さいはての街

BACK:9 | さいはての街 | HOME | NEXT:11



「号外ィ〜! 号外ィッ〜!」
 人込みの中で、新聞屋の忙しく立ち回る声。
「さっすがシンタローさんだべ! オラ、オラ、ぜってぇシンタローさんなら、やってくれるって思ってたべ!」
 代書屋の感激した様子。
「シンタロー! 話は聞いたァ! ワシが牛と馬に溺れて、魚と格闘しとる間に、ぬしは何やら大活躍だそうじゃのォ!」
 腕を組み、市場の真ん中で、豪快に笑っている魚屋。
 何でも魚屋は、仕入れの途中で、例の主要道路での事故に遭遇したらしい。
 事故といっても、たまたま運搬中だった多数の牛馬が一斉に逃げ出して、人々が砂煙の中で慌てふためいただけであったというのが、新聞屋の情報である。
 これもたまたまその場に居合わせた魚屋の、桶の巨魚も、ついでにぴちぴちあっちにこっちに道端に飛び出して、混乱のお手伝いをしたのだと。
 結局の所、平和な街に平和な事件が起こったというだけのことで。丸く収まったからには、それでいいというのがこの街の牧歌的思考だった。
 今度の子供の拉致事件も平和的に解決し――子供は無事助け出され、犯人はほとんど何も盗らずに逃げ出した――、火が放たれた葡萄畑の被害もどうやら狭い範囲で収まったということで、後に残ったのはいくばくかのお上からの補償と、シンタローへの感謝の声だった。
 上司や仕事仲間からは無論のこと、シンタローはすっかり街の人々のヒーローに祭り上げられていた。
 市場を通れば、シンちゃん聞いたよ、シンちゃん凄いね、ウチで買い物しなよ自慢できるから、いやウチで、おまけしちゃうよ、これ持っていきなよ、シンちゃんはただ者じゃないって一番最初に目をつけたのはあたしさね、いやあたしよ、俺だよと、ひどい騒ぎになる。
 女の子たちからはキャーキャー言われ、仕事中に追っかけられる。配達先では握手を催促される。
 仕事にならない。
 街の有力者の家庭等からは、ぜひ武勇談を聞かせて欲しいと、昼食や夕食に引っ張りだこである。
 これも多分に新聞屋が大々的に記事にして、宣伝したからじゃないのかと、シンタローは自分の写真入りの新聞を見て、ほうっとため息をつくのだ。
 なんでもお城から表彰状まで貰えるというから、大変なことだ。
 人の噂も七十五日というが、それまでが長いなと、この先が思いやられる。



 あまりの騒動に、シンタローはしばらく休みを貰うことになった。
 局の上層部からのお達しで、もともと褒賞として休暇が与えられていたのである。
 やることもないからと断ろうと考えていたのだが、こう仕事にならない状態では、いかんともしがたかった。
 仕方がないので、呼ばれた所には律儀に顔を出し、料理に舌鼓を打っている。話してくれと言われれば、体験したままを、ぽつぽつと語ってやる。
 料理といえば。
 最近は時間があるので、凝りだしてしまい、腕が上がった。
 上手くいったと思った時は、街の子供たちや、市場の若い衆……つまり代書屋やら新聞屋やら魚屋、を部屋に呼んで、振舞ってやることもある。
 そういえば、行商に出ていた古着屋もいつの間にか、気付いた時にはまた元のように市場の片隅で店を広げていた。
 何だお前、とシンタローが雑踏の中、尋ねれば、どうも他所の水が合わなかったと、俯いてぼそぼそ呟いていた。
 あっそう、とそのまま去ろうとしたシンタローだが、古着屋のかばうような手つきが気になって、その手首に視線をやると長袖の端から、酷い青痣がちらりと見える。
 何だか他所の街でいざこざでもあったのだろうかと、人付き合いに、いかにも不向きな古着屋の性格を彼は思った。
 次に市場を通った時、散々迷ったが、シンタローは古着屋が客と交渉している隙に、傍らに絆創膏を数枚置いてきた。
 暇が増えると、余計なことばかり気になって、いけない。



 ――絆創膏の箱。
 そういう事情で、箱の封は剥がれたのだが。
 箱は相変わらず、夜になると薄明かりの下でシンタローの指に弄くられ、縦に横に木机と触れ合って、音を立てているのだった。
 シンタローは夜の静けさが増すと、部屋の中で居所を二度三度変えた後、最後はこの椅子に座り、机に頬を乗せて腕を投げ出して、ぼんやりと時間を過ごしている。
 仕事が休みになった分、空白を埋めるのに苦労し、昼間に人を呼んだり呼ばれたりして楽しくやる分、夜が一層寂しくなった。
 電流のように身体を流れるフラッシュバックはあれから起こることはなかったが、鈍い帯電は常に彼の心を麻痺させているかのようだった。
 眠れば、必ず夢を見る。
 しかしやはり目が覚めた後は、内容を覚えていないのだった。
 思い出せない夢や幻覚の内容は、とても自分にとっては大切なことのような気がしていて、秘密が隠されているような気がしていて、絡めた糸が解けない苛立たしさを感じている。
 そのもどかしさが、この痺れとなって俺を苛んでいるのだと、彼はおぼろげながら理解するようになっている。
「……」
 狭い屋根裏部屋を見渡し、暗い窓の外、斜めになった天井、釘の緩んだ床板、古い本の入った木棚、ビロードのカウチ、絆創膏の箱、と目を順繰りに移した後、シンタローは明日という日を想う。
 明日も彼は食事に呼ばれていたが、これは特別な人に、だった。
 あの助け出した、羊飼いの少年の顔が思い浮かぶ。
 少年の母親には懇切丁寧なお礼を受けていたのだが、今度はその父親が、親族を呼んだ夕食会に自分を招きたがっているのだという。
 これも新聞屋の情報だが、父親は近隣の牧場一帯の所有者で、実はなかなかの地元有力者であるということだった――どうでも良いことだが。
 とにかく、明日のためにベッドに入ろうと。
 シンタローは立ち上がると、静かに灯りを消した。
 部屋が、一人ぼっちの闇に包まれた。



----------



 夕食は豪勢なものだった。
 正直、いくら有力者といっても牧場主、ぐらいに考えていたシンタローは驚いた。
 眺めのいい高所に位置した邸宅は、すっきりと広く、品のいい美しさに満ちていて、通された広間の来賓用高座はとても居心地がいい。
 柔らかい籐の椅子、鮮やかに染色された羊毛の絨毯、手入れの行き届いた清潔な部屋。
 立ち並ぶ飾り棚には、この国特産のガラス工芸品が赤や青に輝いていて、壁にはこれも高原の住民がたしなむ色とりどりの織物が吊り下がっていて、母屋から離れた調理場からは、暖かい湯気の立ち昇る大皿が次々に運ばれてきていた。
 初めて会う、少年の父親という人も親族たちも、気持ちの良い人ばかりで、シンタローは楽しい時を過ごす。
 少年が最近習っているという横笛を披露してくれたのに、やんやの拍手喝采を送り、透明なグラスに赤い葡萄酒を注がれて、ほろ酔い気分になる。
 席を立ち、笛の音に合わせて、シンタローがステップを踏むと、少年の父親も立てかけてあったバイオリンを取り出してそれに合わせ、女たちが口に手を当てて笑っている。そして音楽に乗って歌い出した。
 その頃になると、もう手の空いた使用人やら近郊の地主やらもう何やらが大勢集まってきていて、人の輪が波を打ち、歓声をあげる。
 まったく、素敵な夜だった。
「今日、楽しかったよ。ありがとな」
 帰り道、牧場の門まで見送りに来た少年に、シンタローはそう言った。
 少年は、へへへ、と笑って、シンタローの手をぎゅっと握ってきた。
 暖かかった。
「シンタローお兄ちゃん、今度ね、またね、お礼するよ! 僕らの一番の秘密、教えてあげるよ!」
 そう無邪気に言われて、シンタローは苦笑した。
 そして足元を見やる。少年の飼い犬も、嬉しげに尻尾を振って、体を擦り付けてきていたのだ。
「いいよ。ガキがそんなの気にすんなって。また通りがかったら手でも振ってくれりゃいいさ」
 そして、見送りはここまででいいよ、と少年と犬の頭を順番に撫でてやった後、街に帰ろうとしたのが。
「お兄ちゃん! あと、これ……ちゃんと磨いておいたんだ」
 冷たく硬いものを手に握らされる。
 やんわり手の平を開くとそこには輝くきらめきがあって、それは少年があの時拾っておいたと得意気に話す、金貨だった。



 シンタローはそれを無造作に懐に入れた後、夜道を辿る。
 夜空には月がなく、暗く静かで、時折ふくろうの鳴く声だけがして、風が消えていた。
 それなのに首筋がすうっと冷えるようで、肌の産毛がざわめくようで、雨が近いのかもしれないと思う。
「……」
 先刻までが楽しかっただけに、独りになるとその落差が辛かった。
 頭の奥がちりちりと痛むようで、シンタローは額を押さえ、さして飲みすぎてはいないはずなのに、と眉をひそめている。
 自分の足音が、草を踏み分ける音が、まるで身体の内部から聞こえてくるような気がしている。
 懐に入れたものが、とても重く感じるような気がしている。
 道は、草原を越えてあの森へとさしかかっていた。



 森を歩く。
 闇の濃色をした木々は、葉のかたちは、あの時も今も変わらず同じ顔をしていた。
 誰かの囁き声が聞こえたような気がして、シンタローはふと足を止める。
 耳をすます。
 しかし葉擦れの音か小さな生き物の立てた音だったようで、シンタローは再び歩き出す。
 ……昔。森には妖精が住むのだと、聞いたことが心に浮かんだが、誰に聞いたのかは思い起こすことができなかった。
 誰に聞いたのだったろう。
 森にはね、妖精が住むのさ。だから、さらわれないように気をつけなさいって。
 誰が言ったのだったろう?
 他愛もないことであるのに、思い出せないことが悔しかった。
 また冷気が首筋を通り過ぎた。
 森は冷たくて静まり返っていて、そして暗かった。
 懐に感じる硬い感触。思わず触れる指の先。金貨。
 その瞬間、シンタローは底のない寂しさに囚われた。



 いつしか雨が降り出してきていた。
 黒髪が濡れ、衣服が濡れ、温度が失われていく。
 シンタローは歩こうとしたが、足が鉛のようで、かと思えば羽のようで、呆然と周囲の闇と地面の濃い影を見つめていたら、自分という存在が消えゆくようで、影になってしまうようで、ぞくぞくと悲しみが込み上げてくるのだった。
 しかし涙は出なかった。雨だけが彼の頬を濡らしていく。
 あの日から、泣き出したいと感じた涙は、心に溜まったまま。行き場を失っている。
 気が付くと、シンタローはあの場所にいた。
 この森で一番大きな木を見上げている。
 夜にそびえる巨木は蒼白い肌をして、その凛然とした姿は人を裁く者を思わせる程に、厳かだった。
 その巨木はまるで、神が虚空から投げ落とした、青い槍。
 シンタローは今なら、自分はあの男の気持ちがわかるのかもしれないと感じている。
 自分と出会う前に、きっとあの男は、雨の中でこの木を見上げていた。
 消え入りそうな意識の中、そんな確信が胸を掠めていく。



 さあさあと降る雨の音。
「あ……」
 シンタローを包んだのは、途方もない孤独感だった。
 彼は寒くて、凍えそうで、一人腕で自分を抱きしめた。
 目をつむり、息をつき、唇を震わせる。
 心に霜がおりていくのを感じていた。
 ――俺は、誰かに、拾って欲しい。
 雨と一緒に流れていく心が、そう訴える声を、シンタローは聞いた。



 拾って欲しいんだ。
 でも、誰にでもって訳じゃあ、ないんだ。
 どうしてだろう。
 何故なんだ、あんなにちょっとの間しか、一緒にいなかったのに。
 あんなに訳のわからない、掴めない奴だったのに。
 好きなことを好きなだけして、俺を煙に巻いたままで、勝手に出て行きやがった。
 なのにどうして、こんなに懐かしく感じるのか。
 俺は。
 拾って欲しい。
 ……あの手に。
 あの冷たい手に、拾って欲しい。



 馬鹿だな、俺。
 ほら、この木。この蒼い樹。
 きっとあの男は、あの日、こんな風に見上げていたんだぜ。
 あいつも、こんな風に拾って欲しいって、思ってたんだぜ。
 俺たちは、同じ雨の中、同じ木の前で、同じように同じことをきっと願った。
 だってほら。
 こうやって。
 ずっとずっと、見上げていたら……。
 ……身体が……どこかへと吸い込まれそうで……。
 消えて……いく……。
 その瞬間、シンタローの身体はバランスを崩し、転落した。



----------



 おかしな夢を見た。
 きっとまた、目覚めれば記憶には残らない、幻のような夢だ。
 自分の身体は小さくって、視界に映る手の平も、それはもう小さくって、シンタローは自分は幼い子供なのだと、ぼんやりと感じていた。
 そして、どうしてか、そんな自分の側に、あの男がいた。
 男の身体は大きくって、シンタローの視界に映る手の平も、それはもう大きくって、それだけでシンタローは嫉妬を感じている。
 とにかくこの大きな男にしゃがんでもらいたくって、抱き上げて欲しくって、たくさん我儘を言った。
 時には難癖をつけて、泣いたこともある。
『好きだよ』
 シンタローと視線を合わせてくれた彼は、必ずそう言うのだ。
 そして、泣いた時は泣き虫と、怒った時は怒りん坊と、あやすように構ってくれた後、いつも彼はこう自分を呼ぶのが決まりごとだった。
 泣き虫な、泣き虫な、私の。
『私のシンタロー。私はお前が大好きなんだよ。愛してる』
 いつも囁かれる度に、わざとしかめっつらをしていた自分だが、こうして与えられる度に、いつかこの言葉がなくなったら、どうしようと考えていた。
『さらわれないようにね。いつだって。私はこうやってお前を抱いているよ。だからいつだって。私の所に、戻ってきてね。それだけは絶対に忘れないで』
 あの頃のシンタローは、ただ自分が子供であることが嫌で、早く大人になりたいとそればかりを考えていた。
 でも本当は、それだけで幸せだったのかもしれない。
 純粋に一つの気持ちだけで、前を向いて生きていくことができていたのだから。
 ……あの頃に帰りたい。
 今の俺はね。心の底で。
 本当はいつだって、こう願っているんだ。
 ――何も知らないあの頃に、帰りたい――



 頬に冷たい手の感触。
 抱き上げられている浮遊感と、そしてあの匂いがした。



「あれ。目が覚めたのかな。大丈夫? 怪我してないよね?」
 ぱちぱちとシンタローは瞬きをする。
 状況が把握できない。
 どうやら自分の頭は誰かの膝の上にあって、脚や手が確かめるように上げ下げされている。
 自分が、道から巨木の窪みに転落した所までは覚えている。
 そして今は。おそらく同じ道端。
 膝下に濡れた草の感触。指の爪の間に、固まった泥。
 ……誰かの、膝の上。
 あっけらかんとした声ばかりが、降ってくる。
「あそこに、君が倒れてたんだよ。この道から滑り落ちた跡がついてて、気付いたんだ。まったく私が探しに来なきゃ、死んでたかもしれないよ。感謝してね」
 あそこ、というのは見なくてもわかる、巨木の根元だろうとシンタローは思ったが、声が出なかった。
 そのまま固まっていると、その手がぺしぺしと自分の頬を叩いてきた。
「あれれれ。こんな所から落ちて、頭打ったのかな? ドジなんだから。わかるかい? 私のことが」
「……」
 そのまま、しばらくシンタローがじっとしていたら、相手はますます、ぺしぺしと叩いてくる。
 痛い。しかもだんだん強くなる。こいつは加減を知らない。
 シンタローは周囲の様子がわかってくると共に。
 視界がはっきりとしてくると共に、無性に腹が立ってくるのを感じていた。



 勢いをつけて、バッ! と起き上がる。
 覗き込まれていたから、声の主は『わあ』と言って、頭を引いた。
 頭突きでもかましてやれば良かったと思う。
 これも勢いをつけて、キッ! と睨みつけると、そこには、のほほんと『あ、元気になった』と笑っている男の顔があった。



 雨は通り過ぎただけで、すぐにあがったらしい。
 シンタローが気を失っている間に、夜空からは黒雲が去って、月が姿を見せていた。
 森はその表面に、白い光を帯びていた。
 側では男が、自分を見つめていた。
 この男の態度が、ひどくシンタローの気に障った。まるで何事もなかったかのように、どうしてこの男は。
 何故に今、彼が側にいるのかはわからないけれど、どうしてこの男は、こんなに平然として、自分の目の前に存在しているのだろう。
 ありえない。とにかくありえない。信じられない。なんてことだ。
「ささ、早く帰ろう。びしょぬれでどろどろじゃないか。怪我もちゃんと確かめたいし、何より風邪をひいてしまうよ。どうしてこんな所に落っこちてたの? あ、私のマネっこで自分も記憶喪失になりたかった? もしかして」
 怒りの余り、あーとかうーとかしか言えずに、拳を握り締めているシンタローに、男は近くの木に立てかけてある自転車を指差す。
 まぎれもなくシンタローの愛車である。
 久しぶりに男が部屋に帰ってきたら、自分が遅くまで帰って来ないので、心配になってここまで探しに来たのだと言うが。
 だけどこいつ、俺の自転車を勝手に。しかも帰ろうって、元々俺の家じゃねえかよ!
 図々しいにも程がある!
 それに、何で。
 何で今まで。
 どうして……。



「……アンタ、自転車乗れないんじゃなかったのかよ……」
 地面に座り込んだままのシンタローが、言いたいことがありすぎて、でも何も言えなくて、とにかくそれだけに掠れた声で文句をつけると、あはは、と相手はまた笑っていた。
 相変わらずの飄々とした素振り。
「仮に乗ったことがないとしても、こんなのすぐに乗れるよ。所詮バランス感覚の問題だろう」
「ぐっ……イヤミ野郎!」
「この前は君に乗せて欲しかったから、そう言っただけだよ! ほら、そんなにふくれっ面しないで。今度は私が君を乗せてあげるから。拾ってもあげたし、これでおあいこでしょ」
「チッ……あのなぁ! あの……」
 ふくれっ面と言われて、自分の顔の筋肉を意識した瞬間。
「……ッ……」
 ほろりとそれが緩んで、シンタローの目からは、涙が流れ出した。
「ふ……う……うう……」
 歯を食いしばっても、あとからあとから、溢れ出す。頬を伝って流れ落ちる。
 止まらなかった。
 長い間泣きたいと思っていた心が、一気に溶けてしまったかのようだった。



 男は戸惑ったような顔をして、シンタローを見ていた。
 月光の中で、金色の髪が輝いていて、青い目が自分を映していた。
 そして、ゆっくり、その薄い唇が動く。
「……どうして泣いてるの。泣くほど、私が帰ってきて嬉しいの」
「バ、バカ! ぜってぇー違う! う……ぐ……ちょっと色々、あったから……関係ねー。うっうっ……ア、アンタなんかには、絶対関係ねぇ……うう……」
 ず、ず、と鼻をすすって、ぼろぼろ溢れてくる涙を、シンタローは汚れた手の甲で、拭いて拭いて拭きまくる。
 元々、泥と雨で汚れていた顔が、一層どろどろのべたべたになってしまった。
 男は肩を竦めている。
「みっともない顔だなあ」
「うるせー……う、うう……ぐしゅっ」
 くしゃみまで出る始末。
 すると、ふわっと何かを肩にかけられて、それは相手の黒い上着だった。
 また宙に浮く感覚がして、シンタローの身体はひょいと抱きかかえられて、自転車の荷台に乗せられていた。
 呆れたような声が聞こえる。
「何でこんなみっともない子、拾っちゃったのかなあ」
 男はそう言いながら、自分も自転車に跨って、後ろのシンタローを振り返った。
 そして今度は目元だけで笑っている。
「……うるへーよ……」
 馬鹿にされていると思ったが、まだ涙は止まらない。
「……みっともなくて……悪かったな……」
 シンタローは怒ろうとしたのに、語尾が消えていった。



「ほら、しっかり掴まって」
 そう、言われたから、
「……顔、かゆい」
 少しだけ躊躇してから、シンタローは思いっきり、目の前の広い背中に、汚れた顔を押しあてる。
 相手の腰に手を回してしっかり掴まってから、ごしごしと擦り付ける。
「うわ、君、私の背中で拭いてるだろう」
「ざまーみやがれ」
 そしてシンタローは、そのまま、背中に頬を寄せていた。



 感じる背中から、男の不思議そうな気配が伝わってくる。
「どうしたの、やけにしおらしいね」
「喋るな、早く漕げ」
「しおらしくっても人使いは荒いんだ」
「うっさいって! 走れよ、いいから!」
「はいはい。それでは出発しますよ、泣き虫ちゃん」
 シンタローは、男の背中に頬をくっつけたまま、小声でもう一度『うっさい』と繰り返した。
 俺は泣き虫じゃねー。
 そして、黒い睫を伏せた。涙が弾かれて、また頬を流れていった。
 減らず口でも、染み透るような声が、懐かしかった。



 走り出す自転車。頬を通り過ぎる柔い風。
 雨はあがり、夜は薄水色にぼかされていて、自分を包み込む繭のようにも感じられる。
 遠くにきらめく街の灯りも、水辺の蛍の輝きのように淡く滲んでいた。
 世界が、静かにゆらりゆらりと、揺れていた。
「……匂いがする」
 シンタローは、独り言のように、そう言った。
 懐かしい、安心するような香りがする。
 優しく立ち込める水蒸気が、ふんわりと景色を包んでいた。
「森で雨があがると、良い香りがするのはね」
 囁くように静かな声。
「今まで雨に溶けていた緑が、また息を吹き返すからだよ。だからこんなに生まれ変わったみたいな綺麗な空気になるんだね。世界は泣いて、また活力を取り戻す。だから」
 だから、だから、と彼は前を向いたまま、続ける。
「だから、もう泣き止んで、また笑ってね。泣き虫な……君」
 君、の前に、少しだけ間があったが、この時は大して気にもしなかった。
 シンタローは腹立たしく思う。
 コイツ、また『泣き虫』って。そんなコト言いやがる。
 俺はアンタの前でなんか、今まで泣いたこと、ないっての。



 それに。俺は何度も一人でこの森を通ったけれど、こんな匂いなんて、したことない。
 雨の日だって晴れの日だって、いつだって、一人なんかじゃ。
 そう言おうとしてシンタローは一度口を開き、すぐに閉じた。
 そして目をつむった。
 雨に溶けていた心が、息を吹き返すことってあるのだろうかと、頭の隅で考える。
 カタカタ揺れる自転車が、頬を寄せている背中が、かけられている上着が、ずっと続けばいいのにと思う。
 今日はこのまま眠りたい。
 夢を見るなら、優しい夢を見たい。
 肌に染み込んでくる、この懐かしい匂いに包まれて。
 振動と温もりを感じながら、広い背中をぎゅっと掴みながら、シンタローは口の中でそっと呟いた。
 ――拾ってくれて、ありがとう。








BACK:9 | さいはての街 | HOME | NEXT:11