さいはての街

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「私を拾ってくれたんだね」
 シンタローがまた駆けて医者を呼びに行って、連れて帰ってきて、長々と診察と話を聞いて、詰まる所は様子見ということになって。
 二人きりになってから、しばらくして、男はそう口にした。
 はいともいいえとも言えず、シンタローはどう答えていいのかわからず、ただ座った木椅子をキイキイいわせて、ベッドに起き上がった男と窓の外を、交互に見ていた。
 男の彫りの深い顔はランプの灯りで陰影がついていて、窓の外、夜の色は暗く深みに落ちていた。
 不意に気付いて、シンタローは立ち上がる。
「あ! アンタの懐に入ってたモノに、何か手がかりあるかもしれねーぜ!」
 窓際の茶色い棚の上に、手付かずのまま置いてあったのだ。
 手触りのいい上等の布でできた袋。
 シンタローが指を差すと、男がまるで見知らぬもののようにそれを見たので、側に寄り、手に取ろうとしたが、慌てたせいか生地のせいか、それはシンタローの手から滑り落ちた。



 初めに、重く床板が呻く音がして、次に袋の口が弾け、高い硬質の音が部屋中に転げた。
 部屋の橙色の光を反射して、美しいきらめきが、あちこちで跳ねる。
 見たこともない数の、たくさんの金貨。
「う、うわ、何だよこれっ!」
「……」
 シンタローが一ヶ月まるまる働いても、やっと銀貨数枚分になるかどうかだというのに。
 つましくてもそれで一人が生活していくには十分な金額だった。
 この男は、一体どんな種類の人間なんだろうと思いながら、シンタローは散らばった金貨を拾い集める。
 すると男もベッドから降りて、拾うのを一緒に手伝ってくれた。しゃがんだ肩と肩とが、触れ合った。
 シンタローは、少し気になって、指に金貨の重さと冷たさを感じながら、その表面の天使のレリーフをなぞりながら、聞いてみる。
「なあ……もう体、大丈夫なのかよ?」
「ああ。大分いいよ。ありがとう、看病してくれた君のお陰だね」
 やけに近くで男の低音が聞こえて、何となく俯いてしまう。
 ふうん、良かったなと、言葉に余り感情を込めることができなかった。
 男には自分の衣服を貸してやっていたが、こうして眺めると、腕も脚も少し丈が足りないのがわかって、微かにムッとした。
 結局、男の所持品には、身元を具体的に示すようなものは何もなかった。



「手紙を書くの?」
「親父にな。心配性で、書かないとダメなんだよ……ってアンタ、熱が下がっても薬飲んどけよな。食後三十分以内!」
 ローリエを入れて鶏肉を柔らかく煮込んだポトフと、平目とチーズで焼き物を作って、二人で夕食をとってから。
 シンタローはまた、父親に手紙を書いた。
 棚から取り出してきた小瓶を傾け、蜂蜜色の液体をインク壷に垂らしてかき混ぜる。水に浸してあった薄紙を乾かし、二重に貼り付けて注意深くペンを走らせる。
 何故か、自分はこの作業をやらねば気が済まない。几帳面だなと、我ながら思う。
 男はそんなシンタローを、黙然と見守っていた。



 男が、自分の方が床に寝るというのを押しとどめて、シンタローは床に毛布をひくと灯りを消し、その堅い感触の上に寝転がる。
 丈夫な性質なので、何ということもなかった。
 暗い闇。自分は目を瞑る。
 だが、
「……眠れないのかよ?」
 しばらくして、男が寝てはいない気配がしたので、そう声をかける。
 目が冴えて眠れないのだという。
 今まで眠りっぱなしだったのだから、そうかもしれないなとシンタローは思う。
 そして、表向きは男は冷静な顔をしているが、内心は不安でもあり混乱してもいるのだろうかと、心配になる。
 何も言ってやることができなくて、シンタローは毛布に落ちている自分の黒髪を、軽く引っ張った。
 こんな時、俺はどうしてやればいいのだろう。
 男が。私はこの窓から外を見ているから、君は気にしないで欲しいと呟いて、身を起こし、木製ベッドのサイドボードに背を預けた。
 そして言葉通りに、そのまま外を見ていた。
 いつの間にか、暗い部屋には白銀の月光が差し込んできていて、三分ほどに欠けた月が夜の向こうに佇んでいるのだった。
 日中、精一杯に働いたシンタローの目蓋は、とろとろと重くなっていったから。
 意識がある間は、睫毛の間からぼんやりと薄目で、その男の横顔を見ていたような気もするし、見てはいなかったような気もする。
 月の冴え冴えとした輝きを、男の影を作る光を、感じていただけのような気もする。
 でもシンタローは、眠りに落ちる寸前、こう思ったことは覚えている。
 月を見ているこの男は、かわいそうな人だな、と。
 なんだか……彼の、しんと静まり返った時間が、物悲しかった。
 記憶を失ったというなら、俺がそれを取り戻すのを手伝ってやったって、いいかもしれないな、と。
 とりあえず明日は、全速力で走り回って、仕事を早めに終わらせて。
 男が倒れていた場所に、連れて行ってやろうと、シンタローはそう思ったのだ。



 翌日の夕方。
 屋根裏部屋に駆け込んできたシンタローに、男は驚いた表情をし、それから『おかえり』と言った。
 シンタローは、一瞬戸惑った後、『た、ただいま!』とぶっきらぼうに言った。
 そして、男が自分の言いつけ通り、まだ部屋にいて、ベッドに入っていたことに安堵した。
 熱が下がったばかりだから、ここで大人しくしていろと、朝の出がけに、しつこいくらいに言ったのだ。
 シンタローは人の面倒を見ることが基本的に好きだったし、乗りかかった船には最後まで乗らずにはいられないという性質でもあった。
 自分よりずっと年上の人間を、子ども扱いできるという状況も、やけに楽しかった。
 しかも見るからに男は、容姿も雰囲気も持ち物も、なにか常人ではない雰囲気があって、記憶を失う前は、少なくとも命令する立場にあった人間なんだろうと思わせるところがあった。
 それなのに今は、助けて貰ったという出来事のせいか、男はシンタローの言うことに素直に従う。
 変な感じがして、くすぐったい気持ちがした。
 凄いものを拾ったなあと思った。



「私は多分、自転車なんて乗ったことがないよ。乗ったとしても……そう、うんと小さい頃だけかもしれないね」
 西の空が赤く染まり始めていた。
 シンタローが男に言って、二人で部屋を出て螺旋階段を降り、愛用の自転車を建物裏からひいてくると。
 石壁の側で、眉をひそめて困った風に、男が言う。
 医者の話によると、記憶喪失であっても多くの場合、事物の名前といった意味の記憶や、生活によって身につけた習慣、訓練の記憶は残っているのが普通だという。
 その事物間のつながり、人との関係、意味の連関、時間的経過……そういった関係性のエピソードを失ってしまうのが、記憶喪失というものらしいのだが。
 この男の場合もそれに当たるらしい。
 珍しげに、自転車の少し錆付いたハンドルを、指でなぞっているその姿。
 でも……自転車に乗ったことがない気がするって。どういう生活してたんだろう、この男はと、シンタローは呆れた。
「いーよ。病み上がりなんだから。アンタ、後ろに乗れよ」
 もともと二人乗りで、自分が乗せて行ってやろうと思ったのだ。
「いいのかい? 私は歩くから大丈夫だよ」
「いいって! 俺は雨ン中、気を失ったアンタをここまで乗せてきたんだぜ? ひっでェぬかるみの中をさ。全然余裕。いいから乗れよ。グダグダ言ってないで、俺の言うコト聞いとけって」



「ぐ……く……やっぱ、重……くねえ!」
「ほら、御覧。無理しなくていいよ」
「無理……なん……かじゃねえ……って! く、スピードに乗れば……乗れば、絶対、大丈夫……っ!」
 唇をぎりりと噛み締めて、シンタローは息を吐いた。
 それでもしばらく漕ぐと、道が良くなったのか脚が慣れたのか、自転車はふらつくのをやめ、やがて上手い具合に風を切り始めた。
「へへ。言ったろ? 俺が大丈夫っつったら、大丈夫なんだよ」
 シンタローが額に汗を感じながらそう言うと、背後で、くすっと笑う気配がした。
 何だよ、笑ってやがる。何だ、コイツ。
 そう思ったが、所詮は病人だと思い直し、気付かない振りをしてやる。
 病人には、優しくしてやんなくっちゃな。
 そう思ったが、急に背後から手が伸びてきて、ハンカチが額と頬に押し当てられ、汗が拭かれた。
「……チッ……」
 シンタローは舌打ちをすると、それでも気付かない振りをした。
 意地になって、より強くペダルを踏んで、自転車を加速させる。
 風が心地いい。男は後ろ向きに腰掛けていて、背中と背中が触れ合っていた。
 温度を、感じている。



 赤い夕暮れの中、森に着く。
 シンタローはあの時と同じように、自転車を横倒しにして、自分は地面に座り込んで、はあはあ息をついた。
 しかし男に今度はハンカチを手渡されて、条件反射で受け取りはしたものの、口をへの字に曲げる。
 すぐに何でもないように呼吸を整え、立ち上がってから、もったいぶって指を差した。
 この森一番の巨木、その根元。崖のような窪みの底。緑と茶色の深みの中に、その場所はある。
「あそこにさ、アンタ、倒れてたんだぜ。この道から滑り落ちた跡がついてて、気付いたんだ。まったく俺が通らなきゃ、死んでたかもナ。感謝しろよ」
 そう胸を張ると、男はにこっと笑って、礼を言った。
 しかし肝心のこの場所には、何の感慨もないらしい。
 何も思い出せないなあと、彼は静かに呟いた。天に向かって伸びる巨木を、見上げていた。
「そ、そっか。でもさ! ほら、思い出せなくっても気にすることねーよ! ゆっくり思い出せばいいって! へへ、アンタ、こっから落ちて、頭打ったのかもな。見かけによらずドジだな!」
 何となく慌てて、シンタローは自分より少し高い位置にある男の肩を、ぽんと叩いた。
「おし! 向こう行こーぜ! あっちに、すっげぇ綺麗な牧場とか原っぱとか、あんだよ。それ見たら、気持ちすっきりすると思う! よーし、行くぞ! ついて来いよ!」
 そして、その手を引っ張り、促す。
 手が触れた瞬間、微かな違和感に襲われたが、この時はさして気にしなかった。
 男の意識が自分に向いたのを確認すると、握った手を離し、シンタローは自転車を起こして、それを牽いたまま率先して一人走り出した。
 ちらっと後ろを見れば、男が自分の言うことを聞いて、後を歩いてくるのがわかって、少し安心した。



 草原の向こうには、太陽が今まさに沈もうとしている。
 緩やかな傾斜と遠い山の稜線が、どこか水平線のようで、シンタローは、まるで緑の海にいるみたいだと思った。
 視線をずらすと、白い背をした羊たちの群れが、厩舎に波が寄せるように帰って行く様子が見えた。
 いつしか、黙り込んでいる。
 風が、長く伸びた草の先を、揺らしている。
 斜光が、並んで歩く自分と男の長い影を作り、淡くぼかしていく。風景の輪郭が、陽の沈む度に、黄金色に縁取られていく。
 美しく、穏やかでのどかで、どこか荘厳な空気が、そこにはあった。
「ああ」
 草を踏む柔らかい音の時間が過ぎてから、男の声がした。
「風が吹いてわかった。私には、好きな人がいたような気がするよ。その人と私は、こうして草原を歩いていたんだと思う」
 シンタローは立ち止まった。傍らの男を見上げる。
 相手は、遠くを見つめていたが、何を見ているのかはわからなかった。
 ただ、深くて青い瞳をしているんだなと、シンタローはそれだけを思った。
 長い黒髪が風になぶられる。
 ふと、男の目を見ていたら、油断して。
 シンタローが手に持ったままだった、白いハンカチが、風に奪われた。
「わ、わっ」
 自転車を置いて、シンタローは、ひらりひらりと空に舞う布を追いかける。
 散々に苦労して、走り回って、ハンカチを捕まえると、照れ隠しに不機嫌な表情を作って、彼は男の方を振り向いた。
 いつの間にか男が、沈む光の中、緑の海の中、じっと自分を見つめていたのだと、シンタローは気付いて、微かに赤面した。
「その人は、走ってもいたのかもしれない」
「は? だ、誰が!」
 照れ隠しで乱暴にそう言ってしまってから、男の台詞が続いているのだとわかる。
 私には、大事な人がいた。
 この草原と君を見て、思い出したよと、声が聞こえた。
「今、君を見て……感じたよ……」



「よくわかんないけど、来て良かったな! こーやって、少しずつ思い出してけばさあ……あ、自然に、自然にな! 別に無理しないでさ」
 帰り道、男が今度は自分が自転車を牽くと言うから。
 手を所在無くぶらぶらさせて、並んで歩きながら、シンタローがそう声をかけると、男は、嬉しそうに頷いた。
 その顔を見ると、シンタローの胸に、よくわからない感情が生まれて、通り過ぎて、消えていった。
 何か。
 言葉にするなら。
 戸惑い、切なさ、照れくささ、恥ずかしさ、嬉しさ、何かが間違いで何かが正しいという気持ち、そして……理由のない懐かしさ。
 ふと、自転車のハンドルを握る、男の手を見た。
 それは大きな手で、指が長くて、綺麗な爪をしていて、なめらかだった。
 先刻。森で、男の手を引くために握った時。
 その冷たくぞくっとする感触に、自分は何かを感じたのだ。
 この感情は、同じものだと思った。
 奇妙なもどかしさを感じる瞬間が、男と自分の間には、ある。
 そのことが不思議だった。
「アンタの手、俺、なんか触ったコトあったりして。さっきとか、そんな気がした。ヘンなの」
 そう何気なく言うと、相手は今度は薄く笑った。
「それは変だね」
「ヘンだと思って言ったんだから、ヘンって言うなよ!」
「はは、それはそうだ」
 俺はたくさんの街を放浪してきたから、もしかすると何処かの街で、アンタとすれ違ったのかもしれねーよ、とシンタローが言うと、男は、じゃあそれでどうして手に触ったことがあるんだいと聞いてくる。
「それは……さ。わかんねえよ。ただ言っただけだし」
「すれ違った瞬間に、手が触れあった、か。でもそんなの覚えてるものかい? 私の手はそんなに特徴的だとも思えないけれど」
 しげしげと自分の手を眺めている男に、シンタローは、『だから適当に言っただけだって!』と頬を膨らませて言った。
 だから俺はアンタのこと、なんだか他人だと思えないのかななんて、口走らなくて良かったと思った。



 陽は落ちて、夜の帳が辺りを包んでいる。
 街の灯りが道の先、目の前に輝き始めていて、シンタローは男が持っていた金貨の光みたいだと、ぼんやり感じている。
 綺麗だ。道の小石を、爪先で軽く蹴った。
 石は、男の牽く自転車のフレームに当たって、音を立てて跳ね返り、また転がっていった。
「あ、あのさ、夜御飯、何がいい?」
 喋らなければいけないような気分になって、シンタローがそう言うと。
「何でも。君の作るものなら、何でも」
 男がこう答えるので、
「ちぇっ。そーいうのが、一番困るんだよな」
 口を尖らせてみたものの、
「じゃ、俺、先に街で買い物してくるよ! こっからだったらアンタ、一人で帰れるよな? だから自転車……」
 と、自転車のハンドルに手をやると、男はまだそれを離さなかったので、再び手が触れ合った。
 思わず、シンタローは自分の手を引っ込めた。
 また、ぞわりとする、じんとする感触がしたのだ。
 それを見て、男が肩を竦めて、
「私たちは二人共、互いに記憶喪失みたいだね」
 そんなことを、冗談めかして口にするから。
 おかしなことを言うなと、シンタローは頬をゆるめて、少し笑った。







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