さいはての街
目を開けると、また世界が続いていた。
陽光が屋根裏部屋には満ちていて、小鳥の鳴く声がして、優しいスープの香りがした。
「おはよう」
そして、男の声。
シンタローは寝ていたベッドから、もぞもぞと上半身を起こす。そして毛布を掴んだまま、しばらくぼんやりしている。寝乱れした黒髪を、指でくるくると巻く。
前にもこんなことがあったような気がした。あれはいつだったっけ。
「ま、『おはよう』って言っても、もう昼だけれどね。よく眠ってたから、起こすのも可哀想だと思って」
「……ん……」
キッチンに立つ男は、湯気の立つ鍋から一匙すくって味見をし、満足そうに頷いている。
それから火を止めて、まだ呆けているシンタローに、声をかけてきた。
「はは、何だか私がキスしようとしたら、君が倒れちゃって。やっぱり病み上がりで歩かせたのが悪かったなあ」
「なっ、ななな!」
そういえば、この男と街に出て、それから海を見に行ったのだ。
海を見に行って。少し話をして。それから。
それから……?
鉛色の海と……青い瞳が……そ、そうだ! 男が近付いてきて! それから……?
何だっけ?
自分が動転していたことは覚えているので、だから記憶が曖昧なのだろうかと首を傾げる。
とにかくシンタローは、また自分は男に醜態を見せたのかと悔しく思い、ほぞを噛んだ。
倒れたという自分を、男はここまで運んできてくれたのだろうか。
そしてふと気付いて、後ろ頭をさすった。
じり、と頭の奥に痛みを覚えたのだ。
「……」
シンタローがベッドに胡坐をかいて座り込み、相変わらず毛布を掴んだまま、頭をさすって考え込んでいると、不吉な気配が忍び寄ってくる。
『ふふ』と、笑う声がして、ベッドが揺れて、シーツに感触がして、男が腰掛けてきたのがわかった。
男が近付くと、シンタローは周囲の空気が揺れるのを感じる。
ぴくりと自分の肌が緊張するのがわかる。これはきっと、生理的なものだと思う。
どうしてなのかはわからないが。『天敵』という言葉が、脳裏を掠める。
それが悔しくて、つい棘々しい態度を取ってしまう。自分が、自分の思い通りにはならないのだ。
敵わない。
「……あんだよ」
「ふふ」
「あんだっての」
「いやあ、ねえ?」
にやにや頬を緩めている相手を、シンタローは、ギッと睨み返した。
何だこいつ、薄気味悪い。
良からぬことを企んでいる顔だ。
だが、この男の熱視線を浴びる度に、ああ、この男は帰って来たんだと、シンタローは実感するのだ。
寝込んでいる間も、ずっと感じていたのは、額の濡れタオルを交換してくれる大きな手と、愛しげに自分の髪をそっと撫でてくる際の、彼のその時のまなざしだった。
この瞳が、自分をずっと見守ってくれていたのだ。
窓から漏れる陽光で、狭い部屋がすっきりと明るく照らされていて、男の金髪がきらきらと輝いていていた。
自分が寝込んでいる間にも男がまめに掃除をしていたのか、床板の木目が美しく見える。
木目を見ているシンタローの肩に、男はふざけた調子で『ごつん』と言って、その身体をぶつけてくる。
子供っぽい仕草。そして反射的に眉を吊り上げているシンタローに、間近で囁く。
「昨日できなかったから、今しようと思って」
「ああ? 何をだよ!」
やだなあ、わかってる癖に。
そう男は、嬉しげにシンタローの鼻先を、指でつついてきた。
「キ・ス・を」
「な・に・イ〜〜〜ッッ!!!」
そして、攻防戦になった。
相手が手を伸ばしてくるので、シンタローはそれを払う。しきりに払う。払いながら、怒る。
「なっ、何で俺とそんなコトしたがるんだよっ!」
「ん? 可愛いから」
「だから、俺は可愛くねぇーっ!」
「だから、君は可愛いって」
「かっ、かかかカワイければ……」
好きじゃなくたって、誰とでも、するのかよ。
とは、言えなかった。
どうせ、『そうだよ』とか、あっさり答えが返ってくるに決まっていた。
この男の本心はどうでも良かったが、そんな不道徳さに腹が立つ。
仕方なくシンタローは、こう言った。
「とにかく! 俺は、そんなのしたくないんだよ! なーんで、アンタなんかとこの俺がッ!」
すると、男は小首を傾げて。
「じゃあさ。お礼ってことにしようよ。私が君を拾ってあげたお礼」
と言ったから。
「……お礼?」
新しい理論、理由付けの登場に、シンタローは動きを止める。
そうか、お礼か。お礼……。
そこで、ちょっと待てよ、と考える前に、嫌な思い出が、蘇ってくる。
拾ってくれたお礼、とかって、こいつは俺に……あっああああああんなコトしたくせにぃっ!
今度は、拾ったお礼って。えっ、それって、どっちも、俺が損してるだけなんじゃ?
なんだかすっげぇ不公平なんだケドっ!!!
「アホか、お礼とか、そんなんあるかぁ〜ッッ!!!」
「ちぇっ。騙されなかったか」
「あっ、あったり前だ、このケダモノ!」
残念そうな顔を相手はした後、なんだか開き直り始めた。
「あっはは、いいじゃない、キスぐらい。初めてじゃあるまいし」
「何だ、その言い草はぁ〜っ!」
しかしその台詞に、僅かにシンタローは戸惑う。
おう、そーさ、初めてじゃねぇが、それとこれとは……あ、あれ。
この街に来る前に……誰と、したんだっけ……? ていうか、俺……あれ?
不思議に、頭の奥が霞がかっていて、それに気を取られたシンタローだったが。
「うわっ!」
「チュッ あっ、避けたね」
油断した隙に、掠めてきた唇。
それを、シンタローは寸前でかわした。危ない所だった。
「こっ、このぉ!」
怒りのあまり、腕を振り上げたが、男を避けたばかりの斜めの体勢だったために、バランスを崩してしまう。
その身体は、嬉しげな男に、しっかり抱き止められてしまった。
「なんだ、君も積極的だなあ」
「ち、ちがっ……!」
そのまま、ぐいっと押し倒されて、シンタローは自分の長い黒髪が、白いシーツの上に広がるのを感じた。
窓から漏れる陽光は、依然として明るく澄んでいた。その中で、相手の身体が圧し掛かってくる。
こんな不埒なことを囁きながら。自分勝手な低音で。
「ほら。いい子だから、目を瞑って……」
仰向けになった自分の上に、男の影が落ちてきて、それだけでもう身動きができなくなる。
相手の顔が。ゆっくりと近付いてきて……。
わ! わ! わぁ〜っ!
……。
その時、外から、たたたたたと螺旋階段を駆け上がる音がして、続いてコンコンコンと可愛らしく扉を叩く音がした。
魔法が、解けた。
眉を顰めて動きを止めた男を、シンタローは思いっきり押し退ける。
そして怒った顔をして、相手を睨みつけた後。ベッドから降りて、わざと音を立てて歩いて、扉に向かった。
扉を開けると、あの牧場の少年がちょこんと顔を出して、笑った。
シンタローは仏頂面で、男の作ったスープだけを素早く腹におさめると、少年をお菓子で手懐けだした男をまた一睨みして、『こんな奴に構うんじゃねえ!』ともっともな忠告をし、それから『え、私は?』と言っている男を置いて、少年と連れ立って街に出た。
大人と子供で、路地を並んで歩く。花壇の花が、揺れていた。
布に包んでもらったパンケーキを、少年が大事そうに抱えているのに、やれやれだと思う。
見下ろす小さな頭に、昨日言われたことを尋ねてみる。
シンタローは、今日一日は少年との遊びに付き合ってやるか、程度の気持ちでいたのだ。
「お前さ。秘密を教えてくれるって。どんなのだよ?」
「秘密! 秘密だから、まだ教えない! 僕と一緒に来たら、教えてあげるよ!」
そうやって、見上げる笑顔がまた返ってきて、自分は苦笑する。
少年の背は、シンタローの腰あたりまでしかない。
それが、シンタローの右側に行ったり、左側に行ったりして、まとわりつくように歩く。
やっぱり可愛らしいと、シンタローは思い、今度は本当に笑った。
市場を通ると、新聞屋が相変わらずの姿で辻売りをしていたので、彼に近付いて声をかけた。
「よっ、久し振りだな」
「……シンタローさん」
「ここ数日、ちょっとグダグダしててさ」
シンタローはそう言って、市場の雑踏を見渡した。人々の活気ある声を聞くと、それだけで元気が出た。
人は、やっぱり働くのが、一番だ。
「俺も、そろそろ仕事に戻らなきゃナ」
そう言いながらシンタローは、新聞屋が自分を探るように見つめていることに気付いた。
なんだぁ、俺の顔に何かついてんのか?
シンタローは思わず顔を撫で回したが、しかし相手の視線はすぐに自然なものになったので、気にしないことにした。
「何か変わったこと、あったかよ」
そう言ってシンタローが新聞屋の肩を叩くと、相手は、シンタローさんは最近付き合い悪いから、と言って、抱えていた新聞を一枚抜き取って差し出した。
シンタローはその新聞を、上から下までもっともらしく眺め、そして折り畳んで懐にしまった。
当たり障りのない記事の中で、片隅に小さくあった、隣国での戦争の記述が、少し気になった。
少年と、街を郊外へと歩く。
この道は、あの牧場へと続いているはずだった。
道すがら、少年が思い出したように言った。
「あ。お兄ちゃん! あのね、『コタロー』って名前、みんなに聞いたけど、知らないって」
「? 何だそれ」
「えー、お兄ちゃん、昨日、僕に言ったじゃない。その人、探してくれって!」
「……そうだったっけ?」
シンタローは首をひねったが、どうにも思い出せない。
少年と会ったことは覚えていた。その時に、今日の昼間に尋ねてくると聞いたのだ。
しかし言われてみれば、自分は少年に何かを頼んだような気も、しないでもない。
そうだ。自分はこの子を呼び止めた。そんな気がする。そして……。
……あれ?
だが何を頼んだかは、漠として思い出すことはできなかった。
その部分だけが、記憶からすっぽりと抜け落ちていたのだ。
でも、どうしたって。だいたいそんな、聞いたこともない言葉、名前を、俺が言うはずもない。
『コタロー』なんて。俺がそんな人、探してたって? 何かの間違いじゃないのかよ。
反応の悪い自分に、少年は『折角みんなに聞いたのに! もういいよ!』とむくれてしまったので、機嫌をとるのにシンタローは苦労した。
色々話しかけて、楽しい話をしたりして。途中の森で、木陰で布を開いて、二人でお菓子を食べたりして。
それでやっと少年は、またにこにこと笑い出した。
シンタローは、ほっと息をつき、あの男もたまには役に立つことをするもんだと思う。
男の焼いたケーキは甘かった。彼は木漏れ日の下で、それを頬張りながら考える。
目の前には、あの、森一番の巨木が聳え立っていた。
光の中で、その樹皮はいかめしく仁王立つ巨人のようで、その肌に這う緑の苔は、緩い衣のように見えた。
『コタロー』なんて。
シンタローは心の中で苦笑する。
そんな名前、聞いたこともねえよ。
牧場の羊たちの群れを過ぎ、広い高原を草を鳴らしながら歩き、少年に連れられて行った先は、あの以前に招かれた邸宅だった。
高所からは、群生している花々が見渡せる。白と藍に縁取られた山の峰が、すっきりと美しかった。
連れだって、少年と邸内に入ろうとしたのだが、
「待つんだ」
突然、険しい顔をした頑丈な体つきの男に、止められる。
この優しい風景には不似合いな男の登場に、シンタローは目を丸くした。
有無を言わさず入念なボディーチェックをされている間に、シンタローは数人の男たちに取り囲まれていた。
目立たない私服を着ているものの、明らかに漂わせる雰囲気で、ただの一般市民ではないことはわかる。
この感じは……時々、街で見かける……兵士……? なんにしても物騒な人間たちだった。
『もう、お兄ちゃんは、大丈夫なんだってば!』と、叫んでいた少年も、いつの間にかいなくなっていて。
取り残された自分に投げかけられているのは、嫌疑のまなざしであり、これは明らかに不審尋問だった。
逃げることはできそうだったが、こんな目にあう理由がわからない。
さて、どうしようとシンタローは誰何を受けながら、首をひねる。
その時、急に霧が晴れたように、空気が変わった。
「大丈夫。心配ないよ」
子供の声が、響き渡る。
綺麗で可愛い声だったのに。
厳つい男たちは、まるで雷に打たれたように動きを止めた。
そして、すっと身を両側に引いたので、シンタローの視界から壁が消える。
だからシンタローは、顔を上げて、正面を見つめた。
男たちの壁が消えた先、そこに佇んでいたのは子供である。
控えめな色合いの、しかし上質の衣服を身に纏い、ほっそりした体つきが印象的な少年だ。
彼は自分を見て、高原に香る陽光のような、そんな表情を浮かべた。
金髪碧眼、大きな瞳。繊細な造りの顔は、優しげで、ほのかな威厳を漂わせていた。
「へっへ〜」
自慢げな顔をして、その背後から、羊飼いの少年が顔を出した。
やっぱり、お兄ちゃんは大丈夫だったよね! と不可解なことを口にした後。
シンタローを驚かせてやったと、そんな充足に満ちた笑顔で。
「あのね。秘密って。王子様が、秘密だったんだよ!」
そんな突拍子もないことを、言った。
王子、と呼ばれた人は、状況が把握できずに突っ立っているシンタローに、静かに近付いてくる。
そして、シンタローの右手を、そっととった。
「え……」
呆気にとられるシンタローだったが、依然として周囲で容赦のない目を光らせている男たちが緊張するのを感じて、自分まで緊張してしまう。なんだなんだと、どきりとする。
『王子』の手は、小さくて、温かかった。
温かいなと感じていると、次はぺたりとその小さな額に、自分の手が押し当てられるのを感じる。
相手はそのまま、念じるように目を閉じていた。
どうしようとシンタローは、訳知り顔の羊飼いの少年に、助けを請うような目つきをしたが、しいっと、指に口を当ててたしなめられれば、自分は肩を竦めるしかない。
仕方がないので、そのまま、大人しくしていた。
数分経って、手が離された。
金髪碧眼の子供は、ゆっくりと頷いた。そしてシンタローに背中を向けて、歩き出す。すると男たちも、元いた配置へと戻るのか、踵を返す。
シンタローは周囲をキョロキョロと見回した。
やがて子供の消えた部屋奥から、これも上品な身なりをした老紳士が現れ、シンタローに会釈した後、『どうぞ』と案内する仕草をした。
「……?」
一連の出来事に戸惑ったままのシンタローの腰に、ばふっと羊飼いの少年が抱きついてくる。
「ほら、中に入ろうよ!」
「って、お前……どーいうコトなんだよ、これ」
「だから、王子様なんだって!」
「王子様がねっ! お兄ちゃんの話したら、ぜひ会いたいって! だって僕の命の恩人だもんね!」
シンタローの隣で、少年が誇らしそうに胸を張る。
話を聞いて、シンタローは再び目を丸くするばかりだ。
『王子』と呼ばれた子供は、正真正銘の、この国の王子であるのだという。
普段はあの城に住んでいる――王子。王子って。王子って、あの。
シンタローの脳裏に、街を見渡す優美な古城の姿がひらめく。
精神感応の力を持つという、一族の住む……あの城の。
信じられないことだが、この王子と羊飼いの少年とは、身分を越えた仲の良い友達同士であるのだという。
そういえば、以前に少年の家に招かれた時は、その意外な大尽振りに驚いたものだったが、よくよく聞けば、この場所にはさらに隠された職務があったらしい。
一族は、その異能と引き換えに腺病質の気があるらしく、空気の美しい高原での療養をしばしば行っている。
そして、ここ一帯の高原の所有者、大牧場主である少年の家が、代々そのお相手役を務めているのだという。
少年の家は、一族の別邸の役目も果たしていたのだ。
シンタローは、美しい子供の、線の細い輪郭を見つめた。透き通るような肌。細く白い腕。
「リョウヨウって言ってもね。僕といっつもね、遊んでるだけだよ!」
健康的に日に焼けた少年が、王子のその腕をとって、ぶんぶんと振った。
「王子様はね、人の心がわかっちゃうんだよ! だからお兄ちゃんが良い人なのも、すぐにわかってくれたんだよ!」
興奮して話す、羊飼いの少年。
先刻の『大丈夫。心配ないよ』という台詞は、自分にというよりも、身辺警護の男たちに向けられたものだったらしいと、シンタローは遅まきながら気付く。
王子は、自分の心を読んでいたのだ。
信じられない。
噂には聞いていたが、そんな能力を持つ人間が、実在するなんて。
目を見開くシンタローだったが、
「信じられない、噂には聞いていたが、そんな人間が、実在するなんて……ごめんなさい、本当なんです」
そう王子に、自分の心の中を、正確に反芻されてしまえば、赤面するしかない。
もう一つ、謝らなければならないことがあるんです、と王子は言った。
「先程手をとらせて貰った時に、貴方の心をかなり深くまで。遠距離よりは近距離、近距離よりは、実際に触れる程に、精度が上がるんです……近付く人間は、全てチェックする。それが僕たちの決まりなんです。何かあるといけないからって」
王子は、本当にすまないといった顔をして、肩を窄めている。
身分ある人なのに、高慢な素振りは何一つなくて、シンタローはこのことにも意外さを感じてしまう。
「いつもはね! 他の人がするんだけど、王子様ジキジキにしてもらえるなんて、お兄ちゃん、ラッキーだよっ!」
ウキウキした羊飼いの少年の声。
そうか、何だか知らないけれど、自分の心は読まれていたのか。
……えっ、おい、それって。
うわっ……!
ぎくしゃくと、シンタローは今さらながらに緊張してしまった。
やべぇ。俺、ヘンなコト、考えてなかったかな。
つい焦ってしまって、シンタローは言った。
恥ずかしかった。
「俺の心を、ふ、深くまでって。ドコラ辺をっ……いや、どこら辺を、ですか……」
「敬語は、結構です。そうか、僕も……畏まった言葉は、やめるね。ホント言うと、こっちの方が、楽なんだ」
シンタローに嫌悪はないと感じ取ったのか、王子の表情が柔らかくなった。
口調に、上品ながらも子供らしさが表れる。
「シンタローさんの心に残るだいたいの過去だったり、今考えていること、そういった感じのことを。それと一番重要なのは、害意……ID審査みたいなものなんだ。でもそこまでの具体性はあえて読み取らなかったから、安心して。本当にごめんね……でも危険はないって、わかったから。シンタローさんの意識には、僕にとって危険なものは、何一つない。どうしても不快だったら、帰ってもいいよ。無理言ってこっそりシンタローさんを呼んだのは、僕の方だから。でも……」
王子は、一気に喋ってから、言葉を切った。
そして、真摯な瞳で、こちらを見つめてきた。
「僕、お礼を言いたかったんだ。この子を助けてくれて、ありがとう。この子が、僕のたった一人の、友達なんだ」
そう感謝の視線を向けられた時は、何と答えれば良いのか、わからなかったシンタローだった。
大きな窓のある明るい部屋で、三人は、お付きの老紳士が手馴れた仕草で入れてくれた紅茶を、丸いテーブルについて飲んだ。
窓からは、緑の草原が見えた。遠くで犬が、羊を追っていた。
その光景を眺めながら、他愛のない会話を交わす。
ねだられて、様々な有力者たちの時と同じように、少年を助けた話から始めたシンタローだったが。
やがてその話が尽きて、郵便配達の仕事柄、詳しく街の話をしてやると、それがどんな些細なことでも、王子は珍しがって喜ぶのだった。
王子が決して自由に歩くことのできない、街の話。人々の話。動物の話。
あんまり具体性は読み取るなよ、と確認してからした、配達中に考え事をしていたら、犬の尻尾を踏んでしまって、ひどく吠えられたことだとか。
自転車で積み上げた樽に正面から衝突したことだとか。
そんなつまらないとも思える話に、手を打って喜んでいる子供の、その様子。
王子は、自分の話を聞くことに加えて、その感情までも読み取ってしまうようだった。
だから、楽しい話を聞くと、一緒に楽しくなってしまうのだろうか。
感情移入が強いのかもしれない。
王子が、自分の話に入れる合いの手も、漏らす感想もしっくりしていて、今まで色んな人間と話をしてきたシンタローも、こんな最高の聞き手は知らない。
だがその他には、全く普通の子供と変わらない。その無邪気な仕草。生き生きした表情。
それを見てシンタローは、王子を可愛いと感じ、同時に不憫にも思った。
こんな、子供らしい良い子なのに。普通の子供の喜びを、実際に体験することができないんだな。
特別な家に生まれたっていうのと……多分きっと、能力のせいで。
例えば、市場の雑踏で、知らない様々な人の思念が、ごっちゃに入り乱れて伝わってきたら。
俺ならきっと、耐えられない。
その生活は、普通人であるシンタローの想像を絶していた。
つい自分が尋ねてしまった所によると、訓練によって感応の強弱、抽象性具体性の別の調節は、可能になるらしいが。それでも。
特にこんな……か弱そうで、優しげな子供であるのに。
そんな状況に、耐えてるんだなと思う。苦しいことも多いだろうに。
きっともう、大人の汚い部分だとか、裏側の部分を、否応なしに知ってしまっているんだろうなあ。
シンタローは王子の顔を、想いを抱いて見つめる。
王子は、瞬時に自分の心を読んでしまうという。
今この瞬間も、読まれているのだろう。しかし。
初めは居心地の悪さを感じはしたものの、この雰囲気に慣れてしまえば、何ということはないと思う。
探られるような不快な感じはせず、ただ自然に意識が通じてしまうだけなのだ。
自分の心にやましいことがなければ、大したことはない。
むしろ、言葉を使わずに、正確に自分の心を伝えることができて、いいのかもしれない。
でも……そういうの、嫌がる奴も、いるんだろうな。
そして、ふとシンタローは、過去の自分の言葉を思い返す。
『や、実際、気持ち悪がられるんじゃねーの、一般社会にいたらさ、そんな人間』
自分だって、あの時は、軽くそう言ってしまったのだ。
でも、今。こうして会ってみると、話してみると、全然、気持ち悪くなんかない。
知らないのに、勝手に。悪いこと、言っちまった。
シンタローが過去を後悔して、そう考えた時、王子が、こちらを見るのがわかった。
思わず緊張したシンタローだったが、そんな彼に、『ありがとう』と王子はそれは綺麗な笑顔で、あの金貨に刻まれた天使と同じ顔をして、微笑んだのだ。
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『僕もシンタローさんのこと。お兄ちゃん、って。呼んでもいい?』
そんな王子の言葉を思い返しながら、上機嫌でシンタローは夜道を歩いていた。
鼻歌なんかが出る有様だ。口笛だって吹いてしまう。
すっかり自分と王子とは、仲良くなった。
間に入った牧場の少年が、妬いて不平を漏らす程に。
なんだ、噂では化け物みたいだとかいうけど。
そうじゃなくったって、高貴の生まれだとか異能力があるとか……そんなこと、全然関係ない。普通の可愛い子供じゃないか。
今度はお菓子でも作って持って行ってやろうかと、シンタローは思う。
でも、またあの警備兵とかに、毒見とかいって睨まれて取り上げられちゃったりして。
ああ、わかった。あっちに材料用意しといてって言って、目の前で作ってやるのも、いいな。
日が暮れて人通りもまばらな街を、シンタローは歩く。
石畳を踏む自分のいつもの足音が、曲がりくねった狭い小路を通り過ぎていく。アーチ形のくぐり門を抜け、裏路地を行く。
その突き当たり、赤煉瓦の花壇がある建物が見えてきて、緑と茶の蔦が這う、古ぼけた壁が街灯に浮かび上がった。
あの屋根裏部屋が、自分を待っているはずだった。
「さて、と……」
そして古びた建物を見上げた瞬間、シンタローの陽気な気分はそこで掻き消されてしまう。
部屋の灯りが、消えている。
「……」
機械的な動作で、シンタローは螺旋階段を上る。
こつこつ、こつこつと規則正しい音が響いた。蔦の葉のかさついた音が、今は肌に突き刺さる。
ずっと、その時は、惑わずにこうしようと決めていた通りの行動を、シンタローはとった。
階段を上りきり、躊躇せずに、扉を開ける。
男は、いなかった。
静まり返った空間。暗い部屋。
「……フン……」
予期していた事態だ、と、シンタローは男の姿を探すことよりも、先に諦めようとした。
いつか出て行く。
その時が、今来たということだけで、大したことなんかじゃない。
大したことなんかじゃ。
そんな空っぽの気持ちで、無人の部屋に足を踏み入れたシンタローだったが、ふと鼻先を掠める、風の流れに気付く。
窓が開け放されていて、部屋には、夜の風が揺らめいていた。
シンタローが、上半身を黒縁のドーマー窓から外へ乗り出すと、男は、屋根の上にいた。
高所の空気は澄んで、その場所には静かな夜景が広がっていた。
星は瞬き、街も瞬く。
この屋根は、屋根裏部屋の空間を広くとるためにマンサード式で中折れし、窓の周囲は急傾斜していて、その上に重なるように緩い勾配の屋根が、羽根を広げていた。
屋根西に突き出した、赤煉瓦造りの小さな煙突に、男は右肩を凭せかけている。
自分に気付いた男は、窓から突き出たシンタローの顔に向かって、ぱちりと片目をつむった。
「お帰り。夜景が綺麗だよ。君もどうだい」
「チッ……」
こんな所で、のうのうと夜景なんか見てやがる、とシンタローは大きく舌打ちをする。
……人の気も、知らないで。
ムッとしながらも、シンタローは靴を脱ぎ、窓枠に足をかけて、自分も屋根へと上った。
靴を床に置く時、片一方が横に倒れて、かたりと乾いた音がした。
屋根を葺く、なめらかな天然スレートの感触が裸足に冷たい。
上るために軒に手をかけた腕に、質素な棟飾りが掠める。
太陽の下では赤みがかって見える屋根石は、夜の中では、鈍く灰を含んだように重々しかった。
シンタローが動く度にそれはきしきしと鳴って、彼は、この頼りない被膜が、自分と街とを隔てているのだと思う。
風は肌寒いぐらいだった。
見下ろす夜は、深い。
高層建築もさして見当たらない街では、この屋根からはその全体を、綺麗に見渡すことができた。
もともと広くはない、小さな街だ。
夜の向こう、彼方に白く浮かび上がる、古城。
それは美しい顔をした彫像のようで、その場所には、あの王子が現実に住んでいるのだという実感を持つことは難しい。
そして――
自分も屋根には上ったものの、シンタローは何とはなしに決まりが悪く、男とは離れた場所に座ってしまって。
座ってから、それが不自然であることに気付き、素直に近くに寄れば良かったと後悔していた。
どうしよう。
だがその逡巡を見越したかのように、男が薄く笑って、言ったのだ。
「こっちにおいでよ」
「……」
そうやって、しぶしぶといった表情で、シンタローは彼の隣に座ったのだった。
座った瞬間、ふっと肩が触れ合って、思わず身を引こうとしたのだが、これも不自然だと思って今度はそのまま、じっとしていた。
すると何だか相手はとても嬉しそうな笑顔を、自分に向けてきたので、シンタローは再び後悔したのだった。
「……また、好きな奴のコト、考えてたのかよ」
自分が窓から顔を出した瞬間に見えた、男の横顔が気になっていた。
またあの。例の、一人でいる時の顔。
今宵は月のない空。静まり返った夜。
しかしきらめく星々は、いつか見た日と同じように、彼の彫りの深い横顔を淡く白銀色に照らし出していた。
「ん? ああ……」
男が自分の質問に曖昧に答えたので、その曖昧さに、それが真実であることを肌に感じる。
そのまま男が黙っていたので、シンタローも黙って、並んで夜の街を見下ろしていた。
都会とはかけ離れた、ひっそりと滲むような、控えめなイルミネーション。
家々の輪郭は、暗闇の中で薄く連なっていて、まるでなだらかな波の弧のようにも見えるのだ。
小さな街だと思っていたが、夜になるとそれは何処までも何処までも続いているかのような錯覚にとらわれる。
広大な暗い海に乗り出して、小さな筏で漂っているような、そんな気がしてしまう。
そして近くには、静かに佇む男の身体。
微かな息遣い。
彼は、遠くを見ているのだ。
……この男は、今、ここにいるんだけれど。
シンタローは独り、心に呟く。
でもここにいるこの人間は、本当のこの男じゃないんだな。
記憶をいつか完全に取り戻したアンタが、本当のアンタなんだな。
何が本当で、何が仮の姿で嘘なのか、わからなくなってきたと、シンタローは思う。
記憶をいつか、取り戻す……いつか、本物に戻る。本物のこの男に戻る。
でも。でもでも。
シンタローは、何度も瞬きをした。
この男には悪いけど、ずっと記憶が戻らなかったら?
そうしたら、この、俺の目の前にいる男が、いつか本物になるんじゃないだろうか。
……好きな人がどうとか、っていうのは、記憶を失う前のこの男がそうだったってことで、今のコイツが本物になったら、それが逆に偽物になるってことで……でも今の仮の姿のコイツも、それに囚われてるんだよな……でも記憶が戻らなかったら……ああー、混乱してきたッ!
コイツ、好きな人に会いたいから、記憶を取り戻そうとしてるんだろうな……。
って、俺。どうしてこんな、どうでもいいことばっかり考えてるんだろう。
シンタローは、自分の額を、こつんと叩いた。
しっかりしろ、俺、と念じる。深呼吸をして、静かに息をした。
吸い込んだ空気が、冷たかった。
――俺が。
さっき出会った王子みたいに。この男の心を、読むことができたら。
すると不意に。
「怒ってる?」
突然、男にそう聞かれて、
「へ?」
間抜けな顔をしてしまったシンタローである。
男は、やけに優しい目をしていた。夜目にも明るい色をした睫毛が、自分に向けられている。
「だって。昼間、怒って出て行ったでしょ」
すっかり忘れていた。
しまった、と。シンタローは、唇を噛んだ。
だから、慌てて口を尖らせて、
「あっ、ああ、そーだよっ! 怒ってるよ!」
こう言い放ったものの、どう後を続けようか、ひどく迷った。
「……で、でも! いつまでも怒ってるのは、男らしくねェから……ア、アンタがこのまま、ここにいるんなら……っていうか……あ、あのな……」
しどろもどろになって、語尾が弱まった。
こちらを見ている男の視線を感じて、肌がひりつく。
そのひりつきにシンタローは、一番聞きたかった問いを飲み込んでしまう。
アンタ、いつまで俺と一緒にいるの。
かわりに言った。
「アンタがいつまでここにいるのか、知らねーけど、ま、いる間はさ、いるんだったら、それは仕方ないって、俺も諦めてるから、その間はさ……」
シンタローが手の甲で鼻先を擦って、少し脇を向くと、眼下に大通りの辺りを、ちらちらと進む小さな灯火が見えたので、あれは誰かが自転車に乗っているのかもしれないと思う。
拾い拾われた時の気持ちが、込み上げてきた。
だから、素直な気持ちになって、シンタローは正面を向き、相手にこう言うことができたのだ。
「ま……仲良くやっていこーな」
「参ったね」
一瞬の間の後。
男は、苦笑したように見えた。
しかしそれは、シンタローが見たこともないような種類の、幾重にも表情の重なった笑いだった。
「あの子と、同じことを言う」
はは、と彼が笑って、空気が揺れた。
また、何処かに残してきた奴のことを、とシンタローが思う前に、視界が塞がれた。
自分の額に鼻先に頬に触れる、男の胸、肩、首筋。ひんやりした体温。
急に抱きつかれたのだ。
「わっ、わぁっ!」
シンタローは驚いて声をあげた。心臓が飛び上がって頬が熱くなって、どうしようと思った。
しかし男が次に囁いた言葉で、シンタローの身体の芯は瞬時に凍りつく。
「抱きしめると、こんな感じがしたよ……その子は、ね」
ぎゅっと包み込まれる。
相手の匂いがしたが、また何処か懐かしさに気持ちが揺れたが、硬化したシンタローの心を溶かすには至らない。
どうして俺は、この男から懐かしさを感じてしまうのだろうと、また思う。
むしろ、その匂いに、誤魔化されてはいけないと感じる。
胸に沸き起こるのは、刺すような痛み。
「ア、アンタはっ……!」
そう大声を出して相手を押しのけてから、ふっとシンタローは声を落とした。
言葉が掠れた。
もしかして。
「……アンタ……俺がそいつと似てるから、俺に……俺に……こんなコト、して……くるのかよ……」
今までの男の行動が、熱いまなざしも、全部、全部、すべてそれで説明がつく気がして、愕然とした。
自分が突き放すと、男は無表情で、こちらを見ていた。
その酷薄な唇が、やがてゆっくりと動く。
「でも君も、寂しいだけなんだろう」
そして再び肩が抱かれて、抱き寄せられて、抱きしめられた。
今度はシンタローは、抵抗しなかった。
抵抗せずに、男の言葉を反芻している。
「君はきっと、寂しいから。側にいてくれるのなら、誰でも良かったんだ」
「……」
「私じゃなくたって、いいんだよね。知っているよ」
「……」
「でも、今は。私のことが好き? 好きでいてくれる?」
「……」
シンタローは、自分の心は、昨日市場で見た硝子細工のように、透き通ってしまったようだと感じていた。
あの無造作に露天に並んだ、青褪めた硝子の壷。濃淡を滲ませ、冷たく輝く。
男の言葉が、シンタローの心に入って、カラカラと乾いた音を立てる。
そして割れる。割れて、かけらの切っ先が、鈍く輝く。
二人の背後で静まり返った街は、それでも点在する灯りに息づいていた。
西の彼方には、黒く広がる空間がある。あの部分だけ、街は死んだようだ。
抱きしめられたまま、男の肩越しに、じっと見つめていると、街がその闇に飲まれていくような感覚を味わう。
その暗黒は、海だった。
昨日見た、海。
男がまた、薄く口を開いた。
抱きしめてくる腕の力を感じながら、シンタローには、こう聞こえたのだ。
この街は、寂しい街だね。
心の海の奥底に沈んだような街だ。
誰の記憶からも、忘れ去られる運命にある街。
そして。
君と私とが最後に辿り着いて……後悔する、街かな……。
シンタローが黙っていたら、
「キスだけ、しようよ」
そんな声が聞こえた。
今は理由付けなんて、いらないよね。
自分の耳の後ろに、男の手が触れてきて、黒髪を弄られて、顎をわずかに持ち上げられた。
無防備に見上げると、相手はその瞬間、瞳を合わせて、ふっと笑った。
そして冷たい唇が重なってきた。
重ねられただけだったから、シンタローの意識は相変わらず透明で、薄目を開けると男の背後には、やはり夜が見えて街が見えた。
街の灯りは、暗闇にちらちらと輝いて、シンタローは海の底から眺める水面の光は、このようなものなのかもしれないと一人思った。
男は唇をそっと押し付けてきているだけで、それ以上深くは進もうとはしなかったが、代わりにその両腕が、優しく、時には狂おしく、シンタローの身体を探ってくるのだった。
シンタローは、無意識に回した手で、相手の背中を掴んではいたものの、じっと身を強張らせていた。
耐えていた。
触れてくる男の手。
その、愛情めいた仕草が、嫌だった。
キスが終わると、二人は黙って部屋に戻って、シンタローはベッドで、男は長椅子で目を閉じた。