さいはての街

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 なんだか、大変なことになった。



 まず、地下の貯水地を出て、内城壁に囲まれた中庭に足を踏み入れた瞬間からして、ぞっとしなかった。
 シンタローは、どかどかとやってきた大勢の兵士に囲まれた。
 やっと地下道の閉塞感から解放されて、ほっと息をついた所であるのに、この仕打ち。
 すでに外界では、とっぷりと日が暮れていて、宵闇の中での物騒な詰問に、シンタローは心底げっそりした。
 中庭、といってもこの場所は外郭に程近い位置にあるようで、華やかな想像とは遠く、木材や備蓄燃料、その他細々としたものが隅に積み上げられていた。
 貯水池の黒門の他は、殺風景な空間が広がっている。古風なかがり火が燃えている。
 ここが、あの、いつも街から眺めていた城の中なのだろうか。
 シンタローが、兵士に構わずきょろきょろ周囲を見回していると、夜風に吹かれて、やっと目を覚ましたのか、彼の背で寝こけていた犬がワンと鳴く。
 彼は、やれやれと犬を背から地面に下ろしてやる。
 すると犬は嬉しげに狭い中庭を走り回り、羊飼いの少年もひどくはしゃいで、シンタローがそれを見て笑うと『何を笑っている』と兵士の詰問が糾弾へと悪化し、さてどうしようと首を捻っている所に。
 大柄な兵士たちの肩越しに見える、茶色い屋根がついた防護回廊を、王子の金髪が走ってくるのが見えて、シンタローは捻った首を元に戻した。
 何だかいかにも偉そうな顔をした、偉そうな髭を生やした、偉そうな服を着た中年男性を背後に連れている。
 周囲の兵士たちが緊張して背筋をただし、一斉に敬礼をする。
 目の前で王子に、師団長だよと軽く紹介されて、シンタローは、はあと頷いて、とりあえずは初対面であるから、挨拶をした。
 相手は挨拶を返す代わりに、手を伸ばしてきたので、シンタローは握手をするのかと自分から手を出したのに。
 その手を取られて、凄まじい握力でガシッと握られて、シンタローは再び、今度は師団長とやらによる精神感応の吟味を受けたのである。
 この中年男性は王室の一族に繋がる者であるらしい。
 まぁだ俺は信用されてねーっ!
 シンタローは憤慨したのだが、
「ごめんね、お兄ちゃん。これは、しきたりだから、僕にもどうすることもできないんだ。この城に入る時には、絶対に師団長のチェックが必要なんだ」
 そう、王子がすまなそうに言うので、彼としては憤慨を飲み込むしかない。
 王子にならいいけれど、こんなオッサンに手ェ握られたって全然嬉しかねーぜ、と心の中で毒づくと、目を瞑って精神感応を続けていた相手に、片目を開けてギロッと睨まれた。
 怖い、怖い。
 その後、ようやくシンタローは正式に入場を許可されたのである。



 その後すぐに、知らせを受けて慌ててやってきた家来たち、それになにやら、やんごとない雰囲気の人々に、王子たちと離れ離れにされてしまう。
 一人通された部屋に、居心地悪げにシンタローがちょこんと座っていると、しばらくして馴染みの老紳士がやってきて、夕食の乗ったトレイを持ってきてくれた。
 そして珍しくもシンタローに、よくぞ王子を守護してくれた、と褒め言葉を言った後、だいたいの事件の顛末を説明してくれたのである。
 結局、潜入者の正体もその目的も、はっきりとはわからなかったと老紳士は言った。
 急に空腹感に襲われたシンタローは、勢いよく白パンにかぶりつきながらも、その話に、まめに相槌を打つ。
 牧場に潜入してきた四人は顔を隠しており、警備の男たちや援軍の兵たちを撒いて、逃げおおせてしまったのだという。
 その時に一人目立つ大男がいて、彼がおとりとなって攪乱工作を行っていたというのだが、他は何もわからない。
 何らかの方法で王子があの牧場にいることを突き止めて、誘拐を狙ったのではないかという推測しか、成り立たなかった。
 王子の居場所を知っていたシンタローは疑われる立場にあったのだが、こんな時は心を読まれるということは都合のいいことで、後ろ暗い所の有る無しはすぐに知れてしまう。
 それに彼には、二人の少年を庇って逃走を手伝ったという功績がある。
 警護の男たちには、羊の波に飲まれた者も含めて、軽い骨折程度の怪我人しかいないということで、これにはシンタローは安堵した。
 あの羊たちも、あれから、ちゃんと牧場の者が集めてくれたらしい。
 夕食を平らげて、疲労から眠気に誘われつつも、シンタローが王子と羊飼いの少年のことを聞くと、老紳士は、声を潜めた。
 王子はシンタローをここまで連れてきたことを、かなり咎められているのだという。



 そして翌日にはシンタローは、王子付きの近衛兵になってしまうのである。
 身分上がそのような扱いになったというだけで、その職務内容は、王子の護衛。付き添い。何だかどうやら、話し相手。
 王室の秘密を知ってしまったからには、そのままにしておく訳にはいかないというのが、その理由であり、何より王子の強い希望があったらしい。
 話が決まるまでは、一晩を部屋に押し込められていたシンタローだったが、朝になって再び老紳士が現れて、満面笑顔の羊飼いの少年と犬もやってきて、その上に王子までやってきて、何だ何だと所在なさげに頭を掻いていたら、その話を切り出された。
 シンタローは意外なことに戸惑い、まず郵便の仕事はどうしようと思った。
 それから地下道で見た、王子のあの必死な瞳を思い出した。
 『守ってやる』って。俺……約束したし……な。
 急な話だが、なりゆきに身を任せるしかないのかとも思う。
 牧場であんなことになった以上、王子があの場所に再び出向くことは難しそうで。
 そうなれば今度は自分が城に来るしか、これから王子に会って、『守ってやる』という約束を果たす方法は、なさそうだった。
 でも余所者をいいのかよ、とシンタローは逆に心配をしたが、よく考えてみれば余所者の何が信用されないかと言えば、身元が不確かで更にはその信条が不鮮明だということである。
 この一族には、精神感応によるチェックが可能であることから、その問題はすでにクリアされていると考えているのかもしれない。
 きっと自分の過去や心は、かなりの部分まで探られてしまっているのだろうと、シンタローは今更ながらに考える。
 しかし精神感応とは、なんたる力か。国防面でも利用価値が高いのだ。
 仮にスパイが潜入しようとしても、すぐに排除できるということだ。
 まったく便利な能力である。思えば思うほど、この一族の力が、辺境の小国をこれまで支えてきたのだろうという気持ちが濃くなる。
 シンタローには後ろ暗いことも特別な思惑もなかったし、ただ王子たちを守りたいと思っているだけであるから、多少の留保はつけながらも適格であると判断されたのであろう。
 それに何と言っても、郵便局の立て篭もり事件で街の有名人となり、有力者たちに名を売ったのが、決め手となったのだとは、後から聞いた話である。



 ただ、城勤めの近衛兵となると、当然、城内の詰所に生活の基盤を移さなければならない。
 これまで住んでいた場所を引き払うようにと、そう当然のごとく言われて、その言葉を反芻したシンタローは、返事をしかけて、頷きかけて、途中で『え……』と言葉に詰まった。
 あの屋根裏部屋を、出ろということなのだろうか。
「え……、そ、それは……」
「何か問題でも?」
 シンタローへの事情説明を一手に引き受けているらしい、老紳士が眉を上げる。
「いや……問題って……つーか……」
 言いよどむシンタローに、部屋隅で、犬の頭を撫でていた王子がつかつかと歩み寄ってきて、老紳士に向かい合った。
 何か助け舟を出してくれるらしい。
「ダメだよ」
 王子は可愛らしい声で、そう言った。
「だってお兄ちゃんには」
 シンタローは、何となくレモン水ばかりを飲んでいる。やけに喉が渇いた。
 すうっとする味がして。うん、美味いけど、蜂蜜をもっと入れるといいかもしれない。
「お兄ちゃんには、好きな人がいるんだから」
「ぶっ!」
 思わずシンタローは、口に含んでいた飲み物を噴出した。
 慌てて立ち上がる。
「いっ、いねーよ! ナニ勘違いしてんだっ!」
「えっ、でもね、それでその人を待ってるんだよ! だからいきなり部屋を引き払えっていうのは可哀想……」
「うおおおお!!! そっ、そんなの、今すぐ部屋なんか引き払うっつーの! あんな部屋、どーでもいい! マジでどーでもいいっての! おーよ、近衛兵にでも何でもなってやろうじゃねぇの! きっちり住み込みでナ!」
「お兄ちゃん、落ち着いて!」
「じゅ〜ぶん、落ち着いてます! じゅ〜ぶんな!」
 興味津々な羊飼いの少年の視線を無視して、シンタローはまた、テーブル上のレモン水をガブ飲みしたのだ。



「……おい。ドコまで読んでるんだよ……俺の中……」
「え? 大丈夫だよ。僕、プライバシーには配慮してるから!」
「配慮ってな、おい」
「具体的に詳しいことは、まだ」
「まだって、お前!」
「王子をお前呼ばわりするとは! 許しませんぞ!」
 突然に割り込んでくる老紳士。
 なんだかんだで結局、シンタローは基本的には城内に寝泊りし、非番の日には屋根裏部屋に帰るということで決着したのだ。



 何だか、とんでもないことになってしまったぞと。シンタローはとりあえずは城から開放されて、一人、街に戻る。
 荘厳な紋章の彫られた城門を出て、跳ね橋を行き、山城特有のうねる砂利敷きの狭い道を行きしてから、しばらくして振り返って、ああやっぱり、いつも見ているあのお城だったんだなと他人事のように思う。
 小高い地に佇む古城は、その白い優美な姿で、街を見下ろしていた。



 街に入ると、人々の温度はいつもの馴染み深い喧騒で、シンタローを包んでくれる。
 シンタローは、市場を行き交う人々に、視線をとられた。しばらく、目で追っていた。そしてふと気付くと、弾かれたように駆け出した。
 路地裏を抜けると、赤煉瓦の花壇がある建物。緑と茶の蔦が這う、古ぼけた壁に、そっと指で触れる。乾いた音がして、蔦が崩れた。
 その外面についた細くて長い螺旋階段を、彼は早足で上る。すぐに最上階に着く。
 シンタローは勢いよく扉を開けた。
 蝶番が高く鳴って、窓から静かな光が、少し痛んだ床板に差し込んでいるのが見えた。
 誰もいない屋根裏部屋。三日程、留守にしてしまった。
 シンタローは念入りに部屋を調べたが、何の形跡もなく、家具も台所もすべてが自分が家を出た時のままだった。
「……へッ」
 シンタローは、男が残して行ったソファに、荒っぽく、どすんと腰掛けた。
 藍のベルベッドが彼の体重を受け止めて、その鈍い輝きが、やわらかにしなる。
 シンタローは、わざともう一度、乱暴に座りなおした。
 ぎいっと、ソファが悲鳴をあげた。
 彼は、天井の斜めの勾配を眺めていた。



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 シンちゃん、聞いたよ。なんだかお城から声がかかったんだってね、きっとシンちゃんが男前だからだよ。いやそれは関係ないでしょ、シンちゃんの実力だよ、強くて優しいんだから、やっぱりシンちゃんはただ者じゃない、そこに一番最初に目をつけたのはあたしさね、いやあたしよ、俺だよと、さすが市場は噂が広まるのが早い。
 表向きには、シンタローは郵便局の事件を解決したことで局長に推挙されて、城に上がったということになっていた。
 馴染みの奴らも、祝ってくれたのである。
「わあ、さすがはシンタローさんだっちゃわいや〜! 新聞で宣伝したかいがあったわいや!」
「きっとお城にもシンタローさんの活躍が、耳に入ったんだべ! オラも鼻が高いべ〜」
「ガハハハ! ついにやったなぁ、シンタロー! ぬしゃあ、デキすぎる!」
「ククク……つくづく要領ええお人は、上手いことしはりますなあ……」
 薄ら笑いを浮かべている古着屋に、シンタローは、お前の店には何かまともな服はないのかと、尋ねてみた。
 軍服は支給されるというが、これからは私服も気を遣わない訳にはいかない。
 そんな聞き方をしたのは、常々、古着屋のセンスには疑問を感じていたからだ。
 初めは素っ気なかった古着屋だが、案の定、だんだん変な熱が入ってきたようだ。
 露店の裏から、ごっそりと服を取り出してきては、薦めだす。
「これもおすすめどす! シンタローはんに似合いますえ〜 いや〜これ……は、あきまへん! これはあかん! これは地味すぎどす! 服は個性主張の大切な道具どす! ほや、これがええわ! これで黙っていても人気者!」
 どれもこれもが、金銀ラメ入りだったり妙な模様が入っていたりで、怪しい雰囲気。けばけばしい。
 こんなの着たら、俺はどこの変身ヒーローだと疑われちまう。
 少年たちは意外に喜ぶかもしれんが……。
「……やっぱ、いいわ……」
 頬をひくつかせて去ろうとするシンタローに、古着屋は追いすがる。
「ッ! 待っておくれやす! 安うしときまっせ! シンタローはぁん!」
 結局シンタローは、古着屋が出した内で一番地味な古着を、極限にまでまけさせて、購入したのだった。



 郵便局を辞めることになり、同僚たちが酒場でささやかな慰労会を開いてくれた。
 あの郵便局立て篭もり事件を解決した時に、有力者たちにシンタローは話をして回ったものだが、それが良かったのだろうと、気のいい同僚たちは肩を叩いて祝ってくれた。寂しくなるな、と目を細めてくれる。
 乾杯をし、グッとジョッキの生ビールを飲み干したシンタローだが、何だか申し訳ないなあという気持ちと、感謝の気持ちが交互に襲って、始終、彼は笑顔を唇に乗せていた。
 二杯、三杯と酒が重なるにつれ、皆はだんだん饒舌になってくる。
 いやあ、シンタローは凄い、なかなか近衛兵なんかになれるものじゃない、出世したなあと言う者もいる。
 かと思えば。
「やっぱり戦争が近付いてるんだな……お城の兵を増やすなんて」
 誰かがそう言った時、一瞬辺りが静かになって、すぐに全員が一斉に喋り出した。
 この平和な街においても、今一番の関心事は、当然ながらこの話題だった。
 ガンマ団、という言葉が誰かの口から飛び出した。情勢に疎いシンタローも、勿論その名前は耳にしたことがある。世界的な軍事組織であるのだとか。
 危険な超国家主義を抱き、集権的独裁による世界政府を目指す。強大な軍事力と政治力を保有し、今も各所で侵略戦争を繰り広げていると聞く。
 しかもその支配は、年々拡大しつつあるらしいと。
 対岸の火事、程度にしか考えていなかったシンタローだったが、その手がついに隣国に伸び、ついにはこの国にまで及ぶのではないかというのが、常に繰り返される話の中身だった。
 だいたいどうして、こんなさしたる産業もない小国を狙うんだ、何の利益にもならないないじゃないかと一人が言うと、別の一人が、あいつらは狂ってやがるから、利益じゃない、支配すること自体に憑かれてるんだと、吐き捨てるように言う。
 世界中の国を征服して、てめえのものにしようとしてるんだ。
 でもお城がちゃんとしてるから、大丈夫さ。なんたってあの力があるんだから。大分前にも同じようなことがあったけど、その時は追い返してやったじゃないかと、意気揚々と言う者がいるかと思えば、でもあの時はあっちもこの国を甘く見てたのさ、今度は万端の準備を整えて来るだろう、現に周辺全ての国を落してから攻めてくるつもりじゃないか、あの軍勢で本気で攻められたら終わりさ、等と悲観的な意見を口にする者もいる。
 すると一番年配の者が、なんにしろ、あの軍団も変わったよ、俺の若い頃は、ずっと昔はここまでじゃなかった、まったくこうなったのは総帥が代替わりしてからだ、物騒な時代になったもんだと嘆息して切り出して、若者たちはそらまた昔話が始まるぞと、耳を塞いだ――
 その総帥の名は、マジック、と。
 それが最近のこの街で、飛び交う名前だった。



 盛んにすすめられたが、ほどほどに抑えて後半は食べる側に周り、酔いの回った同僚を介抱して、家の近い者にしっかりその身を預けてから、ほろ酔い気分でシンタローは外に出た。
 多少なりとも責任ある立場になるのだから、以前のように酒を過ごす気には、ならなかった。
「……」
 彼は夜空を見上げる。闇に星がきらめいていて、冷たい夜風が頬を打った。
 シンタローは、ぱちぱちと黒い睫毛で瞬きをして、それから、歩いた。長い髪が、ふわりと靡いた。
 勿論これ以上酒を飲む気はなかったが、このまま、あの屋根裏部屋に帰るのも嫌だった。
 週末で、大通りから一本北に入ったこの通りは、立ち並ぶ酒場にたむろする人影は絶えず、あちこちから笑い声、はたまた泣き声が聞こえてくる。
 シンタローはその夜のざわめきの中を、一人歩いた。
 戦争が始まれば、この街の息吹も消えてしまうのかと、漠然と思う。
 お城は大丈夫だよ、大丈夫だよって、みんなは言うけれど。
 これから……どうなるんだろう。そんな微かな不安が、胸を掠めていく。
 シンタローには一対一で戦うことには自信があったのだが、どうも多数対多数、国としての戦いというものは、ピンとくるものではなかった。
 しかも自分は、城の兵になってしまったというのだから、まさに戦う当事者であるはずなのに。これではいけないんだろうなと、それだけは感じている。
 俺は、戦うんだ。
 その、攻めてくるらしい軍隊と、マジックという総帥に対して。
 そう気合を入れて念じてみても、何だかな、と彼は思う。
 シンタローには、手当たり次第に国を侵略するというその神経すらも理解できなかったし、いくら敵だと言われても、会ったこともない人間には憎しみも持てようはずがない。
 どうしても、戦争、という実感が湧かなかった。これが若いということなのだろうか。



 夜目にも目立つ赤い木看板が見えて、シンタローは行きつけの小さなカフェで、コーヒーでも飲もうと思う。
 その店はコーヒーが美味いので有名なのだが、生憎それを入れているのが頑固爺ときて、これも説教じみた古い戦争の話をされるのを嫌って、客足自体は悪い。
 シンタローはそれでも、今夜はまあいいかと思った。重ねて昔の話を聞くのも、悪くない。
 少し感傷的な気分になっていた。
 オープンテラスはすでに閉まっていて、シンタローはカフェの古ぼけた扉を開けようとしたが、通りの向こうに人だかりができているのに気付いて、そちらへと目を遣った。
 耳に音楽が揺れていた。
 辻では一人の女が、花模様の入った小振りのハルダンゲルバイオリンで、なめらかに民謡を奏でているのであった。
 しかしその事実をシンタローの頭は理解したものの、目はいつまでも、演奏する彼女を取り巻く人込みを、追っていて。
「……」
 そんな自分に気付いて、彼はまた瞬きをした。
 そして悔しげに空を見上げたが、目の前の道をまた幾人かが通り過ぎて、彼の目は再びそれを追った。
 自分の動作に呆れたように、彼は溜息をつき、それから爪を立ててぎゅっと拳を握りしめる。
 ……俺は……探している。
 そのままシンタローは足を止めて、立ち尽くしたまま、しばらく民謡の調べを聴いていた。
 4本の弦に加えて5本の共鳴弦を持つこの楽器は、どんな曲を弾いても、音が震えて半音が重なって、悲しい音色になる。
 音色は、緩やかで静かに、哀愁を帯びていた。
 民謡とは、長い年月の中でその地の民に溶けこみ、自然に定型化していくもので、人々の心そのものであるのだという。
 誰が作曲したということのない、楽譜を持たないメロディ。
 それは通りすがりに足を止める人々の心を、繋いで一つにして、何処か遠い、意識の還る場所へと、さらっていくかのようだった。
 シンタローの黒い瞳がぼんやりとして、霞んでいって、彼はずっとこのまま、この街に一体化したまま、自分は朝を迎えることができたらいいのにと思う。
 そうして朝を迎えれば、自分は目覚めても一人ではないのだ。
 このまま俺は――
 その時、人込みの背後を掠めた影に、シンタローはハッと意識を引き戻した。



「!」
 自分の目が、見覚えのある姿を捉えたのを、シンタローは感じていた。
 その姿は、すぐに隠れて視界から消えた。
 認識する前に、身体がまず動いていた。
 シンタローは、その人影に向かって駆け出した。










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