さいはての街

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 シンタローは人影を追う。
 人込みをかき分け、幾つもの背中と肩にぶつかり、それでも残像を追った。
 通りの石畳を駆け、何度も曲がり角の路地を覗いた。
 積み上げられた酒樽の陰で、いちゃついていた男女に胡散臭げに睨まれ、残飯を漁っていた野良犬に唸られて、それでも彼の目は探すことをやめなかった。
 冷たく固い石畳の街を、海の底に沈むような街を。
 彼は、駆ける。駆けて、ひたすらに追いかけるのだった。
 追いかける――
 消えそうな絆を、追いかける――
 突き当たり、最後の路地でシンタローは、目を大きく開けた。
 そして自分に背を向けて、静かに空の月を眺めている背中に、声をかけた。その人影は、ゆっくりと振り向いた。
 いつか見た、花売りだった。



 明るい髪の色をした、まだ少年とも青年ともつかない綺麗な顔をしていた。
 男が最初に消えた時、その直前のことだろうか。自分が屋根裏部屋に帰ってくると、男が彼と話していたのを、シンタローは覚えていたのである。
 花売りの腕の籠には、薔薇が幾本か入っていた。
 長身のシンタローよりはずっと小柄で、きつめの眼差しが印象的だった。
 酔っ払いや夜の女を相手に、花を売って生計を立てているのだろうか。
「……何か」
 そう尋ねられて、シンタローは言葉に詰まった。
 このまま『人違いでした』と謝って去ろうとも思ったが、しかしそれでは彼を追った意味がない。
 あの男に繋がる、最後の手がかりかもしれないのに。小さな可能性でも無駄にはしたくない。
 迷った末に、シンタローは口を開く。
「あの、あのさ、知ってたら教えて欲しいコトがあんだ……前に。あんたから花を買った……買わなかったかもしんないけど……えっと、まあそういう感じの……」
 シンタローは、場所と男の外見的特徴を説明する。
 そして、『俺はその男を、捜してんだ』と最後まで言い切ってしまってから、かあっと赤くなった。
 目を伏せて思った。
 ――やっぱり俺、捜してるんだ……。
 ――追いかけているんだ……。



 花売りは、知らないと言った。
 当然だった。
 一日に何人声をかけるかは知らないが、そんな行き摺りの人間を、花売りが覚えているはずもなかったし、その行く先を知っているはずもない。
 それなのに、この花売りの影を追いかけてしまった自分は、何なんだろうと。
 それどころか、時折この花売りのことを思い出しては、悩んでいた自分は、なんと馬鹿だったのだろうとシンタローは、深く落ち込んだ。
 すると、
「……怪我、されてるんですね」
 そんな声が、シンタローの項垂れた頭にかけられる。
 視線を感じて、シンタローは包帯の巻かれた腕を『? あ、ああ』と、所在無さげに振った。
 あの凶暴化した犬に噛まれた傷は、城で手当てをしてもらったが、まだじくじくと痛むのだ。
 相手が自分の腕に視線を注いだままなので、シンタローは居心地が悪くなる。怪我なんて、珍しいのだろうかと思う。
 しかし、そもそも最初に声をかけたのが自分であるために、このまま立ち去るのも憚られるのだ。
「ちょっと、見せてもらってもいいですか」
 シンタローが返事をする前に、彼の腕は、花売りにとられてしまった。
 有無を言わさぬ様子だった。
「えっ、おい」
 あっという間に、包帯がくるくると、やけに手馴れた動作で解かれてしまう。
 紫色に腫れた牙跡が外気に触れて、ちくりと痛んだ。
 相手はシンタローの傷を詳しく検分して、事務的なきびきびした様子で言った。
「酷い傷ですね。どうなさったんですか」
「ん、ちょっと犬に噛まれて、さ」
「病気の心配はありませんか」
「いや、大丈夫だと思うけど……てか、あんた詳しいの? なんでここまで」
 どうして花売りはこんなことを聞いてくるんだろうと不審に感じたが、すぐに花売りが籠から取り出した物を見て、合点がいった。
「化膿止めと炎症止めです。薬も商っているんです」



 なんだ、商売か。
 シンタローの呆れた顔に、相手の無表情とも見える唇が、少し笑った気がした。
 そして言った。
「……と、薬を売りつけようと思いましたが。でも何だか貴方の顔が、悲しい表情をしているから。差し上げますよ」
「えって、おい、いいって」
「いいですから、少し大人しくして下さい」
 見るからに年下の人間に、大人しくして、と言われるのも慣れないことだったが、どうしてかシンタローは抵抗できなかった。
 この花売りには、妙な強制力を伴うオーラが出ているぞと、シンタローはちょっとビクついた。
 花売りは、白い薬をシンタローの傷口に塗った後、これも手際よく包帯を巻き直し、先刻よりも綺麗な結び目を作ってしまう。
 あっという間の出来事だった。
 そして、最後に小さく言った。
「あまりお酒を過ごされませんように。心配される方が、いますから……」
 街の灯りの中に、去り行く背中を見ながら。
 シンタローは、市井の花売りにしては丁寧すぎる物腰と、その言葉が、気になったのだった。



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 当初は環境の変化に戸惑ったシンタローだったが、順応性に富んだ彼の性格は、やがて城勤めにも馴染んだ。
 近衛兵の銀灰色をした軍服も支給されて何とか格好がつき、身の回りの品も与えられた詰所内のスペースに持ち込んで、人心地もつく。
 シンタローの扱いは、王子付きという特別なものであったため、通常の衛兵の時間枠からは外されていたのが、気楽といえば気楽であった。
 王子が呼ぶと――大概呼ばれるのだから、もはやシンタローの方から出向いている――話し相手を務め、羊飼いの少年たちと一緒に、庭の散歩や城内を出歩くのに付き従っている。
 流石に遠出は控えていたから、王子は幼い遊び心を持て余し気味で、尚のことシンタローへの呼び出しが増えるという訳だ。
 今まで王子の側についていた物騒な男たちも、城に入れば、同じ銀灰色の軍服を着た近衛兵だった。
 衛兵の中でも選び抜かれた精鋭だという。
 末席ながらも同僚となってみれば、気のいい男たちで、シンタローがわからないことは、親切に教えてくれた。
 ぶっきら棒な者や無口な者はいたが、付き合ってみて肩を落すような者はおらず、シンタローはそのことを王子に感心しながら言ったものだ。
 この城のヤツらって、みんないいヤツばっかだな、と。
 すると王子は答えた。
 師団長は――どうやら王子の傍系、何かの叔父にあたるらしい――、近衛兵を選抜する時に、そういうのも見てるんだって。だからお兄ちゃんも選ばれたんだよ、と。
 それを聞いてシンタローは、複雑な顔をして肩を竦めたのである。



 余談ではあるが、シンタローには、王子の親族と会う機会はほとんどなかった。
 だんだんに彼にも事情がわかってきたのだが、一族間には能力故の軋轢があるようで、精神感応者と一般人が付き合うことはできても、精神感応者同士が付き合うことは、なかなかに難しいらしかった。
 さらに知った事実は、一族自体の人数が、極少数であるということ。能力を持つ一族はごく直系に限られていた。
 街の噂には、能力者は小隊を結成できるほどにいて、敵の一個師団をも、さも無敵のサイキックであるかのように翻弄するに違いない、というものまであったが、それは無理な話だった。
 この噂も、今まで王室は、他国への牽制として利用していたのかもしれないとシンタローは思ったが、国の事情、国家間の事情は、彼にとっては重大事ではなかった。
 ただ、王子が何かの折に『お父様もお母様も、僕をあまり好きじゃないんだ』と漏らした言葉が、胸に突き刺さっていた。
 ますます彼は、俺が王子を守ろうという意識を高めたのだ。



 当然、シンタローも戦闘訓練には参加した。
 この平和な小国にも軍隊は存在するのだが、近衛兵であるシンタローが配属されたのは、守備隊の方である。
 シンタローが初めて知ったことの一つに、この国は防御のために、地下を最大限に利用しているということがある。
 この国の地下道は、三種存在している。
 一つは王室と一部の者しか知らない、地底深くを行くもの――これは先日、王子やシンタローが通ってきたもの――で、主に一族の緊急時の避難経路として使われる。
 次に、ごく短い、浅い部分の通路。これは公共機関や一部の民間が使用する。
 最後に、同じく浅く、しかし城下である街全体に網の目のように張り巡らされた地下通路。
 これは下水道にも通じているが、戦闘時に使用される。
 過去の戦争では、この三番目の地下道を使って、官民一体のレジスタンスが行われ多大な功を奏したらしい。
 地下道を使用するゲリラ戦が、圧倒的な武力に対抗するための最終手段だった。決定的な被害を与えることはできなくとも、強者の消耗を誘い、撤退を選択させることができた。
 これが、精神感応と並んで、この国をこれまで持ち堪えさせた要素だった。
 訓練はひそかに、地下で行われた。



 一応この時期は、シンタローには少ないながら非番の日もあって、彼はその度にあの屋根裏部屋に帰ったのである。
 そして誰もいない部屋で、一人時間を過ごした。



 今、屋根裏部屋でシンタローは、父親に手紙を書いている。
 戦争が本格化すれば郵便も止まるだろうから、常にこれが最後かもしれないと感じながら、書いている。
 もう習慣になっているので、無意識にペンはすらすらと動く。まるで自動書記のように。すべてはおぼろげで、さして頭に残らなかった。
 ただ、習慣だから書く。ただ自分は父親に手紙を書いているという意識だけが、彼の脳裏に浮かんでいる。
 シンタローは、唇を舐めた。インクが切れたのである。紙面も尽きた。
 だから、常の通りに彼は新しいインクを出してきて、壷に注いでから、さらに別に棚から取り出してきた小瓶を傾け、もうほとんど無くなった蜂蜜色の液体を垂らしてかき混ぜた。
 そして水に浸してあった薄紙を乾かし、二重に貼り付けて注意深くペンを走らせる。そうすると、書いた文字が乾いて消える。ただの無地の紙切れになる。
 何故かこの作業を、シンタローはやらねば気が済まない。几帳面だなと、我ながら思う。
 この街に居を構えて以来、ずっと続けていた習慣だった。



 ペンは滑り、文字が流れ、やがて乾いて消えていく。
 郵便配達の職に就いていた時よりも、最近は時間がかかる。
 街の構造や地理、要所、人心の記述よりも、城の複雑な内部構造や訓練内容を緻密に書いていくのは、難しかった。
 特に、先日の地下道の位置などは、シンタローにはあまり絵の心得はなかったので、骨が折れた。
 定規や分度器を使って苦労したあげく、数枚に渡る図面になってしまった。



 手紙を書き上げると、シンタローは今度は棚から普通の便箋を、散々迷った挙句に取り出した。
 もう一通、別の手紙を書こうとしたのだ。
 何度か紅茶を入れ直して、木椅子に座ったり立ち上がったりすることを繰り返す。
 それからペンを持って、まず宛名を書こうとして、自分はあの男の名前も知らないのだと気付いた。
「……」
 シンタローは、自分が城に寝泊りすることになったということ、非番の日や街に出た時は、この場所に必ず来るということを、書こうとした。
 必ず、俺はこの屋根裏部屋に来るから。
 しかしその後に何と続ければよいのかが、わからない。
 何度も、何度も、書き直した。
 やっと書いたが、それは素っ気ないもので、シンタローはほとほと自分が嫌になった。
 事実のみを伝える数文で、これをもし男が見たならば、『だから何?』と感じるに違いなかった。
 見たならば……だったが。
 以前に感じた、男はもうこの部屋には二度と戻らないだろうという直感は、未だシンタローの心に続いている。
 ――また書き直そう。だから、とりあえずは。
 シンタローは自分が留守にする時は、この手紙を机の上に置いておこうと思った。



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 隣国が陥落したという知らせが入った。一斉に城は緊張の度合いを高めた。
 王室はこれまで通りの外交路線を貫こうとしたが、敵軍総帥のマジックは従来の交渉経緯をすべて無視した。
 彼は、この国の武装解除を目的とした武力行使を行うという声明を発表し、それが国際法上の開戦正当事由にあたるとした。
 この国にとっては完全な言いがかりで、明らかな侵略戦争だった。
 しかし国際社会で何の力も持たないこの小国に、それが主張できるはずもなく、飛ぶ鳥を落す勢いの軍事組織に盾突こうとする者もあろうはずもなく、援軍も国際世論の援護も望めずに、この国は孤立した。
 強者に刃向かえば、次の犠牲者は自分だというのが世の常だった。
 追い詰められた状況の中で、ついに一方的に全面降伏を迫る最後通牒が、この国に突きつけられた。



 国中に厳戒態勢が敷かれた。
 城は、街に避難命令を下した。
 住民は、城の外郭に居を移すようにとするものである。
 街は騒然とした。



 荷車に家財道具を積んで走る人々の後姿が、あちこちで行き交った。
 市場の露店は解体され、その骨組みや布、樽や木箱が乱雑に転がっていた。
 黄色い砂埃。生活の残骸。人々の名残。もうあの賑やかな喧騒は影を潜め、悲しみの声と怒号が響いていた。
 紐を解かれて主人に見捨てられた犬が、不安な瞳であちこちを探している。
 人々は空ろな瞳をした巡礼者の群のように、重い足取りで城に向かった。俯く女たちが巻いているスカーフが、風に吹かれて舞った。
 普段は騒がしい子供たちが、不思議な顔をして周囲の大人たちを見回しながら、大人しく手をひかれていった。
 もはや他国へ逃げることも叶わなかった。
 敵はすでに周辺諸国を支配下に置き、陸海空路の包囲と封鎖を行っていた。橋や道路は遮断され、全ての貨物搬入の禁止処置がとられた。
 人々は、この事態の急変に驚愕した。ここまで状況が進行しているとは、誰もが考えなかったのである。
 誰もが驚き、慌てふためいていた。
 敵軍の侵攻手口は異例の速さであったため、外国に亡命の準備をしていた裕福な一部の層でさえも、対応が間に合わなかったのだ。



 こうなれば近衛兵も王室の警護ばかりをしている訳にはいかない。
 その任務には、混乱する人々の統率と、避難しようとしない人間への説得工作が割り振られた。
 シンタローは主に後者を命じられた。
 元々、シンタローは郵便配達の仕事をしていて、この街の人々の情理に通じていたから、適任といってよかった。
 この国では、王室は強権的に専制政治を敷いていた訳ではなかったから、城の命令だとはいっても拘束力のない勧告ぐらいにしか考えていない者も多い。実際、城には強制力を発動する意志はない。その手間は、今は他に注ぐべきだった。
 特に高齢者、そして血気盛んな若者に、避難命令に従わない者が多かった。
 住み慣れた家を離れることを拒む老人の家を、シンタローは足を棒にして歩いては、避難を勧めた。
 顔なじみの間を回る。
 過去、シンタローが配達でヘマをすると、ステッキを振り上げて怒っていた白髭の頑固爺が、家族の制止を振り切って、一人家に頑張っていると聞いて、飛んで行って説得した。
 話を聞いてはくれるものの、なかなか首を縦には振らないその老人は、つとシンタローから目を背けて、窓の外へと目を遣った。
 その視線の先、窓枠には、小さな餌箱がついていた。
 老人はそれを見て、誰ともなしに、『……毎朝来る、鳥に餌をやる者が……おらんくなったら困る』と呟いたのだった。
 さらに説得に手こずるのは、若者の方である。
 市場の仲間たちときたら、こうだ。
「ああ〜ん? 避難じゃとぅ? ワシをナメるなぁ、シンタロー! 血が騒ぐわい!」
「だっちゃ! 僕ぁ、残って取材報道をめざすわいや! これが記者魂ってやつだっちゃ!」
「だべなあ。オラも皆と一緒におるべ。城さなんて、どぉーも窮屈そうで性に合わんべ」
「ククク……すっかり権力者の犬になりはりましたなぁ、シンタローはん……」
 先の戦争でも、敵はレジスタンス、住民の地下抵抗運動に手を焼いたというから、その武勇談を再現してやると話す、彼らの鼻息は荒かった。
 戦うのであれば、城の志願兵に応募すればいいと言うと、いや、城には入らず、ここで自分の力で戦うのだと意固地になっている。
 何にしろ、毎日来て説得を続けようと、シンタローは思った。
 まだ未熟な自分には実感がないとはいえ、危険があるなら、その危険を少しでも避けて欲しかったし、命を大切にして欲しかった。
 彼は、この街の人々が、好きだった。



 その日も遅くまで、シンタローは街を駆け回っていたのだ。
 郵便配達をしていた時よりも、駆ける量は多いぐらいかもしれない。汗の流れる額、腕をまくり首元を緩めたこの格好では、軍服の威厳もあったものではなかった。
 夕陽はとうの昔に西の空に沈み、辺りは夜の色に染まり始めていた。
 シンタローは、駆けていた足を止め、ゆっくりと立ち止まった。
 息をつく。
 美しいエン麦の畑が雑木林に囲まれ、黒い輪郭の中に揺れていた。辺りは静まり返っていて、時折、ロバの鳴き声が夜風の音に混じって、また消えていった。
 ここは街の南部、農家が多い地区で、避難を拒む人間が一番多い場所だった。
 畑の耕作、また家畜は連れて行く訳にはいかないという事情があるからである。
 今、シンタローは、最後まで残るという一家族を説得し、せめて子供と奥さんだけでも城に、という話をつけてきた所だ。
 だが一家の主の方は、自分だけは、どうしても残るといって聞かなかった。
 城に寝泊りしてこの地に通えばいいとはいっても、畑も家畜も生き物である以上――主はこういう言い方をした――何が起こるかわからないのであり、ひとたび起これば、それはこれまで一家が築き上げてきたものを反故にすることになるのであるから、受け入れることはできないと。
 それは尤もな言い分で、シンタローもそれは痛感していたから、いつまで経っても議論は平行線のままだった。
 城は民に避難命令を出しはするが、そのために逸失した財産の保障まではするはずもないのだから。



 シンタローは、また息をついた。
 その息は、彼に篭る熱をわずかに逃がして、夜はその熱をわずかに受け止めて、そっと滲んだ。
 夜のしじま。人の気配はなかった。まだ青い麦の香りが、彼の心に染みる。
 白く輝き始めた月だけが、この無人の田園風景を照らしていた。
 明かりのともる家は、シンタローが先刻訪ねた家のみで、来た道の先に、漁火のように遠くに見えた。
 ……本当に戦争が、始まるんだろうか。
 彼は心の中で、そっと呟いている。
 ……人が、死ぬんだろうか。
 ……風景は、焼かれるのだろうか。
 ……この街は……どうなるのだろう。
 問いを、繰り返す。
 この静けさは、誰も侵すことができないものに、思われるのに。



「……」
 くるりとシンタローは踵を返し、街の中心部に続く道へと向かおうとした。
 数軒だけ残った飲み屋の何処かに寄って、そこでくだを巻いているだろう市場の若者たちに、もう一度煩く言ってやろうと考えたのだ。
 足元では、青い花が闇に咲いていた。花の香。
 その時だった。
 不意に身体が動かなくなって、背後から襲われたのだと気付いたのは。



 何も見えない。
 目隠しをされて、腕で拘束されているのだった。
 不覚をとったと思った。この自分が。
 シンタローは叫んだ。
「誰だっ!」
 そして身を捩るが、拘束はびくともしない。
 後ろ蹴りを放とうとするが、上手くいかなかった。
 焦るシンタローに、低い声。
「相変わらずの、きかん坊だ……坊やのために、一つこんなお話をしてあげようか」



 背後から大きな腕を回されている。
 その冷たい体温を感じて、シンタローの身体の力が抜けた。匂い。感覚。
 しかしシンタローは、繰り返す。
「だ……誰だ……」
 声は答えず、静かに積み重ねられていく。
 鉛の海が、白い波を刻み続けるように。ただ、淡々と。
「ギリシア神話の時代のことだ……生贄に身をやつして、ね。怪物の巣食う迷宮に向かう男に、恋人が赤い糸を渡した。これで私とあなたは繋がっているのですよ、と告げて」
「誰なんだよ……」
 シンタローは、自分の声は震えていると感じた。
 他の言葉を紡ごうとしても、言葉は喉の奥に詰まったまま、決して出てこようとはしないのだった。
 耳に響く声が。シンタローを、壊れた機械仕掛けの人形に、変えてしまう。
「男は女神の宝刀で、無事に怪物を倒し、赤い糸を手繰って迷宮を脱出して、恋人の元へと辿り着いた……」
「だ……誰なんだよ……誰なんだよ、アンタ……」
「君の赤い糸につながれた奴隷さ」
「ふざけるなッ……ぁ……」



 耳元に唇が押し当てられる感触がして、その感触が囁いた。
 シンタローは、暗闇の視界の中で、さらに目を閉じた。
 固く閉じた。
「私は……君がこの迷宮の街を、城を、国を……巡って巡って巡って、いつか出会う……消されても消えない糸を手繰り寄せて、君が記憶の迷宮を彷徨って、その最果ての瞬間に、出会うことになる……男」











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