さいはての街
「く……あっ……ああっ……」
シンタローは再び崩れ落ちそうになる身体を、必死に堪える。
世界が点滅して全てが溶かし尽くされ、意識は狭窄する門のように閉じていき、鈍く暗く鮮明さを失っていく。
じっとりと額に汗が滲み、頭が締め付けられるように痛み、突然に自分という存在が離れ小島に置き去りにされたような、そんな途方もない孤独感が押し寄せてくる。
「……あ……く……っ」
苦しい息が喉の奥で引っかかり、みじめにひしゃげ、押し潰されたようで、シンタローはただ口を動かした。
息ができない。
そしてどろりと溶けてゆく世界の中で、知らない映像が。理解できない事物が。正気に戻れば決して記憶に残ることのない幻影が。
高速で飛ぶ鳥が感じるように、ぐんぐんと幻の光景が自分を取り巻き流れていくさまを、シンタローは目に映すばかりで、もどかしく足掻くばかりで、今度こそ自分は呑み込まれてしまうのだと思う。
知らない何かに取り込まれてしまうのだと思う。
止め処のない自問の世界に堕ちていく。
ああ。これは。これは何だ。
俺は。俺は何。俺は何を。どうして。今。昔。今……未来……これから俺は何を……。
めくるめく映像。
その時突然に。閉ざされた視界に映る金髪碧眼の美しい子供が、シンタローの意識の中で、叫んだ。
『助けて、お兄ちゃん!』
「く……うっ……!」
シンタローは目を見開いた。
子供の悲鳴は、焼けた鉄のように彼の耳を焼く。
シンタローの闇が切り裂かれ、ばらばらに弾け飛ぶ。
幻覚の世界から、現実の世界へと意識を引き戻す。
そうだ、目の前で、この現実で。
賊に浚われた子供が、叫んでいるのだった。
今のは……? 映像……映像の子供……?
……? 俺は今、何を見て……? 何を見ていたのだろう……?
「助けて、お兄ちゃん!」
そうだ。俺の目の前の子供が叫んでいるんだと、シンタローは考え直す。
訳のわからない白昼夢に惑わされている場合なんかじゃない。
大切なのは、今だ。今この瞬間、俺にとって大切なのは、この素朴な可愛い顔をした羊飼いの少年を助けることなんだ。
今、ここで俺がしっかりしないと、この子はどうなる。
霞む視界を睨みつけ、よろける足を踏みしめ、正面を向く。
ぎゅっと一度目を瞑ってから大きく開け、拳を握り締め、口で荒い息を繰り返した。
俺が。俺が、やらなきゃ。
俺が、助けなきゃ。
その一念で、前を見る。思う。
……?
……俺……前にも、こんなこと……?
「お兄ちゃん……」
目の前の賊は、子供の声を抑えるでもなくただその体を捕まえたままで、窓際に佇んでいる。
こちらを見ている気配はするが、覆面でその顔も表情も、シンタローにははっきりとは窺い知ることはできない。
素早く子供の身体の輪郭に視線をやって、無傷であることを確認すると、シンタローは微かに息をついた。
「おい……お前、その子を放せ……!」
シンタローは顔を上げると、賊にそう口を開いた。
微かに掠れた声になってしまって、しまったと感じ、もう一度できる限りの低音で凄みをきかせる。
体格は自分の方が相手より少し優れているようだが、油断はできない。
あんな罠を短時間の内に仕掛ける相手である。
しかしそんなシンタローにも、賊は無言だった。
局員を追い出してからはこの通りに口を閉ざしたままで、大通りからの町の人々の説得工作にもまるで無反応だったというから、腕の立つ自分がこうして対面せざるを得ない状況になっている。
主要道路で事故があったというが、警察はまだ来ないのか。
それまでの時間稼ぎ――子供の安全は確保したままで――をすることこそが、自分にとって必要なことなのかもしれないと、シンタローは状況を分析する。
そして、また一歩を踏み出した。
「その子を放すんだ。強盗だかナンだか知らねーが、お前は逃げられねぇよ。無駄だ、あきらめな」
そう口にしながらもシンタローは、囚われている子供の表情を見ると、自分が冷静ではいられなくなっていくのを感じている。
その泣きそうな顔を見ていると、自分の心の奥にも涙が溜まっていって、それが零れ落ちそうになるのを必死に我慢しているような気持ちになる。
子供の辛さが、苦しさが、シンタローの中にそのまま流れ込み押し寄せてきて、泣き出したくなるのを自覚している。
何だよ、泣きたくなるって。
俺は、ガキか。こんな時に、馬鹿か。くだらない。
そんな自分を情けないと思い、同時に不思議だと感じ、込み上げる嘔吐感に、心の蓋を閉めたいと思う。
塞いでも、塞いでも、あとから、あとから。
俺の中で溢れ出してくる――
「チィ……」
シンタローは唇の端を噛み切って、その血を舐めた。
痛みによって自らを覚醒させるためだった……。
と。空気が凪いだ。
相手が一歩動いた。
身構えるシンタローの目の前で、黒尽くめの賊の身体がスローモーションのようにゆっくりと動く。
ふわりと上体が浮き、足が音もなく床から離れ、子供を抱えたまま。
シンタローに向かって飛び掛ってきた。
シンタローの顎を狙って、賊の膝蹴りが襲う。
背を反らしてかわしたと思ったが、その脚がぐんと伸びて、続く一撃が鋭く顔面を捉えてくる。
「くっ……!」
腰を落として頭を下げ、左脚に体重を移動するダッキングで避けたが、シンタローの黒髪が風圧で数本削がれる。
さらに加えられる多段突き。
シンタローはその踏み込んだ脚を軸にし、身体ごと回転してこれも何とかかわす。ぎりぎりだ。
しかし相手はそんなシンタローを追って、今度は右上段に回し蹴りを繰り出してくる。
「……!」
やわらかい絨毯を数歩ステップバックし、シンタローはその蹴りを右手で払った。
そして左の手の平で、賊の右腕を制しながら、今度は自分が相手の懐に飛び込んで裏投げをすると見せかけて。
素早くその腕から、呆然としている子供を奪い去ろうとしたのだが。
賊はいち早くそれを察知し、壁を蹴り、その反動で大きく飛び退って、シンタローの意図を潰してしまう。
部屋に差し込む夕日が翳っていた。
ちょうどシンタローと賊の位置が入れ替わった所で、両者は睨み合い、動きを止めた。
互いに相手の力を感じている、隙を窺っている均衡状態。
子供を抱えたままでのこの動き。
こいつ、強えぇ。
シンタローは嫌な汗を首筋に感じながら、考えている。
これまでの喧嘩相手やごろつき等とは、この賊は明らかに桁が違うのだ。
その攻撃に対抗している自分のことも、奇妙ではあるのだが。
シンタローは考え続ける。
……こいつ。こんなに強えぇのに、何でこの建物に追われたんだ……?
街の人間なんて相手になんねーはずだ。
何故……。
大窓の向こうで雲が流れ、斜光が再び向かい合う二人と子供を照らし出す。
黒い影が床に伸びる。部屋の調度品やデスク、飾り棚の陰影が彼らの足元に敷き詰められる。
その瞬間、賊が、動いた。
一段と高く跳躍している。
「……ッ!」
蹴りを予想して構えるシンタローの頭上を跳び越し、影を残し、光の中へと飛び込んでいく。
ガシャァァーンッ!!!
生々しく硝子の割れる音が響いて、透明な欠片が散って、不意の風に白いカーテンがたなびいて、シンタローは振り返って賊の後姿を見た。
屋根を越えて。裏庭に。
建物はその背後に小高い丘を擁していて、裏庭の先には、なだらかな稜線に沿って葡萄畑が広がっているのだった。
そこには、人の背より高い葡萄の木が絡み合い、か細い蔦を這わせて。
収穫には早いみずみずしい粒が、夕陽を浴びて輝き、美しい風景を形作っていた。
葉に優しく房の輪郭が影に落ち、風にそよいでいる。
葡萄の木は、その実の印象とは裏腹に、堅くて強い。
集団で互いに支え合い身を寄せ合い、赤茶けた土にびっしりと根を張り、枝と蔓を一杯に広げているその姿は、まるで人なるものの侵入を拒んでいるかのように思われた。
農家の民が植樹の際に予め作った通路でしか、この葡萄畑に入ることは叶わず、ましてや柵で覆われているこちら側からでは侵入できるはずもない。
自然の防護柵。要するに、行き止まりであるはずだった。
だが賊の後を追って、開いた大窓から屋根へと出たシンタローは、信じられない光景を目にした。
賊の手から――何も持ってはいないように見えるのに。
代書屋は危険物を所持しているようだと言っていたのだが、シンタローの目には賊が素手であるかのように見えるのに。
その右手から、赤い炎が噴き上げている。
左腕で抱えられている子供が、その炎を至近距離に目に映して、ガクガクと震えていた。
何をするつもりなのか。
まさか。
「やめろ!」
シンタローの叫びも空しく、葡萄畑に火が放たれる。
「くっ!」
行き止まりの葡萄畑を焼き払って、そこから逃げようというのか。
みるみるうちに葡萄畑は炎に包まれていた。
炎は垂直に夕空へと立ち昇るのではなく、空間で歪み捻られ、葡萄の蔓に絡みつくようにのたうち、それは何か異形の炎であることを感じさせる。
大通りから異変に気付いた人々の騒ぐ声がする。
間に合わない。
シンタローは広い屋根を駆け下りながら、無意識の内に懐に手をやる。
どうしようもない時の切羽詰った時の、それは彼が最近やる仕草だった。
指先に、冷たく硬い感触。
――金貨。
そう意識した瞬間。
シンタローはそれを掴み出すと、屋根から飛び降りながら、賊に向かって投げつけた。
金貨は輝く矢のようにシンタローの指から解き放たれ、賊の左手首に命中する。
賊が初めて不意打ちをくらったというように肩をびくりとさせ、腕を震わせて、子供を、取り落とした。
自由になった子供は、炎に怯え顔を蒼白にしながらもよたよたと、裏庭に降り立ったシンタローの方へと走ってくる。
シンタローの腕の中に、飛び込んだ。
小さな手で、抱きついた。
シンタローは、しっかりと子供を抱きしめ返してやる。
すると子供は、わんわん泣き出した。
シンタローの心にまたその涙が流れ込んで、シンタローまで泣きそうになった。
しかし、ぐっと堪えた。
そして子供を抱きしめたまま、賊のいた場所を見た。
炎に染まる葡萄畑の中に、一筋の道ができていた。
黒く焼け焦げた木々が、悲しげに崩れ落ちていく。
甘い香りは炭の匂いに変わり、美しい風景は凄惨な光景に変わり、賊はもう消えていた。
赤く焼けた空の下、赤く焼ける葡萄の炎を、シンタローと子供は抱き合いながら、ただ見つめていた。
背後からたくさんの足音がして、鐘が鳴り響いて、警官や消防隊が自分たちに駆け寄ってくるまで、なすすべもなく、ただその炎を見つめていた。