僕の先生

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 青銅製のガス灯が、闇に、一滴一滴、淡いしずくを落としたように輝いている。
 曲線を描く煉瓦積みのアプローチを抜けると、しばらく深緑の中を、インド砂岩が乱貼りされた美しい園路が続く。
 夜目にも揺れる花色、甘い香りが、静かな風に乗る。足元には一年草の花壇が、初夏を迎えて、空を見上げているのだった。
 広い庭園は、そのまま自然の丘へと、俺の視線を誘う。
 そのさらに先には――丘の上には、星たちを背景に、高い木がぽつんと佇んでいた。
 マジックと俺は、二人並んで、黙然と歩いている。
 意外なことに少年は、家を出てからというもの、一言も口をきかなかった。



 俺は、なんだか拍子抜けで、かといって自分からは何を話したらいいのかわからず、ちらちらと相手を窺いながら、やはり黙って歩いている。
 こんな場合は、教師で大人の俺から、話しかけるのが当たり前であるのに。
 なんだか、調子が出ない。
 困った俺は、首を上げて、空を見る。
 確かに美しい空だった。星が満ちて、銀色の瞬きにあわせて世界が呼吸している。
 遮るもののない空間は、俺を落ち着かなくさせる。人工的な壁に遮蔽されること、建造物に囲まれること、切り取られた場所に住むこと、そのすべてに慣れた身だ。
 肌が、遠くから吹き渡る風を感じ、足が、どこまでも続く大地を踏み分け、俺たちは丘を目指す。
 どこか……心もとなくて……。
「あっ」
 俺の声が聞こえた。
 聞こえてから、自分が口を開いたのだと知った。
「流れ星だ」
 空を切り裂くような銀の糸が、すうっと尾を引いたのだ。



 隣を歩く金色の髪が、俺の目の端に映って、それからくすくす笑い声が聞こえた。
「あんだよ。何か笑うコトあるのか」
 ちょっと気分を害した俺に、少年はまた笑って答える。
「いえね。先生って、僕より子供みたいだなあって思って」
「なんだと!」
「褒めてるんですよ」
 そんなことあるか。馬鹿にされているに決まってる。
 俺の気持ちがわかったのだろう、少年は、憮然とした俺の顔を見上げて、再びはっきりと言った。
「馬鹿になんかしてません。僕、シンタロー先生のこと、教師として、素敵な先生だって思ってますから」
 足こそ止めなかったものの、俺は、内心驚いた。
 冗談みたいに『好きです』なんて、マジックに言われることは多々あったものの、『教師として』好意的な評価を聞かされたことは、初めてだったのだから。



 屋敷周りのガス灯が、背後に遠くなる。
 星空ばかりが、俺たちを包む。
 マジックが、また言う。
「本当ですよ。僕は、先生に受け持ってもらえて、幸せだと思ってます。恋愛的な意味じゃなくっても、ね」
 少年を見返した俺の目には、何が宿っていただろうか。彼は、俺を見て、今度は苦笑する。そして『僕って信用ないなあ』と言った後、こんなことを話し始めた。
「最初は……父さんが、夏学期が始まる前に、僕に言ってくれたんです」
 下草を踏む感触、俺は我知らず息を潜めて、少年の言葉を待つ。
「父さんが、今度くる先生は、とてもいい先生だよって。お前は勉強以外のことも、ちゃんと学びなさいって。だから僕、その時から、どんな先生だろうってずっと」
 そこまで言って、マジックは、ぴたりと立ち止まった。
 つられて、俺も立ち止まる。
 すると少年は、急に駆け出した。そして俺から数メートル離れた所で、くるりと振り返り、大声で叫ぶ。
 俺に向かって、叫ぶ。
「やっぱり! 父さんはいつも正しいです。僕、シンタロー先生が大好きになりましたから!」



 マジックの父親には、俺も、一度だけ会ったことがある。
 この学校に採用される際の、最終面接の時だ。
 想像よりとても若く、ずらりと並んだ面接官の中で、彼だけが明らかに特別だった。理事長という肩書き以上に、感ずるものが違う。
 俺に質問をしてくるのは、彼の周囲の年配の人間ばかりだったけれど、それでも彼がこの部屋を支配していることは、ちょうどこの星空の中で月を探すよりも、簡単にわかったのである。
 面接の間中、俺は、必死に頭を回転させながら、心は彼の表情ばかりに目を奪われていた。
 辿り付くまでに数段階の面接、筆記と実技、模擬授業をこなし、すがりつくような気持ちを最終面接に込めていた俺である。
 そして、もう駄目だと思った。
 彼は、ずっと厳しい顔をしていたのだ。彫りの深い顔立ちが、お前は教師として未熟者だと俺に告げているような気がした。
 ついに一言も彼は口をきいてはくれなかったから、俺は失敗したのだろうとあきらめていた。
 ――そんなことが、あったから。
 その彼が、息子には、俺のことを『いい先生』なんて言ってくれているなんて、本当に意外だった。
 そして。
 凄く凄く、俺は嬉しくなったのだ。感動した。
 特に今は、自分の実力に不安を抱いている時であったから。ひどく勇気付けられた。
 あの人が、俺のことを、教師として評価してくれていたなんて。
 泣きそうなくらいに嬉しい。



 でもこんな事情を、マジックに話す訳にはいかなかったから。
 頭の中で、俺は適切な言葉を一生懸命に探し、そして適切かどうかはわからなかったけれど、とにかく伝えたい語感を探り当てた。
「……お前の父さんって、カッコイイ人だよな」
 ただそう一言、でも万感の思いを込めて、言ったのだ。目の前の少年を見る。
 マジックは、いつも背筋がきちんと伸びている子だけれど、この時は、さらにぴんとして見えた。
 彼は、嬉しそうに答える。
「はい!」
 しかしマジックは、次の瞬間、いぶかしげな表情をしている。
 こんなことを聞いてくる。
「……やっぱり先生は、大人の方が好きなんですか」
「はあ? ばっか、そういう意味じゃねえよ」
 俺は、溜息をついた。
 やれやれだ。



 俺は再び歩き出す。
 マジックも、俺の隣に、たたたとまた走ってきて、並んで歩き出す。
 そして、俺を見上げてくる。
「……シンタロー先生は、僕が子供だから相手にしてくれないんですか?」
「ほんと、お前ってもう……あのなあ、」
 俺は呆れ声を出す。ズボンのポケットに、両手を突っ込む。
「男同士だっての。男同士」
 文字通りに聞き分けのない子供に、言い聞かせるようにした。
「俺も男で、お前も男なの。わかってんだろ」
「先生、今日びそんなのは問題になりませんよ」
 ……今日びって。お前。
 俺は、本日何度目だろう、溜息をつく。
 確かに俺だって、男同士の恋愛というものが、存在するということぐらい、知ってはいたけれど。
 でも、それは、自分とは全く縁のない、遠い世界の出来事だと思っていたから。
 ちょっと待て。何を俺は真剣に。こんなコト、考えちまってるんだろう?
「くっ……それじゃ男同士、って問題は、この際、脇に置いておくとしてもだな、」
 俺は言った。
「あのな、恋とか愛だとかはな、じゅーぶん、大人になってからでも、できンだよ。子供は、子供の時分にしかできないコトをやるのが、先だろ」
 少年は、俺の言葉を繰り返した。
「子供の時分にしかできないこと……」



 俺は心持ち声を大きくした。
「そうだ、いいか、子供ってのはな! ちゃんと遊んで、ちゃんと勉強して、ちゃんと眠って……」
 そこまで言って、俺は気付いた。
 そういえば。このマジックは、ちゃんと『子供』をやっているのだろうか。
 自分は、彼が弟たちの世話をする姿を、微笑ましいなと眺めていたのだが。
 それは本当に微笑ましいことであるのだろうか。
 子供は、大人に守られてこそ、子供であることができるのに。
 そして俺は、後悔した。
 教師である俺が、この子を警戒するなんて。
 俺自身が、この子から『子供』であることを奪う、大人そのものだってことじゃないか。
 今、俺の目の前で、楽しそうに笑っている少年。
 言葉を途切れさせた俺に向かって、彼は、にっと唇の端を上げる。
「はは、先生は古臭いなあ」
 まだふくらみのない、少年のすんなりした喉が静かになると、そこから優しげな声が響いた。
「でも僕は、そんな先生の、古臭い所が好きです」



「素朴で、純情で、今時流行らない地味な考え方をする。そんな先生が、僕は好きですよ」
「……」
 俺は、戸惑う。
 褒められたのかけなされたのか、どちらだろう。
 でも。
 ――好き。
 好きって。こんな子供に。俺が。好きって。
 もう何度も何度も聞いたけれど、その言葉を改めて認識して。
 かあっと俺の頬が、熱くなる。
 夜でよかったと思ってしまう。闇が、きっとマジックから、俺のこの反応を隠してくれるだろうから。
 どこか後ろめたくなって。俺は慌てて言った。
「お、お前はな、簡単に好きだの愛してるだのって言うけどな」
 少年は、青い瞳で俺を見つめている。
「ソレは、そんな簡単なモノじゃねえんだ。お前みたいな子供が、軽々しく口にするモンじゃねえ」
「どうして。僕は先生を好きですし、愛していると感じてます。この気持ちは本当ですよ」
「あのな、お前は本当だって思ってても、実際はどうだか。まだ子供だから勘違いしてるんだよ」
「僕なりに考えたんです。それで十分ですよ」
「お前なあ、」
「僕は真剣です」
「お前みたいな子供が……」



 ここで、子供はまた笑う。綺麗な声で笑う。そして嘆息した。
「はは、子供、子供って。でも残念。僕は、僕を子供扱いしてくれる、そんなアナタが、好きなんだなあ……」
 その時、マジックが、ひょいとしゃがんだ。何かを拾い、また歩き出す。
 俺が彼の手元を覗き込むと、それはきらりと輝いた。
「石ですよ。そこの草むらで光ってて。さっきの流れ星かもしれませんね」
 少年は、細い指で石をなぞった。その感触を確かめるように、何度も何度もなぞった。
「……流れ星が落ちてるって。へっへ、やっぱ、お前のが子供だナ」
 先刻の仕返しとばかりに、俺がそう言うと。
「ええ、僕は子供ですよ」
 彼は認めて、さらに石を撫でながら、こう続けてきた。
「先生……子供が本当の愛を知らないというのは、大人の傲慢ではありませんか。子供だって……人を好きになることはできます」
 なぜだか、背筋がずきっとした。
「恋愛は大人の特権じゃありませんよ。子供にだって、恋愛はできるんです。僕は初めてそのことを知りました……先生に出会ってから」
「……」
 マズい。俺は下唇を噛んだ。
 何て答えていいのか、わからない。
 教師失格だ。



 周囲は開けて、あの大きな木が、俺たちの目の前にある。
 小高い丘の上に、腕を広げるエルムの樹。幹の高さは30メートルはあるだろうか。夜のせいもあるが、見上げただけでは正確な高さはわからない。
 丘の主は、静寂をもって俺たちを迎えた。
 その樹皮は幾層にも裂けていて、魚の鱗のように反り返っていた。
 暗い灰褐色を帯びた樹の肌には、長い年月を佇むことで永らえた叡智が、刻み込まれている気がする。
 縁にぎざのある大振りの葉が、身を重ねあい、寄せあって、夜に向かって何事かを囁いているように見えた。
 俺は、思わず、耳をすます。
 だが、何も聞こえない。
「……この木を、先生に見せたかったんです」
 少年の声だけが、その空間に、ぽつんと落ちた。



「大きな木でしょう。何百年もここに立ってるんです」
 少年は言う。誇らしげというよりも、それは淡々と事実を述べる声だった。
 俺は素直な感想を口にした。
「……すげえな」
「僕ら一族を、この木は見守ってくれているんです」
 そこで、マジックは、俺の方を見て、にこっと笑った。金髪が揺れた。
「父さんがね。父さんが」
 父親のことを話す時に、この子は、年相応の顔をすることに俺は気付いた。
 嬉しそうで、憧れを表情に滲ませていて、とても――
 可愛い、と。俺は感じている。
 マジックは言う。
「父さんが僕に、この木の下で。よく言うんです。『お前が家族を守るんだ』って。私の留守中は、お前が守るんだって。そんな約束を、いつも遠くに仕事に行く前に、僕としてくれる。この木は、そんな大事な樹なんです」
「……」
「僕は。僕の大事な先生に、僕の大事なものを、見せたかったんです」
 『一族』のことは、俺はよくは知らない。
 ただ、普通の人間の背負うものと、彼らの背負うものは、どこかが違うのだろうな、何か特別な格式や伝統があったりするのだろうな、というイメージを、漠然と抱いているだけだ。
 学校においても、他の教師たちの態度から、陰に陽にそれは感じている。
 彼らは、『特別』であると。
 でも、それに反して。
 マジックの言うことは、『普通』だと俺は感じた。
 俺が当の大事な人だということに関しては、何かの勘違いなのだろうけれど。いつか、きっとこの子はその勘違いに気付く時が来るだろう。
 だけれど、大事なものを、大事な人に見せたいという、この気持ち。
 その少年の気持ちは、とてもよくわかった。伝わってくるものがある。
 溢れる好意。優しい気持ちだ。
 子供らしくて、純情で、可憐で、それが俺に、こんなに素直に向けられているなんて。
 そのことに、俺は、とても――
 嬉しくなったのだ。



「……ありがとな」
 俺は心から、そう言った。
 少年は、ますます顔を輝かせている。
 綺麗な笑顔で、また。
「シンタロー先生、大好きです!」
 なんて。言ったりするから。
 俺も、また、どぎまぎしてしまう。
 こういう直球な好意には、本当にどう答えればいいのか、俺はわからないのだ。嬉しいけれど、受け止め方が、俺はいつまでたっても不器用で。この未熟者。
 だから。
「お、おーし、そしたら、俺の給料上げるように、親父さんに交渉してくれ」
 俺は腕組みをして、さして面白くもないことを、照れ隠しに口にしてしまう。
 困った教師だと、自分でも思う。
 少年は、少し目を丸くしたものの、さらりと答えた。
「いいですよ。父に話してみます。でも給与のことだったら、父よりも事務局の方がいいかなあ……」
 相手が本気で言っているみたいなので。
 俺は慌てた。
「……冗談に決まってんだろ」
「冗談なんですか?」
「つうか、お前……あのな、先生は、お前が色々と勘違いしてんだと思ってんだが、その……」
 ちょっと心が通じ合ったと思ったら、またこれだ。



 大木の広げる枝が、さわりと揺れた。
 葉の繁る隙間から見える星々も、一緒に揺れているようだ。
 俺は、鼻の頭を掻いた。俺の癖なのだ。少年に、諭すように言う。
「そんなんで……いや、さっきもそうだがな。金とか積んで、仮に、仮にだぞ! 俺がお前のコト『好き』とか言ったり、一緒にいてやるとしたら、お前、それで嬉しいのか」
 それは俺だって人間だから、金持ちになりたいって、思ったりもするけれど。
 でも。
 俺はこの少年から、そんなレベルとは異なった、何か危ういものを感じることがあるのだった。
 それは俺が教師だから、この子を導いてやらなければならない立場だから、そう思うというより……もっと人間的な感覚で。
 本能で俺は、この子に、かすかな不安を感じている。
 ああ、やっぱりこの子は普通の子供なんだ、嬉しい。そう思うと同時に、すぐに心が怯えを感じることがある。
 何故だろう。本当に優秀で、非の打ち所のない出来すぎた子供なのに。
 もしかすると自分は、彼の出来すぎな所が不安なのかもしれない。老婆心という奴で、ただの杞憂かもしれない。
 だが、何故か、この子を一人にしておくことはできないという、そんな庇護欲のようなものを、俺は確かに感じ始めている。
 その正体が何であるのかは、まだよくわからない。でも。
 色んな感情の外で、俺は、この子を放ってはおけないことに、気が付いている。
 どこか欠けた所が、この子にはある――



「嬉しいですよ!」
 言下に答えるマジックの顔を見て、俺は内心のざわめきに、僅かに目を細めている。
 金髪の少年は言った。
「お金や工作なんかで、シンタロー先生が僕の側にいてくれるんだったら、とても嬉しいです。嬉しいに決まってます」
「……お前なあ!」
 俺は、思わず声を荒げたのだ。
 この子を止めてやらなければと。俺は。胸の痛みさえ覚えていた。
 だが、続けて少年は、こう言ったのである。
「だって僕は、絶対に。先生を好きにさせてみせますから」
「!」
 俺は、意表を突かれて、ついまじまじと相手の顔を見つめてしまう。
 少年は、静かな声をしていた。
 その響きの雫が、夜の水面に、ぽつりと淡い円を描く。染み渡る。
「先生が僕と一緒にいてくれたら……先生を、僕のことが好きにさせる自信があります」



「いっぱいいっぱい努力します。本当ですよ。先生のために、僕、何でもしますよ。だから、いつか先生は、僕のこと、好きになりますよ」
「……」
「さっき言ったみたいに、僕のものは何でも先生にあげますから。全部、あげたいんです」
 マジックの声から、ふざけた調子は消え失せていた。
 代わりに、とても真剣な、真摯な響きが――夜と樹と、そして俺の心を、揺らす。
「あげるから、僕のこと、好きになって。先生」
 少年は必死だった。余裕なんてなかった。そのことを、俺は感じた。
 沈黙が、落ちた。
 俺たちは、夜の中で、お互いの目と目を見ていた。
 マジックは俺の黒い目を見ていたし、俺はマジックの青い目を見ていたのだ。
 まるで時が止まったように。
 悠久の時を過ごしてきたエルムの木の、ささやきのように。



 沈黙は、破られた。
「あっ」
 マジックが、小さく叫んだのだ。
 俺から視線をはずし、自分の足元に向けている。
「流れ星を、落としちゃいました!」
 慌てたように、彼はかがみこんで、あちこちを探し始めた。
 さっき草むらで拾った石を、手から滑らせたらしい。
 やけに焦って、『ない、ない!』と地に這っている。暗いので、ほとんど手探りだ。
 俺は、張り詰めた気が抜けたように、ほうっと胸を撫で下ろした。
 このまま沈黙が続いていたら、俺の方が耐えられなかったに違いない。
 そしてどこかマジックの様子に、安心している自分がいることに、気が付いている。
 夏の初めとはいえ、夜とは温度のない空間だった。首筋に少しばかりの冷気を感じ、俺は首元にほつれた毛をかきあげる。
 俺の時間は動き始め、思考の歯車がゆっくりと回り出す。
 俺は、考える。
 何を俺は、慌てていたんだ。戸惑っていたんだ。
 ここにいるのは、俺の生徒。そして俺は、教師。
 教師と生徒。簡単なことじゃないか。
 今、俺の目の前にいるのは、マジック。俺の可愛い生徒。
 難しいことなんて何一つないんだ。俺は、迷う必要なんて、ないんだ。
 そうやって対応すればいいだけなんだ。
 自分を取り戻そうと、俺は深呼吸をする。



 深呼吸をしてから、思う。
 ――あの石。マジックが拾った石。
 確かにキラキラ輝いて、綺麗な石だったのだけれど。
 あんなものを大切にするなんて、やっぱり子供だなあと。
 微笑ましいじゃないか。
 だから俺は教師として。大人として、この子に、接すればいいのだ。何があろうと、答えは、最初から決まっているのだ。
 心の整理がついた俺は、『ったく、しょうがねえな』と呟いて、さっそく彼を手伝ってやることにする。
 少年は、悲しげに天を仰いでいた。
「ああ、ないよお……折角拾ったのに! 先生との思い出なのにっ!」
「石だから転がってったんじゃねえのか?」
「ええ……それじゃ、そっちの、木の根元の方に転がっていったのかも……」
「ああん、こっちかあ?」
 やれやれ、と俺は数歩歩いて、太く盛り上がっている根元の辺りにしゃがみこむ。
 青草の香りがした。葉先が俺の頬を、さらりとかすめる。
 俺は、草の根をかきわけて、あの石を探す。
 少年が、流れ星と呼んだ石。そういえば、俺が最初に空に流れる所を、見つけたのだったのに。地からも、俺が、探してやらなければならないらしい。
「見当たらねーぞ。そっちじゃねえのか」
 真面目に探してやっているのに、石はちっとも見つからない。
 探しながら、俺は。
 一度機会があれば、マジックの父親――理事長と、話し合ってみたいと思う。
 今度は面接者と被面接者、という間柄ではなく、子供の父親と、担当の教師として。
 そもそも考えれば、この時期に、教師が変わったというのも、不自然といえば不自然なのである。
 可能であれば、だけど。話してみよう。そうしたら、何かが変わるだろうか。
 俺は言う。
「おい、そっちじゃねえのって。なあ、マジック!」
 しかし不思議に、返事はかえってこなかった。
 俺は、少年の方を振り返ろうとした。その時だった。



 くい、と肩のつけ根を、斜めに押された。
「……?」
 しゃがみこんだ、不安定な姿勢だったから。俺の身体は、呆気なく後ろ向きに倒れこんでしまう。
 ぺたりと尻を樹の根元につけ、背中に樹皮を感じている。
 地についた手の平に、草と土の冷たさ。
 俺は、空を見上げているはずなのだけれど、どうしてか暗かった。星明りがあるはずなのに。
 影がさしているのだと気付く。
 人影が。小さな人影が。俺に、重なって……。
 ふっと。
 やわらかいものが、俺の唇を包んだ。





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