さいはての街

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 人だかりの中で、代書屋が救われたような顔をして駆け寄ってきた。
「たっ大変なんだべ、シンタローさんっ! オっオラたちが、いつもみてーに路地裏にいたら、とっ、突然、妙な真っ黒けの格好したヤツが、ガキ共をつかんじまったんだべ! んで、んで……」
「だいたいの所は聞いた。それで今、どうなってんだ」
 浚われたのは、シンタローもよく知る羊飼いの少年なのだという。あの森の側、街外れにある牧場の子供である。
 夕焼けの中で羊たちの白い背を追っている姿、犬と一緒に大木の下で雨宿りをしていた様子、嬉しげに自分に向かって手を振る笑顔が思い出された。
 子供は仕事の手が空くと、よくこの街に遊びに来ていたのを知っている。
 その子が、今、捕らわれている。
 夕暮れ時で、残っていた局員はいつもの半数程度だったが、賊に火を放つぞと脅かされ実際に郵便物を幾らか燃やされて、建物から逃げ出してきたのだという。見知った顔が人込みの中に見受けられる。
 賊は引火性危険物かを所持しているとみられていた。
 あ、と声を出して代書屋が指をさすので、シンタローも顔を上げると、建物の細長い窓から、ひきつった子供の顔が覗いているのが見えた。
 すぐにその顔が引っ込んで、ざっとカーテンがひかれた。
 あの窓は最上階中央の局長室だと、シンタローは考えた。
 賊と子供は、そこにいるのだ。
「けっ、警察はまだ来ねえだ! オラ、オラ、助けに行こーとしたんだども、入り口に妙な仕掛けがしてあって、どぉしても駄目で……だども、もっぺん、オラが……」
 身を動かそうとした代書屋を、シンタローは思わず止めていた。
「待て。お前が行ったって、返り討ちにあうのがオチだ。俺が行く」
「だども、だども、正面玄関は今言ったみてえに、危険、」
「俺はここに勤めてんだぜ。抜け道ぐらい知ってる」



 この建物は、街中でも一際目を引く古風な石造りで、外壁は元は白色だったものが長年の雨風に晒されて、威厳と重々しさを増しているのだと思われた。
 赤色花崗岩の階段が大通りから緩やかにのぼっていて、正面玄関へと続いている。
 玄関は二本の柱で飾られていて、奥行き深くその上に小さな破風をつけていた。
 その脇には空に向かって腕を広げる西洋楓、レモンバームの植え込みがあり、その周囲を銀木犀の生垣がぐるりと巡っている。
 そしてこの建物には、地下室があるのだった。
 主に郵便業務の内でも要冷却物、貯蔵品、長期保存品などの倉庫として使われていた。
 外からもその地下に通じる階段があり、シンタローはそこから何度も荷物を運び出して配達したことがあった。
 その通路を使えば、曲者に知られることなく建物内に入ることができるだろう。
 思い立つとシンタローの行動は、早かった。
 隣の代書屋に、自分の荷物をぽんと預けると、『じゃあな』と一言残し、迷いなく生垣を乗り越える。
 一緒に行く、という声を無視して、建物の敷地内に侵入した。
 一人で、行くつもりだった。
 シンタローは自分の腕には自信があったし、足手纏いがいるくらいなら単独行動の方が楽だと思ったのだ。
 彼には、この近辺で、自分に勝てる奴はいないという自負がある。その自分が詳しく知る建物に侵入した賊は、それが運の尽きだったと思った。
 彼は素早く裏庭へと回り、その隅にひっそりとある石蓋を静かにずらす。
 石と石、土と草が擦れる音がして、地下へと降りる細い階段が、軽い砂埃の中に姿を現した。



 ひんやりとした冷気と独特のすえた匂いがする。
 石灰岩でできた殺風景な階段は、降りる度に埋没していくような心地になるのは、もう知っている感覚だった。
 十段ばかり降りると小さな踊り場があって、そこで急角度に左に曲がる。さらに降りると、その先は薄暗くて狭い通路に抜けていて、背の高いシンタローが腰をかがめて行くのだ。
 そして、そのまま進む。進む、進む。すると木の扉に突き当たる。
 ここが地下室への扉である。
 内鍵がかかっているはずだが、今は非常事態だ。
 念のために扉を押して施錠されていることを確認した後。シンタローは勢いをつけて、扉に体当たりをした。
 鈍い衝撃音が地下に響き渡る。
「……ッ……たっ……痛ッ」
 三度目の体当たりで、とうとう鍵は壊れ、シンタローは勢い余って地下室の硬い床に、したたかに肩を打ちつけた。
「うー……いってえの」
 埃っぽい室内は、突然の闖入者にも静まり返っていた。
 かと思えば、部屋隅で鼠が逃げていくのだろう、微かな物音がする。
 開いた扉の蝶番が、乱暴な扱いに、きいきいと悲鳴をあげながら揺れている。
「……」
 手の平で、打った場所を撫でさすりながら、それでも彼は急いで立ち上がった。
 子供のことが心配だったし、何より今の音は、耳聡い者なら階上にあっても聞こえたはずだ。
 おそらく侵入は感知されている、一刻の猶予もならない。
 所狭しと積まれた荷物の間を、シンタローは器用に擦り抜けて先を急ぐ。
 床石を踏む自分の足音ばかりを聞いている。
 聞きながら、ずっと考えている。
 ――捕まっている子供は、自分の仕事が忙しくて一緒に遊んでやったことこそなかったが、彼があの街外の牧場を通る時、街の路地裏を通る時には必ず手を振ったり笑い合ったりしていた仲だった。
 この街には、そんな顔なじみの子供がたくさんいて、シンタローは子供が好きだったし、子供たちもシンタローを好きだった。
 あんな無邪気な子供を。
 許せねえ。許せねえよ!
 彼は一階への昇降口扉を開け、立ち止まる。
 そして、一度深く息を吸って吐くと、意を決して、大股で階上へと駆け上がった。



 彼を待ち受けていたのは、トラップの山だった。
 何も考えずに、シンタローは一階中央ホールに足を踏み出して、
「う、うわあっ! ……?」
 何かに足元を取られ、転びそうになる。
 つんとした匂いが彼の鼻を掠める。
 その瞬間、
「……え」
 シンタローの身体は、無意識の内に斜めに背中を反らせ、右手を床に逆手について、足を伸ばして遠心力を得ると、宙返りをうった。
 グワアアアン!!!!!
 シンタローの黒髪の先を爆風が掠め、元いた場所の床が弾け飛んで、大穴が開いたのがわかった。
「なっ!」
 彼は口を開け、呆然としてその痕を見ている。
 命懸けかよ、とその罠の凄惨さにもシンタローは驚いたのだが、彼を何よりも不思議な気持ちにさせたのは、危険を勝手に避けた自分の身体だった。
 呼吸するように自然に、動く。
「わ、わ、えっ……?」
 避けた先でも、肌が何かを感じて、身体は右に左にしなる。
 高く跳躍し、均衡を取り、軽業師も顔負けの動きをみせる。
 やっと安全なホール隅の石柱の側に辿りついた所で、シンタローは息を吐いて座り込んでしまった。
 目を凝らしてみれば、その空間の至る所に、透けた糸が張り巡らされていた。
 これが、賊の仕掛けた、罠なのか。
 そして自分の身体はそれを察知して、動いていたらしいと遅まきながら気付いて、
「お、俺って……スゴいのかも……知ってたケド、思ってた以上に」
 こう呟いてしまうシンタローである。
 何故だろう、喧嘩は強いとは思っていたが、こんなことにまで長けているとは。一般市民として生きてきた自分であるのに、と彼は感じている。
 俺の身体は――
 まるで訓練されたことを忘れてはいない身体のように。



 しかし、ゆっくり考えている暇などない。
 自分の身体が罠に慣れているのなら、この緊急事態にそれは望外の幸運であるのかもしれなかった。
 とにかく今は。あの子を助けなければ。
 シンタローは再び立ち上がると、両手で自分の頬を叩き、気合を入れる。
「……おし!」
 そして最上階の局長室に向かって、走り出した。



 やがて、余計なことは考えずに意識を透明に近付ければ近付ける程、シンタローは自分の身体がまるで野生の獣のように、敏捷に動くことがわかった。
 意識なんて、頭脳なんて、今の彼にとっては無駄なお荷物でしかない。
 いや、今だけじゃなくって。
 ……ずっと、身体だけで生きていくことができればいいのに、と。
 シンタローは罠を避けながら、長い黒髪を揺らしながら、ぼんやりと心の隅の隅で、感じている。
 鼻先に罠線を掠め、身軽に跳躍して、ただ上を目指している。
 ただ……。
 考えたり悩んだりすることは、生きるのに邪魔なものでしかないのではないかと、最近は特にそう思う。
 わからないことばかりで。
 どうして俺は、いつも無駄に、寂しくなったり、悲しくなったり、苦しくなったりするのだろう。
 理由なんてわからないのに、懐かしくなったり、背筋が震えたり、するのだろうか。
 身体はきっと知っていて、感触は知っていて、でも心は知らないんだ。
 そうやって、いつもいつも心が取り残されていくんだ。
 いつもいつも……。
 一人っきりの部屋と乾いた薔薇……。



 身体が足を止めて、ついに目指す最上階の局長室の前に、シンタローは立っていた。
 無塗装のチェリーウッドの扉が、淡い照明に照らし出され、黒塗りの飾りヒンジが艶やかに光っていた。
 この奥に、賊と子供がいる、とシンタローは唇を噛み締める。
 部屋の元々の主である局長は、とうに退局した後であるに違いなかった。
 ……シンタローがこの扉を開けて部屋に入ったのは一度きりで、採用された時に上司に連れてこられて、通り一遍の挨拶をさせられた時だけだ。
 局長は穏やかな表情をした壮年の小男で、良い身なりをしていた。王族の遠縁と縁戚関係にあって、うんぬんとは、後で小耳に挟んだ話である。つまりは貴族のなりそこねである人物なのだと、シンタローは理解していた。
 局長職は名誉職であって、これは率直に言えば閑職だった。
 局長は昼に出勤してきて定時に帰る。そしてそれに伴い、この建物の警備も手薄になるのが常だった。
 つまり今、この時間は最も侵入しやすい頃合であり、加えて早出の職員が引けた時間でもある。
 考えてみれば、賊は一番都合のいい時に、この建物に押し込んで立て篭もったという訳だった。
 まさか計画的に狙ってこの時間に押し入ったというのか。
 そんな思考が、シンタローの脳裏を掠める。
 しかし賊は強盗の後、進退窮まって人質をとったあげく、ここに逃げ込むように立て篭もったのだ。ただの偶然だと、彼はその考えを追い払った。
 それに、今は頭の中で何かを追求するよりも、身体を動かして子供を救出する方が先であるはずだった。



「……」
 重々しく佇む局長室の扉を見つめる。
 シンタローは低姿勢をとり、できるだけ扉から身を離すと、手を伸ばして指先だけで把手に触れる。
 そうしなければならないと思ったというよりも、これも身体がそう動いたのだ。
 扉の隙間を視認してから、慎重に、慎重に、把手に力を加えていく。
 鍵はかかってはいないようだ。やはりここにも罠が?
 把手を緩く引き、数mm単位でずらしてから、一気に力を込めて扉を開いて、彼は背後に飛び退った。
「……?」
 意外にも扉には何の仕掛けも施されてはいなかった。
 古い蝶番がきしむ高音が廊下に響く。ゆっくりと弧を描いて、半ばまで扉は開き、少し揺れて止まった。
 シンタローは警戒を強めながら、素早く部屋の中を窺う。飾り棚が壁に並び、毛の長い絨毯が敷き詰められた部屋の奥。
 大通り側の窓には分厚いカーテンが引かれていて薄暗く、逆に裏庭に面した大窓からは、夕方の斜光が差し込んでいる。
 その薄い光の中に、窓の側に逆光になった人物が目に止まる。
 黒い麻布で覆面をした賊がこちらを向いていて――その腕の中には。
 子供が。



「……シンタローお兄ちゃん!」
 いつもの呼び方で、子供が自分を見て、そう呼んだ。
 泣きはらした顔をこちらに向けて、賊に拘束された身体を必死に捻じ曲げて、腕を伸ばして。その表情。
 思わずシンタローは、体を浮かしかけた。危険を顧みず、廊下から部屋の中へ歩を踏み出そうとする。
 しかし、
「助けて! 助けて、お兄ちゃん!」
 その悲鳴のような声が耳に触れた時、爪先から頭の芯までを、ずくりと這い登る悪寒が彼を襲った。
 再びシンタローの前に、点滅したフラッシュバックの世界と、壮絶な痛みの感覚が口を開けた。






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