さいはての街

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 シンタローは城に戻った。
 門扉を越えると、外郭にたむろっていた街の人々が、わっと駆け寄ってきた。
 かつては活気に満ちていた彼らの顔は、今は青ざめた月のような色をしていた。髪はほつれ衣服もどことなく垢じみ、避難生活の過酷さを滲ませている。
 乾いて皮の剥けた唇たちが、やりきれない思いの捌け口を見つけたとばかりに、我先にと動く。
 シンちゃん、あたしたちを守ってくれるんだろ、ガンマ団の奴らなんか、やっつけちまっておくれよ、あたしたちの街を守っておくれよ、そうだよ、きっと。きっとシンちゃんなら、この街を守ってくれるんだ。
 外郭防衛線には幾つもの保塁が築かれていて、その内側には天幕がはためいている。人々の生活の匂いが漂っている。
 トウモロコシの黄色い粒が散らばる石床に、座り込む子供たちの生気のない顔。天幕の奥からは赤ん坊の泣き声が聞こえる。舞う砂のざらつきが肌に痛い。



 何の権限もないシンタローが、何をできるというものではないことは、街の人々にだって、十分にわかっているはずだった。
 ただ、彼らは不安なのだ。不安で、知った顔を見れば、互いに藁にも縋る想いで、同じ言葉を繰り返す。
 安心が欲しいのだ。大丈夫だよと、言ってくれる人の温もりが欲しいのだ。
 だからシンタローは、その馴染んだ顔たちに、大きく頷き返すのだった。
 大好きな街の人々。
「大丈夫。大丈夫だよ」
 笑顔を作るシンタローは、しかし孤独だった。大勢に囲まれながら、孤独だった。
「俺が守るよ」



 夜半だというのに城の内部もどこか騒然として、落ち着きのない空気が、針のように皮膚を刺した。
 蛇の長い背のような回廊を曲がると、たたた、と可愛い足音がして、王子と、羊飼いの少年が、待ちきれないといった様子で駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん!」
 わあっと二人はシンタローに飛びついて、可愛い顔で街の様子を聞いてくる。
 あの人気のない、がらんどうの街のことを話すには忍びなかったシンタローは、すぐには何と言えばいいのかわからなかった。
 それでも二人を安心させるように、また笑ってから、ふと窓の外に視線を向けた。
 回廊の大窓から見下ろす街は、火の消えた後の黒炭の塊のように、身を寄せ合って寒々としている。魂を抜かれた街だ。
 あの街の魂である愛すべき人たちを、帰してやりたい。平和と幸せを、再び彼らのために取り戻すことができればいい。
 そのためには、何でもするつもりだった。だが一体、どうすればいいのか。無力さばかりを痛感するしかない。そして明日も自分は、街から魂を抜くために、走り回るのだ。
 シンタローが口を開く前に、王子はすっと表情に薄い影をかぶせた後、無理矢理に大人びた微笑を頬に浮かべて、『僕たち、いつか、また幸せになれるよね』と呟いた。



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 翌日になってからのことである。
 いつも通りに何件もの説得をこなした後、街角でシンタローは、ゆっくりと西の空を仰ぎ見る。
 そして淡く色づきながら傾きかけている陽を目にして、溜息をついた。
 次に向かうつもりの場所は、頑なに移動を拒む金物屋で、店が開いている間に行っても、相手の気分を害するだけで逆効果であることは、経験からわかっていた。
 しばらく時間がある。体が空いている。いや、熱心に仕事をこなし、この日暮れ時のために、自分が時間を作ることは、もう最初からわかっていたことなのだ。
 何度も裏路地を通り過ぎ、躊躇したものの、シンタローは屋根裏部屋に立ち寄った。
 ぎしぎしときしむ螺旋階段を上って扉を開けると、耳に馴染んだ蝶番の音がして、静かな空間が彼を出迎える。やはり人の入った形跡さえない。
 綺麗に整頓されたままの室内が、寂しかった。
『明日の、日が暮れる頃。あの屋根裏部屋でもう一度会おう』



 しばらく、待った。
 あの男が勝手に購入して置いていったままのカウチに座った。そのうち足を曲げて、横たわる。
 男がこの部屋にいた時は、自分たちは、ベッドと交互にして、このカウチに眠っていた。かつてこの場所に、男がいた。一緒に生活していたのだ。
 一緒に夜を過ごしていた。
 幾度の夜を過ごしたのかはもう忘れてしまった。ただ、男がここにいないことが不自然だと感じるほどには、彼はシンタローの側にいた。暗い闇の中で、ふと目を覚まし、ほのかな星明りに照らされる男の金髪をしばらく眺めてから、また身を沈めて眠ったことなどが、記憶の淵から浮かんできては、消えていく。
 時は流れて、今、シンタローは、たった一人だ。
 静かな光が差し込む、がらんどうの街の誰もいないこの部屋で、一人ぼっちだ。
 やがて陽は傾斜を深くし、薄橙の光に夜の予感を散りばめ始める。



 窓からのゆらめく射光の中で、身を潜めるようにしてシンタローは、自分の肩を抱いた。爪が肉に喰い込むほどに、強く掴んでいる。
 いつしかシンタローは、男の感触を思い出している。
 感触とは、男に関するすべてのことだった。
 触れる指先、冷たい瞳、それなのに熱い視線、作る食事の味、口付けた時の不思議な気持ち。
 いつか草原で男と見たあの夕焼け、長く伸びた二つの影――どちらも決してこの手には掴むことのできない視覚の幻影。
 海のさざめき、鉛色の水、飴細工のように、記憶が寄せては去っていく。
 屋根裏部屋での、二人で暮らした日々を、シンタローは懐かしく思った。
 あの男という存在の感触――形もなく、音もなく、しかし自分はその温度を確かに覚えている。
 こうして考える度に、まるで最初から知っているような、そんな郷愁に包まれる。
 男に触れる度、また触れることを想像する度に、シンタローは何処かへと還っていくような想いに囚われる。考えることはこんなにも辛いのに、囚われてしまえば、その味は甘かった。
 自分にとって、あの男は特別な人間なのだと思う。
 どうしてかはわからないが、何故か最初から、シンタローはそう感じていた。
 認めたくはないが、最初からだ。



 シンタローはあきらめたように深く息をついて、硝子のような心で思った。
 最初から、俺はあの男に惹かれていた。
 雨の森で、濡れたやわらかい金髪を目にした時から、俺にはわかっていた。
 まるで生まれたての雛鳥が、最初の瞬きで、運命的な出会いを知るように。
 俺には、わかっていたんだ。



 俺があの男を拾ったんだ。
 俺があの男に拾われたんだ。
 これはきっと偶然なんかじゃない。
 だって俺、出会った時から、すごく懐かしい感じがしたんだ。
 あいつは、俺にとって必然である、そんな人間のような気がしたんだ。
 こんな不思議な感覚、他の人間には、感じたことなんかない。



「……」
 シンタローは、ふと指を動かして、カウチのビロードから床へと流れる自分の長髪を、そっと梳いた。
 この髪を撫でた、あの手。長い指。綺麗に切り揃えられた爪先。
 まっすぐに男を想う気持ちと同時に、シンタローの感情の裏には、この乱れた黒髪のような葛藤が控えている。
 男の心には、どうあっても動かすことのできない大切な人間が、存在しているのだと改めて思う。
 いつだって男は、心の底では、その人間のことを考えているのだ。
 シンタローに触れてくる時でさえも、その人のことを思い出しているのだ。
 その相手が女なのか男なのかさえ、シンタローは知らなかったし、またそれすら尋ねることもできずにいる。
 こんなにも自分は弱い人間だったのか、と思う。情けない。情けなくてたまらない。
 情けないのに、その相手とはどんな人間なのだろうかと気になって嫌になる。きっと自分よりも、魅力に溢れた人に違いないのだ。
 しかも、男に昨夜、自分は。
『もう君は……私のことは忘れて欲しい』
 ひどく冷たいことを言われた。
 ――日が暮れる頃。あの屋根裏部屋でもう一度……。
 あんなことを言った上で、シンタローを呼び出すとは、一体どういう了見なのだろう。
 そしてシンタローは、その呼び出しに従わずにはいられないのだ。こうしてこの屋根裏部屋で一人きり、彼を待つことになってしまうのだ。
 最悪だ。
 男と自分とは、同性であるのに、どうしてこんな気持ちになるのだろうと、いまさらの不毛な思考の沼に再び浸かりかけて、慌てて頬を叩いた。
 すると、ぱちんと音がして、小さな部屋にその音が響いて、すぐにまた静まり返った。
 シンタローは、ぎゅっと目を瞑った。
 自分は男に惹かれている。もう否定なんかできない。自分は出会った時から、彼を懐かしいと感じ、特別な感情を肌に覚えた。
 しかし、この気持ちに名前をつけるとすれば、それは何であるのか。



 ――恋、か?
 わからない。違うような気もし、だがそれが一番近いようにも思え、そう感じれば、自分の馬鹿さ加減に、うんざりする。
 恋なんだろうか。何の関係もない二人が出会って、特別な気持ちを抱く。これって、恋なんじゃないのだろうか。
 でも、同性だ。
 それに……あの男には、他に、俺よりもっと特別な人間がいる……。
 シンタローの胸は、きりりと痛んだ。苦しい。もう考えたくはない。だが考えを止めることができない。
 最悪だった。
 自分が、男の『大切な人』にどうしても拘ってしまうことが、恥ずかしくて情けなくてならなかった。
 もしかして自分は、その『大切な人』に代わりたいと望んでいるのかと思い、そんな自分を醜いと感じる。
 逆に、その『大切な人』は、理由はわからないが男に会うことはできないらしいと気付き、そして自分と男は、すれ違いながらも何度も会っているのだということにも思い至って、その見も知らぬ相手に対し、奇妙な優越感を覚えてみたりする。
 また落ち込む。俺は汚れている。悪循環の輪を駆け巡る。
 ――そして男は、シンタローの名を呼んではくれないのだ。



 自己嫌悪に陥りながら、そっと目蓋を上げたシンタローは、すでに薄暗くなっている部屋中央、その机上に置かれたままになっている便箋を、ぼんやりと眺めた。
 白紙に薄く線をひいただけの素っ気ない便箋は、その身に文字を書き入れられることだけを待っている、ただの紙切れだった。
 また手紙でも書き置いて、このまま部屋を出ようとも思う。前の手紙は、引き裂いて屑入れに投げ込んでいた。
 しかし読んで貰えるのだろうか。あの男は、もうここへは来ないのではないかという直感は、依然としてシンタローの胸の内にあった。でも。
 会おう、と言った癖に。会おう……。
 言葉で簡単に俺を縛るあいつは、ずるい。
 だが新しい手紙を書くとして、なんと書けばいいのだろうか。
 もう書いてなんかやるものか。しかし何も解決策をつけないままに、乱れた心境のままで帰城して、王子に会ってしまえば、尚更いたたまれないことになるに違いなかった。
 剥き出しの感情は、あの小さな読心術の持ち主にはすぐに伝わってしまう。
 シンタローは、他のどんな感情は読まれても構わなかったが、この気持ちだけは、誰にも知られたくはなかった。
 そんなことを抜きにしても、子供たちの前では、あの男のことなど考えたくはなかった。なにか罪悪のような気がしてしまうからだ。



 乱れた気持ちの中で、それでも、ただひとつ決めていたことがある。
 昨日、男と再会し、別れてからの一晩の間も、ずっと考えていたことだ。
 シンタローは、男が、その言葉通りにこの部屋に来てくれたとしたら、彼にはどんな秘密や事情があるのかは知らないが、とにかくまた、自分と一緒に城に避難するよう説得するつもりだった。
 男がこの街にいるということがわかった以上、それが彼にとっても一番安全な道であるはずだった。
 この国はもう敵に取り囲まれて、他に逃げ場なんてないのだから。このままでは戦いに巻き込まれてしまうだろうと思えたから。危険すぎるのだ。
 街の人に避難を勧めるのは自分の責務であったし、道義的な意味からも、男に対して、そうするべきだった。
 それがあの男にとって最善の方法であるのだと、シンタローは信じた。そして、自分にとっても。
 だって、戦争が始まって。あいつが、あんな風に、うろうろしていて流れ弾に当たりでもしたら。
 当たりでもしたら、俺は……。
 ……俺は……?
 ――



 疲れが溜まっていて、うつらうつらしていたのかもしれない。
 打ち鳴らされる鐘の音に、シンタローはハッと意識を覚醒させる。
 身体の下のカウチが、ぎしりと鳴った。周囲にただならぬ空気が立ち込めているのを感じる。
 シンタローは急いで立ち上がって、窓から外を見た。
 冷たい風が、鼻先を打った。
 夕陽は落ちたはずなのに、赤い光が目を奪う。インクが染み渡るように、赤い光は一滴、一滴と落ちて、暗い街を燃え上がらせていく。
 そして夜空に輝くものは、銀色の敵機である。



 空爆だった。
 急を告げる鐘の音が、唸るような不吉な飛空音に紛れて、世界を切り裂いていた。
 ついに来るべき時が来たのだと、シンタローは悟った。敵の侵攻が始まったのだ。
 背筋を冷たいものが通り抜けていった。








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