僕の先生

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 子供の笑顔が好きで教師の道を選んだのだが、この御時世、そんな理想だけじゃあ就職先はなかなか見つからない。
 大学を卒業してからも、靴底を磨り減らしてあちこち駆けずり回り、警備やら工事現場やらウエイターやら、様々なバイト生活を経た俺、シンタローが。
 ひょんな偶然から、やっと掴んだこの臨時教師の仕事。
 ごく普通の有名私立小学校かと思っていたら、何でも某超巨大私設軍団が背後にいるらしいとか、その軍付属士官学校の下部組織だとか、囁かれる黒い噂も、気になんかしちゃいられない。
 俺はこの仕事を、やり遂げてみせる。
 そう溢れる想いを胸に、俺は今、この教壇に立っている。
 なんたって、夢だったから。



 時あたかも春風たなびく頃から、初夏の緑への変わり目の季節。身も心も躍りだす季節。
 俺は日本人だったから、春になると条件反射で、さあ始まるぞとそんな気分になる。尚更気合が入る。
 イースター、つまり復活祭後の夏学期、その初日が本日この日。前任者が何がしかの事情で退校し、急遽ピンチヒッターとして採用されたのが、この俺で。
 詳しいことは聞かされてはいないが、とにかくやるしかないから、すべては自分の運の良さだと考えることにしている。
 俺は、ゆっくりと教室の内部を見回してみる。
 なんだか荘厳。由緒は知らないが、やたらアンティーク調の古めかしい教室、白い柱には彫刻なんて刻まれていて。上品な黒縁の出窓には、綺麗な花が飾ってあった。教室奥のコルク掲示板には、生徒たちの作品だろう、無邪気な絵画が立ち並んでいる。
 本当に俺は、教師になっちまったんだなと、感慨が沸いてきた。
 今日からこの教室で、俺が教えるんだ。文字通り教壇に立つんだ。
 俺は、正面を真っ直ぐ見据えなおす。
 就任一日目、何事も初めが肝心だ。
「では先生。自己紹介をお願いします」
 俺の隣に陣取った、紹介役の教頭が、重々しげにそう言った。一斉にたくさんの瞳が、俺を見た。
 俺の背筋は、ぴりりと引き締まる。
 よし、やる。俺はやるぞ。
 物珍しそうに俺の顔を見つめてくる子供たちを前に、俺は心からの笑顔を見せた。



 ――最愛の弟コタロー。
 あいつは可哀想に、眠ったまま目を覚まさない。俺が子供と触れ合う職業を選んだ理由は、ここにある――が心をよぎり、その写真が入っている胸ポケットを、俺はぎゅっと押さえた。
 大丈夫。お兄ちゃんは、しっかりやるぞ。
 初日、子供たちとの初めての対面。この最初を乗り越えて、俺はこの可愛い生徒たちと、素敵な日々を過ごすんだ。
 そう自分に言い聞かせながら、俺はやっぱり自分が少し緊張しているのを自覚しながら。
 教壇で、簡単な自己紹介を無事済ませ、今度は生徒たちの順繰りの自己紹介を聞いている。
 一人一人の名前を噛み締めるように覚え、その子供子供した声を聞いている。
 10歳だというが、どうしてどうして、皆、一人前の挨拶をするなと微笑ましく思う。
 子供の挨拶が終わった後に、一言ずつ自分が声をかけてやると、ある子ははにかみ、ある子は笑い、ある子は仏頂面をするといった風で、一人一人の個性が見て取れた。
 全体として上品で、一見、小奇麗ですました顔の少年たちが多いが、きっと深く付き合えば、ごく普通の感じやすい心を持った雛鳥たちであるのだろう。
 これから楽しくなりそうだな、と、俺は腕組みをしながら感じている。
 立派にやり遂げて見せるぞと、本日何度目かの熱い想いを胸に、俺は、改めて子供たちの顔を眺めた。
 俺の天職への道は、今日ここから始まるのだ。



 やがて。
 ぴりっと教室の空気に、電流が走る。
「……?」
 俺が不思議に思い、子供たちを観察すれば、その並ぶ瞳が、微かに緊張し、微かに違った色を浮かべたことに気付く。
 教室の最前列に座った少年に、その視線が集まっている。
 注目を浴びた少年は、自然な動作でゆっくりと立ち上がった。
 年の割には大人びて、背が高い。
 整った容姿、利発そうな青い瞳、きちんと櫛の通った輝く金髪、落ち着いた仕草。
 見るからに優等生。
 見るからに只者ではない。
 そうだ。このクラスは特別で……
 ふと、俺は思い出す。
 生徒の出自などに興味のない俺は、さして気に留めなかったが、この職を得る時に、そして職員室からこの教室に来るまでに、しつこいぐらいに言われた言葉。
 このクラスには、学校創設者の一族が、それも直系、跡取りの御曹司がいるのだということを。
「……」
 俺は、その子供を見つめた。



 金髪の少年は、穏やかな物腰で、すらすらと語りだす。
 その様子は、周りとは明らかに雰囲気が異なっていて。
 ――この子が、そうなのだろうか。
 クラスでは委員長を務めているのだと言うが、その醸し出すオーラはそれだけではなく、本質的な何かが他とは違っていた。
 聞いた名前も、確か……
 しかしそう思いつつも、俺は、肩を竦めた。
 子供は子供だ。
 こんな特別扱いを、敏感な子供は一番嫌うはずなのだ。大人たちの都合で、差別するようなこと。
 危ない危ない、そんな基本を自分は忘れる所だったと、自らを戒めた俺は。
 そつなく一通りのことを語り終えた少年に向かって、やさしく微笑んでやり、他の者と同じように、親しげに声をかけてやる。



「おーし、名前はマジックだな! よろしくな! それじゃあ、マジック、お前の将来の夢は?」
「夢ですか」
 少年は、そして、笑ってさらりと言った。
「将来の夢は、世界を征服することです」



★★★



「それでね、ルーザー。掃除の時間にはさ」
 下校時に。
 鐘が鳴る中、脇を歩く弟に話しかけると、露骨に不快だという顔をされた。
 細い眉がぴんと上がって、綺麗な口元が吐き捨てる。
 彼は良い顔をしているのに、こんな風に歪めてしまうのが勿体無いなあと、僕はいつも思うのだけれど。
「またあの日本人の話ですか。兄さん、勘弁して下さいよ」
「なんだい、その言い方。ルーザー。お前ね……」
「この三日間、ずっとこの話題じゃないですか」
 僕が咎めると、相手はプイッと横を向いた。
 夕方の風が吹いて、橙色の斜光が、彼の横顔を照らし出す。
 街路樹の枝が、かさりと揺れた。
 最近の彼は、僕の新しい担任になった先生が気に入らないみたいなのだ。
 僕が先生の話をすると、決まって嫌そうな素振りをする。
 そしてこんなことまで言う始末。
「なんです、あんなやつ。そうそう、今日の朝なんか、下級生たちが廊下を走ったら、拳固でゴツンとやっていましたよ。手を出すなんて。下級生なんて低脳な動物と同じなんだから、放っておいて後でまとめて始末すればいいんですよ。ほんとうに何処の馬の骨なんだかわかりゃしない」



 一つ下の弟は、いつだってこの調子なのだ。
 まったく兄としては苦労させられるよと、僕は思わず溜息をつく。
 優秀なのはいいけれど、この子には少し社会性を身につけてほしいものだ。
 ある意味、双子以上に手がかかる。
「お前はまったく口が悪いね。廊下を走ったら叱るのが教師として当り前じゃないか」
「まったく気に入りませんよ。しかも馴れ馴れしく話しかけてくる。あれで大人しく、教師としての義務をまっとうするだけだったら、僕とて何も言いません。でも、さっきだって……何ですか、あれは。自分の身の程も解っちゃいない」
「教師が生徒に話しかけてくるのも当り前だろう! いい先生じゃないか! さっきは、さよならの挨拶をしたのさ。ああ、いい笑顔だったなあ。『また明日な! マジック!』って。ああ、いいなあ。とても魅力的だ。親切だし爽やかだし明るいし。お前の嫌いな贔屓もしないんだ……それに可愛いし」
「は? 最後。最後、何て言いましたか、兄さん」
 急に立ち止まる弟を。
 僕は、何でそんな顔をして聞き返すんだろうと、不思議に思って、繰り返してやった。
 聞こえなかったのかな。
「可愛いし。シンタロー先生は可愛いって言ったんだよ。あれ、なんだい、その顔。僕は何か驚くようなこと言ったかい?」



 僕たちが家に着くと(どうしてかルーザーは、そのあと無言だった)、待ち構えていたといった風で、いつものように双子が駆け寄ってきた。
 金髪で青い瞳の、僕の小さな弟たち。髪の毛が少し飛び跳ねた、いたずらっこのハーレムと、対比的にさらさらストレート、お人形さんみたいなサービス。
「仲良く遊んでたかい、ケンカしなかっただろうね」
 そう聞いてやると、
「はーい」
「はーい」
「ようし、いいお返事」
 僕がそのまま双子の頭を、両手でわしゃわしゃやってから。
 沈黙したまま、階段を昇ろうとするルーザーの背中に向かって、僕は声をかけた。
「ルーザー、すぐにお茶にするから。居間に下りてきなさい」
「わーい、おやつ〜!」
「おやつ〜!」
「……ええ」
 飛び跳ねた双子と、ちろりと微妙な表情で僕を見遣ったルーザーに。
 僕は機嫌よく、うんうんと頷いて見せた。



 僕たち四人の兄弟は、多忙で出張の多い父の帰りを待って、この家で暮らしている。
 幾許かの使用人はいるものの、基本的に家族は四人で、時には喧嘩しながら(もっとも双子は、起きている時間の半分はお互いに喧嘩しているけれど)、大概は仲良く、過ごしているのだった。
 僕たちは、いつも一緒なのだ。
 年長の僕とルーザーが学校に通う間は別として、帰ってからは、いつも一緒。
 だいたいは居間で。
 そして今なんかは、お茶を飲んだり、ね。



「さあ〜て、お前たち! 今日はお兄ちゃんから、お知らせがありまーす」
 暖かい紅茶を入れ、甘酸っぱい糖蜜パイをほおばり、一息ついた頃。
 僕は、ソファに仲良く座っている弟たちの顔を眺め回し、『コホン』と軽く咳払いをした。
 糖蜜パイのペーストと格闘していた双子は、なになに? といった大きな瞳で僕を見て、ルーザーは何かを察知したのか、再びあの微妙な表情をした。
 僕は、思わず満面の笑みを浮かべて、口を開く。
「まあ、お前たちも、うすうす気付いてはいるかもしれないけれど。この三日間の僕は、ちょっと変だった。皿洗いの時にボーッとしたり、ハーレムのTシャツを後ろ前に着せたり、サービスのぬいぐるみを、洗濯ネットに入れず洗ってしまったり」
「風邪ですよ。寝た方がいいですね、兄さん」
 まぜっかえすルーザーに、ちちち、と僕は人差し指を振り、大きな声で、宣言した。
「お知らせします。なんと! お兄ちゃんに、好きな人ができました!」



 一瞬、間があって。
「すきなひとー」
「すきなひとー」
 双子が僕の言葉を無邪気に反復して、お互いに顔を見合わせて、それから僕の顔を見た。ルーザーはますます嫌な顔をしている。
「そうそう、好きな人だよ! いやあ、この三日間、僕なりに考えたんだけどね」
「すきなひとって、なに」
「にぶいナマハゲ」
「むー!」
「こらあ! ケンカはやめなさい! まだおやつの途中だろう!」
 二人がお菓子を食べている時間に大切な話をするというのは、僕が学んだ鉄則である。すぐにケンカが治まるから。
 案の定、そう言うと、双子は、はっと気付いたように手元の糖蜜パイを見直して、それからまた嬉しげにそれを頬張りだした。注意が、お菓子に向かうんだよね。
 ああ、ハーレムの口元が、ベタベタだ。あとで拭いてやらなくっちゃ、なんて。そんなことを考えながら。
 説明を始める僕である。
「まあ好きっていうのはさ、そのね、一緒にいたいっていうかさ、うーん、交際したいっていうかさ……まあ、色々手順があって……お前たちには、ちょっと難しいかなー、このフクザツな感情」
 なんだかここまで言ってから、急に照れくさくなって、僕は頭を掻く。
 やっとおおまかな事情を理解したらしい双子が、囃したてる。
「ひゅーひゅー!」
「だれー? だれー? マジックおにいちゃん、だれがすき?」
「はは、お前たちにも、僕のクラスに新しい先生が来たって話しただろう。その人さ!」
 そう明るく言うと、二人は、『ふうん』と納得した顔をした。僕はこの三日間、先生のことを喋りっぱなしだったから、なるほどと思ったのだろう。
 僕は続ける。
「まあ僕も若いし、なにぶん初めてのことだから。この気持ちが、単なる思い違いだったら困るよね。でもね、三日間の吟味の結果。どうもこれは一過性のものじゃないと判断したよ。これぞ、ひとめぼれって奴だよ。運命さ! そう確信したから、まず家族に報告しまーす」
「ほうこくー!」
「ほうこくー!」
「そう、報告だよ! いいかい、お前たちも好きな人ができたら、ちゃんと僕たちに報告するんだよ! それが家族だからね!」
 糖蜜パイを両手に抱えたまま、ソファで、床に届かない足をバタバタさせている双子に、僕は言い聞かすように確認した。
 家族の結束。僕たち青の一族では、それが最も優先すべき事柄だった。
 長男たる僕が、弟たちに、率先して見本を見せてやらなければ、ね。



「はは、僕は、父さんからお前たちを預かって、父親代わりのような気持ちでいるからね! だから、その人は、さしずめ、お前たちのお母さんになるってコトかナ!」
「わーい、おかあたん!」
「おかあたん!」
 この段に及んで、それまで静観していたルーザーが、口を挟んできた。
「……兄さん、子供に嘘を教えるのはやめてください。教育に良くない」
「なんだい、ルーザー。だって当たらずとも遠からずだよ」
「いや遠いですって。まず男ですって。オトコ」
「んもう、お前は細かいことにこだわるなー。古いんだよ、そういう考え方。これからは通用しないよ……って、ん、どうしたんだ、ハーレム」
「にーたん……」
 見れば、糖蜜パイを食べ終わったらしいハーレムが、ベタベタの手のまま、僕の側に寄ってきている。
 やんちゃな弟は、心配そうな光を目に湛えて、こう聞いてきた。
「にーたんは、そのせんせいの、コト、スキなのぉ……」
「そうさ! さっき言ったろ! 運命感じちゃったよ。きゅんときたよ! まあそれより、お手手拭きなさい。ほら、手を出して」
 ハンカチでごしごしその小さな手を拭っていると、彼はまた聞いてきた。
「にーたん……ボクらはぁ……?」
「え?」
「ボクらと、せんせい、どっちがスキ……?」



 その幼い顔は、やけに必死で。
 僕は、急いでハーレムの小さな体を抱き上げ、言った。
「おばかさんだなあ、ハーレムはぁ〜!」
 可愛くてたまらなくって。僕はハーレムにほお擦りをした。
「そんなの比べられる訳がないじゃないか! どっちも一番だよ!」
「うー?」
「あのね、ハーレムへの『好き』は、弟の『好き』で、先生への『好き』は、恋人の『好き』なんだ! 全然違うものなんだよ! だから大丈夫!」
 この説明で理解したのかどうかは疑わしいが、とにかく僕がハーレムを好きだということは、確実に伝わったのだろう。
 弟は、嬉しげに今度は自分から、僕にほほを摺り寄せてきた。
「にーたん、大好き〜」
「ははー、僕もハーレムが大好きさ〜」
 ぎゅっ。
 うふふ、あはは。
 幼い子供の甘い香りを感じながら、僕は安心させるように言う。
「それにね、僕がシンタロー先生と結婚したら、お前たちも一緒に同居するんだから! はは、まだ気が早いけど!」
 僕はハーレムを抱いたまま、居間を歩き回って、今後の人生設計について打ち明けた。
 サービスといえば、ルーザーの膝の上に乗ったまま、『ふうん』という顔でこちらを見ている。
 その顔は、いかにも納得した、という顔だったから、僕はサービスにも、にっこり微笑みかけた。
 ルーザーは相変わらずの表情をしているのが、気にかかるけど。
「出張中の父さんにも、いずれは報告しなきゃって思ってるんだけど。まず、この恋を成就させなくっちゃなあ」
 そうれ! と、僕は絨毯の上で飛び上がり、ハーレムがきゃっきゃっ喜び、両手をウキウキ振り出した。
 僕は、みんなを見回し、言った。
「だからね、お前たちも協力してね!」



★★★



 お昼の時間のことだった。
 臨時の呼び出しがあり、職員室へと戻っていた俺は、少し遅れて教室へと戻った。
 いつもは昼食は、みんなで食べるのだが、生徒たちはやっぱりもう食べ終わってしまっているらしい。
 廊下の窓から覗けば、わいわいがやがや。
 教室で思い思いに遊ぶ彼らの間で、一人食事をするのも気がひける。
「……ま、いっか。天気もいいし、今日は、外に出て食うかな……」
 そう独り言を呟くと、俺は弁当を片手に、景色のよさそうな校舎の裏へと、ぶらぶら向かう。



 ぽかぽか陽気で、お日様がきらきらと芝生をあたたかに染めている。
 広い敷地内、この裏手には綺麗な小川が流れていて、お昼を食べるにはもってこいの場所だと、かねてから目をつけていたのである。
 腰を下ろせば、青草の香りが鼻をくすぐって、俺は、ふう、と息をついた。
 何だかんだで新任の身、自分は意識していない内に緊張していたのだと思う。
 こなす授業も、精一杯にやったつもりであるが、どこか固かったのは否めない。
 ああ、なんだか。ちょっと不安かもしれない。
 もそもそと弁当の包みを開く。
 弁当の中身は、純和風。玉子焼きに魚の切り身、海苔を巻いたおにぎりである。
 箸を取り出して、一口食べるたびに、想いに浸る。
 午前中の授業を、念入りに思い出す。教え方、どうだったかな。
 生徒たち、ちゃんと理解してくれただろうか……
 すると。
「シンタロー先生」
 後ろから呼ばれて、俺は振り返った。
 そこには、金髪碧眼の少年が立っていた。
 ――マジック。



「先生、今からお昼ですか」
 爽やかな笑顔に、俺も思わず笑顔を向けた。
「ああ、呼び出しがあってさ。みんなと食いはぐれちまった。いい天気だし、ここで食べよっかなって」
「奇遇ですね。僕もなんです」
「お前も? どうしてまた」
「僕も先生が呼ばれたすぐ後に、生徒会の呼び出しがあったんです。みんなと食べ損ねちゃいました。お仲間です」
 少年はそう再び微笑んでから、隣いいですか、と尋ねてきて、俺がうなずくと、芝生の上にふわっと座った。
「それじゃ一緒に食べるか」
「ええ」
「水筒あるから。熱いお茶、好きに飲んでいいぞ。お前の口に合えばだけど」
「ありがとうございます」
 礼儀正しい少年が、小さく頭を下げた。
 思わぬ同伴ができて、俺は、一人物思いに浸っているより、ずっといいと、嬉しくなったのだった。



 そうだ。クラスのリーダー格のマジックの意見を聞くことができれば、今後の授業にそれを生かせるかもしれない。他の生徒の意見も、知っているかもしれないし。
 何よりこのハキハキした少年なら、思う所を忌憚なく聞かせてくれるだろう。
 いかにもエリート然としているのに、やけに社交的で気さくな所がある少年は、何くれとなく話しかけてくれる。
 俺は、気が楽になった。
 会話が弾む。
 太陽の光が、明るく俺たちを照らし出している。
 俺が、眩しげに空を見上げると。
 マジックがそっと言った。
 その金髪が、輝いている。
「先生、いいお天気ですね」
 俺はうなずき、両手を背後にやって、うーんと伸びをする。確かにいい天気だった。
「ああ、青空っていいよな、気持ちが澄み渡るっつーか」
「そうですよね。青空、僕も好きです」
 マジック少年は、どこか夢見るような瞳で、静かに呟いた。
「青い空の下、ひっそりと佇む白鷺のような教会。愛し合う二人は、そこで永遠を誓うキスをするんです。青空って、いいですよね」
 俺は一瞬、呆気に取られたものの、慌てて言葉をつないだ。
「……ハハ、マジックって、随分ロマンティストなんだなあ」
「ええ、愛する人の前では、僕は浪漫の海を漂う旅人ですから。常に心は愛の荒野を彷徨ってます」
「へ、へえ……えらく難しい言葉知ってんだな、先生、びっくりした、ハハ、ハハ」
「先生……こっちを見て。僕を見て」
「へ?」
「先生の瞳って、真っ黒ですね。漆黒っていうんでしょうか」
 細い指が、俺の顎に伸びてきて、くい、と彼の方を向かされた。
 そんなことに慣れていない俺は、ギョッとした。相手は俺の目を、青い瞳でじっと覗き込んでくる。
「とても綺麗です……吸い込まれそうだ。あなたの瞳は、闇の深遠を思い起こさせる……」
 そのマジックの顔が、あんまりにも真剣で。
 俺は、何と答えていいのかわからず、ただ平凡な言葉を返してしまう。
 いかん、俺。子供の真剣な言葉は、ちゃんと受け止めて返してやらないと。
 でも、でも。なんだこの雰囲気。なんだ、これ。
「いや、目が黒いのは、俺、日本人だし……」
「ええ、エキゾチックです。東洋の神秘ですね。憧れます」
「はは、はは、そう……?」
「僕、溶けそう……」
 なんだか知らないが、うっとりした青い瞳が、至近距離で、自分を見つめてきているような気がする。
 しかもだんだん相手の顔が、接近してきているような気がする。
 やけに甘い空気が、立ちこめだしている気がする。
 なまじ相手が美少年なだけに。なに、この雰囲気。



 い、いや、きっと、このマジック少年は、いつも誰にでもこんな感じなんだ。
 きっと俺なんかには想像もつかない高貴な家庭に育ったのだろうから、貴族って、こんな感じなんだ。
 そうに違いない。
 俺はそう自分に言い聞かせると、さりげない素振りで、身を引いた。
「や、ははっ。ってか、それ言うなら、俺はお前の青い目の方がキレイだと、思うぜっ」
 そう言って、思い出したように弁当へと向かう。
 せこせこと箸を使い、玉子焼きをぱくんと口に含んだ。
「……」
 妙に残念そうな面持ちで、こちらを見つめてくるマジック少年は、やがて小首をかしげた。
「僕の目、綺麗ですか?」
「ん? ああ、キレイだと思うけど。なんつーの、アイスブルーっつうの。いいよな、そういうの」
 何気ない言葉だったのに。
 少年は、ぱあっと花がほころぶように笑った。
「本当ですか! 嬉しいなあ、先生にそう言って貰って、僕、凄く嬉しいです!」
「そ、そうか? ハハ、いやまー、別に、こう思うの、俺だけじゃないって思うけど……」
 そう言った俺の脳裏には、職員室で聞いた噂がよぎっている。なんだかこの少年には、学内にファンクラブまであるらしいと。まあそれは噂の尾ひれというものだとは思うが。
「先生、大好き! 愛してます!」
 その瞬間、マジックが、ぎゅっと抱きついてきた。



「お、おい、おい」
 首の根にしがみつかれて、俺はひどく動揺する。
 金色の髪が、俺の頬にかかり、甘い香りがする。
 しかし、同時にこう思った。
 目が綺麗だと言われて、こんなに喜んでくれるなんて。
 カワイイとこ、あるじゃないか。
 やっぱり、大人びてはいたって、まだまだ子供なんだ。
 先生、大好きって。愛してるって。よく知らないが、上流の人は好意を伝える時に、そんな表現するんだろうなあ。
 ここまで好意を示されたのは、就任以来、初めてだったから。
 自分自身に力量に不安を感じている、新任間もなくのことだったから。
 俺は、単純に、ちょっとジーンをきていた。
 そのうち。
「……ん?」



 ごそごそ、ごそごそ。
 俺は、小さな異変に気付く。
 少年の手が、何か変わった動きをしている。
 ……俺の……あらぬところを……? 触って……いるような……?
 いや、偶然、腕が当たっちゃってんのかなー……ん、んん、でも、こ、これは……。
 んんん? んんんん? こ、これはっ……???
 その時、校庭の方から、がやがやと人がやってくる声が聞こえた。
「ちぇっ」
 少年が、さっと身を離す。そして元のように、俺の隣に行儀よく座った。すぐに数人の生徒たちが、背後を通り過ぎていく。
 俺は思った。
 ちぇっ……? ちぇっって。オイ。
 舌打ちしたぞ、この子。



 生徒たちが通り過ぎて、校舎の角を曲がって、見えなくなると。
「……」
「……」
 妙な間が、俺たちの間を支配した。
 ――俺は。
 話題を捜し、そういえば自分は、授業の客観的評価を知りたかったのだと思い出し、気を取り直してサンドイッチを食し始めたらしい少年に、さりげない風に尋ねてみる。すると返ってきた答え。
「え? いや、なかなか悪くない授業だと思いますよ」
 マジックは、ちらりとこちらを見、形のいい眉を動かさずに言った。
「まず先生の声がいいですね。聞いていて、ちっとも飽きない。まるで可愛い小鳥のさえずりのようだ。書き文字も素敵ですよ。アルファベットが多少右上がりで、横棒が心持ち斜めなのは、先生の積極的な性格を表してますよね。先生、なにげに負けず嫌いでしょう? 僕は、先生に握られるチョークに嫉妬したのは、初めてです。それに時々、口にする無邪気な冗談。あれがまた和みますね。一見くだらない駄洒落のようですが、先生の赤い唇に乗せられれば、それは至上の睦言。天使の歌声。僕は、うっとりと聞き惚れるのみです。そうだ、理科の時間に、黒板に動物の絵を描かれましたよね。あれって何ですか、ちょっとぐにゃぐにゃしてましたよね。四本足ってことまではわかったんですが……挙手して聞くのもはばかられるので、やり過ごしてしまったんですが。もし先生がその動物をお好きなら、僕は世界中に手を回してプレゼントしたいって思うんですけど。そうそう、体育の時のジャージなんですけど、僕、もっと、ぴっちりしたのがいいと思うんです。色も黒がいいですよ。折角バランスのとれたスタイルをなさってるんですから、それを強調しないと損ですよ。ああでも、それで他の人間が先生に興味を持つのは不味いな……敵が増えてしまう……そうですね、今のはナシってことにしてください。ええと、それから……」
「や、もういいよ……あ、ありがとう……」
「どういたしまして。お役に立てることがあれば、なんなりと」
 授業の内容に対する評価を聞きたかったのだが、なんだかそんな気分がふっとんでしまった俺である。
 あれは猫を描いたつもりだったんだ、とも言えなくなってしまった。
 心に、ちょっと隙間風。
 そんな俺の側で、一気に喋って喉が渇いたのか、俺の水筒から蓋に茶を注いで、こくこく飲んでいるマジックである。
「……」
 俺は、無意識のうちに、彼の動作を見つめていたらしい。
 金髪の少年は、俺の視線に気付くと、また嬉しそうに笑った。
「えへへ。これ、先生の水筒だから。これで間接キッスですね!」
「……」



 一体この子は何だろう。どういうつもりなんだろう。
 そう、ついボーッとしてしまったのが、いけなかった。
 何だか、体が重い。
 ふと気付いた時には、近くにマジックの綺麗な顔があって。その背後には、上空、青空が広がっていた。
 つまり俺は、押し倒されていた。
「……なっ……!」
 あまりのことに、俺は意味もなくキョロキョロと周囲を見回してしまう。
 しかし肝心な時に限って、誰もいない。校庭の方からも、誰の声も聞こえない。
 背中には草の感触。上には少年の体。凍りつく俺の体。
「わー、先生の香りがする……いつもすれ違う時、いい匂いがするなって思ってたんです」
 ウキウキとした少年の声ばかりが、辺りに響く。
 俺の首筋に、ちょっと濡れた感触がして、それはやわらかい少年の唇だった。
 えええ! ええええええ!
 俺の頭は、ショート寸前。
 いや、いや、ちょっと待て。この子は、愛情表現が過多なだけであって!
 優秀な子にありがちな孤独感から、大人にスキンシップを求めているだけであって!
 ぐるぐる思考を巡らせている俺の上で、まるで俺の頭の中を読み取ったかのように、マジックは嬉しげに呟いている。
「ああ、僕が無邪気な子供で良かった! これなら、誰か来ても『先生と無邪気な生徒のスキンシップ』で誤魔化せますよね! 安心してイイですよ、ねえ、先生
 え? 誤魔化……?
「先生……」
 そうこうする内に、首筋の唇が、静かに俺の顔に迫ってくる。
 俺の目の前で、マジックが目をそっと閉じる。
 長い睫毛。金色のそれは太陽の光を弾いて、ひどく透き通っていて……。
 って! え? えええ? ちょっと待って! えええええ――!!!
 その時。校内放送が、聞こえた。
『生徒会役員にお知らせです。生徒会役員は、至急生徒会室に……』



「ああもう! いいところで、今度は本当に呼び出しが!」
 唇が触れ合う寸前で、ガバッとマジックが起き上がり、俺から離れる。
 軽くなった体に、俺は硬直したまま、そのままの姿勢でいたが、あることに気付いて口を開く。
「え。お前、『今度は本当に』って」
「気にしないで下さい。あーあ、やっぱり学校は、邪魔が入る! 先生、ここにいて下さいね! きっとですよ! すぐに帰ってきますから!」
 少年は何度も振り返りながら、念を押して、たたたたーと駆けていってしまった。



「……」
 太陽の日差しに、やっと凍りついた体がほぐれて。
 しばらく経ってから、俺は身を起こす。
 一体、自分の身に何が起こったのだろうか。
「……何だったんだ……」
 ぽつりと呟く。
 チチチチ、と空の彼方で、鳥が鳴いていた。
 とりあえずは。
 マジックは、ここにいろと言ったが、そもそも昼休みはもう終わりなのである。
 混乱している時は、まず機械的作業をやってしまうに限る。
 俺は、空になった弁当箱に蓋をし、きっちりと包む。水筒の蓋を、閉めなおす。
 そして鼻の頭を掻きながら、ようやっと立ち上がろうとした、今度はその瞬間に。



 ぱしっ。
 顔に何かが飛んできて、反射的に俺はそれを受け止める。布のような感触。
「なんだぁ……?」
 見れば、白い手袋。
 顔を上げた俺の目の前に、違う少年が立っている。少し長めの金髪。繊細な顔の造作。
 きつい燃える青い目で、俺をギッと睨んでいる。
 何? 俺、何か悪いこと、しただろうか?
 それに……この子は、確か……と、俺が記憶を辿る、その前に。
 これも金髪碧眼の美少年は、再び何かを投げつけてきた。
 咄嗟に避けた俺だったが、地面に転がったそれを見て、呆気に取られてしまう。
 フェンシングの剣、だった。



 少年は、すらりとした姿勢で、剣を構えて言った。
「剣を取れ! 僕と勝負したまえ!」
「はぁ?」
 きらっと剣の切っ先が輝いた。
 俺は、口をぽかんと開ける。しかし美少年は本気らしい。こう言い募る。
「手袋を投げただろう! 決闘は成立だ!」
「ちょ、ちょっと待て、オイ、待て、オイオイ!」
「そちらから来ないのなら、こちらから行くぞ! それ!」
 そして問答無用に、襲い掛かってきたのである。
「わっ、わわっ! 待てオイ! 何すんだ、危ねーだろーがッ!!!」



 華麗に突き出された剣先を、俺はすんでの所でかわす。
 まるでつばめ返しのように、かわした先を襲う剣。
 咄嗟に地面に転がった俺は、その刀身を肱でガードし、バランスを狂わせて、足の踵で地面へと切っ先を蹴り降ろした。
 ザクッと音を立てて、芝生に穴が開く。
 芝生に突き刺さる剣の威力は、どう見ても鋼。真剣である。
「フ……なかなかやりますね」
 ゆらり、と闘気の中で、微笑む美少年である。
 こう見えても俺は、一通りの武道はたしなんでいる。学生時代には、武者修行をしていた時期もあった。だけど。だけど、こんな平和な学校で。こんな物騒なコト!
 俺は叫んだ。
「真剣じゃねえか!」
「しかし、僕が大人だったら、口の中に指を突っ込んで、殺していた!」
 俺の話なんて、この少年は聞いちゃあいないのである。
 彼は、太陽の光の下、剣をかざして高らかに宣言した。
「いいか! 誇り高き青の一族につく虫は、この僕が許さない!」



「はああ?」
 再びポカンとしかけた俺である。
「アホかっ! 虫ってナンだ――!!! つうか意味わかんねえ――!!!」
「アホ? 今、アホと言いましたね? クッ……この僕を愚弄するとは! こんな屈辱は初めてだ! いよいよ許せない!」
 細い眉に怒気を滲ませ、少年は激昂した。
 火に油を注いでしまったようである。
「覚悟!」
「チッ……」
 再び襲い掛かってきた金髪の少年に、俺は、マズい、と下唇を噛んだ。
 こうなれば。この少年を、気絶させるしか手は……多少荒っぽくなるが、仕方ねえ……
 すると。
「ル、ルーザー!」
 息を切らしたマジック少年の声が聞こえた。
「お前、シンタロー先生に何を!」



「何を? 少しばかり手合わせ願っていただけですよ」
 ぴたりと攻撃の手を止めて、『ルーザー』と呼ばれた少年は、いまいましげに吐き捨てた。
「先生! 大丈夫ですか、先生!」
「ああ、何ともねえよ……つうか、一体これはどういう」
「ルーザー! シンタロー先生にあやまりなさい!」
 この段になって、俺はやっとこの少年のことを記憶の引き出しから、引っ張り出すことに成功した。
 ルーザー。マジックの弟。そうだ、下校の時なんかに、顔を見たことあったっけ。顔と名前が今まで一致しなかった。そうだ、この美少年が、ルーザー……
 優美な雰囲気の中に、少しばかりの険をその身に纏った少年は、兄の言葉に、ぷいと横を向いた。
「嫌です」
「ルーザー!」
「それに何です、兄さんは、その男のことばっかり。僕のことなんてどうでもいいんですね。兄弟なのに」
「剣を持ってるのはお前だろう! ああもう、仲良くしろって言ったのに! いずれお前とシンタロー先生は、一つ屋根の下に住むんだよ? ワガママ言うんじゃない!」
 ……
 俺は呆然と兄弟の会話に立ち尽くしながら、『一つ屋根の下って、ナニ』とか、考えている内に。
 鐘が鳴る。
 午後の授業が始まる合図。



 その鐘で、俺はハッと自分を取り戻し、慌てて弁当包みを持って駆け出した。
「やばい! 午後の授業に遅れちまったじゃねえかッ!」
「あっ、先生が、元気になった! よかった〜、僕は、一生懸命に走る先生の姿が見られて、幸せです
 ぴょこんと跳ねるように、付き従ってくるマジック少年。
「うお――!!! 急げ〜〜〜〜〜!!!」
 焦る俺の背後で、冷たい声がする。
「まったく新任のくせに! 教師として遅刻はどうなんですか? 兄さんはこんな教師がそれでも好きなんですか?」
「ルーザー、そんなこと言うもんじゃない! 遅れたのはお前の責任もあるんだよ? 大丈夫ですよ、先生 僕とデートして遅れたってことにすれば! 教室のみんなも、それなら納得しますよ えへ、一緒に遅刻って、一緒に朝帰り、の前段階ですね」
「アホかぁ! 納得するかぁ〜〜〜〜!!! お前らも走れ――――!!!」
「ああっ! またアホって言いましたよ! 兄さん、この男、アホって言いました――――――!!!」
 校舎に向かってダッシュする俺たちを、太陽は相変わらずのキラキラした光で照らし出していた。
 急ぐ頭の隅で、俺はこう感じていた。
 よく……わからないが。何だか先が思いやられる、と。
 そしてその直感が間違っていないことを、俺はこの先、たっぷりと思い知らされることになるのである。








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