さいはての街

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 その日のシンタローは、散々だった。
 仕事をしていても、ぼんやりとしてしまって集中できない。
 ふと気を抜くと、どんどん頭の中が柔らかくてふんわりしたものに占領されていき、もう意識はそればっかりに気を取られて、機械的に身体を動かすことしかできない。
 足が踏みしめる地面はいつもと同じであるはずなのに、やわらかな綿の上を歩いているような感触がする。
 浮遊感。



 目覚めた時は。窓から差し込む陽光に、もそもそと起きあがった空間は、確かにいつもの朝だったはずだ。
 チチチチ、と小鳥が鳴いていて、窓枠を嘴でこつこつとノックしていた。
 部屋は相も変わらず狭く、古い木の香りがして、部屋の隅のキッチンでは、男が朝食を作っていた。
 そしてこちらを見て、目を細めて言った。
「おはよう」
 部屋の中央、木机には、グリンピースの青々としたさやが白紙の上に積まれていて、男が鍋でかき混ぜているのは豆のポタージュか何かなんだろうな、ということがわかる。
 小鳥が他へと飛び立っていく羽音がした。
 穏やかな、朝。
「……」
 シンタローは頭を振って、乱れた自分の黒髪を引っ張ると、ベッドに起き上がったまま、しばらくぼんやりとしていた。
 毛布を腹の上で掴んでいる。
「……う」
 何だったのだろう。
 自分はきちんと夜着を身につけていて、ベッドシーツにも寝乱れ以外には、さして変わった所も見受けられなかった。指先に触れる柔らかい毛布の感触。
 変わった所――そういえば、喉が痛かった。やけに乾いて、いがらっぽい。
「……」
 顎下あたりを押さえて、コンコンと咳をしてみた後、毎朝の習慣通りに身体が動いて、シンタローはベッドから降り、棚を開けて衣服を着替える。
 まだ頭がぼんやりしていた。



「朝御飯、できてるよ」
「ん……」
 男が、部屋中央の机に、手際よく湯気の立つ皿を並べている。
 大皿に盛られたサラダは、みずみずしく色鮮やかで、目に優しかった。
 シンタローは、まだ何処かが麻痺したような鈍い世界の中、なんとはなしにその野菜たちに視線を落としている。
 赤、青、緑、黄……色の取り合わせ。
 木製の皿の茶色。それを持つ、男の手の白さ。
 白……?
 そしてシンタローは、その手を見てしまうことになる。
 男の右手の人差し指には、酷い傷跡があった。
 弧を描くように、茶と赤に滲んだ傷。手当てもせずそのままにしているのだろう、腫れて、それは醜く、その手にとても不似合いなのだ。
 ……。
 シンタローの思考は、しばらく停止した後。
 途端に迅速に動き出す。
「……ッ!」



 一瞬で霧が晴れ、昨日の白黒世界が脳裏にフラッシュバックする。
 電流に打たれたように、シンタローは目の前の男の顔を、呆然と眺めてしまう。
 すると男は、何事もなかったかのように、にっこりと微笑んできた。
 その平然とした様子に、シンタローの心に不安が立ち込める。
 ……あれ?
 ま、まさか、あれは夢……?
 だとしたら。だとしたら、俺……俺って……。
 あ、あ、あ、あああああんな! あんなッ!
 いや違う、絶対に違う! 断じてあれは俺の妄想じゃないッ!
 だって傷! この男の手の傷!
 俺が思いっきり噛み付いた!
 こいつ、こいつ……。
「なっ……なっなっな……」
「なあに、『な』って。早くお座り。スープが冷えてしまうよ」
 のんびりと男が椅子をすすめてくるので、思わず足元に目をやる。
 部屋の隅が目に入る。そこには本が一冊落ちていた。
 昨晩……棚から落ちて……頁が捲れて……。



 突然、あられもなく両脚を広げて喘いでいた自分の姿が、蘇る。
 なっ……なっなっな……。
 シンタローの体はわなわなと震え、歯の根がガチガチとしてくる。
「あれ、どうしたの」
 心底不思議だといった様子で、声をかけてくる。
 そんな男に向かって、彼はその黒髪を逆立てる勢いで、全身で叫んだ。
「なっ、なななな、何しやがったんだ、俺に何しやがったんだ、アンタ―――ッッッ!!!」
 そしてその答えを、男が返す前に、シンタローは屋根裏部屋を、脱兎のごとく駆け出したのだった。



 そして――
 この通り、散々なのである。
 シンタローは郵便配達を続けながら、自分の頬っぺたを音が出るほど思いっきり張った。
 しっかりしろ、俺。
 ……さっきも配達先を間違えてしまって、白髭の頑固爺にステッキを振り上げて怒鳴られた。
 庭先で寝ていた犬の尻尾を踏みつけて、盛大に吠えられた。
 ちくしょう。
 自転車に凭れて、シンタローが唇を噛み締めていると、路地で縄跳びをしていた顔見知りの小さな女の子が、こちらに向かって笑いかけてきた。
 余裕がある時はいつも頭を撫でてやっている自分だが、今日は勿論そんな余裕なんて無い。
 はは、と顔を作って、ぎこちなく笑い返して、自転車を曳いて歩き出したら、前方不注意。
 思いっきり焦茶色の路地壁に、鼻先をぶつけた。
「……だっ! はは……じゃあな!」
 女の子は不審そうな顔をしていたが、仕方がない。
 これもあれもそれもすべてすべて。あの男が、悪いのだ。



 シンタローは街を隅々まで脚や自転車で走り回り、人々に手紙を渡し、もしくは郵便受けにコトンと入れる。
 人々の様子を知り、顔を見、笑う。好きな仕事であるはずなのに。
 今日は、ちょっとでも気を許すと、意識はその仕事を離れて、あのイメージが触手を伸ばしてくる。
 暗い部屋。長い指、綺麗に切り揃えられた爪、指節――白い手。
 自分の首筋にかかる相手の息の感触、口に含まされた指、下半身を弄る指、舌……自分が手を絡めた金髪、薄く笑う唇、余裕を湛えた青い目……男の匂い……。
「だ―――ッッ!!!」
 ばさばさばさ、と塀の上にとまった小鳥たちが、シンタローの大声にびっくりしたように飛び立った。
 彼は乱暴に、煉瓦造りの家の郵便受けに封筒を入れると――ちゃんと宛名を二度確認して――自転車にまたがり、しかめっ面をして、また走り出した。



 自転車で風を切っていても。シンタローは、どうかすると自分が人差し指の腹で、唇をなぞっていることに気付く。
 思い出していることに気付く。
 キスされた時は、イヤだ、と感じたというのに。
 あの時の濡れた感じだとか、かかる息の熱さだとか様々のことを、つい思い返しては、かあっと赤面してしまう。
 俺の馬鹿、馬鹿! と首を振る。
 過去に人並み程度には経験のあった、女の子とのそれとは全く違った、感触と強引さが厭わしかった。
 この、この、俺としたことが、男に本気でキスされるなんて!
 ……あんなとこを触られて、い……いいいイかされてしまうなんて……。
 信じられねぇ! 信じられねーッ!
 うわああああああああああ―――ッ……………………え?
 ガッタン! ガシャガシャガシャ―――ンッッッ!!!
 シンタローは今度はノーブレーキで自転車ごと、市場の隅に積み上げられた樽山に、真正面からぶつかった。



 幸い、樽の中身に影響はなかったようだ。
 シンタローはぺこぺこ謝りながら、シェリー酒やワインの詰まった重い樽を、元通りに積み直すはめに陥った。
 酷い重労働だ。それもこれも、あいつのせいだ。みんなみんな……!
 積み終わった所で、額の汗をシンタローが手の甲で拭っていると、シンちゃん、どうしたんだい、らしくないね、等と市場の店主やおかみさんが、声をかけてきた。
 雨でもないのに道が滑ったのかしらん、でも怪我しなくて良かったねぇ、たまにはそういうこともあるよ、自転車にまめに油差してるのかい、ああ今日もお世話様だねえ、ほら、これを持ってお行き。
 お節介好きの彼女らに、あっと言う間に細々としたものを胸に押し付けられてしまうシンタローである。
 さすがにこれには顔をほころばせ、やっと本日初めての自然な気持ちで、ありがとうを口にすることができたのであったが、その次に言われた言葉で、彼はすぐにあの悪夢へと引き戻された。
 シンちゃんの知り合いって方が、最近ウチをご贔屓にして下さるのよ、とかどうとか弾んだ声が聞こえてきて、あの男はこの市場で買い物をしているんだなと、シンタローは仏頂面をした。
 俺のコト、何か言ったのかよ、と気になってしまう。
 そんなシンタローの様子など気にするでもなく、普段は『方』『下さる』なんて言葉を使うのも聞いたことがないような、いつも夫を箒で追い回しているような、そんなよく言えば自由奔放なおかみさんたちが集まって、わいのわいのと騒ぎ出す。
 『シンちゃんのお知り合いとか仰ってたわよ』『やだわぁ、アタシのこと、お嬢さん、なぁんて呼んでくれちゃって』『ウチの人ったら、すっかり気圧されちゃってねェ』『背、高いのっていいわァ〜金髪碧眼、あの洗練された物腰ッ』『アタシがさ、どっさり仕入れの品、抱えてたらさ、後ろからさっと持ってくれちゃって……女性はこんなことをしてはいけないって』『待て待て、俺の話も聞けや。俺が船への積み込み用に保存食の樽詰めを買ってたらよ……』
 おかみさん集団に混じって、何故か筋肉隆々の水夫までが、語り出す。
 え、え、ちょっと待て。
 シンタローは話題から置いてけぼりにされた状態だ。



「……」
 何はともあれ、今日の方針として、シンタローは憤慨することにした。
 ……ぐ。
 や、やっぱ、誰彼構わず! 色目使ってやがる!
 馬鹿だ! 絶対あの男、アイツ、馬鹿だ!
 最悪ッ!
 何が記憶喪失だ、拾ってくれてどーのとか、不幸そうな顔して俺の同情引きやがって!
 人生、悠々楽しそうに生きてんじゃないかよ、アイツ!
「あのさ、あの男、最低だから騙されない方がいーよ」
 シンタローは輪の外でそう言ってはみたが、変に加熱した集団にはまるで相手にされなかった。
 なんてことだ。
「チ……」
 どこがいいってんだ、そんなに。



 さっさと仕事に戻ろうと、踵を返したシンタローは。
「うおっ! いたのかよお前」
 背後に、鬱蒼と立っていた古着屋に驚き、飛び退った。
「わて、これからしばらく行商に行くんどすわ……」
 何やら大荷物を背負った古着屋が、遠くを見て呟いている。
「ほう」
「止めても無駄どすえ……わては行かなあきまへん……行かなあきまへん……」
「行けばいーだろ」
 自転車を曳きだしたシンタローの後を、古着屋はそろそろ付いて来る。
 見送って欲しいのかとも思ったが、あいにく、今はそんな気分ではないシンタローだ。
 すると、いつもの路地角の定位置から、明るい新聞屋の声が聞こえた。
「あー、やっぱりまだ出発してないっちゃ! さっさと行くっちゃ!」
「そげだぁ。ぐずぐずしとらんと、はよ行くべ!」
 相変わらず街の子供たちと、『だ〜るまさんが』と遊びながらの、代書屋の呑気な声も重なって。
 新聞屋の説明によると、隣国で戦争が起こるという噂があり、この街で生活用品等を商っている者は、大挙してそちらに商売をしに行くのだという。
 儲かる方に、儲かる方に流れていくのが商人というものだ。
 へえ、とシンタローが感心して、古着屋の方を見ると、今しがた自分の後ろにいたと思ったのに、今度は仕入れから帰ってきたばかりらしい魚屋の背後に佇んで、同じことを呟いているようだ。
 やれやれだな、とシンタローは肩をすくめた。
 そして空を見上げる。
 この国は、平和でいいよなあ。



 何とか一日の仕事を終えてから、まだ暗くなる前に、シンタローは路地裏、蔦の覆う建物の前に着いてしまった。
 今日は通常より仕事が少なかったのだ、こんな時に限って。
 そこでしばらく、うろうろしていた。
 近所の子供が、たたたたと家路を急ぐのか、向こう路地から駆けてきて、シンタローを見て不審そうな目をし、そのまま走り去った。
「……」
 あの屋根裏部屋に、自分はどんな顔をして帰ればいいのだろうと思う。



 右往左往していると、今まで考えないようにしていた本質的な疑問が胸に沸き起こる。
 だいたいアイツ、何で、あんなこと。俺にしたんだろう。
 郵便配達という仕事が終わってしまうと、もう他に意識を逸らすことは難しかった。
 いや、待てよ。待てよ、俺。
 あああアイツってさ。アイツってさ。
 アイツ、俺のコト……好きなのかな?
「う、うわっ! うわああ! 俺は今、何を! 男同士だぞ! 男同士ッ!」
 道行く人の怪訝な視線が、痛い。
 シンタローは、ぱたぱたぱた、と、手で火照った頬を扇ぐ。
 でも走り出した思考は止めることができない。
 ……だってあのいつもの熱視線。
 あれ、絶対におかしいって! 普通じゃないって!
 何であんなに熱く見つめてくるんだよ? 俺のこと。
 そんで、なんか甘いんだよ。態度が甘い。包み込むみたいな、とにかく普通と絶対に違う!
 それに、それにさ。何かにつけての……キス。
 あれさ、いくら記憶喪失で親しい人いないからって、見ず知らずの俺なんかにやってくるって、絶対おかしーよな?
 俺にとっちゃあ、すっごい迷惑で最悪で最低を何遍言っても足りないけれど。とんでもない厄介事なんだけれど。
 もしかしてアイツ、俺のコト……好きなのかな?



 そう考えると、シンタローの顔に、さらに朱が差した。頬が熱くてたまらない。
 昨夜のことがリアルに思い出されてしまう。男も最悪だと思ったが、自分も最悪だったと感じた。
 最悪だ! 最悪!
 俺、昨日、超みっともなかった! 死ぬほど恥ずかしい!
 だっておい、冷静に考えてみろ。
 ゼッタイ俺、声、デカかった!
 身動きできなかったとしてもさ、あんな恥っずかしい声、なんで出しちゃったんだよっ!
 口、閉じてれば良かった!
 絶対絶対、呆れられてる! アイツ経験豊富そうだから!
 馬鹿にされてる! ガキ扱いされてる!
 ち、違っ! アイツのせいだよ! アイツが最初に口ン中、指、突っ込んできたから!
 だから、だから、なんとなく閉じれなくなっちゃって……声が……って! う、うわ、ぎゃ、どんどん蘇ってきたぁ……っ!
 シンタローは頭を押さえて、道の石畳に座り込んでしまった。
 いたたまれない。



 しかし、同時にシンタローの脳裏には、こんな考えも浮かんでくる。
 いや、きっとさ。俺はこんな重大事に考えて、悩みまくったりしてるけど。
 アイツにとっては、ほんの軽ーい気まぐれだったりして……。
 さっきの市場の話だって。誰にだって、いい顔しやがって。
 昨晩のことを真剣に考えているのは俺だけで、本当は何でもないことなのかもしれない。
 すると、どんどんとシンタローは自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。自己嫌悪の沼に沈んでいく。
 そうだ、拾ってくれたお礼とか言ってたっけ。アホか。でもきっと、アイツにとっては、そんな程度で……。
 それに、それに……。
 いつか草原で聞いた、男の言葉が耳に残る。
 黄金色の夕焼けと草原の中で、彼は印象的な青い瞳をして、言ったのだ。
『私には好きな人がいた』
 好きな人って。大事な人って。そんなストレートに。
 その声には、途方もない真実味があったように自分には思えた。
 そうだよな。
 アイツの記憶が戻ったら。
 すぐに、その大事な人の待ってる何処かに帰ってしまって、俺のことなんて、綺麗さっぱり忘れちゃうんだろうなあ、だとか。
 そうだよな、もしアイツが何処かの地位ある人で、こんな粗末な屋根裏部屋にいるのがおかしいようなヤツだったとしたら、俺なんかに拾われたのって、むしろ人生の汚点だよな、だとか。
 ちょっと雨宿りに俺と一緒にいるみたいなもんだよな、とか。からかわれただけなんだ。
 アイツは、すぐに出て行く人間なんだ。
 そんなことを悶々と考えていたら、シンタローは奇妙に頭が冷静になって、さきほどまで雲を踏むようだった足元が、硬さを取り戻していくような気がした。
 ふわふわしていた気持ちが、急に冷水をかけられたような気がした。
 思わずため息が出て、
「……」
 彼は立ち上がり、建物を見上げる。口を引き結ぶ。
 やっぱり、あの男。許せねーよ、と思った。



 やっと意を決し、呼吸を整えたシンタローは、思いっきり音を立てて、屋根裏部屋へと続く螺旋階段を上がる。
 心持ちゆっくりとである。だん、だん、と振動で、壁と階段のまとう蔦が、かさかさ揺れる。
 一歩一歩、段を登りながら、彼は心の中で繰り返している。
 とりあえずは。アイツが『おかえり』とか言いやがっても、俺は『ただいま』なんて言ってやんねーし。
 何言ってきても、無視しまくってやるぜ。口きいてやんない。
 で、アイツが折れて来たら。
 ええと、まず俺としては、もうあんなことはやめろって言って、謝らせて、とにかく、とにかくだな、相手のペースに呑まれないようにすることが大事で……。
 そう自分に何度も言い聞かせ、螺旋階段の最後の段を登り切って。
 心持ち乱暴に、シンタローは扉のノブを掴む。力を込める。
 ぎいっと、いつもの鈍く金具と木の擦れる音がして、扉が開いた。
 そしてシンタローはその場所に立ち尽くした。



 そこには、もう誰もいない空間しかなかった。
 家具はそのままに、全てはきちんと整理されていて、静まり返っていた。
 机には、一人分の夕食が、上に紙を被せて置いてあった。その脇に、薔薇の花束が添えられている。
 昨日、花売りが抱えていたものかもしれないと思ったが、シンタローにとっては、もうどうでもよかった。
 薔薇は、開け放たれた扉からの光に、優しい輪郭の影を描いた。
 ひら、と一枚、薄桃色の花びらが、床に舞って落ちた。
「……」
 男が消えた空間。
 そこには、自分一人っきりの、小さな部屋があった。






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