さいはての街

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 シンタローは屋根裏部屋を弾かれるように飛び出した。周囲から頭一つ抜けた、この建物の螺旋階段からは、熱に浮かされた街の様子がよく見えた。息を飲んで、駆け下りる。
 西の空が燃えている。夜気が冷え冷えとして頬を打つ。爆炎が空をなめし、街を焼いている。煙が空を濁らせ、閃光が放たれるたびに、影絵のように敵機の姿が、ぼうっと浮き上がった。遠くで鐘が打ち鳴らされている。
 敵機の主翼下に装備された爆弾架が鈍く光った。空中で炸裂する火の玉が、細かい火の雨のように降り注いでいた。
 灯火管制が敷かれ、久しく明るく灯ることのなかった街は、今は最後の輝きに満ちていた。
 唇を噛んだシンタローは、きしむ階段を駆け下りる。
 路地に出ると、焼けた空の方角から、もつれる足で逃げてくる人々の姿が、大通りに出るアーチの向こうに見え隠れしていた。
 攻撃を受けているのは、街中心部のようだ。中心部には少ないとはいえ、避難勧告に応じなかった人間が残っていたはずである。特に抵抗運動をするのだと血気にはやる若者たちと、あるがままを望む老人たちが街にとどまった。
 シンタローは、彼らのことを思った。馴染みの顔、親しい顔、一つ一つの顔が走馬灯のように脳裏を流れ、消えていこうとしたが、シンタローは黒髪を振り、決して消すものかと心に決めた。
 自分は、街を守ると約束したのだ。



 路地の隅では、代書屋が右往左往していた。空の赤さが、色素の薄い横顔を照らしている。
 彼はシンタローの顔を見ると、慌てたような様子をした。
「シンタローさん! ここにいるべ! あっちは危ない……」
 叫びながら駆け寄ってきて、シンタローの腕を掴み、緊張のためか乾いた唇を震わせている。
 ここにいろ、というのだ。確かにこの路地は、攻撃の手からは免れているらしいと、シンタローは思う。
 遠くから聞こえる喧騒に、枯れた蔦の葉が、さわりと揺れた。なぜかその音を不気味だと感じたシンタローだったが、ぐずぐるしている訳にはいかないのだ。
 代書屋がなぜここにいるのか、彼は街中心部からここまで逃げてきたのだろうかと思ったが、今は余裕を持って考えている暇がなかった。
 人々が、あの爆撃地にいるかもしれないのだと思うと、背筋が冷たくなった。あの光が炸裂するごとに、命が奪われていく。
 すべてを守ることはできなくとも。早く街の人々を助けに行かなければ。一刻も早く。
 だがシンタローには、心の縁に焼きごてを押されたように、気にかかることがあった。



「お前、しばらくここにいるか? 代書と、あとメッセンジャーの仕事もやってたよな?」
 動揺しているのかシンタローの剣幕に押されてか、目を丸くして、こくこくと頷く代書屋の胸ポケットから、いつもさしてあるペンを抜き取る。
 そして何か書くものはないかと思わず周囲を見回し、シンタローは自分の懐を探る。
 あった。これが。
 ハンカチである。白絹のしなやかさが、ふと遠い思い出を誘う。草原の海の中で、風に閃いた白い布。あの時、男は自分の側にいた。
 今、彼は側にはいないけれども、この記憶は、嘘じゃない。確かにあった。存在した。
 俺とあの男とが過ごした時間は、嘘じゃない。
 ――あの男への、自分の気持ち。
 少しでも伝えておきたい。ほんの少しだけでもいいから。俺のこと。
 昨晩あの男が吐いた言葉に対して、何も答えられなかったことが、気がかりだったのだ。だから。
 シンタローは、白い布に一行だけを書きなぐり、代書屋に手渡した。



 口早に男の特徴を伝え、もしこの場所に来たら、ハンカチを渡してほしいと頼んだ。来なければ、後で自分に返して貰えればいい。
 小さな声で、わかった、と了承する相手に、シンタローは友人であっても仕事を頼んだ以上は、金を払うべきだと気付いた。
「代金は……」
 またシンタローが慌しく懐を探ると、奥の方で硬いものが指に触れる。冷たい感触。爪先に刻まれた肖像のくぼみが触れて、はっとする。ずっとあの男の代わりに身に着けていたもの。
 ――金貨。
 どうしてこんな時、男が残していったものばかりが、手に触れる。
 シンタローは、一思いにそれをぐっと掴むと、取り出した。勢いよく代書屋に向かって差し出す。
「これ。とっといてくれ」
 相手は目を見張った。金貨はシンタローの手の平の上で、淡い光沢を放っていた。
「こ、こんな大金、受け取れねえべ!」
「遠慮するな。それか代金はその男に貰って、この金貨も渡してくれねえか。もともとそいつのなんだ。ワリぃな、恩に着る!」
 すでに敵機の銀色の機体は、隊列を幅広の三角形に組んで、悠然と飛び去っていた。烈火のごとく目標物のみを瞬間的に攻撃し、すぐに立ち去るヒット&アウェイ。灯火管制などは、最新式の暗視装置やGPS誘導の前には意味をなさない。
 敵の去った方角を睨みつけると、シンタローは焼かれた街の中心部に向かって駆け出した。
 鼓動が、うるさい。巡る全身の血が、沸騰するように不安と恐怖と悲しみとを訴えていた。
 空が、赤い。
 俺の街が燃えていく!
 俺の大切な人々が、焼けていく!



 逃げ惑う人々とすれ違いながら、シンタローは走る。そっちは危ない、と叫ぶ声を振り切りながら走る。
 焦げ臭さが鼻をつく。かつて仕事で駆け慣れた大通りを下ると、乱れた鐘の音が近くなる。教会の鐘だ。
 石畳を駆ける自分の足音よりも、鐘の音が大きくなった。シンタローは走りながら首を上げ、教会の建物を見つめる。
 鐘塔は被弾こそしてはいないものの、濁った煙に包まれて、鐘がゆらゆら揺らめく影ばかりが見えた。助かった者が人々に危機を伝えようと、必死に鳴らしているのであろうか。その音は悲痛に惨劇の場に響き渡っていた。
 教会を過ぎた辺りで、シンタローの足が止まる。彼は愕然として前を見つめた。
 大通りの先、この場所は、かつて彼の職場だった。ここでシンタローは通い、毎日汗水たらして郵便物を運んだり、上司に叱られたり、同僚と笑いあったりしたものだ。
 郵便局は、この街では一際目をひく大きな建物だった。正面玄関へと続く赤色花崗岩の階段は、急いで登るとカツンカツンと乾いた音がしたのだ。玄関脇のレモンバームの木には蜜蜂が飛んできて、小刻みに羽をふるわせていた。
 屋根についた破風は、昼は太陽、夜は月の光を受けて、きらきらと輝いていたはずだった。
 しかし今、目の前に猛るのは、轟々とうなる火柱であった。
 シンタローは、確かにそこにあった現実が、もう自分の記憶の中にしか存在していないことに気が付いた。
 巨大な建物は炎に巻かれ、その左半分がまるで巨大な鉄球でえぐりとられたように、大きく陥没していた。無残な輪郭を、赤い火が包んでいる。
 腹の底に響くような音を立てて、残った屋根が崩れ落ちていく。
 炎の舌は瓦礫の山をはいずりまわり、すぐに辺りを舐め尽くす。火の海が広がっていく。
 聞こえていた、危ない、逃げろ、逃げろと悲鳴交じりの怒号もやがて薄れていく。もう鐘の音は消えていた。
 呆然と立ち尽くしていたシンタローは、強い熱風に鼻先を煽られて、はっと我に返る。
 炎の静寂に包まれていた耳に、どこからか助けを求める声が聞こえたのだ。シンタローは襲いくる炎をかわし、顔も腕も煤で黒くしながら周囲を探す。
 するとこれも崩れ落ちた隣の建物――かつては警察署だった――の柱に、右足を挟まれた若い男がいるのを発見した。
 すぐに駆け寄って、男の両脇に手を入れて引っ張り出そうとするが、体が出ない。しかも痛みを訴えてくる。
 そこで近くに落ちていた、これは屋根を支える梁の一部だったのか、とにかく木材を引き摺ってきて、男の足を押さえつけている太い柱の端に差込み、梃子にして持ち上げようとした。少しでもスペースができれば、そこから足を抜き出せるはずだ。
「くぅ……が、頑張れ……もう少しだからな、もう少し……」
 痛みに喘ぐ男に声をかけながら、黒い顔を今度は赤くして、シンタローは木材に力を込める。
 メキッと差し込んだ木材に亀裂が入る。構わず、シンタローは更に力を入れた。郵便局の建物を糧にしても、なお腹を空かせた炎が、すぐ背中の側まで迫ってきている。
「ぐっ、今だっ!」
 一瞬だけ、重い柱が浮いた。若い男は必死に腕の両肘を使って体をずらし、右足を引き抜く。引き抜いたすぐ後に、梃子にしていた木材は折れて、まるでギロチンの刃のように柱が瓦礫に沈み、粉塵を撒き散らした。
 はあはあと二人は肩で息をする。
 少しの猶予も許されない。シンタローは男を立たせると、肩を貸し、安全な場所へと連れて行こうとした。
 しかし、
「……!」
 あらためて周囲を見回せば、瓦礫のあちこちから、か細い悲鳴が聞こえてくるのだった。なぜかただの道路にも集中して爆撃が行われたらしく、深く陥没している。沢山のうめき声は、そこからするのだ。
 一つのことにシンタローは気付く。地下道だ。地下道の浅いポイントを狙って、敵は爆破を行ったのだ。
 レジスタンスとして抵抗を試みていた人々の多くは、地下道に潜み隠れていた。敵はそれをすべて熟知した上で、効果的に狙い撃ちした。
 地中貫通型爆弾、爆発力を抑えたバンカーバスターの亜種で打撃を与えたのだろう。
「……急ごう!」
 シンタローは、首を振る。今は肩を貸した男を、避難させるのが先決だった。
「必ず戻ってくるからな! それまで待ってろ!」
 瓦礫に埋まった塹壕のようになった穴に向かって、そう呼びかけると、シンタローは道を急いだ。
 炎が迫るこの状況で、自分に何ができると思ったが、それでもそう言うべきだった。
 これも一部使用されたと思われるクラスター爆弾は、本体の爆発後もその1/4以上が残ったまま地上にばらまかれるので、いまだあちこちで爆発が起きていた。道々を埋め尽くしている瓦礫の絨毯は、地雷が埋没しているのと同じく危険な状態だ。一歩一歩、足元を確認しながらでないと、進めない。
 降り注いだ悪魔の兵器は、生き残った人々の命も四肢も奪っていく。炎よりも早く回る煙によって、街が侵されていく。
 シンタローが道を数往復する頃には、残骸の中のうめき声も、炎の中でもう聞こえなくなっていた。



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 夜が明けて、途切れ途切れにもたらされる情報により、実態がわかりはじめる。
 敵が空爆を行ったのは、主要軍事施設をはじめとする国内の重要施設であった。まずインフラの破壊により、指揮命令系統の壊滅と、軍事力の削減を目的としたらしい。
 レーザー誘導弾等の高い正確性を誇る兵器をピンポイントに使用し、効率的な破壊を行った。
 さらに民間人を城に入れて、古式ゆかしい篭城戦のような体裁をとった国に対し、篭城に必要な生活基盤の剥奪を目指したのであろうか。
 ざっと並べるだけで、地上と地下二階までの食料庫、発電所等のエネルギー供給施設、橋などの交通要所、それに水道施設や貯水池、浄水場が集中的に爆撃を受けたという。輸送手段、通信機器がレジスタンスに利用されることを恐れてか、郵便局といった運送業務に携わる施設も狙われた。占領後の再利用すら考えていないのではないかと思われる徹底ぶりである。
 もちろん導水施設その他は多重化されていたから、完全に干上がるということはないにしろ、これは小国にとって大きな打撃となった。
 城の巨大な外郭に守られていた民間人からは――あくまで避難に応じた者だけであったが――犠牲者が出なかったのが幸いであるが、食糧問題や衛生問題等、事態は深刻を極めていた。
 それにしても敵は、一つの無駄な爆弾も落とすことなく、あまりにも効率的な破壊を行ったのだ。
 まるですべての重要施設の位置を知り尽くしているように。地下道その他あらゆる経路を把握しているように。国軍に加えて、さらに厄介な市民抵抗運動の要所までもが筒抜けであるように。
 当然のごとく、各所で内部スパイ説が蔓延したが、もう今さらであった。遅かった。



 兵士たちは焦土での作業に追われた。作業といっても復旧作業ではない。埋もれている黒焦げの死体を掘り起こして安置するか、地雷化している爆弾を撤去するか、であった。シンタローも眠る間もなく、瓦礫の山を掘り続けた。
 日の暮れ際に、新たに掘り起こした十数体の遺体と一緒に揺られていく軍用トラックの荷台の上で、シンタローは通り過ぎる大通りの風景に目をやった。そして、ここは郵便局のあった場所だと思った。
 赤い夕陽が廃墟を照らしていた。かつて立派な正面玄関のあった場所には、二本の焼け焦げた柱らしきものが、禿山に最後に残った枯れ木のように、弱弱しく空を仰いでいた。墓標のようにも見えた。
 あちこちに煉瓦のかけらが散らばっている。針金のついたコンクリート片が痛々しい。
 過去にシンタローが、捕らわれた少年を助けるために建物に侵入した時に使った、地下の道。地下道も剥き出しになって、驚愕のままに口を開けて死んだ顔のようだ。トラックは急ブレーキを踏んで、その穴を避けて脇を通った。
 背後に広がっていたはずの葡萄畑も焼き払われて、今は無人の黒い草原が佇んでいた。焼け残った柵の残骸が視界に入ったが、豊かな葡萄畑をいっぱいに占領していた、絡み合った枝と蔓の面影は、もはやない。
 がたがたと揺れながら走るトラックの荷台から、シンタローの黒髪が流れていく。
 崩れ煤けた石段には、疲れたような顔をした老婆が、一人ぽつんと座っていた。シンタローの知らない顔であった。皺の寄った額に、傷跡を刻んでいる。何かで飛び散った破片を、正面から受けたのだろうと思われた。その程度で済んでよかった、とシンタローは自然に考えて、やりきれない気持ちになった。
 老女への同情心を沸き起こすための余裕さえ、自分は失っていた。
 トラックは荒れ果てた道を走った。分厚いタイヤは石や瓦礫を弾き飛ばし、窓の一部だったと思われる板ガラスを轢いて、粉々にした。心だって街だって、粉々になるのだ。
 もう懐かしい場所は見えない。風が吹き、崩れた壁の塵芥を巻き上げた。



 わずかなりとも休息時間が貰えると、崩れ落ちるように倒れこんで眠りはじめる同僚たちを他所に、シンタローは疲れた足を叱咤しながら、遺体安置所を見て回った。
 急場で作られた安置所は、元は体育館であったりホールであったりした建物で、筵のような粗末な敷物の上に、無造作にごろごろと黒ずんだ塊が並べられていた。特有の臭気がする。取り縋って泣く遺族すら、ほとんどいなかった。
 ただ閑散としていた。命なき者ばかりが、存在を主張していた。遺体は顔もわからない程の損傷を受けていることが多かったから、おそらく身元確認に時間がかかるのだろうと思われた。
 それでもシンタローは、遺体の一体一体を、丹念に見て回った。側に添えられている遺品、それも死に場所の近くにあったというだけで、真実に本人のものかも疑わしいのだが、その一つ一つに、見覚えはないかと目を凝らした。
 結局、男らしき遺体は見当たらなかった。跡形もなく消し飛ばされてしまったという可能性もあったのだが。
 あれから代書屋には会えない。男の行方はようとしれ知れなかった。
 安置所を回るたびに、シンタローは激しい罪悪感を覚えながらも、わずかな安堵を感じていたのだった。









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