さいはての街
それは、険しい目をした猛獣の群れだった。
先頭を走る数頭が、まるで狼のように一行へと飛び掛ってくる。
動揺しながらも、反射的に王子の前に立ちはだかる警護の男たち。
噛み付かれた腕をなぎ払い、銃身でその白い塊を強打する。
ガツッと鈍い音がして、聞いたこともないような羊の唸り声が、辺りに響いた。
彼らは全身で凶暴化した獣を受け止めながら、必死に叫んだ。
「早く! 早く、お逃げ下さい!」
この事態に、さすがに呆然として白い波を見つめていた王子だったが、その声に、ハッと我に返り、唇を噛み締めて走り出す。
それが守られる者の責務だと、幼いながらに理解しているのだ。
遅れてシンタローと羊飼いの少年も、その後を追った。
薄い色の影を躍らせて、また走る、走る、走る。
背後から迫りくる獣たちは、まるで緑の草原を飲み込む巨大な白津波のように、シンタローたち三人に押し寄せる。
残してきた警護の男たちがどうなったのかは、知らない。
ただ地鳴りと自分たちの足音だけしか聞くことはない。
草深い野を、だんだんに狭く細くなっていく小川に沿って、駆ける。
駆け続けて疲労の溜まった身体に、波は壮絶な圧迫感となって押し寄せて、彼らを苛んだ。
また転びそうになった羊飼いの少年をシンタローが支えると。少年は日焼けした顔に息を切らしながらも、目に一杯の涙を溜めているのだった。
力なく訴えてくる。
「僕の羊が……」
無理もない、とシンタローは思う。
理由はわからないが、普段から慣れ親しんでいる動物に、牙をむかれたのだ。ひどいショックを受けているに違いなかった。
少年は、すでに限界の近付いた真っ赤な顔をして、また掠れる声で言う。
「こんな時に」
シンタローは風を切る中、羊飼いの少年が、飼い犬の名前を呼ぶのを聞く。
こんな時に、僕の犬が側にいたらいいのに。
羊をいつも追っている犬だから、今だって、きっと何とかしてくれたのに、と。
このような非常事態に、一匹の犬がそれを解決してくれるはずもなかったが、シンタローはその言葉を、少年の犬に対する愛情だと解した。
だから、そうだな、と言ってやると、少年はまた目を潤ませて、懸命に走ることを続けたのだ。
犬は、自分たちとは離れた場所で、日課の羊の番をしていたはずだった。
もしかすると、凶暴化した羊の群れにすでに命を落としている可能性もあったのだが、それは今、言うべきではなかったし、そんな場合でもなかった。
その瞬間、シンタローたちの前を走っていた王子が叫んだ。
「お兄ちゃん、後ろ!」
とうとう追いつかれた。
転倒しかけた少年を支えて、その背中を押してやっていたために、シンタローは最後尾にいたのだが。
彼に向かって、白波の先頭にいた羊が飛び掛ってきたのだ。
「クッ……」
シンタローは、咆哮をあげて歯を剥き出しにしてきた羊の一匹を、腕で払った。
羊の目とは、淡い輝きをした優しい黒水晶のようだと、かつてシンタローは思ったことがある。
横向きであるためか、何処を見ているのかさえわからない、吸い込まれるような、その深さ。
しばらく見つめていると、こちらが思わず眠くなる程に、その目は穏やかだった。
しかし今、彼らに襲い掛かってくる羊の目は、飢えた獣の目であり、人間に対する敵意で満ちていた。
シンタローになぎ払われた羊は、派手な音を立てて地面に叩きつけられる。
白い毛の薄くなった灰色の腹を見せて、羊は一回転し、気絶したのか、くったりとした。
「……」
シンタローは、無言で息を吐いた。
彼には、先刻から気付いていたことがある。
巨大な羊の波。
その中でも、このような野生の狼の目をしているものは、ごく一部であるのだ。
羊は群れのリーダーを持たず、互いに互いが平等で争いのない生活を送る代わりに、一頭が何かに反応して走り出せば、他が全てその一頭に追随してしまうという性質を持っている。
いわゆる群集心理が、最も顕著に働く動物であるといっていい。
だからその凶暴化した羊だけを何とかすれば、この波を止めることができるのではないかと彼は考えている。
シンタローは、腹を見せて引っくり返っている羊を、ちらりと眺めた。
よく見れば、羊の尻あたりに、黒い墨のようなものがこびりついている。
それは何か文字のようにも見え、ただの泥、汚れのようにも見えたが、ゆっくり吟味している暇もない。
彼は、意を決した。迫り来る羊の波に、向き直った。
逃げているだけでは埒が明かない。
自分一人ならまだしも、少年たちの脚力、その疲労具合を考えれば、波全体に飲み込まれるのはもはや時間の問題だった。
この辺で、決着をつけるのが正解なのかもしれない。
よぉし、俺が何とかしてやろうじゃねえの。
『お兄ちゃんは大丈夫だよ』『お兄ちゃんは、強いよっ!』
そう言って、余所者の自分を信頼してくれた少年たちに、それは正しかったのだということを示してやろうと思った。
俺のカッコイイとこ、見ておけよ。
だから、目は荒れ狂う羊たちを選別しながらも、お前らは早く逃げろ、と背後の少年たちに声をかけようとしたのだが。
「羊たちを、傷つけないで……」
羊飼いの少年の、そんな小さな声が、耳に聞こえた。
「チ……お前ら、ちょっと我慢してろ」
シンタローはくるりと向き直った。
「わあっ」
「お兄ちゃん!」
舌打ちしたシンタローは、右脇に王子を、左脇に羊飼いの少年をぐいっと抱え上げた。
二人の少年の腹に腕を回した、まるで荷物を持っているかのような体勢。
驚いた羊飼いの少年が、足をばたつかせ、シンタローの意図を読んだ王子は、すまなそうな瞳をして見上げてきた。
シンタローは言った。
「ぐ……くぅっ……おっ、重……くねえ! よぉし、行くぞォ〜!」
火事場の何とやらというヤツだ。
二人を抱えたシンタローは、再び野を走り出す。
流石に重労働で、彼は歯をぎりりと噛み締めながらも、全速力で風を切る。
途中、飛び掛ってくる羊の足を狙って、蹴り飛ばして転倒させる。
ひたすらに走った。
目の前の道はどんどん険しくなっていく。
王子が言った。
「もう少しだよ、お兄ちゃん! 羊たちのお陰で、道順が狂ってしまったけど……この先、小川の最上流に、岩場があるから。そこに行けば……」
羊の草原を駆けるために作られた蹄では、岩場を登ることができないはずだった。
とにかく高所に登れば、羊の追随をかわすことができる。
シンタローは、息をするのに忙しい唇の端を上げて、何とか笑顔のかたちにした。
「お、おし! よぉーし、もう大丈夫だぁ!」
そして、不意に緑の景色が、魔女の肌のような色合いの灰へと変わった。
立ちはだかる花崗岩の肌。
今まで辿ってきた道標の小川は、巨大な岩の狭間へと続いている。
草原の切れ目には、巨岩が幾重にも積み上がった岩場があり、その先には崖が待っていた。
息せき切ってシンタローは、崖の根元、それでも自分の身長ぐらいはあろうかという岩に辿りつき、少年二人をその上に押し上げた後、自分も跳ねて飛び付いてよじ登る。
懸垂のように腕の力で、何とか自分の体重を持ち上げる。
そして平たいその場所に、脱力して仰向けに寝転がり、息をついた。
弾む胸の下で、背中に触れる岩肌は、冷たく心地よかった。
眼下では、追いかけてきた羊たちが岩を登ることができずに、困ってうろうろしている。
何とか助かったらしい。
王子が自分の額に流れる汗を、ハンカチで拭いてくれている。
その白い顔を見ながら、シンタローは、短く断続的に重ねる息の中で言った。
「へっへ。上手いコトいったナ。次は何処行くんだ? ここまで来たからにゃあ、何処へなりとお供してやるよ」
そんなシンタローに、王子は力なく笑って、眼前の岩肌を見上げた。
その目は、十数メートルはあろうかという高さの、崖の上を見ている。
「え。まさか……」
もっと簡単なルートはさっきも言ったように、取り損ねたから、と王子は申し訳なさそうに言う。
ここから行くとすると。
「この崖を、登らなくちゃいけないんだ」
シンタローは、寝転んでいた身を起こし、じっと崖を見つめた。
肌に貼りついた黒髪を、かきあげる。
呼吸を整える。
仕方ねえな、とシンタローは、自分の両頬を平手でパチンと叩いた。
「じゃあここで、俺がお前らに、カッコイイとこ見せるとするか!」
そうしなければならないというなら、そうしてやろうと思った。
「お兄ちゃん、大丈夫……?」
「平気?」
「大丈夫だって。俺を信用しやがれ……ッ!」
「僕たち、自分で」
「や、どー考えても無理だろ。黙って俺に任せとけって!」
たえず雨に晒され風に吹き払われているのか、その岩肌の表面はつるつるしていて、登りにくいこと、この上なかった。
シンタローはそれでも、二人の少年を背負って崖を登る。
少年たちは、シンタローの両肩に各々腕で抱きついていて、腕にずしりとその体重がかかってくるのだ。
シンタローの岩の裂け目にたてる指が震えたが、彼は必死に自分に言い聞かせる。
へッ……俺はこの二人の体重を合わせて、さらに二倍したぐらいの人間を担いで、これよか小っさいケド、崖を登ったことがあるんだっての。
しかも、もっと滑りやすい雨の日にだぜ?
これぐらい、何ともねえ、何ともねえーッ!
だから言う。
「お前ら、しっかり俺につかまってろよ!」
シンタローは、岩に爪と指でしがみつき、両脚と岩肌に押し付けた額でバランスをとって、慎重に少しずつ少しずつ登っていく。
見上げる崖の天辺には空が見えて、自分はまるで空へと続く道に、必死に這いつくばっているようなものだと思う。
繰り返し、繰り返し。
指で一瞬だけ三人分の体重を支えてくれる狭いくぼみを探り、続けて足先を伸ばして、更なるくぼみを探す。
粘ついた苔に指を取られて、身体が滑り、骨がきしむ。
岩の欠片が、音を立てて零れ落ちる。
もしも自分が一瞬でも気を緩めたのなら、と彼は感じている。
三人の身体は、呆気なく墜落して岩に打ち付けられてしまうはずだ。
そのことを思うと、肉体的な辛さの上に本能的な不安が、責任が、彼を襲った。
俺が、すべてを担っている。
「お兄ちゃん……」
すると、心を読んだ王子が、耐え切れずに小さな声で呟いた。
「……ッ!」
なにくそ、と。
その声に、シンタローの心は奮い立つ。
俺は、この子たちのお兄ちゃんなんだ。
頼りになる……すげえカッコよくって、強くって、弟を守る……お兄ちゃんなんだ。
だから。だから、俺は。絶対に、弟を、守る……。
そうさ、俺は、ずっとそう思って……誓って……。
『お兄ちゃん!』
そうさ、俺は……。
……?
心の奥から、誰かが呼びかけてきた気がして、シンタローは一瞬息を止めた。
しかし、その後は何も聞こえなかった。
自分が懸命な意識の中で考えたことにも、ふと疑問を覚えた。
『ずっと』って。『ずっと』って、いつから?
何だったんだろう、と思ったが、今この状況では、これまた深く考える余裕などあるはずもなかった。
シンタローは、渾身の力を、指と腕と脚に込め、崖を登ったのだ。
それは、あと一歩でその頂上へと辿りつくという時だった。
崖の上は平地になっていて、花崗岩は粘土質の土で覆われていて、緑の草が生えているのだとわかった。
シンタローは、残った力を振り絞って、天辺に腕を伸ばす。
泳いだ指先が、小さな岩の欠片を砕きながらも、なんとかその場所にかかる。
やったと、シンタローは思った。
しかしふと、ぴりりと嫌な予感を肌に覚えて、彼は振り返った。
遥か下、自分たちが来た草原の方に、目をやる。
風に、鼻が焦げ付いた異臭を感じた。
口が、言葉を失う。
今度は、炎だった。
空では、いつの間にか太陽は雲の布を纏い、眠っているかのように静かな光を投げかけていた。
地上の様子など知らぬというような、淡いまどろみの輝き。
シンタローの背中で、再び羊飼いの少年が、悲鳴をあげたのが聞こえた。
引き裂かれるような切ない声だった。
緑の草原の中を、周囲を焼き焦がしながら、大きな炎がこちらへと迫ってくるのが見えた。
少年の悲鳴によって我に返ったシンタローは、じっと目を凝らした。
赤い炎の中には、犬がいた。犬の背に、巨大な松明がくくりつけられているのである。
巨大な炎を背負って、崖を目がけて突進してきたのは、悲鳴をあげた少年の愛犬だった。