さいはての街

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「今度こそ、ここでちゃんと待ってろよ? 連れて来るから」
「う……ごめんね、お兄ちゃぁん……」
「だから泣くなって。泣かれると、俺の手が滑っちまう」
 雨はすぐに止んだ。空からは、先程の雨が嘘のような日差しが照りつけていた。
 涙目の羊飼いの少年を、崖の上まで送り届けてから、シンタローはもう一度、崖を伝い降りる。雨で滑るのと、腕を怪我しているので、多少は慎重に、である。
 しかし先刻に比べれば、気持ちは軽かった。



 余裕を持てば、崖の岩肌、横向きに細くうねり走る土の帯に、小さな白い花が咲いていることにも気付くのである。
 鼻腔をくすぐる芳香。雨の雫を抱き、やわらかい花弁で控えめな笑みを浮かべている、花。
 傷の痛みも忘れてシンタローはその表情に見惚れ、そして苦笑する。
 まったく心理的状態一つで、自然は人間にとって、苦痛にもなれば美しさにも変わるのだ。
 彼は崖を伝い降りる手を休めて、高所から辺りを見回し、背後の彼方へと目をやった。
 遠くに連なる蒼い山々の峰、その稜線は清く神々しいほどに、澄みわたって見えるのだった。
 空には薄い層をなす雲が、銀色に線を引いている。黄金色の太陽が、その裏側に影を流すように、揺らめいている。
 美しい眺めだ。
 隣国には戦火が迫っていると聞くが、まるでそのことが嘘のように、世界は穏やかに佇んでいた。



 崖下に降り立ったシンタローは、地面でのびたままの犬の茶色い頭に、屈み込んで触れてみる。
 耳が、ひく、ひくと揺れて、髭が震えたものの、まだ気が付かないようだ。
 鼻先が濡れて、冷たかった。目蓋の辺りが動いているのは、夢でも見ているのか。
「仕方ねーなぁ」
 シンタローは、大型犬のぐったりした体を、よっこらしょと背負った。長い毛がまだ水を含んでいるのか、それとも元々の体重か、ずしりと腰に来る。
 あの少年たちよりも重いぐらいだぜと、シンタローは、犬がずり落ちないようにと背を揺すり、腕で固定しながら、そう舌打ちした。世話が焼ける。
 そして周囲を見れば、羊たちは焦げた地を離れ、少し先の緑の草原で、何事もなかったかのように草を食べているのだ。
 炎に毛を焦がしていたものたちも、刈り取り前の厚い毛が幸いしたのか、身体は無事だったようだ。
 メー、メーという平和な鳴き声を聞きながら、どうしてこんな優しい動物たちが、凶暴化してしまったのだろうと思う。
 シンタローは、ため息をつく。
 何にしても、羊たちまで連れて行く訳にはいかなかった。
 後で牧場の者たちを寄越して、集めさせるか。それまでは、ここで草を食べさせておくのが最善策だろう。
 さらに気になるのは、羊の波に飲まれた、警護の男たちの安否であったが、これも今の自分たちには後回しだった。
 侵入者がいつまた王子を襲ってくるかもしれないのだ。早く安全な場所まで、彼らを送り届けなければならない。
 再びシンタローは、犬を背負って、崖を登った。



「……これからドコ行くんだよ」
「僕に、ついてきて」
 崖上からは、枯れた土と岩でできた斜面が続いていた。足場は悪く、油断すれば渓谷が口を開けている。
 歩く。歩けば、シンタローの濡れた衣服は、もう乾いていた。
 緑の野とは成分の異なる、乾いた砂風が、シンタローの喉をざらつかせた。背に犬の重みと温もりを感じながら、そういえば喉が渇いた、と思う。
 王子の金髪が振り向いて、羊飼いの少年に、持参していたらしい水筒を出すようにと言ってくれた。
 まるで俺が仕えてもらっているみたいじゃねえかと、シンタローは思った。
「悪ィ」
 そう、肩をすくめて水を受け取り、一気に飲み干す。
 美味かった。
 少しまた行き、岩の狭間を通り、三人と一匹は、開けた場所に辿り着く。
 ぽつんと寂しげに、それはあった。半ばまで落ちた陽が薄光を投げかけ、鈍く反射する石版。
 野ざらしで命を落とす旅人のために、高原やその行き止まりの岩場には、時々こういう名もなき墓があった。
 よく見れば、ひっそりと木陰に隠れるように、角が崩れ落ちた四角い石板が同じように並んでいる。
 王子が他には目もくれず、まっすぐにその場所を目指して歩くので、シンタローもその背を追う。



 旅の途中で潰えた命が眠る、鄙びた墓。
 シンタローが見下ろすと、その墓石の割れ目には泥が詰まり、苔とシダに覆われて、雨風に晒された証拠に変色していた。
 こうして終わる一生もあるのかと思う。
「何だよ、墓参りか?」
「……ここにね」
 シンタローが尋ねると、王子は初めて辺りを見回してから、右から三番目の墓石の横に屈み、何かしきりにその裏を手で探っていた。
 最初に、カチリ、と音がする。
 その音は、じきに石と石とが擦れるような、鈍いものへと変わっていく。
 シンタローの足元が振動して、砂埃が舞った。石版が、ずれる。
 地下への入り口が、姿を現した。



 侵入者たちの目的は、一体何だったのだろうと、シンタローはふと思った。
 少年たちが慎重に石階段を降りた後、彼は最後に犬を背負ったまま、地下へと身体を沈めていく。
 辺りに人の気配は無い。誰も見ているはずがない。
 色んなことがあって、この場所に追い詰められて。
 結局自分たちは、こうして秘密の地下道に入ることとなったーー



 ひたひたと、肌に冷たい閉塞感が押し寄せる。
「すげぇ……」
 シンタローは唸った。
 その声は、堅い石の空間に触れると、削れて殺がれて細くなって、暗がりへと落ちていくのだった。
 石造りの階段を降りると、そこには薄暗い地下道が広がっていた。その場所は、堅い岩盤を貫いた坑道のようにも見えた。
 所々に明り取りや空気穴がとられているのか、流れる空気は、ひんやりとはしているものの地上とあまり変わらない。
 幅は三人が並んで通ることができる程度、高さはシンタローの背に乗る犬の頭上、約数十センチといった所であろうか。
 目が慣れてくると、十分に隣を行く相手の顔が見える。うっすらと岩肌を舐めるような光が、漏れ込んでいるのだ。
 黙って歩き出す王子に、慌ててシンタローと羊飼いの少年が、後を追う。
 ひっそりとした三つの足音が、寂しげに、狭い空洞に反響して響いた。



 この街にはこうした地下道が張り巡らされているのだという。
 少し歩くと、何度も分岐に突き当たった。分岐地点が近付くと、地下道は壁画に彩られ始め、節目節目には見事な彫刻が佇んでいる。
 その彫刻を確かめて、王子は道を選ぶ。何か、彼にしかわからない暗号でも刻まれているのだろうかと思う。
 諸所の細工に、さりげない意匠が感じられた。そして年月を感じる。
 きっと、長い年月に様々な人間の手が加えられてきたのだろうと思わせる、受け継がれてきた重み。
 歴史の香り。
「……本当なら、この地下道は限られた者しか知らないことなんだけれど……」
 考えを巡らすシンタローの側で、王子が静かに口を開いた。
「でも……こんな状況になっちゃったから。それにお兄ちゃんだから、僕が、責任持つよ」
「?」
 何やら決心したような素振りに、シンタローは一瞬、目を点にしたが、『あ、ああ……』と曖昧に頷く。
 知ってはいけないことを、自分は成り行き上、知ってしまったということだろうか。
 羊飼いの少年が、シンタローを見上げて言う。
「僕もね。ここ、歩くの初めてなんだ」
 シンタローは首をひねり、ひねってから改めて周囲を見回した。



 そういえば、あの郵便局の地下通路も、これに比べればほんの短いものであったが、同じ造りをしているなあと思い返した。
 シンタローの素人目には、よくはわからないが、天井石の削ぎ具合、柱石の四角い形が、似ているような気がした。
 すると王子がそのシンタローの思考に、答えて言う。
「主要道以外は、公共機関に下げ渡して使用許可を出してあるんだって。公共機関の長は、だいたい一族の関係者が担っているから……地下水道に繋がっている部分もあるよ」
 へえ、と思いながら、シンタローは小男の局長の、冴えない顔を思い浮かべる。
 なんつーか、ホントに微妙な王制っつーか、一族が支えてる国なんだな。その跡取りの少年。
 それから王子は、しばらく黙ってしまったので、シンタローは彼を観察する機会を得た。
 すっきりした目元には気品が漂っていて、金色の眉毛が美しく柳葉を描く。
 青い目は静かな色をたたえていて、肌は白く、練り絹を思わせる。
 そして漏れる僅かな光にも、輝く髪、金の糸。薄い唇に、意志の力。
 シンタローは、やはりあの金貨の天使に似ていると思う。
 そして……反射的に、その元の持ち主だった男を。思い浮かべようとして、シンタローは。
 だめだ、だめだと慌てて首を振る。
 心を読まれてしまうこの状況では、あの男のことは考えたくはなかった。
 それでなくても――考えたくはなかった。
 しかしシンタローは、一つのことに気付く。
 ……あれ。
 でも……この顔……王子の顔……。
 どことなく、あの男にも似てるんじゃ……金髪碧眼だからかな。
 不意にお兄ちゃん、と王子の声が聞こえて、シンタローのとりとめのない思考は中断された。
 何か恥ずかしいことを晒してしまったような気がして、ドキリと胸が鳴った。
 しかし見上げてくる相手の目が、真剣な色彩を帯びていたので、シンタローも表情を引き締める。



「なんだよ」
 静寂の中でそう返すと、羊飼いの少年を助けてくれてありがとうと、また王子は言った。
 そして続ける。
「お兄ちゃんは、僕が……」
 その声は、暗く狭い地下道に、ぽつんと跳ねて消えていく。
 手で掴もうとしても、言葉は闇に消えていく。
 この空間を歩いていくのは、自分たちだけなのだと、今さらになってシンタローは意識する。
 互いの存在が、自分という存在の糧。寂しい空間。頼りない自分の鼓動。
 幼い声が、心に滲むように聞こえた。
「僕が、助けてほしい時。あんな風に、守ってくれる……?」
 何を今さら、と思う。
 シンタローは王子を見たが、彼は必死な目をして言い募る。
「僕も、助けてくれる?」
 俺の心が読めるんなら、聞かなくたってわかるだろ、とシンタローは感じたのだが、少年は不安なのだろう、確かな言葉が欲しいのだろうとも了解した。
 それに王子は、この逃走劇の間にも、ずっと優等生のように、振舞っていたから。
 こうして心を開いたように、自分に頼みごとをしてくれるのが、ひどく嬉しかったのだ。
 だから、笑って、大声で言ってやった。
 声が、わんわんと反響して、シンタローの背中の犬が、びくっと跳ねた。
「あったり前だろ! お前が嫌だって言ったって、俺はお前を無理矢理にでも守ってやるよ。何、心配してんだ」
 そして、ぐしゃぐしゃとその柔らかい金髪を撫でてやった。
 すると高貴の少年は、子供っぽく、えへへと笑ったのだ。



 ――どれぐらい歩いたのだろうか。
 地下道はうねり、特に先刻からは傾斜が続いていて、幼い脚には酷であろうと思う。
 疲れ切った少年たちの足取りを見て、シンタローはまた二人を背負ってやりたいと感じたが、自分の背中にはあいにく先客がいる。
 犬は一向に目を覚まさない。時折に鼻を鳴らしたり、ふがふが息をしているが、眠ったままだ。
 なんだこいつ、まぁだ幸せな夢、見てやがるのか、とシンタローは呆れた溜息をつく。
 仕事熱心な牧羊犬であるはずなのに、こういう時は横着な犬だと思ったが、背の温もりを感じて、同時に可愛くも思う。
 さっきはスゲェ目つき、してたなぁ……こいつ。
 今はもう、羊たちみたいに、元に戻ったんだよな、きっと。
 だってこんな幸せそうな寝息、たててやがる。
 おい、良かったな。
 おい、どこだから知らねーが、目的地に着いたら、ちゃんと目ェ覚ませよな……?
 そうシンタローが、心の中で犬に語りかけていると、先頭を行く王子の、『もうすぐだよ、見えてきた』という声が聞こえて、シンタローは、そういえばこの心の声も彼に読み取られているんだなと、赤面する。
 だがもう今さらだと思い直し、頬をごしごし擦りながら、何でもない振りをして、王子が指差した先に視線を遣った。
 ひんやりした水の冷気が、鼻をくすぐった。
 終点にあったのは、水、だった。



 暗い路の行き止まりには、青々とした水が、巨大な地下水槽に揺れていた。幅は数十メートルはあるだろうか。深さは知れない。水の色で推し量るのみだ。
 貯水槽は煉瓦とセメントで作られているらしく、巨大な長方形、その角は石で装飾されている。煉瓦は赤紫色に焼けていた。
 水を循環させるためであろう、大きな管や水路が配置されている機能美。
 水面を前にして、シンタローが見上げれば、天井は高く半円形の曲面を描いていて、天辺近くには、アーチ型の黒窓までついている。
 壁にはもはや坑道とは異なる、装飾性の高い細道が伸びていた。細道は上りの傾斜になっているから、ここから地上へと続いているのであろうか。
 この場所は、何処かの貯水地、その地下に違いなかった。
「もしもの時のために、ここに雨水を集めておくんだ。飲料水にも消防用水にもなるから」
 周囲を見回しているシンタローに王子はそう説明すると、『さあ、やっと着いた』と、その細道を行こうとする。
 シンタローは、当然『どこに』と聞いた。
 王子は、『中庭に続いてるんだよ』と見当違い気味の答えを返してから、『ああ』と彼らしくもなく、失念していたという風に言葉を重ねた。
 安堵感が少年の顔を包んでいた。彼は、少し照れくさそうに、笑った。
「お兄ちゃん、僕のお城に、ようこそ」









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