さいはての街
一日の仕事を終えたシンタローは、夜の道を帰る。
ひたひたと石畳を踏む靴音をさせ、別段急ぐでもなく緩やかでもなく、歩を進めている。
闇の裂け目のような、冷えきった建物の間を通り抜け、ほの暗い街灯の火に黒髪を照らしている。
曲がりくねった狭い小路、アーチ形のくぐり門を過ぎ、裏路地の突き当たり、赤煉瓦の花壇がある建物へと向かう。
その蔦の絡まる古びた螺旋階段の前で、立ち止まる。
ふと見上げる。人気のない屋根裏部屋の暗い窓が、その口を開けているだけ。
――暗い。
「……」
シンタローは階段の手摺に、指の先で触れた。
夜の中に、ぼうっと浮き上がっていたあの部屋の明かりは、あたたかな幻だった。
その後日々が過ぎても、男は戻っては来なかった。
薔薇の花が部屋の隅で、つぼみは花開き、やがて花びらが反り返って色あせていき、乾いていくのを、シンタローはただ感じていた。
シンタローにとっては、以前の日常が戻ってきただけであったから、勿論どうということもないはずで。
繰り返しの平坦な毎日が、これまで通り続いていくだけのことだった。
今日も暗い部屋の扉を開けたシンタローは、明かりを灯し、ベッドにどさっと身を投げ出すのだ。
両手を頭の後ろで組んで枕にして、寝転がって、ぼんやりと斜めに張られた天井板を見つめて、時を過ごす。
慣れたはずの勾配のある天井に沿って、視界が傾いていくような感覚を味わう。
窓の外で、夜が静けさを増していくのを感じている。
「……」
しばらくたってから身を起こすと、シンタローは今度は椅子に座る。
椅子といっても男がそのまま残していったカウチではなく、元からある粗末な木椅子の方だ。
そしてまた少しの間、冷たい木机に頬を乗せ、だらしなく腕を投げ出して、他にすることもなく小さな絆創膏の箱を、指で立てたり横にしたりしている。
その度に、かたん、かたんと乾いた音がして、まだ封を切っていない箱のラベルが、部屋の灯りを反射した。
シンタローの黒い瞳は、ぼんやりとその淡い輝きを映している。
狭い部屋は、外界と同じように静まり返っていて、彼は何か音楽の一つでも、せめてラジオでも買ってこようかと、毎晩のように考えるのが常なのだが。しかしついぞ実行には移さないのだった。
それでいて箱と机が触れる音と、箱の中身がかさかさいう音を、くだらないと毎晩感じ続けている。
……この絆創膏は。
何かのついでに目に付いたので、どうしても気になって買ってしまった。
部屋に薬の一つもないのは、流石にいざという時に不自由するだろうと理屈をつけてはいたが、この鈍く光るラベルを見る度に彼は。
あの、自分がつけた傷を、思い出している。
それからやっと食事を作って、シャワーを浴びて、手紙を書くのだった。
それらを済ますと、灯りを消し、毛布の裾を上げてベッドに横たわる。
夜の静けさが、暗い部屋一杯に立ち込めてシンタローの身体を包んでいく。
その中で目を瞑り、瞼の内側にまで静寂が染み渡っていくような心地のまま、彼はゆるやかに眠り込んでいく。
そして眠り込んでしまえば、日常は押し殺しているとりとめのない考えが、夢の世界では歩き出してしまうのだった。
……。
俺が、『出てけー!』なんて言ったからかな……。
いーや、あんな奴、出て行ってせいせいするってんだ。
俺の同情引いて、勝手に振舞いやがって。好き放題しやがって。
俺の嫌がることも、平気で……。
……。
なんだよ、記憶が戻れば、すぐに何処かに帰っちゃうだろう人間だったんだから、それだけのことさ。
それに、もしかしたらもう記憶が戻ったのかもしれない。
記憶が急に戻って、俺のことなんか忘れちゃって、あっさり元の居場所に帰ったのかもしれない。
そうだったら、俺はあいつのために、むしろ喜んでやるべきじゃないか。
……。
それにあの花。
ここなんかより、もっと居心地のいい場所を見つけて、そっちに行ったのかもしれねーし……。
俺、あいつには怒ってばっかだったから……。
……。
でも、でも。もし記憶が戻ったとかじゃなかったら。他に転がり込む場所、見つけたとかじゃなかったら。
あんな余裕かましてたヤツだったけれども、記憶喪失だったんだから。
実は内心は不安だったんじゃないだろうか。
不安で、寂しくて、俺にやたらベタベタしてきたのかもしれない。
あいつとちゃんと話し合うとか、俺も忙しくてできなかったし、全然気持ちとか、わかってやれなかった。
俺、そんなヤツ、追い出しちゃったのかもしれない……。
雑多な思考は、浮かんでは泡のように弾け、シンタローを悩ませる。
もう一つ、元に戻ってしまったことがある。
男が来てからしばらくの間、まるで霧が晴れたように忘れ去っていた、あの理由のない寂しさが、再びシンタローを苛むようになっていたのだった。
心の奥底から悲しみが染み出してきて、鋭利な刃物で肌を削がれるような苦痛が押し寄せてくる。
あの度々彼を縛り付けてきた不思議な感覚が、また襲ってくるようになっていた。
一度襲われてしまえば、身体を丸めていても、いつしかそれに飲み込まれてしまい茨の海に漂うしかない。
自分の奥底には、何かがある。だが自分にはそれがわからない。
もどかしい。そしてやはりその苦しみは、一人やり過ごすしか他に仕様がなかった。
最近は夢の中で、その苦しさに耐えている。うなされている。
シンタローの夢は、いつも悪い夢で、苦しい夢で、だけど目が覚めた時には、その内容を完全に忘れ去って呆然とした気持ちだけが後に残る夢だった。
そして朝になれば、陽光と小鳥のさえずりの踊る小さな部屋で、悪夢の余韻だけが彼の身体を浸している。
いつも通りに目覚めて、寝汗をぬぐい、鏡で血の滲んだ唇と手の甲を見てから。
簡単な朝食をとり、仕事に出掛けようとして、シンタローは、目の端に眩しさを感じて、そちらの方へと目を遣るのだった。
窓の側、あの日以来置かれたままの布袋。何かの弾みで袋の口が緩んだのか、その中身の金貨が朝の光を浴びて、ちらちらと輝いているのだ。
男の所持品であった金貨はそっくり残されていて、シンタローは手をつけずにそのまま放っておいてあったのだ。
古い床板をきしませて、シンタローは窓際に近寄り、金貨を一枚手に取ってみる。
しばらく、その美しい造形を眺めていた。
自分の手の中で黄金色に光るそれ。金貨に刻まれている天使は、この国の王子をモデルにしたものらしいと聞く。
触れる感触は冷たく、見た目よりも重量がある。
その溝をゆっくりと親指の腹でなぞり、また元に戻しかけて、
「……」
思い直したようにシンタローは、その金貨を無造作にポケットの中へと押し込むと、部屋を後にした。
そんな朝と夜を繰り返しながら、シンタローはこの街を駆けている。
以前よりも、いっそう根を詰めて仕事をするようになった。
その間だけは寂しさを感じないで済むからだ。
たまにポケットの中に手を突っ込んで、指先に金貨が触れるのを感じ、また駆ける。
駆けながら、シンタローはふと考えることがある。
この街は、自分が辿り着いた道の最果てにあるのだ、と。
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ある日のことだった。
夕焼けで橙色に空が染まり、緩やかな風が吹く頃である。
シンタローがいつも通り街を駆けて、最後の配達を終えて、郵便局への道を辿っていると。
「……?」
街の人々の気配が、やけに騒がしいことに気付いた。
どんどんと道行くほどに、その気配は濃くなっていく。
何かあったのだろうかと、教会を過ぎた辺りでシンタローが目を凝らすと、どうやら同じ大通り沿いの自分の目的地、郵便局の前辺りに人だかりができているようだ。
その光景を見た時に、シンタローは一種の胸騒ぎを覚えた。
向こうから、焦ったような顔の新聞屋が走ってくる。はあはあと息をついていた。
「シンタローさん! たっ、大変だっちゃ!」
「どうしたよ。なんか珍しく新聞種でもあったのか」
「新聞種どころじゃないっちゃ! それが、それが!」
その丸い目がやけに必死で、慌てていた。何とか落ち着かせて話を聞く。
この同じ大通り沿いにある銀行に押し入った賊が、いくばくかの現金を盗んで逃げ、街の人間に追われて観念したか、大通りの端にある郵便局に立て篭もってしまったのだという。
運悪く街の主要道路で事故が起こって塞き止められて、警察の到着が遅れている。
何より不味いことには、代書屋がいつも遊んでやっている子供の一人が、奪い去られて人質に取られているのだと。
「犯人は局員追い出したぁ後、何か建物に仕掛けたみたいで、僕らぁじゃ手、出せないんだっちゃ……こーしとる間にも、あん子は悪い奴に閉じ込められて、何されとるか……」
「なんだって!」
穏やかな街に大変なことが起こったと、彼はすぐに駆け出そうとしたが。
子供が……。
奪われて……閉じ込められて……?
そう意識した瞬間、
「……! ぐ……う……」
急に強烈な吐き気に襲われて、シンタローは背を折り、口に手を当てる。
世界が点滅していた。
かげろうのように街は透き通り、ゆらめき、馴染んだはずの建物や木々、道の石畳、人々が現実感を失っていく。
辺りの喧騒は円を描くようにシンタローの周りをうねり、回転し、いつしかそれは混ぜ合わされて、色を失う。
混濁した意識の空間。その中で、断片的に閃いては消えていく見覚えのない映像。
フラッシュバック。
……子供の顔……。
……小さな……。
……閉じ込められ……て……。
……信じていた人に裏切ら……れ……。
目に映るようで捉えられないまま滑り落ちていく映像の波に、シンタローは苦しい息の下から声を絞り出す。
「くっ! あ、ああ……う……」
その瞬間、映像が弾ける。
そして消滅した。
幻影から解放されたシンタローは膝を折り、どっと崩れ落ちるようにその足元に両手をついてしまう。
触れた石は、最初は沼のように、どろりとシンタローの手を飲み込んでいく感触がして、気持ちが悪くて、その沈溺に耐えながらしばらく息を整えている内に、次第にそれは常の冷たく硬い石畳へと変わっていった。
世界は汚泥からむくむくと形を取り戻し、流動形から見慣れた固定形へと姿を変える。
点滅も消える。
「シンタローさん! 一体どうしたんだぁか……気分でも悪いんだっちゃか!」
心配する新聞屋の声も、空気に滲んだ湾曲音から、普通の人間の声になる。
シンタローは自分の胸を押さえ、それから安心させるように新聞屋を見上げて、無理に笑った。
「……すまねえ。ちょっとした眩暈だ……大したことない」
夜に襲われるあの苦しみが、とうとう日常にまで現れたのかと、シンタローは思う。
重症だ、と一度目を瞑り、振り切るように立ち上がる。
そして言った。
「行くぞ」
気遣わしげな視線を向けてくる新聞屋と共に、シンタローは走り出した。
大通りは人々のさざめきに満ちている。夕焼けを背景にした、郵便局の白い古風な建物が見えてくる。
その黄金色に焼けた空を見ていると、シンタローの脳裏にいま一つの映像が掠めていく。
草原で男と見たあの夕焼け、長く伸びた二つの影――どちらも決してこの手には掴むことのできない視覚の幻影。
形もなく、音もなく、しかし自分はその温度を、感触を確かに感じている。
五感と身体は知っているのに、頭は知らない。
その狭間で。俺の中で。
このもどかしく鈍い熱が、出口を失って荒れ狂っているのだと、シンタローは身を震わせた。