さいはての街
「アンタ、なんで戻ってきたんだよ」
「この広い世の中で、私が知っているのは君だけだから」
自転車に乗った時、そう言われたので素直にそうなのかと思い、しばし黙り込み、相手が違う話をしても、ずっと沈黙していたシンタローだったが。
よく考えてみれば――
知ってるのは俺だけって、コイツ! 市場のおばちゃんおじちゃんとだって顔見知りだったクセに! ンな訳ないじゃんかよ!
そんな簡単な反証に思い至ったのは。夜に息を潜める街の、あの屋根裏部屋に戻り、乾いた衣服に着替えて部屋の静けさが気になりだした時で、男が熱いお茶を入れてくれた時だった。
「あ、あのなっ」
木椅子に座っていたシンタローは、勢い良く立ち上がったが、その足元がよろけた。
くらりと、身体が揺れた。
「……?」
傾斜した天井がますますかたむいていき、その陰影が霞んで、滲んで、くるりと裏返った。
床に尻餅をついて、情けない表情でシンタローは、近寄ってきた男を見上げる。
だがその男の顔も、シンタローの視界の中で、輪郭が揺れて回りだした。
シンタローは、熱を出した。
「はは、本当におあいこだね」
「……うるせー」
男はそう笑うと、その日から甲斐甲斐しくシンタローの世話をし始めた。
シンタローはムッとしながらも、その世話を受けた。
しかし、男は常に部屋にいる訳ではない。
シンタローが眠ると、そっと扉の開く音がして、彼は出て行くのだった。
浅い眠りの湖の中で、シンタローは、ああ、またあいつは出て行ってしまったと感じている。
その後、決まって、うなされた。
夢の世界は灼熱に溶け、氷霧に溶け、どろりどろりと息を塞ぐようにシンタローを苦しめる。
彼は、自分がうなされていること、何かを呟いていることは感じていた。
呼吸ができなくて、喘ぐように唇を何度も動かす自分の息遣いは、意識の外でわかるのだ。
辛く苦しい。切ない。俺は引き裂かれそうな痛みに耐えている。そのことは、わかる。
だが、自分が何にうなされているのか、何を呟いているのか、何を悲しんでいるのかは、漠としてわからなかった。
淡い映像は水面に映る影のようにたゆたい、掴もうとすれば儚く消えて、シンタローを苛む。
水面とは、粘ついた熱と氷の溶けた記憶の狭間だった。
それは押し寄せて、シンタローの肌を包み、しかし何も残さず、ただ苦悩の余韻だけを残して……。
「……!」
何度目かの苦しい目覚めに、目蓋を上げた時、やはり男の気配は部屋にはなかった。
空間は静まり返り、風に古びた壁が、時おり小さくきしんでいるだけだった。
乱れた毛布を力なく掴むと、シンタローは、熱い息を吐いた。
痺れた足先で、そっと湿ったシーツをなぞった。首筋に流れる汗。
一人の部屋は、暗かった。
彼は、あの森で拾われた出来事は、自分の夢だったのではないかと思った。
俺はいつだって、一人ぼっちなんだ。
そう感じると、また再び夢の続きに囚われる。
沼に引きずり込まれるように、彼は眠りに堕ちた。
次に目覚めた時には、唇が、震えていた。
これは何かを呟いた後の震えだと、シンタローは感じた。
俺は今、何を呟いた?
「……コ……」
ぼんやりとした意識の中で、舌が惑っている。紡ぎ出す言葉に、戸惑っているのだ。
長い時間が過ぎた。
やがて小さな部屋に、響く掠れた音。
「コタ……ロー……」
心には残らず、唇に残る言葉。
シンタローはもう一度、その言葉を息を抜くように呟いた。
コタロー。
すると、その言葉はやけに彼に馴染んで、いつまでも離れなかった。
またシンタローがうつらうつらしていると、扉の蝶番の音がして、板間に静かな足音がして、部屋の空気が変わった。
男が帰って来たのだと知る。
包装紙の擦れる音、新鮮な野菜の香り、籠にライ麦パンを入れるかさついた気配がして、シンタローはうっすらと目蓋を上げる。
すると、ちょうど自分を覗き込んできたらしい男と目が合った。
相手は、青い瞳でにこっと笑う。そして大きな手を伸ばしてきて、『もう大丈夫だね』と言ってシンタローの額を包んだ。
冷たい感触がした。
そのまま、声が降ってくる。窓からは、明るい太陽の光が差し込んでいた。
「君、お腹空いたかい? 何か作るよ。よく眠っていたね……今はちょうどお昼時さ。こんな時間に目覚めるなんて、まったく食いしん坊なんだから」
そういえば男は、俺の名前を呼ばない、とシンタローは思った。
市場の人々が使う愛称を、からかいの種にされたぐらいで、決して名前を呼んではくれない。
いつも、『君』と。
――どうでもいいことだが。
その瞬間、シンタローは、目を大きく見開いて、大声で言った。
「あっ、あっ、そーだ! アンタ、俺に触るな! 側に寄るな!」
「?」
男の指に残る、うっすらとした傷が目に入ったのだ。消えかかってはいたが、それは確かに自分の歯型だった。
突如としてシンタローの脳裏に、彼がいない間もずっと気にしていた、あの夜のことが蘇る。
額に置かれた男の手を払って、赤くなったシンタローだったが、相手の不思議そうな顔を見て、逆に思い出させて気まずくなるのも得策ではないと考え直した。
それに今さらだった。寝込んでいる間中、世話をさせていたのだから。それに森から帰る自転車で、自分は彼の背中に抱きついていた。
自分は、男を怒鳴りつけて、謝らせるタイミングを失ったのだと、シンタローは悔しく思う。思いながら言う。
「……何でもねー……」
「おかしな子だなあ」
男は気にした様子もなく、再び優しくシンタローの額を撫でて、それからキッチンに立つ。
その背中にシンタローは口の中で文句を言うと、乱暴に毛布を肩まで引っ張りあげて、再び目を瞑った。
何だよ。やっぱり、気にしてるのって、俺だけだったんだ。
「俺、うわ言、言ってた?」
「……いや特には気付かなかったよ。苦しそうだったけれど……熱が引いて良かったね。もう少しよそおうか」
「ん、うん」
小さなテーブルには、男が手早く作った料理が並べられていた。
白ワインを使ったリゾットは、口に含むと生ハムの甘みが広がった。
サラダボウルにはクリームチーズによく合う香草と甘海老が盛られていて、ふわりとバルサミコ酢の優しい口当たり。
病み上がりのシンタローには、十分すぎるほどの昼食だ。
向かい合って食事をする相手を、シンタローは窺いながら言う。
「コタローって……」
「……」
「俺、『コタロー』って、言ってなかった?」
「さあ」
「起きたら、そればっかり記憶に残ってて。すっげぇ気になる。名前だよな、これ。誰の名前なんだろう」
男は大して興味もなさそうに、シンタローの空いたグラスに、水を注いでくれた。
こぽこぽと液体の優しい音。
シンタローは、一人呟く。
「とても大切な人のような気がする……」
「私よりも?」
男がふざけた調子で聞くので、何言ってんだ、とシンタローは軽く返し、また考え込む。
考える間にも、手と口は動かしていたので、しばらく食卓には、食器の擦れる音、ナイフとフォークを使う音だけが響いていた。
男がちらりとこちらを見て言う。
「はっきり思い出せないということは、何処かで偶然耳にした言葉なのかもしれないよ。意味もなく、ね。市場や酒場の雑踏で聞いた言葉が、なぜか耳に残っているって、よくあることだから」
「んー、そうなのかな」
そんな些細なことだという感覚はしなかったので、シンタローはフォークを置くと、自分の鼻の先を掻いた。
「いいや、誰かに聞いてみるよ。この街の人間の名前なのかもしんないし」
すると男は、ああ、と思い出したように言った。
「ほら、市場にいつもいる新聞屋。彼に聞いてみたらいいかもしれないよ。彼なら街中の情報は把握しているはずだ」
「あ、そうか! んじゃ、そうしてみるよ! しっかしアンタ、よく知ってるなあ」
「いつも彼は路地で立ってるからね。嫌でも目に付く」
それはそうだとシンタローは、新聞屋のとぼけた姿を思い浮かべて、ふっと笑う。
これを食べたら、外に散歩に出よう。そして、何でもいいから行動しよう。
新鮮な空気を吸うのは、熱が引いたばかりの身体にも悪くはないはずだった。
方針が決まって心の整理が付くと、食欲が湧いて、シンタローは意気揚々と男の前に皿を突き出した。
「おかわり!」
こんな明るい内に、男と街を歩くのは、初めてのことなのかもしれなかった。
何となく気恥ずかしくて、つつつ、と僅かにシンタローは彼の側を離れたが、『どうしたの』と言われて、『別に』と、また隣に寄った。
どんな顔をして歩けばいいのか、わからない。
傍から見れば不機嫌に見えるであろう表情で、ぎくしゃくしながらシンタローは、ためつすがめつして歩く。
街には、穏やかな空気が流れていた。路地裏の蔦の葉が、かさりかさりと揺れている。
自分の肩の、ごく近い距離に、男の肩。触れるか触れないかの、その空間。
シンタローはその距離を感じながら、思う。
俺たち二人って、どんな関係に見えるんだろう。
友達って年じゃないし。親子にしては、全く似ていない。何だろう、俺たちって。
偶然出会って、偶然去っていく、通りすがりの関係なんだろうか。
何の関係もない二人。
石畳を踏む二人の足音。太陽の下で見る、火の消えた街灯の無力さ。
歩きながらシンタローは、崩れかけた煉瓦の塀に、そっと手をやる。
それは、ぽろりと落ちて、足元に跳ねた。
石の道は、市場に近付くにつれ、ざわめきに包まれていく。
視界は彩りを増し、やがて優しい街の息遣いに包まれる。
人いきれ、飛び交う声、笑顔、熟した果実の香り、露天に並ぶ硝子細工や水晶のきらめき。雑踏。朝摘みの花々、緑の香草。積み上げられた酒樽と男たち、女たち。走り回る元気な子供たち。
きゃいきゃいと楽しげに、シンタローの側を、子供が駆けて行く。
その瞬間、ちらりと明るい太陽の光に、子供の内の一人の、やわらかい金髪が輝いた。
「……!」
途端にシンタローは、胸騒ぎを覚える。
思わず、その子供の姿を目で追う。数歩を踏み出し、失われた面影を求めるように、目で探す。
しかし、自分が何を探しているのかは、わからなかった。自分の行動の意味も、理解できなかった。
子供は路地裏へと駆け込み、視界からは消えた。
「……」
我に返ったシンタローは、自分の背中に視線を感じて、振り返ると、男が自分を見ていることに気付いた。
視線が合って、彼はいつもの通りに何でもない風に微笑みかけてきて、それから目を落とし、側の陳列棚の工芸品を物色し始めた。
男が自分を見つめているのは、いつものことなのだ。
気にすることなくシンタローは、まず、ここに来た目的を果たそうと思い至る。
あの、心の隅にある名前を、調べるのだ。
熱の引いた身体は、どこか鈍くどこか軽やかだった。
いつもの場所に行くと、新聞屋はすぐに見つかった。相変わらずの明るい調子で、辻売りをしている。
シンタローは声をかけると、通り一遍の世間話しをした後、人探しをしていることを告げた。
「……『コタロー』だっちゃか……」
一瞬、戸惑ったような仕草をしたが、新聞屋は引き受けてくれた。彼自身はその名前を知らないが、他をあたって調べてくれると。
「悪ィな! なーんか、気になっちまって、どうしても知りたいんだ。今度、酒でも奢ってやっから」
そう言ってシンタローが新聞屋の肩を叩くと、相手は、シンタローさんは最近付き合い悪いから、と言って、抱えていた新聞を一枚抜き取って差し出してきた。
シンタローはその新聞を、上から下までもっともらしく眺め、そして折り畳んで懐にしまった。
当たり障りのない記事の中で、片隅に小さくあった、隣国での戦争の記述が、少し気になった。
男はどこに行ったのかと、ぶらぶらシンタローが人波を歩いていると、たたた、と走ってきて背後から腰に抱きつくものがある。
「シンタロー兄ちゃん!」
小さな手、ふさふさの髪、可愛らしい声。あの、牧場の少年だった。
少年はいつもの綺麗な瞳をして、今、鬼ごっこの途中なんだと声を潜めて、えへへと笑った
シンタローもつられて笑う。二人で、笑いあった。
しばらく笑うと、少年はシンタローの後ろに隠れるようにして、体を屈めている。
どうやら鬼役の子供が、獲物を探して近くに来たらしい。
そして少年は身を小さくしたまま、シンタローの服の裾を引っ張りながら、ひときわ小声で言った。
「……あのね。明日。明日、シンタロー兄ちゃん、部屋にいる? お昼頃とか」
シンタローは、子供たちをあの屋根裏部屋に招いて、手製のお菓子を振舞ってやったことがある。
ああ、いるよ、なんだ、また俺に菓子作れってか? と悪戯っぽく聞いてやると、ううん、それもいいけど、と少年はかぶりをふった。何とはなしに、その仕草は年長けて見えた。
「こないだも言ったけど。明日、僕らの秘密。教えてあげるよ! この辺の大人じゃ、シンタロー兄ちゃんだけにだよ! 絶対に秘密なんだ!」
「えっ、おい」
そう言って、少年は去ろうとするので。
ついでだと、シンタローは呼び止めて聞いた。
「……そーだ、俺、コタローって名前の人、探してるんだよ。知ってる?」
そんな名前は知らない、と少年は答えたが、仲間に聞いておく、と言ってくれた。
子供たちの情報も、馬鹿にはならない。千里の道も、一歩から。
その時、通りの向こうから、物凄い勢いで違う子供が駆けてきた。鬼役の子供だ。見つかったのだ。
「じゃね! 僕忙しいから! 明日ね!」
脱兎のごとく少年は、シンタローの側を駆け出して、たちまち人込みに消える。
待てー! と甲高い声を張り上げて、その後を追いかける子供。その鬼ごっこを、頬をほころばせて眺めてから。
シンタローは、また男を捜して歩き出した。
背の高い彼を見つけるのに、さして苦労しない。
他より頭一つ、二つは飛び抜けている男は、近くの露店で、高原の民の手織物、見事な刺繍や藍染めに熱心に見入っていた。
外見に似合わず、どうしてそんなものが好きなんだろうと、シンタローは苦笑して男に声をかけた。
そして二人は、また街を歩き出す。
しばらくただ街を散歩して、所々でこれ君に似合うよと言われて、趣味が合わねえと返し、これアンタが買えばと言ったら、そうかなと返ってきて。
結局はどれも買わずに、二人の夕食のためだけに、幾許かの果物や野菜を抱えて。
さて小腹が空いたなと、ハーブソーセージを挟んだポンパニッケルのベーグルと、甘いココアを辻商いで買い求め、二人は市場の隅、空の木箱に並んで腰掛けて、それを頬張っている。
頭上を茶色い羽根をした鳥が、飛んでいった。この街の空は、淡い色をしている。
夕暮れまでは、まだ時間があった。
シンタローがココアの最後の一滴を飲み干した頃に、男が、『海を見たい』と呟いた。
海は、街の中心部から西に歩いて、薄黄色に塗られた街並みを過ぎ、伸びる細道、長い傾斜を下に、下に向かった先にある。
人気のない空間に、ぽっかりと口を開けてその海は佇んでいた。
この街の海は、透明であるのに重く沈んだ色をしていて、まるで飴細工のように、なめらかだった。
海が静かに息をする度に、小刻みな波は打ち寄せ、引いていく。
そうして灰透明の水は揺らめく。揺らめきが、風に喘ぐ。
砂の色は硬く繊細で、波に濡れるたびに、鈍く淡く輝くのだった。
シンタローは波打ち際でしゃがむと、指を伸ばして、波に絡めてみた。
冷たく濡れた指は、ひんやりとして、口に含むと塩辛かった。
男の方を見やると、彼は少し離れた場所に立って、遠い水平線を見つめていた。
その背後には古ぼけた小屋が建っていて、朽ちかけた壁が、海風に頼りなくきしんでいた。
「……出て行った後、何してたんだよ」
ずっと聞けなかったことを、どうしてか今、聞くことができたのだ。
しゃがんだままシンタローが大きな声で言うと、男はそっと歩いて側まで近寄ってきた。砂に足跡が刻まれて、すぐに消える。
並んで、海を見る。男は鉛の海と同じく、ゆっくりと息を吐くように呟いた。
「ずっと、こういう風にね。色んな国の海を見ていた」
男の瞳は水平線に据えられたままだったので、シンタローも彼と同じ方を見た。
空と海の境はぼやけ霞んで、長く見つめていると、空が海に溶けるようにも、海が空に溶けるようにも思えるのだった。
「私は……記憶の中に、いつも深い青を見るのさ。その青を、探している」
男が、そんなことを。
「まだ出会うことができないでいる」
言うから。
「……おかしいかい?」
シンタローまで。
見えない青を、鈍色の海に探してしまう。波がまた、打ち寄せた。
この国の海は、たとえ真夏でも氷のように冷たいのだと、聞いたことがある。この街は、遠くの氷河から流れ出した水が、最後に辿り着く場所。そんな逸話。
「海以外に……何か思い出したかよ」
シンタローは海から視線をはずすと、男を見上げた。
「ん……そうだね」
男は考え込むように首を傾げ、やがて照れたように言う。その金髪がほつれて、柔い風に靡いた。
「好きな人に、会いたくなったよ」
砂の上に置いたままだったシンタローの指が、波に絡まり濡れていく、それが、冷たい。
「会いたいなあ」
彼は、はは、と笑って、しゃがんでいるシンタローの頭を急に撫でてくるから。
反射的にそれを振り払って。シンタローは、立ち上がった。
すると男と目線が近くなって、やっぱり立つんじゃなかったと感じた。
そう感じながらも、そいつが、どんなヤツか思い出したのかと男に聞いたら、ああ、と返事をするから。
ふーん、と言って、瞬きをした。
彼は言う。
「私はその子を怒らせてしまって、ずっと許して貰えていないんだよ」
「怒らせるって、何したんだよ」
「酷いこと、をさ」
言葉を切った後、男は静かな目をして続ける。
「……会いたいけれど……会ったら絶対に冷たくされる。嫌われてるんだ。もう元には戻れない」
そう言った時、男が漂わせたのはどこかで感じた雰囲気で、思い返せば、男が目覚めて最初の夜に、一人きりで月を見ていた時の、あの夜の空気だった。
あの月に照らされた横顔を見て、シンタローは、彼をかわいそうだと感じ、記憶を取り戻す手伝いをしてやろうと思ったのだった。
――手伝いを。
その想いは、今でも変わらない筈だった。
「記憶喪失とかでアンタお得意の同情でも引けば、いーんでねえの」
仏頂面でシンタローは返すと、『いや』と男は否定し、こう言い切った。
「もう私は、何をしたって、きっと許しては貰えない」
思わず視線を逸らしたシンタローの黒髪が、揺れた。
男が小さく笑って、その髪先に指で触れてきた。
そして囁くように言う。
「このままこの街で、ずっと君と一緒に暮らしていたいなあ」
砂に波が染み込むように、あっさりと心に言葉が染み込みそうになって。
シンタローは、慌てて返す。
「なっ! あっ、あのな! 人の迷惑、考えろよ!」
「そうだね」
「そーだよっ!」
勢い込んで答えたが、男はそれでも淡々としていた。今の言葉は。
今の言葉は、確かに自分に向けられていたはずなのに、とシンタローは思う。
それでも相手はまだ遠くを見ていて、自分との間が持たない気がして、俺がいてもいなくても、今のこいつはどうでもいいんだろうなという気持ちになって。
だから、シンタローはついこう言った。
「なんか知らねーけど、アンタ、サイテーだな」
「……ああ、最低だよ」
軽い気持ちで言ったのに。それから男が黙ってしまったから。
シンタローは、
「……チッ」
やっぱり間が持たずに、シンタローは足元の濡れた砂を掴むと、水平線に向かって思いっきり投げた。
ぽちゃんと音を立てて、砂は海に沈んだ。爪の間にざらついた感触だけが残って、顔をしかめる。そして思う。
そんなに嫌われているってこと、自分で知っているのに、どうして。
記憶喪失になってもその人だけを思い出す程に、好きでいられるのだろうと、不思議に感じた。
砂浜の続く先には、岩棚があって、さらに先には丘陵が続いている。
そして丘陵の高台には、街と海を見下ろす古城が聳えている。山一つを要塞化しているのだという、その物騒な噂には程遠い、優美な姿。
あの城には、あの金貨に描かれた王子が、住んでいるのだろうか、と。
シンタローは、懐に手をやったが、そこには何もなかった。男が戻ってきてからは、金貨のことなど忘れていた。
「昔、ある軍隊が、この国に軽い気持ちで手を出して、手酷くやられたんだってね」
男が、城に目を遣るシンタローに気付いたのか、そう言ってきた。
「精神感応、テレパシー能力を持つ一族、か。特殊能力の内でも、やっかいな部類だよ。何よりその範囲が未知数だからね……想定が不可能に近い……」
男が遠い城を見て言うのを、シンタローはぼんやりと聞いていて、昔感じたことを、再び感じていた。
俺に、テレパシーがあれば。この男の心を読むことができれば、いいのに。
「体、大丈夫かい」
黙っていると、男がそう優しく尋ねてきた。
頷くと、相手はじっと自分を見つめてきて、決まりが悪くなったシンタローは、『何だよ』と不機嫌に言った。
男の声が、ゆるやかな波音に混じって響いた。
君が、熱にうなされていた時。
沢山のことを喋って、沢山のことを求めて、泣いて、悲しんでいた。手遅れになる前に、気付いて良かったよ。
「?」
彼は何を言っているのだろうと、シンタローが思う前に。
「……緩くなってるのかな」
男の手が、シンタローの顎に添えられた。顔が、近付いてくる。
「瞳を見せて」
突然の出来事に、シンタローの頬が、熱くなる。息を止めてしまう。黒瞳を見開き、怯えるように瞬きを止める。
う、うわ……っ!
しかし男の顔は、自分の目を覗き込んだ後、そのまま離れていった。
硬直したままのシンタロー。
男は、シンタローのそんな反応に笑い出した。
「あ。今、君。何か別のことを期待してたでしょ」
「はぁ? な、なにが!」
慌てて乱暴にそう言って、シンタローは大股に足を踏み出し、靴が波に濡れるぎりぎりの場所まで、逃げる。
しかし男の声は追いかけてくる。
「そういえば、戻ってからキス、してないね」
「しなくていい! 絶対するなよ!」
頬の火照りは治まらない。
だから余り喋りたくないのに、でも彼は、言葉を続けるから。
恥ずかしくなる。俺はどうして、いつもこう。
言葉の攻撃を、何でもない顔をして、さらりと受け流せないんだろう。
この男にとっては、きっと些細なことでしかないはずなのに。
「私のことが、好き……?」
「は? あぁ? すっ、好きじゃねーよ! 何言ってんだ」
彼が何を意図して、こんなことを自分に聞くのかが、わからなかった。
でも、シンタローは無意識に。
「ア、アンタは……」
そう言いかけて、しまったと感じ、仕方がないので、ままよと続けた。
「そ、その、どっかに残してきた人を、好きなんだよな!」
「そうだよ」
あっさり相手は答えた。
「……フン」
シンタローは、海を見る。
だとしたら、俺に、好きか、なんて聞かなくたっていいのに。
「君は可愛いね。とても可愛い」
どうしてだか、そう言われた。
そして海に溶け込むような声。
「お前と。他人として出会っていたら……こんな感じだったのかもしれない……」
しばしの沈黙の中で、その言葉は、ぽつりと呟かれたから、自分に向けられたものではないのだろうと、シンタローは感じた。
ここには、自分と男と、二人しかいないというのに。
海と砂と、夕闇と静寂。そして二人。どうしてか遠い距離。
水平線のように、近付いても近付いても、埋まらない。
『お前』と男は言った。
彼は、いつも『君』と言うから、その二人称を聞くのは、自分にとっては初めてのことで。
だが相変わらず、『シンタロー』という名前は、呼んではくれないのだ。
アンタ、俺のこと。シンタローって。絶対に呼ばないんだな。
「肩が、震えてる」
今度はそう聞こえて、同時に肩に冷たい手が触れてきて、急にぐっと抱き寄せられたから、その言葉はきっと自分に向けられたもので、そうに違いなくて、シンタローは自分の肩が震えているのだと知った。
身を離そうとして、シンタローは砂に足をとられて、僅かによろける。
砂。
鉛色の海は、砂に染み込み、染み込み、消えることを繰り返す。
砂に染み込む海はどこに消えるのだろう?
俺に染み込む時間は、どこに消えるのだろう?
よろけた体は、また強い腕に抱きとめられた。
ひどく近い距離で、耳元で、男が囁くのがわかる。
「もう一度。あの、君が夢で見た言葉を、私に教えて」
もう一度。俺が夢で見た言葉を。この男に。
気になってならないあの言葉を。この男に。
シンタローの頬を、冷たく大きな手が撫でてきて、じきに唇がなぞられた。
何度も何度も、なぞられる。
背筋が、ぞくりと震えた。予感に囚われる。
恐る恐る首を僅かに動かして、男の目を見る。
その青い瞳が、輝いていた。一目で、それは異形の光であると知った。
凄烈な、青い炎。
吸い寄せられたように、自分は視線を離すことができなくなる。心に喰い込むような瞳に、閉じ込められる。
……男が探していると言ったのは、この青だろうか。頭の片隅に、そんな想いが掠めて。
ずくりと身体中の血管が凝固してしまったように、シンタローのすべてが強張った。
「全部すべて私のことまで忘れてしまっても、その名前だけは忘れないんだね……」
男の囁きだけが、今のシンタローを支配している。
その響きだけが、狭窄した意識の中で、聞こえる。
頭痛が……する……。
「名前を。思い浮かべて。そして言ってごらん」
そしてまるで操られたかのように。
シンタローの唇はその動きをした。
「コタ……ロー……」
不意に世界が途切れた。