さいはての街

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「帰り、遅くなっちまったな……」
 シンタローは家路を急いでいた。
 これまでは気楽な独り暮らしで、帰りが遅れようが早かろうが、どうってことはなかったのだが、今は少しばかり事情が違う。
 たたたた、と石畳を踏む自分の足音がして、曲がりくねった狭い小路を過ぎ、アーチ形のくぐり門を通り、裏路地を急ぐ。
 まるで谷底のように深くて冷たい、石造りの建物の狭間を、擦り抜けていく。
 見上げる空は、細く暗く切り取られていて、ちらちらと星がまばらに輝き始めていた。
 ……あの日、森から二人で帰った日、自分は男にこう言ったのだ。
『アンタ、しばらくここにいろよ。どこにも行くトコねーんだろーが』
 自分が何者かがわからないというのに、行き場所があろうはずがない。
 男は迷った様子をして、結局は了承したのだが、
『じゃあ、この金貨、全部君にあげるよ』
 そうあっさり言われたのには、驚いた。
 広い邸宅が買えるんじゃないかと思う位の、途方もない金額は、むしろ人の感覚を麻痺させてしまうのだろうか。
『バ、バカ! 俺が金貨使ってたら、街の人にめちゃくちゃ変に思われちまうよ! むしろ使えねーの! 記憶が戻った時のために、大事に取っとけよ! 金のコトなんて心配すんなって。困った時はお互い様だろ。俺が養ってやるよ、それぐらいの稼ぎはあるっつーの』
 そんな会話を交わす程度には、シンタローと男は親しくなっていた。



 夜の風が、シンタローの黒髪に触れて、通り過ぎていく。
 ぽうっと暗い中に、あの屋根裏部屋に、明かりがついている。
 今日も一日、俺、頑張ったなあ。
 その明かりを見ると、何だかシンタローの心にまで灯がともるような、そんな気がした。
 自然に路地を歩く足が、速くなる。
 誰かが自分を待っていてくれるというのは、嬉しいことだった。
 いい匂いがする。



「……ただいま!」
「おかえり」
 扉を開けたすぐ先に続く、小造りのキッチンに男は立っていて、コトコト鍋の蓋が揺れていた。
 男は料理上手なようで、何もしないでいいと言っているのに、勝手に夕食と朝食、家事全般を引き受けてしまったのだ。
 昔馴染んだことをしていれば、何かのきっかけで記憶を取り戻すことだってあるかもしれないよという言葉に、まあそれもそうかなと、シンタローは納得したのだが。
 それにしても、その外見に似合わず、男は家仕事を何でも器用にこなした。
 ちょっぴりその方面には自信のあったシンタローも、文句のつけようがない程に。
「なんか手伝うことある?」
「いや、大丈夫だよ。でもあと少し時間がかかるから、先にシャワーを浴びておいで」
「……おうよ」
 シンタローは、肩にかけていた鞄を、壁際のカウチソファに投げる。
 小さな浴室に入り、熱い湯で一日の疲れを洗い流す。
 さっぱりした気持ちで出てくると、机に湯気のたつ料理が並べられている。
 これがここ最近のいつもの流れだった。
 ……ソファは、床で眠るのは体に良くないと、シンタローがいいと言うのに勝手に男が購入してきたのだ。
 ちょっとしたアンティーク調で、木彫りの波型をした背が美しい。
 このみすぼらしい屋根裏部屋に、その藍のベルベッドが意外とよく似合って、何だかんだで重宝している。いくらするのかは知らないが。
 男とシンタローは、難航した協議の結果――これは主にシンタローが自分はソファでいいと言い張ったからだが、一晩交代で順繰りにベッドとソファで眠っているのだった。



 男の作る食事は、どうしてか家庭的な味がした。
 何故かシンタローが、食べたことがある気がする懐かしい味。舌の感触。
 それに自分の作る味と、似ているような感じがした。美味しいと感じる方向性が、同じだ。
 男が作ることのできる料理の種類で、その出身地がわからないものかと考えてもみたこともあったが、『おそらく私は何でも作れるよ』と、嫌味だと感じる間もない程に言われてしまったので、シンタローとしては『そうかよ』と答えるしかなかった。
 そしてそれはその通りだということを、男は日々証明している。
 不思議な人間だ。
「シンちゃん」
 突然そう聞こえて。青豆と牛肉のフリカッセと格闘していたシンタローは、びくっと身を震わせ、男の顔を見、それから赤くなった。
 相手の青い目が、悪戯っぽい表情をしている。
「なっ……何だよっ、その呼び方!」
 呼ばれた瞬間、背筋がつんとした。
 男は笑っている。
「買い物してたらね、君が通ったんだよ。一生懸命に走っていたから、私には気付かなかったんだろうね。でも店の人が、『あれはシンちゃんだよ』って。君はそう、呼ばれてるんだね」
 シンタローは思わず、握ったスプーンをがちゃんと置いた。
 口から泡を飛ばす勢いだ。
「あ、あのさ、カッコ悪いから、そんなのやめてくれよな。アンタが呼ぶと、なんか似合わねェよ! 市場のおっちゃんおばちゃんなら、まだいーけどさっ!」
「いいじゃない。可愛いのに」
「カワイかねーよっ! カワイか!」
 自分がムキになっても、相手はどこ吹く風で、涼しい顔をしている。
 そしてまた、
「シ・ン・ちゃん」
 歌うように男は呟いて、嬉しそうにスープを一口啜った。
 クッソ。
 うう〜と腹を立てて男を睨むが、そうした所で彼は痛くもかゆくもないらしい。
 むしろ嬉しそうで、悔しい。
 シンタローは自分がどうすれば、この男に打撃を与えることができるのかがわからない。
 とりあえず、とりあえずは。
 こいつの記憶が戻って名前がわかったら、うんと恥ずかしい呼び方で呼んでやろうと、シンタローは心に決めて、パンに齧り付いた。



 そんな日々だったが。
 ちょっと最近、気になることがシンタローにはあった。
 男が、軽くだけれど、何かにつけて。
 キス、してくる。



 自然な仕草で、何気ない瞬間に、さっと唇が重ねられて、離れていく。
 例えば、出かける時。
 例えば、夜寝る前。
 例えば、今みたいに。
 食事を終えてテーブルを離れる瞬間。
「おわっ!」
 気を抜いた瞬間を狙って、まるで隼みたいに高い位置から掠め取られる。
 あまりにも慣れたその動作に、シンタローは毎度呆れてしまう。
「はは、ごちそうさまの挨拶。おいしかった」
 満足そうに、にこにこ笑っている男のその顔。
 いちいち怒髪天を突く自分だが、『つい。どうもこれが私の癖だね。昔の私は、これが習慣だったようだ』と言われてしまえば、馴染んだことをやるのが記憶を取り戻す近道、が、お題目な以上、そう邪険にするのもどうかという気がする。大人気ない。
 挨拶。ただの挨拶って。それでもやっぱり、いちいち怒りまくってしまうシンタローである。
 だって、だってさ。一体どんな所に住んでたんだよ、コイツ?
 こんなの、普通にするモンなのか?
 シンタローは信じられなかった。
 だから、聞き分けのない大型犬にするように、毎度言い聞かす。
「いいか! 次にしたら、ここ出てけヨ! 絶対だからな!」
「はは、病人、病人」
「ほんとかよ! いーかげんにしろよ、まったく!」



 そして、さらに気になること。
 男の、熱視線。
 コイツの視線は何かが違うと、シンタローは思っている。
 一緒にいると、自分の一挙一動を、男が熱く見つめているような気がする。
 自意識過剰なのかもしれないと思ってもみるのだが、自分が振り向くと、いつも男と視線が合って、それは嬉しそうに微笑まれるので、あながち間違いではないのだろうと思うが。
 その理由が、わからなかった。
「だ――ッッ! 何じろじろ見てんだよっ!」
「別に? なんとなく」
「俺なんか見て、何が面白いんだか!」
「え? 面白いよ。飽きないね。いいじゃない、見るのはただでしょ。倹約家の君に合わせてるんだよ」
 とにかく、シンタローとしては納得のできないことは多々あったが、
 こんな日々が、このまま過ぎて行くのかと、シンタローは思っていた。
 この男との生活は、なんだか……まるで、ずっと昔からそうだったかのように、自分にとっては自然なもので。
 ……この視線と、キスさえなければな!
 男の記憶がいつか戻るだろうということすら、すでに考えないようになる程までに、短い間にシンタローはこの生活に馴染んでしまっていた。



 翌日の夕暮れ。市場でのことである。
「ほーんと最近、シンタローさん、付き合い悪いべ!」
 世界各国の人間が流れ着くこの街では、さして珍しくもない訛りで、代書屋が不平を漏らす。
 彼は今、久し振りに恋文を代書する仕事を受けたらしく、この市場の隅に木椅子と机をちょこんと構えて、いい香りのする紙にペンを滑らせている所だった。
 最近では、代書に花なんかをつけて、メッセンジャーの役割も請け負っていたりするらしい。
 口の悪い古着屋に『顔だけ』と評されるこの代書屋が、毎度その古着屋に借りているパリッとしたスーツでメッセージを女性に届ける様は、なかなか絵になるものだとは、友人の新聞屋の弁。
 ある意味、郵便屋の商売敵みたいな存在でもあるのだが。
 机の側には、当の恋文を頼んだ客と、新聞屋がいる。
 代書屋は、達筆を生かしてこの仕事を始めたとのことだが、肝心の文章の中身を考えるのは苦手らしく、新聞屋が客から事情を聞き取って文章にし、口にして、それを書き写すという手順を踏んでいるようだ。
 たまたま近くに配達先があったので、ついでに顔でも見て行こうかと、彼らの所にシンタローが立ち寄った時は、その真っ最中だった。
 新聞屋が厳かに文章を諳んじている。
「……おお、麗しの君よ、君に会えるのならこの命、投げ出しても惜しくはない……っちゃ」
「よぉし、書くべ〜 ……おお、うるわしの……このいのち……はない……っちゃ……」
「あっあっ、だから、僕の口癖は書いちゃダメだっちゃよ! お客さん、お客さんはこの相手のお嬢さんと、会ったらその後、どーするんだっちゃか? ふんふん、お茶でも飲みに行きたいっちゃね! そぉだったらば、続きは……ええと……君と共に、甘い蜜を……」
 相変わらずだなと、シンタローは笑って肩を竦めた。
 代書屋は代書を続けながらも、シンタローさんは付き合いが悪い、としきりに文句を言っている。
 そうこうする内に、街角から、可愛らしい幼い声。
 だーるまさんが、こーろんだ、やろうよー! と。
 街の子供たちが、路地から彼に声をかけてくるのに、『人気者はつらいべ〜』とばかりに、その合間合間に手を振ってやっていた。
 わりと器用な奴だ、とシンタローは思った。



 代書屋がなんとか文章を書き上げて、客から恋文の届け先を聞き、代金を受け取っている間に。
 シンタローさん、本当に最近どげしたんだぁか? と新聞屋が尋ねて来たので、シンタローは苦笑してみせた。
 前は何やかやと一緒に食事をしたり飲みに行ったりもしていたので、不審に思われるのも当然だろう。
 職業が職業だけに、この男は結構な知りたがり屋なのだ。
 その分、重宝している面もあったが、やれやれと感じる、今のような時もあった。
「でっかい犬コロ、拾っちまったんだよ。うちの大家には内緒だぞ? いちいち煩いからナ」
 そう、ぼかして答えると、
「うわぁ、見せて欲しいっちゃ!」
 動物好きの新聞屋が、目を輝かしている。
「う、うーん……お前の想像するようなカワイイ動物じゃないから……どーかな……」
 言葉を濁して、話を変える。
「そういや最近、ナンか目新しい情報とか、ねーの?」
 情報に通じている彼なら、何処かの金持ちが行方不明になったとか、そういったことを多少なりとも知っているかもしれないと思ったからだ。
 男には、あまり自分の存在は人に触れないで欲しいと言われていた。
 以前にシンタローが、新聞屋に頼んで新聞広告を出してみたらどうだと提案したことがあったが、断られた。
 自分はあんなに金貨を持っていたのだから、何か特殊な仕事に就いていたり、公にはできない身分だという可能性があると指摘されて、なるほどと感心したシンタローである。
 万が一、何処かのお忍びの要人だったりしたら、記憶が戻る前に抹殺されてしまうことだって、あるかもしれないよと、冗談めかして彼は言っていた。
 ……そういう、ものなのかなあ……?
「ここから5ブロック先の家の納屋で、アヒルがなんと直径20センチの卵を産んだっちゃ! しかも割ってみると、黄身が3つも入ってたっていうんだぁ。不思議なこともあるもんだっちゃ〜」
「……しっかし、この国は平和だな」
「まったくじゃけんのぉ。他国では戦争つうて、今もドンドンパチパチやっとるらしいが……これもあのお城のお陰かのう」
 何時の間にやら側にいた魚屋が、ワハハと大口を開けて笑っていた。
 この街の人間は、支配者である一族を、『お城』または『一族』と呼ぶことが多い。
 街を見下ろす古城は、毎朝目にするもので、シンタローのような流れ者にも馴染みの深い存在だった。
「……あの一族はんのように、他人の心を読めたら、友達たくさん、できますやろか……」
「や、実際、気持ち悪がられるんじゃねーの、一般社会にいたらさ、そんな人間」
 これも何時の間にか魚屋の陰にいた古着屋に、冷静に返すシンタローである。
 精神感応……か。他人事だが、何だか凄そうな能力だなと、ぼんやりと思う。
 近くにいる相手の考えていることを読み取ることができるとか、どうだとか。
 直系だと焦点さえ定まれば数キロ離れた先でも支障はないというが、何処までが真実なのかわかったものではない。
 尊敬と畏怖とが入り混じって、事実が誇張されていることだってある。
「噂じゃあ、その気になれば無線や電波通信なんかも読み取れるってことだっちゃよ。おっとろしい人間がいたもんっちゃね〜 そんなのできたら、頭がおかしくなるっちゃよ!」
 新聞屋が、ぼかぁ、普通の人間で良かったっちゃ! と嬉しげに言い、もっともだと一同は頷いた。



「シンタロー! どうじゃ、今日は大漁じゃったけん、大サービスじゃあ! 持って行けい!」
 そう魚屋が、立ち去り際に声をかけてきたかと思えば、どっさりと、袋一杯のアンチョビやカタクチイワシといった小魚、小エビが、シンタローの胸に押し付けられた。
 大漁と言いつつも、小物だらけの所がこの魚屋らしいと思い、その気前の良さにもほほえましくなり、笑って『ありがとよ』とそれを受け取る。
 たっぷりのオリーブ油で、一気にからりと揚げて、ワインビネガーをかけてみようかなと、献立が頭の中で瞬時にでき上がる。
 でも今夜は男がもう食事を用意しているだろうし、明日まで持つかな、なんて。
 そんなことを考えながら、家路についたシンタローだった。
 自分一人だけじゃない食卓の献立は……考えるのが、楽しい。



 路地を行き蔦の這う建物を目の前にし、屋根裏部屋につながる、いつもの螺旋階段を登ろうとして。
 ふと気配を感じてシンタローは足を止めた。
「……?」
 小さく声が聞こえたような気もする。
 建物の裏を、ひょいと覗き込んでみると、男の背中が見えた。彼は誰かと話し込んでいるようだった。
 暗がりなのと男の広い背中に隠れているので、相手の顔も性別もよくはわからなかったが、細身で小柄、そして漂う雰囲気が……なんだか、綺麗な感じがした。
 思わず、その光景を見つめていると、すぐに男が振り向いて、自分を認め、嬉しそうに笑う。
「おかえり」
 そして踵を返し、自分の方に悠然と歩いてくる。
「すまないね、夕食の仕度はまだなんだ。これから買い物に行こうと思ったんだが……その必要はないみたいだね」
 シンタローの手にしている袋を見て、彼はそう言った。
「お、おう……」
 そんな会話の間に、男の会話の相手は去ってしまっていた。



「なあ、さっき話してたの、誰」
 シンタローがやっとそう聞くことができたのは、夕食が終わって、皿洗いをしている時だった。
 男が洗う皿を、キュッキュッ音を立てて拭いていく自分。
 食器籠に、拭き終わったそれを戻すのが少し乱雑になってしまって、皿と皿が触れ合う鋭利な音がして、何だか気まずいなあと思った瞬間に、その言葉が口をついて出た。
「誰って言われても」
 そう多くはない二人分の皿を洗い終えて、錆付いた水道の蛇口を固く締めて、濡れた手を拭いてから、男は言った。
「買い物に行こうと外に出たら、声をかけられたんだよ。花を買って下さいって。よくあることだろう」
「……ふーん」
 それにしては妙な雰囲気だったと思ったが、それ以上、自分は何も言えなかった。
 そういえば、自分が仕事をしている間、男は何をしているのだろう。
 記憶を取り戻すために、森や近くの街を訪ね歩いてみたりしているとは聞いていたが。
 この男には、謎が多すぎるのだと思う。
「もっとも、売っていたのは別の花だったのかもしれないけどね」
 急にそう言われて、『へ?』とシンタローは間抜けな返事をしてしまい、慌てて『あ、ああ』と生返事を重ねた。
 暗くなると客引きをしている人間がいることはシンタローも知っていたから、別の花、という意味もわかったつもりだった。



「何、気になるの?」
 ソファにかけた男は、長い指でその美しい木目をなぞっていた。
 シンタローは所在無げに、読みかけの本を棚から出したり戻したりしていた。
 窓の外は、暗い。
「君はそういうの、気にならないのかな。いや、気になるよね。男だし」
 自分としては、そういうことには疎いつもりは全くなかったが、この男の前だと、どうしてか気後れがした。
 話を合わせなくてはと、懸命に浮いたことを考えてはみたが、上手くいかなくて、結局シンタローはこう言った。
「ア、アンタって、遊んでそーだよナ。記憶取り戻したら、あ、愛人の一人や二人はいそう」
 冗談で言ったつもりなのに。
「さあ、一人や二人で済むんだろうか」
 そう可笑しそうに返されて。
「……あっそ」
 少しムッとして、シンタローはまた手にしていた本を、乱暴に棚へと戻した。背表紙の端が歪んで、帯紙が破れた音がした。
 その瞬間、男がソファから立ち上がって、自分の心臓が軽く跳ねて、我知らずそっと男を見上げる。
「食後に紅茶を入れようか。良い葉が手に入ったよ」
 そう優しく彼は言って、再びキッチンに立った。



「おやすみ」
「ああ、おやす……わっ、また! こっのぉ!」
「痛い痛い。病人には優しくしてよ」
「出てけーっ! こんなのすんなって言っただろうがぁ! 出てけよーっ!」
「はいはい」
 夜も更けて。
 上機嫌でソファに横たわる男を睨みつけながら、シンタローは触れられたばかりの唇を、手の甲でこれ見よがしにゴシゴシ拭いた。
 不機嫌にランプの明かりを吹き消し、軽く煤を払った。
 本当にどうすればこの男に一矢報いることができるのか、真剣にその方法を知りたいと思った。
 他の周囲の人間には、シンタローは兄貴肌、自分のペースで接しているだけに、この男とのやりにくさが、やけに悔しかった。
 世の中には、天敵、つまり絶対に叶わない相手、自然界であれば自分が一方的に捕食、寄生されっぱなしの相手、が存在するというが。
 俺にとっては、もしかしたらこの男が初めて出会う天敵なのかもしれないぞと、シンタローは、するりとベッドの中に滑り込みながら、思った。
 柔らかい感触の中で、拳を握り締める。
 俺はこの男にだけ、精神感応ができれば良かったのにと、ふと感じた。
 彼の心を読むことができれば、鼻を明かしてやれるのに。
 とにかく、早急に対抗手段を考えようと、毛布を頭まで被る。
 昨晩は男がそこに寝たせいか、うっすらとあの覚えのある香りに、包まれるのがわかった。



 その夜、シンタローは寝付けなかった。
 普段は気にならないのだが、今夜は不思議に男の残り香を意識してしまう。
 一度意識してしまうと、駄目だった。
 小さなドーマー窓から漏れる月の光を眩しいなと感じ、シンタローはもぞもぞと身動きをする。
 落ち着かない。何度も寝返りをうつ。
「……眠れないの……?」
 いつかの晩、自分が男に投げた言葉を逆に返されて、シンタローはどきっとした。
 身体はいつも通りにクタクタのはずなのに、妙に神経が冴えて、眠れないのだった。
 男が、ソファから身を起こす気配がした。
「ん……ま、まあ……」
 生返事をすると、相手は何が誤解したようだ。
「そうか、ごめんね。男の子だもんね。君は花も買わないようだし。最近は私がいて、一人で始末もできなかったよね。気遣ってあげられなくって、すまなかったよ」
「は? な、何がっ!」
 慌ててシンタローは、被っていた毛布から黒い頭を出した。
 ベッドに寝たままだったのは、起き上がるのが怖かったからだ。
 床板がゆっくりときしむ音がして、明かりを消した中、男が近付いてくる気配がした。
 ただならぬ雰囲気を感じて、シンタローは身を固くする。毛布を握り締める。自分の足の指が、突っ張っているなと思う。
 その姿が視界に入って、冷たい表情を意識する。男の両の瞳が綺麗だと、突然シンタローは、場違いに感じた。



「……挨拶じゃない本気のキス、してみるかい」
「あ、あんだよっ、こっち来るなよっ!」
 シンタローの掠れた声も空しく、ぎしっとベッドが音を立てて、別の体重を受け止めた。
 自分の顔の両端、そのすぐ側に男の両腕が置かれて、仰向けになっている自分の上に、まるでしなやかな獣みたいな体が覆い被さってくる。
 床に、白い光に照らされた男の影が映っていて、息を飲む。
 え。え。
 シンタローの思考はあまりのことに停止していた。
 無力な生き物みたいになってしまった自分を感じている。
 ふふ、と至近距離で男が笑って、自分の唇を指で撫でてきたから、その感触にハッと我に返る。
 声が出なかったので、せめて心の中で、シンタローは精一杯の大声で叫んだ。
 し、しまった! 俺は! 俺は何を拾ってしまったんだぁ―――ッ!



 今宵は月が出ていたはずだった。
 それなのに、途端に目の前が真っ暗になって、影が落ちて、息が詰まる。
 柔らかくて濡れたものが自分の唇に押し当てられて、その感触が不思議で身を捩じらせても相手は離してなんかくれなくって、やがて舌が入ってきて、歯を噛み締めれば良かったと思った時にはもう遅くって、あっと言う間に自分の舌が絡み取られて、翻弄されていく。
「……!」
 反射的に押しのけようとした両腕も、手首を掴まれて拘束されて、ぴくりとも動かない。
 自分の内側をなぞられるような男の舌に、頭の芯がじんじん痺れてきて、白いもやがかかったようになって、下半身に甘い疼きが広がっていく。
 何だ、何だ、これ。
 何だ、誰だよ、この男。
 この甘い匂い。この……手の感触……。
「かわいそうに」
 どれだけの時間が経ったのかもわからない。
 唇が離された瞬間、シンタローははあはあと息をついた。
 暗い天井がぼんやりと見えたが、霞んでいる。
 自分を見下ろしている、男の顔。
 その金色の髪が、月の光で白銀に見えて、その鋭利な骨格が影を刻んでいた。
 彼は、薄く微笑むと、耳元に囁いてきた。
 もう一度、『かわいそうに』と繰り返すと、こう低く呟く。
「私のこと、危険じゃないって、思ってた……?」







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