さいはての街
「へへ。すっげえ美少年に会っちまってよ!」
シンタローが食卓でそう言うと、男がぼそりと呟いた。
「……ショタコン……」
「なにィ!」
「前々から、そうじゃないかと疑っていたんだけど! はっきり言うよ! 君ね、何だか趣味がおかしい。一緒に歩いてても、美女に振り返るというならわかる。でも君は、子供に振り返るよねえ? しかも金髪がお好みらしい」
「アンタに言われたくねえよ、アンタにっ! 子供見たりするのは、その、べっ、別にそんなヤマしい理由じゃねえよ! アンタみたいな不純のカタマリには、わかんねえだろうがなッ!」
「どうだか。あ〜危ない、危ない。私が年齢若かったら、君に襲われてたとこだった。最近、増えてるんだってね、そういう趣味の人」
「ぐっ……ががが……どの口が……ッ!」
食後になっても、シンタローが手紙を書いている側で、男は皿を洗ったり、朝食の下ごしらえをしたりと、何くれとなく家のことをしながら、しつこく付き纏ってくる。
その美少年の名前は何と言うのだ、どこの誰なんだ、どんな特徴があるのだ、どんな性格をしているのだと、まるで夫の浮気を追及する妻のような調子である。
王子については言ってはならないことだと弁えていたし、口止めもされていたから、唇を引き結んでいたシンタローだったのだが、男の粘着は、止まらなかった。
シンタローのこめかみが、ぴくぴくと震える。
ウザい。正直、面倒くさくてたまらない。
だいたい俺は、少年趣味なんかじゃ、ないっての! と腹を立てる。
あーあ、言わなきゃ良かった。
シンタローは、嬉しいことがあると、ついそれを共有しようとしてしまう性質である。
くぅっ……『美少年に会った』『へえ、それは良かったね』『うん』な会話ぐらいを期待していたのに!
この男に、普通の日常会話を期待した俺がバカだったよっ!
なんでこんな、いちいちいちいち弁明しなきゃなんないんだよっ! アンタの方がヘンタイのくせにっっ!
苛立ったシンタローは、最後には大声を出して叫んでしまった。
「あー! うるさいんだよっ! だから、ちょっと年の離れた弟みたいな感じなんだって。それ以外は、まったく普通の子! 普通の、子供らしい素直な子! なんでもないの! なんでも!」
「本当に?」
弟みたいな感じ、ねえ……と男は嫌味ったらしく、シンタローの口調を真似ている。
何を言っても、男は引き下がらないのだ。
仕舞いには、騒ぎ出した。
「んもう、私は君の好みが気になる! 気になって仕方がない!」
「ムカつくんだよ! どーだっていいだろ、俺の好みなんて! アンタに関係ねえ!」
「関係ないことないよ! 例えばそれによって、私は食事のメニューを変えるよ! それか、私の毎日の装いを変えたっていい! 半ズボンが好きなら、作ってあげたっていい! とにかく私は、一緒にいるからには、ここに厄介になっているからには、君の好みを知って、できるだけ快適な生活環境を整えてあげようと……」
「意味ねえー! 訳わからん理屈をこねるなぁ〜ッ!!!」
しばらく言い争ってからのことだ。
そういえば君が、ずっと身に付けていたものがあったよね、と男が思い出したように言う。
「これをずっと持ってたってことは……例えば、こんな子が好きなんだろう」
そう言って、きらりと輝くものを懐から取り出した。
それは、シンタローが、男が戻ってくる前にずっと持っていた、金貨だった。
「!!!」
シンタローは二重にどきりとした。
金貨に描かれた天使のモチーフが王子だ、ということは周知の事実だったから、その美少年の正体を見抜かれたかと思ったのだ。
しかし、まあ偶然だろうと思い直す。美少年と言っただけなのであるから、彼に真相がわかるはずがないのだ。
それにその金貨を自分が肌身離さず持っていた、ということに対して、ある種の後ろめたさというか恥ずかしさがあった。
男が戻ってきてからも、つい習慣でポケットなどに入れて続けていたりしたのだが、それを気付かれてしまっていたらしい。だんだんとその習慣は立ち消えて、そういえば最近はその存在すら忘れていたような気がする。金貨を持つ理由がなくなったからだ。
……男は、どうして自分がそれを大事にしていたかということを知らないだろうから、これも誤魔化せばいいのだが。
だから、シンタローは言った。
「絵は関係ねえよ……よくあることだろ。いつ何時、金に困るかわかんねェから、用心に一枚だけ持ってたんだよ。悪ィ。使わなかったから、アンタに返す」
男は、じっと金貨を眺めていた。
そしてしばらくしてから、呟いた。
「でも……君はこの天使の顔が、好きだったんだろうね……だから持ってたんじゃないの」
もう面倒臭かった。誤魔化すことができれば、もう何でもいいやという気分になって。
『それもあるかもな』とシンタローは肯定的に返しておいた。
どうして相手が、こんなことに拘るのかが、わからなかった。
急に男は静かになった。
最後に、『君が持っているといいよ』と、またシンタローに金貨を差し出してきた。
部屋のぼんやりした灯りの中で、それはまた、きらりと輝いた。
素直に受け取ったシンタローは、いつか男に絶対に返そうと思いながらも、それを懐に入れた。
そして、久しぶりに手に残る冷たく硬いその感触、輝く色は、相変わらず、男に似ていると思ったのだ。
屋根裏部屋での生活は、相変わらずだった。
だが、変化したことがある。
シンタローが、肩を抱かれても、ぎゅっと抱きしめられても、キスされても、抵抗するのをやめたことだ。
ただ、じっと身を強張らせている。
すると男は抱擁なりキスなりの目的を果たした後、シンタローの頭を撫でて、すぐに離れていくのだった。
二人の関係は、決して先には進まなかった。
そのことをシンタローは有難いとも思ったし、もうどうにでもなれという自暴自棄な思いにも囚われたし、そして、やっぱり俺じゃ駄目なんだろうな、という気持ちにもなった。
男は、本当はもうとっくの昔に記憶を取り戻していて、自分に嘘をついているのではないかとも思い、そうだとすれば自分は、男がその大事な人に会うまでの、ただの都合のいい宿り木なのではないかとも思う。
だからといって、そのことで文句の一つも言うことができない自分は、情けない奴だとシンタローは感じている。
だが何よりも、文句を言いたいと思ってしまうこと自体が、情けない。
こんな風に、堂々巡りの思考を重ねてしまうこと自体が、悔しくてたまらない。
男は未だ、自分の名前を呼ばない。
他に変わったことといえば、男が姿を消す時間が多くなり、シンタローは郵便配達の仕事を再開したことだろうか。
二人が一緒にいる時間は、今ではとても短い。
その他に、おやと思った出来事といえば、新聞紙を整理していた時に、新聞屋に会った記憶のない日付の新聞が、戸棚に紛れ込んでいたことぐらいか。
男が以前に部屋に残した薔薇の花束は、今はドライフラワーとなって柱に吊られている。
その乾いた花弁を見るたびに、シンタローは時間を想う。
みずみずしさもいつかは萎びて、それは思い出となるのだろう。
思い出になっても、それを大事にしていくことができるのならば、それは価値あることなのかもしれなかった。
だが同時にシンタローの心は、男の手に触れるたびに感じる、その例えようのない懐かしさに、警鐘を鳴らし続けている。
この感触は、決して思い出に変わるはずはない、と訴えている。
この男の感触は、シンタローの未来に向かって残る種類のものではない。
過去に向かって――シンタローの過去から、奥底に何か沈殿しているもの。
身体全てを支配しているもの――
その予感だけを肌に感じ、シンタローは今日も不思議な想いに囚われて、男を見つめるのだ。
そうすると、男は、あの熱いまなざしでシンタローを見つめ返してくるのだった。
こうして、短いとも長いとも思える日々は、過ぎた。
ある日、仕事から帰って来たシンタローが、外から部屋の窓を見上げると、また灯りが消えていた。
男が、また屋根に上って街を見下ろしているのかと思った。
だが無人の屋根裏部屋の扉を開けると、ぴったりと窓は締め切られていて、生活用品等が整理整頓されていた。
窓を開けて屋根を見上げても、男の姿はなかった。
その夜、シンタローがいくら待っても、男は帰ってはこなかった。
小さな部屋は静まり返っている。怖いぐらいだった。
木机で転寝をしていたシンタローは、小さな物音に飛び上がって目を覚ましたが、それは鳥の嘴が窓硝子をつつく音であったことに気付く。
朝になっていたのだ。
シンタローは仕事に出て、そして夕方は二人分の食材を抱えて戻り、料理をして、食べて、眠って、また仕事に出た。
何度か繰り返した。何度繰り返しても、同じことだった。
その内にシンタローは、夕食は街の定食屋で済ませるようになっていた。
そして酒を飲む。静かに飲むこともあれば、派手に騒ぐ時もある。
たまに濃い目の化粧をしたそれこそ花売りに、ちょっかいを出されることもあれば、こちらから出すこともある。
そして遅くに、誰もいない屋根裏部屋へと戻るのだ。すぐにベッドに倒れ込むようにして、疲れて眠る。
目覚めれば思い出すことのない夢に、うなされた。
今度こそ、二度と男はこの部屋には戻ってこないような気が、していた。
ある晩、それでも眠ることのできなかったシンタローは、窓を開いて、一人で屋根に上った。
温めのシャワーを浴びたのだが、目は冴えるばかりで、風は、薄い夜着一枚のシンタローには肌寒いぐらいだった。
男と二人で街を見たあの日と同じく、見下ろす夜は、深い。
きしむ屋根石の音は、一人分の体重でも同じなのだと思う。遥か彼方には古城が佇み、街は息を潜めている。
今宵は月が出ていて、白く透きとおるような光が、闇に溶け込んでいた。
屋根西に突き出した小さな煙突が、シンタローに向かって影を作っている。
シンタローは、今夜は素直に、あの夜と同じ場所に座った。
そして、じっと膝を抱え、静けさの中で街を見ていた。
――思い出している。
赤煉瓦造りのそれに、悠然と右肩を凭せかけていた男。
その顔。その瞳。
声。
シンタローは、懐に手を入れて、その感触に目を閉じた。
冷たい。冷たくて、硬い。そしてきらめく。
再びあの金貨がそこには収まっていた。
そっと、その縁を指の腹でなぞっている。
波音混じりの声が、聞こえてくる。
『私のことが、好き……?』
あの時、たとえ嘘でも、肯定していたのなら、この場所には、まだ彼の気配があったのだろうか。
隣にはまだ彼がいて、馬鹿なことを馬鹿な風に、話しかけてきたのだろうか。
少し笑って、腕を回して抱きしめてきて、冷たい唇を寄せてきたのだろうか。
その感触を思い出し、シンタローは、そっと指で自分の唇をなぞった。
すると夜に沈む声。
『でも君も、寂しいだけなんだろう』
『君はきっと、寂しいから。側にいてくれるのなら、誰でも良かったんだ』
あの時、違う、なんて言えなかった。
違う。
俺はただ寂しいだけなんじゃ、ない。
シンタローは、自分の剥き出しの肩を、両腕でぎゅっと抱きしめた。
そうすると、肩が手の平に触れた冷たさを感じて、手の平が肩に触れた温かさを感じて、やがて二つは同じ温度になる。
自分に抱きしめられているのか、自分が抱きしめているのかが、わからなかった。
そして思う。
違う。
俺は寂しいから、あの男にいて欲しいんじゃなくって。
あの男がいないから、俺は寂しいんだ。
『このままこの街で、ずっと君と一緒に暮らしていたいなあ』
そんなこと、思っちゃいない癖に、嘘ばかり。
嘘ばかりだ、アンタは。
嘘つき。
そのままシンタローは、街を見ていた。
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「シンタローさん、今日も牧場に遊びに行くんだべかぁ」
「妬けるっちゃね〜」
「ひょっとして、コレでもおるんじゃないかいのう。ワシらに内緒とは、捨ておけんぞォ、シンタロー!」
「……ええどすなあ……わても羊とお友達になれますやろか……」
路地を抜け、市場を通り過ぎるシンタローに、いつもの顔なじみが声をかけてくる。
慣れきった雑踏。露店。馴染みの人々の顔。
それらすべてを見渡し、挨拶代わりに右手を上げて、彼はいつもの道へと向かう。
不安定な日々を送っていたシンタローだったが、たった一つの心の慰めがあった。
王子や羊飼いの少年と過ごす時間である。
シンタローが王子と会う機会は、急速に増えていった。
王子はあの牧場に来る度に、彼を呼ぶのだ。
郵便配達の仕事を再開した自分の休みに、王子は牧場に来る日を合わせてくれる程なのだ。
権威には、さして頭を下げる気にはならないシンタローであったので、ありがたいというよりも何より、まるで弟ができたみたいで嬉しかった。
緑に包まれる美しい牧場。草はなびき、羊は草を食む。
自分が緑の草を踏む頃には、王子が供を連れて、自分を迎えに来ることまであった。
だいたいの訪問時間は決まっていたものの、遠くからでも自分が近付くのがわかるのだという。
精神感応とは凄い力だなと、シンタローはいつも驚いてしまう。
前回来た時には、離れの調理場に山と積まれていたジャガイモと、鶏小屋の新鮮な卵を使って、スフレを作ってやった。
王子と羊飼いの少年がどうしても手伝うというので、慌てる周囲。
結局、なんだか調理場が、例の警護の猛者たちや静かに佇む老紳士で埋まってしまったりして、滑稽なんだか殺伐しているのか、よくわからないことになって。
暑苦しい。
すでに人当たりのいいシンタローは、彼らとも顔を合わせれば世間話をする間柄であったから、心外きわまりない。
監視なんて、俺ってまだ信用されてねえよ、毒なんか入れないっつーの、とシンタローは内心ムッとしながらも、きゃいきゃいボウルの中身を掻き混ぜている二人の子供を見れば、微笑が漏れる。
『スフレつっても、ジャガイモのは食ったコトねーだろって思ってナ! もっと値の張る材料のなら、いくらでもあるんだろーが』
とシンタローが言うと、日に焼けた腕を突き出して子供が『僕、お兄ちゃんのお菓子大好き!』と叫び、白い腕をした子供が『手伝うのも初めてだよ』と嬉しげに言う。
仏頂面の男たちの視線の中、構わずはしゃぐ子供たちは、あっちこっちで大騒ぎだ。
できあがったスフレは、こんがり狐色の上部から柔らかい薄黄の生地までを、大口を開けてさっくりと一気に歯を立てる。
すりおろして入れた、この牧場特製のチーズの風味が、ふわりと香る。
二人の子供も、それを真似して大口を開ける。かぶりつく。
その品のない頂き方に眉を顰める老紳士――念のためと称してやはり毒見していた――に、シンタローは『ま、庶民の味さ!』と言ってやったのだ。
楽しい記憶。
そして今日も今日とて、のんびりと草を食む羊と一緒に、三人は草原を横切る小川で水遊びをしているのである。
優しい陽光は透き通った水面を照らし、反射した光が淡い黄金のヴェールを描いていた。
川底の丸石はその一つ一つが宝石のように美しく、その間を小魚の影が時折かすめる。
「よぉーし、見てろよ!」
年長者らしく威厳を持ったシンタローの言葉に、目を見開いて頷いている子供たちである。
シンタローの手が、先刻摘んだばかりの、赤く尖ったストロベリーキャンドルの花を握ったかと思うと、その丈夫な茎を、丁寧にナイフの先で裂いていく。
それを小川の清流に浸して、くるっと反り返った所に針金を通すと、花水車のできあがりだ。
石で支えを作ってやると、飛沫をあげて、勢いよく赤と緑の水車は巡り始める。
ズボンを膝までたくし上げて水に浸かる三人は、きゃっきゃとその美しい回転に歓声をあげた。
小鳥が数羽、その頭上を羽根を広げて飛んでいった。
子供たちは、もう何度目だろうか、水の掛け合いを始めてしまった。
それを横目で眺めながら、思案顔をしてシンタローは懐を探る。
そして首尾よくハンカチを見つけ、それを取り出して草の上に広げた。
この花は食用にもなるので、後でサラダに使おうと考えたのだ。持ち帰るための包み布を探していたのである。
しかしこのハンカチは男の残していったものだと、遅まきながら気付いて、一瞬、思考が止まる。
そしてまた動き始めた。
考えるな、俺。
そうシンタローは自分に言い聞かせる。
ちらりと王子がこちらを見たような気がした。
「……」
こんな気持ちは、読み取られたくはない。
想いを振り払うようにシンタローは側に目をやり、丈の長い水草を一本抜いた。
水車にしたように茎にナイフを入れてから、先端を潰し、潰した場所をくわえる。少し草の汁が滲んで、舌に苦い味がした。
草笛である。
シンタローが、そっと優しく息を吹き込むと、高い音色がゆるやかに辺りに響いて、鳥の声と空で混じり合う。二人の子供が睫毛を伏せて聞き耳を立てた。
優しい牧場の光景だった。
そんな時のことである。
ハッと王子が身を強張らせた。
日差しに豊かな金髪がきらりと輝いて、彼は振り返った。
振り返った場所には、警護の男たちがいる。
王子の視線を受けて、男たちの間に緊張が走る。
「油断していた……こんなに近くに来るまで」
流れる水に足を浸したまま、王子は言った。
その横顔は、無邪気な子供の笑顔から、ひどく大人びたものに変化していた。
何が起こったのかわからず、呆気に取られているのはシンタローだけのようで、羊飼いの少年でさえ、真剣な色の瞳をしている。
王子は目を瞑る。
そしてすぐに、その金色の睫毛を開いて、全員に向かって、きびきびした口調で言った。
「西北西の方向、約2km先……僕に、害意を持つ者が接近してきている。数は、4名」