さいはての街
シンタローの耳元で、また少年が悲しげに犬の名を呼んだ。
巨大な炎となった犬は、崖下で唸り声をあげている。
一緒に暮らした少年のことなど、知らないという風に。
それは親しい形をした、全く別種の、獰猛な生き物だった。
剥き出した牙。背に括り付けられた巨大な松明。
その火の色は赤く、空に向かって立ち昇るのではなく捻れて、うねりのかたちをしたそれ。
火は、犬が空間を突き進む度に、周囲の緑に燃え移り、焦げついた臭気を放っている。
捨て置けなかった。
シンタローは、炎の犬の出現により、崖下で一斉に逃げ惑う羊たちを目の当たりにして、すぐに決断した。
シンタローは、少年二人に、崖の天辺に手をかけたままの自分の身体を、伝って登るようにと言った。一刻の猶予もならない。
「うっ……うっうっう……」
震えながら泣いている羊飼いの少年の身体を、王子が押し上げる。
そして二人の子供は、何とか崖の上まで辿りつき、シンタローの身体は一気に楽になったのだ。
この崖上は、安全な場所だ。
登るために凝り固まった筋肉を、シンタローは軽く捻って、ちゃんと動くことを確かめてから。
彼は、心配そうな顔をした王子に、こう言った。
「じゃ、ここで待ってろ。それと、この子を頼む」
「お兄ちゃん」
「大丈夫だって! 俺の強いトコ、見とけよ」
こんな時間のない時には、まったく精神感応という力は便利なもので。
言わなくたって、俺が考えていることは、王子はわかってくれている。
あの羊たちを、草原に燃え移る火を、自分はそのままにはしておけない。
だからシンタローは、安心させる言葉を言っただけで、ニッと笑ってみせた。
そして岩に立てていた指をはずし、勢いをつけて背後に跳ねる。
見事なバランス感覚で、それまで登ってきたルートを逆に辿り、岩の狭間、窪みを跳ね飛んで、崖を降りていく。
まったく、登るのには苦労したが、降りるのはすぐだった。
最後は大きく巨岩を蹴って、一回転してから、シンタローは地面に着地した。
炎を背後に掲げる犬は、その場所、積み上げられた岩の上に、狼王のように佇んでいる。
その周囲を、シンタローたちを追い詰めていた羊たちが、逃げ惑う。
燃え易い羊毛を焦がし、悲鳴をあげている羊たちの姿。
身を捩じらせ横倒しになって、草原に背を擦り付けて、燃え移った火を消そうとしている。
横目でその様子を見て、シンタローは唇を噛んだ。
不味い。
狂ったとはいえ、何よりもこの羊たちを助けるには、炎の大元を消すしかなかった。
そして眼前の犬――羊たちと同様に操られでもしているのか、その目には野生の狂気をたたえている犬――
見れば、その背にくくりつけられた松明は、犬の背中自体さえもを黒く焦がしているのだった。
このままでは、犬も焼け死んでしまうだろう。
犬のためにも、犬を愛する少年のためにも、何とか。俺が何とかしなければ。
シンタローは、挑発するように犬を睨みつけた。
ふと間近で、その炎の色に対峙した瞬間、シンタローはまた既視感に襲われる。
あの美しい葡萄畑にうねり、緩やかに渦巻いた炎。目の前のそれは、あの時の炎に酷似していた。
ぎろりと犬の狂った瞳が、シンタローを見て、すぐに彼は思索の海から、我に返る。
犬の瞳は、いつもシンタローの脚に体を擦り付けてきた、頭を撫でてやると尻尾を振っていた、あの犬のものではなかった。
大型犬のあの優しい心根。それがどうして。
シンタローは、何をどうするかはわからなかったが、助けて正気に戻してやらなければ、と思った。
だがまず、炎の問題がある。
「……来いよ」
彼は、犬に向かってそう言った。
人間と動物は、互いに視線で牽制し合う。
害意を含んだ視線を浴びたシンタローの意識は、薄紙を剥いだように冴えわたり、戦うためのものへと変化していく。
――俺は。
一分の隙もなく、犬の動きを目で追うシンタローは、頭の片隅で思う。
俺は。戦うことに、こうして慣れを感じている。
戦うことに、言い知れぬ懐かしさを感じている――
犬が一段高い岩の上から、後ろ足で地面を蹴り、跳躍した。
ごう、と巨大な炎が、シンタローを襲う。
「……ッ」
シンタローは、ぐいっと身体をのけぞらした。背中から地面に倒れ込んで、その跳躍を避ける。
仰向けになったシンタローの眼前に、散開した炎の糸が、空一面に撒き散らされていく。
炎は雨のように地に降り注ぎ、草が、野生の花が、木々が、羊の白い毛が、煙をあげて燃えていく。
シンタローの衣服、肌にも火の雨は落ち、燻るそれを彼は揉み消すしかない。
こうしている間にも、どんどんと辺りは赤い炎に包まれ、燃え広がっていくのだった。
時間は限られていた。
シンタローの眼前で、跳躍から着地した炎の犬は、くるりとこちらを振り向き、唸り声をあげる。
逃した獲物に、再度威嚇するように牙を剥く。その行動は素早かった。
炎の塊はまた間髪入れずに、正確にシンタローの首筋を目がけて、飛び掛ってきたのだ。
「……」
今度はシンタローは、避けなかった。
代わりに左腕で上半身を防御し、犬の灼熱の弾丸のような体を、ずしりと受け止める。
犬はそのシンタローの腕に、猛然と噛み付いた。
「ぐっ……」
鋭利な牙が皮膚に突き刺さる痛みと、焼けついた熱。
シンタローは顔をしかめたが、犬に左腕を噛み付かせたまま、彼は残った右腕を伸ばす。
そして犬の背に、炎を吹き上げる松明を結び付けている縄を、渾身の力を込めて、手刀でなぎ払った。
ぶつりと鈍い音をたてて、縄は断たれて弾ける。
巨大な松明は、犬の背を離れ、遠方に飛んだ。空中に火の粉を撒いて、弧を描くようにそれは地面に落下する。
シンタローは、まさに肉を切らせて骨を絶とうとしたのだ。腕をわざと咬ませて、まず炎を消すのが先決だった。
しかしシンタローの腕に喰い込んだ犬の牙は深く、鮮血が流れ落ちて、地に茶色い染みを作る。
身を軽くした犬が、ぎりぎりと牙にまた力を入れた。
シンタローは犬を気絶させようと、後頭部にさらに手刀を繰り出そうとした。
その時だった。
「お兄ちゃん!」
二人の少年を残してきた崖の上から、助けを呼ぶ声がした。
王子の声だ。
シンタローが、ハッと崖を見上げると。なんと、あの羊飼いの少年が拙い足取りで、一人で崖を伝い降りているのだった。
降りる側から、ぼろぼろと岩が崩れ落ちている。
危険な状態。子供の足で、この崖を上り下りできるはずがないのに。
「やめろ! そこで待ってろって言ったろ!」
シンタローは叫んだ。
少年は、自分の飼い犬が気になって仕方ないのに違いなかった。
もしくは、シンタローに噛み付いた犬の姿を見て、それを止めようと決意したのかもしれない。
そしてシンタローが見上げる中、羊飼いの少年は、地上数十メートルの崖の上腹で、足を滑らした。
少年の身体は、意志のない人形のように、あっけなく宙に舞った。
「クソッ!」
シンタローは犬に左腕を噛ませたまま、崖に向かって走った。
すでに犬から切り離された松明の火は、草原に燃え広がり、舐めるような赤色が地を這っていた。
取り返しの付かない状態。
火を消すよりも、少年に気を取られ、彼を助けることをシンタローが優先してしまった結果だった。
彼は、積み上げられた巨岩を跳ねながら駆け、その頂上の岩、堅い岩盤を蹴ると、高く跳躍した。
その重力に耐えかねて、喰い込んでいた犬の牙が、彼の腕から滑り落ちて離れた。
犬は地面に背中から落ち、キャインと初めて犬らしい声をあげる。
その上を、シンタローの身体は跳んだ。左腕の牙跡から、血の雫がまた零れ落ちた。
彼は、空中で、落下する少年を受け止めた。
ダン! と激しい音を立てて、シンタローは地面に着地する。
重力が腕を引き、前のめりになって倒れそうになった所を、さらに身体を回転させて腕の少年を庇って。
彼は、肩から派手な音を立てて、地面に転がった。
散々走った後で、少年たちを背負いながら崖を登った後で、シンタローの筋肉は鉛が詰まったように重く疲労していて、さらには傷の痛みが彼を襲った。
少年に怪我はないはずだった。
ハッハッと荒く息をしながら、シンタローは少年を抱いたまま、身体を丸めた。
苦しかった。苦しさの中で、それでも彼は薄目を開ける。
すでに吸い込む空気は灰に汚れ、熱気が顔をつき、火は一面に広がっていた。
このままでは、草原が火事になる。燃え尽きてしまう。
でも俺には、もう何もできない。見ていることしかできないのか。
彼は、自分の無力を呪った。
悔しかった。無邪気に自分を慕ってくれる、少年たちの力になってやりたかったのに。
火の手に押されながら、身を屈めている羊たちはどうなる。すぐ近くで倒れている犬は。そして俺たちは……。
一瞬気を失っていたらしい少年が、横たわるシンタローの腕の中で、身動きした。
メラメラと揺れる炎は、自分たち二人にも迫っていた。
もう駄目なのか。シンタローは、そう思った。
それは瞬きする程の間だった。
世界を白と黒に塗り分ける、強烈な光が閃いた。
天上から雷の音がした。
豪雨が、辺りを覆い尽くした。
冷たい水が降り注ぎ、みるみる内に、地上の炎を消していく。
まるで夢を見ているようだった。
優しい瞳に戻った羊たちの白い背を、雨粒が弾いていた。
羊の毛は脂質を含んでいるので、雨は彼らの肌にはすぐに浸透しない。
浸透せずに、それは大きな水玉となって、ぽろりぽろりと黒くなった地に落ちる。弾けて飛沫を飛ばす。
呆然としているシンタローと、その腕の中の羊飼いの少年の身体にも、雨は等しく打ちつけた。
雨はシンタローの黒髪をしっとりと濡らし、額を濡らし、喘ぐ胸元を濡らし、傷口を洗い流していく。
急に全身の筋肉が痛み出して、肌のあちこちの火傷がひりつき出して、腕の傷が疼いた。
彼は、黒い睫毛を上げて、視線をずらす。その視線の先には、火の消えた巨大な松明の燃えさしが、転がっていた。
焼け焦げた地表。近くには、気絶した犬の垂れた耳、まっすぐな尾が、微かに震えていた。長めの茶毛に、ひたひたと雫が垂れていた。
よく見れば、その犬の体にも、やはり凶暴化した羊と同じように、何か墨のような模様がこびりついていたのだが。
それも雨と共に、流れて消えた。
崖の上から、王子が自分たちを呼ぶ声が、聞こえていた。