからナ。
 そういえば昨日、真夜中のマジックになかったものは、この熱い視線だなと、シンタローは頭の中で反芻している。
 あーあ……何だったんだろう、あれ……こんなんじゃなくって。
 クールだったよなあ……ハードボイルドだったよなあ……男の美学。
 器を空にした後も、シンタローは、しばらくぼんやりと回想に浸っていたのだが。
 ふと思い立つと、隣で相も変わらず自分に熱視線を送っている男に、ムッとした調子で聞いた。
 そうだった。そう簡単に、この男を信じてはいけないのである。
 俺は騙されないのである。
「念のために聞いておくが。アンタの趣味は……?」



「んん? なになに? シンちゃん、なになに? パパの趣味?」
 構ってくれると思ってか、マジックは、ずいっと身を乗り出してきた。
 男の見えない尻尾が、ぱたぱた振られている。好き。好き。シンちゃん、好き。
 ますますムッとしたシンタローに、ぱちりとウインクして、男は言う。
「んもう。言わなくてもわかってるでしょ! パパの趣味は、シンちゃんとイチャイチャラブラブエロエロすることだよ! 当ー然っ!」
 そして、つんとシンタローの鼻先を、指を伸ばしてつついてくる。
「あとね、シンちゃんと、ぎゅう〜ってするのが、世界でナンバーワン楽しいこと! ほら、こうやって」
 上半身を完全に起こして、抱きつく体勢を取りそうになるマジックを、シンタローは般若の顔で押し止める。
「あーあーあー! もうそれはいい!」
「なあに、自分で聞いといて」
「ちょいと昨日と変わってるが、やっぱ元のアンタなんだよな……あーあ……」
 がっくりと項垂れるシンタローに、相手は不服そうである。
「あーあって、何? 私は私! シンちゃんの可愛いパパだよっ! でもね、シンちゃんが変われというのなら、いつだってシンちゃん色に染まる気満々の、柔軟思考も兼ね備えたパパなのです」
「なーにが柔軟思考だ! ベタベタしてくるだけじゃねえか」
「あ! 言い忘れたよ。柔軟と、剛直を兼ね備えています。シンちゃんをメロメロさせるやつ」
「もういい……最後に……マジックのMは……?」
「My love to youのMだよ! シンちゃん! 愛してる! こんな朝から、超愛してる!!!」
「ギャーッッ!!! また昨日と変わってる上に、襲ってきたああああああ!!!」



 なんとか、諍いを治めてから。朝から、ぜいぜいと息を荒げながら。
 どーして俺は、こんなに苦労しなきゃならんのだ。毎日が体力と精神力のチキンレース。ああ、俺って。どうしてこんな、という嘆きは後にして。
 シンタローは何とかマジックから、彼と日本酒に関する情報を引き出した。
 それまでに、話が脇道に逸れて逸れて逸れまくり、36回はキス攻撃を受けて(唇だけは死守!)、なんだか触られたりその他諸々と、朝から散々なのである。
 もうイヤだ。こんな暮らし。こんな一つ屋根の下。
 帰ってきて! 真夜中のマジック!
 そう切に願うシンタローを他所に、当のマジックは、ちっとも懲りた様子はない。
「シンちゃん……弱ってるパパを元気にして……パパ、パパ……シンちゃんの愛があったら、元気になると思う……」
「じゃっかましいわァァ――――ッッッ!!!」
「じゃあ、じゃあ、一部だけを元気にする程度でいいから……パパの精一杯の譲歩を聞いて……ああっ……頭痛が……」
「ぐおわぁ〜〜〜〜! 朝から何ちゅー台詞! 恥を知れ! そろそろ病人のフリやめろ! しなだれかかってくんなァァ――!!!」



 治めたと思っても、すぐに始まる、まるでモグラ叩きのようなケンカである。
 こんなカオス状態の中で、やっとのことで入手した情報とは、こういうものであった。
「やっぱり私は、昨晩の記憶がないんだよ」
 そう男は、こめかみを長い指で押さえながら、眉をしかめて言ったのだ。
「うん……シンちゃんにキスしたのは覚えてる。うっとりしたシンちゃんの顔は、はっきりくっきり覚えてる。これはちゃんと心のメモリーに刻んであるから、心配しないで。うーん、それから肴が無くなって……シンちゃんが取りに行ってくれた辺りまでかな……そこでフッと記憶が途切れて。目覚めたら、自室のベッドだった」
「不正なメモリーは廃棄処分にしてしまえ……っつーか、アンタそこで寝ちまったんだよ。ンで俺がシャワー浴びて出てきたら……」
 ここでシンタローはふと考え込む。
 そしてしばらく間を置いて、こう答えた。
「俺が出てきたら、もうアンタは俺の部屋にいなかったぞ。寝ぼけて自分で帰っちまったんじゃねえの」
 そう咄嗟に誤魔化してしまったシンタローである。
 なんとなく本人には、酔った後の行動は教えない方がいいぞと思ったのである。
 今後のために。弱みをもっと詳しく追求するために。その他、色々。色々。
 そして思う。
 ……そっか……覚えてねえのか……グッナイ子猫ちゃん的言動は……。



 何だろ、あれって、酔い癖なんだろうか。笑い上戸とか泣き上戸とか、そういう感じの。
 ……普段が異常なヤツは、酔うとマトモになるのか?
 うーん、うーんと思考を重ねるシンタローに対して、マジックの方はといえば、まだ気にしているようだ。
「寝てしまったのかなあ……うーん、ああそうだ、私、酔って何か変なこと言わなかったかい? 以前にハーレムと飲んだんだけどね。翌朝、半泣きになって叫ばれたんだよ。『あんな兄貴、俺はイヤだぁ〜』って。あのハーレムがそう言うなんて、それはもうよっぽどのことかと。それ以来、日本酒は控えるようにしているんだが……」
 これを聞いた時は、シンタローは目を丸くしたものだ。
「いや、全然普通だったぜ! むしろマトモだった」
 シンタローは、どんと胸を叩き、自信を持って言い切った。
「そう? でもハーレムは」
「獅子舞の感覚より、俺の第六感の方がハリキリ正しい!」
「……ならいいんだけれど」
「おーよ! マトモもマトモ、大マトモ! 俺はむしろアッチの方が……いや何でもない」
「アッチって何。とても気になる。だいたい私、すぐ寝たはずなんじゃないの。マトモって何を指してるの」
「別にいーじゃん、何だって! リストラされた不良中年のことなんか、気にするナ!」
「なんだか腑に落ちない」
「落せよ」



 ハハハと笑ってから。
 シンタローは、きらりと目を輝かせて、ぐっと杯を呷る仕草をした。
「まっ、それはいーからさ! 今日もポン酒飲もうぜっ!」
 珍しくも自分から、こう言い出したのである。
「また日本酒なのかい? シンちゃん、そんなにお気に入り?」
「やー、昨日の酒、半端じゃなく美味くて、ハマっちまった! しばらく晩酌はアレに限るナ」
 しかし折角自分が誘ってやったのに、乗り気じゃない相手である。
 なんて贅沢な、とシンタローは憤慨する。この俺様が誘ってやっているというのに!
 男は、こんな言い訳までする始末だ。
「うーん……ああ、それに今日はね、誘ってくれるのは嬉しいんだけど、パパ、午後から講演会が入ってて」
「終わらせろ! 息せき切って、終わらせろ!」
「その後にもサイン会が」
「書きなぐれ! 隼のように書きなぐれッッ!!!」
 こうして。
 今夜もマジックと日本酒を飲む約束を、シンタローは何とか取り付けたのである。



---------



 その日、昼休みを利用して、シンタローは研究所の高松を訪ねた。
 腕に抱えるのは、先刻の本部見回りで、またまた秘書室に寄って、ピンクの塔から掘り出してきた日本酒数本である。
 いいのをせしめてやったぜと、シンタローはクククと笑う。
 ガラガラ贈り物の山を崩しながら、埋もれながら、真剣に日本酒を探していた自分に、ティラミスやチョコレートロマンスは呆気に取られていたっけ、まあいーけど、等と考えながら、シンタローは研究所にズカズカと乗り込んだ。
 へっへ、あいつらはあんなマジック、知らねーだろ。



 バタン、と特別研究室の扉を開けると、白く広い部屋でポツンと座っている高松の背中が見えた。
「おーい、ドクター、すまねーが相談が」
 しかし自分が声をかけたのに。白衣の男は振り返らずに、こう呟いた。
「……お久しぶりですねえ、シンタローくん……いえ、総帥……」
 声が震えているのである。
 悪い予感がした。取り込み中のようである。
 か細い声が、切々と自分に迫る。
「相談……相談と言われましても……相談なら私の方がむしろしたいくらい……あああ……少し待っててください……う……うっうっう……もう少し……私の心が落ち着きを取り戻すまで、待っててください……ッ!」
 シンタローがよくよく見れば、高松の震える手には、一枚の写真が握りしめられているのである。
 握りしめる、といった表現がぴったりくる、まるで万力のような握力で、かつ写真を傷つけないように大事に掴み、食い入るように眺め、時には頬擦りをし、ほろほろと涙を流している。
 写真に映っているもの自体は遠目に見ることはできなかったが、ほぼ間違いなくグンマとキンタローの写真なのであろうと、シンタローは脱力する。
 脱力して、
「ド、ドクター……うおっと! 危ないトコだったゼ……」
 つうっと、自分の立っている戸口にまで流れてきた鼻血に、足を取られそうになって、シンタローは慌てて飛びすさった。
 いけない、いけない。
 ここしばらくは高松とは顔を合わせていなかったから、彼と付き合う時の最低限の注意事項を失念していたと、自戒せざるをえない。



「ああああッッ!!! グンマ様! キンタロー様っ……そんなに、そんなに、この高松はもうお邪魔でしょうかぁっ……そりゃあ! お二人とも、それはそれは大変お可愛らしくお美しく天才かつ聡明で清い心の素晴らしい御方に、御成長されましたが……ましたが……ああ、しかしこの高松……高松は、もう、もう、いらないのですかあああああ――――ッッッ!!! 用済みでしょうかああああああ――――――っっっ!!! うっうっう……よよよよよ……」
 さめざめと泣き崩れる高松を、シンタローは壁の端に寄りながら、顔を引きつらせて待っていた。
 こうなったら高松は、どうしようもない。
 何か用事があっても、とにかく待つしかないのである。
 総帥の権力も形無しであった。
「……俺の周りって、こんなんばっか……」
 そう、シンタローは変わり者揃いの人間たちを嘆いたのであるが。
 これも、自分のことは遠い棚に放り投げてしまっているのだということを、この瞬間には誰も指摘する者はいないのであった。



「失礼。多少取り乱しまして」
「いや多少じゃねーし」
 これだけ待たされたのだから、俺は不機嫌でも許されるはずだと、シンタローは思いっきりの仏頂面をしている。
 しかし相手もさるもの、全く動揺する素振りはない。
 ほんとに、このミドルたちはと、シンタローはうんざりした。
 海千山千、どんどんややこしくなってきやがる。
「どーでもいいからよ、早いとこ、俺の話を……」
「ああああ……しかし私のブロークンハートは、癒されることがあるのでしょうか……」
「聞けよ、変態化学者」



 明るい日差しが差し込む研究室、窓の外では、数羽のスズメが、ちいちいと鳴いていた。
 高松は、それを眺めて、フッと自嘲気味に笑った。
「可愛らしいものを目にすると、いつも思い出しますよ……グンマ様とキンタロー様のお顔を……今も、あっ、スズメがひょこひょこと! あああああっっ!!! 思い出してしまう! 涙と鼻血が込み上げてきてしまう!」
「まだ落ち着いてねえのかよ! いーかげんにしてくれ!」
「この頃は、日に数度はこのような発作が起こるのです。あああ……ええ、ええ、総帥、グンマ様とキンタロー様御二方には、け――――っっっして、このように御二方のお陰で! 高松が、傷ついて傷ついて傷ついておりました等と! お伝えせぬよう! 頼みましたよ、ええ、ええ、けっして、たとえアナタが私を可哀想とお思いになっても! ぜ――――っっったいに、御二方には、自分たちの責任だということを、お伝えせぬよう! お頼みしましたよ! いたいけなナイスミドルをいたぶっているのは、アナタ方ですと、お伝えしないでくださいっっっ!!!」
「……つまりは言って欲しいんだナ、ドクター……」



 ――高松は。
 グンマとキンタロー両人の後見役であったのだが。
 もう二人でできるもんとばかりの反抗期(?)に会い、夜逃げ同然に、勝手に遠隔地の研究所に単身赴任してしまった。
 ただ結局の所、眠り続けているコタローの治療に主治医として当たらせていたから、週に一、二度ばかりは、この本部に高松は通わざるを得ないのである。
 いくら離れて住んだって、大して意味がないのではと、シンタローなどは思うのだが、高松は大真面目なのである。
 本部や、この生化学研究所以外の研究所に用があった時の、この男の隠れようときたら、凄まじかった。
 忍者も真っ青、変装の達人も真っ青の、徹底振りである。
 むしろ余計目立っているのではないかと、シンタローだけでなく万人が思っているのではないだろうか。
 それでも本人には、何やら意地があるらしかった。
「ぜぇーったいに! 帰りませんよっ! 向こうから私に『帰ってきて』と可愛くお願いして下さるまではぁっ!」
 聞きもしないのに、こんなことを言う高松に。
 シンタローは、親子(?)喧嘩もいい加減にしろ、周囲を巻き込むなよと、これも自分を遠い遠い遠い(略)棚に渾身の力で蹴り上げて、思ったのである。



 結局、相談に入ることができたのは、昼休みの終わりも間近という所だった。
 シンタローの話に、物憂げな白衣の男は、なんだという風に肩を竦めた。
「ああ、その相談なら……かなり昔に、ハーレムから一度、受けたことがありますよ」
「なにっ! へ、へー、あの飲んだくれオヤジが……」
 相談の内容は、勿論、マジックの酒癖についてである。
 高松はシンタローを見て、昔を思い出しているような目をして、笑った。
「なんだか必死でしたねぇ、獅子舞には珍しく。まあ、ああ見えて兄想いな所がありますから、あの男」
「言っとくが、不良中年はともかく、俺はマジックの弱みを知りたいだけだかんな!」
 そう念を押した後、シンタローは。
 で、獅子舞には何て言ったんだよと、興味なさそうに聞いた。



「心配するな、って言っときましたけど。ああこれはアナタにもそのまま、当てはまりますよ」
「だから、俺は単に弱みを……」
「一番簡単で初歩的な理解は、抑圧された願望の実現とみるものでしょうね」
 高松はそう言うと、立ち上がって壁際の本棚の方へ行き、奥の方から古ぼけた書物を出してきて、仔細ありげにパラパラと捲り出す。
 シンタローは、座っていた業務用の丸椅子から、少し伸び上がってそれを見た。
 表紙の文字はドイツ語、ということぐらいしかわからない。
「……あんだよ、ソレ」
「これは夢について古くからある理論ですが」
「ああん? 俺は、夢じゃなくって、酒癖について聞いてンだよ」
「まあお聞きなさいな」
 高松は話し始めた。
 夢とはそもそも、日常の生活では満たされることのない欲求が、無意識的に心に働きかけて、イメージ化されたものだという考え方があるのだという。
「たとえば、お祭りに行ってはいけないよと言われた子供は、その夜、祭りの夢を見る。やりたかったけれど、できなかったことを、夢で実現して、ストレスを解消している、と考えるんです」
「ほう。あっそ」
 相変わらず凝った肩を、こきこきと鳴らしながら、シンタローは生返事をする。
 いいよなあ、そんな夢見るヤツは。
 俺なんて、睡眠を取るのに忙しくって、ここんとこ夢も見ねえよ。寝るのも必死。いつ襲われるかワカんねぇ、人生すべてがバトル。バトルときてやがる。
「この考え方を、酩酊状態やいわゆる心神耗弱状態にも当てはめるという説があるんですよ」
 高松の話は、やっと本題の酒癖に入ったようだ。



「ですから、この考え方でいくと。マジック様の場合、日常生活では満たされることのなかった欲求が、無意識的な願望が、ハードボイルド状態なのではないかと」
「はああああ? あんだよ、その結論!」
 思いもかけなかった答えを聞かされて、シンタローは驚愕した。
「なんで! アイツってば、ンなこと、心の奥では願ってるってコト? うっそ、信じられねえ! ンなのあるワケねーだろーが」
「ですがね。ハーレムは、こう言ったら納得してくれましたよ」
 高松は、静かに続けた。
 マジック様は、幼少の頃にお父様――つまり前々総帥――を亡くされて、それ以来、自分を捨てて、青の一族やガンマ団のために、邁進してきた御方ですから。
 普通の幼少時代や青春時代を送ることができなかったということですよ。
 今はそんなこと、御本人はお忘れでしょうが、そういった過去の枷は、心の奥底深くに、眠っているものです。
 マジック様も人の子(?)、人並みの青春を送りたいという願いが、無意識的にであれ、存在したのでしょう。
 思い起こせば、我々の青春時代に、ハードボイルドは流行りましたものねえ。
 まあ、どうして日本酒がその引き金になるのかは、わかりませんが。
 日本酒の何かが作用して、酩酊状態時に、その過去の遺産が、現れてしまうのかもしれませんね……。



「ええっ、そーなのかよ!」
 シンタローは、思わず立ち上がった。
 両の拳を握り締めている。
 肩がぶるぶる震えている。
 目が潤んでいた。
「そんな……そんな……そーだったのかよぉ……」
 シンタローは、自分がなんだかんだで幸せな幼年時代や青春時代(一部を除く)を送ったが故に。
 こんな話に、滅法弱かった。
 しかも、相手はあのマジックである。
 傍若無人で横暴で態度デカくてワガママで自分の欲望のままに行動する、最低人間の、マジックが、である。
 あんな(略)なのに。実は内面では。内面では!
 このギャップ!
 漢心は、ギャップにも弱かった。
 古来より、乙女と漢の心を揺らすのは、ギャップと相場が決まっているのである。
 黒い瞳を、うるうるさせて、シンタローは叫んだ。
「ええー……そーなのかよ……そーだったのかよォ!」
「だから、もしまたマジック様が酩酊状態に陥っても、好きにやらせておあげなさい……って。総帥?」
「何だよ……そんなんなら、早く言えよ……言ってくれよ……また、また隠しやがって……」
「シンタローくん?」
 ちょっと待てよ。その話でいくと、幼少時代にマジックが戻るってこともあるのか、と。
 そこまでは、シンタローの頭は働かなかった。それはまた別の話であるから、よしとしよう。
 要は、それぐらい、今の彼は、込み上げる感情に支配されていたのである。



 きゅ――――――ん!
 彼の胸で。
 一際高く、ハートが鳴り響いていた……。



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 そして、こんな時は必ず、必ずなのである。
 どうでもいい時は、いるなと言ってもいる癖に、いろと思った時は、絶対にいないのである。
 案の定、マジックの帰りは、遅かった。
 お決まりのごとく、連絡もない。



 一日の仕事を終え、家に帰ってから。従兄弟たちと夕食を済ませ、テレビを見て風呂に入って、持ち帰りの仕事をやってしまっても、あのバカは帰ってこないのである。
 なんてヤツだ、とシンタローは一人で憤慨した。
 また真夜中になっちまうだろうが!
 シンタローは、待たされることが嫌いだった。
 そして自分を待たせる相手といえば、あの男しかいないのである。
 イライラした時は、と。キッチンに篭り、巨大な樽に腕を入れ、ぐりぐりと糠床をかき回しているシンタローであった。
 イライラした時は、物にあたるより、渾身の力で漬物を生産した方が、得なのだと最近気付いた。
 最低一日に一度は、糠床をかき回さなければ腐ってしまうのであるが、何しろイライラするのは一日一度どころではないため、この頃はかき回したいのを我慢して、うずうずしてしまう程である。
 乳酸菌や酵母も、びっくりである。しかも少量ではすぐ終わってしまうので物足りず、だんだん量が増えて、こんな巨大な樽で漬けているのだ。
 ちなみに遠征先にも、持って行っている。
 夜にマジックのウザい電話やメールが来た頃に、ここぞとばかりにかき回すための、シンタロー愛用の樽である。マイ樽。
 ぐりぐり。ぐりぐり。今夜も。腕が鳴る。



「はぁぁ〜、よーし、これでいーだろ!」
 つい無心に、熱中してしまった。
 汚れていない腕の肘で、額の汗をぬぐい、シンタローは爽やかにハハハと笑う。
 ウチの漬物は、俺様製。ウチの漬物は、世界一!
 手を洗い、しばし充実感に浸ったのであるが。フッとキッチンのテーブルに置いたまま、ウンともスンとも言わない携帯が目に入り、再び怒りがぶり返してくる、この儚い俺の幸せ。
 あの野郎、逃げたんじゃねえのかと、シンタローはギリギリ唇を噛んだ。
 ふと気付いて、キッチンの調味料棚を、ガタガタ漁った。



『件名:買い物  醤油買ってきて』
 そんなメールを送ってみたが、相変わらず無反応なのである。
 イライライラ。
 苛立ったシンタローは、再びこう送信した。
『件名:買い物だっつーの  いるんだよ、早く醤油買ってこいよ!』
 これも返事が来ない。
 もしや電波が届きにくいのかと、昨晩グンマとキンタローが吹き飛ばした、夜空の見える我が家の半分――すでにグンマが改造修理を始めていて、奇妙な色の内壁だけが出来上がっていたが、これ以上イライラ事を増やしたくないので、シンタローは見ない振りをしている――に出て、電波を飛ばす。
『件名:買い物だって言ってんだろ!  醤油! 緊急に必要なの! 今すぐ! いい加減にしやがれえええ!』
 しかし返事は以下同文。
『件名:醤油  醤油醤油醤油しょいういfsyyりyyrんfsとうhs!!!!!』
「ぐががが! いっ一字ずらして打ってた! くぅ〜〜〜!!!!!!」
 そんな、シンタローがメールと格闘している頃である。
 自動車のライトが、闇を照らす。
 静かに車寄せに止まった銀色のリムジンの後部座席から、悠々とマジックが降りて来たのだから、シンタローの怒りが沸騰するのも当然といえば当然であった。



「ただいま〜! あれ、シンちゃん」
 超笑顔に、シンタローは怒りのあまり赤くなって青くなって、やっとのことで、ごくんと罵詈雑言を飲み込んだ。
 俺は大人だ。その代わり、ギロリと相手を睨みつける。
 マジックは構わず、嬉しそうに言った。
「……迎えに出てくれたんだ」
「チッ。逃げたかと思ったんだよ!」
「あ。もしかして、メールか何かくれたの?」
 彼はシンタローの手元の携帯をチラリと見て、『こっちに入れてたから』と、鞄を開けて自分のそれを取り出して。
 シンタローが止める間もなく。
「わ〜、受信のとこが、シンちゃんだらけなのって嬉しいな〜、なになに、買い物あったの? 気付かなくってゴメンネ!」
 等と、にこにこしている。
 決まりが悪くて、シンタローは、『醤油がな、醤油がな、』と、そればかりを、もごもごと繰り返していた。



「でも。パパ帰ってきちゃったし。醤油、買えないね」
「は? っつーか、別に」
「んん? 緊急、今すぐって書いてあるよ」
「ま、まあ……まあ、な……」
「それじゃあ、パパ、歩いて買ってこようかな」
「ああああ???」
「緊急なんでしょ? いいよ、買ってくるよ。最近、その辺を歩いてないしね」
「ぐっ……う……く……なら俺が行く!」
「いいよ、パパが行くって」
「俺が行くつってんだろ!」
「いいから」
「俺が〜」
「パパが〜」
「……」
「……」



 そして。
 二人は、醤油を買いに、外に出た。



 くっそ、何でこんなことになったんだと、仏頂面のシンタローに、嬉しそうなマジック。
 夏が終わり、秋の夜風が、通り抜けて行った。
 本邸は玄関口から正門までが長く、美しく伸びた私道には、街路樹のシンメトリーが闇を分ける。
「腕組んでいーい?」
 相手が聞いてくるから。
「ダッメに決まってンだろぉがぁ!」
 速攻でシンタローは怒鳴る。
 それもこれもアンタのせいなのに、この図々しさ、と思えば、自然に口が尖る。
 マジックは、そんな自分の気持ちなど、わかったためしがない。
 今も彼は、どうしてシンタローが怒っているのかなんて考えもせずに、何とかして腕を組む了承を得ようと、必死である。
 ほんっとに、自分勝手!
「ホラ、暗いよ! 誰もいないよ!」
「そーいう問題じゃねえ!!!」
「シンちゃ〜ん」
「甘えたってダメだっつーの! ダメなモンはダメ!」
「シンちゃんの、ケ〜チ」
「何とでも言え! 行くぞ!」
 埒が明かないと、シンタローは、ずんずん一人で歩き出す。
「あっ、待ってよ、シンちゃん!」
 男が慌てて追ってきて、早足で自分の隣に並ぶ。
 しばらく、並んで歩く。



 暗い夜道は、色の無い木々が鳴る。濃淡ばかりが、世界を彩るすべて。
 こつこつと、路の煉瓦に、二人分の足音が響いている。
 シンタローは、ポケットにぎゅっと両手を差し込んだ。
 ええくそ。寒い。もうそんな季節か。
 なんで、俺。こんな面倒くさいこと。
 なんで、俺はこんな面倒くさいことばかりに、嵌っていくんだ。
 いっつも、遠回りして、ますます面倒くさいことになる。
 ……なんで?
 側からまた、囁くような声が聞こえていた。
「……じゃあ、くっついて歩いていい? ……って聞いたら、絶対にダメって言うから……」
 自分の左肩と腕に、男の身体の感触がした。
 冷たいぬくもり。
「もう、くっついちゃったもんね!」



 こつんとシンタローの肩に、相手の頭が触れた。重みがかかった。
 頬を、短めの金髪が掠める。ふわりと、馴染みのある匂いがした。
 シンタローは、黙っていた。
 ムッと条件反射で顔を逆方向に向けたものの、黙っていた。
 少し経って、マジックが言う。
「なんだか、シンちゃん、優しい」
「……」
「優しいから、嬉しい」
「……チッ……黙って歩け!」
「はーい」
 ちくしょう。
 ――今日は特別だ、特別。
 シンタローは、夜空を見たまま、怒った顔をしていた。
 俺様を待たせやがって、遅くなりやがって。
 許してやるのも、特別だ、ありがたく思え。



 なんだよ、嬉しそうな顔しやがって。
 そんなに俺と歩くの、嬉しいのかよ、アンタ。
 ……ドクターに、あんな話、聞いちまったからだよ。
 これが、いつもだと思ったら、大間違いだからな!
 俺を見損なうな、甘く見るな!
 でも。
 たまには、な。



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 某所のコンビニでは、カウンターで店員が、あーあとあくびをしている。
 彼は学生アルバイトであった。夜の勤務は作業中心で接客がない分、楽だが退屈。張り合いが無い。時給が高いから、続けているのだが。
 今夜も客の姿は、なかった。
 床磨きはもう終わったし、棚の整理もやって、ゴミもまとめた。廃棄用の肉まんは、持ち帰るためにちゃっかり裏の冷蔵庫の中に入れてある。
 雑誌の品出しには、間があるし。ドリンク補充もまだいいし。
 退屈だ、平和な夜である。
 彼は、新商品案内のカタログをぼんやりと眺めながら、あーあと大きく口を開けて、再びあくびをし、口を閉じようとした。
 その時であった。
 すうっと自動ドアが開いて、彼らが入店してきたのは。



「わぁ、ここがコンビニだねっ!」
 そんな台詞を言ったのは、2mはあるかという長身の、同心円状に筆舌に尽くしがたい威圧感を放っている金髪の男だった。
 店員は、びくっとして思わずカウンターの下に隠れた。
 警報ベルを押そうとした手を、必死に引っ込める。
 彼は霊感が強い質でもあった。黒いオーラが。見えたのである。
「いいか、あんまりうろうろすんな。醤油を買いに来ただけだからな、醤油! それと、言っとくが無駄使いはすんな」
 その後に、こんな台詞と共に入ってきたのは、これも、とんでもなく長身の、黒髪長髪の男である。
 背後に。なんかまた違うオーラが! 俺様色のオーラが!
 店員が、こわごわカウンターから頭を出して覗くと、黒髪の切れ長の瞳と出会い、思いっきり睨まれた。
「何、見てんだお前」
 なっ、何も見てません! と、店員はクリスチャンでもないのに十字を切りそうになった。
 怖い。恐ろしい。このコンビニに、何が。何が襲来!
 二人が歩く度に、風も無いのに風圧が、辺りを襲った。
 揺れている。明らかに空気が揺れている。雑貨類が、食玩が、カードダスが。触れもしないのに、彼らの歩いた跡に、ぽとりぽとりと落ちていく。
 ああっ! 棚整理と床磨きしたばかりなのにっっ!!!



 それでも怖いもの見たさで視線がはずせず、店員が、二人を窺っていると。
 金髪は、物珍しげな様子で、あちこち店内を散策しているようだ。
 時々、バシュ! と衝撃音と共に、ガシャンと何か機械のようなものが壊れる音がしている。
 よく見れば、金髪の男の目が、光っているような気がする。
 バカな、人間の目が光るなんてと店員は思い直し、機械……でも、機械なんて、売り物にはないし……自分の見間違い、聞き間違いかと不審に思っていると。
 こんな声が聞こえてきた。
「おーい、あんま何でも壊すなぁ? 弁償させられても知らねえぞ」
「ごめんごめん、習慣で。隠しカメラ見つけたら、つい……でもコンビニって、すごいね! こんな狭い所に、たくさん綺麗に並べてあるよ!」
「細かく並べすぎて、なおさらワカりにくかったりすんだよな〜 えーと、醤油、醤油……」
 聞かなかったことにしようと、店員は、映像が途切れて暗い画面になっている、モニターを眺めて思った。



 しばらくして、見るのに飽いたのか。
「さあて、シンちゃんが醤油探してる間に。パパは買い物に挑戦してみよう」
 金髪の男が、慣れた様子で指を鳴らして、言った。
「ああ、ちょっと、そこの店員さん」
 え、自分? 自分が呼ばれたの?
 口調は穏やかだが、逆らえぬ威圧を感じて、店員は思わずカウンターを飛び出してしまう。
 お呼びでしょうかと、まるで家来のような口ぶりで、ついひざまずいてしまう自分である。
 だって、だって。体がそう動いてしまうのだ。
 やはり彼の周辺では、空気が揺れている。びりびり。なんかびりびりする!
 威圧に必死に耐える店員が、頭の上から、さらりと言われた言葉。
「じゃあ、その棚の端から順に、全部貰おうか」
 一瞬、顎が外れかけた店員である。
 棚、棚。
 紙コップ、デンタルフロス、トランクス、電池、歯ブラシ、シャンプー……これを端から順に……目の前の棚に並んでいる商品を、店員は一通り見回した後。
 確認を求めるように、そっと金髪の男を見上げた。
 相手は、小さな子供に大人がするように、大げさな素振りで頷いてくる。
 その時。
「アホかぁ――――ッ!!!」
 だだだだと店の端にいた黒髪が長髪をなびかせて走ってきて、凄い勢いで金髪にツッコんだ。
 今度は店員は、その黒髪の剣幕に怯えながらも、少しホッとしたのである。
 もしかして自分がこの金髪にツッコまなければならないのかと、そんな命の危険を感じていたのだ。
 無理。自分には無理です。
 黒髪の長髪が、逆立っている。
「アホかっ! 並んでるモン全部買って、どーするつもりだっっ!!! 無駄使いすんなって、言ってんだろォッ!!!」



「だって、みんないらないんだもの。いらないから、何買っても一緒だよ」
「なら買うなああああ!!! 経費節減! 俺がどんなに苦労して……」
「パパはコンビニで買い物してみたいの! 買い物してみたいの! してみたいのっ!」
「うっせーうっせーうっせー! 大人しくしてやがれっ!」
「だって醤油も! 醤油も、シンちゃんが買うっていうから!」
「だから醤油は俺が買うんだよ! それぐらい我慢しろっつーの!」
「ずるいよ! シンちゃん、ずるいよ! 自分ばっかり!」
「くっそ、アンタ、そんなに買いたいなら……」
 黒髪は、指を突き出して、ついっと雑誌棚の方を差し示した。
 平伏していた店員もつられて、そちらの方を見てしまう。指の先には、ずらっとメンズ雑誌が並んでいた。
 ……? そういえば……。
「そこに並んでる不吉な雑誌! ぜーんぶ買い占めて、焚書にしろ!」
「どーして! パパ、自分の出てる雑誌買っても、ちっとも楽しくないよ! あ、でもシンちゃんが買ってくれるのなら、パパはその様子を眺めているのも、やぶさかではない。そんなプレイも素敵だと思う」
「アンタが! 買えよ!」
「いーや、シンちゃんが!」
「アンタが! 焚書!」
「シンちゃんが買ってよ!」
「アンタが〜」
「シンちゃんが〜」
「……」
「……」
 店員は、思った。
 もしかして、この金髪の人、雑誌に出てる人……そういえば何処かで見たことが……。
 しかし、そう脳が判断を下す前に。



「ああもう! シンちゃんたら、パパの初体験を邪魔するんだから! いいよ! それならパパ、自分でセッティングしちゃうもんね」
 また金髪の指が鳴った。
 自分でも信じられない速さで体が動いて、店員は、さささと男の側に駆け寄った。何故だか体が勝手に動いてしまう。本能が上下関係を察知して、動いてしまう。自分は庶民なのだと、店員は思った。ああ、一般人のせつなさ。
 しかし。
「君。この店の責任者は誰かね」
 そう思いもかけないことを聞かれて。
 ちょっとオタオタして、て、店長なら、裏で仮眠中ですと、震える声で、やっと答えかけた時。
「こらあ〜〜〜!!! まった、何を企んでやがるっ!」
 再び、やっと首尾よく見つけたらしい醤油の瓶を抱えて、黒髪が走ってくる。
「何って。家の庭に、コンビニを移転させる相談をしようかと思っただけだよ」
「いらん! そんなのいらん! 無駄使い禁止!」
「どうして。珍しいからグンマもキンタローも喜ぶよ。あの子たちにもいい社会体験になるだろう」
「その頭の構造、どうにかしやがれええ!!!!! ええい、ちょっとの間も目が離せん! 幼児か! おのれはあああ!!!」
 二人の間で、ただ頭を押さえて小さくなっていた店員であるが。
「おい……」
 そう、ぐいっと制服の襟を掴まれて、足が宙に浮いて、こわごわ薄目を開けると、黒髪が凄んで自分を睨みつけているのに遭遇して、ふうっと気が遠くなったのである。
「おい、お前……聞いてンのか」
 だが、気絶しようとしたのに、がくがくと体を揺らされて、それも叶わなかった。
 眼前では、ゆらりと黒髪の背後に、オーラが漂っている。
 こ、殺されるっ!!!
 店員は、死を覚悟した。だが。
「アイツの言うことは聞くな……いいな、聞くな……!」
 黒髪は、必死の面持ちで、そう言っただけだった。そして。
「醤油。いくらだ」
 醤油の瓶を、胸に押し付けられて、その他いくつかの商品と一緒に、勘定をさせられた。



 店員が、焦る指でレジを操作している間、『お前、ここ勤めて長いの』『夜の仕事って大変じゃねーの』などと、黒髪が声をかけてきてくれた。
 店員は、怖かったので、ただこくこくと頷くだけであったのだが。
 なんだ、黒髪はいい人なのかもしれない、むしろちょっとカッコイイかもと、印象を改めた。男前だし。キリッとしてるし。あ、ちょっと。ついていきたいかも!
 なのに次の瞬間。
「こらあ――ッ! アンタはまた! 何してやがるッ! それは売り物じゃねえええ!」
「だってグンちゃんにお土産のアイス、このまま持って帰ったら、溶けちゃうでしょ。ここってドライアイスのサービス、どうしてないんだろう。だからパパだって仕方なく」
「うおおおおお! 恥ずかしいから! 勘弁してくれっっ!!!」
 アイスクリームを、巨大冷凍庫ごと買おうとしていた金髪に、血相を変えて怒鳴る姿に、やはりカッコイイと言い切るのはどうかと、店員は再び自分の印象を改めざるをえなかったのである。



 そして、二人はまた何か言い争いをしながら、コンビニを出て行った。
 店員は、魂の抜けた状態で、その後姿を見送った。
 これが店員が、それから仮眠室で揺さぶり起こした店長に語ったすべてであった。
 最後はともかく、全体としては張り合いのありすぎる職場に、店員は涙した。そして平和のありがたみを痛感したという。
 なお、これは後から入手した目撃証言であるが、この黒髪は、通りすがりの野良犬を見つけて、その頭を、しゃがんで撫でていたそうである。
 すると金髪が、嬉しそうにその黒髪の頭を、撫でていたそうである。
 その後、この場所では可燃性の危険物もないのに突如、大爆発が起こったということであるが、定かではない。
 真夜中の怪。






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