さいはての街
月の下では麦畑は緩やかに波打って、足元の花はその薄い花弁を、白光に透き通らせているのだろう。
しかしシンタローの暗闇では、麦の青い香りがしただけで、青い花の香りがしただけで、さわさわと風が世界を揺らす気配を、彼は感じ取ることができるにすぎなかった。
虫の音が控えめに鈴を振る。星の瞬くような音がする。麦畑のさざ波が聞こえる。
塞がれた視界が、圧倒的な支配力で、シンタローに押し寄せる。
今――シンタローの身体を、最も間近で包み込んでいるのは、あの匂いだった。
匂いとはつまり、シンタローが肌で感じる感触のすべてだった。
シンタローの両目を、背後から覆う大きな手の温度は、ひどく冷たい。
冷たくて、いつか凍りつく硬質を思い起こさせた。
だけど、甘い。どうしてか匂いは――甘い。
しかし苦しかった。甘さに惹かれながらもシンタローは、心を動かすたびに、針で突き刺されるような痛みを感じている。
本能が惹かれ、本能が拒否している。
シンタローの心を震わせる感触とは、頭脳での理解を超えた、身体だけが反応する、狂った知覚のカオスであるのかもしれなかった。
最初に出会った時、シンタローはその感触を、何処か懐かしいと感じた。
二度目に出会った時、思わず泣いてしまった。
そして、これは三度目の出会い。
その感触は、痛みを交えながらも、シンタローの心を捉えて、放さない。
鋭い刃の爪が、心を鷲掴みにして、放さない。
身体が、ふわりと浮いたと感じた。
シンタローの足は、簡単に地面から浮き上がって、彼は自分が抱きかかえられたのだと知った。
次の瞬間、自分の頬は風を切っていて、束ねられた黒髪が夜になびいていて、壊れた機械仕掛けの人形となった身体は、もう為すすべがないのだった。
俺は何処かへと連れ去られるのだ、と頭の隅で、意識が囁く。
――俺は。
そして動かない身体は、じきに投げ出される。
その背に柔らかさを感じ、耳にさくりという乾いた音を感じ、こんどは鼻に爽やかな香りを感じたのだ。
シンタローは、仰向けで息をつく。自分は押し倒されていた。
上から覆い被さってくる人肌の弾力と、下から優しく受け止める、乾燥した弾力。
目隠しをされたままのシンタローの顔を、繊維質が撫でた。身をよじると、乾燥した音が鳴る。
これは干草の香りだ。麦畑の側に建っている、干草小屋に引っ張り込まれたのだと、シンタローは気付いた。
するとすぐに目隠しが外されて、その推測は正しかったのだということがわかる。
薄暗がりには、夜が立ち込めている。
徐々に目が慣れてくる。
木小屋はひどく狭く、隅に燃料用の丸太が置かれている他は、太陽の輝きを含んだ干草ばかりが、子供の背丈ほどに一杯に積み上げられているのだった。
自分は、そのやわらかい干草を積み上げた場所に、埋もれていた。
一つだけある明かり取りの粗末な窓からは、白い月の光が漏れ込んでいた。
窓には木枠がついていて、年月を経て緩んできたのか、傾いた釘が、一本飛び出ているのが目に付いた。小さく光を弾いていた。
しかし、この瞬間にシンタローの黒い瞳を捉えて放さないのは、あの男の姿だった。
「……ッ」
その像が目に映った時、シンタローの意識はそれを拒否して、抵抗して、抵抗して、さんざんに抵抗した。
それなのに男の姿は否応なしに、圧倒的な力で心にぐいぐいと滑り込んでくるのだった。
抵抗の果てに、ついに意識が男を認めた瞬間、シンタローの顔は、ふにゃりと歪みそうになった。
鼻がつんとして、感情が込み上げてきて、溢れ出しそうになった。
しかし彼は、それを阻止するために、慌てて口を開けて、それから怒涛のように捲くし立ててた。
そんな自分に、呆気に取られた。
男に向かって、叫んでいた。
「ア、アンタ! こんなトコで何やってんだっ! 戦争が始まるんだぞ!」
我知らずシンタローは怒っていたのだ。
そして、怯えていた。
彼は叫びながら、自分の舌先が震えているのを感じている。
「何で避難しないんだよ! アンタわかるかよ? あのな、戦争が始まったら! 戦争が始まったら……ここは」
それまでのシンタローにとって、戦争とは遠い国の出来事でしかなかった。
人々を説得しながらも、どこか実感が湧かずに、頭での理解を、心に擦り合わせようと努力してきた。
若年故にか、戦争という恐怖は、どうしても抽象的なものでしかなかったのだ。
「どーしてこんな所、フラフラ出歩いてんだよっ! 危ないだろっ! ここが戦場になったりしたら! 戦場になったりしたら、アンタ、アンタって、どっか暢気にしてるから、絶対……」
だが、この時初めて。
「何かあったら……くそ、平気な顔しやがって……! アンタに何かあったら……!」
シンタローは、戦争を具体的に意識した。
この男が巻き込まれて、死んだりしたら。
そう考えただけで、怖くなった。
戦争というものに、恐怖を感じた。
「アンタ、俺と一緒に来い! 城に避難すんだ! 早く! 早く、立てよ! 何ぐずぐずしてんだっ!」
シンタローは、自分の身体の上にいる男に、懸命に訴えた。
上半身を起こし、とにかく口を動かして、怒鳴りつけた。
相手の表情は変わらなかったが、構わず喋り続けた。
勢いに任せなければ、シンタローには自分の取る態度さえもが、この男の前ではわからなかったのだ。
相手の無表情。自分の募る激情。
空回りする。俺はまるで、夜空の月に向かって吠え立てる、馬鹿な野犬のようだ。
月の冴え冴えとした輝きの中で、静かな男の顔は、氷の彫像を思わせた。
すると、
「黙って」
そんな囁き声が耳を打って、シンタローの身体は、ビクリと震える。
そして動きを止めた。喋るのを止めた。突然の静寂。
意図的にそうしたのではない。男の声を聞くと、自然に身体がそうなってしまったのだ。
「黙って。大人しく、じっとしていて」
男は青い瞳をして、そう小さく言った。
次の瞬間、正面から身体が包まれた。
シンタローは、自分の起こした上半身が、ぱたんと音を立てて、干草に沈み込む音を、聞いていた。
男に再び、押し倒されていた。相手の重みを感じていた。体を感じていた。
「少しの間だけでいいから……私に、匂いを感じさせて。熱い体温を感じさせて。お前を、感じさせて……」
「……ッ」
シンタローの顔は、強い腕で男の胸に押しつけられていて、甘い干草の香りに混じって男の香りがして、自分の身体は動かなくて、ぞくぞくと背筋が震えて、それは抱きしめられているということだった。
大人しくしてと言われるまでもなく、シンタローの身体は抱きしめられただけで、もう指先すらも自分の意志では動かせないのだ。
だから、そのまま身を固くしていたら、大きな手が、優しく頭を、髪を撫でてくる。
ときどき愛撫するように冷たい唇が、シンタローの額を眉を目元を睫毛の先を頬を鼻筋を、そっと探ってくる。
シンタローは目を瞑った。呼吸を止めようとしたが、身体が動かないのに、不思議に自分の息は乱れてしまうのだ。
相手が、手で、唇で。そっと触れてくる度に、小さな声が自分の口から漏れている。
恥ずかしいと思った。
しかし、そう感じると、シンタローの肌はますます熱くなった。
このままどうなってもいいと、そう感じた。
男が、今度は、シンタローの唇に口付けてきた。
吸い付くように、男の唇とシンタローのそれが、ぴったりと重なった。
すぐにシンタローの唇が開かれて、整った歯列が割られて、舌が絡み合う。
シンタローは、自分の取った行動に驚いた。
積極的に、男の侵入を迎え入れている自分。
伸ばす舌先。触れ合って、切なくなる。
背筋が震える。俺は馬鹿だ。
男の冷たい唇。最初は優しくなだめるように、あやすように。そして徐々に荒々しく。
自分を求めてくる男の舌を、シンタローは懸命に吸った。
赤ん坊のように無心でたどたどしく、稚拙なシンタローの仕草。
それに男は煽られるように、ますます唇を深くしてくる。
シンタローの眦には、涙が滲み、首筋を飲み込むことのできない唾液が伝い降りていく。
黒く艶のある長髪が、干草に絡まり、乱れていく。
呼吸ができない。苦しい。そして――甘い刺激に、痺れていく。
身体の芯が、じわじわと痺れて、シンタローは自分はこのまま溶けていくのだと思った。
ぼんやりとした意識の隅で、もうだめだと思った瞬間。
不意に男が、唇を離した。
「……んっ……」
シンタローは、暗い天井に向かって、熱い息を吐いた。鼻にかかった声が漏れる。
互いに身体を重ね合ったまま、荒い息をついている。
やがて男が指を伸ばして、その濡れた眦に優しく触れてきた。
そしてシンタローに体重がかからないように、わずかに身をずらしてくれた。
シンタローの頬を、男の金髪がくすぐった。
それからまたしばらく、二人は無言で、間近で、互いの息だけを聞いていた。
干草が、かさりと揺れた。壁板が、ぎいと鳴った。ひどく粗末な小屋だった。
それを照らす月の光は、闇を覆う白いヴェールのようだった。
くったりとした体から、力を振り絞って。
シンタローはまた、小さく唇を開く。
激しい口付けの後で、その声は掠れて、きっとよくは聞き取れないだろう。
「……戦争……が……」
だが、男はシンタローの耳元で、そっと返事をした。
男の声もまた、掠れているのだった。
「ああ……」
「戦争が、始まるんだよ……」
「わかっているよ……」
そう呟くと、男は、またシンタローの身体を強く抱きしめてきた。
この街からは、人の気配が消えつつあった。
活気は掻き消され、笑い声は去りゆく後姿に代わった。
白い石畳には、人々の足音ではなく、風の音と生活の残滓が舞う。
呆気ないものだと思う。
人々を街から城に逃がしながらも、シンタローは自分が取り残されていくという、言いようのない感覚に襲われていた。
だが、もし、街のすべてが消えてしまっても。
最後に自分が感じるのは、この男の息遣いなのだろうと、今、シンタローはぼんやりと感じている。
以前、シンタローはこの街を、海のようだと感じたことがある。街のささやかな灯りを眺めながらのことだ。
自分たち二人は、小舟に取り残された漂流者のようだ、と。
相手の名前も知らないのに、自分はこの男と出会った。
人気のない海では、ずっと波の音が聞こえていて、そこでは自分は、この男と体を寄せ合わなければ生きてはいけないのだった。
でも、たった二人しかいないのだけれど、それでも一人ではないのだ。
誰でもいいんじゃない。俺は、この感触がいいのだ。
――この男がいい。
夜の街は静まり返っていた。
ただ、風が麦畑を揺らすうねりの音が聞こえていた。
寂しい夜だった。
寂しかったが、孤独ではなかった。
互いの体温だけが、縋るよすがだった。