僕の先生

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「……」
 俺は、ただ目を見開いていたのだ。
 視界にこぼれる金髪の背後にある、星空を見ていた。
 闇に銀の粉が散って、きらきらと輝いて、俺は今この瞬間、何のためにこの場所にいるのかと不思議になる。
 俺はどうして、こんな星空の下にいるのだろう。
 星空は、上縁が木の葉のかたちに切り取られていて、どうして俺は、こんな木の下にいるのかと思う。
 そして……下縁が、人のかたちに切り取られていて。
 影が。俺に重なる影。
 感触が。
 どうして俺は……この子……と……。
 今……俺たちは……何を……?
 そこまで考えた時。
 ふっと、やわらかいものは、近付いてきた時と同じ静かさで、俺から離れた。



「……」
「えへへ
「……?」
 俺は、この状況がうまく認識できない。
 目の前、満面の笑みで、俺を見つめている少年。その顔を、星たちよりも嬉しそうに輝かせている少年。
「? ……???」
 そして凝固して動かない俺の身体。
 ただ視線だけを、俺はきょろきょろとうごめかせ、脇の草むらを見て、わずかに揺れる草先、吹き渡る風を見て、自分が押し付けられていた大木の幹、その葉を見て、薄闇の広がる空を見て。それから。
 もう一度、少年に視線を戻す。
 俺と目のあった彼は、ますます幸福そうに、にこっとした。
 いまだ身体が固まったままの俺、その首根っこに、ぎゅうっと抱きついてくる。
「えへへ、やっちゃった シンタロー先生っ! 今のが、僕のファーストキッスです



 その言葉で、俺の思考にかかった霧が、晴れていく。
 え。
 ファーストキッス。
 ふぁーすと。きす。きす……きすきすキスキス……。
 キス……。
 えっ、えええええええええッッッ!!!
「う……あ……っ……マ、マジッ……お前……ぐ……が……っ」
 少年に抱きつかれたまま、俺は必死に口を動かそうとするが、壊れかけのロボットのように言葉にならない。
 あまりのことに、言語中枢が破壊されてしまったのか、筋肉が崩壊してしまったのか、どちらだろうか。
 そんな俺の様子を見て。
 ちゃっかり俺の膝の上に乗った少年は、ん? という風に小首をかしげて、慌てて言った。
「あ、ああ! 勿論、ファーストっていっても! 恋人のキスは、ってことですよ 家族のキスはいつもしてますからね。言葉は正確に伝えなきゃ。先生って日本人だもんね! 異文化コミュニケーション
「ぐ……う……うぎっ」
「恋のキスは、先生が最初です 僕、シンタロー先生が初恋ですから! 恋人のキスは、愛している人としかしないんです! 先生、大好きでーす
「う、くぅ……マ……マジ……」
「ああ、早く先生が、僕の家族になってくれるといいなあ
「マ、マジッ……」
 一方的に、立て板に水。
 夢見るように、とろんとした青い瞳で、ほう……と溜息をついている少年の名を。
 俺は、必死の思いで、呼ぼうとする。
 拡散しそうな精神を寄せ集め、萎えた全身の力を総動員し、やっと俺は声を絞り出す。
「マジック!」



「はあい 何ですか、せんせーい
 つん、とマジック少年は、俺の鼻先を人差し指でつついてくる。
 可愛い声が、答えてくる。
「……マ、マジック……う……あの……あのなあ……」
「はあい、ちゃあんと聞いてますよ、先生 先生の言葉は、常に聞いてますよ」
「くっ……」
 俺は、息を吸い込んだ。
 そして思いっきり叫んだ。
「こらぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!!」



「わっ」
 常に聞いていると言った癖に、耳を塞いでいるマジックである。本当に現金な奴。
 少年は肩を竦めると、図々しく俺の膝の上にまたがったまま、やれやれという風に言った。
「先生、至近距離で突然叫ぶのやめてください。耳がキーンとしちゃいました。キーンって。今はまだいいですけど、いずれ睦言の時とかは気をつけてくださーい」
「むっ! 睦言って! お前いくつだ! というか! というかお前! こんなこと! こんなことっ――――ッ!!!」
「『こんなこと』って。どんなことですか?」
「えっ!」
 俺は口ごもる。
 彼は繰り返す。その白い顔。
「先生、『こんなこと』って、どんなこと?」
「ど……どんなことって、お前……」
 ちくしょう。俺はからかわれているのか。
 子供に『こんなこと』をされちまって。



「『こんなこと』って……こんなこと、でしょ」
「ああん?」
 問い返した俺は、馬鹿だった。問い返すよりも、もっと、さらなる危機の可能性を考えておくべきだった。
「先生……目を瞑って……」
「……ッ!!!」
 また、静かに近付いてくる影。
 ぼんやりと俺は、ああ、綺麗な顔だな、と思った。少年の閉じた瞼を彩る睫毛は、黄金の色だった。
 星明りに照らされて……どんどんと……俺に迫って……。
 二度目、のそれも。
 俺は、避けることが、できなかった。



 しかも俺は、今度は目を瞑ってしまったのだ。
 魔法にかかったように、少年に言われた通りに。体が、勝手に。
 目を開けているよりも、目を閉じている方が、ショックが少ないと脳が判断したのか、自己防衛本能が働いたのか。
 でも、やはりそんな俺の脳も本能も、輪をかけて馬鹿だったのである。
 目を閉じ、視覚を遮断した時の方が。
 ――触覚が、鋭敏になる。
 生々しく伝わってくる。
「……う……」
 少年のやわらかい唇のかたち、だとか。
 息遣いだとか。
 俺の顎にそえられた、細い指の冷たさだとか。
 俺の目元にかかる金髪の先、まだ大人になりきらない少年の首筋から漂う、甘い香り――そして。
「! ん……っ!」
 舌が、入ってきたのだ。



 少年は、舌先もやわらかかった。湿っていると最初に感じた。
 しかし、すぐにそれはどちらの湿り気なのかがわからなくなる。
 ぴちゃり、と濡れた音が聞こえて、俺はぎゅっと目を瞑った。
 どうしよう、と思った。
 どうしよう。どうしよう。
 俺は、頼りなく地に投げ出された自分の右腕に、ありったけの力を篭めた。
 だが、動かない。
 脳と筋肉をつなぐ命令回路が、麻痺してしまって、動けない。
 動けないのを、動かそうとする。
 手が震え、ぴくぴくと肌が揺れる。少しずつ少しずつ、浮き上がる俺の腕。
「……ッ……ふ……」
 その瞬間。
 逆に、俺の顎にかけられた少年の指に、ぐっと力が篭り、口付けが深くなった。
 俺の背中が、意外なほどに強い力で、大木に押し付けられる。
 ぱたり、と半ばまで持ち上げた俺の手が、再び地に落ちる。
 心の中で、俺は叫んだ。
『俺ッ! 俺、どーしちまったんだ、俺ッッ!!!』



「僕……」
 差し込まれる舌と一緒に、ささやかれる言葉に。
「……シンタロー先生が、好きなんです……」
 俺は、背筋がぞくりとして、頭の芯が生ぬるい熱に溶かされていくような、切迫感と倦怠感に襲われる。
 細い指に触れられている顔の輪郭が、ひんやりとして、何度も撫でられるたびに、感覚が研がれていく。
 その感覚は、口元へと集中していくのだった。触れ合っている場所へ。相手が潜り込んでくる。
 薄い小さな舌が絡んでくるのを、俺は止めることができない。
 相手はほんの少年なのに。
 しかも生徒。俺の……生徒なのに。
 そう思うのに、俺の心臓はどくどくと激しく波打ち、深く深く入り込もうとする舌に、無力に眉根を寄せることしかできないのだ。
「……はっ……」
 マジックが斜めに身体をずらしたので、俺は唇の端から、苦しい息を吐く。
 すると、また塞がれた。呼吸なんかするなという風に、強引に塞がれた。
 濡れた唇。混じり合う唾液、染まる頬。
 驚くほど巧みに歯列をなぞり、まごつくばかりの俺の舌を吸ってくる少年に、俺は蹂躙されるばかりで。
 どれほどの時間が経ったのか。
 離れる際には、髪ごと甘く口付けられて、その場所から胸の詰まるような感情が込み上げてきて、俺は寂しいような気分になった。



「……う……」
 俺は、ゆっくりと瞼を上げる。
 きつく瞑りすぎていたせいで、ぼやけた視界の中に、少年の姿があった。
 今度は彼も、さすがに疲れたのか、俺の膝の上に乗ったままで、息をついている。
「ふぅ……」
 だが、すぐに俺が目を開けたことに気付いて、例のごとくに嬉しそうに微笑んだ。
 そして言った。
「これはセカンドキッスです」
 ちょっと少年の語尾は掠れていて、そのことに自分でも驚いたのか、急に照れくさそうな表情をして。
 こちらは情けなくも、ぐったりして、大木に凭れかかったままの俺に、頬を寄せてくる。
 こめかみに、また彼の唇の感触を覚えた。
「三番目も、四番目も、五番目も、百番目だって千番目だって万番目だって、僕のキスは、先生のものですよ」
「……」
「全部、先生のものなんだから。全部、先生にあげます」
「……マジッ……ク……」
「だって、」
 今度は少年は、こつんと額を合わせてきた。ひどく近い距離に、青い瞳がある。睫毛が触れ合うか合わないかの間隔。
 小さく囁いてくる、声。
「明日は、先生の誕生日ですよね」
「な……何だって……?」
 驚いた俺の喉から、思わず言葉が滑り落ちる。
 相手は、『あれ?』といった風に瞬きを一つして、もう一度言う。
「明日は、5月24日ですよね。先生、ちょっと早いですけど……お誕生日おめでとうございます」



 俺は、全く自分の誕生日を失念していたのだった。
 この年になれば、誕生日なんかより、目の前の新しい仕事の方が大切だったから、そんな暇なんかなかったから、忘れているのも仕方ないとは思うのだけれど。
 第一俺は、自分の誕生日を祝うなんて、そんな柄じゃない。
 でも。
 でも……
 どうして、俺すら忘れていた誕生日を、この子が知っているのだろう?
 俺が、もどかしい意識をかき集めて、何とか言葉にしてそう聞くと。
 マジックは、何でもないことのように、こう答えた。
「ああ。先生が最初に提出した履歴書を見たんです」
「!!!!!」
 ど、どーして生徒がそんなものをっ! 教師の履歴書なんか、手に入れてんだッ!
 守秘義務! 守秘義務どーなってンだぁッ!!!
 俺のこの苦情には、彼はこの通り。
「え? いや僕は内部の人間だし。おかしなコト言うなあ、先生って。そもそも先生と僕の間には、守るべき秘密なんて、ないんですよ
「あんだってェ――ッ!!!」
 俺は、つい力を入れて、やたら細かく書き込んでしまった履歴書のすべてが、この子供に知られているのかと思うと、ふうっと気が遠くなった。
 恥かしい。
 好きなモノ:カレーライス、はいいとして。苦手なモノ:ナマモノ、も絶対に知られている。カッコイイ教師な俺の弱点が!
 ああ、いつか俺の机の引き出しに、カタツムリとか入ってたらどうしよう。いたずらっ子たちが、生臭いモノを背中に入れてきたら、どうしよう。
 確実に俺は、『ギャー!』と悲鳴をあげてしまう。なんてこった。
 これまで頑張ってきたイメージ台無しじゃねえかよッ!
 そしたら、絶対こいつのせいだ。こいつのせい。
 思い悩む俺の前で、マジックは不思議そうに主張している。
「どうしてですか? 知りたいって思うのは、人情じゃないですか! 特に誕生日。愛する人の生まれた日を祝わずして、僕は生きていくことができません!」
 嫌な人情論を持ち出している少年を、俺は、キッと見据えた。
 なんてヤツ! なんてヤツだっ!
 とんだ危険人物……危険少年じゃねえかよッ!



「じゃーん! そんな、ワ・ケ・で!」
「何がそんな訳だ。まずは俺の膝から降りろ」
「シンタロー先生には、僕を、プレゼントしまーす!」
「こらぁ〜〜〜〜〜ッ! どーしてそーなるんだっ!」
 抱きついてくるマジックを、引き剥がそうとする俺。
 しかし、ますますしがみついてくる少年は、離れない。
「どうしてですか? 僕、掃除だってできるし、料理洗濯、なんでもできますよ! 家事は得意ですし、ほら、たとえば先生に刃向かうような不届き者には、さくっと制裁加えてきますよ! そんな輩は逆に僕の忠実な犬に仕立て上げて、思いのままに操ってみせますよ!」
「あんだよその後半の危険思想! そんなのしていらねえ――!」
「キスだって! あっ、ねえ先生! 僕、上手だったでしょ? いっぱい調べて、ちゃあんと勉強しました 褒めてくださーい
「なにィィィッッッ!!!」
 だからか! だから、妙に上手かったのかッ!
 納得すると同時に、俺は髪を逆立てた。
 教育的指導、発動。



「そんな勉強すんじゃねえ! お前は学校の勉強だけしてりゃいいんだよ!」
「学校の勉強はしっかりしてますよー。先生、知ってるでしょ? いいじゃないですか。人間、幅が必要なんです。父だって言ってました! 机の上の勉強以外にも、色んな知識を、子供時代からいっぱい吸収して……」
「ンな知識はいら――んッ!!!」
「わ、また大声」
 身を竦めた少年は、不服そうに腕組みをした。もっともらしく斜に構えている。
「えー、先生、ウットリしてたじゃないですか。僕、ちゃんと見てました」
 ぐわっと俺は噛みつきそうになるのを、グッとこらえる。
 くっ……こんの小悪魔がぁッッ!!!
「してねえ! ウットリなんてしてねえっ!」
「そうかなあ。でも、ウットリしてなくっても、ときめいてたでしょ? せ・ん・せ・い
「ときめいてもねえ――っ! こんのガキんちょがっ! 十年早いんだよッ!」
「いやでも、僕、待ってられないですし。思い立ったら、すぐ欲しいのが僕ですし。それが僕の個性です」
「お前の都合なんか知ったこっちゃねえよ!」
「先生、恋愛は相手のことを思いやってこそ、恋愛なんですよ。相手の個性は尊重して」
「ならお前が俺の都合考えやがれ――――ッ!!!」



 ぜいぜい、はあはあ。
 マズい。相手のペースに乗せられてしまっている。
 恋愛って。別に、マジックと俺の関係は、恋愛なんかじゃないから。別に。
 ああもう、どうすればいいのだろう。
 力なく俺が、相手を見返すと、彼はそれはそれは幸せそうに笑った。
 とにかく、俺と目があえば、それが嬉しいらしいのだ。
 ……やっぱり……ガキが。
 お子様め。
「……チッ……」
 俺は、舌打ちをする。
 絶対に甘く見られている。ナメられている気がする。
 大人の威厳は。教師の威厳は、どこに。



「つっ、つーか、まだまだだろ! 修行が足りねえ!」
 俺は口をぱくぱくさせながらも、何とかそう言い切った。
「えっ、そうなんですか」
 これにはマジックは、ちょっと面食らったようである。目を瞬いている。
 こーの自信過剰のお坊ちゃんめ。そう、俺はほんのちょっとだけ痛快な気分になった。
 しかし。
「わかりました! 僕、頑張ってもっと勉強しますね! 見ていてください!」
「げ! ちがーう! そんなんちがーうっ! やめれ! 勉強せんでいい!」
 真剣な目つきで、ぐっと拳を握り締めた少年に、俺は慌ててしまう。
 これ以上勉強って。見ていてくださいって。
 ンなの、見せられてたまるか――っ!!!



「とにかく! まずは俺の膝から降りろ! 降りろったら降りろ!」
「ヤで〜す ここ、すっごく座り心地がいいんです! まるで僕のためにあつらえたような ありがとう、先生!」
「あつらえてねえ! ありがとうじゃねええ!」
 何だかまだ体が本調子じゃない俺が、膝をゆすっても。
 ちゃっかりとまたがったままの少年は、降りるもんかとますます抱きついてくる。
 そして、またささやいてくる。
 今度は何だか上目遣い。神妙である。
「……シンタロー先生、僕のこと、全部もらってください……」
 ちょっとドキリとしたが、そのペースに乗せられないように、俺はあえて声を張り上げる。
 周囲の草が、さわりと揺れた。
「だっから! そんなんなあ、もらえねえ! もらえねえの!」
「えー、でももうあげちゃったから! 返品はきかないですよっ」
「クーリングオフもねえ悪徳商売かぁあ! 消費者センター!」
「だってね、」
 マジックは、少しまだ濡れた唇に、人差し指をあてた。声をひそめる。
 そして、形のいい顎を動かして、今度ははるか上を見た。
「この、エルムの木の下で、僕は誓っちゃいましたからね」
「ああん?」
「僕たち一族に受け継がれた、この伝統ある木の下で……だから、ちゃんともらってくれないと、危ないですよ」
「は? 危ない? この木がどーしたんだよ。さっきの、ちょっといい話だけじゃねえのかよ」
 聞き返した俺に、おごそかな声が響く。
「困ったことに、この木の下で一族がした誓いを破ると、御本尊様の呪いが先生の身に降りかかります」
「うお――ッ!!! 脅迫ッ!!! 呪われたッ! 誰かぁ! お祓いして――ッ!!!」
「やだなあ、脅迫だなんて 第一、このエルムの花言葉は『信頼』です」
「ちっとも信頼じゃねええ! 親子話が台無しッ!」
「ささ、これから信頼し合って、僕たち、愛を育てていきましょうね」
「育つかぁ――ッ!」



 俺は、頭を抱えたのだった。
 夜の鳥が、鳴いた。
「シンタロー先生、大好きでーす
 きゅーうと抱きついてくる金髪の少年。
 またぐったりと、木に倒れ掛かる俺。
 俺の未来に、朝は来るのだろうか。



★★★



「はーい。というワケで!」
 僕は、話が終わった合図に、ぱん、と一つ手を叩いた。
 そして宣言した。
「おにーちゃんは、シンタロー先生と、ファーストキッスを済ませたのです!」
 ぱちぱちぱち! と返ってくる、小さな四つの手の平の拍手。双子の拍手だ。
 ベッドの中、毛布から顔を出して、僕におめでとうを伝えてくれる二人に、僕は丁寧にお辞儀をした。
「やあやあ、ありがとう! お前たち、ありがとう!」



 毎晩寝る前に、僕は双子に絵本を読んでやる。
 でも、今日は色々なことがあったから。ありすぎたから。
 特別に、絵本のかわりに、僕とシンタロー先生の恋の顛末を、報告していたという訳だ。
 当然の家族の義務だと思ったし、それに双子は、なんたって、協力してくれたからね。
 足をぱたつかせながら、ハーレムが騒いでいる。
「キス! キース! ボクもするー! こいびと! キッス〜!」
 それを横目で見ているサービスの頭を撫でて、僕は言う。
「ハーレムにはまだそういうキスは早いよ! それにね、お前、まだサービスに仲直りのキスだってしてないだろう。朝方のケンカの分をさ。お兄ちゃんはごまかされないよっ」
「む!」
「はい、さっさとする! 今朝はハーレムが悪かったんだから。ごめんなさいって、サービスのほっぺにチューしなさい」
「むむー!」
 ハーレムは、毛布を引っ張って、盛大にいやいやをしている。量の多い金髪が、ふさふさ揺れているのだ。どうも抵抗があるみたいで。僕とは平気なくせに。ほんと、困った子なんだから。
 サービスはサービスで、そんな双子の兄に、やけに無表情な視線を送っている。
 やれやれ。サービスだって、もっと優しくしてやれば、ハーレムだってやりやすいだろうに。
 この子たちは、本当は仲がいいのに、仲の悪い素振りをしたがる点で、どうにも扱いが難しかった。
 まあ……それはいつものことだったのだけれど。
 今夜の僕には、もっと心を埋め尽くしてしまう想いが、ある訳で。
 なんだかね。そんな日常の喧騒に身を置きたくない気分なんだよね。
 ああ、ああ。ああったら、ああ。
 バチバチと火花を散らしている双子から視線を逸らし、僕はうっとりと呟いた。
「あ〜、シンタロー先生の唇、やわらかかったな〜 ああ、いいかい、お前たち、お前たち同士はともかく、今日の僕からのお休みのキスは、なしにしといてね。しばらくファーストキッスの余韻に浸っていたいのさ」



 でも、そんな僕たちの背後で、ルーザーったら。
 部屋の隅に立って、腕組みなんかして、じろりと僕の方を見て、やけに皮肉っぽく言うんだ。
「……兄さん。あの教師に、兄さんが僕らに事細かに洗いざらい、ぶっちゃけてること、告げ口していいですか」
 と、こうだ。
「なんだい、僕がまるで悪いことしてるみたいに。家族は一心同体じゃないか」
 ルーザーの奴も、早く先生に慣れてくれればいいのにと、僕は思う。
 このすぐ下の弟が、実は一番の人見知りなのだ。
 というより、一族以外の人間には、基本的にこの態度。
 ちょっとよろしくないなあ。



 そうこうする内に、双子がケンカを始めてしまった。
 どっちからキスするの、そっちからキスするの、どうこう。
 キスはキスなのに。どっちからしたって、それは勝ち負けじゃなくって、キスはキスなんだよ。
 それがわからないかな。この子たちったら。
「こらぁ――っって、あーあ……」
 僕は、反射的に声をあげてみたものの。
 なんだか、やっぱりいつもみたいに、すぐに仲裁をする気にもなれなくて。
 足元がフワフワしてしまうのだ。何かが変だ、僕は。
 ちょっと待ってね、悪いね、お前たち。
「ふーう」
 僕は立ち上がって、部屋の窓を開ける。
 初夏の夜風が、すうと僕の頬を撫でて、新鮮な空気が流れていった。
 夜。外は夜。
 黒い窓枠に頬杖をついて、夜空を見上げた。
 輝く空。銀の砂は、幸せのしるし。
 あのエルムの木の下で見た星たちは、同じように僕に微笑みかけてきたのだった。



 ――シンタロー先生。
 僕は、大好きな人に向かって、語りかける。
 ねえ、先生。聞こえてますか?
 先生も、この星を見てますか。
 さっき、キスしましたよね。
 僕は今日のことは、一生忘れませんから。思い出にして大事にします。
 だけどね、先生。
 これからも、思い出、僕と作りましょうね。いっぱいいっぱい作りましょうね。若い僕らに、時間はたくさんあるんです。
 先生と、もっとお話したいです。
 先生のこと、もっともっと知りたいです。
 もっともっともっと、キスしたいです。
 僕、何でもしますから。努力しちゃいます。
 そりゃ子供ですけど、こう見えても甲斐性あるんですよ。何処へ行っても、エスコートしてあげますよ。
 顔だって、悪くないでしょ。きっと背だって、高くなります。将来性だって抜群ですし。何不自由ない生活、させてあげますよ。
 先生が望むなら、この世のすべての人間を、跪かせてみせたっていい。
 でも……もし先生が、子供の僕じゃダメっていうなら。
 僕、早く大きくなりますから。先生の好み通りに、たくましくなってみせますから。
 だから、ね?
 先生。シンタロー先生。
 待っててね。



 夜空を見つめるだけで、僕は、とっても幸せな気分になったんだ。
 恋って、凄いと思う。
 だってさ、あの人の顔を、声を……感触を。思い浮かべるだけでさ。
 何だってできるんだって気がしてくるんだよ。
 何だろう、このパワー。どうしたんだろう、僕。
 背後から聞こえてくるのは、相変わらずケンカばかりの双子の声。
 我関せずの態度をとりながらも、この場にいてくれるルーザーの気配。
 そして心には、あの人が。
「……ああ」
 幸せだった。
 指を伸ばして、つうっと自分の唇を、なぞってみた。
 あなたも、こうして僕を思い出してくれていたらいいのに。
 思い出して、幸せになってくれたらいいのに。
 そうして、また夜空を見上げて、僕は呟いたんだ。
「僕の先生……」



★★★



「……ッ」
 俺は、開いていた新聞紙を、くしゃりと潰してしまう。
 これでもう数度目だった。慌てて、指で押し広げて、平らに戻す。皺が残ってしまった。
 新聞は、まだ読んではいないのに。教師たるもの、一通り目を通すべきなのに、まだちっとも。
 この部屋に帰ってきてからというもの、俺は新聞を開いてこそいたのだが、字面を目で追っていただけだった。
 文字は目に入っても、その意味を捉えることができない。
 テレビも同じだった。
 習慣で、どかりと床に腰を降ろした瞬間に、リモコンでスイッチを入れたものの。
 流れる映像を、どうも認識することができない。賑やかな笑い声や、歌声なんかが四角い箱から聞こえてくるのに、俺の意識はうつろだった。
 心が、他に気をとられてしまっている。



 俺は、あの四兄弟の家では飲み損ねた缶ビールを片手に、窓の外に目を遣った。
 灰色の電信柱が、にゅうと突き出していて、雑然とした下町の風景が広がっている。俺の家。
 週末の夜だったから、なんやかんやと人通りはあった。安アパートの二階にも、喧騒が風に乗って、遠くに近くに聞こえてくる。
 狭い空に、小さく星空も見えた。
 街の灯りに、白く霞んでいるけれども、それは確かにあの空だった。
 ――空。



「……チッ」
 缶ビールの縁を舐め、俺は行儀悪く、空き缶を壁に向かって投げ出した。
 からんころんとそれは転がり、数回跳ねて、逆立ちして止まった。
 俺は、溜息をつく。もっと買ってくるんだった。
 また外に出ようかとも思ったが、そんな気にもなれない。
「……」
 テレビを消して、新聞紙を畳み、電器を消して、部屋隅にある粗末なベッドに、ごろりと身を横たえる。
 しばらく、そうしていた。



「……っ」
 俺は、びくりと身を震わせる。
 知らぬ間に、指が唇を、なぞっていたのだ。
 さっきから自分は、こうなのだ。
 ああ、もう。悔しくて、悔しくて。なんだか情けなくって。
 俺は、側にあった枕を、ぎゅうと握る。中に入っているビーズが、潰れそうなくらいに握る。
 それから。
「……はあ」
 また溜息をつき、力を抜いて、俺は仰向けになって天井を眺めた。
 ……俺。
 ……俺って……。
「ああ――っ! くっそー!」
 両手を上げて、ばたんと勢いよく落とした。ベッドのスプリングが、ぎいと悲鳴をあげる。
 ……なんであんな、子供に。



 やがて静かな夜が更けていく。
 そのまま俺は、眠ってしまったのだった。
 今日起きたことが、夢であることを願いながら、また夢を見る。
 可愛らしい声だった。
 現実でも夢でも……俺を慕ってくる声。
 きっといつか、懐かしく想うことになる声。
 俺は、そんな予感を……。
 ……本当は、ずっと……。



『ねえ、先生。聞こえてますか?』
 ――聞こえねえよ。
『先生も、この星を見てますか』
 ――バーカ、寝ちまったから、見てねえよ。
『さっき、キスしましたよね』
 ――知るか。
『これからも、思い出、僕と作りましょうね』
 ――勝手にしやがれ。
『あなたも、こうして僕を思い出してくれていたらいいのに』
 ――……。
 待っててね、と。遠い声が、響く。
 どうして、僕たちは出会ったのかな。まるで運命の二人みたいに。
『僕の先生……』












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