真夜中の恋人

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 そんなこんなで、楽しい真夜中ライフを送るシンタローであったが、日が経つにつれて、新たなる問題に直面することとなった。
 例えば今。朝。出勤前は、最近では諍いの時間である。
 身支度をしているシンタローの周りに、ぐるぐる付きまう男が一人。
 それはもうそれはもう煩く、マジックが全身全霊で。
「この頃シンちゃんと、全然シてない!」
 と、訴えてくるのである。



 あ〜あ、真夜中のマジックだったら、こんなにしつこくねえのになあ……。
 それに、こんなに即物的じゃねーよ。もっとカッコいーよ、さりげねェよ、男だよ。
 シンタローは、マジックの主張にうんざりしながら、窓の外を見る。つい、ぼんやりと思い出してしまう。
 さっき会ったばかりだというのに、真夜中の人が、何だか懐かしくなる。あのクールさに会いたくなる。
 ……俺、もしかして恋してんのかな……。
 やっべえ、結構マジかも……ハマってる……。
 物思いに耽るシンタローの側では、現実のマジックが貼り付き中だ。
「シンちゃん! こっち向いてってば! シンちゃん!!!」
「……」
「聞いてるの! シンちゃん!!!」
「……」
 普段のマジックと直面する度、真夜中のマジックが恋しくなってきてしまうシンタローなのである。
 人は、ないものに憧れるというが、それにしても真夜中のハードボイルド。秘密の恋。ちょっとちょっと、カッコイイじゃんよ。
 あーあ。それに比べて、この男は。
 シンタローは溜息をつきながら、じっと現実を見る。目の前のマジックの顔を見ると、相手はぴくんと反応した。
「なあに? なになに、シンちゃん?」
 姿形は同じなのに……。どうしてこう、この男はカッコよく振舞わないのか。どーして俺の前じゃ、いつもこう、駄々っ子みてえに。
 ほう、とシンタローは肩を落としてしまう。



 この頃のシンタローは、面倒臭い時、『もう口ききません』というボードを、首からぶら提げておく。
 白地に黒字。たまに民家の戸口に『猛犬注意!』とか『セールスお断り』とか貼ってあるのと、同じ仕様である。
 これを下げておけば、口をきかない、ということを相手に口をきいて説明する必要がないため、便利なのだ。
 無視し続けるだけだから。
 これ以上ウルサくしたら、一生口ききません、という脅しでもある。
 単純な方法ではあるが、最終的にはマジックに力では敵わないため、何だかんだで、これが一番相手に堪えるのである。効果があるのだ。
 今も総帥服の上から、ボードを仕方なくぶら提げた。そして手早く出勤の用意をしている。
「ああっ! そのボード! 冷たいお知らせヒドいッ!」
「……」
「ひどい! ひどいよ、シンちゃん! 口きいてよ!」
「……」
「シンちゃん! ねえ、シンちゃんってば!」
「……」



 ついにマジックは、しばらく黙った。シンタローは、勝ったと思った。
 しかし。黒鞄に黙々と書類を詰めているシンタローに、今度はちょっと違った声音で、マジックは問いかけてきたのである。
「……シンちゃん……最近パパと話す時、別のこと考えてるでしょ」
 どき。
「私はそういうの、わかるんだよ」
 どきどきどき!
 そうなのだ。この男はこういう空気に、異様に敏感なのだ。
 流石に黙っていられず、シンタローは左胸を押さえながら、しらをきる。
「は? ええーと、ンな、ンなこたねー……よ」
「嘘ついてる! シンちゃん、嘘ついてる! 目が泳いでる!」
「うっせえうっせえうっせえ! あーもう俺、仕事行くから!」
「まさか……浮気……?」
 一瞬、不穏な光が、マジックの瞳を掠めたのに、シンタローはギョッとした。
 急に辺りの空気が凍りついて、ぴしぴしと割れていくような音を感じる。おちゃらけた仮面を被っていた男が、豹変していく。ぎらついた目をしたマジックの背後からは、嵐の前の静けさが蠢いている。魔王の触手が、ぞわりぞわりと舌なめずりをしている。
「……ッ!」
 シンタローは、ぎりりと歯を食いしばって、この負の波動に耐えた。足を踏みしめて、黒いオーラに耐えた。
 ぐ……こいつ……本気で俺を疑ってやがる……!
「ああ……ん……? ばっ、ばか言ってんなッ!」
 声を上擦らせつつも、何とかそう答えたシンタローである。
「お、おりゃー、仕事行くかんな! 勝手に一人で怒ってろ! 知るか!」
 プイ、と他所を向いて、どこぞの浮気を責める妻から逃れる横暴夫のように、足早に家を出るシンタローである。
 バタン、と乱暴に玄関の扉を閉める。外に出てから、胸を撫で下ろす。
 あ〜……日に日に、あいつ、本気モードになってきやがる……ヤバいぜ、どーしよう。



「……」
 黒塗りの軍用車に乗り込んでも、シンタローはぼんやりと窓の外を見ていた。
『この頃シンちゃんと、全然シてない!』
 実は、ちょっと自分も、欲求不満なシンタローである。
 だから余計イライラしているのかもしれないと、自己反省してみるが、しかし欲求不満だからといって、大人しく襲われるのも、嫌なのである。
 あの、飢えたマジックに。魔王の目をしてやがったぜ、あいつ。
「……どーしよ……」
 長期遠征の後の……その……アレが、激しいのと同じで。
 多分、今襲われれば、かなりとんでもないことになるだろうと、シンタローは予想している。想像するだけで冷や汗が出る。
 あんなことになったり、そんなことになったり、あまつさえ、……なことになったりするに、決まっている。色々させられてしまうだろう。身の危険を感じる。
 まあ。その、あの、長期遠征後とかだと、しばらく会ってないこともあるからして、まあ自分もそんな気分や雰囲気になることからして、まあそれはそれでいいのである。まあ、ちょっとくらい、激しくても。まあ、ちょっとじゃなくても。
 我慢してやらんこともない。
 しかししかし。今回は事情が違う。
 毎日顔を付き合わせて、こっちも疲れている上に、シンタローは真夜中のマジックに、ハートがきゅんきゅんしている状態なのである。
 どうしてマジックって、あんなにカッコよく行動できないんだろう。ついそう考えてしまうのだ。
 何だか、その気にならなかった。大人しくヤられるのは嫌だった。
 こんな所が、マジックをして『シンちゃんは雰囲気に弱い』と言わしめる所以なのであるが、生憎本人は気付いてはいないのであった。



 一番いい解決法は、真夜中のマジックと、その、あの、あれすればいいのであると、シンタローは考えた。
 互いの欲求不満も解消して、シンタローのラブも成就して、一挙両得、ラブラブ成立で幸せなのだ。
 カッコよく振舞うアイツと、その、あれしてみたい。つうか現実のアイツは、外見はアレなんだから、中身も普通にしてれば……って! イヤイヤ俺! 今考えたことはウソ! なし! なしなしなし!
 とにかく、外見と中身が釣り合った(シンタロー基準)マジックに、興味津々なシンタローであるのだ。しかし真夜中のマジックは、あまりにもダンディでハードボイルドで、手なんか出してこない。
 そこが渋い! シブいぜ! かっちょいいゼ! とシンタローは拳を握り締めたくなるのだが。
 かと言って、このまま、永遠に手を出してくれないのは、ちょっと困る。かなり困るのである。
 昼間のマジックは、ますます煩くなるし、俺だって、結構モヤモヤしたりするのである。
 こんな漢心、どーすれば。
 ああ、どーすれば。
 懊悩する、この頃のシンタローなのである。
 男心と、秋の空。



 懊悩しすぎて、本部に入って、総帥室に入ってそれから執務を終えて、見回りをして、昼前にトイレに行って鏡を見るまで、『もう口ききません』ボードを、ぶら提げたままにしているという失態を犯してしまった。
 道理でみんな、ちらちら俺の方を見てると思った。
 俺がカッコイイからじゃなかったのか。
 散々だ。



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 昼休みのことだった。従兄弟三人は、中庭で敷物を広げて、ランチタイムをとっていた。
 共に広げているのは、愛父弁当。不機嫌ながらも最近は毎日作って持たせてくれる、マジック手作りのアイテムである。
 マジックは、先日言っていたことを、実現してくれたのだ。
 まあ節約にもなるしな。昼メシ代って、馬鹿にならねーし。
 節約の気風を広げるには、まず組織のトップが率先するべきだとシンタローは思っていたから、まあこれはこれでいいのである。ちょっと申し訳ない気もする。そんな気持ちを隠すように、シンタローは、カレー粉をまぶした鳥のから揚げを、ぱくんと口に入れた。
 美味い。味がよく染みている。もしゃもしゃ頬張り、晴れ渡った空を見上げる。鳥が数羽、塔の方へと跳んでいく。
 シンタローは、再び手元に目を落とす。
 白米の上には、そぼろと薄焼き卵ときぬさやで、でかでかとハートマークの凝った紋様が描かれているのだが、これは見ない振りをする。
 グンマの弁当にはアヒルのマークが、キンタローの弁当には、ガンマ団のウォール街の株価変動グラフが描かれているから、これでもアイツはかなり頑張っているんだと、シンタローは納得している。
 平和である。
 今度は、春巻きを口に入れながら、シンタローは目を細めている。
 頬に風を感じた。眠くなった。
 しかし眠くなると、寝不足の原因と、そこから発生する最近のイライラが思い起こされて。
「はぁ〜……」
 シンタローは、がくんと首を落した。



 そんなシンタローに、従兄弟が声をかけてくる。
「どぉしたのぉ、シンちゃん。悩み事でもあるのぉ? あ〜、あくびなんかしてるぅ〜! 寝不足なんでしょぉ。んもう」
「どうした、シンタロー。悩み事なら相談に乗るぞ」
「んー、ま、悩み事っつーか……」
 優しい従兄弟たちに、ついシンタローは口が軽くなる。
「……上手くいかねーなって、コトなんだけどヨ……」
「なにがぁ?」
「何がだ!」
「付き合ってても、なんかなー、全部上手くはいかねーんだよなぁ……外見は同じなのに、性格はアッチのがいーんだけどさぁ……いいっつうか、カッコイイっていうか」
 そこまで言って、ハッとしてシンタローは、従兄弟たちを見た。
 彼らは膝に華やかな弁当を広げたまま、自分を無言で注視している。
「……」
「……」
 これはマズい、とシンタローは慌ててこうフォローした。
「あー、そ、そーだ、知り合いの話なんだけどナ!」
「なんだぁ、知り合いの話かぁ〜」
「そうか、知り合いの話か!」
 空気が和んだ。
 上手く誤魔化せたようだ。



「いや〜、ナンか、知り合いが付き合ってるらしいんだけどよ、そんで悩んでるらしいんだけどよ、」
 シンタローは、爽やかに言った。
「ホラ、ホラ、俺ってモテまくりだから、ンなコト悩んだことなくってよ! 相談されても、どうアドバイスしてやったらいいのか、ちょっと考えちまってな! へへ」
 鼻の頭を掻きながら、シンタローは、また従兄弟二人の顔を見た。
 二人は、ふんふん聞いてくれている。
 信じてくれている。俺って演技、うまいなァ〜と、シンタローは自分に感心した。
 おっし、こうやって誰かに他人事として話すのも、一つの手かも、とシンタローは考える。
 自分の中でグルグルしてても、解決するモンじゃねえしな。
 シンタローは、説明を続けた。



「その二人は、固い絆で結ばれてンだ……これが二人の生きる道……ヲヤコど」
「おやこど〜?」
「おやこど?」
「イヤイヤイヤ、最後のは関係ねえ、忘れろ。つーか、『おや? どこ?』の言い間違い」
 ぽかぽかと、三人の上には暖かな日差しが降り注いでいる。
「ま、まあ、その二人は、仲いーんだよ! 気が合うんだ!」
「そっか、ラブラブなんだねぇ〜
「ふむ、相思相愛か」
 話は何とか伝わっているようである。



「とにかくナ、その二人は、その、なんつーか……ほら、アレだよ……ちょっとな……」
 途端にシンタローは、口篭った。悩みの核心部分を、どう説明しようかと戸惑ったからである。
 ヤバい。青の一族純情派に、どーやって話せば!
「つまり、その、二人は絆で結ばれてんのは、いーんだが、その、アレがねぇっつーか、どーも相手の方が、そんな気がないっつーか……手ェ、出してこねえっつーか……あー、おめーらにどう説明したらいいのかなー」
 二人はピュアな透き通ったまなざしをして、シンタローを見つめている。
 一人は花ふりまく笑顔で、一人は眉間にシワ寄せた真面目顔で。
 ああ、俺はこいつらに、何を言おうとしてんだろ。バカだな……あーあ、俺ってバカだな……
 シンタローは、まるで自分が犯罪を犯しているような気分になってくる。
 罪悪感が。ひしひしと。
「あ〜、まあ、つまりは、そーいう二人にならあってもオカシくはないはずの、ものが、ないってコトで……えーと……まあその……」
 もごもご口の中で言ったシンタローは、従兄弟たちを見た。
 そして、やっぱいいわ、と言おうとした。
「ま、まあ、お前ら……」



「うわぁ、それは困るねぇ〜 エッチしてないんだぁ〜!!!」
「何! それは不味い、性交渉がないというのか!!!」
「……お前ら、俺、顔、赤くしていいか?」
 超大声なグンマとキンタローに、シンタローは思わず辺りを見回したのである。



 グンマは、弁当の包みの陰から、菓子を取り出した。
 キンタローは、背筋を正した。敷物のシワを伸ばした。
 二人とも、聞く体制になる。シンタローの方を、見つめる。
「それは大問題だよぉ! もっと詳しく教えてよぉ〜
「それは大変な事態だな。詳しく聞かせてもらおう」
「……」
 シンタローは溜息をついた。
 話すしか、なさそうだった。
 内心、『えっ! やっぱ大問題なのかよ!』と、心配になった。



「まー、その二人はラブラブ。ある意味、ラブラブ。でも節度を守ったお付き合いっつーかな……」
「うん、うん
「ふむふむ」
 シンタローは話し始めたが、だんだん面倒くさくなってきた。
 ぼかして語らなければならないので、細かい所は言うことはできないし、第一、この二人はいちいちツッコミが激しいのである。
 それに科学者だけに、矛盾にも厳しかった。
「で、知り合いは、真夜中にしか相手に会えなくってよぉ……(略)で、朝は煩くて……」
「どぉして、真夜中にしか会えないのに、朝に会ってるの〜?」
「ぐ……まあ、それはナシ! んで、知り合いは相手と夜の街に繰り出したりするんだが、知り合いの相手の弟がいたりして、んで、知り合いは……」
「人物関係が解り難いな。せめてアルファベットなどに置き換えて欲しい」
 と、こうである。
 やりにくいこと、この上ない。
 ほうれん草の胡麻和えを食べながら、シンタローは煩げに言った。
「あーもう、うぜえなあ! んじゃあAとBで」
「それでも、わかりにくいよぉ!」
 グンマのリボンが、ふわりと跳ねた。
「えっとね、じゃあ、その知り合いさんがが、知り合いのSで
 キンタローが、厳かに頷く。
「うむ。ではその相手が、真夜中のMというのはどうだろう」
「……お前ら……ちょっと俺、怖くなってきたんだけど……」
 それでも何とかシンタローは、当たり障りのない範囲で、SとMのあらましを、二人に何とか説明し終えたのである。



 聞き終わると、グンマが言った。
 嬉しそうに愛父弁当を平らげた上に、ぱくぱくチョコレートを頬張りながらである。これでどうして太らないのだろうと、疑問だ。
「でもそんなコト悩むなんて、そのSさんって、Mさんのこと、よっぽど好きなんだねぇ〜」
「ばっ! ばっきゃろ、ンなことねーよっ!」
 シンタローは、つい条件反射で、即刻否定してしまった。二人は不思議そうだ。
「どしたのぉ、シンちゃん、顔赤くしてぇ」
「知り合いの話じゃないのか」
「そぉだよ! 知り合いの話だよッ! 感情移入だ、感情移入!」
 バタンとシンタローは、乱暴に綺麗に空になった弁当箱の蓋を閉める。
 ぎゅっぎゅっと、大き目のハンカチで、弁当を包んでいる。
 ああ、今日も美味かった。腹一杯。マジックの奴……ちゃんと作ってくれたんだよなあ。マジック――
「しかし……」
 キンタローが、魔法瓶から、とぽとぽ熱い番茶を注ぎながら、静かに言った。
「そのSがMに好意を抱いているのは理解したが……果たしてMの方は、そこまでの好意をSに対して抱いているものだろうか?」
「う!」
「MからSに対しての好意は、恋愛的な意味ではないのではないか?」
「ううう!」
 シンタローは、どきんとした。
 そうなのだ。そこが問題なのだ。
 真夜中のマジックは、甘い言葉を囁きはするが、男の絆、ヲヤコの絆以上のものを、自分に求めているかどうかが不安な所であった。
 ヤバイ。これはヤバイ。根本的な問題である。
 自分だけが空回りしている可能性があるのだ。
「……」
 肩を落したシンタローに、『元気を出してっ……ってSさんに伝えてよぅ』『まあ落ち込むな……とS氏に伝えておいてくれ』と、従兄弟たちは同情的だった。
 シンタローは、二人に元気付けられて、心が温かくなった。
 なんていい奴らなんだ。
 騙すのに、気が咎めるほどに。すまねえ、お前ら。
 すっかり心を許したシンタローは、思わず、ぼそりと呟いてしまう。
「ナンか、いい解決法ねえかなあ……」



「えへ〜 それならねぇ、シンちゃん」
 グンマが、悪戯っぽく笑った。
 秘密だという風に、唇の前に人差し指を立てている。
 そして言った。
「誘惑しちゃえばいーんだよぉ
「ふむ。その手があったか」
 シンタローは、黒い目を丸くした。
「ゆうわくぅ?」



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「ん……んっ……」
「……」
「……あ……っ……」
 長椅子が、シンタローの背の下で、ぎしりと鳴った。
 彼は裏返った手の平で、首の付け根を不安定なかたちで圧迫しているクッションを、懸命につかむ。
 握りしめる。押し寄せてくる口付けの感覚に、耐える。
 口内には、温くなった香り立つ液体が満ち満ちて、熱を持ち始めた身体にめぐっていくような心地がする。
 足の爪先が宙に浮いて、不安になって思い切り空を蹴ったら、ぐいと乱暴に膝裏を捉えられて、ますます脚を開かれた。
 上から圧し掛かってくる身体の重みと、濡れた唇のぬめりと、詰まる息が、胸の苦しさへと変わっていった。
 蒼い二つの双眸が、飢えて自分を見据えていた。



「ふ……ぅ……っ」
 相手の舌が、シンタローの舌に絡んで、その口内の酒を啜る。舌から舌へ、酒が流れていく。
 じんと背筋が痺れて、ああ、俺はこのまま酒と一緒に流されてしまうと感じる。
 乱された自分の胸元に差し入れられた手は、悪戯を繰り返していて、やわらかい指の腹で、わざと敏感な尖りを掠めるようにされて、その度にシンタローの爪先は、びくびくと跳ねた。
 熱い。熱いよ。
 ああ、もうだめだ。
 シンタローが、ぎゅっと目をつむった、その瞬間。
 ふうっとそれまで自分を押さえつけていた威圧が、和らいだ。
 覆い被さってくる身体の力が抜けて、シンタローの胸にその純粋な重みだけがかかる。
 ぱたりと、大きな手がシンタローの頬に、落ちた。
「……」
 シンタローは、おそるおそる目を開けた。
 間近で。
 燃え立つようだった男の瞳は消え、その目蓋は閉じられていて、そこには静寂があった。
 シンタローは、ほうっと溜息をついた。
 今日もやっと、日本酒でマジックを酔わせることができた。



「……あーあ〜っと……」
 ずりずりと身体をずらして、シンタローは長椅子とマジックの身体の間から、そっと自分を抜き出した。
 シンタローの身体が消えた長椅子の上で、静かな息をしているその広い背中。
 逞しい首筋。その顔を、しばらく見遣ってから。
 シンタローは、ハッと気付いて、自分の乱れた衣服を整えた。上着の前が、はだけられていた。
 まだ肌に、その感触が残っている。
 しかし今日は危なかった。致される寸前だった。
 なだめすかして日本酒をマジックに飲ませるのも、もう限界なのだろうか、と。
 シンタローは、カーテンの隙間の、暗い窓の外を眺めながら考える。
 仕事から帰ってから、散々に機嫌を取って、好物を作ってやって、熱燗をせっせとつけてやって、最後は口移しで飲ませてやって、やっと酔わせたのである。
 最近はあちら側も警戒心を増していて、何だかヤな感じなのである。
 ほーんと、俺の言うこと、素直に聞けばいいのに。
 ああ、何て手間のかかる奴だ、とシンタローは、考えたが。頭が、先程のキスで、ぽやっとしてしまっているため、上手く思考がまとまらない。
 じんじんとする熱は、いまだ彼の芯を疼かせていて、俺、ここまで拒否らなくても抱かせてやれば良かったかなと、そこまで考えてしまう始末である。
 男の寝息が聞こえる。
 ……ちょっと、可哀想かなと。
 ……騙してるみたいで。
 ……それにちょっと……まあ流されても良かったかな、なんて……。
 長椅子に眠る金色の頭を見ながら、思ってしまうのである。
 さっきまで自分を捉えていた、飢えた双眸を思い出す。
 ――二人のマジック。
 んん。俺って。悩めるオトコ。



 でも、でも。そんなシンタローの思考は、やっぱり。やがて静かに起き上がる、先刻の飢えた瞳とは打って変わって、穏やかでクールな真夜中の瞳に出会って、霧散してしまうのである。
 二人のマジックの間で板ばさみのオトコは、こちらには率先してシッポをぶんぶん振ってしまうのである。
 哀愁を溜息に湛えたマジックは、ゆっくりと長椅子に脚を組んだ。
 そっと薄い唇を開いた。
 まるでシンタローに、秘密を囁くように。
「濃い目のコーヒーが、欲しいな……お前と私の間を、埋めて優しく彩るような……」
「オッケ――――ッッッ!!! 今すぐ、待ちやがれぇ〜〜〜〜ッッッ!!!」
 シンタローはダッシュで、キッチンへと向かった。
 悩んでいる暇はない。
 今夜の俺には、重大な計画が控えているのである。
 この真夜中のマジックの、誘惑計画が。



 ううむ。
 ――誘惑、か。
 シンタローは幾分緊張してコーヒーを注ぎながら、重々しく頷いた。とぽとぽと黒い液体が波打ち、芳香が立ち昇る。
 日本酒の甘い香りと混じり入る、この瞬間が、最近のシンタローのお気に入りだった。
 酒を飲んだ後は、いつも二人でコーヒーを飲むのだ。この頃の、習慣である。
 自分が手差しでゆっくり注いで、注ぎながら相手を上目で見て、相手もこちらを見て、薄く微笑んでくれるのも、習慣。
「ほらよ」
 湯気の立つカップを押しやると、シンタローは自分もカップを手に持ち、ちょっとだけ口をつけた。
 熱い。
 ちょっとだけ猫舌のシンタローは、さますために、そのまま両手で包み込むようにカップを持って、ぼうっと今度は部屋の隅を眺めていた。
 しかし、誘惑する、と決めたものの、その方法が、よくわからない。
 誘惑なんて、どーすりゃいいんだろう。



 誘惑ねえ……。
 昼間にこの話を聞いて以来、ずっと悩んでいたのである。
 シンタローは誘惑なんて、したことがない。もしくは、誘惑した、という意識がない。
 普段は、そんなのしなくても、マジックが勝手に襲ってくるので、今まで必要なかったのだ。
 むしろ、何にもしてないのに『そこにいるだけでお前は私を誘ってる』と心外なことを言われたりするので、ムカつくので、できるだけ自分からアクションは起こさないようにしているぐらいなのである。
 だから、こんな想定外な事態は。
 困る。
 う〜ん、まず単純に考えるに……肌を露出させればいーんだろうか。ろしゅつ。ロシュツ。
 まあそれぐらいは見当はつくのだが、肝心のやり方がわからない。
 経験もない上に、性格上、俺様であるため、誘惑とはシンタローにとって、最も苦手な行為であるのかもしれなかった。



 昼間――従兄弟たちに『誘惑』と提案されて、自分は超知ったかぶりで答えてしまったものである。
『あーあー、誘惑ね。誘惑。ユーワク』
『そおそお、誘惑だよぉ
『その通り、誘惑だ!』
『わかった、じゃ、そう言っとくわ! Sによ!』
 そこで話は終わってしまったのだ。
 いや、自分が終わらせてしまったのだった。わかった、と見栄で言ってしまったが、実は勿論わかっていないのである。
 ああ、もっと詳しく聞いておけば良かったと、シンタローは今更ながらに後悔した。
 重要なのは、方法であるのに。どうやって、作戦を実行するかであるのに。
 今、相手を目の前にして、その困難さを痛感しているシンタローである。
 だって、脱ぐったって。この状況で、突然脱ぎだすってのも、アホみたいだし。
 むしろ変態じゃんかよ!
 そーだよ、このマトモなマジックに、幻滅されたらそれこそ終わりだっつーの!
 うわやべ、どーしよう。
 シンタローは、ちらりとマジックの方を見た。
 彼は一人掛けのソファで、コーヒーを飲みながら、優雅に葉巻を燻らせている。



 もっと下準備をしておくべきだった。
 くぅ……俺のバカ。
 シンタローには直情的な面があるため、どうもこういうことに関しては、考えるよりも先に行動してしまう所があった。
 思いつかねえし、ま、何とかなるだろ、ぐらいの気持ちで、夜に突入してしまったのだが。
 でも。やっぱり、怯む。相手を目の前にすると。
 でも、でも。とりあえず、この状況で、頑張るしかないのだ。
 それが、漢というものだ。
 シンタローは決意した。



 だっ! と勢いよく立ち上がって、少し開いていた窓を厳重に締める。ぎゅぎゅっとカーテンをしっかりと引く。
 そして、棚やら仕事机やらベッド脇をガサガサ探し回り、しばらく使っていなかったリモコンを捜索して。
 電源を入れ、その室温調整ボタンを、ピピピと押して設定温度を上げまくる。
 うーん、50度ぐらいでいいかなあ。
 そしてそのリモコンを、さりげなく本棚の裏に隠す。証拠隠滅。
「……どうしたのかな、マイベイベ……今日のお前は少し忙しいね」
 そう聞いてくる男に、『いっやあ、ちょっと寒いかな〜って! もう冬が近いナ〜! ハハ!』と説明しておいてから。
「なあ、アンタ、もっと酒飲むだろ? 熱いの! あっつーいの、飲もうぜ!」
 相手の返事も聞く前に、シンタローは室内キッチンへと走って行って、カンカンに湯を沸かし始めたのである。



 急激に室温が上昇し始めた。
 熱い。これは熱い。熱風だ。
 ごおお〜とエアコンが、急速回転している。頑張れ、エアコン。俺も頑張る。
 窓が白く曇っている。
「あっちっち〜っと!」
 シンタローは額に汗を垂らして、湯煎をした徳利を盆に乗せて、マジックの所に運んだ。
「お待たせ! さー、飲もうぜ〜飲もうぜぇ〜!」
 そして、どっかりと長椅子に座って。
 相手の様子を見計らって。
「……いやあ、今度は何だか暑いナ! おっかしいな、ちょっと暑すぎねぇか……?」
 さりげなく、自分の胸元のボタンを、一個だけ外してみたのである。
 ちら、とだけ、なめらかな首筋が覗いた。
 大サービスだぜ。
 誘惑するにも、一苦労。
 それにしても手間のかかる! まったく面倒くさい男だぜ、マジックの奴! とシンタローは、全部相手のせいにするのであった。



 しかし、シンタローの期待に反して、マジックは無反応だった。
 相変わらず悠然と葉巻を燻らせていた。部屋の灯りに、彫りの深い顔立ちが、静かな陰影を作っていた。
 その内に、シンタローがちらちら送る視線に気付き、『うん? ああ、すまない』と言って、シンタローの杯に、酒を注いでくれた。
「お、悪りィな」
 シンタローは、それを受けて、熱い液体をぐっと飲み干したものの。
「……う……」
 まるでこちらの誘惑に関心を示さない、マジックに内心不満たらたらである。
 えっ、ダメなのかよ?
 普通のマジックだったら、こんなことしようものなら、ワンワン飛びついてきやがるだろうに。
 まだ足りないのだろうか。



 シンタローは、シャツの第二ボタンも、ぷち、と外してみる。
 鎖骨が見えた。
 マジックが、こちらを見た。
 そして、『暑いのなら、窓を開けようか……? 星が見えるよ』と、腰を浮かしかけた。
 シンタローは慌てて押し止める。
「や、イイ! こーの、ちっとばかり暑いのが、イイんだよっ! ほら、俺、南国慣れしてっから! ハ、ハ!」
 だーらだら汗を額から流しながら、シンタローは、でも、と一瞬戸惑った。
「あ、でも……アンタが、暑いのなら……」
「いや、私は大丈夫さ。お前と一緒なら、火もまた涼し……どこでだって、快適さ」
 シンタローは、壁に備え付けられた温度計の目盛りを見た。
 ――室温50度。エアコンはいい仕事をしている。
 その中で、汗の玉ひとつ浮かべず、変わらない優雅な仕草で酒を傾けているマジックなのである。
 ……やっぱ、すげェぜ!
 性根の座ったオトコだぜ! ハードボイルド! と。
 シンタローは、そんな所で感心せざるをえなかった。



「……」
 ちょっと距離が遠かったから、効果が薄かったのだろうか。
 シンタローは意を決し、しばらくマジックと酒を酌み交わした。
 そして3分に1cmほどの長期戦で、つつつ、つつつ、と尻をずらし、マジックの方に近付いていく。
 これぐらいのゆっくりさであれば、おそらく相手は不自然だとは思わないだろう。
 しかし暑かった。ここは新春我慢比べ会場かと、シンタローの気は遠くなる。締め切られた部屋。
 ゆらりゆらりと、視界が湯気で揺れていた。
 酒も勢い、熱燗であるため、体内からも体外からも、熱の猛攻撃である。
 だが彼は耐えた。涼しい顔をしたマジックの前で、耐えに耐えまくった。
 シンタローは、手を抜くような男ではないのである。
 そして二時間が過ぎて。
 シンタローはついに長椅子の一番端に到達することに成功し、側の一人掛けのソファに座るマジックと、直線距離にして10cmの場所に膝つき合わせることができたのである。
 自然を装うのは、なんて大変なんだろうと、シンタローは考えた。
 今夜に限って、マジックは膝に乗れとも抱っこしてあげるともキスしようとも言い出さない。
 相手の方から近付いてくれれば、こんな苦労はしなくて済むのに。
 自分からって、誘惑って。ハリキリ難しいっての!



 うだるような暑さであった。
 テーブルの上の肉じゃがが、乾燥して、こふきいものようになっていた。
「あ……暑い、あっついナァ〜、やっぱ……」
 本気の言葉だから、我ながら自然なのである。
 環境設定は万全。
 シンタローは、今度はマジックの目線や距離を計算し、ちょっと斜めに身体を傾けて、ようやく上から三番目のシャツのボタンを外す。
 そして、パタパタパタ、と胸元に空気を入れた。
 もっとも、入れる空気も熱風であるので、大して涼しくはないのであるが。
「あっついよなぁ〜!」
「はは、そうだね」
「……」
 しかしこの会話だけで終わってしまった。
 !? これでもダメか? この角度だったら、マジックからは確実にシャツの中が見えるのにッ!



「くぅ〜! あっつい! あっつい!」
 ここまできたら、やるしかない。
 シンタローは、ままよとばかりに、ボタンを四番目まで、汗に滑る指で外す。
 そして思い切って、がばっと胸元を開く。
 くそぉ、これでどうだぁ!
 すると自分からも、薄赤色の乳首が見えて、シンタローは上気していた顔を、ますます火照らせた。
 うわ、うわ、俺って大胆。さそ、さそ、誘っちまってる!
 ガタ、と相手が身動きする。
 来るゾ来るゾ! とシンタローは身構えた。
 ついについに。
 しかし、なのである。
「シンタロー。徳利の酒がなくなったから、そこにある瓶を取ってくれるかい。ああ、常温でいいよ。確かに暑いからね」
 涼しげな声でそう言われて。シンタローは、泣きそうな顔で、テーブルの下に用意してあった、未開封の一升瓶を手渡してやったのである。



 う……俺って、魅力、ねえのかも……。
 自信喪失。俺様は、傷付きやすかった。シンタローは俯いた。
 なんだか、悲しくなってきた、と思った。
 そんな時に、『お前も』と勧められたから、もうヤケ酒だと、シンタローはお猪口を置いて、大ぶりのグラスを取り、たくさん注いでもらって、ぐっと一気に飲み干した。
 そして空にしたグラスを、相手に突き出す。
「もう一杯!」
「随分ペースが速い。顔が赤いよ。大丈夫かい」
「ダイジョーブ! いーから、もう一っぱ……ひっく……注いでくれよぉっ!」
「おかしな子だね。急に飲みたがりだした」
 それでもマジックは、注いでくれて。穏やかな微笑が、その口元に浮かんでいた。
 その優しさに、シンタローは彼の常とは変わらない顔を見つめながら、やっぱり悲しくなるのだ。
 また酒を呷る。ごくりと嚥下する。暑さも合間って、なんだか視界もぼんやりしてくるのだ。
 感情の起伏も、激しくなってくるのだ。



 うう。だって。
 シンタローは、またマジックにグラスを突き出して、酒を注がせながら、考える。
 だってさ。この真夜中のマジックが。
 本物のマジックの、隠された願望だと、したらさ。
 真夜中のマジックが、俺に興味ねえってコトは、本物のマジックも、心の底では、俺に興味ねえってコトかもしんないじゃんかよ。
 なんだそれ、なんだソレ。
 普段は、絶対にヤツに、あのバカに、心の底のコト、聞けないからさ。
 今、今、折角、アイツの本心を探るチャンスなのに。
 だから、こんな風に、誘惑できねえのって。
 俺の自分勝手かもしんないけど! やっぱ。
 やっぱ……。
 ……傷つく……。



 本当にヤケになって、シンタローは、またなみなみと酒の注がれたグラスを、飲み干そうとした。
 その時。酔いと暑さで、ついくらりとして。指が滑って。
「……わっ!」
 ばしゃりとシンタローは生温い酒を、顔から浴びてしまった。
 グラスが、床に転がってカラカラと鳴った。



 傍らのマジックが、立ち上がった。
「シンタロー」
「やっ、だいじょーぶ! だいじょーぶだから、構わねえで、くれよぉっ……!」
「大丈夫じゃないだろう。どうしたんだい、私のシンタローは。先刻から、どうもおかしいね」
「おっ! おかしくて、悪かった……なぁっ! かまうなぁ……」
 ちょっと言葉がたどたどしくなりかけているシンタローは、近付いて来ようとするマジックを、懸命に押し戻そうとしたが。
「構うよ。構うに決まってる」
 そう相手はあっさり言って、長椅子、つまりシンタローの隣に座ってしまう。
 そして『濡れた服を脱ぎなさい』と、ごく自然な動作で指を伸ばしてくる。
 あんなにシンタローは、長時間かけて外していたボタンを、さくっと全部外してしまって。
 シンタローが『え? え?』と状況把握できないでいる間に。
「ほら、肩に力を入れないで」
「? ……ひゃっ!」
 見る間に男は、シンタローの上半身を脱がせてしまったのである。
 健康的で、きめの細かい肌からは、とろりと透明な酒が滴っていた。
 シンタローは、酒で僅かに潤んだ黒瞳で、辺りをキョロキョロ見回して、それから正面のマジックを、見上げた。
 相手は、自分を見つめていた。そしてその薄い唇が動いて、小さくこう聞こえた。
「こんなに……濡れてる」



「へ? わ……わわっ……!」
「静かに」
 視界に影。見上げたシンタローの顔に、相手の影がかかって、青い瞳が近付いてきた。
 身体が強張って、動けない。思考が停止する。
 頬にやわらかい感触がして、そのやわらかさの這った後は、すうっと冷えて、シンタローはそれが相手の舌なのだと気付く。
 酒に濡れた場所を、舐められていた。
 ぴちゃり、と音がした。



「な……っ! や、やめろ……よっ……!」
 条件反射で何とか身を捩ったシンタローだが、相手の手に、後頭部と肩がしっかりと押さえ込まれてしまっていて、ままならなくて、それでも顎を仰け反らす。
 すると頬を這っていた舌が、その形のいい輪郭を辿って、静かに辿って、冷たい感触にシンタローは情けない声をあげた。
「ひ……」
 肌が、ざわめいた。産毛が逆立つ。
 震える瞳で、相手を見上げても、マジックの顔は相変わらずの涼しい顔だった。
 無表情。いや、口元には笑みさえ湛えているのであるが、それでもそれは表情のない顔に見えた。シンタローは、少し驚いて、それから怖くなった。
 彼の目には、何の欲望の色も浮かんでいなかったからだ。
 いつものマジックなら、見つめられただけでこちらが溶けそうになるぐらいの、熱い情を含んだ瞳で、自分を捕らえてしまうのに。
 このマジックは。
 ……まるで機械のような……。
 子供が、ただそこにある食物を口に含んでいるような。
 ただ、酒が零れたから、それを啜っているだけなんだと、シンタローは気付く。
 このマジックは、俺が欲しいから、こんなことをしてるんじゃない。
 酒を追って……俺を……杯みたいなモンだと、思ってるんだ……!
 ぬるりぬるりと舌はシンタローの仰け反らせた首に降り、鎖骨の窪みに溜まった雫を、舐め取っている。
「……ッ!」
 肌を強く含まれて、唇を噛み締めた。
 息をつく。
 すでに馴染みのある快感が、シンタローの中に生まれていた。



「ふ……うっ……」
 それでも逃げようとして、身体を斜めにすると、その動きを利用して長椅子に押し倒された。
 背中に直にベルベットのなめらかな感触がして、上からは体重をかけられて、手足を押さえつけられている。
 酔いが回っているのか、シンタローがいくら動かそうとしても、自分の身体は言うことを聞かないのだ。
 助けを求めるように、相手の目をまた見上げても、やはりそこには何の表情もなくて。
 欲情も興奮もない。ただ、自分を見つめてくる色。
「い、いやだっ……」
 ぞくりと震えを感じて、シンタローの口からはそんな言葉が漏れた。
 すると相手は、シンタローの反応がさも不思議だというように、胸元に唇をつけたまま、首を傾げている。
「どうして? 零れたからだよ……大人しくしておいで」
「こ、こぼれ……あっ、ああっ!」
 すうっとマジックの唇が、鎖骨から下に伸びた。
 綺麗に筋肉のついたシンタローの胸の隆起を、丹念に辿っている。酒の雫を、辿っている。
 決して愛撫ではないその行為が、常とは違う予想のつかない動きをもたらして、シンタローの思考は散り散りになってしまって、霞がかかる。霞の中で、与えられる感覚を追ってしまう。
 そんなぼやけた世界で、また声が聞こえた。
「ああ、ここも……濡れてる」
「! や、やめ……っ……あ……う……っ」
 揺らめいた舌が透明な液体に濡れて、ぷっくりと立ち上がってしまっている乳首の先を、ねろりと舐め上げた。



 びくんとシンタローの身体が跳ねる。
 強烈な刺激が、頭の芯から爪先までを、通り抜けていく。
「はっ……あ……ああ……」
 シンタローは、まるで溺れた魚のように空気を求めて、口を動かした。
 胸の赤い尖り、その先端を舌でチロチロ舐められて、押さえつけられた肌が、震える。
 震えるたびに、熱が、身体の中心に湧きあがった。
 マジックの舌は、小さな硬いそれを、根元から丹念に味わっている。
 まさに、純粋に味わっているのだった。シンタローの胸元を濡らす、酒の味を。
 急に。
「……あうっ……!」
 無心に吸い上げられて、耐え切れずに、シンタローは腰を揺らしてしまう。
 そうすることによって、身の内に篭る熱を、逃がすことができるというかのように。



「う……」
 こんなの、イヤだ。
 はっはっと息をついて、開けた薄目が、マジックの瞳と出会う。
 やはりその目は、落ち着いた色をしていて、シンタローの頬は羞恥に燃え上がった。
 相手が、こんなに冷静なのに。俺だけ、こんなに興奮して。感じてて。
 ――恥ずかしい。
 馬鹿みたいだ。馬鹿みたい、俺……。こんなことしてるのも、されてるのも。
「ん……は……ん……っ」
 一人でこんな声、出しちゃって。
 みっともない……。
「あ……!」
 左胸の酒は啜り終わったのか、マジックの舌は今度は右へと移動して、優しく唇で、触れられないまま震えているもう一つの尖りを、含んでしまう。
 舌先で転がすようにされると、止めようとしても押し止めることのできない声が、またシンタローの唇からは漏れてしまうのだ。
 酔っているせいだ、酔っているから。
 こんなに、冷静な相手に対しても、自制できないのだと、シンタローは自分に言い聞かせている。
 かあっと頭は熱くなっていて、もうどんどんと熱くなっていて。
 真夜中のマジックは、こんなこと、何とも思ってないみたいに見えるのに。
 俺の身体に酒が零れたから、気が向いたのか、舐めてるだけみたいに見えるのに。
 なんで、俺だけ。俺だけ、こんな……。
「んんっ……!」
 またきつく乳首を吸われて、シンタローはもうどうすることもできず、ただ身を喘がせる。



 舌は、酒の零れた筋を辿って、ゆっくり、ゆっくりと、下へと降りていく。
「う……やだって……ああ……」
 力の抜けた腕で、シンタローは相手の金髪を押し返そうとしてみたが、無駄なあがきに過ぎなかった。
 熱い。熱いよ。
 どうしてこんなに熱いんだ。
 身体だって。そうだ、部屋だって。
 潤んだ瞳で見る視界は、どんどん霞んでいって、どんどん遠くなっていくのだ。
 熱い……熱い……。
「……あつ……」
 くらり、と全てが傾いて、反転したような気がした。
 シンタローは、意識を手放した。



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 朝。自室。目覚めた時は、鳥のさえずりが聞こえていた。
 自分が、綺麗に拭かれた清潔な身体で、夜着を着せられて、ベッドの中に一人いるのを発見して。
「……俺って」
 ひどく落ち込んでいるシンタローの姿が、あった。



 ――そして。
「……」
「シンちゃん、元気ない〜」
「また悩み事か」
 放っといてくれ! と。切なく手を払うように振る。
 シンタローは、昼の陽射しを浴びながら、きんぴらごぼうをシャリシャリ食しているのである。
 敷物の隅っこに座って、どよ〜んとした黒雲を漂わせているシンタローを、心配気な従兄弟たちが、気遣った。3つの弁当箱が、鮮やかにきらめいている。
 普段なら楽しいはずの、食事の時間。
 晴れ渡った空。俺の心は、どしゃぶりだというのに、とシンタローは、うつろな目で空を見上げる。
 ああ。空の青さが目に痛い。



 ピーヒョロ〜とトンビが、頭上に円を描いて、飛んでいる。
「シンちゃん、どしたのぉ〜? 泣きそうだよぉ」
 ホタテ入りの炊き込みご飯を頬張りながら、グンマが心配そうに言った。
「シンタロー、どうした! 気分がすぐれないのか」
 左手に携帯で株価チェックをしながら、右手に箸でシャケの切り身をほぐしながら、キンタローが眉をしかめて言った。
「……」
 シンタローは、それでも黙っているのだった。
 だが、黙ってはいたものの、ぽかぽか太陽の光が自分を照らすのを、感じていた。
 黒い髪が、集めるあたたかさ。この二人は、いつも自分を気にしてくれている。
 二人ともちょっとおかしな所はあるが(ここでもシンタローは自分のことを棚に以下略)、従兄弟思いのいい奴らなのだ。
 シンタローはちょっとジーンときた。
 その反面、自分を憂鬱にさせるのは、いつもマジックなのだと思い、深い溜息をついた。
 三角座りをした自分のブーツに、蟻が一匹這ってきたから、ひょいとつまんで側に放る。
「……あ〜あ……」
 思わず、声が出た。
 憂鬱だった。思い返すと、顔が朱に染まるほど、がっくりと落ち込むほど。
 ひどく憂鬱だった。朝から、ずっとこの重い気持ちから、逃れることができない。



「あ、わかったぁ、シンちゃん」
 グンマが、ずずいと自分の方へ、身を乗り出してくる。
「昨日の相談事、上手くいかなかったんでしょぉ〜」
「う……」
 キンタローが、さもありなんという顔で、頷いている。
「お前は不器用だからな! 上手くいかんのはよくわかる」
「うう……」
 図星なのである。
 唇を曲げているシンタローに向かって、従兄弟二人は、金髪をきらめかせて、明るく言った。
「僕たちに話してごらんよぉ また力になれるかも」
「そうだ! 俺たちに話してみろ。何か考えてやろう」
「ううう……お前ら……」
 二人の目には、善意が溢れていた。
 ちょっと感動したシンタローは、つい気を許してしまって。
 あくまでぼかしてであったが、誘惑作戦が失敗に終わったことを、二人に話したのであった。
 最後に、『と、Sは言っていた』という台詞をつけることも、忘れなかった。



 聞くなり、グンマが呆れて言った。
「それはヘタクソだよぉ、そのSさんっ。だって、ただ服のボタンをはずしてくだけなんてぇ〜!」
 どき! ヘタクソ。
 キンタローが、渋い顔で言った。
「それに、S氏が室温を50度まで上げたのが、敗因だろう。個体の生存レベルを考えた方がいい」
 どきどき! 敗因。
「相手のMさんだってさぁ〜、そんなの対応に困るよねぇ!」
「それで最後に気絶されては、相手も驚いたろう」
 どきどきどき!
 やっぱ……俺がヘンだったのかぁぁ!!!
 シンタローは、頭を抱えた。
 しかも、こいつらに、そう断言されるぐらいなんて。相当のレベルじゃねえか!
 俺、もう真夜中のマジックに、幻滅されてるかもしんねえ。
 もう……もう……。
 ――誘惑作戦は、あきらめた方がいいのかも……。



「案ずるな、シンタロー」
 そう、落ち込むシンタローの肩を、キンタローがぽんと叩いた。
「そうだろうと予測していた。ここに……」
 ごそごそ。
 キンタローが弁当箱の下から、なにやら分厚い紙束を取り出してくる。
「ここに、日本酒と誘惑について、ネットと図書カードで検索した結果をプリントアウトしておいた! 世界中から情報を集めたのだ!」
 きらり。
 太陽の光に、掲げられた書類が映えた。
「お……お前……そこまでやってくれたのか……」
 シンタローには心底ありがたいと思った。
 そうか、世界中から情報を集めたのなら、一般的だし、正確だよなぁ!
 グンマもにこにこ顔である。
「わぁ さっすがぁ、キンちゃん、お気遣いの紳士
「世界80億以上ものURL、いいか、世界80億以上ものURLを組織化したのだぞ! その中から最適なページを検索する最新鋭のGANMA-searchの機能を試す時が来た! すでにお馴染みGANMA-mail、GANMAメッセンジャー、GANMAツールバーと共に、我が団への忠誠度ランク付けなど、様々な要素を盛り込んだ、まさにネット界のトップに躍り出るものであって!」
「敵はマイクロソフトだよねぇ! いずれはOS GANMAで世界征服
「ん、まあそれはいいから、要点だけ聞かせろ」



 そんな訳で、昼休み一杯を使った長い話の後に、ぽんとリストを渡されて、シンタローは首を傾げる。
 実は覇王の血を色濃く受け継いでいるのかもしれない、二人から、シンタローが得た情報は、最終的には。
「ああん、着物ぉ?」
 日本酒を飲む場では、着物で誘惑するのがいい、という単純なものだった。







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