真夜中の恋人

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「……?」
 その日シンタローが仕事から帰ると、何だか部屋が暗かった。
 今日のマジックは、早めに帰宅しているはずである。彼のスケジュールは聞いていた。
 気配はあるのに、もうとっぷりと日が暮れているのに、家の中は暗い。玄関前にも玄関ホールにも廊下にも、灯りはついてはいなかった。
 まあ、家は半分吹き飛んだままで、申し訳程度の修繕が始まったくらいだから、月の光で真っ暗闇という訳ではないのだが。
「……お前ら、ここちゃんと直しとけヨ」
 シンタローは不審に思いながらも、崩れた壁から玄関に入り、後ろを歩く従兄弟二人に、ひと睨みをきかす。
「大丈夫だよぉ! シンちゃんがびっくりするくらいに、直しちゃうから
「うむ。驚愕は人生のスパイスだと聞く」
「何ィ? おいコラ、びっくり驚愕はダメだかんな! フツーに直せ! 普通に!」
 ったく!
 シンタローはどかどかと軍靴の音をさせて、暗い廊下を突き進んだ。
 突き当たりの居間も、やはり暗い。



「あんだよ、どーして真っ暗なんだよ」
 暗いけれど、気配は、ある。
 パチリと居間の明かりをシンタローがつけると、部屋中央の長椅子では、マジックが横になっていた。右肩を下にして、腕を枕に、ただ黙然と、である。
 不思議に思ったシンタローは、ちょっと焦って、つっけんどんに聞いてしまう。
「……どーしたんだよ」
「……」
「なんで黙ってンだヨ」
「……」
 相手は、ちらりとこちらを見て、すぐにまた目を伏せてしまった。



「……?」
 どうしたんだろう、とシンタローがそのまま立ち往生していると、たたたたーと、グンマがシンタローを擦り抜けて、マジックの寝ている長椅子に駆け寄っている。
「おとーさま、どぉしたの? お加減でも悪いの〜?」
 ソファの肱置きに両手をついて、マジックを覗き込んだグンマのリボンが、揺れた。
 するとマジックは、グンマを見上げて、力なく微笑んだ。
「ああグンちゃん、ありがとう。ちょっとね……ちょっと」
「おとーさま、今日は朝も元気なかったもんねえ。お疲れなんだよぉ〜」



「伯父上!」
 その光景に反応することもできず眺めているばかりのシンタローを、またもや擦り抜けて、今度はキンタローが、だだだだーと、長椅子に駆け寄った。
 長椅子の背凭れに両手をついて、マジックを覗き込んだキンタローの鞄が、床に落ちた。
「伯父上。風邪ですか。最近はとみに、いいですか、とみに! 流行っているようです! まず梅干の黒焼きを、包丁の背でよく叩き、熱湯200mlをそそいでかき混ぜる。そして人肌程度の温度に冷めたところを、一度に服用する。いいですか、一度に! 一度にという所が肝要! もしくは親指の先ぐらいの、生姜の絞り汁に蜂蜜を加え、熱湯で薄めて飲み、暖かくして寝るとよいと聞きます。俺がこの一連の作業を32分後から始めましょう。正確には31分と49秒後。48秒後。47秒後……まず自室に帰り、本日のまとめを詳細に記録し、さらに……」
「大丈夫だよ、キンタロー。ありがとう。心配ないよ、ただちょっと……」



「おとーさま、かわいそう」
「伯父上。無理なさらないでください」
「ああ。すまないね、お前たち」
 暖かい家族の輪。キラキラと灯りに金髪輝く、この三人。
 この家族の輪に入るきっかけを失い、シンタローはやっぱり立ち尽くしている。たらりと、その額から汗が流れ落ちた。
 な、なんだ、この雰囲気。ひょっとして、俺、乗り遅れた?
 え。俺って、ハブ?
 後ろめたい事情を抱えているだけに、シンタローはビクビクした。



「あー……うー……」
 自分も優しい言葉をマジックにかけてみたいとも思ったが、言葉にならず、口をパクパク動かしているシンタローである。
 何と言えばいいのか、わからない。訳もなく黒いコートの裾を、指でいじる。
 お、おー、ちっとばかり糸がほつれてやがるな……後で繕っとかねーと……って! って!
「シンちゃ〜ん」
「シンタロー」
 ハッとして。二人の従兄弟に凝視されているのに気付き、シンタローは身を強張らせた。
「あ、あんだよ!」
 ちょっと声が上擦ってしまったかもしれない。
 責められているように、思えた。胸の内で、どくどくと緊張が高まる。
「お夕飯、ピザでもとろうよぉ! おとーさま、お加減悪いみたい」



 少し気抜けしたシンタローが、『お、おう』と頷くと、キンタローが意気揚々と名乗りを上げた。
「俺がやろう。ピザをとるのは初めてだ!」
 グンマがにこにこ笑っている。
「わぁ、キンちゃん 初めてのピザ宅配だねぇ! いーい? ピザ屋さんにお電話するんだよぉ」
「うむ。それには、まずピザのなりたちから調べねばなるまいな。相手はピザを生業としている人間だ。こちらが無知では礼を失する!」
「ええー、それ時間かかりそうだよう! それより電話……あれっ、電話番号わかんない〜 電話帳……もないよねえ、あっ! 自分から取りに行った方が早くない? お店どこにあるのかわかんないけどぉ」
 こんなお屋敷には、宅配ピザのちらしなんて、届くはずがないのである。



 最終的にはピザ屋に押しかけて弟子入りしてしまいそうなキンタローとグンマが、ウキウキしながら場を去ってしまうと。
 ……あいつらに任せといて大丈夫かよ……別にピザじゃなくていいんだぜ……とも思ったものの、もっと気になることが、あったので。
 自室に戻る気にもなれず、シンタローは、そのまま居間の一人掛けのソファに、そっと座った。
 横になったままのマジックが、またちらりと視線を投げかけてきて、気のない風に静かに伏せた。
 沈黙が降りた。
「……」
 シンタローは、再びコートの裾をいじってしまう。気まずい。なんだ、この気まずさ。
 そして部屋が暖かくなったことに気付き――さっきまでマジックは暖房さえつけていなかったのだ――慌ててコートを脱いだ。
 そして今度は、総帥服の裾をいじる。しきりにいじる。
 まだ相手は黙ったままだった。
 ぐ……。
 いたたまれず、シンタローは腰を上げかけて、また座り直す。ちくしょう。
 何だかこのままにしておいてはいけない雰囲気なのである。重い空気。しかも自分が切り開かねばならないという圧力を感じる。
 俺が。俺が何とかしなくちゃいけねーのかよ! ああもう!
 ついに決心したシンタローは、バッと顔をあげて、マジックに話しかけた。



「あんだよ。気分でも、わりぃのかヨ」
 しばらくして、返答があった。それでも相手の目は伏せられたままなのであるが。
「……別に」
 素っ気なかったが、とりあえず相手が口を開いてくれたことに安堵し、シンタローは会話を続けようとする。
 心なしか自分が焦っていることに気付く。なんてこったい。
 しかも明らかに、マジックの態度は、さっきのグンマやキンタローに対するものと、違う! 変えてやがる!
 俺にだけ態度違うってコトは、俺に……やっぱ、怒ってんだよな……。う、どーしよう。
 マジックのこの様子は、体調がどうこういうよりも機嫌の問題なのだろうと、シンタローは、長年の経験から、すでに気付いていた。
 とにかく何とかしようと、話題を探す。
「あ、あのさっ! この前コンビニ行った時の、店の前にいたカワイイ野良犬! アンタ覚えてるかよ?」
 また間があって、答えが返ってくる。
「……ああ」
「さっき帰りに、たまたま軍用車で通りがかったらよ、あの、前にコンビニの店員かなんか、いたじゃん。あのボサッとしたの。あいつが、エサやってるの、見つけちまってよ」
「……」
「残りモノかなんかなのかナ。いや感心感心と思って、車とめさせて降りたら、そいつ、逃げちまって。なんだアイツ。仕方ねえから、犬のアゴだけ触ってやって、帰ってきた」
「……」
「……つまんねえ話かよ」
 相手が黙っているので、シンタローはムッとしたものの少し気弱になって、相手を睨みつつもこう言ってしまう。
 すると、相手は暗い窓の外へと目を遣って、そっと呟いて。
「……あの時は、楽しかったなぁ……」
 なんて、溜息なんぞ、ついている始末。
 あんだよ、今は楽しくないってか。わりかったな、どーせ俺の話はつまんねーよ。
 シンタローも負けずに溜息をついて、厳しく腕を組んで、対抗してやるぞという空気を作ろうと努力してみる。
 自分も窓の外へと目を遣ってみる。
 そしてその反面、きっと相手は、真夜中のマジックのことを考えている自分のせいで、不機嫌なのだろうと思った。罪悪感が胸に迫る。
 昨日の朝だって、こう聞かれた。
『まさか……浮気……?』
 今日の朝も、そういえばそっけなかったし。



 ……でも、俺にも意地があるのだ。暗闇を見つめながら、そうシンタローは、拳を握り締める。
 だって。だってさ。
 この目の前のマジックだって、真夜中のマジックだって。俺は……俺は。
 心の中の声だったけれど、渾身の力を振り絞って、シンタローは言葉を搾り出す。
 ――俺のこと、本当はどう思ってるのか、気になる――
 最初の言葉が飛び出せば、後は溢れ出すように、胸に波打つ気持ちと、記憶に残る台詞たち。
 ……ああ、ちくしょう。悪いか。気になんだよ。
『私は、いつでもどこでもどんな瞬間でも、あらゆる場面のシンちゃんが好きなんだよ』
 ア、アンタは、よくそう言うけどな! 日本酒飲む前にも、言ってたけど!
 いつでもどこでもどんな瞬間でも、あらゆる場面のアンタは、俺が好きなのかよ。
『お前の方から、私に興味を持ってくれたらいいのに……』
 アンタ、俺が日本酒のコト、知らなかったことに文句言ったら、そう自分で言ったじゃねえか。
 だから、俺はカラダ張って、アンタのコト調査してんのに。
 ドクターが、酒飲んで変身しちまったアンタが、本心だとか言いやがるし。それが本当なのかそうじゃないのか、わかんないケドよ。
 そう言われちまったからには気になるじゃねえかよ。悪いかよ。気になんだよ。
 絶対にわかんねえままだって思ってた、アンタの本心、探るチャンスだと……思って……。
 っていうか! 俺は別に、アンタが俺のコト好きかどうか自体が気になるっていうより! そ、そーだ! 単にウソつかれてたら、ムカつくとか。ムカつくとか。ムカつくとか……。
 そんな理由だけどな!
 俺は、ウソつかれてるのが、一番嫌い。
 ウソつかれて……俺が、それ、信じちゃうってのが、一番、怖い……。



 ……そんでさ。いっつも、強い人ぶってる……アンタの、弱いとこ。
 弱点。日本酒が苦手ならさ、それ、知りたいんだよ。隠すなよ、バカ。
 いつものアンタが隠すから、俺、こんなことしてんだよ。信じねーかもしんないケド、そーなんだよ。
 アンタが隠すから、真夜中のマジック、カッコイイ! って思ったりすんの。まー、俺も酔っ払って出来上がっちゃったら、なんかよくわかんなくなるんだけどよ……ハードボイルド好きってのもあるけどさ……。
 だって、だってさ。
 真夜中のマジックは、ちゃんと俺に自分の過去とか語ってくれたりさ……裏表ねえから、きっと俺が真正面から『俺のコト好きかよ』って聞いたら、さりげなく答えてくれるに違いねえんだよ。聞けねーけどナ。
 聞けねーから、しかも、そういう意味で好きかが知りたいから、俺、色々変わったコト、しようとしてんだけど。
 ……あのさ、本当のアンタが、自分のコト教えてくれなくて。
 俺は求められて迫られるばっかりなのって。
 ――ほんとは、寂しい――
 真夜中のマジックって、クールなようで、感情わかりやすいじゃん。
 あの人と俺、すぐ感動して一緒に泣いたり笑ったり、喜んだり、すげえ二人とも素直にできるんだぜ。俺も酔っ払ってるからなんだけど。
 ……でもさ、本当のアンタは。
 俺さ、時々アンタが、笑ってないことに気付くと、何もかもがヤになること、ある。
 今だって、笑ってねえじゃん。何か怒ってんだけど、ほんとに怒っちゃうと、黙っちゃうんだよな。
 何考えてるかとか、感情、隠しやがる。
 そうなんだよな。それが……ヤなんだ、俺……。



 シンタローはそのまま、窓の外を向いたまま、マジックの側に座り続けていた。
 マジックもそのまま、じっとして窓の外を見続けていた。
 二人は黙ったまま、同じ方向を向いたまま、でも心はバラバラだった。
 時が過ぎて。
 結局、全身汗だくになりながら、アフリカ1号に乗ってピザをゲットしてきた(一体どこまで行って、何をしてきたんだろう?)グンマとキンタローが、満面の笑みと自信満々の表情を見せるまでに、数時間を要した。
 ちなみにキンタローは、梅干の黒焼きを失念していたらしく、後で床を叩いて自分を責めていた。
 それはともかく。案の定。
 無事に食事を終えた頃には、真夜中だったのだ――



 その後。
「今日はな、アンタ、暖かくしてそのまま寝ろよ! あ、あのな、それに……ええと、何でもねえ……」
 本当は体調を気遣っていたのに、ぶっきら棒にそう言ってしまった、シンタローに対して。
 マジックは。
「いや。飲むよ」
 自分から日本酒を取り出してきて、素直に日本酒を飲んだ。



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 中庭を横断する屋根付きの渡り廊下は、足を踏み出せば、きしきしと柔らかい音。
 シンタローは少し首を上げて、屋根と白壁とに四角く切り取られた夜空を見上げた。星。星。
 今。澄んだ空気の中を中庭の一角にある離れに、二人は向かっている。
 四季を意識して植えられた様々の木々が、秋の装いを闇にこらしていた。小さな手を重ねるように、もみじがその濃淡を、かすかに揺らせている。
 夜の紅葉は、また風情があるのだった。
 その向こうには、庭の一角にある菊花壇が、ぼんやりと浮き上がって見える。草木の香り。薄い風。
 廊下は平屋に続いている。寄せ棟造りの、落ち着いた趣き。薄い木材の色と香りが、心地よい。
 基本的には洋風建築の一族本邸、その中庭に、こんな和風の建物があるのも、よく考えればおかしなものであるのだが。これは言うまでもなく、マジックの日本贔屓の賜物である。
 凝り性の彼は、本邸内に檜風呂まで造らせてしまった。
 シンタローも時々使っているが、なかなか気に入っている。熱い風呂は日本文化の極みだと思う。
 そんなことを考えながら、夜を行く。



 透かし模様の入った和紙が、ほのかに光をたたえている。シンタローは障子を開けて、背後を振り返った。
 数歩後に続いていたマジックと、視線が合って。相手は、にこっと笑いかけてくれる。
 彼は青い目で、ちらりと部屋の中を見て、言う。
「準備しておいてくれたんだね。ありがとう」
「……や、まあ」
 シンタローが。
 この部屋を選んだのは、作戦なのだった。日本酒と誘惑には、雰囲気が大切。
 こう、しっとり感。艶っぽさ。空気に滲むような、しなるような和の美学。
 そんな雰囲気の演出には、小道具が必要なのである。昨日の失敗で、シンタローはそのことを痛感している。熱帯部屋で誘った自分は、雰囲気なんて、まったく失念していたのだ。
 あれから考えるに、失敗の原因は雰囲気作りにあったのだと、シンタローは結論付けた。
 こんどこそは失敗できないのである。これが最後だと思った。
 従兄弟たちから得た情報、そしてリストにあった小道具や演出方法。それを使って。俺は、やる。
 日本酒を適量――この頃ではシンタローも、彼が酔ってしまう分量は心得ていた――飲んだマジックが、いつも通りにしばらく眠っている間に、迷いながらもシンタローはその準備を済ませた。
 こうなったら、やるしかねえぞと、自分を奮い立たせながらだ。
 後には引けないのだ。
 そして今、この和室に、マジックを導いた。
 鼻の頭を掻いて、目で『入れよ』とシンタローは促して、自分も畳に足を踏み出した。



 八畳間を砂壁が穏やかに囲み、襖絵のあでやかな椿が目を射る。
 山水彫の飾棚の木目は、静けさに浮かぶ水面の輪のようだった。
 漆塗りの座卓は、部屋の明かりに優しく輝く。その上には。ありあわせの食材。
 いつだったかの残り物の塩鮭の身をほぐして、焼き海苔をかけた熱い茶漬け。
 小皿に、自家製の糠漬け。白菜、きゅうり、小茄子。
 それから、しらすに大根おろし。冷蔵庫の隅に転がっていたアボガドを薄く切って、わさび醤油につけたもの。
 ……本当は、ピザなんて無理して頼まなくたって、材料はその気になればあったし、俺が手早く作ればすぐだったんだけど、と。
 シンタローは、鼻の頭を掻いて、何となく自分の親指の爪のかたちを見つめた。
 でも、グンマもキンタローも、ピザを頼むことを非常に非常に楽しんでいたようなので、『いいよ、お前ら』と言うのははばかられて。
 まったく。あいつらは、もう。
 シンタローは内心で苦笑し、マジックが腰を下ろしたのを見届けてから、その向かい側に、自分も座った。
 座布団が、少し冷たかった。



 しゅっとマッチをすって、卓上用の焜炉に火をつけ、黒々とした南部鉄瓶に燗をつける。
 張られた湯に肩まで浸かった徳利は、ほのかな香りを漂わせ、和室に暖かみを生み出していく。
 シンタローは、几帳面に徳利の口をのぞきこむ。そのうち底の方から細かい泡が、とぽとぽと浮き上がってくる。
「あちち」
 徳利を取り出そうと、布巾で包んで持ち上げたものの、やはり熱かった。
 シンタローはまた、自分の耳たぶを触る。正面に据わるマジックと、視線が合う。相手が優しく微笑んでくれるから、こっちだって、ニッと笑い返す。
『パパの手の方が、冷たいよ』
 そんな台詞を思い起こして、マジックの手を触ってやろうかと思ったが、止めた。
 まだまだ、夜は長いのだし。それにやっぱり……照れくさかった。
 相手が手を伸ばして、自分に酌をしてくれる。自分も相手に、酌をしてやる。
 二人で目をかわしながら、お猪口を傾ける。
 熱い液体が、体内に染み渡っていく。美味い。目の前に、マジック。
 なんだか、いい雰囲気。
 へへ。
 おいおい、今夜は成功すんじゃねえの? さすが俺。



 酒を酌み交わす。ますますいい感じだった。
 ちょっと幸せ気分になって、人心地ついたシンタローは、再び従兄弟たちのことを思い出す。
 あいつら。
 それからぐるりと自分の周囲を見回す。
 日本酒に合った、このセッティング。雰囲気作り。彼らのアドバイスのお陰で、なんだか。ちょっといい感じなのである。
 だけどよ。そう、シンタローは心の中で、呟いた。これだけじゃあ、なんだか、しっくりこない。
 シンタローは、性格的には、何でも自分でやりたい男であるのだ。
 あのリストは参考にしたものの、全部を全部それに任せるのは、矜持が許さない。
 俺だってなあ!
 従兄弟たちに頼るだけではなく、シンタローだってちゃんと自分の頭で、作戦を少しは考えてあるのだ。
 クッ! こーなったら! 最終手段、やったろうじゃねえの!
 シンタローは、ふかふかの座布団を蹴って、勢いよく立ち上がった。
 ちょうどシンタローも酔ってきた頃だった。
 据わった目で、マジックを見下ろす。言う。
「……いいモン見せてやっから、待ってろヨ」



 そうマジックに言い置いてから、シンタローは。
 襖を開けて、ピシャリと閉め、続き間になっている隣室にしばらく篭る。
 何やらごそごそやっている。
 そして。
「どうだぁぁ――!」
 すぱーん! 襖を勢いよく開く。
「どうもぉ〜〜〜!!! 桃色筋肉青年ピーチマンでぇ〜〜〜すっ!!!」



 日本で酒の席といえば、宴会芸!
 宴会芸のフリをして、露出の少ない衣装で誘惑! 着物なんかよりも、こっちのが効率的なハズ!
 昨夜は普通の衣服から脱いでいったから、時間がかかったのである。
 だが、これならば!
 妖しく輝くレザー製、ぴちぴちのベスト、パンツ、リストバンド!
 黒い鋲つきがストイックなエロチシズムをかもしだす!
 オリジナルに胸元は桃の形にあけてみたゼ!
 俺、ダイタン!
 チクショオ、親父ぃ! ハードなお兄さんは好きですかぁぁ!!!
 どうだ、食ってみやがれえ!!! ハードな気分になりやがれえええ!!!
 シンタロー、渾身のハードな誘惑だった。



 ぱちぱちぱち。
 しかし。気合充分のシンタローに返ってきたのは、拍手とピュアな賛辞だった。
「ブラボー! 見事だ、シンタロー!」
 マジックは感に堪えないという様子で、首を振っている。
「ああ、エンカイゲイ。ジャパニーズ・ゲイの世界だね! 素晴らしいよ、シンタロー……!」
 あれ。
 なんか、純粋に喜ばれている。
「フ、フォー!」
 とりあえず、掛け声をシンタローはかけて、ポーズを取る。ぐっと両腕に力こぶを作って、胸を張り、天井を仰ぐ。
 すると相手は、ますます目を輝かせた。
 マジックの拍手に合わせて、とりあえずシンタローは、カッコよさげなポーズを決めてみる。とりあえずボディービルダーみたいな、筋肉がキレイに見えるらしい、ああいうポーズを。
 グッ! グッ! ググッ!
 すると惜しみなく注がれる拍手。
 にこやかな微笑みを浮かべているマジックの、まるでオペラハウスで観劇しているような、妙に優雅な拍手。
 それを受けて、シンタローは、ちょっとヤケになって、『ハードにカンパ〜イ!』『フッ……乾杯』と、酒を呷る。どんどん呷る。
 ああっ! もう! 俺が求めてンのは、こーいうのじゃねえんだよっ!
「ぐぅ! こうなりゃ飲んでやる!」
「はは、シンタロー。いい飲みっぷりだ」
「ひっく……ア、アンタ! 何も感じねえか? 感じねえかよぉっ!」
「感じてるよ。いやまったく素晴らしい。日本文化なんだろう、これ。しかしどうしてピーチなんだい」
「うう……飲んでやる! ピーチはなあ、ピーチは、その、おいしく食べやが……ぐう! 何でもねえ! 酒だ! 酒をつげェ――!」
「どうしたんだい、この子は。ああ、涙目だ。さては飲みすぎたかな……私のレザー・キャットは」
 真面目に誘惑ネタの説明をさせられることほど、悲しいものはない。
 しかし酔ったせいもあり、半ば逆ギレのテンションになってきたシンタローである。



 やがてマジックは、こんなことを言い出した。
「そうだ、芸。こういうのって、イッパツゲイ? っていうのかな。聞いたことがある……七変化? もしかすると7回ぐらい変わるのかな」
「えっ、7回!」
「ああいや、気にしないで欲しい。1回だけでも十分だよ」
 ギリギリ。シンタローは、唇を噛んだ。そうか。数が足りなかったんだ!
 後には引けないったら、引けない。
 こーなったら、とことんやるしかないのである。
 7回? や、やばい! そこまで考えてねえけどっ!
 シンタローは、目の前のマジックを見た。その邪心のない顔。
 悔しい。このままじゃあ、悔しい! 引き下がれねええ!!!
 俺は死んでも生き返った男! ガンマ団ナンバーワン! なんてったって総帥! なのだ!!!
 できるだけマジックの好みを考えて。ありあわせのもので、間に合わせるしかない。
「くっ……こーなったら、7回、変えてやろーじゃねえかあっ!」
 数打ちゃ当たる! たくさんやれば、相手が反応するモノがあるのかもしれないのだ。
 クッソォ、覚悟しろ! カラダを張って、アンタの真の好み、はりきり調査してやろうじゃねえのよッ!



 こうして。
 二回目:腹芸
 三回目:薔薇族
 四回目:ふんどし
 五回目:ミニスカポリス(なぜ家にあるかは略)
 六回目:猫の首輪(同上)
 シンタローの悲しみは、繰り返されたのである。



 シンタローは失意の内に、六度目の襖を閉めた。
 あーあ……今度もダメか。特にピーチマン、自信作だったのに。
 楽屋がわりの隣室でしょんぼりと肩を落す。自分ではめた猫の首輪を、もそもそ外す。首をこきこき鳴らす。
 ダメだ。
 真夜中のマジックの好み、俺、わかんねえよ。昼間のマジックの好みを考えてやったから、ダメだったのかなあ。
 それとも。やっぱ。一人じゃインパクト弱いんだろうか。
 何人かで組んでピーチメン、複数形でやるべきなのか……待てよ俺、集団で誘ってどうする。それよりこれに拘ってどうする! マジック誘惑の目的を見失ってどうする!
 つい手段が目的になりそうな自分を抑えて、シンタローは、溜息をつく。
 彼は負けず嫌いで、けっこう凝り性だった。呟く。
 でも自信作だったからよ。いいアイデアだと思ったのに。マジック、好きそうだと思ったのに。
 深く心残りを漂わせて、落ち込みながらもシンタローは。
 7回目の衣装に着替える。これは前もって用意しておいたものだ。
 結局、やっぱりこれなんだなあ……チッ。
「……」
 一つ息を吸って、シンタローは静かに襖を開ける。
 なぜかさっきよりも照れくさくって、シンタローは相手の顔を見ることができず、畳に目を落とした。
 しかし彼のまなざしが自分に注がれているのは、感じていた。
「最後は、和服かい」
 そんな声がかけられたのが、わかった。



 純白も目に眩しい正絹の長襦袢の上に、群青地に花と手鞠を泥染めした、大島紬。
 きゅっと銀色の羽織紐を結べば、着物姿の自分が、姿見の中でこちらを見つめている。
 身も心も、引き締められていくような心地がした。
 滅多にすることはないが、シンタローは和装が好きだった。背筋を正すような気持ちがするからだ。
「……」
 自分の姿を、また見つめて。それは、自分自身を見つめ直すようで。
 そしてシンタローは思ったのだ。
 ――男らしく、はっきりさせよう。



 これから自分が、どうやって彼を誘惑するかなんて、もう思いつくことはできなかった。
 昨日と同じように、着物の胸元を段々広げていったり。3分に1cmほどの長期戦で、尻をずらして、マジック接近作戦を展開するぐらいしか。
 俺には。
 そしてそれでは、また失敗することは、目に見えていた。きっと同じことの繰り返しになる。
 俺はこういうのは、不得手なのだ。遠まわしに迂遠に物事を運ぶ、そもそもそのこと自体が苦手なのだ。
 それぐらいなら、いっそ。
 シンタローは、両の手の平で、自分の頬を思いっきり叩く。



 ……今までの俺、男らしく、なかった。
 直球で、行けよ、俺。それが俺だろ。
 自分らしくないのに、苦手であるのに、その遠まわしの道をわざわざ選んでいた自分は、真夜中のマジックに『興味がない』と告げられることに怯えていたのだと思う。そのことは、わかっていた。
 今だって。そんな結果が待ち受けているのかもしれないと思うと、胸の奥が、つきりと痛んだ。
 だから、気持ちを知りたいと強く願うようになってからは、意識しすぎて、前のようにマジックの側に行くことだって、そうやすやすとはできなくなった。
 意識しなければ、あのマジックだったら、自分は膝に乗ったりなんかできてしまう程なのに。
 シンタローは、自嘲気味に考えている。酔いが回った世界に入り込んだばかりで、その新鮮さを純粋に楽しんでいた頃は、良かった。
 それなのに。
 ――マジックは、俺のこと、すべての意味で、好きなのだろうか。
 すべて。何もかも丸ごと、全部含んだ意味で、俺を愛してるんだろうか。
 そのことを意識するだけで、途端にかちんかちんに凍りついてしまう自分の身体が、不思議で。そしてやっぱり。
 ……悔しい。
 でも。シンタローは、心を決める。
 逃げちゃ、ダメだ。
 こんなことずっとしてたって、仕方ない。逃げないで。ぶつかろう。
 今まで迷っていたのに。
 一度そう決めてしまうと、すうっと身体の芯が、透き通っていくような気がした。
 やはり俺は、自分らしくやるしか、ないのだ。それが似合ってる。
 今度は直球で。聞いてやろう。
 やるしかない。だってな。
 ――俺は、マジックの気持ちが、知りたくって。それから。
 ええい。認めたくねえが! 嘘……嘘つかれたら、ムカつくってだけだけど! だけだけど!
 ――丸ごとすべてじゃないと、我慢ならない。
 そんな想いで、シンタローは、これが最後と念じて襖を開けたのである。



 足袋を履いた畳の感触は、何だか草を踏むときに似てるな、と。
 そんなことを考えながら、それでもやっぱり照れくさくって、ちょっと俯き加減にはなったものの。
 シンタローは、大きく息を吸い込み、歩き出す。
 しっかりした足取りで、和室の畳を歩いて。酒器が並べられている座卓をぐるりと回って。
 しゃがんで座布団を寄せて、マジックの隣にシンタローは意を決して、座った。
 そして、ちらりと相手の様子を窺った。
 マジックは、『おや』という風に小さく眉を上げただけで、特に変わった様子はないようだった。
「和服のお前も、素敵だよ」
 こんなことだけは、今までの六度の衣装替えのときと同じように、言ってくれたけれど。



 マジックが、酒を注いでくれる。シンタローはそれを受け、こくりと喉を鳴らして飲んだ。
 ことことと、卓上の熱燗用の湯が、音を立てていた。静寂が、この部屋を包んでいた。
 障子の向こうからは冷たい夜の肌が、透かして見えたし、木造の平屋だけに、ときおり溜息をつくように、きしりと音が鳴る。
 重厚な洋風建築と異なり、日本家屋は、その中にある人を、どこか揺らめくような気持ちにさせるのだった。
 まるで広い世界の中で、青草のひとすじに自分がなってしまったような、そんな気持ちにさせる。
 それだけに、この目の前で立ち昇る優しい蒸気と、側にいる人の、気配とかすかな温もりが。
 シンタローにとっては、すべてであるような心地になってくるのだ。
 とりわけこんな、静かな、真夜中は。
 数度、杯を重ねてから。シンタローは、思い切って、口を開いた。
「……昨日、さ」
 隣の金髪の男が斜めに首をかしげて、こちらを眺めるのがわかった。
 本当に本当に、思い切って。今度はシンタローは、ぐっと彼の方に向き直り、正面からまっすぐに男の目を見据えて。
 それから、聞いた。
「アンタ。俺に。な、なんで、あんなコト……あんなコト、したんだよ……」



「あんなこと」
 マジックは、そのままシンタローの台詞を繰り返して、手にしていた杯を爪先でぴんと弾き、少し笑った。
「あんなこと、って?」
「え……」
 ストレートに聞き返されて、シンタローは言葉に詰まる。
 相手の目を見つめて、その言葉の真意を探ろうとしたが、そこにあるのは自分を映している二つの青い目だけだった。
「き、昨日……! 昨日、アンタ。俺に……俺に……」
 ついしどろもどろになって、そんな自分にカッと怒りが込み上げてきたシンタローは、ぱちんと自分の頬をまた叩いた。
 こんなんじゃダメなんだ。もっと、根本的なこと。それ、聞かなきゃ。
 シンタローは大きく息を吸って、何度も黒い目で瞬きをして、それから。
「アンタ、俺のこと、どう思ってんだよ……!」
 そうハッキリした言葉が、自分の口から飛び出るのを、感じた。
 言えた、と思った。
 しかし返って来た言葉は、あっさりとしたもので。
「好きだよ。愛してる」
「……く……そういうんじゃなくって……そういうんじゃなくって!」



「そういうのじゃないって、どういうこと」
「う……そ、それはなあ! それはなあ!」
 相手はわかっているのか、それとも本当にわかってないのか、少し困ったように微笑んだ。
 その顔を見ていたら、シンタローは、言葉は無力なのだと感じた。
 きっと。言葉だけじゃ、もう俺は、この先へは進めない。それなら。言葉と一緒に。
「こ……」
 ためらった。だけれども。俺は。
「こういうことだよ!」
 意を決して。シンタローは自分の羽織紐を解こうとする。
 緊張していたため、指がもつれた。固く結んでいたため、爪が滑って、なかなかそれは解けない。
 すると、マジックが手を伸ばしてきて、それをするりと解いてしまった。
「……!」
 羽織が両肩を滑り落ち、畳に落ちる。



「聞いてもいいかな」
 かけられた少し違った声音に、シンタローは顔を上げた。
「お前は、どうしてそんなことを知りたいんだい」
 そう、聞かれて。
 シンタローはつい頬を赤くする。見つめてくる相手の瞳に耐えられなくて、思わず目を逸らしてしまうが、いけないと自分を叱咤してまた正面に戻す。
「ど、どうしてって……」
 迷った末、ついにシンタローは、叫ぶみたいに言った。
「どうしてって……気になるからだよチクショウ! それだけだよ!」



「それは……私が」
 相手は言葉を切って。それから続けた。
「私が、真夜中の私だからなのかい」
 シンタローは、ごくりと唾を飲み込んだ。まじまじと相手を見る。意外なことを訊ねられたのだ。
 そういえば、そうなのだ。
 真夜中のマジックは、自らをどのような存在として、認識しているのだろう。
 これは今までシンタローが、まったく気にもしなかったことだった。
 だが考えてみれば、これは不思議なところだ。
 真夜中の彼は、単に普通のマジックが酔っ払っただけの、延長線上にある人格であるのか。それとも全くの別人格であるのか。
 ずっとシンタローは、前者だと思っていたのだが、でも昼間のマジックには記憶がないということだから。その記憶はどこに行くのだろう? 後者の可能性もありうる訳で。真夜中のマジックと昼間のマジックの関係は。一体。
 ああ、混乱してきた!
 酔っ払う前、酔っ払った後。自分は彼らを同一人物だと思っていたのに、でも。もしかすると、まったく別人として考えなければいけないのだろうか?
 別人を、俺は、誘惑していたんだろうか?
 しかしこんなに混乱しているのに、シンタローはすぐに答えを返さなければいけないのだ。
 真夜中のマジックは、待っている。自分の答えを、静かな瞳で待っている。
 だが――それにしてもこの場合、どのように答えればいいのだろう。
 相手がどんな回答を望んでいるのかも、どんな意図があるのかも、シンタローにはよくわからなかった。
 だってこの人は、真夜中のマジックで。自分も相手も満足する回答を探すのは難しい。
 この状況を、シンタローはうまく分析できない。ただ混乱と焦燥の渦の中にいるだけだった。
 だから、答え方に、逡巡する。結局同じように、こう言うしかなかった。
「……気になるからだって言ってンだろ! それでいいじゃねえかよ……」
 そしてマジックの顔を見た。
 しかしやっぱりそこからは、何も読み取ることはできないのだ。
「くっ……!」
 一向に進まない事態に、ついにシンタローの堪忍袋の緒が切れる。



 シンタローは口を引き結んで、自分の着物の角帯に手をかけた。黒に銀糸の、細目のそれ。
 それを今度は一気に抜き取ってしまった。しゅるり、と音がして、ぱさり、と畳にそれが落ちる音がした。
 長い黒髪が、部屋の淡い灯りに滑らかに光を含む。障子の向こうの夜の風音は、どこか遠くで聞こえていて、自分の鼓動だけが響いている。
 シンタローは、小さく息をついた。
 見られている、と感じた。視線は感じる。自分の一挙一動に、手足に、首筋に、注がれる視線。ただ、その種類はわからない、だからこそ不安なその視線。
「……」
 そう思うと、ちょっと怖くなった。肌が総毛立つようだ。でもここで止める訳にはいかないのだ。
 一度、指を彷徨わせてから。
 シンタローのぎこちない手つきは、彼自身の着物の衿をぐいと割って、純白の肌襦袢ごと引き下げる。
 両肩が半ばまで露出し、シンタローは諸肌脱ぎになる。
 それから、相手をキッと見つめた。



 しかし、やはりマジックは。ただそこに佇んでいるだけだった。
 何の反応もない。まるでその物言わぬ表情は、『それがどうしたんだい』と言っているように見える。
 シンタローはまた怯んだ。暑くもないのに、肌が緊張に汗ばんでいくのがわかる。
 しかしここで負けるものかと、懸命に叫んだ。
「ア、アンタ……これ見て、どうとも思わねえのかよ! 俺のこと見て、何にも感じねーのかよ! なあ、何とか言えよっ!」
 そう叫んでから、シンタローはもう一度衿を引いて、右肩から着物を大胆に落とし、再び相手の目を見た。
 しかしやはりそこからは、シンタローには、全く表情というものを読み取ることができないのだった。
 わかんねえ……わかんねえ、全然、アンタの気持ち!
 だから、悔しさを込めて相手を睨みつける。
 マジックは、シンタローの精一杯の威嚇には何も反応することなく、静かな声音で呟いた。
「私は、酒を飲むよ」
 淡々としていて、それでいて断定的だった。命令的、と言い換えてもいいかもしれない。抗うことを許さないという光が、初めてその目から読み取れた。
 マジックは、酒器をシンタローの前にかざして、言う。
「知りたいのならね……私の口を酒で潤してからだよ。酒で、私の理性を飛ばしてごらん」
 穏やかに続けた。
「昨夜のように。飲ませてごらんよ。お前の体で」



 目の前にかざされている酒器。マジックの指の中の鈍い輝き。シンタローの震える指が、おそるおそるそれを受け取る。握る。
 青白磁の徳利。中身は八分くらいで、水面が揺れていた。すでに酒は冷めていたが、まだ温かみが感じられる。芳香がした。
 受け取った瞬間、マジックの手の感触に、どきりとした。
 シンタローは一度目を瞑って、それから開いて、決心した。
 挑むような瞳を、マジックに向ける。徳利を、彼がしたように、自分もかざす。言う。
「……く……っ……それじゃなあ、飲めよな。飲むって言ったんだから、ちゃんと飲めよな!」
 依然として、悠然とした相手。答える。
「ああ、飲むよ」
「……ッ! ほらよ!」



 シンタローの手の内で、青白磁は思い切りよく逆さまになり、勢いよく透明な液体が飛び散る。
 とぷりと酒は、シンタローの半ば乱れた胸元を濡らした。
 雫が群青の衿をしたたる。鎖骨をなぞり、筋肉のかたちを描き、落ちていく。
 ぬるんだ温度が、なめらかに肌を包む。熱くもなく、ひやりともせず。ただ、ぬるくぬるく、薄い膜のように肌を浸していく。
 自分を見つめる男の目には、そんなシンタローの姿が、たしかに映り込んでいる。それなのに。
 シンタローは、その青を見据えた。しかしどこまでその瞳を覗き込んでも、何の心の動きも読み取ることはできないのだった。
 ……ちくしょう。
 そう思えば、カッと頭に血がのぼり、シンタローは両手をマジックに向かって、伸ばす。
 乱暴に、左手で彼の肩をつかみ、右手をその後頭部に回して、ぐいと男を引き寄せた。
「飲めったら!」



 頬にマジックの金髪を感じた。大きな身体。近付く肌と肌。
 引き寄せたことでシンタローの裾は乱れ、露出した太腿に、マジックの膝頭が当たっている。
 それにも構わず。シンタローは、強くマジックの頭を、自分の首筋に押し付ける。
 言い募る。
「飲めよ! 俺から飲めよ、なあ、飲めって!」
「……」
「なんだよ、なんで黙ってんだよ!」
「……そんなに」
 シンタローは、自分の肌がびくりと震えたことで、相手が口を開いたことに気付く。振動が伝わってきたのだ。
 低い声だった。低くて、辺りの静けさを凍てつかせるように、それは暗く響いた。
「そんなにお前は、真夜中の私に飲ませたいのか」
「……!」
 ひやり、とした冷たさが、最初の感触だった。次に熱くなった。じわじわと熱さが、肌に広がった。
 遅れて、牙を突き立てられるような痛みが、シンタローを襲った。肉に食い込む、痛み。
 ――左の首筋が。マジックに深く噛みつかれている。
 それはまるで、野生の獣が、あがく獲物の命を奪うために、咽喉笛を食いちぎる動作に似ていた。



 シンタローの額を、冷たい汗が流れていく。唇が震えて、咄嗟に反応を返すことができなかった。どうしたんだろう、どうしたんだろうと、ただ思っていた。
 飲めって。飲めって、言ったのに。どうして。どうして俺は噛みつかれて。
 ……痛い……。
 ゆっくりと、マジックが、自分を見上げるのがわかる。
 シンタローは、緩慢な所作で、自分の首筋に噛み付いたままの男を、見下ろす。
 青と黒の視線が、合った。
 するとマジックは、あっさりと、首筋を解放して。
 ――傷口はシンタローには見えない場所だったが、痛みの度合いと、赤い雫がぽろりと胸元を伝い降りていったのを見て、血が滲んでいるのだろうと思った――
 赤い雫を追って、それが溶け込んだ酒の飛沫を、シンタローの胸元から舐めとりはじめた。



「ひゃ……」
 上擦った声が思わず漏れて、シンタローは慌てて自分の口元を押さえる。
 わずかな刺激に、馬鹿みたいに身体が反応してしまう。
 水めいた音がして、着物の濡れた衿をかき分けて、舌がシンタローの肌をなぞっていく。
 やわらかい舌。巧みな舌。だけど冷たい舌。
 舌がなぞった跡はゆるやかに温度を失って、寂しさに震える。
 先刻、短気になって着物をずり落としたせいで、合わせ目から露になっている右の胸を、執拗に舐めとられる。
「ふ……う……っ」
 すでに触れられる前から、つんと立ち上がっていた赤い突起。
 それが先端を舐められるたびに、まるで嫌がるようにその舌を押し返している。
 押し返すほどに、かたく芯をもったそれを、舌は飽きもせずに右に左に転がす。弾く。吸う。
 吸われると、シンタローの背筋はびくびくとしなって、身体の中心に熱を集めていく。肌という肌の感覚が、シンタローの中心に向かって波打っていく。
 ぬるぬるした透明の液体と、生み出される熱の感覚が合間って、さらに卑猥な水音が重なって。
 マジックが再び青白磁の酒器を手にとって、それを傾けたことにシンタローが気付いたのは、新しい液体が肌に滴り落ちてからのことだった。
「あっ……」
 つうっと細い糸となって流れる酒。その温さ。液体の動き。
 首筋から、鎖骨へ。そして鎖骨からしたたるそれは、愛撫されて尖りきった乳首へと流れ落ちる。
 その乳首を。マジックは、自ら酒器を傾けたまま、シンタローの肌を流れる酒を飲むために。
 再びきつく吸い上げる。
「んあっ……や……あうっ……!」
 身をよじるシンタロー、しかしマジックの腕は捕らえた獲物を、しっかりと押さえ込んで放さない。
 彼の薄い唇は、そして確かにシンタローの身体から、酒を味わっているのだ。
 淫らな水音が響く。



 その内、すうっとマジックの人差し指が伸びる。
 舌に合わせて、シンタローの鎖骨を辿るようにしながら、まだ肩にかかったままの左の衿を、ゆっくりと滑らせていく。
 衿と長襦袢がするりと下に落ち、上半身が完全に露になる。
 はっはっと息をつき、シンタローは崩れ落ちそうな身体を支えるように、畳に手をつく。
 マジックの指は、止まらない。
 シンタローのなめらかな上半身を這った指は、すぐに下半身へと向かう。
「! ……や、やっぱ、イヤ……」
 背中を大きく反らせたシンタローにも構わず、男は着物の裾の内に、手を滑り込ませる。
「!!!」
 咄嗟にすぼめられる脚より早く、下着が降ろされて、抜き取られていた。
 脱がされるときに、すでに硬くなった中心に指をかすめるようにされて、身を竦ませたシンタローは。
 乱れた着物の裾を両手で慌ててかき集めて、中心をかばうようにして。
 キッとマジックを睨んだ。
 すると相変わらずの静かな瞳が。言った。
「どうしたの。酒を飲ませてくれるんじゃないの」
「……や、やっぱ……やっぱ……」
 昨夜感じた恐れが、再びシンタローを支配していた。
 ……怖い。核心的な部分に触れられるのが、怖い。それに。先刻感じた、疑問。
 この男は、普通のマジックじゃない、マジック。このマジックは。
 マジックじゃない男に……触れられる……?
 ……俺……?
「どうしたの。自分で言ったことは、実行するものだよ」
 相手の言葉に、シンタローは哀願するように言った。
「……待ってくれよ……ちょっと待って。あのさ、あの……待って……」
「待てないね」
「……っ! ああっ……!」



 ぐいと強い腕が、シンタローの下半身に再び滑り込んで。無理矢理に着物を剥ぎ取り、白い長襦袢の合わせ目を押し広げる。
 シンタローの抵抗も空しく、灯りの下に、先程の上半身への愛撫で感じきってしまっていた性器が晒される。
 かたく緊張し、マジックの視線に、震えているそれ。
「あ……」
 シンタローの頬は、羞恥に赤く染まった。
 恥ずかしい。
 俺だけ興奮しちまって……マジックはこんなに冷静なのに……俺だけ……また俺だけ、こんなになっちまって……ああもう俺……。
 太腿に、触れられた感触がした。押さえつけられる圧力。すると次の瞬間。
「……ひ……あ……な、何を……」
 ばしゃりと、また勢いよく酒の飛沫が飛んだ。雫はシンタローの顔にかかり、胸元にかかり、太腿にかかり、中心の熱いそれに、かかった。
 なみなみとまだ酒が残された徳利を、マジックがシンタローに向けて、再度傾けたのだ。
 雫は晒された下半身をめざして、滑り落ちていく。
 鍛えられた身体をなぞり、部屋の淡い灯りに輝き、ゆるやかに揺らめいていく。
「何って」
 相手は、こともなげに言い放つ。
「私は酒を飲むんだよ。そう言ったろう」
 シンタローは必死に叫ぶ。目の端に涙が滲んだ。
「……や、やめろ……ッ」
「やめない」
「……あ! あああ……っ!!」



 マジックの舌が、酒で濡れたシンタローの性器に絡みついた。
 熱い口内に、一番敏感な部分が、甘い芳香を放つ液体と共に飲み込まれていく。
 頭の芯が痺れて、くらくらした。意識がその甘い匂いで一杯になった。酸素が欲しくて、シンタローは唇を開く。たよりなく動かし、息をして……喘ぐ。
 喘いで、体内の熱を、少しでも外に逃がそうとする。
 しかし、それだけがまるで別の生き物であるかのように、マジックの舌は、シンタローの中心を巧みに舐め上げていくのだった。
 いくら逃がしても、すぐにまた追い上げられる、熱。
「あうっ……」
 先端の鈴口を、塞ぐように舌先で撫でられると、眉を寄せて身をよじるしかない。
 脈打つそれを丹念に愛撫され、濡れた陰毛を撫でられる。
 シンタローは必死に腰を引いたが、マジックはその腰を抱きかかえるようにして、ますますその場所に深く口付けていく。
 マジックの唇は、シンタローのきつく抑えられた両の太腿、その間に溜まった透明な酒を、すする。
 ちゅぷちゅぷといやらしい音がして、シンタローは耳を塞ぎたくなる。だが、手には力が入らない。魔法にかかったように、自分の言うことをきいてはくれない。
 いやいやと首を振ったが、長い黒髪が着物に擦れて、音をたてるだけだった。
「んっ……んっ……んう……っ」
 相手が酒をすするたびに、敏感な場所からは熱が生み出され、背筋がぞくりぞくりと震え、泣きそうなぐらいの快感が全身を麻薬のように巡っていく。
 たまらなかった。
 いつしかシンタローは、相手の舌に合わせて、自分から腰を揺すっているのだ。衣擦れの音がした。
 もう止めることはできなかった。
 素直に快感を追ってしまう。そんな風に躾けられた、身体。
 そして、ひときわ強く、銜え込んだものを吸われた時に。
「……ああっ……は……ンッ……ぁ……ん! んんっ……!」
 ぎゅっと目を瞑って、シンタローは自分を解放した。
 全身の力を抜いて、とすんと背中から、畳に倒れ込んだ。息をついた。仰向けに、畳に黒髪を散らした。
 そして激しい放出の余韻に震えていた、まさにその時だった。
 パシッと乾いた音と、衝撃が彼を襲った。



 ぼんやりと、シンタローは薄目を開ける。
 白く霞がかったような視界は、揺らめくようだった。
 だが、吐息にくもる生暖かい空気が、切り裂かれる悲鳴を感じて。
 次第に頬が痛みを感じて、じわじわと感じていって、シンタローは自分がマジックの手に打たれたのだと知った。
 頬を張られたのだ。
 理由がわからず、荒い息のまま、とろんとした目で、マジックを見上げる。
 ぼやけた視界の中で、男は、自分を見下ろしていた。
 冷たい瞳だった。唇は、酷薄の表情を浮かべていた。
「残念だったね。私は、お前の好きな真夜中の私じゃない」



「……?」
 シンタローは、自分の乱れた裾をぎゅっと握った。
 頭の中が空白になってしまって、ただ遠くで障子の向こうの夜の静けさを、聞いていた。
 部屋の障子が、開いた。
 そして閉まった。
 シンタローの目には、自分を残して去っていたマジックの後姿だけが、焼きついていた。






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