さいはての街

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 優しく黒髪を撫でられていた。
 シンタローは、まるで自分が、ちっぽけな子供になってしまったようだと感じていた。どうしてだろう、ひどく幼い少年に戻ってしまった心地がする。
 長い黒髪に干草が絡まって、さくりと乾いた音が、耳をくすぐる。
 小屋の外からは、夜に麦の波がさざめく音が、依然として聞こえていた。
 自分たち二人だけが、今、ここにいた。
 干草に埋もれて。抱き合って。男の腕の中に収まって、撫でられて、シンタローは大人しくしていたのだが。
 ふと思い立って、頬の側を通り過ぎた指を、噛んでみた。
 甘噛みしただけだったから、痛いはずはないのに、男は『痛いよ』と少しだけ笑った。
 シンタローは、以前に自分が男につけた傷を思い出した。
 あの時は、ひどく噛んだから。シンタローは男の血の味を感じたのだ。
 月明かりの中では、その痕を見つけることはできなかった。



「君も怪我、したんだ」
「……」
 小さな窓から差し込む月光は、男の端正な顔立ちを白く縁取っていた。
 その顔がすぐ近くにあって、またあの熱いまなざしを投げかけられて、自分の鼻先が相手の指でツンと突かれて、傷跡の残る腕をとられて、シンタローは思い出している。
 いつもいつもこの男は、あの屋根裏部屋で。
 ふと気付く瞬間、振り返る時、何気ない時間に、こんな風に自分を見つめていて、自分もそれを感じていたのだ。
 男の視線は、ただの視線ではない。気持ちが込められた、ひどく愛情じみたものだった。
 その瞳は冷たいのに、どうしてか視線は熱い。彼の視線を意識する度、シンタローの背筋はぞくりと震えていた。
 そして……この男は、もしかしたら俺のことが好きなのかな、等と馬鹿げたことを考えていた。
 でも今ではその理由を知っている。
 彼の大切な人が、自分と似ていたというだけのことだった。
「痛かった……? 痛かったろうね。君のことだから、無理をしたんだろう」
「……」
 とられた自分の腕が、ゆっくりとさすられている。
 それでもシンタローは黙ったままだった。黙ったままで、たくさんのことを思い出していた。
 胸に様々な映像が、流れていった。



「聞いたよ。近衛兵になったんだって? はは……君は出来過ぎだなあ。驚いた」
 また子供のように頭を撫でられて、シンタローは、そのまま大人しく撫でられてしまったものの、ハッと気付いて、慌ててその手を振り払った。
 近衛兵、と聞いて、現実に引き戻された気がしたのだ。
「どっ、どーして俺が、近衛兵になったってこと、わかっ……」
「街に残った人に聞いた。それにこの軍服。いかにもじゃないか。似合うよ」
「……あっそ……」
 シンタローは、横たわったまま、ごろりと男に背を向けた。
 暗い小屋の隅を見つめながら、男はやはり屋根裏部屋には戻っていないのだと思った。
 自分の残した手紙は、見てはいないのだろう。それはそれで良かった。
 そして、軍服が似合うと言われた照れ隠しに、また男を問い詰めるための質問を必死に探し、やっと一番最初にすべき問いを思いついたのだった。
 再びシンタローは、ごろりと男の方に向きを変える。
 相手は上半身を起こして、面白そうな顔で、自分を見下ろしていた。
 その顔に、食ってかかる。
「そーだ、アンタ! どーして俺がここにいるコト、わかったんだよ!」
「だからさっき言ったろう。赤い糸だよ」
「チッ……ふざけやがって」
「まったく。いい雰囲気だったのに、すぐ喧嘩腰になるんだから。ふざけてなんかないよ、赤い糸を手繰り寄せて、ね。君が何処にいても、私と君は出会う。必ず、出会うよ。だからいつだって……私は追いかける」
「バッ……バッカじゃねえの!」
「馬鹿だよ。知ってる」
「アンタは! くっ……アンタはバカだけど……」
 シンタローはそこで息を切り、干草から上半身を起こし、同じ視点で男を見つめてから、また口を開いた。
 夜が、いっそう静まり返ったような気がした。
「俺……俺はバカじゃねえから、アンタが嘘ついてることぐらい、わかる」



 今度は相手が静かな瞳で、自分を見つめてくるのがわかった。
 それは、あの熱っぽいまなざしではなかった。
 冷たい――凍りつくような。
 そう、俺はいつも。あの熱い視線の裏には、この冷たいまなざしがあるってこと、ちゃんと気付いていて。
 いつも何処かで怯えている……。
 しかし今は怯えを振り切って、シンタローは言った。
「……アンタ……きっともう、記憶……取り戻してんだろ……?」




「どうしてそう思うんだい」
 ぞっとするような低音だった。
 空気がぴりぴりと震えているのだと、シンタローは肌に痛みさえ覚える。自分の産毛が逆立つのがわかった。
 それでも言おうと思った。
「だってアンタ、好きな奴のこと、完璧に思い出してるみたいだし! 自分が何者かなんて、ちゃんとわかってるみたいだし! アンタ、そいつの所に戻りたくても戻れないから、俺ン所に来たり出てったり、適当にやってるだけなんだろ? 最初の記憶喪失だって、怪しいよ……アンタさあ、その好きな奴から、俺ンとこに逃げ込んできてるだけなんだろ? なあ、何とか言えよ! そうなんだろ?」
 急に空気が和らいだ。
 シンタローは、相手が何か別のことを予期していたのかもしれないとも思ったが、今はそれはどうでもよいことだった。
 自分にとって大切なのは、このことなのだ。
「……そいつ……アンタが好きだって言う、そいつは……アンタのコト、好きじゃ、ないんだよな」
「ああ」
 男の瞳が、シンタローを真っ直ぐに見据えた。その青が、またうっすら冷気を帯びてくる。
 息を吐けば届く距離だ。
 シンタローは、怖いと思った。
 怖い、優しい、冷たい、熱い、いつもすべてが真逆の繰り返しに揺さぶられているようだった。
 男が薄い唇を、酷薄に歪めて言う。
「むしろ私を憎んでいる。私が、その人の一番大切にしている存在を奪ったからね」
 断定的な男の物言いに、シンタローの胸に、以前に感じた疑問が込み上げてくる。
 どうしてなんだろうと、歯がゆく思う。
 相手に嫌われているってこと、自分で知っているのに。
 そしてそのことに、こんなに苦しんでいるのに。
 ――何故、どうして。それでも相手を、こんなに好きでいられるのだろう。
 シンタローは呟くように言う。
「なら……なら、アンタ、そいつを好きでいること、やめればいいのに……」



「君の言う通りだ。馬鹿だよ、私は」
 そして相手の呟き。その暗い響きに、シンタローは、息を飲んだ。
 男の沈んだ声は、男自身へと向けられたものに違いなかった。
 彼は自嘲しているのだと、シンタローは気付いた。
「……君はお前ではないのに、君は幻なのに。それでも私は恋しくて恋しくてたまらない。追いかけずにはいられない」
 『君』と呼んだり、『お前』と呼んだり。
 この男の言葉遣いには、シンタローにはわからない意味が込められているのだと思う。
 いつも、いつも、わからない。
 シンタローにとって、この男は、謎でしかない。
「ア、アンタさ……」
 話しかけようとしたのに、男は言葉を紡ぎだした。
 暗い地を這う響きを帯びる声音。
「……一人でいる時、いつも考えるよ。何故、私は孤独なのだろうと。私はお前に嫌われても仕方のないことをした。それでも嫌われたくないんだ。愛してるからだよ。惨めだ。惨めでたまらない。わかっているんだ。わかっているんだよ。だからその上に君に言われると、君にそのお前の声で言われると……愛をやめろと言われると……辛い……」
 シンタローは、憑かれたように話し始めた男を、呆然として見つめた。
 その男の青い瞳は、確かにシンタローを見ているはずなのに。
 見ているはずなのに、見てはいない。
 彼は自分の背後に、別の人間を見ているのだと、シンタローは睫毛を伏せる。
 目を瞑った。また俺は、一人取り残されている。
「お前は冷たいんだ。いつも怒っている。仕方がないけれど、きっと私を憎んでいる。もう楽しかった昔には戻れないんだ。私は他の誰に憎まれたって平気だけれど、お前に嫌われると、傷つく。でも傷ついても、傷ついてなんかいないという振りをする。どう振舞っていいのかわからなくなるからだ。お前に何でもしてあげたい、私のものはみんなお前にあげたいと思うのに、でもお前はいらないと言う。私なんかいらないと言うんだ。私はどうすればいい? それでもお前が好きだよ。愛してる。冷たくてもお前を愛しているよ」
「……」
「今、愛しいお前はいなくて、その幻のような君がいて、君がとても可愛くて優しいから、私は側に行かずにはいられないんだ。君と私とが会ったのは予定外のことで……会うべきじゃなかった。会ってしまったのは、私の弱さだよ。会わなくても、事は全て進むはずだった。でもどうしても、私は……こうして来てしまう」
「……」
「我慢ができないんだ……会わずにはいられない。それが例え、幻でも」
「……」
「幻の君を追いかけてしまう……」
 理解さえできない男の言葉の内で、シンタローの胸に、男が自分を『幻』と表現したことが、はっきりと刃のように突き刺さった。
「君の言う通りだよ。私は優しくて暖かい君に、逃げ込んでいるだけなんだ。君が親切にしてくれる、それは幻に過ぎないと、知っているはずなのに。私は嬉しくてたまらなかったよ。お前を愛しているから。この幻の生活に、夢中になった」
「……ッ」
 シンタローは、どんなことがあったって、俺は幻なんかじゃない、と思った。
 俺にはちゃんと、シンタローという名前がある。男は決して呼んではくれないが、名前があるのだ。
 そして彼は自身を『惨めだ』と表現したが、シンタローは自分の方がもっと惨めであるのにと思った。
 なぜなら男が愛しているのは、幻ではない、俺じゃない誰かなのだ。



「もう君は……私のことは忘れて欲しい」
 突然そう言われて、シンタローは伏せた睫毛を上げた。
 男を見る。彼は表情のない顔をしていた。
 窓の外で、黒雲に隠れて月光が翳った。暗がりが、男の輪郭をおぼろげにした。
「な、何だよ、いきなり」
 シンタローは、両手で干草をぎゅっと掴んだ。
 男は静かに言葉を続ける。
「……すまなかった」
「意味わかんねえんだよっ! 最低だよ!」
「そろそろ、遊びは終わりだ。じきに幕が下りて、結末が来る。そうなれば……」
 男はそこで言葉を途切れさせた。
 シンタローは思わず叫んだ。
「帰るのかよ……そいつの所に、好きな奴の所に、俺を置いて帰るのかよ!」



 雲が流れて、月が姿を現した。
 闇が晴れて、シンタローの黒瞳には、また男の鋭利な顔立ちが映っている。
 金髪が輝いていた。男の目が、微かに細まった。
「君が街を駆けるのを、幸せそうでいいなあと、眺めていたよ」
「……」
「生き生きしている君を見るたび、この街で元気に駆ける姿を知るたび、私は……自己嫌悪に陥る。この私が、私がだよ……こんなことを君に告白しても仕方がないのだけれど、でもいつか消える君だけにしか、告白できない」
「……消える……? 誰がだよ……?」
「告白できないよ……私の愛の幻の、君にしか……」
 謎として、男はシンタローの前に存在し、すべてを惑わせる。
 惑わせる癖に、男は、俺の話なんか、聞いちゃくれないのだ。
 本当は俺なんか、どうでもいいのだ。
「私のことを知らない、私と何の関係も持たない君は、本当に幸せそうに見えた」
 男はシンタローの視線の先、白い光の中で、遠くを見るような瞳をしていた。
 彼が時々そんな瞳をするのを、シンタローは悔しく思っていたのだ。
 ずっと。
 一緒に暮らしている間――ずっと。
 俺は。
 俺は、幸せなんかじゃなかったよ。
 ずっと苦しかった。
 アンタがいないから。
 寂しくて寂しくて……たまらなかったんだ。
「お前は、私に出会わない方が良かったのだろうと思う」
 アンタはこうして俺の側にいたって。
 俺なんか、ほんとは見てはいないのだ。
 いつか、帰るんだ。
 いつも、心はそいつの所に、帰っているんだ。
 ――今だって、『お前』と呼んで、他の誰かに語りかけている。
「すべての瞬間で、私はお前を不幸にする」



「もう……会わないのかよ……」
 それだけ、シンタローは小さく言った。
「私が、君と?」
 男は眉を軽く上げた後、静かなまなざしをシンタローに向けてきた。
「ああ。その方がいい」
「何でッ! 何でそんなに急に冷たいこと、言うんだよ……っ!」
「冷たい……?」
 相手はわざとらしく、小首をかしげた。
 そして薄く笑った。
「元々、私は冷たい人間なんだよ。知っているだろう」
「……?」
「いずれわかる」
 そう言い捨てて、男が立ち上がる気配がした。
 もう甘い雰囲気の欠片もないのだった。



 シンタローは思わず、身を乗り出した。
 手を伸ばしたが、掴んだのは数本の干草で、もう一度手を伸ばすと、今度は男はその手を取ってくれた。
 やはり冷たい感触が、シンタローの肌に染み渡ってくるのだった。
 男は、シンタローの手と肩に触れて、持ち上げて、シンタローを立ち上がらせてくれた。
 そして、シンタローの身体についた干草を払うと、言った。
「行きなさい。君は最後の仕事をしなければならない」
 行きなさい、と言われても、行けるものではなかった。
「……ッ」
 不意にシンタローの身体に力が蘇った。彼は拳を固めて、男に向かって腕を振り上げた。
 男は、避けなかった。鈍い音がした。
 シンタローの拳は、男の頬を打ったが、相手の表情は変わらなかったので、シンタローの方が泣きたくなった。
 まったく最低だった。
 訳のわからないことばかりを言われた。
 別に男はシンタローではなく、麦畑に穴でも掘って、そこで自分勝手な話をすればいいのだと思い、またそれでも不足はないのだとも思う。
 俺なんて、この男にはこれっぽっちも必要ではないのだ。
 シンタローの心中を知ってか知らずしてか、男は殴られたことなんか意に介さないといった風で佇んでいた。
 黒い瞳が睨みつける中で、白い月光に照らされて、男は切れた薄い唇の端を、ゆっくりと長い指で拭った。
 赤い血が、指先を汚していた。そして、冷酷に微笑を浮かべた。
「明日の、日が暮れる頃。あの屋根裏部屋でもう一度会おう」









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